金子兜太(俳人) ・舌の記憶~あの時あの味(H28/12/23 OA)
2月20日戦後を代表する俳人の一人、金子兜太が亡くなりました。(98歳)
埼玉県生まれ、旧制高校時代に俳句を始めました。
大学を卒業後日本銀行入行、直ぐに戦地トラック島(現在のチューク諸島)に赴きました。
戦後は銀行マンとして働く一方、戦争などの社会問題を題材に伝統的な花鳥風詠と距離を置いた自由の作風で俳句の世界を革新し続けました。
悲惨な戦争の体験者として一貫して平和と反戦を訴えました。
舌の記憶では戦地での過酷な体験、人間の生きざま、ふるさと秩父への思いを伺いました。
97歳ですが、ちょっと腰が弱って来ている感じですが、全体の弱まりはないです。
妙に短気には成りました、つい「めんどくさい」と言ってしまったりします。
せらていじ?(先輩)おとぎ話作家が俳句をやっていて、「君は自然児だからなにもとらわれないで自由ににやったほうがいいよ」と言ってくれて、「五・七・五だけはきちんとして自由にやったほうがいい」と私の顔を見ると必ず言っていました。
朝は7時位に起きます。
朝ご飯は卵焼き、オクラ、トマトこれがワンセット、それともうひとつはトーストと牛乳とコーヒー、それだけです。
コーヒーは大好きです。
「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」
生まれたのは母親の実家が小川町で、そこで生まれました。
父親が開業医になると云うことで秩父の皆野町に家族でうつりました。
少年時代は自由にしすぎたぐらいでした。
うるか汁(魚のはらわた汁) アユのうるかを吸い物に味付けして煮て 、なす、きゅうり、アユなど入れて食べました。
父親も大好きで、あの味は今でも忘れられません。
あの苦味のある味が大好きでした。
私は漆にかぶれやすくて、戦争ごっこをやって、林のなを駆けずり回りますが、それにやられて全身かぶれてしまって、胃袋まで影響したのではないかと思っていて、食べ物までおかしくなりました。
伯母が心配してくれて、漆の木の大きな木が有りそこに連れていって、酒を漆の木にかけて盃を木にちょっとつけて「お前も飲みなさい」と言って、「お前は漆の木と結婚したんだ」と云う訳です。
そうすれば二度とかぶれないから必ず楽になり、何してもいいと言われて、それ以来私は漆にかぶれないんです、不思議な体験でした。
あの神通力のお陰で私は感度のいい男に成ったのかもしれません。
お陰で俳句も上手になりました。
自分の考え方で自由にやりたいと云う事でずーっと来ています。
父親(「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人)が俳句が好きで、俳句会に若い人たちがきていて、句会の後に酒が出てけんかなどもして、母親が「兜太、お前は俳句など作るんじゃない」と言われてしまいました。
旧制中学時代全然作りませんでした。
旧制高校に入って1年目に出澤 三太と云う先輩から俳句を作らないのかと言われて、「良い歳をして母親に言われてと言うようでは見込みがない」と言われて、一気に作るようになりました。
「白梅や老子無心の旅に住む」 初めての作
詩の句を覚えていて、出て来ました。
その後ずーっと作り続けて来ました。
大学を卒業し、日銀に入行、海軍の一大基地のトラック島に行くことになりました。
海軍にとって重要な島でした。
食糧基地が空爆されて食べ物が無くなって、飢餓の島となりました。
サイパン島が占領されてから、トラック島は米軍の偵察機、戦闘機が年中監視していました。
人間が動くと機銃掃射するような危険な島でした。
食糧、武器の補給ができない状態でした。
さつまいもを作ることでなんとか食いつなぐ様な状況でした。
私は敗戦の年の3月にいきましたが、6月末にはサイパン島が米軍の手中になっていましたから、輸送路が断たれていて、東京爆撃が始まりました。
夜盗虫が現れて、サツマイモの苗を植えても根っこを食ってしまって、全然収穫が出来ない。
飢餓が始まり、200人ぐらいの中で50人ぐらいが死んでしまいました。
悲惨な状態でした。
カナカ族に行って頼んでヤシの実を貰ったりもしました。
魚がいそうな場所に行って、手りゅう弾を投げて、魚が浮かんできたところを捕獲するわけですが、グラマンが直ぐに察知して船が行くと機銃掃射をしました。
コウモリの巣があり、天井からぶら下がっていて、コウモリを取って焼いて食べました。
直ぐにコウモリもいなくなってしまいました。
島には蛇、蛙はいませんでした。
果物ではシャシャップ(マンゴーよりちょっと酸っぱい)が美味かった。
あと3カ月遅れて終戦に成っていたら、損害が倍に成っていたと思います、もう限界でした。
窮状に追い込まれた時の人間は駄目だなあと思いました。
俳句は全然できなかった。(俳句を作ろうとする余裕がなかった)
戦争が負けたと言うことが伝えられたときに初めて俳句が出来ました。
日記も付けていたが日記は全部焼いてしまいました。
機銃掃射されることをいつも考えながら行動していたので、何にも余裕はなかったと思います。
土木建築の工員と一緒だった部隊だったので、私は存在者といっているが、生きた人間そのもので、無邪気で傲慢無礼、人を平気で殺す、ひととの性的な関係なども全然平気で行う、女性をトラック島から内地に送り返した後、私の部隊は見る間に男色が広がったがその時は驚きました。
そういう人間たちを見てきて、酷いものあと思いながら無邪気さなどもいいものだなあと思ったりするが、その人を殺してしまう戦争は良くないなあと思いました。
なんともいえぬ無邪気さ、存在するだけの人間の姿をトラック島でしたたかに見たような気がします。
その体験が貴重と思っています。
戦争が二度とないようにして貰いたいし、自分でも微力でもそれに協力したい、平和が大事、戦争は絶対いけない、そう思うようになりました。
あるがままの存在、それが大事だと思います。
人間とは美しいものだ、無邪気なものだ、しかし始末の悪いものだ、それがなんともいえぬ味わいだと、そう思っています。
存在者としての人間と言う、貴重さが判れば判るほど、戦争は反対と言う思いは募っています。
秩父の中での生活に茫漠として明るい少青年時代があるんです。
そのなかで自由を感じる。
「お前は自然児だ」と言われた言葉をずーっと担いで行こうと思っています。
2018年2月28日水曜日
2018年2月27日火曜日
大橋正明(聖心女子大学・研究所 所長) ・バングラデシュは私の先生
大橋正明(聖心女子大学グローバル共生研究所 所長)・バングラデシュは私の先生
64歳、学生時時代、インドで最下層と言われる差別の子供が学ぶ小学校でボランティアをしたことがきっかけで27歳の時にインドのとなりバングラデシュを中心に活動する日本のNGOシャプラニール、市民による海外協力の会の現地駐在員として赴任しました。
シャプラニールと言うのはバングラデシュの言葉ベンガル語で睡蓮の家という意味です。
水連はバングラデシュの国の花にもなっています。
大橋さんはライフワークとして40年近くバングラデシュを中心に南アジアの貧困問題と向き合ってきました。
著書、「自然体はNGO」で剣道、学生運動、インド、NGO、大学教員、この5つで自分の人生を振り返る事が出来ると記載。
1966年に中学に入り、中学、高校時代は剣道をやっていました。
高校では東京都の団体戦でベスト4に入り、個人戦でもベスト16に入りました。
安保騒動など身近に接していました。
TVも普及してきてベトナム戦争のシーンが放送されて、残酷なシーンが茶の間に放送され、段々こんなものでいいのかという疑問が段々湧いてきました。
大学は早稲田に1972年に入学しますが、ベトナム戦争に代表されるような不正義にもっと関わらなくてはいけないのではないかと言う気持ちが強くなりました。
ベ平連、個人が参加してゆく市民運動があり、72年にアメリカの戦車の修理をやるのに当時の神奈川県知事が道路交通法を使って戦車が県の道路を使って送り返したりするのはいかんと言うことで、それがきっかけでその反対運動が盛り上がって、参加してそれが1年生の時の思い出です。
べ平連系の戦争反対運動をしていました。
学生運動は内ゲバになって行って、そういうグループとは離れていました。
1年先輩の川口さんが自治会を牛耳っている党派と、反対派とのスパイだと云う嫌疑をかけられて、自治会室に連れ込まれて、夜の11時過ぎからリンチされて死亡すると云う事件が11月に起きました。
その遺体が東大病院前に投げ捨てられて、そのことをめぐって学生たちが怒り出して、自治会を牛耳っている党派にたいして、謝罪を求める運動、同時に学内を一つの党派によってコントロールさせることによって他の党派とか、もっと大きな影響力をもったグループが出てこないようにしているのではないかと言うふうに、大学当局がしようとしている
と考えて、村井総長と学生達と直接話し合うと云う交渉をしていました。
出てこないので最終的には授業をしている所に押し入って団体交渉する場所に連れて来て、そこで司会者を務めた、それを新聞に取りあげられたりしました。
自宅にも2度家宅捜索が入って、3週間新宿署の留置所に入りました。
後から考えるとその時の3週間は良かったなと思います。
雑居房に7,8人が入っているところで、暴力団とか窃盗をした人とかいろいろな人がいました。
取り調べにたいして一切言わなかった。
漫画が雑居房に投げ込まれるが、それを読んでいたら、周りからもっと大きな声で読めと言われて、看守が本当はいけないのだが読んでやれと言われ、大きな声で読み始めました。
その人たちは文字を読めないか、読めてもめんどくさい人たちだった。
だから犯罪に関わってしまう、こういう人達がいるんだと云うことに触れたことは良かったと思います。
「川口君糾弾闘争」をやったんですが、大学も変わらず自治会を牛耳る党派も変わらず、多くの人が退学したり、ほかの大学に行ったりしましたが、私は父親の勧めもあってインドに行ってみる事にしました。
ヒンディー語を1カ月集中講義をうけてその時の先生がガンジーの社会改革運動をやっていて、最下層の子供達を教育すると云う全寮制の学校を紹介してもらって、半年間をそこで過ごす経験をしました。(大学3年の時)
場所はブッダガヤ(釈迦が悟りをひらいたと言われる場所)から20,30kmはなれたところでした。
子供達と一緒に寝泊まりしていました。
子供達の家に行ってみると本当に何にもなくて、学校の方がちゃんと3食食べられるから良いんだと言っていました。
改めて知らない世界を思い知らされました。
大学へ4,5,6年と通って、インディー語を学んでいました。
インド政府から奨学金がもらえる事に成り、インドにいきました。
1980年にバングラデシュのシャプラニールに赴任しましたが、1971年にバングラデシュが独立してそれを支援しようとしてNGOシャプラニールが作られて、たまたま同級生が関わっていてそれに誘われました。
バングラデシュは日本の1/4位の大きさでベンガル語を喋ります。
ほとんどがイスラム教徒です。
赴任先には航空券を自分で買って、給料もなしということでした。
生活する場所と食事はくれると云うことでした。
やる事はバングラデシュの最も貧しい人達に識字教育活動を通じて、搾取されていると云う意識化、グループとして助け合って内部で貯金をして内部で貸し合って、高利貸からの搾取を逃れて、最低賃金を守るとか、地方への選挙でも影響力を及ぼすとかで、その人たちの生活が社会的にも経済的にもよくなって行くようなお手伝いと言うことで始めたばっかりでした。
ダッカ(首都)1980年ごろはのんびりした田舎でした。
1982年まで駐在しました。
バングラデシュでは女性に何人産んで何人残っているかと言うふうに聞かないと判らなかった。
72年に50人ぐらいの日本の学生が行って、ノート鉛筆を配ると、バングラデシュを自立してくれるのではないかとやって見たが、現金に替えてしまう人もいて、やり方が間違っている、と云うことで、貧困は村からあるので村に住み込んだが村人に襲われてしまった。
成果が或る程度出てきて、不公平感があったり、部屋は違っても若い男女が同じ家に住んでるとか、宗教的なことなどもあり、こいつら面白くないと云うことになったんだと思います。
識字率向上、食生活の向上など良かれと思ってやっていたことが、向こうの人にとってはどう感じているかということにたいして感性がなかったんだと思います。
最初は物を配って失敗、ボランティアとなって村に入って追い出されて失敗して、バングラデシュ人のソーシャルワーカーの人達が読めない人達にたいして組織化して自分たちの生活をよくすると云うことをやっていったが、結果的にはグループをケアする人たちが必要でそれが150人位に成ったが、ストライキに入って暴力事件に発展してしまう。
150人位を纏める人も若くてマネージメントがうまくいかなかった。
噂がながされたりして首になるのではないかということでストライキに入ってしまった。
私は日本側の団交される側に成って解決にあたりました。
シャプラニールでは日本人が支援すると云うことでお互いに納得しました。
実施するのは現地の人たちが行い、パートナーシップに変えていった。
開発援助のやり方は現地のNGOが中心に成ってやって、外のNGOはそれをサポートすると云うようなやり方が世界的な傾向としてあります。
個人的にはもうやめようかと思うようなときもありましたが、現地の人も変わって行くしサポートして行きたいと思いました。
こちらは良かれと思ってやっても、それはこちらの勝手な思いであって、人間関係は相対的な関係なので援助する側はつい高い位置にあると感じるが、援助の仕方はプロフェショナルにやるべきだし、援助するから偉いんだと云う様な思いは間違いだと思います。
NGOの活動をしているときに、村井総長の息子さんと知り合いに成り、村井先生に逢う機会があり、村井先生から学校への誘いがあり、大学の教員になりました。
あのとき私は逮捕されて人生に挫折してしまうのではないかと思ったが、自分の正しいと思っていることをきちっとやり遂げることの方が私の場合は未来を開いてくれたと思っています。
バングラデシュで中古の毛布を購入しようと思って出かけようとしたら、現地のあるひとから出来るだけ穴のあいた毛布を購入する様に言われた。
尋ねると、綺麗な毛布だと街のゴロツキなどから奪われるから、穴の開いていたほうが奪われずに済み、穴のあいた毛布の方がその人たちを温めてくれると云うことだった。
他にも米のこと(まめを入れる)とか、色々援助の技術の問題を知り得ました。
バングラデシュの人格者とか素晴らしい知見を持っている人たちといっしょにNGOの世界で働けたことは凄く良かったと思います。
開発協力、国際協力をして行くときに、相手の文化、視点と言うものをもっと多様に大事にしてやらないといけない、「相手の地域に愛を持て」と言っています。(涙ぐみ)
自分の尊厳、命は守りたいと思う、それはどこでも同じで、それを国家と言う壁が区別して見えなくしてしまう。
同じ人間じゃないかと思います。
お互いに認め合う、グローバルな市民、グローバルな社会をつくっていかなければいけないと思っています。
64歳、学生時時代、インドで最下層と言われる差別の子供が学ぶ小学校でボランティアをしたことがきっかけで27歳の時にインドのとなりバングラデシュを中心に活動する日本のNGOシャプラニール、市民による海外協力の会の現地駐在員として赴任しました。
シャプラニールと言うのはバングラデシュの言葉ベンガル語で睡蓮の家という意味です。
水連はバングラデシュの国の花にもなっています。
大橋さんはライフワークとして40年近くバングラデシュを中心に南アジアの貧困問題と向き合ってきました。
著書、「自然体はNGO」で剣道、学生運動、インド、NGO、大学教員、この5つで自分の人生を振り返る事が出来ると記載。
1966年に中学に入り、中学、高校時代は剣道をやっていました。
高校では東京都の団体戦でベスト4に入り、個人戦でもベスト16に入りました。
安保騒動など身近に接していました。
TVも普及してきてベトナム戦争のシーンが放送されて、残酷なシーンが茶の間に放送され、段々こんなものでいいのかという疑問が段々湧いてきました。
大学は早稲田に1972年に入学しますが、ベトナム戦争に代表されるような不正義にもっと関わらなくてはいけないのではないかと言う気持ちが強くなりました。
ベ平連、個人が参加してゆく市民運動があり、72年にアメリカの戦車の修理をやるのに当時の神奈川県知事が道路交通法を使って戦車が県の道路を使って送り返したりするのはいかんと言うことで、それがきっかけでその反対運動が盛り上がって、参加してそれが1年生の時の思い出です。
べ平連系の戦争反対運動をしていました。
学生運動は内ゲバになって行って、そういうグループとは離れていました。
1年先輩の川口さんが自治会を牛耳っている党派と、反対派とのスパイだと云う嫌疑をかけられて、自治会室に連れ込まれて、夜の11時過ぎからリンチされて死亡すると云う事件が11月に起きました。
その遺体が東大病院前に投げ捨てられて、そのことをめぐって学生たちが怒り出して、自治会を牛耳っている党派にたいして、謝罪を求める運動、同時に学内を一つの党派によってコントロールさせることによって他の党派とか、もっと大きな影響力をもったグループが出てこないようにしているのではないかと言うふうに、大学当局がしようとしている
と考えて、村井総長と学生達と直接話し合うと云う交渉をしていました。
出てこないので最終的には授業をしている所に押し入って団体交渉する場所に連れて来て、そこで司会者を務めた、それを新聞に取りあげられたりしました。
自宅にも2度家宅捜索が入って、3週間新宿署の留置所に入りました。
後から考えるとその時の3週間は良かったなと思います。
雑居房に7,8人が入っているところで、暴力団とか窃盗をした人とかいろいろな人がいました。
取り調べにたいして一切言わなかった。
漫画が雑居房に投げ込まれるが、それを読んでいたら、周りからもっと大きな声で読めと言われて、看守が本当はいけないのだが読んでやれと言われ、大きな声で読み始めました。
その人たちは文字を読めないか、読めてもめんどくさい人たちだった。
だから犯罪に関わってしまう、こういう人達がいるんだと云うことに触れたことは良かったと思います。
「川口君糾弾闘争」をやったんですが、大学も変わらず自治会を牛耳る党派も変わらず、多くの人が退学したり、ほかの大学に行ったりしましたが、私は父親の勧めもあってインドに行ってみる事にしました。
ヒンディー語を1カ月集中講義をうけてその時の先生がガンジーの社会改革運動をやっていて、最下層の子供達を教育すると云う全寮制の学校を紹介してもらって、半年間をそこで過ごす経験をしました。(大学3年の時)
場所はブッダガヤ(釈迦が悟りをひらいたと言われる場所)から20,30kmはなれたところでした。
子供達と一緒に寝泊まりしていました。
子供達の家に行ってみると本当に何にもなくて、学校の方がちゃんと3食食べられるから良いんだと言っていました。
改めて知らない世界を思い知らされました。
大学へ4,5,6年と通って、インディー語を学んでいました。
インド政府から奨学金がもらえる事に成り、インドにいきました。
1980年にバングラデシュのシャプラニールに赴任しましたが、1971年にバングラデシュが独立してそれを支援しようとしてNGOシャプラニールが作られて、たまたま同級生が関わっていてそれに誘われました。
バングラデシュは日本の1/4位の大きさでベンガル語を喋ります。
ほとんどがイスラム教徒です。
赴任先には航空券を自分で買って、給料もなしということでした。
生活する場所と食事はくれると云うことでした。
やる事はバングラデシュの最も貧しい人達に識字教育活動を通じて、搾取されていると云う意識化、グループとして助け合って内部で貯金をして内部で貸し合って、高利貸からの搾取を逃れて、最低賃金を守るとか、地方への選挙でも影響力を及ぼすとかで、その人たちの生活が社会的にも経済的にもよくなって行くようなお手伝いと言うことで始めたばっかりでした。
ダッカ(首都)1980年ごろはのんびりした田舎でした。
1982年まで駐在しました。
バングラデシュでは女性に何人産んで何人残っているかと言うふうに聞かないと判らなかった。
72年に50人ぐらいの日本の学生が行って、ノート鉛筆を配ると、バングラデシュを自立してくれるのではないかとやって見たが、現金に替えてしまう人もいて、やり方が間違っている、と云うことで、貧困は村からあるので村に住み込んだが村人に襲われてしまった。
成果が或る程度出てきて、不公平感があったり、部屋は違っても若い男女が同じ家に住んでるとか、宗教的なことなどもあり、こいつら面白くないと云うことになったんだと思います。
識字率向上、食生活の向上など良かれと思ってやっていたことが、向こうの人にとってはどう感じているかということにたいして感性がなかったんだと思います。
最初は物を配って失敗、ボランティアとなって村に入って追い出されて失敗して、バングラデシュ人のソーシャルワーカーの人達が読めない人達にたいして組織化して自分たちの生活をよくすると云うことをやっていったが、結果的にはグループをケアする人たちが必要でそれが150人位に成ったが、ストライキに入って暴力事件に発展してしまう。
150人位を纏める人も若くてマネージメントがうまくいかなかった。
噂がながされたりして首になるのではないかということでストライキに入ってしまった。
私は日本側の団交される側に成って解決にあたりました。
シャプラニールでは日本人が支援すると云うことでお互いに納得しました。
実施するのは現地の人たちが行い、パートナーシップに変えていった。
開発援助のやり方は現地のNGOが中心に成ってやって、外のNGOはそれをサポートすると云うようなやり方が世界的な傾向としてあります。
個人的にはもうやめようかと思うようなときもありましたが、現地の人も変わって行くしサポートして行きたいと思いました。
こちらは良かれと思ってやっても、それはこちらの勝手な思いであって、人間関係は相対的な関係なので援助する側はつい高い位置にあると感じるが、援助の仕方はプロフェショナルにやるべきだし、援助するから偉いんだと云う様な思いは間違いだと思います。
NGOの活動をしているときに、村井総長の息子さんと知り合いに成り、村井先生に逢う機会があり、村井先生から学校への誘いがあり、大学の教員になりました。
あのとき私は逮捕されて人生に挫折してしまうのではないかと思ったが、自分の正しいと思っていることをきちっとやり遂げることの方が私の場合は未来を開いてくれたと思っています。
バングラデシュで中古の毛布を購入しようと思って出かけようとしたら、現地のあるひとから出来るだけ穴のあいた毛布を購入する様に言われた。
尋ねると、綺麗な毛布だと街のゴロツキなどから奪われるから、穴の開いていたほうが奪われずに済み、穴のあいた毛布の方がその人たちを温めてくれると云うことだった。
他にも米のこと(まめを入れる)とか、色々援助の技術の問題を知り得ました。
バングラデシュの人格者とか素晴らしい知見を持っている人たちといっしょにNGOの世界で働けたことは凄く良かったと思います。
開発協力、国際協力をして行くときに、相手の文化、視点と言うものをもっと多様に大事にしてやらないといけない、「相手の地域に愛を持て」と言っています。(涙ぐみ)
自分の尊厳、命は守りたいと思う、それはどこでも同じで、それを国家と言う壁が区別して見えなくしてしまう。
同じ人間じゃないかと思います。
お互いに認め合う、グローバルな市民、グローバルな社会をつくっていかなければいけないと思っています。
2018年2月26日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】向田邦子
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】向田邦子
*2011年2月22日の初投稿以来、本ブログもまる7年が経過しました。
22日に書こうと思っていてつい忘れてしまいました。(う~ん 歳かな?)
相変わらずKさんには誤字、脱字等チェックして貰って感謝します。
今後も体調に気を付けて続けていこうと思いますので、宜しくお願いします。
「じいちゃんは悲しかったのだ。 生き残った人間は生きなくてはならない。
生きるためには食べなくてはならない。 そのことがあさましく悔しかったのだ。」
(昭和52年 ドラマの「冬の運動会」のセリフ 向田邦子)
昭和4年(1929年)生まれ。 (アンネ・フランク、グレース・ケリー、オードリー・ヘップバーンも同じ年生まれ 生きていれば88歳)
TVドラマのシナリオ、エッセー、小説など多才。
当初「時間ですよ」とかコメディータッチのホームドラマを書いていたが、大きな病気をして手術をして、その時の輸血が原因で肝炎に成って、そして右手が動かなくなってしまう。
「厄介な病気を背負い込んだ人間にとって一番欲しいのは普通と云うことである。」
(エッセー「父の詫び状」のあとがき)
普通は普通だけに失うと、本当にきつい。
「誰にあてるともつかない、暢気な遺言状を書いておこうと思った。」
その時はもう右手が使えないので左手でゆっくり書いたそうです。
この連載が本に成ったのが最初のエッセー集「父の詫び状」。
TVドラマにも復帰して、もっとシリアスなものを書きたいと思ったようです。
それが「冬の運動会」と言うドラマです。
お爺さんが愛する人を失って、凄く悲しんでいる。
何も食べようともせず、泣くことさえ出来ずにいて、周りの人が心配して食べなければ駄目だと無理やり勧めて、今ばててしまうと葬式にでれないと言って、無理やりのり巻きを食べさせるが、のり巻きを食べ始めたときにおじいちゃんの眼から初めて目からぽろぽろ涙が出てくる。
なんで泣きだしたんだろうと思うと、その時に孫が、内心の言葉として「じいちゃんは悲しかったのだ。 生き残った人間は生きなくてはならない。
生きるためには食べなくてはならない。 そのことがあさましく悔しかったのだ。」
とつぶやくわけです。
食べることと言うのをあさましく悲しい、ととらえて、それが悔しい。
一方で生きていくという意欲だし、生きる力だし、いい面もあるが、一方で生き残って行くと云う悲しさでもある。
生きてゆくと云うことは、大切な人が死んでもお腹がすくし、食べ物がおいしいと云うことでもあり、なかなか気付きにくいことでもある。
食べられない悲しさと言うものもある訳で、それを書いた向田さんは凄いと思います。
病気後の心境の変化を「あのころ(元気な頃)持っていた疲れを知らない体力やむこうみずは無くした。 その代わりあの頃判らなかった、人の気持ちが少しは判るようになりました。」と向田さんは言っています。
その後「阿修羅のごとく」、「あ、うん」、シリアスなドラマとか小説を書いてゆく。
「自分でも納得してきっぱり別れたつもりでいるでしょ。 思いきって遠くの土地へ行って新しい仕事を始めて昔の暮らしをすっかり忘れたつもりでいるでしょ。 そうはいかないのよ。 体の中に残っているのよ。」
(昭和53年のTVドラマ 「家族熱」からのセリフ)
離婚してひとりでお店をやっている中年の女性のセリフ
別れた妻が久し振りに元の夫の家族の近所に戻って来る。
復縁したい気持ちがどんどん強くなって、ついには精神を病んでしまうと云うドラマ。
不倫関係を清算しよう言うカップルがやって来て、話し方のコツを聞く訳ですが、教える資格はないと言って、「自分でも納得してきっぱり別れたつもりでいるでしょ。 思いきって遠くの土地へ行って新しい仕事を始めて昔の暮らしをすっかり忘れたつもりでいるでしょ。 そうはいかないのよ。 体の中に残っているのよ。」という訳です。
心から家族を求めてしまう、それはまさに熱みたいなものでまさに家族熱と言うことです。
家族は温かさ、温もり、かけがえのないものと捉えられるが、うっとうしい、そこから逃れたいと思っている人も結構いる、家族とはそういう存在でもある。
家族を失った時の執着は元気なころは気が付かないが、段々歳を取って来て孤独になった時にどうかは結構厳しいものがあると思う。
家族は特別な人、もし家族がいないとしたら、孤独はとてつもないものだと思う。
友達とは仲たがいした時にそれっ切り疎遠になることもあるが、家族はきってはきれないところが有って、倒れたって知るものかと思っても、そこには憎しみ、いざこざとか特別なものがあり、それがまったくない孤独と言うものは凄いことだと思う。
入院していると、新しい人との出会いはない、今までの知り合いが来てくれるが、それも縁遠くなってゆくと、孤独におちいるだろうなあという予感があったが、凄く怖いことでした。
孤独に耐えている人は一杯いると思うが、そういう人は家族をうっとうしいと思っている人は贅沢だと思っているかもしれない。
家族の為に本当に酷い目に遭っている人もいるかもしれないし、いなかったらどんなに幸せだろうと云う人もいる訳で、いずれにしろ何らかな強い感情がそこにある訳で、それがまったくない寂しさはそういう人しか経験しない恐ろしいことかもしれない。
「おふくろが握っていたのは果物ナイフだった。 うちで一番切れないリンゴの皮もむけない果物ナイフだった。 さびしくて辛くてとても生きていけないと思って、しかし本当に死ぬには未練がありすぎて、本当は皆に止めてもらいたくて、死んだふりをして、死んでしまいたい気持ちを誤魔化して、きっと生きて行く。」
自殺未遂で本当に死ぬ気がない、そうすると非難される。
しかしほとんどの人は生きたいと死にたいとの間のゾーンにいるのではないだろうか。
どっちかにきっぱりしている人はむしろ少ないと思う。
云うことでちょっと違ってくると思う、「死にたい」と云うことで条件が良くなる訳ではないが、言わずに押さえておくよりは、多少の効果はあるのではないか。
*アン・マレー 「辛い別れ」(向田さんのドラマ「幸福」の主題歌)
「あれ、何て言ったかな。将棋の駒をぐしゃぐしゃに積んでおいて引っ張って取るやつ。
一枚駒をとると、ずずずーっと崩れるんだな。
おかしな形はおかしな形なりに均衡が有って、それが皆にとって幸せな形ということもあるんじゃないかなあ。」
(昭和55年~56年TVドラマ「あ、うん」の中のセリフ)
二人の男の友情を周辺の家族などを交えて描いている。
二人の友情、家族とかが絶妙なバランスの上に成り立っている。
本来ばらばらになってしまうような、嫉妬とか劣等感がむしろ皆を結びつけている。
みんな家族の理想像に向かっているような感じがするが、そう思い過ぎるとかえって家族のバランスが崩れることもあるんじゃないかと思います。
おかしなバランスでもいいんじゃないかなあと言う発想を持つのは結構難しいと思うが、大事だと思います。
ふさわしい人生を生きると云うこと自体が難しい、どこかでふさわしくない人生を生きていると思います。
理想とは違うかもしれないけれど、だから気づくこともある。
おかしなバランスのまま何とかやり過ごすのを駄目だと思わない。
「人間なんてものは、いろんな気持ち隠して生きているよ。
腹立ち割ってはらわたさらけ出されたら、赤面して顔をあげて表歩けなくなるようなものを抱えて、暮らしているよ。
自分で自分の気持ちに蓋をして知らん顔してなし崩しに誤魔化して生きているよ。」
(昭和55年~56年TVドラマ「あ、うん」の中のセリフ)
気持ちが通じないとか、孤独感があるとか良く言われているが、本当に皆気持ちを伝えようとしているのかなあと、本当の気持ちは伝わらないように努力しているのではないかと思うんです。
そのために会話しているのではないかと思います。
本音を隠しながら生きている。(本音を伝えないように語る)
向田さんの「言葉が怖い」という講演会で
「言葉は恐ろしい。 たとえようもなく気持ちを伝えることのできるのも言葉だが、相手の急所をぐさりと刺して、生涯許せないと思われる致命傷を負わせるのも又言葉である。」と言っています。
台湾の飛行機事故で亡くなりますが、もう40年位になります。
自分では見られない自分の後姿を見せられるような、そんな感じのする、それが向田さんのドラマかもしれない。
*2011年2月22日の初投稿以来、本ブログもまる7年が経過しました。
22日に書こうと思っていてつい忘れてしまいました。(う~ん 歳かな?)
相変わらずKさんには誤字、脱字等チェックして貰って感謝します。
今後も体調に気を付けて続けていこうと思いますので、宜しくお願いします。
「じいちゃんは悲しかったのだ。 生き残った人間は生きなくてはならない。
生きるためには食べなくてはならない。 そのことがあさましく悔しかったのだ。」
(昭和52年 ドラマの「冬の運動会」のセリフ 向田邦子)
昭和4年(1929年)生まれ。 (アンネ・フランク、グレース・ケリー、オードリー・ヘップバーンも同じ年生まれ 生きていれば88歳)
TVドラマのシナリオ、エッセー、小説など多才。
当初「時間ですよ」とかコメディータッチのホームドラマを書いていたが、大きな病気をして手術をして、その時の輸血が原因で肝炎に成って、そして右手が動かなくなってしまう。
「厄介な病気を背負い込んだ人間にとって一番欲しいのは普通と云うことである。」
(エッセー「父の詫び状」のあとがき)
普通は普通だけに失うと、本当にきつい。
「誰にあてるともつかない、暢気な遺言状を書いておこうと思った。」
その時はもう右手が使えないので左手でゆっくり書いたそうです。
この連載が本に成ったのが最初のエッセー集「父の詫び状」。
TVドラマにも復帰して、もっとシリアスなものを書きたいと思ったようです。
それが「冬の運動会」と言うドラマです。
お爺さんが愛する人を失って、凄く悲しんでいる。
何も食べようともせず、泣くことさえ出来ずにいて、周りの人が心配して食べなければ駄目だと無理やり勧めて、今ばててしまうと葬式にでれないと言って、無理やりのり巻きを食べさせるが、のり巻きを食べ始めたときにおじいちゃんの眼から初めて目からぽろぽろ涙が出てくる。
なんで泣きだしたんだろうと思うと、その時に孫が、内心の言葉として「じいちゃんは悲しかったのだ。 生き残った人間は生きなくてはならない。
生きるためには食べなくてはならない。 そのことがあさましく悔しかったのだ。」
とつぶやくわけです。
食べることと言うのをあさましく悲しい、ととらえて、それが悔しい。
一方で生きていくという意欲だし、生きる力だし、いい面もあるが、一方で生き残って行くと云う悲しさでもある。
生きてゆくと云うことは、大切な人が死んでもお腹がすくし、食べ物がおいしいと云うことでもあり、なかなか気付きにくいことでもある。
食べられない悲しさと言うものもある訳で、それを書いた向田さんは凄いと思います。
病気後の心境の変化を「あのころ(元気な頃)持っていた疲れを知らない体力やむこうみずは無くした。 その代わりあの頃判らなかった、人の気持ちが少しは判るようになりました。」と向田さんは言っています。
その後「阿修羅のごとく」、「あ、うん」、シリアスなドラマとか小説を書いてゆく。
「自分でも納得してきっぱり別れたつもりでいるでしょ。 思いきって遠くの土地へ行って新しい仕事を始めて昔の暮らしをすっかり忘れたつもりでいるでしょ。 そうはいかないのよ。 体の中に残っているのよ。」
(昭和53年のTVドラマ 「家族熱」からのセリフ)
離婚してひとりでお店をやっている中年の女性のセリフ
別れた妻が久し振りに元の夫の家族の近所に戻って来る。
復縁したい気持ちがどんどん強くなって、ついには精神を病んでしまうと云うドラマ。
不倫関係を清算しよう言うカップルがやって来て、話し方のコツを聞く訳ですが、教える資格はないと言って、「自分でも納得してきっぱり別れたつもりでいるでしょ。 思いきって遠くの土地へ行って新しい仕事を始めて昔の暮らしをすっかり忘れたつもりでいるでしょ。 そうはいかないのよ。 体の中に残っているのよ。」という訳です。
心から家族を求めてしまう、それはまさに熱みたいなものでまさに家族熱と言うことです。
家族は温かさ、温もり、かけがえのないものと捉えられるが、うっとうしい、そこから逃れたいと思っている人も結構いる、家族とはそういう存在でもある。
家族を失った時の執着は元気なころは気が付かないが、段々歳を取って来て孤独になった時にどうかは結構厳しいものがあると思う。
家族は特別な人、もし家族がいないとしたら、孤独はとてつもないものだと思う。
友達とは仲たがいした時にそれっ切り疎遠になることもあるが、家族はきってはきれないところが有って、倒れたって知るものかと思っても、そこには憎しみ、いざこざとか特別なものがあり、それがまったくない孤独と言うものは凄いことだと思う。
入院していると、新しい人との出会いはない、今までの知り合いが来てくれるが、それも縁遠くなってゆくと、孤独におちいるだろうなあという予感があったが、凄く怖いことでした。
孤独に耐えている人は一杯いると思うが、そういう人は家族をうっとうしいと思っている人は贅沢だと思っているかもしれない。
家族の為に本当に酷い目に遭っている人もいるかもしれないし、いなかったらどんなに幸せだろうと云う人もいる訳で、いずれにしろ何らかな強い感情がそこにある訳で、それがまったくない寂しさはそういう人しか経験しない恐ろしいことかもしれない。
「おふくろが握っていたのは果物ナイフだった。 うちで一番切れないリンゴの皮もむけない果物ナイフだった。 さびしくて辛くてとても生きていけないと思って、しかし本当に死ぬには未練がありすぎて、本当は皆に止めてもらいたくて、死んだふりをして、死んでしまいたい気持ちを誤魔化して、きっと生きて行く。」
自殺未遂で本当に死ぬ気がない、そうすると非難される。
しかしほとんどの人は生きたいと死にたいとの間のゾーンにいるのではないだろうか。
どっちかにきっぱりしている人はむしろ少ないと思う。
云うことでちょっと違ってくると思う、「死にたい」と云うことで条件が良くなる訳ではないが、言わずに押さえておくよりは、多少の効果はあるのではないか。
*アン・マレー 「辛い別れ」(向田さんのドラマ「幸福」の主題歌)
「あれ、何て言ったかな。将棋の駒をぐしゃぐしゃに積んでおいて引っ張って取るやつ。
一枚駒をとると、ずずずーっと崩れるんだな。
おかしな形はおかしな形なりに均衡が有って、それが皆にとって幸せな形ということもあるんじゃないかなあ。」
(昭和55年~56年TVドラマ「あ、うん」の中のセリフ)
二人の男の友情を周辺の家族などを交えて描いている。
二人の友情、家族とかが絶妙なバランスの上に成り立っている。
本来ばらばらになってしまうような、嫉妬とか劣等感がむしろ皆を結びつけている。
みんな家族の理想像に向かっているような感じがするが、そう思い過ぎるとかえって家族のバランスが崩れることもあるんじゃないかと思います。
おかしなバランスでもいいんじゃないかなあと言う発想を持つのは結構難しいと思うが、大事だと思います。
ふさわしい人生を生きると云うこと自体が難しい、どこかでふさわしくない人生を生きていると思います。
理想とは違うかもしれないけれど、だから気づくこともある。
おかしなバランスのまま何とかやり過ごすのを駄目だと思わない。
「人間なんてものは、いろんな気持ち隠して生きているよ。
腹立ち割ってはらわたさらけ出されたら、赤面して顔をあげて表歩けなくなるようなものを抱えて、暮らしているよ。
自分で自分の気持ちに蓋をして知らん顔してなし崩しに誤魔化して生きているよ。」
(昭和55年~56年TVドラマ「あ、うん」の中のセリフ)
気持ちが通じないとか、孤独感があるとか良く言われているが、本当に皆気持ちを伝えようとしているのかなあと、本当の気持ちは伝わらないように努力しているのではないかと思うんです。
そのために会話しているのではないかと思います。
本音を隠しながら生きている。(本音を伝えないように語る)
向田さんの「言葉が怖い」という講演会で
「言葉は恐ろしい。 たとえようもなく気持ちを伝えることのできるのも言葉だが、相手の急所をぐさりと刺して、生涯許せないと思われる致命傷を負わせるのも又言葉である。」と言っています。
台湾の飛行機事故で亡くなりますが、もう40年位になります。
自分では見られない自分の後姿を見せられるような、そんな感じのする、それが向田さんのドラマかもしれない。
2018年2月25日日曜日
竹宇治聡子(旧姓 田中 競泳女子銅メダリスト)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
竹宇治聡子(旧姓 田中 ローマオリンピック競泳女子銅メダリスト)
・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
1960年 ローマオリンピック競泳女子銅メダリスト。
福岡県の筑紫女学園高等学校3年の時、ローマオリンピック女子100m背泳ぎで銅メダルを獲得、ベルリン大会の前畑選手以来、24年ぶり二人目の女子競泳のメダリストとなりました。
八幡製鉄時代、22歳の時の東京オリンピックでは同じ種目4位でした。
3人のお子さんを育て上げた後、70代半ばの現在まで週4回の水泳教室や、長女の病気をきっかけに始めた喘息の子供の水泳指導は40年も続いています。
孫が8人います。
孫の一番上が20歳になります。
週4回、大人の教室2回、喘息児の教室が2回やっています。
筑紫女学園高等学校2年の時の7月、神宮プールでの日本選手権で女子200m背泳ぎの世界新記録を出しました。
1960年 ローマオリンピック競泳女子は振るわなくて総崩れでした。
日本新記録で予選を通過、9月3日 女子背泳ぎ100mの決勝が行われた。
3コースは田中、4コースはアメリカのバーク(予選タイムでは1番)、2コースはイギリスのスチュワード 、50mのターンでは田中4位、アメリカのバーク1位で到着、2位イギリスのスチュワード 、その後3人が並んでゴール、着順がなかなかコールされなかった。
駄目だと思って、さーっと着替えようと更衣室に入りました。
コーチに呼ばれて出てきたら、3位だとつげられました。
3人が1分11秒4 同タイム タッチの差で3位となる。
当時は目視だった。
ベルリン大会の前畑選手以来、24年ぶり二人目の女子競泳のメダリストとなりました。
1分11秒4は日本を出る前(10日前)のタイムを1秒縮めた。
昭和39年の東京オリンピック、八幡製鉄に入社して22歳になっていました。
期待が集まる。
予選6位で決勝を決めたが、木原選手はいつもより1秒遅れるタイムで予選落ちをしてしまう。
アメリカ デュンケル(世界記録保持者)、ファーガソン(予選2位のタイム)、フランスのキャロン(予選1位のタイム)らの前評判が良かった。
4コースがキャロン、3コースがデュンケル、5コースがファーガソン、7コースが田中。
50mターンがデュンケルがやや早く、他はほとんど同時、その後ファーガソンがトップに出る。
優勝はファーガソン、2位キャロン 3位デュンケル 4位田中(1分8秒6の日本新記録だったが)
3人は16,7歳でした。
75mぐらいから疲れの物質が一杯溜ってると云う感じでした。
「今後も泳ぎますが、レースに出るのは止めます」と云うコメントを残しました。
著書に「あれほどのことをしたんだから、どんな苦労にも耐えられると、その後の人生の自信になった」と書いています。
練習をするときに切磋琢磨しながら練習しないと、結果がなかなか出にくい。
最初八幡製鉄所では強化選手としては女子は私一人だったので、男性の平泳ぎと一緒に練習しました。(ほぼ同タイムの状況だった)
仕事を終わって5時から泳いだので練習量は多くはなく効率的な練習を考えました。
冬は別府の温泉プールに行くこともできますが、そこにはいかずに陸トレで、ほとんど泳ぐことはありませんでした。
正月休みなどでは、温泉プールなどで合宿はしましたが。
君原選手も八幡製鉄所で、伴走車に乗せてもらって、苦しんで走る姿なども見せてもらいました。
昭和17年長崎県佐世保市に生まれ、熊本県嘉島町に移りました。
灌漑用水用の手作りの流れているプールがあり、そこで泳いでいました。
嘉島町の中学で水泳部に入り、1年の夏、熊本県大会が有り、50m、100mの背泳ぎでいきなり優勝しました。
2年で50m、100mで中学日本新記録。
昭和33年に筑紫女学園高等学校に入学。
高校1年の5月の時に東京でのアジア大会 100m背泳ぎで1分15秒3の日本新記録を出して2位に10m近く離して優勝。
足首が柔らかいので、水が上手に扱えると云うことだと思います。
負けたくないと云うことが根底にあると思います。
東京オリンピックの時の精神状態は普通ではなかった、押しつぶされそうだった。
17歳の時に出した2分37秒1の世界新記録、18歳 ローマオリンピック代表選考会で出した、2分33秒3の世界新記録は200m。
得意は200mだが、ローマ、東京大会は200mは無かった。
次のメキシコ大会から正式種目となる。
周りからの要請もあり昭和41年のアジア大会に出場、100m背泳ぎで3連覇して引退、昭和42年元バレーボールの選手、監督だった竹宇治清高氏と結婚、会社も退職する。
3人の姉妹をもうけるが、長女が喘息を患って、これをきっかけに水泳の指導を始めることになります。
医師から喘息の子は泳いだ方が良くなると云う話を聞かされて、福岡に夫が転勤になり、
福岡市内のプールを借りられるようになり、重症の喘息の子供達を集めてスタートしました。
病院の先生、看護師も発作が起きた時の為に水着になってもらって、治療しながら練習もできるようになりました。
全国に広がって病院内にプールを作ってもらって、治療を続けられるようにもなりました。
プールには埃もなく、泳いでいる間にどうしても水を飲む(喉の洗浄)、水は温かいので、泳ぐと云うことは発作が起きにくい場所で起きにくい運動をすることになる。
昭和52年に初めて40数年に成ります。
江戸川区で区長さんと知り合いに成り、こちらでも即刻やりなさいと云うことになりました。
週4回、大人の教室2回、喘息児の教室が2回やっています。
続けてやると云うことが大事なことです。
60年以上水泳に関わってきました。
75歳代のマスターズ水泳大会で世界記録を出すことができました。
オリンピックのころは泳ぐのが怖いと云う経験がありましたが、今は泳ぐのが楽しくてしょうがないです。
・【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
1960年 ローマオリンピック競泳女子銅メダリスト。
福岡県の筑紫女学園高等学校3年の時、ローマオリンピック女子100m背泳ぎで銅メダルを獲得、ベルリン大会の前畑選手以来、24年ぶり二人目の女子競泳のメダリストとなりました。
八幡製鉄時代、22歳の時の東京オリンピックでは同じ種目4位でした。
3人のお子さんを育て上げた後、70代半ばの現在まで週4回の水泳教室や、長女の病気をきっかけに始めた喘息の子供の水泳指導は40年も続いています。
孫が8人います。
孫の一番上が20歳になります。
週4回、大人の教室2回、喘息児の教室が2回やっています。
筑紫女学園高等学校2年の時の7月、神宮プールでの日本選手権で女子200m背泳ぎの世界新記録を出しました。
1960年 ローマオリンピック競泳女子は振るわなくて総崩れでした。
日本新記録で予選を通過、9月3日 女子背泳ぎ100mの決勝が行われた。
3コースは田中、4コースはアメリカのバーク(予選タイムでは1番)、2コースはイギリスのスチュワード 、50mのターンでは田中4位、アメリカのバーク1位で到着、2位イギリスのスチュワード 、その後3人が並んでゴール、着順がなかなかコールされなかった。
駄目だと思って、さーっと着替えようと更衣室に入りました。
コーチに呼ばれて出てきたら、3位だとつげられました。
3人が1分11秒4 同タイム タッチの差で3位となる。
当時は目視だった。
ベルリン大会の前畑選手以来、24年ぶり二人目の女子競泳のメダリストとなりました。
1分11秒4は日本を出る前(10日前)のタイムを1秒縮めた。
昭和39年の東京オリンピック、八幡製鉄に入社して22歳になっていました。
期待が集まる。
予選6位で決勝を決めたが、木原選手はいつもより1秒遅れるタイムで予選落ちをしてしまう。
アメリカ デュンケル(世界記録保持者)、ファーガソン(予選2位のタイム)、フランスのキャロン(予選1位のタイム)らの前評判が良かった。
4コースがキャロン、3コースがデュンケル、5コースがファーガソン、7コースが田中。
50mターンがデュンケルがやや早く、他はほとんど同時、その後ファーガソンがトップに出る。
優勝はファーガソン、2位キャロン 3位デュンケル 4位田中(1分8秒6の日本新記録だったが)
3人は16,7歳でした。
75mぐらいから疲れの物質が一杯溜ってると云う感じでした。
「今後も泳ぎますが、レースに出るのは止めます」と云うコメントを残しました。
著書に「あれほどのことをしたんだから、どんな苦労にも耐えられると、その後の人生の自信になった」と書いています。
練習をするときに切磋琢磨しながら練習しないと、結果がなかなか出にくい。
最初八幡製鉄所では強化選手としては女子は私一人だったので、男性の平泳ぎと一緒に練習しました。(ほぼ同タイムの状況だった)
仕事を終わって5時から泳いだので練習量は多くはなく効率的な練習を考えました。
冬は別府の温泉プールに行くこともできますが、そこにはいかずに陸トレで、ほとんど泳ぐことはありませんでした。
正月休みなどでは、温泉プールなどで合宿はしましたが。
君原選手も八幡製鉄所で、伴走車に乗せてもらって、苦しんで走る姿なども見せてもらいました。
昭和17年長崎県佐世保市に生まれ、熊本県嘉島町に移りました。
灌漑用水用の手作りの流れているプールがあり、そこで泳いでいました。
嘉島町の中学で水泳部に入り、1年の夏、熊本県大会が有り、50m、100mの背泳ぎでいきなり優勝しました。
2年で50m、100mで中学日本新記録。
昭和33年に筑紫女学園高等学校に入学。
高校1年の5月の時に東京でのアジア大会 100m背泳ぎで1分15秒3の日本新記録を出して2位に10m近く離して優勝。
足首が柔らかいので、水が上手に扱えると云うことだと思います。
負けたくないと云うことが根底にあると思います。
東京オリンピックの時の精神状態は普通ではなかった、押しつぶされそうだった。
17歳の時に出した2分37秒1の世界新記録、18歳 ローマオリンピック代表選考会で出した、2分33秒3の世界新記録は200m。
得意は200mだが、ローマ、東京大会は200mは無かった。
次のメキシコ大会から正式種目となる。
周りからの要請もあり昭和41年のアジア大会に出場、100m背泳ぎで3連覇して引退、昭和42年元バレーボールの選手、監督だった竹宇治清高氏と結婚、会社も退職する。
3人の姉妹をもうけるが、長女が喘息を患って、これをきっかけに水泳の指導を始めることになります。
医師から喘息の子は泳いだ方が良くなると云う話を聞かされて、福岡に夫が転勤になり、
福岡市内のプールを借りられるようになり、重症の喘息の子供達を集めてスタートしました。
病院の先生、看護師も発作が起きた時の為に水着になってもらって、治療しながら練習もできるようになりました。
全国に広がって病院内にプールを作ってもらって、治療を続けられるようにもなりました。
プールには埃もなく、泳いでいる間にどうしても水を飲む(喉の洗浄)、水は温かいので、泳ぐと云うことは発作が起きにくい場所で起きにくい運動をすることになる。
昭和52年に初めて40数年に成ります。
江戸川区で区長さんと知り合いに成り、こちらでも即刻やりなさいと云うことになりました。
週4回、大人の教室2回、喘息児の教室が2回やっています。
続けてやると云うことが大事なことです。
60年以上水泳に関わってきました。
75歳代のマスターズ水泳大会で世界記録を出すことができました。
オリンピックのころは泳ぐのが怖いと云う経験がありましたが、今は泳ぐのが楽しくてしょうがないです。
2018年2月24日土曜日
帚木蓬生(精神科医・作家) ・つづりたいこと、続けたいこと
帚木蓬生(精神科医・作家) ・つづりたいこと、続けたいこと
1947年昭和22年福岡県小郡市生まれ、東京大学文学部仏文科卒業後、東京の民放のディレクターとして勤務しましたが、退職して九州大学医学部で学び直しました。
現在は精神科医として福岡県中間市でメンタルクリニックを開業しています。
医師の傍ら作家としても活動し、1993年の「三たびの海峡」で吉川英治文学新人賞、1995年は「閉鎖病棟」で山本周五郎賞、2013年「日御子」で歴史時代小説作家クラブ賞作品賞など数々の受賞をしています。
続けたいこと、3時に起きる事。
豆腐屋さんは2時頃起きるそうで、それよりは遅いです。
小説を書くのは4時~6時まで2時間と決めて何十年に成ります。
3時~4時までは朝飯作りです。
大根おろし、ニンジンおろし、チリメンジャコで一品、生玉ねぎのスライス、トマトをきって二品目、リンゴを刻んでバナナ(妻のほう)も入れて、ブルーベリー、ヨーグルトで、パンを用意します。
30年前にもらったぬか床をかき混ぜます。(50年以上経っているぬか床)
こういったことを毎日やって、4時から取り掛かる助走になります。
原稿用紙を使います。(今は原稿用紙を使う人は1%位だそうです)
九大の精神科医の中尾教授が発案した原稿用紙を使います。
2時間で4枚ぐらい書きます。
5枚目の中間ぐらいで止めて、上の余白に次に取り掛かりやすいようにちょっと書き込みます。
5時から筋肉トレーニングをちょっとします。
鉄アレイを持って筋肉を鍛えます。
GDM(Gross Domestic muscle)が重要視されている
日本の医療費は約42兆円、75歳以上は1年間の医療費は90万円。
65歳未満の方の医療費の5倍以上を75歳以上の方が使っている。
75歳以上の方達が100g筋肉を失うと、男性で年間25万円の医療費が増える、女性は32万円。
平均寿命は男性が80.98歳、女性が87.14歳 健康寿命は男性が71歳ぐらい、約10年の差がある。
この差が大変大切です。(医療費、介護費用などがかかる)
100歳以上は6万7800人、その88%が女性です。
今65歳以上の高齢者は1/4で、毎年100万人増えて行く。
2025年問題、団塊の世代が全部75歳以上になる。
介護費用が2倍、介護職員が37万人不足と言われる。
健康寿命を延ばしていかなければならないので、だから筋肉を鍛えないといけない。
高齢者が10時間床に着くと云うことは不健康の元ですね。(睡眠習慣が悪い人が多い)
「良い習慣は才能を越える。」(「日御子」の中でも書きましたが)
一月に約100枚書きます。
酒はあまり一杯飲まない方がいい。(アルツハイマー症)
「1万時間の法則」、突出した方を調べらた1週間に21時間同じことを10年間続ける。
1日3時間同じことを続け、10年間続けると1万時間に成る。
そうするとその道の傑出した人に成る。
私は2時間ですが、30年以上やっています。
「人生で大切なのは、は(歯)はは(母)ははは(笑い)」、色紙にはそういうふうに書いています。
歯は5回磨きます。
「まごはやさしいよ」 豆、胡麻、わかめ、野菜、魚、しいたけ、いも、ヨーグルト
これが大事。
植物性乳酸菌→糠床で漬けたたものは植物性乳酸菌が一杯あります。
ストレッチをして、散歩、食事をします。 (朝風呂に入ります)
ストレッチは背骨、腰骨が大事。
午前中診療して、その後ながくないが昼寝をします。(これは非常に大事です)
夜も風呂に入リます。
7時半には眠くなります。
朝の光を浴びて食事を摂ることで体内時計がそろいます。(体内時計は24時間よりちょっと長いので)
つづりたいこと
人が書かないようなところを書きます。
「正馬伝」 森田正馬の伝記を1年かかって書こうと思っています。
サリン を書こうと思います。
その前に「悲素」(和歌山のカレー事件)を書いたので。
その次は北朝鮮問題、次は第一次世界大戦。
第一次世界大戦でヨーロッパではどんなに命を奪われたか。
次は平安時代のものを書こうかと思っています。
1000枚位になるとエンディングがどうなるか判らないで書いてゆくので、耐えて書いていきます。
夜道を懐中電灯で歩いていくようなものです。
ネガティブ・ケイパビリティ( Negative capability)が必要とされる。
書くことと患者さんを診ることが同じネガティブ・ケイパビリティの発揮の場なんですね。
根が同じなのでふたつが出来るのではないかと思います。
1947年昭和22年福岡県小郡市生まれ、東京大学文学部仏文科卒業後、東京の民放のディレクターとして勤務しましたが、退職して九州大学医学部で学び直しました。
現在は精神科医として福岡県中間市でメンタルクリニックを開業しています。
医師の傍ら作家としても活動し、1993年の「三たびの海峡」で吉川英治文学新人賞、1995年は「閉鎖病棟」で山本周五郎賞、2013年「日御子」で歴史時代小説作家クラブ賞作品賞など数々の受賞をしています。
続けたいこと、3時に起きる事。
豆腐屋さんは2時頃起きるそうで、それよりは遅いです。
小説を書くのは4時~6時まで2時間と決めて何十年に成ります。
3時~4時までは朝飯作りです。
大根おろし、ニンジンおろし、チリメンジャコで一品、生玉ねぎのスライス、トマトをきって二品目、リンゴを刻んでバナナ(妻のほう)も入れて、ブルーベリー、ヨーグルトで、パンを用意します。
30年前にもらったぬか床をかき混ぜます。(50年以上経っているぬか床)
こういったことを毎日やって、4時から取り掛かる助走になります。
原稿用紙を使います。(今は原稿用紙を使う人は1%位だそうです)
九大の精神科医の中尾教授が発案した原稿用紙を使います。
2時間で4枚ぐらい書きます。
5枚目の中間ぐらいで止めて、上の余白に次に取り掛かりやすいようにちょっと書き込みます。
5時から筋肉トレーニングをちょっとします。
鉄アレイを持って筋肉を鍛えます。
GDM(Gross Domestic muscle)が重要視されている
日本の医療費は約42兆円、75歳以上は1年間の医療費は90万円。
65歳未満の方の医療費の5倍以上を75歳以上の方が使っている。
75歳以上の方達が100g筋肉を失うと、男性で年間25万円の医療費が増える、女性は32万円。
平均寿命は男性が80.98歳、女性が87.14歳 健康寿命は男性が71歳ぐらい、約10年の差がある。
この差が大変大切です。(医療費、介護費用などがかかる)
100歳以上は6万7800人、その88%が女性です。
今65歳以上の高齢者は1/4で、毎年100万人増えて行く。
2025年問題、団塊の世代が全部75歳以上になる。
介護費用が2倍、介護職員が37万人不足と言われる。
健康寿命を延ばしていかなければならないので、だから筋肉を鍛えないといけない。
高齢者が10時間床に着くと云うことは不健康の元ですね。(睡眠習慣が悪い人が多い)
「良い習慣は才能を越える。」(「日御子」の中でも書きましたが)
一月に約100枚書きます。
酒はあまり一杯飲まない方がいい。(アルツハイマー症)
「1万時間の法則」、突出した方を調べらた1週間に21時間同じことを10年間続ける。
1日3時間同じことを続け、10年間続けると1万時間に成る。
そうするとその道の傑出した人に成る。
私は2時間ですが、30年以上やっています。
「人生で大切なのは、は(歯)はは(母)ははは(笑い)」、色紙にはそういうふうに書いています。
歯は5回磨きます。
「まごはやさしいよ」 豆、胡麻、わかめ、野菜、魚、しいたけ、いも、ヨーグルト
これが大事。
植物性乳酸菌→糠床で漬けたたものは植物性乳酸菌が一杯あります。
ストレッチをして、散歩、食事をします。 (朝風呂に入ります)
ストレッチは背骨、腰骨が大事。
午前中診療して、その後ながくないが昼寝をします。(これは非常に大事です)
夜も風呂に入リます。
7時半には眠くなります。
朝の光を浴びて食事を摂ることで体内時計がそろいます。(体内時計は24時間よりちょっと長いので)
つづりたいこと
人が書かないようなところを書きます。
「正馬伝」 森田正馬の伝記を1年かかって書こうと思っています。
サリン を書こうと思います。
その前に「悲素」(和歌山のカレー事件)を書いたので。
その次は北朝鮮問題、次は第一次世界大戦。
第一次世界大戦でヨーロッパではどんなに命を奪われたか。
次は平安時代のものを書こうかと思っています。
1000枚位になるとエンディングがどうなるか判らないで書いてゆくので、耐えて書いていきます。
夜道を懐中電灯で歩いていくようなものです。
ネガティブ・ケイパビリティ( Negative capability)が必要とされる。
書くことと患者さんを診ることが同じネガティブ・ケイパビリティの発揮の場なんですね。
根が同じなのでふたつが出来るのではないかと思います。
2018年2月23日金曜日
柳家権太楼(噺家) ・究極は“落語を楽しむ”
柳家権太楼(噺家) ・究極は“落語を楽しむ”
東京生まれ71歳、大学を卒業後、1970年に5代目柳家つばめに弟子入りしました。
1982年に真打ちに昇進して、3代目柳家権太楼を襲名しました。
表情豊かな話術と大きなアクションで多いに笑わせ全国各地に多くのファンを持っている柳家権太楼さんですが、2010年、63歳の時に腎盂癌が見つかります。
その後も膀胱がんになり手術も成功しました。
闘病して多くの人に救われたと云う柳家権太楼さんはお客さんに面白かったと帰っていただけるようにやる、究極は自分自身が落語を楽しむことだと話します。
1947年、東京都北区で生まれました。
母親が三味線、踊りなどやっていたので小学生の時に寄席に連れて行ってもらったが、良く判らなかった。
末広亭の近くに団子屋が有りそれを買ってくれるのが嬉しかった。
貞丈先生が江島屋騒動をやって、こわくてぞくぞくしながら真剣に見ていました。
ラジオが落語を一杯やっていて、自分で情景を想像するので
面白かった。
落語を覚えてしまって、友達の家でやったり、オープンリール、落語全集を買ってほしいと言って母親に買ってもらいました。
そのうち母親の前でやって、踊りの会でやってほしいと言われました。(中学生)
高校時代も寄席には良くいきました。
その頃からプロになろうと思っていました。
柳家一門に入りたかった。
当時は立川談志が有名で、追っかけをやっていました。
圓生、文楽師匠などを見ていると、虜になりました。
大学は明治学院大学に行って、出来たばっかりの落語研究会に入りました。
早く入門した方がいいと思っていたが、大学も見てみたいという欲望が有りました。
行ってみて良かったのは、友達のエリアが全国ネットなので多くの見聞をしました。
そっちを知って良かったと思います。
落語研究会で青春を謳歌しました。
その頃一生懸命やっていた落語のことは、プロになる瞬間から全てたち切ろうと決めていたので一切やりませんでした。
妻とは学生時代に知り合いました。
素人の時に手を出した話は、自分の中で素人に戻るような気がするんでしょうね。
卒業後、柳家つばめ師匠に入門しました。
柳家つばめ師匠の本が有り凄くいい本だった。
人生の師になる人を探さなければいけないと決めて、新作落語はやりませんと言いました。
落語で繋がって行くこともあるが、人と人との繋がりの方が大きかったりする、仮想の親ですから。
柳家つばめ師匠をいろんな角度から見て、この人の元に行きたいと思いました。
一回も怒られたことはない。
「しくじったね」といわれ、あれこれ考えて話しますと、「そうではない、興行で風邪をひいたね」、「みんなが心配しているよ、いちばん大切なのはあなたが風邪をひかないことです」と言うんです、それが小言なんです。
小言には聞こえない。
46歳で師匠は亡くなってしまいました。
入門して5年目でした。
つばめ師匠の師匠が小さん師匠なので、預かり弟子になる訳です。
つばめ師匠の頃は前座が私だけで自由だったが、兄弟子、弟弟子がいて入るのが大変だった。
1975年二つ目となり柳家さん光になる。
「お達者くらぶ」に出演するが、その前に新人落語コンクールが有りました。
小朝さんが最優秀賞で僕が優秀賞だった。(二つ目になって3年目)
小朝さんは翌年32人抜いて真打ちになりました。
その後の私は「柳家さん光と言うのは面白い」と寄席サイドから出ました。
鈴本、浅草などから声がかかって、NHKから「お達者くらぶ」に出演しないかと声がかかりました。
「お達者くらぶ」を6年やって、広瀬久美子さんとのラジオで「土曜サロン」をずーっとやらせてもらいました。
1982年に真打ち昇進試験が導入されて、抜擢の試験が与えられた。(基準の年数に達していなかった)
合格して(18人抜き)、2010年63歳で病気になる。
サプリメントが好きでつい色々飲んでいました。
やたら疲れが抜けなくて、薬をどんどん飲んでも悪い方に行ってしまった。
人間ドックに2年に一度受けていて、数値に問題はなく数値を過信していました。
高座中に背中が非常におかしくなって、もう一つの噺を何とか終わったとたんに、肩からずずずずずーっと崩れ落ちて行きました。
北海道だったので、羽田へ戻ってから家に戻って、病院に行って血液、尿の検査で異様な数値が出てきてしまいました。
医者から何を飲んだと言われました。
一つ一つの薬は正しいが色んな薬を飲んでいて腎臓、膀胱とかに負担がかかっていた。
徹底的に調べたら癌だと云うことが判りました。
腎盂がんでしたが、手術は成功して又高座に上がりました。
この症状なら6人のうち5人は助けられますが1人は助けられませんと医師からは言われましたが。
抗がん剤治療をしないと膀胱がんになると言われていて、1年後に膀胱がんになってしまいました。
膀胱がんの手術をして成功しました。
ただその間は色々大変でした。
「わが人生に悔いはない」 この歌にはまってしまって、駄目でした。
「悔い」ばっかりが出て来ました。
生きていると云うのは言いわけが出来る、亡くなると言いわけが出来ない、そう随分思いました。
癌で生死をさまよっている人が結構近くにいるんですね、だったら道しるべとして元気にやっていると云うことを見てもらう。
2012年 芸術選奨文部科学大臣賞大衆芸能部門 受賞
2013年 紫綬褒章 受章
歳を取ると高い声がでなくなるが、トーンを抑えた声、違う魅力が出てくると思う。
東京生まれ71歳、大学を卒業後、1970年に5代目柳家つばめに弟子入りしました。
1982年に真打ちに昇進して、3代目柳家権太楼を襲名しました。
表情豊かな話術と大きなアクションで多いに笑わせ全国各地に多くのファンを持っている柳家権太楼さんですが、2010年、63歳の時に腎盂癌が見つかります。
その後も膀胱がんになり手術も成功しました。
闘病して多くの人に救われたと云う柳家権太楼さんはお客さんに面白かったと帰っていただけるようにやる、究極は自分自身が落語を楽しむことだと話します。
1947年、東京都北区で生まれました。
母親が三味線、踊りなどやっていたので小学生の時に寄席に連れて行ってもらったが、良く判らなかった。
末広亭の近くに団子屋が有りそれを買ってくれるのが嬉しかった。
貞丈先生が江島屋騒動をやって、こわくてぞくぞくしながら真剣に見ていました。
ラジオが落語を一杯やっていて、自分で情景を想像するので
面白かった。
落語を覚えてしまって、友達の家でやったり、オープンリール、落語全集を買ってほしいと言って母親に買ってもらいました。
そのうち母親の前でやって、踊りの会でやってほしいと言われました。(中学生)
高校時代も寄席には良くいきました。
その頃からプロになろうと思っていました。
柳家一門に入りたかった。
当時は立川談志が有名で、追っかけをやっていました。
圓生、文楽師匠などを見ていると、虜になりました。
大学は明治学院大学に行って、出来たばっかりの落語研究会に入りました。
早く入門した方がいいと思っていたが、大学も見てみたいという欲望が有りました。
行ってみて良かったのは、友達のエリアが全国ネットなので多くの見聞をしました。
そっちを知って良かったと思います。
落語研究会で青春を謳歌しました。
その頃一生懸命やっていた落語のことは、プロになる瞬間から全てたち切ろうと決めていたので一切やりませんでした。
妻とは学生時代に知り合いました。
素人の時に手を出した話は、自分の中で素人に戻るような気がするんでしょうね。
卒業後、柳家つばめ師匠に入門しました。
柳家つばめ師匠の本が有り凄くいい本だった。
人生の師になる人を探さなければいけないと決めて、新作落語はやりませんと言いました。
落語で繋がって行くこともあるが、人と人との繋がりの方が大きかったりする、仮想の親ですから。
柳家つばめ師匠をいろんな角度から見て、この人の元に行きたいと思いました。
一回も怒られたことはない。
「しくじったね」といわれ、あれこれ考えて話しますと、「そうではない、興行で風邪をひいたね」、「みんなが心配しているよ、いちばん大切なのはあなたが風邪をひかないことです」と言うんです、それが小言なんです。
小言には聞こえない。
46歳で師匠は亡くなってしまいました。
入門して5年目でした。
つばめ師匠の師匠が小さん師匠なので、預かり弟子になる訳です。
つばめ師匠の頃は前座が私だけで自由だったが、兄弟子、弟弟子がいて入るのが大変だった。
1975年二つ目となり柳家さん光になる。
「お達者くらぶ」に出演するが、その前に新人落語コンクールが有りました。
小朝さんが最優秀賞で僕が優秀賞だった。(二つ目になって3年目)
小朝さんは翌年32人抜いて真打ちになりました。
その後の私は「柳家さん光と言うのは面白い」と寄席サイドから出ました。
鈴本、浅草などから声がかかって、NHKから「お達者くらぶ」に出演しないかと声がかかりました。
「お達者くらぶ」を6年やって、広瀬久美子さんとのラジオで「土曜サロン」をずーっとやらせてもらいました。
1982年に真打ち昇進試験が導入されて、抜擢の試験が与えられた。(基準の年数に達していなかった)
合格して(18人抜き)、2010年63歳で病気になる。
サプリメントが好きでつい色々飲んでいました。
やたら疲れが抜けなくて、薬をどんどん飲んでも悪い方に行ってしまった。
人間ドックに2年に一度受けていて、数値に問題はなく数値を過信していました。
高座中に背中が非常におかしくなって、もう一つの噺を何とか終わったとたんに、肩からずずずずずーっと崩れ落ちて行きました。
北海道だったので、羽田へ戻ってから家に戻って、病院に行って血液、尿の検査で異様な数値が出てきてしまいました。
医者から何を飲んだと言われました。
一つ一つの薬は正しいが色んな薬を飲んでいて腎臓、膀胱とかに負担がかかっていた。
徹底的に調べたら癌だと云うことが判りました。
腎盂がんでしたが、手術は成功して又高座に上がりました。
この症状なら6人のうち5人は助けられますが1人は助けられませんと医師からは言われましたが。
抗がん剤治療をしないと膀胱がんになると言われていて、1年後に膀胱がんになってしまいました。
膀胱がんの手術をして成功しました。
ただその間は色々大変でした。
「わが人生に悔いはない」 この歌にはまってしまって、駄目でした。
「悔い」ばっかりが出て来ました。
生きていると云うのは言いわけが出来る、亡くなると言いわけが出来ない、そう随分思いました。
癌で生死をさまよっている人が結構近くにいるんですね、だったら道しるべとして元気にやっていると云うことを見てもらう。
2012年 芸術選奨文部科学大臣賞大衆芸能部門 受賞
2013年 紫綬褒章 受章
歳を取ると高い声がでなくなるが、トーンを抑えた声、違う魅力が出てくると思う。
2018年2月22日木曜日
北川裕子(のしろ日本語学習会代表) ・“生きるための日本語”をあなたへ
北川裕子(のしろ日本語学習会代表) ・“生きるための日本語”をあなたへ
人口およそ5万人の能代市では外国語を話せる人が少なく、仕事や結婚の為海外から能代市にやって来た人にとっては、日本語が出来るようになる事が生活する上で欠かせないと言います。
北川さんは300人以上の外国人に日本語を教えて来ました。
北川さんが日本語を教えるようになったきっかけ、言葉を教えることに込めた思いを伺いました。
平成5年から週に2回日本語を教えています。
最初は中国、フィリピンでしたが、ここ4,5年前からネパール、上海、香港、台湾とかから来ています。
能代市は大きい企業が無くて、30年前には外国人花嫁に教えていました。
教室では60人前後はいます。
最近多くなったのは外国人花嫁の子供達、2世です。
風力発電、火力発電の設置などするために技術者の人がネパールから来たりします。
8割は今でも外国人お嫁さんです。
本当に日本って町内広報、回覧板などが回って来くる。
喋るのは出来るが読み書きが出来なくて、書類を捨ててしまったりして、税金申告で大騒ぎになったということがありました。
読んで書けないと生活者になれないと云うことを聞いて、そうなんだと思いました。
英語、中国語、韓国語を話せる先生はまずいなくて、入学して一緒に学ぶことの難しさもあり、やはり読み書きはできないといけないのかなと思いました。
読んで話して聞いて書く、4技能の指導をしています。
命にかかわるところはきちんとできないといけない。(警察、裁判所、病院など)
失礼ではない言葉使いもできないといけない。
満州にいた方で旦那さんが亡くなって、戦後中国の方と結婚しなければ生き残れなかったと云う日本人の方(私の親戚の人でした)がいて、その人が能代市に来て、たまたま私が中国語を勉強していたので、会うことになり、いろいろ話をしたら涙を流していました。
中国残留婦人なので、日本語も使える人でしたが、中国では生活の為に中国語も覚えることも大変だったと言っていました。
その人は1年で中国に戻る形になりましたが、てを握ってたった一つお願いがある、中国語を勉強するようにと言われました。
相手の心の中に入れるような言葉を覚えることは大変難しいので、そうなるまで勉強してほしいと云うような思いで言ったんだと思います。
そうではないと学びにはならないのではないかと思います。
お母さんと子供の意思疎通が出来ないということはないと思っていたが、日本語教室をやるようになって、色々判ってきました。
夫婦の喧嘩、姑との関係、地域の人との関係など彼女たちの上手く伝える相手がいないと、受け止めるところが何もないので、なんでもいいから喋りなさいと云うと、色々喋ってくれました。
当時親戚のおばさんから聞いた話の内容ではふーんと聞いていただけでしたが、今聞いたらきっと抱きしめて聞いてあげたと思います。
今はどれほど辛かったのかということが判る自分がいます。
中国残留孤児を教えるようになりました。
能代市が日本語指導のための教室を作って、市の委託をうけて平成3年に中国残留孤児に教えるようになりました。
始めましたが日本語を外国語に訳せないものがあり、文化に違いがある事に気付きました。
食事の時の「いただきます」「お陰さまで」とか。(中国語にはない)
どうしようかと思ったときに街の人を巻き込もうと思いました。
生涯学習の先生などに会って、文化を伝えることについて話をしました。
最初、自分の名前の書き方を教えました。
入院した時に、お金をむき出して持ってきました。
日本ではちゃんと包むが、中国ではそのようなことをすると中身がない場合があるかもしれないと云うことでした。
日本は相手を信じることから始まる文化と言うことを伝えました。
封筒に自分の名前を書けるようにと、書道でも教えています。
まず母音「あいうえお」からまず始まります。
あいうえお体操があり、その体操を介して教え始めました。
鋏を返す時に危なくないように柄を相手に向けて返すとか、こういったことをやらないと、厭な行為と受け止められてしまうので、しっかり教えます。
挨拶一つにしても難しいところがあり、家族、周りを変えないと、この人達の努力を何処で判ってもらえるのかなと思ったときに、絶対巻き込まないといけないと思いました。
卒業生は300人を越えましたが、ほとんど能代市に残っています。
言葉は道具だと思っていましたが、心であり、知性でもあり、やりながらわかってきたときに、言葉の中に道具に心が入るような話し方、生き方をして欲しいと思います。
どうやって教えればいいかと悩みましたが、人と寄り添うとその寄り添った人は、常にこの人は寄り添ってくれるんだとわかると、人って強く生きていけるんです。
言葉を単なる道具として扱うなと言うことは、常に自分に戒めています。
日本人同士でペラペラしゃべれるのに子供が自殺したり、相手に理解してもらえないで、そういう事件を見たときに、教室の人に言わせると、物があふれてこんなに幸せな国なのにどうして自殺するのかということで、貧しいからではなくて、人には何が必要なのかと思った時に、心が入っている話でないと人は受け止めてはもらえないし、人に伝えることも出来ないのだろうと思います。
学んだ言葉を力にして最終的には、自立出来る人、人の心を伝えられる人、税金を払える人に育てること(市へのお返し)が私の仕事だと思います。
人口およそ5万人の能代市では外国語を話せる人が少なく、仕事や結婚の為海外から能代市にやって来た人にとっては、日本語が出来るようになる事が生活する上で欠かせないと言います。
北川さんは300人以上の外国人に日本語を教えて来ました。
北川さんが日本語を教えるようになったきっかけ、言葉を教えることに込めた思いを伺いました。
平成5年から週に2回日本語を教えています。
最初は中国、フィリピンでしたが、ここ4,5年前からネパール、上海、香港、台湾とかから来ています。
能代市は大きい企業が無くて、30年前には外国人花嫁に教えていました。
教室では60人前後はいます。
最近多くなったのは外国人花嫁の子供達、2世です。
風力発電、火力発電の設置などするために技術者の人がネパールから来たりします。
8割は今でも外国人お嫁さんです。
本当に日本って町内広報、回覧板などが回って来くる。
喋るのは出来るが読み書きが出来なくて、書類を捨ててしまったりして、税金申告で大騒ぎになったということがありました。
読んで書けないと生活者になれないと云うことを聞いて、そうなんだと思いました。
英語、中国語、韓国語を話せる先生はまずいなくて、入学して一緒に学ぶことの難しさもあり、やはり読み書きはできないといけないのかなと思いました。
読んで話して聞いて書く、4技能の指導をしています。
命にかかわるところはきちんとできないといけない。(警察、裁判所、病院など)
失礼ではない言葉使いもできないといけない。
満州にいた方で旦那さんが亡くなって、戦後中国の方と結婚しなければ生き残れなかったと云う日本人の方(私の親戚の人でした)がいて、その人が能代市に来て、たまたま私が中国語を勉強していたので、会うことになり、いろいろ話をしたら涙を流していました。
中国残留婦人なので、日本語も使える人でしたが、中国では生活の為に中国語も覚えることも大変だったと言っていました。
その人は1年で中国に戻る形になりましたが、てを握ってたった一つお願いがある、中国語を勉強するようにと言われました。
相手の心の中に入れるような言葉を覚えることは大変難しいので、そうなるまで勉強してほしいと云うような思いで言ったんだと思います。
そうではないと学びにはならないのではないかと思います。
お母さんと子供の意思疎通が出来ないということはないと思っていたが、日本語教室をやるようになって、色々判ってきました。
夫婦の喧嘩、姑との関係、地域の人との関係など彼女たちの上手く伝える相手がいないと、受け止めるところが何もないので、なんでもいいから喋りなさいと云うと、色々喋ってくれました。
当時親戚のおばさんから聞いた話の内容ではふーんと聞いていただけでしたが、今聞いたらきっと抱きしめて聞いてあげたと思います。
今はどれほど辛かったのかということが判る自分がいます。
中国残留孤児を教えるようになりました。
能代市が日本語指導のための教室を作って、市の委託をうけて平成3年に中国残留孤児に教えるようになりました。
始めましたが日本語を外国語に訳せないものがあり、文化に違いがある事に気付きました。
食事の時の「いただきます」「お陰さまで」とか。(中国語にはない)
どうしようかと思ったときに街の人を巻き込もうと思いました。
生涯学習の先生などに会って、文化を伝えることについて話をしました。
最初、自分の名前の書き方を教えました。
入院した時に、お金をむき出して持ってきました。
日本ではちゃんと包むが、中国ではそのようなことをすると中身がない場合があるかもしれないと云うことでした。
日本は相手を信じることから始まる文化と言うことを伝えました。
封筒に自分の名前を書けるようにと、書道でも教えています。
まず母音「あいうえお」からまず始まります。
あいうえお体操があり、その体操を介して教え始めました。
鋏を返す時に危なくないように柄を相手に向けて返すとか、こういったことをやらないと、厭な行為と受け止められてしまうので、しっかり教えます。
挨拶一つにしても難しいところがあり、家族、周りを変えないと、この人達の努力を何処で判ってもらえるのかなと思ったときに、絶対巻き込まないといけないと思いました。
卒業生は300人を越えましたが、ほとんど能代市に残っています。
言葉は道具だと思っていましたが、心であり、知性でもあり、やりながらわかってきたときに、言葉の中に道具に心が入るような話し方、生き方をして欲しいと思います。
どうやって教えればいいかと悩みましたが、人と寄り添うとその寄り添った人は、常にこの人は寄り添ってくれるんだとわかると、人って強く生きていけるんです。
言葉を単なる道具として扱うなと言うことは、常に自分に戒めています。
日本人同士でペラペラしゃべれるのに子供が自殺したり、相手に理解してもらえないで、そういう事件を見たときに、教室の人に言わせると、物があふれてこんなに幸せな国なのにどうして自殺するのかということで、貧しいからではなくて、人には何が必要なのかと思った時に、心が入っている話でないと人は受け止めてはもらえないし、人に伝えることも出来ないのだろうと思います。
学んだ言葉を力にして最終的には、自立出来る人、人の心を伝えられる人、税金を払える人に育てること(市へのお返し)が私の仕事だと思います。
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