2022年11月1日火曜日

藤原正彦(数学者・エッセイスト)    ・〔わが心の人〕 新田次郎・藤原てい

 藤原正彦(数学者・エッセイスト)    ・〔わが心の人〕  新田次郎藤原てい

新田次郎 さんは「剣岳 点の記」「八甲田山死の彷徨」といった山を舞台にした作品などでお馴染みです。   藤原ていさんは旧満州の引き上げの体験を綴った「流れる星は生きている」で良く知られています。   お二人の次男で数学者の藤原正彦さんはエッセイストとしても活躍していて、最近では「日本人の真価」を出版しました。  

1943年旧満州で生まれ、現在79歳。  1978年若き数学者のアメリカ』出版。 国家の品格』で話題になり、最近では「日本人の真価」を出版しました。   最後の第9章には父、新田次郎 母、藤原ていという章があります。

1980年に父が亡くなりました。  いきなり心筋梗塞で2月15日の朝亡くなりました。(67歳)     気の強い母でしたが、1年以上何もできませんでした。       母は2016年11月98歳で亡くなりました。  父が亡くなったあと、本当に父が亡くなったことを信じなかったですね。 そう思わないと生きていけなかったのかもしれません。   満洲から引き上げる時に、父はシベリアに連れていかれて、それでおしまいだと思ったら、1年後にひょっこり帰ってきたんです。  今回もふいに帰ってくるものと思って、背広などもとってあったし、建て替えの時の柿の木は目印だから絶対切らないように言っていました。  

新田次郎 さんは1912年6月生まれ、生誕110年。  私の腕の中で亡くなったので、なんか出来たんじゃないかという後悔がずーっとありました。  二人とも長野県出身でお見合い結婚でした。  気象庁に勤務する技術者。  藤原ていさんは一目見てなんて清潔で新鮮な人だろうと思って、この人を逃してはならないと決意した。  お見合いの後、手紙を書きますという事でしたが、「今日の天気は・・・・」というようなことしか書いてなかった。  結婚して1943年に旧満州に勤務、兄が3歳で3人で満洲の新京に移り住むことになる。  母は妊娠7,8か月で行きました。  満洲で生まれて、妹も生まれました。   満州は食べ物は腹いっぱい食べれたと言っていました。  1945年8月9日ソ連軍が満洲に侵攻。  不可侵条約を破っていきなり入ってきた。  ソ満国境周辺では虐殺されたりしました。  10日の午前1時半までに新京駅に集合という事で駅まで行きました。  7,8時ごろに列車に乗って帰ろうとするときに、父はこれから気象庁に行くと言いだして、部下を置いていくわけにはいかなという事で帰って行きました。  

妹は1ケ月で私が2歳、兄が5歳の時でした。  父としては私と妹は駄目だろうと思ったらしいです。  母は子供3人を抱えて38度線を越えてなんとか日本にたどり着きました。1946年9月、博多にたどり着き、故郷長野に帰って来ました。  1年ちょっとかかったので3歳になっていました。  たどり着くと母は倒れてしまって寝込んでしまった。   1年2か月の間には周りの人が飢え死、凍死、ペスト赤痢などの病気でどんどん死んでゆくような状況で3人の子供を抱えて帰ってきたので大変だったと思います。  その1、2か月後に父が帰って来ました。  父が帰ってきたことに対して理解していなかったようです。  昭和24年ぐらいまでの4年間は体調がすぐれなかったですね。   遺書のつもりで引き上げの体験を綴った文章がベストセラーになる。  「流れる星は生きている」 映画にもなる。  父は満州では課長でしたが中央気象台では課長補佐で、母の来客者(新聞社の人など)に対してお茶を出したりしていました。  プライドが許さず、自身でも文章を書こうと思った。   

「強力伝」が懸賞小説の一等になる。  その時のペンネームが新田次郎でした。  その賞金で吉祥寺の土地と家を買いました。(150坪 30万円)   気象庁に勤めながら小説を書くようになりました。   母が評価していましたが、厳しかった。  その後小説は編集者が読んで、エッセーは私が読むようになりました。(中学時代)   父からは文章のリズムが大事で良くないと最後まで読まないからとか、そういったことを言ってくれました。 気象庁を辞めることに対して父は5,6年悩んでいました。  母が「子供の3人ぐらい私が何をしたって食べさせてあげる。」と言って、父は叱咤激励されてようやく辞めました。   

ベストセラー作家となりいろいろ話題を集める。  夫婦げんかもするが、最後には母は絶対勝つ文句があるんです。 「それなら誰が子供達3人を満洲から引き上げてきたの。 あなたは見捨てたじゃないか。」そういうと父は2階に逃げてゆきます。  

「我が家の柿の木は特別甘い、夫が貰ったケーキは柿の木の肥料にするんだから。」と言っていました。  50年前に父は編集者と一緒に銀座に行くと5万円使うんです。  母は「貴方は5万円使っていますけど、私は5円安い豆腐を買いに行くのに、1km先まで行っています。」というんです。  文壇バーがあり、銀座のマダムから父の誕生日には必ずそこから大きなデコレーションケーキを送ってくるんです。  母はそれを開いて柿の木の根元に投げつけるんです。  

母はスイスの山が好きだった夫のために、ユングフラウ鉄道のクライネ・シャデック駅から100m登った丘のところに墓碑を建てる。 分骨しようと思ったが、スイスからは断られてしまい万年筆などの遺品を入れました。  母は毎年行っていました。  

毎日新聞に連載していた『孤愁』は明治・大正期に活動した親日家のポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスを扱ったものですが、心筋梗塞のため未完に終わってしまい、父の死に対する怒りみたいなものを感じて、編集者の人に「絶対完成させる」と言っちゃいました。 父の生誕100年に間に合うように、資料も読んでポルトガル(3回)、長崎、徳島(10回)などに取材に行き父と同じ体験をして30年ぐらいを掛けて完成しました。  文献を読むだけでも何千ページと読みました。  自分がゼロから書く作品よりも凄く大変でした。

母が80歳のころ、ちょっと認知症が始まったころ、今行かなければ駄目だと思って家族と一緒にかつての満洲新京(長春)に住んでいたところなどに行きました。  動物園が植物園になっていましたが、母が突然動物園には白樺があったと言うんです。  奥の方に白樺がありました。  白樺は長野の諏訪(父の故郷)にはいっぱいあり、母の女学校もずーっと白樺並木なんです。  満洲では郷愁にまみれていたんだなと思いました。   新京の駅にも行って息子たちに自分の原点はここなんだと説明しました。  

今は情報を得る(情報過多になっている)よりも、情報を選択する方が遥かに重要で、良い情報、悪い情報を見分けるのには歴史観、大局観、人間観、情緒観とかで、こういうものを育てるのには子供のころから大人になっても本を読んでいないといけない。  教養、美的感受性、弱い者への涙、こういったものを育てないといけない。  読書文化の復活が必要。  今は本屋は潰れるし、悲惨な状況です。