2022年9月27日火曜日

吉田建(音楽プロデューサー・ミュージシャン)・ボーカリストの背中に教えられて

 吉田建(音楽プロデューサー・ミュージシャン)・ボーカリストの背中に教えられて

1949年(昭和24年)東京都渋谷区出身。  早稲田大学在学中にシンガーソングライターの長谷川きよしさんに見いだされプロとして活動を開始、その後1980年代には沢田研二さん、泉谷しげるさんのバックバンドのメンバーとして活動、又音楽プロデューサーとしても沢田研二さんや氷室京介さんはじめ多くのアーティストのアルバムを制作、コンテスト番組の審査員や、アイドル番組にも出演するなど幅広く活躍しています。  今年プロとして活動を開始してから50年を迎えた吉田建さんに伺いました。  

沢田研二さんのバックバンド「エキゾテックス」で、1981年(31歳の時)毎日のようにテレビに出ていました。  ビジュアル系のはしりだったと思います。  紅白でも「晴れのちBLUE BOY」(沢田研二さんの39枚目のシングルという当時としては過激な曲(作曲:大沢誉志幸)で印象に残っている出来事でした。  

高度成長期で、大学卒業して3年ぐらいプロの道をやって、厳しかったら就職しようというような思いでいましたが、始めてみたら順調にいき、今年で50年になります。  早稲田大学では「ハイソサエティ・オーケストラ」のバンドでベースを弾いていました。  経済学を勉強して広告代理店、商社、外務省などに入りたいと思っていました。  4年生の時にはプロ活動していました。   或る時、シンガーソングライターの長谷川きよしさんに見いだされて、一緒に活動しました。  プロになる気はなくて就職試験を受け就職も決まりました。  しかし、音楽に対する情熱は持っていて、音楽活動を続けてベースを評価してくれる人がいて、認めてもらいました。   3年ぐらい長谷川さんと付き合ってマインドを物凄く教えてもらいました。  音の出し方、考え方、など。 それは今でも繋がっています。   オーディションがあって、沢田研二さんのバックバンド「エキゾティクス」に入ることが出来ました。  やりかたが全く変わりました。  

7月に本を出しました。 「平成とロックと吉田建の弁明」  全くジャンルの違う人との対談形式。(斎藤由多加氏)   ロックはエレキギターが現れたからこそできた音楽だと僕は思っています。  エレキギターの登場で大人数でやる音楽から変わってきて身近な音楽になった。   初プロデュースは1981,2年のりりイーさんで、その後氷室京介さん、沢田研二さんから声がかかり、泉谷しげるさんほか色々プロデュースさせてもらいました。  沢田研二さんの初プロデュースは1989年になります。   

当時のレコーディングと今とでは大分変ってしまいました。   ドラム、ベース、ピアノ、ギターの4人ぐらいが集まってやるというのが基本的なレコーディングの方法だったんですが、今はデジタルになって中々そういう事はなくなってきました。   こういう風にしたいという事を伝えて、ミュージシャンもその曲を理解して、良い時の一瞬を捕まえるという事ですかね。  

泉谷しげるさんとの出会いは大きかったんですが、全然知らなかった。   或るイベントにバックをやっていた時に泉谷さんが出ていて、そこで大ショックを受けました。(25,6歳の時)    「春のからっ風」を歌ったんです。  客席でなんだフォークかと思いながら聞いていたんですが、「誰が呼ぶ声に答えるものか」という詩が出てくるが、それを聞いた瞬間に涙が出て来ました。  まさに今の自分の気持ちにグサッと刺さったというんですかね。  泉谷さんのバックをやってみたいと思っていたら、ある時に泉谷さんがゲストとして現れて初めて話をしました。   東京に帰ったら泉谷さんのマネージャーから電話が掛かってきて、泉谷さんが建さんとやりたがっていますという事でした。   泉谷さんは自分のハートに火をつけてくれる世界なんですよね。

「KinKi Kids」も今年25周年で、キラキラしていて好きです。  バックですからいろいろな人の背中を見てきて、いろんなことを少しづつ吸収してきたと思います。  沢田さんは立ってしゃべっている時につま先まで自分のことが判っているんですね。  自分がどう映っているか、どう見えているかという事をつま先まで神経が行っている気がします。  人前で演奏するときに休んでいる時でもきちっとして、どうでもいい格好をしていたら全部壊れちゃうんだという事を言いたいんです。  

吉田建さんのプロデュースのアルバム「セイントインナイト」から 「誰かが僕を見つめている」  歌:沢田研二