穂村弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
ほむほむ賞 「立ち止まるあなたの気配に泣き止んだ蝉と一緒にさよならを聞く」
(ゾンビーナさん) (正しい文字ではないかもしれません。)
セミが背景にいて自分と一緒にさよならを聞いてしまう不思議な力が宿ていると思いました。
短歌を始めたばっかりの頃に読んでいた、初めに手に取った歌集、歌人の作品て、塚本邦雄さんと寺山修司さんでした。
岡井隆さんを加えた3人が前衛短歌の三羽烏と言われて、1960年代に活躍されていました。
憧れて読んでいた歌を紹介したいと思います。
塚本邦雄、1920年滋賀県生まれ、高校卒業後商社に勤め兄の影響で短歌を作るようになる。
戦後になって歌人の前川 佐美雄に師事、一緒に同人誌を始めた杉原一司が早くに亡くなり、追悼して書いたのが第一歌集『水葬物語』1951年出版、絶賛されて本格的に歌人スタートする。
1960年代に前衛短歌運動の中心となり1985年に自らの短歌結社『玲瓏』を設立。
1990年からは近畿大学の教授となり2005年に亡くなりました。
短歌は普通古風で和風だが、彼のはモダンな世界。
当時の最先端が塚本さんでした。
絵画映像、音楽、俳句とか他ジャンルからの摂取が強かった方です。
我々にとってはなじみやすい感じがしました。
当時はとても自分ではできるとは思わなかった。(大学時代)
「当方は二十五銃器ブローカー秘書求む桃色の踵の」 塚本邦雄
とても短歌とは思えなかった、求人広告の文体だった。
ある種のラブレターのようになっている、志をともにする同士を求めるようなイメージだと思う。
「桃色の踵」が面白い。
これが短歌だといわれたときは驚きでした。
「天正十年六月二日けぶれるは信長が薔薇色のくるぶし」 塚本邦雄
本能寺の変 火を放たれて炎の中で戦っているイメージだと思う。
信長の足元 低いアングル、映画とかが開発されて以降のアングルだと思う。
通常のリアリズムではない、これもびっくりしました。
「愛は生くるかぎりの罰と夕映えの我のふとももまで罌粟の丈」 塚本邦雄
愛は我々が生きている限りの宿命的な罰という様なとらえ方で、夕映えのケシ畑の中に一人で自分が立っている。
夕映えも赤く、ケシの花も赤だと思う。
ケシの花も危険なイメージがあり、自分の運命や生きることの燃えるような感覚、愛は我々が与えられた罰なんだといわれたときに裏返されたロマンのようなものがある。
許されない愛、罰をあたえられるような愛の方がより盛り上がることがある。
寺山修司、1935年青森県生まれ。
中学生のころから俳句、短歌、詩を作り始め早稲田大学に入学してからは熱心に短歌に取り組むようになりました。
短歌研究の編集長だった中井英夫に絶賛されます。
その後病気になり長期入院して大学は中退するが、ラジオドラマ、戯曲、評論などの執筆を始め1967年に横尾忠則、東由多加、九條映子らと劇団「天井桟敷」を結成。
1983年 47歳で亡くなりました。
「売りに行く柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野行くとき」 寺山修司
演劇的ですかね。
ジャンルを駆け抜けていったときにイメージは共通なものを彼は持っている。
初期が短歌だった。
時計が鳴ることによってより孤独な感じが伝わってくる。
「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」 寺山修司
リアリズム的ではない、演劇的。
寺山の我はディレクターの位置、舞台の下にいて指示を出していて、舞台には少女役の少女と、我役の若者で麦藁帽を寺山には分っている。
脚本を書いているので少女は海を知らないという事も判っている。
神様の視点で、脚本家、監督の視点で作られていると後からわかってきた。
「無名にて死なば星らにまぎれんか輝く空の生贄として」 寺山修司
無名のまま夭折してしまったら、その星のなかにまぎれてしまう、という。
或る意味この言葉の使い方もなんか残酷なみずみずしさがある。
寺山は無名で死ぬことには耐えられなかったと思う。
寺山の不安というのか、この歌には出ていると思う。
残酷な美学という様なものを塚本邦雄、寺山修司の二人には共通しているような気がします。
塚本邦雄、寺山修司とか最初にあこがれたものの刷り込みって消え無くて、影響されます。
私という一人称の可能性を拡大したもうちょっと実際に体験しないことを書いてもいいとか、フィクションの魅力があってもいいとか、言葉のレベルでもっと自由に作っていいみたいな、そういうことをためらわずにやってもいいという感覚、革命幻想の時代だから。そして戦争の傷跡がこの二人にあり、それを判らないまま、勝手に思い込んでしまっていたことがあります。
2019年10月7日月曜日
2019年10月6日日曜日
若本規夫(声優) ・【時代を創った声】
若本規夫(声優) ・【時代を創った声】
73歳、アニメサザエさんのマスオさんの会社の同僚、穴子さんや、カツオの同級生花沢さんのお父さんなどを始め、名わき役として知られています。
多くのナレーションやゲームに出演しています。
そんな若本さんがブレークしたのは実は50歳を過ぎてから。
それまでの自分の演技や話し方を徹底的に見直したという若本さんに伺いました。
もうすぐ声優人生50年というところです。
アニメ『サザエさん』のほかに『ドラゴンボールZ』、『北斗の拳』などでも活躍しています。
ゲームの出演が多いです、悪役です。
悪役は難しい、個性がないといけない。
呼吸がまず違います、荒くなる。
声は身体の呼吸から出てくるから、呼吸が変わらなければ多彩な役は演じられないという事はある。
訓練、修行は7割ぐらいが呼吸です。
気取ると、気取った分だけリアリティーがなくなる。
ルーツはリアリティーがないと、それは地べたの喋り方(自分のもっている喋り)です。
大阪育ち、早稲田大学法学部卒業。
ひそかに思ったのは大学院に行きたかったが、10月に受けたがこの成績ではだめだといわれた。
警察官募集のポスターがあり、11月1日が募集日で応募して採用通知が来て4月1日入りました。
交番勤務となったが、警察学校含めて1年半でやめてしまった。
日本消費者連盟のところにいって、そこでも2年ぐらいでやめてしまった。
黒沢良さんが声優を養成しようとしてオーディションがあり、これだと思いました。
25,6歳の時で周りはみんな若かった。
20人募集だったが大勢来ていて駄目かなあと思っていた。
10日ぐらいしてから合格通知が来ました。
ほかの人は全部バツだったが、養成所の最高権力者だった東北新社の中野寛次さんだけが僕を拾ってくれました。
その人がいなかったら今の僕はいなかったです。
当初は右も左も判らず苦労しました。
呼吸のことが判っててくるまで、20年、25年かかりました。
アメリカの歌手でスーザン・オズボーンという人が1年に一回ぐらい歌手に教えに来るという事で聞きに行きました。
「歌というものはため息ですよ、ため息が混ざらなないと歌にならない」というんです。
そのことがきっかけになり息と声をどういう風に混ぜればいいか考えましたが、教えてくれる人は日本にはいなかった。
当時は仕事に行き詰っていました。
新規の仕事が入らなくなりました。
自分の演技を聞いてみたらこれではだめだと思いました、リアリティーがなかった。
イタリアのトランペットの人のインタビュー記事を読んだら、「トップに上り詰めるためには気の遠くなるような毎日の練習が必要だ。・・・毎日8~9時間練習を繰りす。・・・」
この記事を読んで今までの練習は遊びのような感じでした。
今でも休みの日は6時間ぐらいはやります。
いろんな方法を抽出してやってきました。
好きなことをやって嫌なことはやらないようにしました。
声優というのは単なる声を操っているだけではだめだと認識しました。
生きている声なのか死んでいる声なのか、中間は無い。
頑張れるのは、究極の表現をしたいという欲望ですね。
最初は悩んだが穴子役はサラリーマンとして縫って歩くような声を出せばいいと思いました。
声優志願の手紙を100通ぐらい来ているが、真剣な内容のものもあります。
声優は3年やって一回も声が掛からないようであれば辞めた方がいいと思います。
人のことは考えずに自分のことに専念すればいい。
73歳、アニメサザエさんのマスオさんの会社の同僚、穴子さんや、カツオの同級生花沢さんのお父さんなどを始め、名わき役として知られています。
多くのナレーションやゲームに出演しています。
そんな若本さんがブレークしたのは実は50歳を過ぎてから。
それまでの自分の演技や話し方を徹底的に見直したという若本さんに伺いました。
もうすぐ声優人生50年というところです。
アニメ『サザエさん』のほかに『ドラゴンボールZ』、『北斗の拳』などでも活躍しています。
ゲームの出演が多いです、悪役です。
悪役は難しい、個性がないといけない。
呼吸がまず違います、荒くなる。
声は身体の呼吸から出てくるから、呼吸が変わらなければ多彩な役は演じられないという事はある。
訓練、修行は7割ぐらいが呼吸です。
気取ると、気取った分だけリアリティーがなくなる。
ルーツはリアリティーがないと、それは地べたの喋り方(自分のもっている喋り)です。
大阪育ち、早稲田大学法学部卒業。
ひそかに思ったのは大学院に行きたかったが、10月に受けたがこの成績ではだめだといわれた。
警察官募集のポスターがあり、11月1日が募集日で応募して採用通知が来て4月1日入りました。
交番勤務となったが、警察学校含めて1年半でやめてしまった。
日本消費者連盟のところにいって、そこでも2年ぐらいでやめてしまった。
黒沢良さんが声優を養成しようとしてオーディションがあり、これだと思いました。
25,6歳の時で周りはみんな若かった。
20人募集だったが大勢来ていて駄目かなあと思っていた。
10日ぐらいしてから合格通知が来ました。
ほかの人は全部バツだったが、養成所の最高権力者だった東北新社の中野寛次さんだけが僕を拾ってくれました。
その人がいなかったら今の僕はいなかったです。
当初は右も左も判らず苦労しました。
呼吸のことが判っててくるまで、20年、25年かかりました。
アメリカの歌手でスーザン・オズボーンという人が1年に一回ぐらい歌手に教えに来るという事で聞きに行きました。
「歌というものはため息ですよ、ため息が混ざらなないと歌にならない」というんです。
そのことがきっかけになり息と声をどういう風に混ぜればいいか考えましたが、教えてくれる人は日本にはいなかった。
当時は仕事に行き詰っていました。
新規の仕事が入らなくなりました。
自分の演技を聞いてみたらこれではだめだと思いました、リアリティーがなかった。
イタリアのトランペットの人のインタビュー記事を読んだら、「トップに上り詰めるためには気の遠くなるような毎日の練習が必要だ。・・・毎日8~9時間練習を繰りす。・・・」
この記事を読んで今までの練習は遊びのような感じでした。
今でも休みの日は6時間ぐらいはやります。
いろんな方法を抽出してやってきました。
好きなことをやって嫌なことはやらないようにしました。
声優というのは単なる声を操っているだけではだめだと認識しました。
生きている声なのか死んでいる声なのか、中間は無い。
頑張れるのは、究極の表現をしたいという欲望ですね。
最初は悩んだが穴子役はサラリーマンとして縫って歩くような声を出せばいいと思いました。
声優志願の手紙を100通ぐらい来ているが、真剣な内容のものもあります。
声優は3年やって一回も声が掛からないようであれば辞めた方がいいと思います。
人のことは考えずに自分のことに専念すればいい。
2019年10月5日土曜日
前畑洋平(産業遺産コーディネーター ) ・“廃墟”から“遺産”へ(初回2018年6月16日)
前畑洋平(産業遺産コーディネーター ) ・“廃墟”から“遺産”へ(初回2018年6月16日)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/06/blog-post_16.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/06/blog-post_16.htmlをご覧ください。
2019年10月4日金曜日
朝崎郁恵(唄者(うたしゃ)) ・奄美シマ唄をうたい紡ぐ
朝崎郁恵(唄者(うたしゃ)) ・奄美シマ唄をうたい紡ぐ
奄美加計呂麻島出身83歳、様々な楽器やミュージシャンとのコラボレーションによってシマ唄を広げてきました。
母のお腹の中に入っているときから母の歌を聞いていたような気がします。
奄美加計呂麻島で生まれました。
平坦な土地があまりなくて山ばかり多くて、食べものが不足して山を切り開いてさつまいもなどを植え凌ぎました。
1935年生まれなので終戦が9歳でした。
ソテツをデンプンにして母が私たちに食べさせてくれて育てました。
シマ唄を習い始めた記憶はなくて、自然にいつも親が歌っていましたので、自然に体に入ってきました。
そんなわけで何百という歌詞がありますが、全部おぼえています。
父親は三味線を弾いて母は唄って踊りました。
色々なお祝い事があると、父親と一緒にいって5,6歳ごろから唄っていました。
加計呂麻島では有名になりました。
行って唄うとおいしいものがいただけるのでそれが一番うれしかったです。
三味線は女性はやってはいけないという事でしたが、15,6歳ぐらいまでは弾いて唄っていましたが、師匠がやめなさいと言われてそれ以後やっていないです。
今は指が動かなくてできないです。
結婚はは23歳でした、主人は鹿児島の出身で転勤することになり、25歳の時に転勤しました。
最初福岡にいたんですが、唄も唄えなくなりました。(12年間)
主人は公務員でしたが、転勤することは結婚するときには知りませんでした。
福岡にいて、奄美の人に会いたいと寂しい思いをしました。
その後東京に来まして、新聞に奄美物産展があるという記事があり子どもをつれていったらその物産展で私の唄が流れていて奄美の人がいっぱい来ていました。
黒砂糖など奄美のものが並べられていました。
受付の人に流れている唄は私が唄っていると言ったらびっくりしていました。
奄美の人の会があるから来てほしいといわれて、又唄を唄えるようになりました。
12年のブランクは全然ありませんでした。
10年ぐらいして国立劇場で唄うようになり49歳から独演会を行い10年続きました。
奄美の人たちは聞いて故郷を思い出して泣くんです。
年齢を重ねるごとに唄の深さ、唄の持つ力が段々でてきます、60,70になってきて、昔の人が唄っていた唄に近づいてきたと思います。
奄美を離れて50年以上になります。
83歳になっても勉強です。
新しい唄が400年前で薩摩時代で、その前が琉球王朝に時代のもので600年前、それをさかのぼると、平家時代があり、平家落人の唄がいっぱいあります。
60歳を超えてから「海美」というCDを出すことになりました。
もともと奄美の唄は伴奏はなくて、風の音、鳥の音、川の流れる水の音などで歌っていましたが、琉球から三味線がきてそこから三味線で唄うようになりました。
私たちは三味線の時代ですが、「海美」というCDではピアノになっています。
意味が分からないという人もいて、理解してもらえる方法がないかと思っていましたが、ピアノしかないという事でしたが、楽譜がありませんでした。
何とかピアノでCDを出すことになりました。
猿之助さんのエッセーにカーネギーホールで歌舞伎をやったらみんな面白くないので帰って行ってしまった。
創作して持っていったらそれが凄く受けて、日本でも若者が足を運ぶようになった。
という事が書いてあったので、よし「海美」もピアノだと思って実行しました。
古いものは創作しないと古いものは残って行かない、という事で私もそう思いました。
音楽関係の人に評価してもらって本当に良かったと思います。
それがきっかけとなりピアノ以外になんでも合います、ギターとかいろんな楽器と合います。
シマ唄とアイヌの音楽とのコラボレーションをしました。
アイヌの安藤梅子さんがおられて(今は亡くなってしまった)、奄美の神唄祭りがあり、二人の出会いのきっかけでした。
是非一緒にやりましょうという事になりコラボレーションにこぎつけました。
何となく似ています、アイヌの方も楽譜が無いんですね。
自由自在に楽しむという事を感じました、又生活を唄にしているのでともに生活の匂いがします。
「海美アイヌ」 CD 先月発売されました。
奄美のシマ唄映画が出されることになり、ナレーター役をやります。
奄美の島の歴史、唄に登場する人物の生きてきた人生を映画にしていて、それとその生活、そこに歌を入れていきます。
薩摩の時代に焼却されているので資料がなく、唄にして残して有るので唄を聞いて歴史がある程度判ります。
ですから貴重な歌です。
唄から学ぶ奄美の歴史を語っていきたいです。
後輩たちに伝えてゆく事もしたいです。
奄美への恩返しのために、無料コンサートをシリーズでやっていこうとしていくつかの島で終わって11月には徳之島でやる事にしています。
奄美加計呂麻島出身83歳、様々な楽器やミュージシャンとのコラボレーションによってシマ唄を広げてきました。
母のお腹の中に入っているときから母の歌を聞いていたような気がします。
奄美加計呂麻島で生まれました。
平坦な土地があまりなくて山ばかり多くて、食べものが不足して山を切り開いてさつまいもなどを植え凌ぎました。
1935年生まれなので終戦が9歳でした。
ソテツをデンプンにして母が私たちに食べさせてくれて育てました。
シマ唄を習い始めた記憶はなくて、自然にいつも親が歌っていましたので、自然に体に入ってきました。
そんなわけで何百という歌詞がありますが、全部おぼえています。
父親は三味線を弾いて母は唄って踊りました。
色々なお祝い事があると、父親と一緒にいって5,6歳ごろから唄っていました。
加計呂麻島では有名になりました。
行って唄うとおいしいものがいただけるのでそれが一番うれしかったです。
三味線は女性はやってはいけないという事でしたが、15,6歳ぐらいまでは弾いて唄っていましたが、師匠がやめなさいと言われてそれ以後やっていないです。
今は指が動かなくてできないです。
結婚はは23歳でした、主人は鹿児島の出身で転勤することになり、25歳の時に転勤しました。
最初福岡にいたんですが、唄も唄えなくなりました。(12年間)
主人は公務員でしたが、転勤することは結婚するときには知りませんでした。
福岡にいて、奄美の人に会いたいと寂しい思いをしました。
その後東京に来まして、新聞に奄美物産展があるという記事があり子どもをつれていったらその物産展で私の唄が流れていて奄美の人がいっぱい来ていました。
黒砂糖など奄美のものが並べられていました。
受付の人に流れている唄は私が唄っていると言ったらびっくりしていました。
奄美の人の会があるから来てほしいといわれて、又唄を唄えるようになりました。
12年のブランクは全然ありませんでした。
10年ぐらいして国立劇場で唄うようになり49歳から独演会を行い10年続きました。
奄美の人たちは聞いて故郷を思い出して泣くんです。
年齢を重ねるごとに唄の深さ、唄の持つ力が段々でてきます、60,70になってきて、昔の人が唄っていた唄に近づいてきたと思います。
奄美を離れて50年以上になります。
83歳になっても勉強です。
新しい唄が400年前で薩摩時代で、その前が琉球王朝に時代のもので600年前、それをさかのぼると、平家時代があり、平家落人の唄がいっぱいあります。
60歳を超えてから「海美」というCDを出すことになりました。
もともと奄美の唄は伴奏はなくて、風の音、鳥の音、川の流れる水の音などで歌っていましたが、琉球から三味線がきてそこから三味線で唄うようになりました。
私たちは三味線の時代ですが、「海美」というCDではピアノになっています。
意味が分からないという人もいて、理解してもらえる方法がないかと思っていましたが、ピアノしかないという事でしたが、楽譜がありませんでした。
何とかピアノでCDを出すことになりました。
猿之助さんのエッセーにカーネギーホールで歌舞伎をやったらみんな面白くないので帰って行ってしまった。
創作して持っていったらそれが凄く受けて、日本でも若者が足を運ぶようになった。
という事が書いてあったので、よし「海美」もピアノだと思って実行しました。
古いものは創作しないと古いものは残って行かない、という事で私もそう思いました。
音楽関係の人に評価してもらって本当に良かったと思います。
それがきっかけとなりピアノ以外になんでも合います、ギターとかいろんな楽器と合います。
シマ唄とアイヌの音楽とのコラボレーションをしました。
アイヌの安藤梅子さんがおられて(今は亡くなってしまった)、奄美の神唄祭りがあり、二人の出会いのきっかけでした。
是非一緒にやりましょうという事になりコラボレーションにこぎつけました。
何となく似ています、アイヌの方も楽譜が無いんですね。
自由自在に楽しむという事を感じました、又生活を唄にしているのでともに生活の匂いがします。
「海美アイヌ」 CD 先月発売されました。
奄美のシマ唄映画が出されることになり、ナレーター役をやります。
奄美の島の歴史、唄に登場する人物の生きてきた人生を映画にしていて、それとその生活、そこに歌を入れていきます。
薩摩の時代に焼却されているので資料がなく、唄にして残して有るので唄を聞いて歴史がある程度判ります。
ですから貴重な歌です。
唄から学ぶ奄美の歴史を語っていきたいです。
後輩たちに伝えてゆく事もしたいです。
奄美への恩返しのために、無料コンサートをシリーズでやっていこうとしていくつかの島で終わって11月には徳之島でやる事にしています。
2019年10月3日木曜日
豊田泰久(音響設計家) ・豊かな響きを追い求めて
豊田泰久(音響設計家) ・豊かな響きを追い求めて
66歳、大学を卒業した後1977年に東京の音響設計事務所に入社して音響設計家としてスタートしました。
これまでに東京のサントリーホールや札幌コンサートホールを始めアメリカ、フランス、中国など50以上のコンサートホールの音響の設計に携わってきました。
豊田さんが目指すコンサートホールの音は各楽器の音が明瞭に聞こえること、豊かな響きを持つことだそうです。
豊田さんが40年以上かけて築いてきた音響設計とはどのような世界なのか、そこにかけてきた意味合いは何か伺いました。
仕事の本拠地はロサンゼルス、とパリ。
およそ20年前にアメリカに引っ越して今は海外のプロジェクトを担当しています。
かばいきれなくなって2008年にパリにオフィスをオープンしました。
外国では人種の違い、文化、宗教、考え方が全然違うので、うまくいかないことの原因になったりします。
1952年広島県福山生まれ、父親が音楽好きで、レコードが家にたくさんありよく聞いていました。
シューベルトの未完成交響曲をたまたま選んで聞いた時に、私にとっては衝撃的でしばらくの間は毎日聞いていました。
中学校ではブラスバンドがありサックスホーンをやる事になり、面白かったです。
高校は弦楽合奏、管楽アンサンブルの部があって、先生がせっかくあるのだから時々オーケストラをやろうという事になって、オーボエを買おうという事でそれを担当したいと申し出ました。
ハードルの高い楽器でした。
大学は理工系で、九州芸術工科大学で音響の設計学科があり、そこに入りました。
クラブ活動でオーケストラがあり、そこで楽しく過ごしました。
音楽に関係した仕事ができればという事で、ホールの音響設計の仕事があるという事で東京の音響設計事務所に入社しました。
70年代後半の入社でしたが、公害問題が出てきているころで、騒音測定の仕事でした。
音の理屈、音の計算、収録、分析など音の基本的なところを学ぶことができました。
30代でサントリーホールを手掛けることになりました。
コンサートホールはクラシック音楽の楽器がどういう風にホールの中でうまく響くか、それをコントロールするわけですが、マイクロホン、スピーカーは使わない生の音なのでホールの中でどういう風に響くか、それを設計するわけです。
究極的にはホールの形、材料になるわけです。
それをどういう風に選んで調整してゆくのかという事になります。
音は感性の世界で話をするので、「いい音にしてください」という事になってしまう。
残響時間、量 残響の質 をコントロールしてゆく。
物理的な数字がはっきりしてくると計算に乗ってくる。
サントリーホールの場合は残響時間が2.1秒だったと思います。
残響時間よりも重要なものもあり、結局はいい音かどうかという事になってしまいます。
サントリーホールの場合は「世界的なホールを作ってください」、それしか言われませんでした。
サントリーホールの場合の音響とはどういうものか我々が組み立てなければいけないわけです。
我々の勉強にはなりました。
1981年から始めてオープニングが1986年でした。
その半年前に工事が終了して完成しました。
最初のリハーサルは混乱の極みでした。
リハーサルはマーラーの交響曲8番 1000人の交響曲といわれるオーケストラといわれるように、オーケストラも普通の2倍、200人ぐらい、第一オーケストラ、第二オーケストラとまた合唱団も複数いて、アマチュアのオーケストラで、本番の前に全体練習をする会場を探していて、たまたまサントリーホールのプログラミングの人の耳に入って、実現しました。
誰も音響を知らないところでやったわけで、バランスも何もあったものではなくて混乱の極みでした。
普段演奏をしないようなものはやってはいけないと後で判りました。
サントリーホールが完成していろんなオーケストラがどんどん来て、いろんな曲目を演奏することが始まるわけで、どんどんオーケストラがサントリーホールに本拠地を移してきました。
サントリーホールができる前は東京文化会館で、音響的にはいい悪いではなくステージの構造が違っていました。
最初はアンサンブルがきれいではなかった。
海外からもオーケストラが来て結果が良かった。
3,4年経つうちに東京のオーケストラもよくなってきて、新しいホールに慣れるという事はいかに時間が掛かる事なのか、という事だと思います。
コンピューターが発達することによって変わったことはたくさんあります。
音響設計もコンピューターの発達によって変わってきて、いままでできなかったことができるようになりました。
反射音なども計算してゆくわけですが、膨大な量でできないが理屈はわかっている。
コンピューターはあらゆる状況を計算することは得意で、結果がどういう風に見えるか、音がどういう風に分布するのかという事をビジュアル化できる。
画期的なものだと思います。
いい音とはクリアな音だと思います。
デジタルオーディオが発達してオーケストラの細部のレコーディングがクリアに聞こえるようにレコーディングができるようになってきた。
ホールの空間に音が漂っているようなリッチ(豊かな)な感覚、3次限的な感覚。
クリアな音、リッチな音は言葉の上では相反するように感じるが、実際にワールドクラスのコンサートホールに行くとコンサートホール全体が鳴り響いているような感じがするがクリアなんです。
どうやって実現するのかは我々が考えていかないことだと思います。
後から思うと、コンピューターに関しても、音響に対するとっかかり、音楽へのとっかかりもラッキーな面があったと思います。
時期的なタイミングもラッキーなところもあったと思います。
ビジュラルなこと、客席のレイアウト、いろんなファクターが以前とは比較にはならないビジュアルなファクターが含まれてきているので、コンサートホールの在り方がどんどん変わってきていると思います。
ハンブルグのコンサートホール(2100人ぐらい)、ベルリンのピエール・ブーレーズ・ザールホール、この二つはこれから先どういう事が起こりうるのか示唆してくれるのではないかと思います。
66歳、大学を卒業した後1977年に東京の音響設計事務所に入社して音響設計家としてスタートしました。
これまでに東京のサントリーホールや札幌コンサートホールを始めアメリカ、フランス、中国など50以上のコンサートホールの音響の設計に携わってきました。
豊田さんが目指すコンサートホールの音は各楽器の音が明瞭に聞こえること、豊かな響きを持つことだそうです。
豊田さんが40年以上かけて築いてきた音響設計とはどのような世界なのか、そこにかけてきた意味合いは何か伺いました。
仕事の本拠地はロサンゼルス、とパリ。
およそ20年前にアメリカに引っ越して今は海外のプロジェクトを担当しています。
かばいきれなくなって2008年にパリにオフィスをオープンしました。
外国では人種の違い、文化、宗教、考え方が全然違うので、うまくいかないことの原因になったりします。
1952年広島県福山生まれ、父親が音楽好きで、レコードが家にたくさんありよく聞いていました。
シューベルトの未完成交響曲をたまたま選んで聞いた時に、私にとっては衝撃的でしばらくの間は毎日聞いていました。
中学校ではブラスバンドがありサックスホーンをやる事になり、面白かったです。
高校は弦楽合奏、管楽アンサンブルの部があって、先生がせっかくあるのだから時々オーケストラをやろうという事になって、オーボエを買おうという事でそれを担当したいと申し出ました。
ハードルの高い楽器でした。
大学は理工系で、九州芸術工科大学で音響の設計学科があり、そこに入りました。
クラブ活動でオーケストラがあり、そこで楽しく過ごしました。
音楽に関係した仕事ができればという事で、ホールの音響設計の仕事があるという事で東京の音響設計事務所に入社しました。
70年代後半の入社でしたが、公害問題が出てきているころで、騒音測定の仕事でした。
音の理屈、音の計算、収録、分析など音の基本的なところを学ぶことができました。
30代でサントリーホールを手掛けることになりました。
コンサートホールはクラシック音楽の楽器がどういう風にホールの中でうまく響くか、それをコントロールするわけですが、マイクロホン、スピーカーは使わない生の音なのでホールの中でどういう風に響くか、それを設計するわけです。
究極的にはホールの形、材料になるわけです。
それをどういう風に選んで調整してゆくのかという事になります。
音は感性の世界で話をするので、「いい音にしてください」という事になってしまう。
残響時間、量 残響の質 をコントロールしてゆく。
物理的な数字がはっきりしてくると計算に乗ってくる。
サントリーホールの場合は残響時間が2.1秒だったと思います。
残響時間よりも重要なものもあり、結局はいい音かどうかという事になってしまいます。
サントリーホールの場合は「世界的なホールを作ってください」、それしか言われませんでした。
サントリーホールの場合の音響とはどういうものか我々が組み立てなければいけないわけです。
我々の勉強にはなりました。
1981年から始めてオープニングが1986年でした。
その半年前に工事が終了して完成しました。
最初のリハーサルは混乱の極みでした。
リハーサルはマーラーの交響曲8番 1000人の交響曲といわれるオーケストラといわれるように、オーケストラも普通の2倍、200人ぐらい、第一オーケストラ、第二オーケストラとまた合唱団も複数いて、アマチュアのオーケストラで、本番の前に全体練習をする会場を探していて、たまたまサントリーホールのプログラミングの人の耳に入って、実現しました。
誰も音響を知らないところでやったわけで、バランスも何もあったものではなくて混乱の極みでした。
普段演奏をしないようなものはやってはいけないと後で判りました。
サントリーホールが完成していろんなオーケストラがどんどん来て、いろんな曲目を演奏することが始まるわけで、どんどんオーケストラがサントリーホールに本拠地を移してきました。
サントリーホールができる前は東京文化会館で、音響的にはいい悪いではなくステージの構造が違っていました。
最初はアンサンブルがきれいではなかった。
海外からもオーケストラが来て結果が良かった。
3,4年経つうちに東京のオーケストラもよくなってきて、新しいホールに慣れるという事はいかに時間が掛かる事なのか、という事だと思います。
コンピューターが発達することによって変わったことはたくさんあります。
音響設計もコンピューターの発達によって変わってきて、いままでできなかったことができるようになりました。
反射音なども計算してゆくわけですが、膨大な量でできないが理屈はわかっている。
コンピューターはあらゆる状況を計算することは得意で、結果がどういう風に見えるか、音がどういう風に分布するのかという事をビジュアル化できる。
画期的なものだと思います。
いい音とはクリアな音だと思います。
デジタルオーディオが発達してオーケストラの細部のレコーディングがクリアに聞こえるようにレコーディングができるようになってきた。
ホールの空間に音が漂っているようなリッチ(豊かな)な感覚、3次限的な感覚。
クリアな音、リッチな音は言葉の上では相反するように感じるが、実際にワールドクラスのコンサートホールに行くとコンサートホール全体が鳴り響いているような感じがするがクリアなんです。
どうやって実現するのかは我々が考えていかないことだと思います。
後から思うと、コンピューターに関しても、音響に対するとっかかり、音楽へのとっかかりもラッキーな面があったと思います。
時期的なタイミングもラッキーなところもあったと思います。
ビジュラルなこと、客席のレイアウト、いろんなファクターが以前とは比較にはならないビジュアルなファクターが含まれてきているので、コンサートホールの在り方がどんどん変わってきていると思います。
ハンブルグのコンサートホール(2100人ぐらい)、ベルリンのピエール・ブーレーズ・ザールホール、この二つはこれから先どういう事が起こりうるのか示唆してくれるのではないかと思います。
2019年10月2日水曜日
八島信雄(山形市立図書館 元館長) ・死ぬまでおれは筆をとめない
八島信雄(山形市立図書館 元館長) ・死ぬまでおれは筆をとめない
夫がいないだけで家に石を投げ込まれ生きた心地がしなかった、子供と心中しようと従お
うしても死にきれなかった。
戦争で夫を亡くした女性たちの手記です。
この手記を30年に渡り執筆編集してきたのが八島信雄さん89歳です。
自ら戦争を体験し生き残ったものの責務を果たそうと活動を続けてきました。
八島さんは戦時中どんな体験をしたのか、そして遺族女性の手記から何を感じたのか、うかがいました。
昭和18年 旧制中学に入学した年、国に協力するという鮮明な学校で、教室での勉強はしていません。
校長先生は「諸君をこの学校は卒業させるつもりはない、諸君は軍部の学校(予科練)に進んで、天皇陛下のために死んでください」と我々にはっきりと訓示されました。
鮮明に覚えています。
その通りだと思って軍の学校に進みました。
無理して働いていて体の具合が悪くなり病院に連れていかれ、肺結核だという事でした。
帰宅を命ぜられ療養生活をして、終戦を迎えました。
8月15日に重大放送があるという事で近所の方と一緒に聞きました。
天皇陛下の言葉はよく聞こえませんでした。
これからは日本はアメリカを迎える非常事態になり、今後ともアメリカ軍と戦うように、そうおっしゃたと大人たちはなぜかそう受け止めました。
日本は負けたと言ったら、大人たちは日本は負けるはずがないと言って、お前は非国民だといわれました。
療養生活をしている間、学校の先輩、同期生たちは戦場に赴き多く亡くなっています。
私は生き残り申し訳ありませんでしたという気持ちはずーっと持っています。
私は市の職員として厚生課に勤めたときに遺族会関係の仕事もあり、その内容の話を聞いたりしていました。
遺族会の40年のまとめを本にして出したいという話を受けました。
「遥かなる足跡」というタイトルで世の中に出るようになりました。
戦没者の父母、兄弟、子ども、妻に文章を書いてくれという事で本が出来上がりました。
そのなかで「妻編」というものが出ましたが、私が担当しました。
戦争体験した私としては戦争は絶対にしてはいけないという思いがありました。
手記の一つ
「昭和19年の秋、私は村の国民学校に勤めていました。
一粒のお米も無駄にできないとき、全校を上げて落穂ひろいをしていました。・・・
夫の戦死の公報が入りました。 夫はチェコ軍の銃によって敵前300mのところで亡くなりました。 その知らせを聞いてから300mという距離が頭から離れなくなりました。
・・・300mを目測するのが癖になりました。 悲しいことですが習性のようになったのでした。」
国民全体が厳しい生活状況だったが戦没者の妻たちはそれに輪をかけて苦労したと思います。
3度3度の食事を取れるような環境ではなかったと思います。
昭和25,6年までの生活は食うや食わずだったと思います。
戦没者の妻は子どもを夫の形見として育てなければいけないという事で非常に責任が大きかったと思います。
配給制度だけでは生きていけないので身を切るような思いで生活してきました。
手記の一つ
「望みを失った私は或るとき死ぬことを考えた。 線路に子どもの手を引いて行った。
ここに居ようねと線路に子どもを引きずり上げた。
そうすると汽車がばく進してきた。 レールが振動した。
私は夢中で子どもの手を引いて坂を降りていた。
私は茫然として黒い汽車を見送っていた。
死ねなかった。」
子どもを育てなくてはならない、子どもがいたから生きたんだと思います。
生き残った人は死んだ人と同じようなそれ以上の苦しみを味わっていると思います。
それは死んだ者から受け継いだ意志でもあると思います。
編集者の立場で彼女らに接してきたと思います。
知ってもらうために書いてもらわなければ駄目だ、そういう立場に変わってきたと思います。
辛いですが、書いてもらって後々までも残す必要があると思いました。
子どもにも、孫にも知ってもらう必要がある。
それから世間に広がって世間にも知ってもらう。
30年やってきてつらかったことはないです。
自分に課せられた責務だと思っていますので。
日本は平和な時代だと思っているが、要職にある人がポロリと領土を取り戻すには戦争をして、みたいなことを言って国会議員が言うと影響が大きいと思う。
素晴らしい日本国憲法があるにもかかわらずですよ、非常に危険だと思います。
戦争放棄の憲法を読んだときは感激しました。
この本は若い人に読んでいただきたい。
何が何でも話し合いで決めてもらいたい、なにがなんでも戦争は駄目なんだと、武器を取っては駄目なんだと、平和第一なんだと年配者として言いたい。
夫がいないだけで家に石を投げ込まれ生きた心地がしなかった、子供と心中しようと従お
うしても死にきれなかった。
戦争で夫を亡くした女性たちの手記です。
この手記を30年に渡り執筆編集してきたのが八島信雄さん89歳です。
自ら戦争を体験し生き残ったものの責務を果たそうと活動を続けてきました。
八島さんは戦時中どんな体験をしたのか、そして遺族女性の手記から何を感じたのか、うかがいました。
昭和18年 旧制中学に入学した年、国に協力するという鮮明な学校で、教室での勉強はしていません。
校長先生は「諸君をこの学校は卒業させるつもりはない、諸君は軍部の学校(予科練)に進んで、天皇陛下のために死んでください」と我々にはっきりと訓示されました。
鮮明に覚えています。
その通りだと思って軍の学校に進みました。
無理して働いていて体の具合が悪くなり病院に連れていかれ、肺結核だという事でした。
帰宅を命ぜられ療養生活をして、終戦を迎えました。
8月15日に重大放送があるという事で近所の方と一緒に聞きました。
天皇陛下の言葉はよく聞こえませんでした。
これからは日本はアメリカを迎える非常事態になり、今後ともアメリカ軍と戦うように、そうおっしゃたと大人たちはなぜかそう受け止めました。
日本は負けたと言ったら、大人たちは日本は負けるはずがないと言って、お前は非国民だといわれました。
療養生活をしている間、学校の先輩、同期生たちは戦場に赴き多く亡くなっています。
私は生き残り申し訳ありませんでしたという気持ちはずーっと持っています。
私は市の職員として厚生課に勤めたときに遺族会関係の仕事もあり、その内容の話を聞いたりしていました。
遺族会の40年のまとめを本にして出したいという話を受けました。
「遥かなる足跡」というタイトルで世の中に出るようになりました。
戦没者の父母、兄弟、子ども、妻に文章を書いてくれという事で本が出来上がりました。
そのなかで「妻編」というものが出ましたが、私が担当しました。
戦争体験した私としては戦争は絶対にしてはいけないという思いがありました。
手記の一つ
「昭和19年の秋、私は村の国民学校に勤めていました。
一粒のお米も無駄にできないとき、全校を上げて落穂ひろいをしていました。・・・
夫の戦死の公報が入りました。 夫はチェコ軍の銃によって敵前300mのところで亡くなりました。 その知らせを聞いてから300mという距離が頭から離れなくなりました。
・・・300mを目測するのが癖になりました。 悲しいことですが習性のようになったのでした。」
国民全体が厳しい生活状況だったが戦没者の妻たちはそれに輪をかけて苦労したと思います。
3度3度の食事を取れるような環境ではなかったと思います。
昭和25,6年までの生活は食うや食わずだったと思います。
戦没者の妻は子どもを夫の形見として育てなければいけないという事で非常に責任が大きかったと思います。
配給制度だけでは生きていけないので身を切るような思いで生活してきました。
手記の一つ
「望みを失った私は或るとき死ぬことを考えた。 線路に子どもの手を引いて行った。
ここに居ようねと線路に子どもを引きずり上げた。
そうすると汽車がばく進してきた。 レールが振動した。
私は夢中で子どもの手を引いて坂を降りていた。
私は茫然として黒い汽車を見送っていた。
死ねなかった。」
子どもを育てなくてはならない、子どもがいたから生きたんだと思います。
生き残った人は死んだ人と同じようなそれ以上の苦しみを味わっていると思います。
それは死んだ者から受け継いだ意志でもあると思います。
編集者の立場で彼女らに接してきたと思います。
知ってもらうために書いてもらわなければ駄目だ、そういう立場に変わってきたと思います。
辛いですが、書いてもらって後々までも残す必要があると思いました。
子どもにも、孫にも知ってもらう必要がある。
それから世間に広がって世間にも知ってもらう。
30年やってきてつらかったことはないです。
自分に課せられた責務だと思っていますので。
日本は平和な時代だと思っているが、要職にある人がポロリと領土を取り戻すには戦争をして、みたいなことを言って国会議員が言うと影響が大きいと思う。
素晴らしい日本国憲法があるにもかかわらずですよ、非常に危険だと思います。
戦争放棄の憲法を読んだときは感激しました。
この本は若い人に読んでいただきたい。
何が何でも話し合いで決めてもらいたい、なにがなんでも戦争は駄目なんだと、武器を取っては駄目なんだと、平和第一なんだと年配者として言いたい。
2019年10月1日火曜日
森下洋子(バレリーナ) ・【母を語る】
森下洋子(バレリーナ) ・【母を語る】
1948年昭和23年広島生まれ、3歳からバレエを習い始め、小学校6年で両親を説得して単身上京、バレエ団に入り、高校卒業まで両立を続けます。
森下さんのバレエに向ける情熱を知って、お母様はあの子はバレエにあげた子と言って、金銭的な援助以外は一切口を出さず快く東京へ送り出してくれました。
森下さんは1971年松山バレエ団に所属、この年に芸術選奨新人賞受賞、1974年第12回ヴァルナ国際バレエコンクールで日本人として初めて金賞を受賞、1985年にはルドルフ・ヌレエフと共演した『ジゼル』の演技にローレンス・オリヴィエ賞を日本人で初受賞しました。
2002年より日本芸術院会員、松山バレエ団団長、現役として今も舞台に立ち続ける森下さんに伺いました。
7時半ごろには起きて、身体を温めてあちこちの筋肉を伸ばしたりして、レッスンを9時半過ぎから始めて、夕方6時前には終わりますが、団員たちはもっと長くやっています。
温めるのは足をお風呂に漬けて温めてからストレッチを始めます。
くるみ割り人形、人間の一人の少女が大人になってゆく過程にどういうものが必要か夢の中でという、すごく見ていて夢があってよかったのではないかと思います。
身体が弱くて、医師が運動させないといけないという事で、3歳でバレエをやる事になりました。
出合った時に続けたいと思ったのを覚えています。
両親はバレエとは何にも関係ありませんでした。
兄弟は6つ下の妹がいます。
バレエをやる事によって体は丈夫になりました。
4歳ぐらいで映画館の舞台で踊った覚えがあります。
小学校1年生の時に親指姫を踊った記憶があります。
バレエは好きで夢中になってやっていました。
友達はピアノ、習字などやっていて私も習いましたが、辞めてしまって、結局バレエだけ残りました。
東京でお稽古したいという思いがあって、小学校2年生から春休み、夏休みなどに東京に行ってレッスンを受けました。
広島から東京までは20時間以上かかりました。
最初母と一緒でしたが、途中からは一人で行くようになりました。
受け入れ先の人が電報で無事着いたことを知らせてもらいました。
親としては電報が着くまでは眠れなかったと後からいっていました。
電車賃、レッスン代などは大分かかったと思います。
母親は料理が得意だったのでキッチン森下の店を始めて、ステーキ、ハンバーグなどをやっていました。(小学校3年生の時)
おやつなどは何でも手作りで作ってくれました。(アイスクリーム、ケーキ、和菓子など)
洋裁は普通にやる感じでした。
ステーキはおいしいと評判になりました。
祖母が岩国からきて私たち姉妹の面倒を見てくれて、叔母が店の手伝いをしてくれるようになりました。
住んでいたところが広島なので母は被爆しましたし、祖母は左半身全部被爆して、手などもひどかったが元気で、気持ちも明るかったです。
こんな体になってしまったという様な愚痴は一切言いませんでした。
祖母は前向きな考えで私たちに接していたので、その影響は受けていると思います。
バレエにこんなにのめりこむとは思わなかったと母は言っていました。
小学校6年生の時に一生の仕事としてやりたいのでやらせてほしいといいました。
お金は出すけれども口は出さないと両親から言われました。
そういわれるとこっちもしっかりしなければと思いました。
時には母親が来ましたが、私の周りの人が私に世話をしてくれていたので、そちらの方たちに気を配っていたので、母が来たからといってべったりという事はありませんでした。
主要な舞台には広島から観に来てくれましたが、「よかったよ」と言ってくれるだけでした。
身体だけは気を付けるようにとだけは常に言っていました。
小学校2年生で東京に通わせたりしたのは、親としては本当に勇気のいることだったと思います。
高校までは勉強とバレエを両立させてやってきました。
外国へのバレエ留学はなくて3か月ぐらい行ったことはありますが、留学はありませんでした。
オファーはありましたが、外国に行かなければできないというものではないと思っていたので行こうとは思いませんでした。
25,6歳の時に1年間在外研修はありましたが、それはずーっと後の事でした。
結婚することになる清水哲太郎さんから「何のためにバレエを踊っているのか」と問われて、バレエが好きだからやっているというのではないんじゃないかなと思って、どうなのかと考えたら、クラシックバレエは人々の幸せのためにあるんだという事を改めて考えさせられたのかもしれない。
日本人なんだから日本で日本の皆さんにこんなにすばらしい芸術があるんですよ、心が豊かになってもらいたいという思いがあることをお届けしたいと思っています。
11月からくるみ割り人形が始まります。
12歳のクララがどうやって人間として立派に育って行くかという事は変わりはないが、やっていくともっとこうしたらいい、ああしたらいいという思いが凄く深くなってきて行きますね。
1948年昭和23年広島生まれ、3歳からバレエを習い始め、小学校6年で両親を説得して単身上京、バレエ団に入り、高校卒業まで両立を続けます。
森下さんのバレエに向ける情熱を知って、お母様はあの子はバレエにあげた子と言って、金銭的な援助以外は一切口を出さず快く東京へ送り出してくれました。
森下さんは1971年松山バレエ団に所属、この年に芸術選奨新人賞受賞、1974年第12回ヴァルナ国際バレエコンクールで日本人として初めて金賞を受賞、1985年にはルドルフ・ヌレエフと共演した『ジゼル』の演技にローレンス・オリヴィエ賞を日本人で初受賞しました。
2002年より日本芸術院会員、松山バレエ団団長、現役として今も舞台に立ち続ける森下さんに伺いました。
7時半ごろには起きて、身体を温めてあちこちの筋肉を伸ばしたりして、レッスンを9時半過ぎから始めて、夕方6時前には終わりますが、団員たちはもっと長くやっています。
温めるのは足をお風呂に漬けて温めてからストレッチを始めます。
くるみ割り人形、人間の一人の少女が大人になってゆく過程にどういうものが必要か夢の中でという、すごく見ていて夢があってよかったのではないかと思います。
身体が弱くて、医師が運動させないといけないという事で、3歳でバレエをやる事になりました。
出合った時に続けたいと思ったのを覚えています。
両親はバレエとは何にも関係ありませんでした。
兄弟は6つ下の妹がいます。
バレエをやる事によって体は丈夫になりました。
4歳ぐらいで映画館の舞台で踊った覚えがあります。
小学校1年生の時に親指姫を踊った記憶があります。
バレエは好きで夢中になってやっていました。
友達はピアノ、習字などやっていて私も習いましたが、辞めてしまって、結局バレエだけ残りました。
東京でお稽古したいという思いがあって、小学校2年生から春休み、夏休みなどに東京に行ってレッスンを受けました。
広島から東京までは20時間以上かかりました。
最初母と一緒でしたが、途中からは一人で行くようになりました。
受け入れ先の人が電報で無事着いたことを知らせてもらいました。
親としては電報が着くまでは眠れなかったと後からいっていました。
電車賃、レッスン代などは大分かかったと思います。
母親は料理が得意だったのでキッチン森下の店を始めて、ステーキ、ハンバーグなどをやっていました。(小学校3年生の時)
おやつなどは何でも手作りで作ってくれました。(アイスクリーム、ケーキ、和菓子など)
洋裁は普通にやる感じでした。
ステーキはおいしいと評判になりました。
祖母が岩国からきて私たち姉妹の面倒を見てくれて、叔母が店の手伝いをしてくれるようになりました。
住んでいたところが広島なので母は被爆しましたし、祖母は左半身全部被爆して、手などもひどかったが元気で、気持ちも明るかったです。
こんな体になってしまったという様な愚痴は一切言いませんでした。
祖母は前向きな考えで私たちに接していたので、その影響は受けていると思います。
バレエにこんなにのめりこむとは思わなかったと母は言っていました。
小学校6年生の時に一生の仕事としてやりたいのでやらせてほしいといいました。
お金は出すけれども口は出さないと両親から言われました。
そういわれるとこっちもしっかりしなければと思いました。
時には母親が来ましたが、私の周りの人が私に世話をしてくれていたので、そちらの方たちに気を配っていたので、母が来たからといってべったりという事はありませんでした。
主要な舞台には広島から観に来てくれましたが、「よかったよ」と言ってくれるだけでした。
身体だけは気を付けるようにとだけは常に言っていました。
小学校2年生で東京に通わせたりしたのは、親としては本当に勇気のいることだったと思います。
高校までは勉強とバレエを両立させてやってきました。
外国へのバレエ留学はなくて3か月ぐらい行ったことはありますが、留学はありませんでした。
オファーはありましたが、外国に行かなければできないというものではないと思っていたので行こうとは思いませんでした。
25,6歳の時に1年間在外研修はありましたが、それはずーっと後の事でした。
結婚することになる清水哲太郎さんから「何のためにバレエを踊っているのか」と問われて、バレエが好きだからやっているというのではないんじゃないかなと思って、どうなのかと考えたら、クラシックバレエは人々の幸せのためにあるんだという事を改めて考えさせられたのかもしれない。
日本人なんだから日本で日本の皆さんにこんなにすばらしい芸術があるんですよ、心が豊かになってもらいたいという思いがあることをお届けしたいと思っています。
11月からくるみ割り人形が始まります。
12歳のクララがどうやって人間として立派に育って行くかという事は変わりはないが、やっていくともっとこうしたらいい、ああしたらいいという思いが凄く深くなってきて行きますね。
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