2016年2月3日水曜日

平良仁雄(沖縄ハンセン病回復者) ・戦後ずっと、隠して生きてきた

平良仁雄(沖縄ハンセン病回復者) ・戦後ずっと、隠して生きてきた
ハンセン病の患者を強制的に隔離していたライ予防法が廃止されて今年で20年になります。
国は元患者や遺族が裁判を起こせば和解して保証金を支給する仕組みを作りましたが、その裁判を起こす期限が来月末に迫っています、
ハンセン病患者の患者が歴史的にも多かったのが沖縄です。
戦争に依って衛生環境が悪化して、戦争ライという言葉も生まれました。
久米島出身の平良さんは終戦直後にハンセン病と診断され、名護市にある、沖縄愛楽園に入所しました。
戦後沖縄のハンセン病患者がたどった歴史を聞きました。

今、愛楽園のボランティアガイド、ハンセン病の講話などをやっています。
ライ予防法があって隔離されたが、どういう思いで、どういう状況で生きてきたのかを話したい。
予防法に対しては心の底から湧きあがってくる怒りをぶつけるのがわたしの愛楽園のガイドだと思っています。
76歳、ハンセン病が発病するまでは時間がかかると言われていて、愛楽園に入所したのが8,9歳でした。
建物の後ろの部屋で隠れて生活していました。
人の気配がすると又後ろの部屋に隠れるという生活を幼いころしていました。
ハンセン病患者強制収用が久米島では27名でした、その中の一人が私でした。
わたしは7人兄弟の長男でした。
船に乗って、愛楽園の看護師さんが、讃美歌を歌ってくれたのは覚えていますがそれ以外は覚えていません。
一晩かけて上陸しました。

沢山の人が来て、こんなに沢山いると思ったときには勇気付けられたように思います。
米軍の援助物資があって、一般の子供よりは良かったようで、野球、バレーボールもあり楽しかったと思います。
発症した時にいつくか症状がでてくるが、わたしの場合は皮膚の神経が凄く敏感でした。
看護する人が足りないため軽傷者が重症者を看護介護しなければならなかった。
食べものが無くて農作業したり、養豚したりして食料調達をしなければいけなかった。
そこはハンセン病隔離場所だったんです。
子供のころは当たり前だと思っていました、判ったのはずっと後でした。
ハンセン病は人が住んでいる衛生状況、健康状況、体力状態に関連していると言われている。
沖縄の防空壕では衛生状況が悪く、健康、体力がいいわけでもなく、本土とは違う。
1956年 在宅治療も認められ18歳ぐらいで退所したが、戦後療養所以外でもハンセン病患者がいて、愛楽園に入所する余裕がなかったので、軽傷者と重症者との入れ替えがあった。

姉や妹、両親と暮らせると思うと嬉しかった。
ハンセン病患者になったら石を投げられて軽蔑されたが、わたしは石は投げられなかったけれども、或るときから人の視線から石を投げられた。
久米島から沖縄の本島に行き、タクシーの運転手をして、結婚して、バス会社に入社、3年いて、再発して療養所に戻って、1999年出ました。
妻にはハンセン病回復者であることは話して了解を得て結婚しました。
再発後は、妻にとっては後ろ指を指されているという思いがあったのではないかと思う。
妻は精神病院に行ったり来たりして、最終的には自殺という事で最期を遂げます。
妻を殺してしまったという思いがあり、自分を責めたことがあります。
ライ予防法がもっと早く廃止されていれば妻を殺さなくて済んだと思う。

悪くなると病棟に入るが、家族があるのでベッドに寝ている訳にはいかないので愛楽園を飛び出して、タクシーの運転手を内緒でせざるを得なかった。
愛楽園の第一期ボランティアガイド 2008年にHIV人権ネットワークに依る「光の扉を開けて」という芝居の練習に行ってみないかと言われていきました。
劇の中でHIVの少女に先生がハンセン病患者のお婆さんの体験談を聞きにつれてゆき、体験話を聞いて少女は心がいやされる、という内容のものでした。
自分を見ている人の視線をなげつけられる経験から、劇を見て温かさを感じてボロボロ泣いてしまった。
心の温かさ、を見て、触れて、そこで私は変わった。
新聞に第一回愛楽園のボランティアガイド募集があって申し込みました。
ライ予防法が作った隔離の壁はベルリンの壁よりも厚くて高くて、人間の思いや努力では打ち破ることが出来ない。
しかし、私は乗り越えた、温かい心を通して、あの劇の子供たちに出会ったから自分の心を開く事が出来たと思う。

退所者の中でも今もライ予防法は生きているという、提訴すればお金はもらえるのにやらない。
自分が変わっていないのだからだと思う。
被入所者にとってはお金ではなく、問題は心の傷です、ライ予防法は生きているという事、自分がハンセン病だということがばれることが怖いという事です。
ライ予防法という法律が悪いんです。
2回の入所経験の中から、中にいるということは居心地の悪いところで、人生は何があるのか判らないから、外に出るということは一つの戦いでもある。
外へ出て良かったなあと思います。
後10年生きればいいほうだし、どういうボランティアガイドをするのか、やり方を変えないといけないと思う。
もっと湧かせる様な何かを作っていかなければいけない、それが聞いている人に響くと思います。