2018年3月31日土曜日

吉俣良(作曲家・編曲家・音楽プロデューサー)・“有言実行”こそが、わが原動力

吉俣良(作曲家・編曲家・音楽プロデューサー)・“有言実行”こそが、わが原動力
大河ドラマの音楽を担当するということはどんなことなのか、自分が目標とすることを周りの大きな声でいうことによってこれまでの人生を切り開いてきたという吉俣さんに伺います。

1959年鹿児島市生まれ、来年還暦です。
サウンドトラックは20年やっているので100を越えている、曲は1500を越えていると思います。
NHKの大河ドラマ「篤姫」の時には1000曲いっていました。(10年前)
ドラマに音楽が重なることによって切なさ、悲しさ、嬉しさなどがちょっと前に出て来るように見えたら、音楽がひと押しになったと私は感じます。
篤姫の時には48曲を渡しましたが、自分の中でこの曲とこの曲はこういうところでかけてほしいと思っていたところに見事にそこにかかっていたので、よくぞこの曲をかけてくれたと思いました。
若いころにドキュメンタリーに2分半位の音楽を作ったことが有り、映像に音楽を当てるのはいいなあと思って作ってみたいと思いました。
モリコーネの音楽でジーンときて涙がこぼれてきたことが有り、感動しました。

5つのテーマ ドラマでは①温かい音楽、②切ない音楽、③嬉しい音楽、④サスペンス、⑤何気ない音楽と云う柱で作っています。
内容によって自分なりに考えます。
自分で思ってたりするのと違うシーンで使われたりする時もありますが、こういう使われ方もあるのかと思い新鮮に感じます。
2分45秒 音楽しか乗っていないのは大河ドラマしかないです、それだけ気合が入るし、緊張もします。
「篤姫」の話が来た時には思わずガッツポーズが出ました。
ニューヨークに行こうと思ったときにパスポートが切れているのが前日に判り、全部キャンセルして鹿児島に帰ろうとしたときに、NHKから話がしたいと連絡が有りました。
もし、ニューヨークに行っていたら、その話は無かったと思います。
最初テーマ曲を作りますが、1曲きまるまで1カ月かかりました。
どうしようかと思って、3週間鹿児島の空気を吸い、食事、仲間と毎晩呑んでたりしました。
帰ってきたら1週間でテーマ曲を含み7曲できました。
ホテルのベランダから桜島を観ていたら、桜島からなんか風が吹いたような気がしました。
苦しかったけれどいい経験になりました。

瞬発力はありますが、「努力と忍耐」は僕は苦手です。
15秒から20秒間考えて浮かばなかったら一旦止めます。
朝ドラは来ないだろうなと思っていたが、やりたいなといっていたら、2003年に朝ドラが来て、大河ドラマも可能性がゼロではないと思っていたが、大河ドラマをやりたいと言っていたら5年後に大河ドラマが来ました。
10年の間に言っていることが叶ったようになりました。
2003年にNHK連続テレビ小説『こころ』で初めてNHK朝ドラの音楽を担当、その時から言っていました。
自分が何かしたいことがあったら、他の人に絶対言った方がいいと思います。
黙っていると何も起こらない。
色んな人に言って協力を仰ぐ。
言葉は魂となって、自分に還って来ると言うことはあるんだなあと思います。
アニメのほうをやりたいと思って言っていたら今年叶いました。
「有言実行」は叶わなかったときに恥ずかしくないのか、と言われたことはあるがいうのはタダだからと思っています。
周りからは努力っぽく思われるかも
しれないが、自分では楽しみながらやっているので、努力している感覚はないです。

自分の中に切羽詰まったものが無いので、やってこれたのかもしれない。
ピアノは8年間習ったが、音大にいっていないし、譜面も独学なので、流石に大河ドラマの時は先生に見せました。
ピアノは大嫌いでした、遊びたい時期だったので。(小学生時代)
高校時代は吹奏学部で2年生で部長をやっていました。
3年の時には自分が部長のようにふるまって、必死でやっていて、鹿児島では優勝しました。
九州大会の時には参加賞でした。
受験勉強をしなくてはいけなかったが、音楽浸けでした。
音大は考えてはいなかった。
大学では音楽サークルに入って、アルバイトで バンド演奏をしている時にプロのミュージシャンと知り合い、、美空ひばりのバックバンドのオーディションに合格したことを契機に、大学在学中より本格的にプロとして音楽活動を開始する。

1000万円を稼ぐプロになりたいと言っていたら、叶うことができた。
演歌系、アイドル系などなんでもやっていたら、ロックの仲間から何のため音楽をやっているんだ、かっこ悪くないかと言われて全部辞めてしまいました。
そうしたらロックの仕事が来ました。
「サウンドトラック」をやりたい、「朝ドラ」、「大河ドラマ」をやりたいと言ってきて、叶ってきました。
本当に自分がやりたいことを皆に言っていると何人目かには、誰か目標にしてる事をかなうような近道の人がぱっと出てきたりする。
10年言っていますが、ヨーロッパ、アメリカの映画をやってみたい。


















2018年3月30日金曜日

2018年3月29日木曜日

服部公一(作曲家)            ・童謡は歴史遺産

服部公一(作曲家)            ・童謡は歴史遺産
「夕焼け小焼け」、「シャボン玉」、「おもちゃのチャチャチャ」、「アイスクリームの歌」などの童謡は中高年にとっては懐かしく、心に響く歌ばかりです。
服部さんは山形市生まれの84歳、山形県立山形東高等学校から学習院大学文学部哲学科に進学、学生時代からアマチュア音楽家として活躍し、NHKのオーディションに合格、大学を中退し、プロの作曲家として活動を始める。
服部さんが作曲した歌は、「アイスクリームの歌」、「マーチング・マーチ」など100曲以上あります。
特に「マーチング・マーチ」は1965年第7回日本レコード大賞童謡賞受賞しています。
童謡は最近あまり聞かれなくなってきたようですが、他の国には無く素晴らしい歌ばかりりだと言われています。
こういった童謡を将来に受け渡してゆくことが大事だと言っています。

祖父母も今の芸大でしたし、親爺の兄弟は美術の学校(?よく聞き取れず)でしたし、私の弟も彫刻家で、私だけ美術の方へは行かなかった。
服部良一さんの家とは関係ありません。
童謡は1000,2000曲はあると思います。
*「ぞうさん」
*「おもちゃのチャチャチャチャ」
*「僕らはみんな生きている」
*「北風小僧の寒太郎」
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*「アイスクリームの歌」
これらは昭和30年代のもの、この時代の日本の童謡は世界に冠たるものだと思います。
100曲以上あります。
鈴木三重吉さんが「赤い鳥」と云う童謡童話雑誌を大正7年に始めて、童謡と云うこ言葉も出来ました。
唱歌は明治14年に唱歌集初編を文部省が出しましたが、訓話的、歴史的、花鳥諷詠になって来て、硬くなってきた。
子供の生活、子供の気持ちを歌う童謡を作らなくてはと云うことになり、詩人、作曲家はこれだと飛びついて来た。
難しい歌も入ってきた。
歌曲の始まりが「赤い鳥」だとおもっています。
NHKの国民歌謡が出来て、7インチ盤が出来て浪曲などがあったが、その中に童謡が有った。(レコード童謡)
戦争中は大政翼賛童謡が出来て、「進め少国民」「肩をならべて兄さんと」とか軍国童謡
が出来、私などは歌わされました。
敗戦になると180度文化が転換して「みかんの花咲く丘」とか海沼實童謡とかが広まってきて、NHKで「歌のおばさん」と云う番組が出来て、創作童謡が出来て来る。
團伊玖磨さんが「ぞうさん」などを作りました。
質的にも曲数的にも近現代の間に童謡が最もたくさんできたのが日本だと思います。
團伊玖磨先生、芥川也寸志先生、中山晋平先生方たちが作った童謡は日本人の宝じゃないかと思います。
今はあまり歌われない。
詩人作曲家総動員で芸術性の高い童謡を作ろうとしたのは、「歌のおばさん」、「歌の絵本」だったと思います。
昭和36年にTVで「歌の絵本」の番組が始まりました。
その頃から私どもの世代のクラシックの作曲家が協力しました。
残ったのは私ぐらいで、もういなくなりました。

祖母は東京音楽学校を2年で中退して(結婚して)、それが非常に心残りだったと思います。
私は何時からピアノを弾いたのか覚えていなくて、祖母が西洋音楽の楽しさをきっと教えたかったんだと思います。
自分の子は美術関係に進んで、孫にはと云う思いが有ったのかもしれません。
家にはおんぼろのピアノが有り、祖母が音楽教育を始めたんだと思います。
小学校は戦争の時代で、軍国主義一辺倒でピアノなどを弾いている子はぜい弱だと言われた。
毎日30分は弾くように言われて、厭だったがピアノを弾くとおやつをもらえるという事でやっていました。
小学校6年で敗戦となり、文化の質が変わりました。
ピアノが弾ける少年は珍しくて、ライトが当たって嬉しくなって自主的に音楽をするようになりました。
旧制中学に昭和21年に入り、高校生になった時にNHKのど自慢が始まり、山県放送局の人に言われて流行歌のピアノ伴奏(我が家で最も嫌われる)をやりました。

音楽の道に進もうと思ったが、祖母からは音楽の道では食えないと言われてしまいました。
医学部に無理やりいかされたが、半年位で音楽に戻りました。
NHKのオーディションが有り受かりました。
そうしたらNHKの幼児番組を担当することになり、想いと違ってがっかりしましたが、今は私の生涯のメインだと思っています。
幼児の音楽などは全然わからなかった。
お茶の水女子大学の松村康平先生の児童心理学のゼミに顔を出して実地に幼稚園を観たらどうかと言われて、そこが私の幼児音楽の始まりでした。
いい勉強になりました。

NHKの「音楽の花束」の音楽のスタッフになりました。
オーケストラの編曲の仕事に携わることが出来て勉強になりました。
NHKの「日本の現代音楽」にも携わりました。
1963年にアメリカのミシガン大学に留学しました。(音楽大学には行っていなかったので)ミュージックセラピーも学ぶ。
「マーチング・マーチ」 1965年第7回日本レコード大賞童謡賞受賞。
認知症の方にも童謡を歌ってもらう事などはメインになって来ている。
音楽と治療が結びつくことを知りました。
文部省から誘いがあり学生と共にミュージックセラピーを勉強することになりました。(58歳の頃)
東京家政大学の大学院で12年(70歳まで)、東京家政大学附属みどりが丘幼稚園園長も兼任しました。
日本にある音楽的遺産である童謡を掘り起こして、お母さんコーラスの合唱にするとか、積極的に掘り起こしの仕事をしようと思います。




2018年3月28日水曜日

光田憲雄(大道芸伝承者)          ・庶民が支えた“大道芸”

光田憲雄(大道芸伝承者)          ・庶民が支えた“大道芸”
山口県長門市生まれ、71歳、子供のころに見た大道芸に魅せられました。
20歳過ぎに旅先で大道芸人と出会い、大道芸の指導を受ける様になります。
更に多くの大道芸人の元を尋ね消えかかった大道芸を学びました。
平成7年には大道芸を記録伝承しその復活再生を目的として日本大道芸の会を設立します。
60歳過ぎにサラリーマン生活を切り上げ大道芸の研究、記録をする一方、大道芸物売りの実演会に出演したり、希望者に大道芸の指導もしています。

物売りの為の工夫が芸になったという意味で大道芸です。
江戸時代は200種類はありました。
一番有名なのが「あさり売り」 「行く先の時計となりやこあきんど」
遠くから判るように大きな声でゆっくりと声をあげる。
納豆屋、豆腐屋、(朝食のおかず)
かりん糖売り(子供でも分かるように面白おかしく)
金魚売り(昼間時 テンポがゆっくり 桶をできるだけ揺らさないように)
さざえ売り、アサガオの苗売り(3月、4月)
江戸では「え」を「い」と発音していた。

山口県長門市では当時炭鉱で人がいっぱい生活していました。
子供の頃、家を出ると人だかりが有り、話が面白いものだから一番前で聞いていました。
疑心暗鬼で聞いているが、最後には買わないと損だという気分になり、子供では買えないような値段だったので、大人が羨ましくてしょうがなかった。
値段は現在の価格で大体1000~2000円位でした。
子供のおもちゃは大体100円位でした。
サラリーマンになって東京に来て旅行をして、木曽の民宿に泊まった時に、いつの間にか大道芸の話になって、教えてやろうかと云われて一つ返事で受けました。
広島の人だったので帰省のたびにその人の家に寄り教えてもらいました。
最初、録音を取らせてもらって、一生懸命に暗記しました。
繰り返し練習して身体に覚えさせる以外にないです。
完全にマスターしたら次の芸に進んでいいが、そうでないと中途半端なものになってしまう。
3年経ってスタートラインだと言われる、それを乗り越えて行くと自分のものになる。

サラリーマン生活しながら、色んな師匠の元を探し歩きました。
観たい祭りの時に休暇が取れず、歯がゆい思いをしたこともありました。
60歳過ぎにサラリーマン生活を切り上げ大道芸の研究が自由にできるようになりましたが、生きている人がほとんどいなくて、最後まで付き合ったのが去年に91歳位で亡くなってしまいました。
復活させるには、落語、古文書なども参考にしました。
桂米朝さんなどは大道芸を使ったりしています。
ガマの油売りも東京落語の三代目春風亭柳好 さんが筑波山にしました。
元々は上方落語で伊吹山でした。
最初、茨城県の歴史を調べたがどこにもなかった。
大道芸の歴史。
物売り系と芸能系に大きくわかれています。
物売りでは上方では室町時代、江戸では元禄初期位です。
芸能系は桓武天皇の時代に宮中に雑芸能をやるものが有ったが廃止されて、芸人たちが生活に困って河原などで芸を見せてお金をいただくという形で始まったと言われています。
あらゆる芸能の原点です。

「江戸の大道芸人 庶民社会の共生」と云う本を出版しました。
庶民の記録を発掘させたい。
実際の状況を正したと思っています。
記録、古文書を調べ、時系列にして行きました。
「日本大道芸辞典」がほぼ書き上がっています、500ページぐらいです。
まだ抜け落ちが一杯あると思いますが。
娯楽が少ない時代にお互いが楽しく生きようという感じで、知恵を絞ったので続いてきたと思います。
「大道芸通信」 月に一度出していて350号位になっています。
新しい情報、伝えられている芸、などを次世代に伝えたいという意識が有り練習しています。
入れ替わりもありますが、常時いるのが10人前後で、女性が熱心にやっています。
「深川江戸資料館」で大道芸の実演などもやっています。
1回の公演で200~300人が来ます。
後継者を育てていきたいと思います。
日本風俗史学会の会員としても活動しています。
論文を書かせてくれるので、そこでやっています。
定説とは違うことが結構出て来ます。



















2018年3月27日火曜日

小谷孝子(千葉県原爆被爆者の会理事)    ・“あっちゃん”と語る被爆体験

小谷孝子(千葉県原爆被爆者の会理事)    ・“あっちゃん”と語る被爆体験
79歳、昭和14年広島県呉市の生まれ、6歳で広島市に引っ越しました。
昭和20年8月6日、原爆が投下され、建物の下敷きになった小谷さんはかすり傷で助かりました。
しかし、弟は全身やけどで死に、沢山の人々が苦しみながら死んでゆくむごい光景は長い間話すことはありませんでした。
高校卒業後に上京した小谷さんは幼稚園教諭として働き、子供の為に腹話術を習いました。
その腹話術の人形「あっちゃん」と一緒に8年ほど前から被爆体験を小中学校などで語り始めました。
3年前にはNGOピースボートの船に被爆者たちと乗って、3か月間乗って世界各国で被爆体験の証言もしました。
ピースボートが国際運営団体を努める核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons、略: ICAN)は去年12月、ノーベル平和賞を受賞、小谷さんも受賞を祝うツアーに参加して、ノルウェーに行き、被爆証言を続ける決意を新たにしました。

1015年にピースボートが主催している被爆者が世界に被爆証言をしているツアーが有りそれに参加しました。
それからピースボートで呼ばれると証言に行ってそのつながりが有り、今回被曝者も一緒に行こうと言うことになり参加しました。
被曝者が26人でその中には健康を考えて2世の方も同行して、スタッフが4名加わり30名で行きました。
受章式は感動でした。
被曝者とアイキャンは200名位いました。
サーロー節子さんのスピーチで皆立ちあがって手を繋いで感動を表しました。
「人類と核兵器は共存できない、核兵器は必要悪ではなくて絶対悪だ」と訴えてました。
コンサートもありましたが2万人ぐらい入りました。
広島で被爆ピアノを調律してそれを弾かれて、とてもいい音が出て会場は感動しました。
人間は亡くなって行くがこういう形で世界に伝わって行くことは大切なことです。
司会者が核兵器禁止条約に署名していない国がある、核兵器の傘の下にいる国々が、ノルウェーもそうだとおっしゃって、会場からも大ブーイングが起きました。
世界には沢山の被害者がいて皆さんが立ちあがって核兵器のない世界にしましょうと、世界中が立ちあがっているということが凄く強い力になりました。
これからの日本、世界をになっていく子供たちに、こんなことが有った、今も世界には1万5000発以上の核兵器がある、皆でそれを止めましょう」と、本当の平和は武器ではなく心だと子供たちに伝えていて、それを又誰かに伝えていってほしいと思います。

昭和20年には広島市内で生活していました。
父が海軍でしたが、5歳の時に父が亡くなって呉から広島に引っ越して、4月に国民学校に入学してその8月に原爆が落ちました。
爆心地から2.5kmの処に住んでいました。
とてもいい天気で戦争中とは思えない様な静かさでした。
その日の昼に田舎に疎開することになっていて、兄弟4人で川に泳ぎに行こうとしていました。
B29かなあと云うことで気になったが、大丈夫と云うことになって皆駆け出しました。
私だけは喉が渇いたので、家に引き返しました。
水を飲んでいたときにガラス窓がぴかっと光って物凄い音がして家が壊れて下敷きになってしまいました。
母に助けられてかすり傷で助かりました。
母は兄弟を探しに行ったが、姉は全身やけど、兄はちょっと家の陰にいたのでやけどはしなかったが、爆風で頭や体にガラス破片が刺さって血だらけでした。
広島市内は火の海で人々は家の前を通って行き、私に「水をちょうだい」と云って、まるでお化けの様な様子でした。
ショックで立ちすくんでいました、これが地獄なのかなと思うようでした。
弟はなかなか探せず、ようやく見つかったが、顔は真っ黒で母が顔を拭いたら、顔の皮がずるっと剥けて垂れ下がってしまいました。
体の中まで熱線が届いて臓器まで焼けているわけです。
祖母も全身やけどで戻ってきました。
弟が8月10日の朝、意識がなかったのが目を開けました。
母が水を飲ませると「飛行機は恐ろしいね、お水は美味しいね」と一言残して3歳で亡くなりました。
暑い夏なので傷跡が膿んでウジがわいて火葬場に連れていくこともできず、母は涙も見せず自分で弟を火葬していました。
母は人の居ないところでどんなに泣いていた事だろうかと思います。

8月15日に終戦となり学童疎開で帰ってきましたが、ほとんどの子が両親を亡くしており原爆孤児になってしまいました。
学童疎開は2000人、3000人とも言われますが、人数ははっきりしていません。
簑島に原爆孤児の施設が出来上がって、私たちの世話をしながら母は時間を作って簑島に渡って原爆孤児の世話をしていました。
私はやけどをしていなかったので、いつもかまってもらえなくて、よその子の世話をしないで私のの世話をしてと泣きながら頼んだが、母は「わがままはいいさんな、あなたたちは夜になるとお母ちゃんは帰って来るでしょう。 島にいるあの子たちはもうなんぼ待っても2度と親は帰ってこんのよ」と云いました。
母はどんな大変な時でも自分のことだけではなく、人のことも大切にできる心の豊かな人になるのよと教えてくれました。
6年後に原爆による白血病で母は亡くなりました。(6年生の時)

母が亡くなってからは原爆の話、被爆の話は一切心の中にしまって2度と話をしないという気持ちになりました。
母が亡くなってから先生になろうという夢を持ってからはとにかく明るく生きようと、いつも明るく元気にしていました。
ケロイドがなくあなたは幸せだからそうしてニコニコしていられるのよ、と言われた時にはショックでした。
罪悪感がそこで襲って来ました。
私が原爆を語ってはいけないと思いました。
広島にいるのが嫌で、東京の専門学校に行って保育科をでて、幼稚園の先生になりました。
中学1年の時に友達のお母さんがとっても良くしてくれた幼稚園の先生で、わたしもその夢を持ちました。
3人の子供に恵まれました。
子供も大きくなり腹話術を始めました。
引きこもりの子がいて幼稚園に来ても窓の外ばっかり見ていて、心を開かせたいと思いました。
師匠は野田市朗牧師さんで腹話術を教えていました。
テクニックだけでは本当の笑顔にはならない、心を込めて先ず人格を磨きなさいと言われました。
引きこもりの子は何日目からは席に着くようになりました。
その子が有って今の自分が有るんだなあと思いました。
2003年に私が被曝者であるということを誰かから聞いて、師匠が「あんたは被曝者なんだから風化させないために、この子と一緒に語って行きなさい、辛い話だけどこの子が助けてくれるよ」とおっしゃってくださいました。
仕舞い込んであることだったので語るのは辛くて、姉に相談したら、「あなたは元気だから周りの事をみているんだから、その人たちの無念な思いを語っていきなさい、それがあなたの指名だ」と言われて、罪悪感を使命感に変えて語るようになりました。

最初は写真とか絵を使って話をしていたが、母の事、弟の事を話すと涙が出てきたりして、2010年に県庁に呼ばれてそこで話をすることになり、思い切って「あっちゃん」と一緒に話をしました。
師匠からは最初から「あっちゃん」と話すように言われていたが、できなかった。
「あっちゃん」に聞いてもらえるように話しなさいと言われました。
NGOピースボートの船では世界18カ国23都市を回りました。
広島の友達が何回か乗っていて、行くように勧められて2015年は戦後70年で募集が有り、子供にだったら出来るかなと思って参加しました。
インド、フランス、ノルウェー、パアンマ、ガテマラでは証言をしました。
「原爆を落としたアメリカを恨んではいませんんか?」との質問は必ずあります。
「被曝者は恨みを言いに来たのではない、恨みからは何にも生まれません、2度と同じことをしないでほしい、みなさんで核兵器のない世界にしましょうと呼びかけに来たんですよ」と話しました。
千葉県では1年間で30校ほど「あっちゃん」と一緒に被爆体験を語る活動をしています。
感想文もいただき、1枚1枚読ませてもらいます。
戦争を無くす仕事をしたいとか色々あり、元気をいただきます。
北朝鮮からミサイルを撃って来た時が有り、或る6年生が「どっかの国がやっつけちゃえばいいと思っていましたが、今日話を聞いて武器に対して武器で応戦するのは間違っている、やっぱり話し合いが大事、北朝鮮にも僕たちのような子供がいて子供が犠牲になるんですよね」、と言ってくれたんです。
担任の先生はそれを聞いてぽろぽろ涙を流していました。
家族がいて、朝ご飯を食べ、学校にいってと云うような平凡な普通の幸せがどんなに大切か、世界には不幸な国、人々が一杯いるので、争いは絶対無くして普通の生活を大切にしていってほしいと思います。







2018年3月26日月曜日

なかにし礼(作家・作詞家)       ・【謎解き うたことば】なかにし礼(2)

なかにし礼(作家・作詞家)   ・【謎解き うたことば】なかにし礼(2)
日本語学者 金田一秀穂
作家のつもりでいるが、作詞家時代が長かった。
作家になりたかった。
自由に大変憧れました。
「時には娼婦のように」 
吉田拓郎が自分たちの時代はコマーシャリズムに乗った歌ではないものを作ろうと云うことで「旅の宿」など彼らの歌を書き始めました。
それが行き過ぎて、1970年の安保の挫折感から来て、お互いにいたわり合う風潮が満ちて、男も女もいい子で優しい子になってしまって、人間のいいところばかりを見ながら暮らそうと言う、僕は大きな間違いだと思いました。
人間とは幅広くて、先ず人間であることを肯定しようと思って、それを言いたくて「時には娼婦のように」を書いた訳です。
「時には娼婦のように」
時には娼婦のように 淫らな女になりな 真っ赤な口紅付けて 黒い靴下付けて
大きく足を開げて 片眼をつぶってみせな 人差指でてまねき 私を誘っておくれ
バカバカしい人生より バカバカしいひと時が嬉しい ム・・ム・・
時には娼婦のように たっぷり汗を流しな 愛する私のために 悲しむ私のために」

歌を書くというのは現代の人に向かって書くのではなくて、10,20年50年後の人に向かって書いているんだと言うことで、感じる人が歌ってくれればいいというのが僕の鉄則です。
ひんしゅくを買うような歌を時々書かなくてはいけないと思うな。
周りを気にするようならば作家をやめた方がいいと思います。
*「恋のハレルヤ」
ハレルヤ 花が散ってもハレルヤ  風のせいじゃないハレルヤ  沈む夕陽はハレルヤ   止められない愛されたくて (愛されたくて) 愛したんじゃない (愛したんじゃない)    もえる想いをあなたにぶっつけた  だけなの帰らぬ あなたの夢が今夜も 私を泣かす  愛されたくて (愛されたくて) 愛したんじゃない (愛したんじゃない) もえる想いをあなたにぶっつけた  だけなの夜空に  祈りをこめてあなたの名前を呼ぶの
*「人形の家」
顔もみたくないほど あなたに嫌われるなんて とても信じられない 愛が消えたいまもほこりにまみれた人形みたい 愛されて捨てられて忘れられた 部屋のかたすみ    私はあなたに命をあずけた   
あれはかりそめの恋 心のたわむれだなんて なぜか思いたくない 胸がいたみすぎて ほこりにまみれた人形みたい 待ちわびて待ちわびて 泣きぬれる部屋のかたすみ   私はあなたに命をあずけた 私はあなたに命をあずけた

このことはあまり言わないできたが、自分なりの検証を考えているうちに、どうやって作詞家になったのかと考えたときにシャンソンの訳詩をやっていて、歌を書く方法論は自然に勉強してしまった。
1曲目は「涙と雨にぬれて」 すぐれた歌でも無くヒットもしなかったが、まあへたくそでした。(24,5歳)
戦争体験に勝る体験はない。
人間のおぞましさ、愚かさを学び、戦争体験で味わった場面を自分の脳裏に焼き付けてあるので、戦争反対の歌にするとかではなくて、そこにある人間の心理と言うものを歌謡曲にどうふうにしてけるいうかと云うものが、ひょっとすると歌を書く大きなきっかけになるかと自分で思いはじめて、二作目が「恋のハレルヤ」なんです。
「恋のハレルヤ」恋の歌ですが、僕の戦争体験した1年数カ月の間でいい事は一度もありませんでした。
日本に帰れるということになって、喜んで、待たされていよいよ船に乗ると言うことで浜辺に歩いて行って、小高い丘から真っ青な海と空が有り、沖にはアメリカの引き揚げ船を見た時にはこんな嬉しいことは無かった。
幸せを始めて感じたのがその瞬間でした、それを歌にしたかった。
国が負けたのは風のせいじゃない・・・、ハレルヤ=日本の国
 
昭和43年に「人形の家」 
満州に住んでいたものは関東軍に捨てられて、避難民になって今度は国から捨てられる。
避難民として帰る当てもない、深い悲しみでありやるせなさもあり、それを歌にしてみようと思って書いたものが「人形の家」になりました。
余ほど辛い恋をしたんじゃないのと云われましたが、黙っていました。
南北戦争から「風とともに去りぬ」が生まれた様に、戦争から作品が生まれないといけないと思いました。
小説家になって一日も早く『赤い月』を書きたかった。
自分が加害者になっていることをきちっと見つめられている。
当時7,8歳だったが、歴史の見方、価値観、自己正当化とかが、歴史の修正主義に繋がっていくが、そういうことはいけないと思って『赤い月』を書きました。
戦争は残酷な世界を作りだしたが、あってはいけないことだと思います。

*「グッバイ・マイ・ラブ」
忘れないわ・・・ 忘れないわ ・・・ もちろんあなたの名前
自分の恋の経験で、残酷だと思う、名前を忘れている。
レコーディングしているときに一番受けたのはここでした。
この歌は僕の好きな歌ベストセブンにはいります。
戦後50年たって旧満州の実家(造り酒屋)の場所に行ったが半分が公園、半分がビルが建っていてカラオケがあり、「グッバイ・マイ・ラブ」を歌っていてこれには絶句しました。
神様も味ないたずらをされると思って感激しました。