2024年3月21日木曜日

ちば てつや(漫画家)           ・〔わたし終いの極意〕 ひねもすのたりと生きていく

ちば てつや(漫画家)       ・〔わたし終いの極意〕 ひねもすのたりと生きていく 

ちばさんは東京都出身(85歳) 1968年に発表して大きな人気を呼んだ「あしたのジョー」や角界を舞台にした「のたり松太郎」などヒット作を多数手がけてきました。 現在は自身の半生を描く「ひねもすのたり日記」をコミック誌に連載中、自身の戦争体験や若きの思い出、日々思う事などを気の向くままに書いているということです。 

今年でデビューして68年ぐらいです。 だけどあっという間でした。 「ひねもすのたり日記」は少年時代、戦争の記憶、コロナ禍に思う事、ウクライナ、能登半島地震など多岐に渡っています。  俳句みたいなもので、季語があるから季節も書けるし、現在のことを書いたり、昔のことをふっと思いだして、その時その時を思い出しながら書いたりしています。  長い話ばっかり書いていたので、短いものを書くのは難しいですが、自分の人生を深く考えることがあったし、自分も楽しんで書けるし、妻、家族に手伝ってもらえるぐらいの仕事なので楽しみながらやっています。 

以前はずーっと時間に終われっぱなしでした。 デビューして2年ぐらいで精神的な病気をして、辞めようと思った時期もありました。  野球漫画を描く時に、編集者が野球のことをいろいろ私に教えてくれました。 身体から汗が噴き出る程キャッチボールをやった後で、頭がすっきりして悩んでいたことがスラスラできました。 運動不足だったことに気付いて、一日一回は必ず汗をかくようにしました。  野球をやるようになって、手塚治虫さんのところには虫プロという野球チームがあり、野球チームを作りました。  今でも続けています。 屋根裏に4畳の仕事部屋を作りました。 汗をかきに外に出る以外は部屋に閉じ籠もっています。 

漫画は小さいころは知りませんでした。 家にはいっぱい本があり、読んだりしていました。 少年少女名作全集、絵本などはありましたが、漫画はありませんでした。 中国から日本に引き揚げてきて、祖母の千葉の飯岡に住むことになりました。 8歳の時に紙くずを拾ってみたら、手に入るような小さな本でした。 それが漫画でした。 その本の世界にいっぺんに引き込まれました。 兄弟で読んでいたら、母親が来て見せたらバリっと破られてしまって、七輪にくべられてしまいました。 「漫画は読んじゃあ駄目。」と言われました。 母親は編集者をやっていたので漫画の面白さを知っていたと思います。 

親に内緒で弟たちに書いて見せていました。 その人間の気持ちになってキャラクターを描いていると、自分でも楽しいんです。 漫画家のデビューは17歳でした。 

朝起きてベランダに出てお日様に当たり、ちょっと身体を動かしたりします。 近くにテニスコートがあるのでそこで遊んで、シャワーを浴びて仕事をします。  9,10時には休む準備をします。  寝る時、朝起きる時など「ありがとう」と言う気持ちになります。   中国から引き揚げる時には人間って簡単に死んじゃうんだなあと思いました。 自分もいつ死ぬかわからないと、いつも思っていました。 6歳の時に1年間引き揚げの旅をしました。(零下20℃、30℃の時もあり)  食べるものもなく栄養失調だった。 

帰国の船の中で亡くなると腐敗がすぐ始まります。(夏)  数体が集まると船尾から海に投げて、その遺体の周りを大きな船が3周して、家族は声を張り上げてお別れを言って、博多港に向かうわけです。 3,4回はありました。 死と言いうものに対しての怖さはあまりないです。  病気になって死んでしまうのではないかという事もあり、遺言を書いたりしました。  今日も充実した一日を送れてありがとうと、一日一日を大事に思っています。 漫画家の高井研一郎さんは生前葬を3回やっています。 葬儀委員長は私なんです。    皆忙しいんだからもうおしまいと言ったら、もうそのすぐ後に亡くなってしまいました。  

「あしたのジョー」で力石徹が亡くなって、実際に葬儀が行われた。 葬式をやると言った時には冗談はやめて欲しいと思いました。 誰が言い出したのかを聞いたら、寺山修司さんとかファンの人たちが言ったという事で吃驚しました。 出掛けて行ったら、平日なのに子供から大人まで居て、喪服を着て中には泣いている人もいました。 読んでいる人たちは真剣になって読んでいるんだなと思いながら書くようになりました。

「ひねもすのたり日記」には目もよく見えない、耳もよく聞こえない、身体がガタガタになっていても楽しく生きられるんだという事を書きたいし、戦争って何なんだろう、なんて馬鹿なことをするんだろうという事を伝えたい。 もっともっと住みやすい日本になって行かなくてはいけないと思いながら書いています。 身近な人間が亡くなった連絡を受けると愕然とします。 亡くなった人にはいろいろお世話になったりしたので「ありがとう。」と言いたいです。 「ひねもすのたり日記」を書いて、随分いろいろな人にお世話になったという事を思い出します。 わたし終いの極意は、「あしたのジョー」と一緒に完全燃焼ですね。 自分の持っているエネルギー、生命力、などすべてを使い切って、燃やし切って、真っ白になって少し微笑んで、ありがとうと言う気持ちを持ちながら逝ったらいいなあと思います。