2017年11月26日日曜日

山中毅(元五輪競泳メダリスト)      ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】(H23/1/14 OA)

山中毅(元五輪競泳メダリスト)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】(H23/1/14 OA)
今年 78歳で亡くなったオリンピック競泳のメダリスト。
メルボルン、ローマ、東京の3つのオリンピック競泳で4個の銀メダルを獲得して日本中を沸かせました。
特に17歳の時のメルボルン大会と早稲田大学の学生だった時のローマ大会、共に 400m自由形でオーストラリアのマレー・ローズ選手との大熱戦はいまだに多くの中高年の方々の記憶に残っています。
石川県輪島が生んだ世界的スイマーの話を、再放送で聞きます。

昭和31年12月にメルボルンオリンピックが行われたが、当時日本には室内プールは無かった。(冬では練習ができない)
大分県の別府市に50mの温泉プールがあり、そこで合宿を1カ月練習していました。
昭和31年 当時17歳輪島高校3年生の時のメルボルンオリンピック、出場レースが自由形400m、1500m、800mリレーの3種目。
水泳を正式に始めたのが、高等学校1年生(オリンピックの2年前)、国内最終選考で400m、1500mで優勝しました。
当時オリンピックはフリーでは100m、400m、1500m、800mリレーしかなかったので、わたしを連れて行かないことになっていた。
その1週間後に高校選手権があり、日本選手権の記録よりもさらに10秒ぐらい早くなったんです。
それでも決まらなかったので家に帰ってきたら、家にオリンピックに出られると言う電報がありました。

メルボルンオリンピックでは当時地元オーストラリアのマレー・ローズ選手が優勝の可能性が90%以上と言われていて、山中はどうやっても勝てない、アメリカのブリーンを抑えて2位に入ってくれればと古橋マネージャーは言っていました。
昭和31年12月4日、400m自由形決勝、150mまで山中トップ、200m山中、ローズが並んでターン、300mのターンでローズがトップ、タッチの差(0.8秒差)で山中、その後徐々に差を広げて行きローズトップでゴールイン、身体1つ半の差で山中2位。
「3位に入ればいいと思っていたが、今日は調子が馬鹿に良くて2位滑り込んだ、ローズが隣で先に泳いでいるのが判ったがどうしようもなかった。・・・」(当時の談話)
ハプニングがあった、私は間違って3位の台に上ってしまった。
父親は頑固な人で予選で落ちると思っていて、入場式だけはしっかりやってこいと言われて私を送り出して、それが頭にあり、行進の時は初めて靴を履いておおきな豆が出来て、靴はポケットに入れ裸足になって行進しました。(当時靴を履くことはほとんどなく下駄を履くのがほとんどだった)

400mの試合の2日後1500m決勝、前半リードしたが、しかしどういうふうに泳いでいいかわからなかった。
自分のペースが全くできなかった、駆け引きなど何もなかった。
「隣のブリーンをマークしすぎて、ブリーンの向こう隣のローズに気が付かなかった。
1400mで初めて7m先に出てるのが判って飛ばしたが間に合わなかった。
レースは苦しくなく楽に泳げたのでブリーンにとらわれたのが失敗だった。
やはりローズが一枚上でした。」(試合後の談話)
スパートも200m前でと考えていたが、辛くなってきて最後の50mだけを目いっぱい頑張って泳いだが、試合後の談話で言っていることは負け惜しみでした。

当時は輪島から東京に出てくるまで1昼夜かかりました。
海外に初めて行って自分がいかに田舎者であったかと言うこと、メルボルンにいってカルチャーの違いに吃驚しました。
飛行機も初めてでした、メルボルンまで36時間かかりました。
早稲田大学に進学、モットーとして一度負けた選手には絶対負けたくないと言う思いがあり、東伏見の早稲田のプールで練習してきました。
昭和34年に日米豪の水泳選手権があり200m、400mで世界新記録を作る。
小柳コーチから大変な距離を泳がされました。
昭和35年ローマオリンピック、400m、1500m、800mリレーに参加。
前年に自分の泳ぎを見せたが、ローマではこういう風にしようと思ったが、専任の小柳コーチがローマのコーチから外れます。
練習のメモを貰ったが、たまたま1か月前にローマにいってしまって一人で一カ月過ごすことになり、調子をうまく持っていくことが出来ず(1週間前がピーク)、その後1週間で6kg痩せてしまった。(ものが食べられない、一つはプレツッヤーかも、腰を打ったがダメージは少なかった、なんでも悪い方に取っていった)

ローマのオリンピックは3回のオリンピックでは一番印象の悪い大会、思い出したくない大会でした。
銀メダルは取ったが、ローズよりも前にいけると思っていたが、残念だった。
1500mは4位だった。
コンラッズが勝つと思っていて、1500mは自分では捨てました。
ローズ選手は184cm、79kg 泳ぎ方はスムーズだった。
私は力で泳ぐようなフォームだった。
昭和36年南カルフォルニア大学にローズ選手、私それからその後コンラッズも入って来ました。
ローズは菜食主義者でした。
ローズ選手が日本に来たりした時には家に泊まっていったりして、いまだに文通をしています。
2か月間で200mの世界新記録を3回更新する絶頂期もあった。
昭和39年東京オリンピック、ローズ選手は国内予選を欠場しオリンピックには参加出来ず、私は400mで6位という結果になった。
私の取ったメダルは最終的に全部で4個の銀メダル、400mで2個、1500mで1個、800mで1個。
ローマでは自分でも絶対勝てると思っていたが、1週間前にピークが来てしまったと言うことです。
昭和41年に引退することになる。

子供の頃、夏の間舳倉島(へぐらじま)と言うところへ町全体が移動して、あわび、さざえ、漁をしたりして秋に帰ってくる。
相撲をやっていたが水泳は出なくても、1位のノートと鉛筆は貰えました。
母親は海女(あま)で私が生まれる数日前まで海に潜っていたので、山中は生まれる前から海で泳いでいたと言われた。
いつ頃から泳ぎ始めたのかは覚えていません。
肺活量は8000cc、大学の時に測ったが測りきれなかった。
練習らしい練習は早稲田で小柳さんのコーチで教わった時から3年間ですかね。
一番多く泳いだのは1日40000mぐらい泳ぎました。
インターバルで100mを200回(20000m)、制限タイム(1分6秒9まで)の罰則を食うと
追加。

水泳から得たことは、がまん強くなります。
今は厳しく管理されてサイボーグ化してきて、選手の個性がないと思う。
コーチはどんどん先に言っているので選手はいかにくっついていくかということ。
高齢化してきているが、健康維持したいと言うのなら競泳は置いておいて、水の中で運動することがいいと思います。
いい事は血圧が下がるので、水を使って健康になってもらいたい。
私は今は水の中で歩いています。(71歳)