2017年2月26日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)        ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”

奥田佳道(音楽評論家)   ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
古いよき時代のアメリカの調べ。
ラグタイムの音楽 作曲スコット・ジョプリン 没後100年
ラグタイム:ピアノ演奏で左手は正確なリズム、右手はシンコペーション、強弱を普通の感覚とあえて逆にしたりする。(ずれた音楽を楽しむ)
19世紀終わりから20世紀初頭にアメリカで大人気を博した。
ジャズの即興とラグタイムは違っていて、ラグタイムはきちんとしたピアノの楽譜がある。
ゆったりとした品のいいテンポ感、おしゃれなサロン音楽のように弾いて下さいというのが
スコット・ジョプリンが望んだラグタイムの音楽。
*1899年にスコット・ジョプリンが作曲したメイプルリーフ・ラグ」

映画「スティング」1973年の映画デーテーマ音楽のように使われた。
*映画「スティング」からオーケストラ版 スコット・ジョプリンの『ジ・エンターテイナー』を30年代に編曲した曲

ヨーロッパのクラシックの作曲家もかなりの人がラグタイムに夢中になりました。
ケークウォークのリズム使って名曲を描いたのがフランスのクロード・ドビュッシー
ケークウォーク:黒人の間で発祥したダンスの一種。2拍子の軽快なリズムからなる。
「ゴリウォーグのケークウォーク」 ドビュッシー作曲の編曲

ジョージ・ガーシュウィン 作曲
*「ス・ワンダフル」、「スワニー」
*1917年発表 「リアルトのさざ波」 

レナード・バーンスタイン 作曲
*『キャンディード』のテーマソングのようなアリアから 「着飾ってきらびやかに」









2017年2月25日土曜日

澄川喜一(彫刻家)     ・石見神楽が創作の原点

澄川喜一(彫刻家)     ・石見神楽が創作の原点
島根県出身、木材が本来持っている反りを生かした作品、反りのある形シリーズで知られています。
日本各地で屋外彫刻を手掛けるほか、東京スカイツリーのデザイン監修を務めました。
東京芸術大学学長を歴任、島根県芸術センターのグラントワの設立に携わり、現在はグラントワセンター長を務めています。
自らの創作の原点と故郷島根西部石見地方とのかかわりについて語ってもらいました。

小学校に行く前、石見神楽を 毎年10月神社で盛んに行われました。
父親と一緒に行って、天の岩戸開きが朝まで続く、最後におろちがでてくる。
おろちは悪者ではない、本当は良い神様なんです。
ここのおろちは遊び心を入れたおろちを作りました。
小学校の時に竹下富士子先生?の書道があり、正装して見えてタスキがけをやっているのが面白くて、清書の後似顔絵を描いたら絵が上手だねと言ってくれました。
その時に絵描きになろうかなと言うような気がしました。
その後岩国の工業学校に行き、最後には芸大を受けるように先生が引っ張って行ってくれましたが、親に相談したところ、行くなと怒られました。
先生が家に来て親を説得してくれて、芸大に入ることができました。
入った時には影響は受けてもいいが、人のまねをするなと言われました。
学長からは卒業証書は役に立たないといわれました。

4年間は基礎を勉強するということで、全裸の女性の彫刻勉強をします。
表面を見るだけではなくて、その形の中を知らなければいけない。
美術解剖学、骨と筋肉を2年間勉強します。
中が判ると外側が判るんです、そうすると形がよく出来るんです。
美術解剖学を教えたのは森鴎外です。
東京国立博物館 森鴎外はそこの総長にもなっています。
東京に行くときには、荷物にならない本、柿本人麻呂、森鴎外、雪舟を持っていくように言われました。

須佐之男命(すさのうのみこと)が降りてきて、おろち退治をやってそれがお神楽になりました。 伊奘諾尊(いざなぎのみこと)伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子
お神楽の最後にしっぽを切ったらかちっと音がして剣が出るがそれが天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(鉄剣)なんです。
鉄文化が入ったのを劇にしている。
たたら文化、鋼を作るときには砂鉄を集めて木炭で熱して溶かして作る。
おろちになってるけれども、本当は鉄を作る民族が入ってきて、木炭が必要なので山をちょっと荒していたと思う。(切りっぱなしにしていた)
山が荒れると洪水になる。
須佐之男命(すさのうのみこと)がやめなさいと言った、そう言った神話を話を子供のころ聞きました。

反りのある形というタイトルにして反った形を木からとりだしている。
学長を退官するときに、郷里のためにと思いまして、今お手伝いをしています。
グラントワは10年になりますが、お客さんが400万人来ました。
そのうちの6割が島根県外です。
アテンダントの制服は森英恵さんのデザインです。
雪舟の絵は墨の濃淡で色を感じるんだと教えてくれました。

若い美術家に対して森鴎外の力が凄く大きかったので、グラントワでは森鴎外を一つの柱にしようと思いました。
フランスでは森英恵さんが一番尊敬されている。
森英恵さんは外国の真似をしていない、日本を持っていった。
ファッションと言う柱も立てようと思い、ファッションの学芸員はいないのでニューヨークの美術館に留学してもらって2人のファッションの学芸員がいます。(全員で学芸員は5名)

島根県は文化施設も充実していて、文化に力を入れている県だと思います。
15年前に大勢の女性ボランティアの人たちが石見地方は文化施設がないのでここになにかを作ろうと声を出しました。
運動が進んで行ってこれは町おこしになるということで、飛行場も出来て、今は80名を越すボランティアが居ます。
支援部隊の結果が出ています。
















2017年2月24日金曜日

吉田精次(精神科医)     ・私はあなたの伴走者

吉田精次(精神科医)     ・私はあなたの伴走者
61歳、依存症患者(アルコール、ギャンブル、薬物など)を見る医師が多くない中病院で患者の治療に取り組み、休日には患者が集うミーティングに参加するなど患者の心に寄り添い続けています。
依存症患者の苦しみを多くの人に分かってほしいという吉田さんに伺いました。

厚生労働省の発表でアルコール依存症が109万人、ギャンブル依存症が550万人、ぼくが仕事をしているのが、病気だと認定されているうちのほんの一部で大半の人は相談したり治療に繋がる事無く、自分で何とかしようとしている人達なので、医療が関わっている人たちは1割もないです。
昔はアルコール依存症とはっきりしていたが、最近はさまざまあり、薬物にしても、風邪薬、睡眠薬の依存症、行動の依存症ではギャンブル、万引きも増えています。
アルコール、ギャンブル、薬物は男性が多い。
万引きに関しては圧倒的に女性が多いです。
アルコールは若い層から、中年層、高年層、女性は圧倒的に30代が多い
男性は50代以降が多い。
薬物は若い人たちが多い。(40,50代でもいます)
ギャンブルはパチンコがあるので世界で特有のギャンブル依存症がある。
20代から80代まで幅広いです。

カジノ法案の目的は経済活性化、まったく欠落している観点は
①一回依存症になった人たちがどれだけ苦労して回復していることか分かっていない。
②破産するぐらいのダメージを受けた状態で依存症になる。
そんな中で国が作っていいのかどうかと思うと、絶対に作ってはいけないと思います。
今でさえギャンブル依存症に対する国の補助、保証は無きに等しい。
ギャンブル依存症を研究する医者も社会学者もほとんどいない。
依存症になるための環境条件が整ってしまって、繰り返すうちに、脳の機能変化が起きていくので自分の意志、理性を超えたところで病気が発生して行くので、自己責任と言うの
は言われ過ぎだと思います。
自分を責めたりする過程の中で、自分を保つために虚勢を張ったり、演技したり、仮面をかぶったり、壊れないために強く見せないと生きていけなくなっている人たちがとっても多いが、行動は止まらない。

弱い部分、本当はこうしたいという思いがぽっと出てくる時が心をうたれる。
(話しているうちに突然泣き出すとか)
一緒に暮らしている人達は、やめてほしいと思っているが、やり方、対応の仕方を知らないので、強く言ったり、説教したり力で何とか止めさせようとするが、反発してしまう。
そして関係が悪くなってゆき壊れてしまう。
暴力が発生しやすくなり、言いたいことも言えなくなる。(対等の関係が消えてしまう)
精神科を受診するハードルが高すぎる、と言うメンタルなところが強い。
依存症をきちんと見れる医者が圧倒的に少ない。
アルコール依存症、薬物依存症に対して関わりたくないという様な、先生が多い様な気がします。

大学病院などでは依存症を専門に見る医者がほとんどいない。
精神科を専攻しても依存症ではないほかの病気を専攻する人たちばっかりになる傾向があるのではないか。
依存症は行動を繰り返すことで脳の神経ネットワークを作ってしまうので、医療も繰り返し繰り返し、脳が健全になって行くような神経回路を作ることをやっていかなくてはいけない。
医者はサポートする立場だと思っています。

本を読むのが好きで、精神科医になろうとしたきっかけは加賀乙彦(精神科医で作家)の「フランドルの冬」にあこがれてしまいました。
医者にはなりたかったが、注射もいやだし、血も見たくはなかった。
「フランドルの冬」が精神科医を選ぶきっかけになりました。
大学受験は一浪して、合格して、合格することは一人の一浪の人を生んでしまうことだとも思って、素直に喜べなかった。
泣きながら不合格を電話で報告している姿を見ました。
精神科医を美化して、現場に入るが、いろいろな現実があり、理想を実現化するようなことはなくてギャップを感じるようになりました。
患者を入院して閉じ込める、しかし自分は自由にできる、何回か経験してゆくと徒労感が強くなってきて、自分のやっていることが意味のないものと感じて来て、仕事に行くのがいやになってきて、医者の仕事を辞めてもいいかなと思うようになった(5年目ぐらい)

帰る時に患者の目と合ったがおやっと言う感覚があったが、そのまま帰り翌朝出勤するとその人は川に飛び込み亡くなっていた。
自分の患者が亡くなったことにショックを受け、病院を辞めて三重県に行きました。
たまに街の診療所にいきながら農業をして、医者とは関係ない暮らしを10年ぐらいしました。
天気など自分ではどうにもできないこと、理屈ではなく経験がしみこんだ時期だったと思
います。
人も野菜も動物も自分以外のものは変えられないと言う事の大切さ、(変えられるという思いから悲劇が生じる)が一番大きな教訓だったような気がします。

医師免許を持っているのでもう一回使うか、完全にやめてしまうか、決めようと思った時期があって、医師としてもう一回使えるのかを確認したかったので一週間の研修を依頼した。
前の先生にたまたま出会って戻ってくるように言われて15年前に徳島に戻ってきました。
アルコール依存症に対するアメリカでの研修に行きました。
依存症を持った人、良い悪いいろんな側面を持っているので、辞める辞めないではなくて、トータルに見てその人がどう生きていくかということの方を大事にする治療者が多かった。
回復した人たちが資格を取ってカウンセラーだったり医者だったりする訳で、日本では考えられなかった。

依存症からの回復の一番大きな潮流は回復を始めた人がいて、その人の存在がまだ回復出来ると思えていない人たちのお手本になる。
その循環が大きな回復の潮流を作ってきている。
サポート役としての我々の力はとても叶わない、健常者が持ちえない影響力を持っている掛け替えのない存在だと痛感します。
失敗ととらえるからネガティブな経験になる、人間は経験だらけの生き物、失敗、成功という言葉で表現すること自体が間違いを生む様な気がします。
努力したり、毎日コツコツとやらなければいけないのは当事者で、我々はサポートしていく役割だと思っています。
検事長をしているかたがいて、その傍ら資格障害者のマラソンの伴走者をしていて、そういった事をダルクでの話をしていました。
主人公は障害者でその人は伴走者、伴走者は自分に与えてくれる物の多さを凄く語っていて、僕の仕事もまさにそれだと思いました。
子供の自転車の補助輪みたいな、やがて必要無くなる支えみたいなものになればいいと思っています。









































2017年2月23日木曜日

平櫛弘子(平櫛田中美術館館長)・祖父、平櫛田中が残したこと

平櫛弘子(小平市平櫛田中彫刻美術館館長)・祖父、平櫛田中が残したこと
*今日でブログ投稿開始日から丸6年が経過しました。
最初の物は ノートルダム清心学園理事長 渡辺和子さんの
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/03/83.htmlでした。
もうすで渡辺和子さんも昨年 2016年12月30日に89歳でお亡くなりになってしまいました。(ご冥福をお祈りします)
今日から又新たに7年目に入り、一歩一歩進んで行きたいと思います。
よろしくお願いします。

平櫛弘子さんは1940年生まれ、彫刻家平櫛田中(でんちゅう)の孫。
107歳で亡くなった祖父田中のそばに長年いて、平櫛田中の人と作品作りを見てきた方です。
平櫛田中は1872年 明治5年2月23日、岡山県に生まれました。
21歳で彫刻の道に入り、「鏡獅子」、「尋牛(じんぎゅう) 」をはじめ数多くの作品のほか、彼の人生観を表す言葉を書に残しています。
100歳を前に書にしたためた言葉、「今やらねばいつできる」、「わしがやらねば誰がやる」、「60,70洟垂れ小僧」、「男盛りはこれからこれから」等、まさに不屈の人 平櫛田中の真骨頂と言えるのではないのでしょうか。
平櫛田中生誕145年の年に当たります。

大きな楠の木があるが、30年分の木を亡くなるときには持っていて、徐々に作品を作るためには保存して乾かしておかなければいけないので、晩年に買った木です。
横山大観武原はんさんを作ると言っていました。
横山大観の鋭い眼が印象的で、眼を作りたいとよく言っていました。
はんさんは美しい顔、独特の髪の結い方、お化粧の仕方、着物の着方などあれを残したいと言っていました。
21歳で大阪の中谷省古に弟子入り、彫刻をし、25歳上京し、高村光雲の門下生になり、日本美術界の指導者岡倉天心に認められ72歳で東京美術学校(東京芸術大学)の教授に招へいされ、90歳で文化勲章。

家が貧しくて15歳で大阪の小間物問屋に丁稚に入った。(美術に関係あるようなところ)
その前に貿易関係の工芸品を扱っているところに丁稚して、主人が文楽好きで、すっかり文楽好きになっていました。
上手い繋がりが付いてきて、岡倉天心が明治22年に創刊した本も丁稚の身で買って読んでいました。
縁があって中谷省古さん(人形師)の次男の球次郎さんが東京で高村光雲に出入りしていて、木彫をやりたいのなら東京に行くように言われて、球次郎さんに連れて行ってもらった。
26歳ぐらいになっていて、門下生と知り合いになれたのがよかったです、それが運命を決めていったと思います。
自分の天性とそれを自分でつかみとって行く。

谷中の長安寺に居候して、その近くに禅宗の西山禾山(かさん)が麟祥院で「臨済録]の提唱をしていて聞いたりしていて、その縁で寺内銀次郎さんという表具師(横山大観とかの日本画家の表具師)とも知り合い、岡倉天心も来ていた。
高村光雲さんの門下生と三四会という彫刻の団体をつくって作品を出品したりしていました。
30歳で「唱歌君が代」という作品を作って、宮内庁買い上げになって一番最初の銀杯を取った作品でした。
明治40年に結婚。

「貧乏は我慢できるが、子供に死なれることほどつらいことはない。」
「涙が出なくなるのに3年かかる」
長女、長男、次女(私の母 隆子)が生まれる。
日本彫刻会を天心が作ってそこに入る。
代表作を発表する。明治41年の第一回の時には「活人箭(かつじんせん)」を作って天心に批評していただき、想像で勢いを出すようなものでないといけない、矢がさーっと行かなければいけないといわれて、取った方がいいといわれて弓矢を取ってしまって、今はそれがイタリアに有ります。
明治43年には「法堂二笑」を作りましたが、天心からは文句なしによろしいといわれて、神奈川県の原三溪さんに収めましたが、戦争で三溪園が焼けたりしていまだ作品の行方は分かりません。
第5回の日本彫刻会に出そうと思って3作品があり、「尋牛(じんぎゅう) 」と「灰袋子(かいたいし)」、「豎指」、天心は「尋牛(じんぎゅう) 」が一番いいと言っていました。
十牛の最初の物。

天心は9月2日に亡くなってしまったが、完成した尋牛をお棺の前でお見せした。
第5回の日本彫刻会に出したが、それも今はどこへ行ってしまったのか分からない。
それが昨年出てきて、この館にあります。
後年作った尋牛とは違います。
天心先生が亡くなってしまう(大正2年)ということで急いで作ったので、塑像的です。
木彫ではあるけれども粘土のような作風です。

谷中の長安寺に居候して、その近くに禅宗の西山禾山(かさん)が麟祥院で提唱をしていて祖父も聞いたりしていて、大正3年に「禾山笑」を作る。
西山禾山(かさん)は禅の心とはと問われて、「日常生活そのもの、心を整えて毎日の仕事を一生懸命やること」
「まさに窮するところ無くして、その心生ぜしめ」
「邪心がなしにして、一心不乱に作品をつくる心を養いなさい」と言うこと。
「守拙求真」 自分の製作の根幹にあるとよく言っていました。
自宅にいないと思うと染井の墓地(天心)に行っていたということで仕事も手に付かなかったような状態だったようです。

その後塑像部で3年ぐらい塑像の研究ばかりをしていました。
塑像を作って粘土から、石膏どりしてそれをもとにしてそこから木彫にするわけです。
売るものは作らなかったので、貧乏な時期があり、塑像の研究を終わりにして、その後それが「転生」(鬼の像)に生きてくる。
苦しい結果、自分に対して塑像の勉強をして、自分には向いてないとわかって一つ通り越したと、そのことを多分「転生」の作品にしたと思います。
周りの援助のもとにアトリエを作り、住まいも作る。
翌年に関東大震災があるが、壁にちょっとひびが入った程度で建物は痛まなかった。
鏡獅子昭和33年の構想から22年かけて出来上がる。(モデル 6代目尾上菊五郎
尾上菊五郎さんの裸の写真が60何枚有ります。
5つぐらいのヒノキで御寄木にしてかすがいでとめて 漆を塗って金泊をして、彩色しました。
費用もかかって、借りたりして、その時母は病気で居たので大変でした。

「今やらねばいつできる」
「わしがやらねば誰がやる」
「60,70鼻たれ小僧」
「男盛りは百から百から」
弟子で辻晋堂と言う人がいて、アトリエの「今やらねばいつできる」という言葉がかかっていて(アンドレ・ジイドの本の中にあった)、それを見て田中が広めて行った。
祖父は彫刻家としては明治、大正、昭和を生きてその時代背景の中で製作した人だが、子供は50歳台で亡くなり、残った母は関節リュウマチで歩けなくなってしまって、祖父は母のしもの世話などもやっていて、私たちにも優しくしてくれました。
結婚した当時は柳行李に一杯参考になる新聞記事を切り取り、晩年にも参考記事、興味のある記事を切り取っていました。(好奇心旺盛な人でした)
















2017年2月22日水曜日

コシノジュンコ(ファッションデザイナー)・着物の美をパリへ

コシノジュンコ(ファッションデザイナー)・着物の美をパリへ
世界のファッションリーダーとして活躍しているコシノジュンコさんはこのたび芸術の都パリで日本の着物の美を展示する小袖展を開くことになっています。
着物文化を系統的に展示してヨーロッパのモードにも影響を与えた着物の美を改めて知ってもらおうというものです。
コシノジュンコさんはお姉さん(弘子)や妹さん(美智子)とともにコシノの三姉妹として知られているファッションデザイナー、ファッションを学んだ文化服装学院では高田賢三などとともに花の9期生として若いころから活躍して19歳のときには新人デザイナーの登竜門である、装苑賞を受賞しています。
その後の活躍も目覚ましく御存知通りですが、パリは元よりファッションとは縁遠いと思われるベトナム、ミャンマーなどでもファッションショーを開いてきました。

一般に小袖と言っても判らないと思う。
日本の着物はあこがれのものだと思っているが、着るチャンスはなかなかなくて、着物に対して簡単に着れることということで着物と同格の洋服をやってきました。
小袖につながるなと思ってきて、小袖は江戸時代の大衆文化になってから女性達が外に解放されて歌舞伎を見に行ったりして、小袖を着ることによって解放的になった。
アーティストたちが柄を変えていって一種のファッションになった。
小袖は公家文化である打ちかけの一番最初に着る、いわゆる襦袢ですね。
肌着で、襦袢が独り歩きしたのが小袖です。
袖口が短いもの。
松坂屋さんが何千点と持っていて、一歩も外国に出していなかった。
外国の人に見せるチャンスを作りたいと思った。

現代のデザイナー達も着物に触発されたデザイナーも沢山います。
江戸から明治ぐらいまでの小袖120点を展示して、現代の作品も出ます。
私は6点、着物のデザインを1点、着やすい洋服風を5点展示しました。
ジョン ガリアーノ、サンローラン、ケンゾー、ポールポワレとか6人のデザイナーが一点ずつ出して、一つの世界を作ろうということで見所が面白いです。
花魁のポスターを作って地下鉄などに貼っています。
なぜパリかと言うと、パリはモードの街で、コルセットをとってスリップドレスがフォーマルでも着ている。
それと小袖と同じ条件なんです。
3か月開催します。
国宝的なものもあり、全部で120点もあるので途中で60点づつ展示替えもします。

NHKの連続TV小説「カーネーション」 母が描かれている。
祖父が呉服屋なんです。
母は着物に対して反発してミシンに出会って、自己流で洋服の世界に入りました。
2011年にやったドラマだったのでチャリティーとかに参加しました。
私の役は川崎亜沙美さん、女子プロレスの人で、糸子役で応募したが5番目に受かった人でした。(応募するときに私の役、二女・直子(成人期)と勘違いしたようです)
姉が弘子、家族は女性が多かったのでいつでも競争していて、姉とは違うことしようとか、はみ出る方法をいつも思っていました。
文化服装学院には行くつもりはなかった、美大にいくつもりだったが、これだけ絵が描けるのならなぜお母さんと同じ方向にいけないのかと画家の先生から言われて、考えがぐらついてきて同じ方向に行くことになりました。

1年前から男女共学になって、花嫁修業に来ているものとは違うと思っていて、気性的にも男の人とグループになって、三宅一生さんとか外との交流もやるようにしていました。
歌舞伎などもそのグループで学校をさぼって一緒に見に行ったりしていました。
卒業の時はブテックを持っていたので取りに来ないから、卒業証書を持ってきてくれました。
装苑賞を19歳で取ったので背中を押されたようなものでした。
1978年パリコレクションに初参加。
パリはオートクチュールの世界でプレタポルテのショーはやっていなくて、貴族社会のようなルーツがあるので、プレタポルテになってショーやるようになってケンゾーさんが先に日本をテーマにやっていて、日本のルーツは何かということで探して、中国に行ったが、文革の後で贅沢は敵で全部壊してしまったあとだった。
でも出会った音楽がよかった。(耳から自分のイマジネーションが出てくる)
1985年に北京で中国の最大のファッションショー、その後ベトナム、キューバ、ミャンマーなどでファッションショーを行う。
私たちが行った後には偶然かと思いますが、直行便ができました。
キューバではハバナで3回やりましたが、野外なので天気が悪いと大変です。
小袖展は江戸から現代までが一気に見れる。
世界の人は本当に日本に来たがっています。

和と洋をひとつの同じ精神の器に入れるということだと思います。
紋付き袴を着ると武士のような気分になって、日本人がなんて立派に見えるか、私はこの経験が有るんです。
着物を着ると威厳が出ます。
浴衣を30年以上前からやっていて、浴衣は着物のTシャツだと言っています。
浴衣は簡単に着れるので浴衣は長年やっています。
フランスのファッションデザイナーに与えた影響は、日本へのあこがれだと思います。
トータルに西洋とは違うのでいろんな角度で不思議なものがあると思います。
フランスでは日本人が顔負けするような日本の研究者がいます。
江戸時代はユーモアの有るセンス、遊びのセンス、浮世絵などもおちゃめなセンスがあり、面白さのものから春画まであり、いま漫画やアニメが流行っていて現代にいたるのが漫画だと思います。

ファッションの広さ、大きさ、自由、ファッションは流行、生きている、ファッションは業界の壁を破るものだと思っている。
ファッションは言葉の要らない表現、感性は言葉でなくて感じるものだから。
東京オリンピックパラリンピックは場所は東京だけれども、主催は日本だと思います。
地方のいろいろな事、物を出し切ったらいいと思います、発信するチャンスだと思います。