2022年11月8日火曜日

阿部正子(編集者)           ・本作りにかける

阿部正子(編集者)           ・本作りにかける 

1951年千葉県生まれ。 大学卒業後出版社に入り、一貫して弱い立場の人を支える本やユニークな辞書を作って来ました。   定年後の今もライフワークであるハンセン病の人たちの歌を集めた本を一人でも多くの人に伝える取り組みに力を注いでいます。 

1974年に大学を卒業して出版社に入りまして、オリジナルに自分で企画を立ててやったのは40冊ぐらいになります。  そのほかに辞書も10冊ぐらい作りました。   12000人ぐらいの方に書いていただいたと思います。  6年前定年で出版社を辞めました。   世の中にないものを出すという事を楽しみでやってきたので、辞めてからも作ってきました。 

8人兄弟の大家族で、本棚がなかったです。  言葉に対する飢餓感があったのかなあと思います。  幼稚園から大学まで協調性がないと書かれていました。  ないものをやるという事では本つくりには役に立ったかもしれません。   一つのことにのめり込むと周りのことが見えなくなってしまいます。   少数派の方にたつタイプでした。  

読む前と読んだ後では意識が変えられないようでないと本ではないと書かれていて、自分ではできるかと悩んでしまいました。  隙間のところをやろうと思って、農薬毒素の辞典というようなものを作りました。   先天性四肢障害児父母の会を知って、子供たちの作品を本にまとめていきました。   「ぼくの手、おちゃわんタイプや」この本が最初でした。   このタイトルは小学校2年生の作品から取りました。  

実際に会うとみんな生き生きしていて障害のところに目が行くという事はないですね。   先天性四肢障害児父母の会とはもう40年ぐらいのお付き合いになります。   この本を出した翌年(1985年)、白血球が1300まで落ちてしまって、動けなくなって難病で、子供たちの作文がもう一度思い出されて、自分の弱さを認めた時に、この体験が後に医療関係の本をやる時に役に立ったと思います。   1冊終わるごとにダウンしたり、退職する前の6年間は薬のせいで6,7回骨折してしまいましたが、余りめげませんでした。  全身性エリテマトーデス (systemic lupus erythematosus:SLE) と言います。(自分の免疫システムが誤って自分の正常な細胞や組織を攻撃してしまう自己免疫性疾患の1つで、全身のさまざまな臓器に炎症や組織障害が生じる病気)  難病で動けなくなってしまう。 ステロイドを飲むと痛みなどは消えてゆきますが。   先天性四肢障害児父母の会の人たちからは励まされました。    ようこそダウン症のあかちゃん

「いのちのことばシリーズ」  言葉に凝縮されていて強いんですね。             「薬害エイズ原告からの手紙」「ようこそダウン症の赤ちゃん」などの本を作る。     20年前に「誕生死」(流産・死産・新生児死で子をなくした親の会 著)という本にまとめる。  当時子供の死はタブーと言われていて、出させないと会社でも言われました。   当事者は苦しんでいるからこそ出すんですと言って、出したら物凄い反響で、ネット上でこの人たちが「誕生死」というホームページを作ったら、10万件の人たちが書き込みをしてきました。   一回は誕生したんだという事を認めて欲しいという気持ちが強くて受け入れてくれました。   家族の手記が載っている。  

「亡くなった赤ちゃんへの思いを口にするのは難しい。 あの子自身の思い出がほとんどないからだ。  そのことでひとはそれほど悲しいはずはないと思うのかもしれない。  私はあの子自身の思い出がないことが悲しくて仕方がない。  誰かとあの子のことを話すことができない。  あの子のことをもっと知りたかった。  あの子をいとおしいと思う気持ちは溢れるほどあるのに、その溢れた思いをすくってくれる器がない。  他人から見たらお腹の中で亡くなった子は、余りにも存在感のない子だろう。   記憶にも残らないかもしれない。  でもあの子は間違いなく私のお腹のなかで生きていた。  私が語りかけるとまるで返事をするかのように動いて来る。 ・・・・」  

読者カードが私の力になったと思います。  「訴歌」ハンセン病の人たちの歌を集めた歌集、俳句、短歌、川柳を集めたものです。  副題が「あなたはきと橋を渡って来てくれる」  ハンセン病の人たちがこんなに文芸活動が盛んだという事を初めて知りました。 能登恵美子さんは『ハンセン病文学全集』(2002年~2010年)の編集を担当。 能登さんが亡くなって5,6年経ってから私はこの本に出合いました。  短歌、俳句、川柳、子供の作品が3万作ぐらいあってその中から1割に絞って「訴歌」という本にさせてもらいました。 (3300作品)    3万作から落とすのが大変でした。

3万作を5年間ぐらい眺めていて、出会った歌が、

*「密かにも読み残されいし歌のほか患者らの惨劇伝うるもなく」  山本義則                       *「打ち明けて友にも語れぬ苦しさを歌に詠まなん生きる限りを」 長谷川虎雄      後世に残したいとはっきり歌っているので、私の出番かなと思いました。  

ライ予防法が制定されたのが1953年、戦前よりもさらに強い隔離政策を取った。     私が生きてきた背中で知らない世界があったという事にびっくりしました。    そして子供たちが多かった。  まとめた本には約1100人に歌があり、6歳から80代の人で未成年が300人ぐらいです。  

*「母さん猿に抱かれて覗く子猿さん黒いおめめで私を観ます」  この少女は子猿さんが凄くうらやましかったんだと思います。 お母さんに会いたいというのではなく別の形で表現しています。

*「膝の上に子猫抱きあげ懐かしく母への便りなお続けたり」  

*「すみれ花故郷の父の好きな花花瓶にさして可愛がりけり」

*「山水に生き生かされてすみれこすと」  (山の療養所へ)

*「明け方の傷の疼きを耐えがたく時計の音をかぞうひととき」

*「腰掛に足を垂らして月見する」

*「この年は豊作だと言うけれど少年舎の裏の柿は成らね」

「夕暮れの峠を越せば我が家の灯りより小さき灯り」

以上は小、中学生ぐらいの男女の作品

*「うかららにありざりしかどいささかの里の土産を友らに配る」  うからら=親族に会えなかったけど土産を配っている。  会えなかったのは残念だけれども、故郷に帰れたという気持ちをみんなで味わっている。                         読んでいただいた方々からいろいろ反響をいただきました。

*印は内容、漢字、かななど若干違っている可能性があると思います。