2022年6月2日木曜日

長崎佐世(バレエ団代表)        ・琉球舞踊と融合したオンリーワンのバレエを

 長崎佐世(バレエ団代表)        ・琉球舞踊と融合したオンリーワンのバレエを

沖縄の古典音楽とクラシックバレエを融合させるという事が琉球クリエーティブと言う風に名前を付けたのですが、古典音楽なので琉球と言う名前を付け「琉球クリエーティブバレエ」としました。   沖縄の文化と関わったことは私にとって誇りかなと思います。   琉球舞踊はバレエそのものです。  日本舞踊は違いますが。  琉球舞踊は真っすぐか、外足なんです。  腰の入れ方もバレエに似ています。  琉球舞踊の方たちはバレエの動きをやっているという事知らないと思います。   扇でも肘はちゃんと上がっている、扇を離したらバレエそのものの手なんです。  お茶、書道でも肘は上げています。  芸術は似ていて凄いと思います。  バレエの場合は舞台の隅から隅まで使って踊りますが、琉球舞踊は動きは少ないです。   洋楽は3拍子、4拍子とか一定ですが、琉球音楽は3拍子、5拍子に成ったり7拍子に成ったりしますので、大変苦労します。   育った環境で芸術が生まれるというのは、やはりその土地で育った人たちが小さいころから聞いているから、その人たちのものになり、芸能に携わってきていると言うのが、このクリエーティブを通して実感しました。    私自身がそれを作って得たこのものが私にとっては宝であり、財産だと思っています。 

私は台湾で育って、身体が柔らかかったので、バレエを基本にした民族舞踊を習う事になり賞を貰ったりしました。   それが出会いかと思います。  祖父は朝早くからヴァイオリンを弾いて、みんな正座して聞いてその後ご飯を食べて、祖父は漁場に行きます。 帰って来ると三味線を弾いていました。   その後沖縄に来て南条先生にバレエを習いました。   日本女子体育短期大学に入りましたが、体育は苦手で寮の人たちからいろいろな種目を教えてもらい感謝しました。   同級生が日本民俗舞踊に入っていたので、見学に行ったらバレエの先生を紹介してもらう事になり、バレエをすることになりました。    インドバレエを習いたいという事で3か月後には居なくなってしまう先生に必死で習って、期限が来た時にインド大使館で踊る事になりました。  できないことができるようになった大学時代のことが自分にとっての大きな転換になりました。  

クリエーティブをやる様になりましたが、生徒がいなくなり生活が出来なくなり、娘と一緒に自殺しようと思った時もありました。   教室を辞めようと思っていたら、「森羅万象」と言う踊りを終えて、或る時に一日で生徒が入会に23名来たんです。  それから毎月2,3人入ってきました。  1,2年後には生徒は80人になり、続けていくために思いついたのがクリエーティブバレエでした。    いろんな民族舞踊の要素を取り入れて作って、いまの琉球クリエーティブバレエ が出来たのもここ7,8年です。   舞台を通してできないという事はない、出来るという事を教えて行きたい。   バレエは出来たが、ほかの体育は全然できなかったんですが、先生が推薦してくれたので日本女子体育短期大学に入る事になりました。  大学時代にはできないことが出来るようになり自信が持てるようになりました。   

子供たちに頑張れば必ずできるという事を伝えて上げられたらいいなと思います。    バレエの振り付けをするときに着物がはだけないようにするのが一番の課題です。    3年振りに12月に舞台があり思案中です。   一生懸命やっていたら必ず導いてくれる人がいます。   いろいろな条件が整って今の自分があると思います。