2019年9月7日土曜日

前田万葉(カトリック大阪教区大司教・枢機卿)・いのちの海に網を降ろす

前田万葉(カトリック大阪教区大司教・枢機卿)・いのちの海に網を降ろす
70歳、前田さんは長崎県五島列島出身、潜伏キリシタンを先祖に持っています。
長崎、広島の教会で宣教を行い核兵器廃絶運動にも携わってきました。
去年6月前田さんはローマカトリック教会で教皇に次ぐ地位の枢機卿に任命されました。
教皇からの相談を受けて助言をするなど、教皇の最高顧問としての役割を果たします。
枢機卿に就任して1年余り、前田さんは海外にも出かけ平和の懸け橋となる事に力を入れています。
ローマ教皇フランシスコは今年11月に日本を訪問するいこうを明らかにし、前田さんは受け入れる準備を進めています。
日本人の枢機卿として伝えていきたいこと、又その信仰の原点について伺いました。

5月20日電話が来まして、いきなり「おめでとうございます」といわれて、枢機卿に信任されたという事がニュースになっているという事だった。
ニュースで自分で確認して青天の霹靂だと思いました。
バチカンで親任式がありました。
五島列島仲知の出身で少年時代には周りは住民のほとんどがカトリック信者でした。
キリスト教が禁じられていた江戸時代半ば、長崎の潜伏キリシタンたちは弾圧を逃れて五島に移り住みました。
親から子、孫へとひそかに信仰を伝えていったのです。
潜伏キリシタンを先祖に持つ信仰篤い両親の元、前田さんは11人兄弟、上から二番目の長男として育ちました。
雨が降ろうが毎日朝6時から早朝ミサのために朝5時半ぐらいから起こされて、辛かったです。
小中学校だけで270名ぐらいいましたので、毎朝100人ぐらい来ていました。
おっぱいを飲むときも赤ちゃんのころから母親が赤ちゃんの手を取って赤ちゃんは十字架を切らされていました。
それはごく普通でした。

江戸の末期、長い鎖国が終わり長崎では大浦天主堂の建設が始まります。
外国人に限り宗教の自由が認められるようになったのです。
それを知った五島のキリシタンは自分たちの信仰を公にします。
そんな時に島で事件が起こります。
前田さんの曽祖父一家を含むキリシタン200人が役人に捉えられ、わずか6坪の牢に8か月間監禁されたのです。
不潔な牢で食べ物もなく前田さんの先祖3人は命を落とします。
そのような中で生きながらえた人々の信仰は揺るがず、島の人々は弾圧を耐え抜きました。
それを聞いて素晴らしい生きざまに誇りを思っていました。
自分も命がけの生き方をしたいと思ったりもしました。
そんな惨いこともうけたのかという思いもありました。
島の小学校を卒業後、長崎の神学校に入学します。

それは神父を志しながらも教師になった父の強い願いでもありました。
朝5時半からラジオ体操、ミサにあずかって食事をして、掃除、嵐山中学に通学して、4時頃帰ってきて、神学校の授業が1時間あって、夕食があって、30分休み時間がありすぐまた授業です。
最初は布団の中で家が恋しくなって泣きました。
勉強でわかることによって、イエス様などのことがわかってきて十字架の意味などのことも理解できるようになって、ますます好きになってきて、神学校が楽しくなりました。
18歳からは福岡の大神学校で哲学、神学を収める傍ら通信制の大学でも学び充実した生活を送りました。
自由への誘惑も沸き起こってきて、結婚へのあこがれもありいろいろ悩みました。
神学校を辞めるといってでたこともありましたが、父親からひどく叱られました。
親戚の人たちにも謝って来いといわれました。
一番会いたくない人とばったり会ってしまって、辞めるとはとうとう言えずに家に帰りました。

みんなの祈りだけは裏切ることはできない、前田さんに決心をさせたのは子供のころから見てきた神父の生き方でした。
いろんな人と交わって行かないといけない、それは命がけでないとできない、仕事の大切さ、永遠の命のお医者さんみたいな手助けと思うのでその道にたける人になりたいなと思いました。
福音書の5章の5節に「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」という聖句がありますが、子供のころから不漁を体験していたので神様からのなにかあたえがなければ私たちは生きてくことさえできないので、人間的なことで一生懸命努力してもどうにもならないという時がある思うので、この言葉を思い出して、自分を最後に奮い立たせる言葉としてこれを選ぼうと、そしてその通りにすればきっと体力が与えられるだろうと、そういう風に期待してそういう覚悟で選びさせてもらいました。

母は被爆者でした。
突然丸太のようにパンパンに膨れ上がって歩けなくなったりしました。
母は60歳ぐらいになると脳梗塞など大きな病気をくり返すようになり、一人での生活が難しくなってきました。
当時長崎で宣教していた時に呼び寄せて一緒に暮らすようになりましたが、母清子さんが79歳の時に突然東京への移動を命じられます。
病気の母を思う葛藤との中で前田さんを助けたのが聖書の言葉でした。
「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」という座右の銘を放棄することは自分の大切なものを放棄するように思えて東京にいくことにしました。
2011年62歳の時にカトリック広島教区の司教に命じられます。
被爆地広島への赴任に前田さんは神の意志を感じたといいます。
2年後前田さんは広島県宗教連盟の理事長に就任します。

広島県宗教連盟は県内の神道、仏教、キリスト教の代表が集まり、宗教者の立場から平和を訴える活動を続けてきました。
前田さんが活動の指針としたのは、1981年広島を訪問した教皇ヨハネ・パウロ2世が行った広島平和アピールです。
「戦争は人間の仕業です。 戦争は人間の生命の破壊です。 戦争は死です。」
私自身も政治、経済にかかわる問題、そういったものを平和の観点から、人間の命の尊厳、人権そういった人格を損なうことが無いようにとかを政界、財界に対してでも要請していかなければいけないと思いました。
前田さんの思いは現在の教皇フランシスコとも強く響きあいます。
2013年に就任した教皇はアルゼンチンの出身、母国の貧困層への対策に力を注いできました。
教皇に就任後は核廃絶と平和を強く訴えています。
2017年教皇は一枚のカードを作り世界中に配るよう指示しました。
終戦後長崎に従軍したカメラマン、ジョー・オダネルが撮影した写真「焼き場に立つ少年」です。
亡くなった弟を背負い、焼き場で順番を待つ少年、きつく唇を噛みしめ悲しみをこらえて直立するその姿に教皇は「戦争がもたらすもの」という言葉を添えました。
核兵器はもってのほか、作ってはいかんという事を強く訴えたいという表情は本当に真剣でした。

日本は10歳代の自殺者が多いという事もおっしゃいました。
いじめ、差別などいろんなことが起きている、小さい時から助け合っていけるような人格形成が必要じゃないかと感じているので、不自由をしながら自分で体験がわかる人の苦労悲しみも体験として自分のものにできるような環境つくりを考えなければいけないと思います。
思いや入りのある人間、慈しみのある人間、人の悲しみに同情できる人間、そういう人たちが社会を指導するようになって行けば、差別、いじめなどは無くなってくると思います、あきらめてはいけない、希望をもって努力してゆく事が価値があり、実現につながってゆく事だろうと思います。



























2019年9月6日金曜日

山崎信之(アッツ島遺族会幹事)      ・"玉砕させた"祖父の眠る島へ

山崎信之(アッツ島遺族会幹事)      ・"玉砕させた"祖父の眠る島へ
アラスカのアリューシャン列島にあるアッツ島では昭和18年5月29日、およそ2600人の島の守備隊が全滅、この時初めて玉砕という言葉が使われました。
山崎信之さんは現在60歳。
その部隊を率いていた部隊長の孫です。
今年6月山崎さんは23年ぶりとなる国主催の慰霊巡拝で島に向かいました。
祖父が玉砕の指揮をとったという事を山崎さんは複雑な思いで受け止めています。
遺骨が多く残されている島を何を思い訪ねたのか伺いました。

6月20日に出発して慰霊巡拝という事でアッツ島に行きました。
成田からシアトル、アンカレッジまで飛んで、島伝いに給油しながら行くというそんな場所になります。
アリューシャン列島の端でちょっというとロシアという場所です。
セスナでアダック島で給油してアッツ島の上空をぐるぐる回ってお祈りをして戻るという計画でしたが、低気圧の影響で途中で引き返すという状態でした。
アッツ島まではあと200kmぐらいと聞きました。
非常に残念な感じがしました。
アッツ島の方向に向かって合掌しました。
祖父がその島の指揮をとる山崎保代大佐でした。
初戦勝ち続いて、アメリカらの反抗は北からと南からで、ミッドウエーと北はアリューシャン列島を占領しろと、そこで守りを固めればアメリカは日本に来ることはないという中の一つの作戦という位置付けだったと聞いています。
祖父が着任して守りを固めろという事でした。(昭和18年4月)

5月になるとアメリカ軍が反攻して上陸してくる。
多勢に無勢で兵器、武器、弾薬、食料も減ってきた。
最後は数十人で突撃して亡くなったと聞いています。
当時2600人いたがアメリカ軍は5倍ぐらい、1万1000~2000人といわれています。
アメリカ領だったので何が何でも取り返すという事だったと思います。
5月29日に全滅という事になる。
前日に書類を全部償却して通信機も壊して突撃したようです。
大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が使われた。
よからぬ方に使われてしまった、残念さ、士気を高揚するための材料になるなと、死んだ方はまさか思っていない、美談みたいになる複雑な心境、一番気になります。
誰に怒っていいかわからないが怒りはあります。
これを起点に「一億玉砕」という事でひたすら転がり落ちてゆく。

祖母からは軍人で偉い人だったぐらいのことは言われていましたが、戦争でお国のために亡くなったといわれていました。
小学校高学年ぐらいから本で読んで全員死んだという事を知りました。
中学高校になるともっと詳細に知るようになりました。
どんな思いで命令を受けてどんな思いで死んでいったのかもっと知りたいと思うようになりました。
弾薬、食料もなくなってきて精神状態は異常な状態だったのではないかと思います。
逃げろとか降参しろと言えない状態は非常につらいことだったと思います。
玉砕なんてやめればよかったというような方もいるという事も聞いたこともあります。
父は遺族会を長く勤めていましたが、真面目で無口なタイプでした。
6年前に父をつれて靖国神社に行きましたが、足も悪くなっており半分認知症のような状況でした。
難しい話ができない状態でした。
私にもできることがあればという事で引き受けることにしました。
亡くなったのは祖父だけのせいではないが、祖父の同僚部下たちの家族などへのケアをしなければいけないし、できる範囲で困ったことがあれば相談にのらなければいけないと思っています。
忘れてはいけないという祖父、父の声はあると思うんです。
去年アッツ島の戦いの75年の式典でアメリカに遺族の代表として招かれました。
式典でプレゼンテーションがあり、戦死した方の写真経歴の発表があり、大写しに出たときに女性が急に立ち上がり、「あれは私のお父さんだ」と大きな声で言いました。
その方は写真でしか父を覚えていない人でした。
その光景を思い出すたびに胸に刺さり泣いてしまいます。
遺骨収集は厳しい状態です。
この10年間は何も進んでいない状態です。
お骨は日本に戻したいと思っています。
祖父の遺骨もまだ残っています。
祖父は米軍の方が祖父の倒れた場所に掘って小さな石碑も作ってくれた様です。
まずはほかの方がたの遺骨、祖父の遺骨は最後にとは思っています。
厚労省と毎年交渉して予算をつけてもらうようにしていただきたいと思っています。
南方の遺骨収集に比べ後になってしまっている状況です。

アッツ島は観光地ではないので話題に上りにくいという事があり、知らない人が多いと思います。
アッツ島に関して映画、漫画などで紹介するような動きもあるので期待しています。
次にもし島に行くことがあれば、遺骨収集が進んでいると思うので、遺族の方も喜んでいると祖父に伝えたいと思います。
父の写真を持って行って親子で報告しようと思っています。



















2019年9月5日木曜日

大城立裕(作家)             ・伝統文化で戦争を語り継ぐ

大城立裕(作家)             ・伝統文化で戦争を語り継ぐ
1925年沖縄県なかぐすく生まれ、94歳になります。
太平洋戦争中は上海の東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく)の学生でしたが、徴兵されて兵役に就きました。
戦後は米軍通訳、高校教員を経て琉球政府沖縄県庁に勤務する傍ら沖縄の矛盾や苦しみを見つめた小説や戯曲を発表し、1967年には「カクテルパーティー」という作品で沖縄では初めての芥川賞作家となりました。
大城さんは今年沖縄の伝統芸能組踊が上演300周年を迎えるに当たって、終戦後の沖縄の収容所を描いた新作「花よ とこしえに」を書き下ろし先月舞台が初披露されました。
大城さんの戦争体験と新作組踊についての思いについて伺いました。

沖縄の国立劇場建設運動を役員として10年間やってきました。
建物が出来上がるころに伝統芸能を継承するには新作が無ければ嘘だろう考えたんです。
沖縄方言も自由自在に喋ることもできました。
組踊の唱えは3,8,6 と言って独特の「8,8,8,6」の調子なんです。
これに私は子供のころからなじんでいました。
年に一度村芝居があり組踊りが入っていました。
それをまねて遊んでいました。
そういったことがあり、これは私が書くしかないと思いました。
歴史を5つの時代に割ってそれぞれ一つずつ題材を作って書けばいいと思いました。
組踊の伝統には近代はないのでどうしようかと思いました。
戦争を扱うことにしてそれが「花の幻」で、主人公が有名な芸能人でこの人が戦場で亡くなったという事を伝説の様に聞いたのでこれを組踊にしたいと思ったのが「花の幻」です。
戦後はさらに難しくて、いろいろやってきて「花よ とこしえに」が一番新しいものになりました。
「花の幻」では大和兵隊を出しましたが、なぜ出したかというと、三線を日本の兵隊が折るという事で、日本の権力が琉球芸能を滅ぼすという事の象徴として書いた訳です。

太平洋戦争時代は私は上海の大学でしたので、日本の内地の戦争体験、戦争の雰囲気は知らないわけです。
学徒兵隊にとられて、初年兵の訓練を受けて蘇州の近辺の村々を訪れながら訓練を受けていました。
幹部候補生に受かって、蘇州の支団に集まって、訓練の教育が始まるといったのが8月15日でした。
午前中に機関銃の組み立てなどの訓練を受けているときに、下士官たちが忙しそうにしていました。
しばらくしてから「戦争が終わったからやめ」、これで終わりでした。
教科書がいろいろありましたが、焼けという事でしたが膨大でなかなか焼けなかった。
上海に戻ったのが戦後で、学校は無くなり日本人街に行って自活しなければいけなかった。
中国語の通訳として貨物省に入り食料などは何ら不自由しなかった。
地方により訛りが酷くて筆記で行ってそれを発音してもらって、いろんなところでいい勉強になりました。
初めて会っても、その人がどの地方の人かが判る様にもなりました。
沖縄の事は父から手紙が来て、姉が子どもたちをつれて熊本に疎開したという話もありました。
沖縄の戦況は殆ど知りませんでした。
初年兵の訓練では自分の時間が全くありませんでした。
帰りの船の中で沖縄に帰って方言を自由にしゃべれるんだろうなということでした。
那覇の港に入ったときには、ぎっしり建物が詰まっていたはずのところに鳥居だけが見えて、道路の広さにびっくりしました。
アメリカに支配されていることが如実に予感しました。
中城の両親の家に身を寄せました。
基地での労働後、非常勤の高校教員になりました。
生徒たちからは評判は良かったです。
反戦教育というわけではなく、私が学生時代に仕入れた思想をそのままぶつけて教えました。
国語はアメリカは嫌って(沖縄は国ではないし)、文学のことを教えました。
2年間で教員を辞めて公務員になりましたが、教員時代の2年間が私の人生の最高の人生でした。
両親は大丈夫でしたが、母の実家は6人全滅でした。(情報は全然わからず)

伝統芸能組踊が上演300周年という事で組踊がなお一層栄えていくようにとの趣旨で書いてくれという事でした。
クリスマス演芸大会は歴史にのこるイベントです。
「花よ とこしえに」主人公は娘を亡くして収容所で再会できた夫婦、孤児になった少年との出合いがある、それが組踊の役者です。
組踊はよく生き延びたなあと思います、後輩たちはよく受け継ぎました。
「花の幻」では主人公の芸能人、師匠が亡くなるが、死ぬ時に何を考えたんだろうか、芸能の未来を憂いながら死んだに違いないというのが、私のテーマです。
組踊はよく生き延びたなあという思いを込めて、「花よ とこしえに」を書いた訳です。
沖縄問題、戦争、平和については書くだけ書いたので、それを読んでほしいと思います。
沖縄に関して関心を持っていただきたい思います。(基地問題、芸能、文学、生活風俗など)



















2019年9月4日水曜日

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(2)人の出会いに支えられて

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(2)人の出会いに支えられて
17歳の少年ファム・ディン・ソンさんは自由を求めてボートでベトナムを脱出しましたが、定員の10倍の人が乗り込んだ難民ボートはすぐにエンジントラブルで漂流してしまいました。
脱出をして7日目にたまたま通りかかった日本人船長のタンカーに救助されました。
その後18歳のソンさんは難民として日本に受け入れられ、言葉を学び、仕事を覚え、持ち前のバイタリティーで自分の人生を切り開こうとしています。

タンカーは日本に向かって10日後に着くと知らせてくれました。
しかし、日本に連れて帰ることができなくて申し訳ないと船長が謝りました。
政府がフィリピンに降ろす様にとのことで、3日後にフィリピンに降ろされました。
受け入れてくれる国がなく難民キャンプに入所して、いつどこへ行けるのかわからなくて希望のない日々が続きました。
8か月後突然日本に行くという事になりました。
福岡空港に到着しました。
難民第一次対象者でした。
健康チェックがあり、姫路促進センターに送られて初めて日本語の勉強をしました。(3か月)
殆どわからない状況でした。
山梨県の貴金属の会社に入りました。
父の教えに従い勉強をしたいという思いがあり大学に行きたいと思っていたが、お金がないのでまず手に職をつけるためにその会社に入りました。
同じボートに乗ったもう一人と二人でその会社に行きました。
段々言葉がしゃべれるようになって、甲府教会に行くようになりました。
イタリア人の神父さんとの出会いのなかで、神父さんから日本語を学びました。
ある女性と知り合いその母親が教育委員会の人で夜間高校の聴講生としていくことになりました。
翌年入学試験に受かりましたが、会社は認めなくて、別の会社(コピー機の修理)に行く事になりました。
学校では40人ぐらいの人がいて、当時私は21歳でした。
楽しい時間を過ごすことができました。
2年目の春休みに大きな交通事故にあってしまいました。
頭を割って、体も複雑骨折をしてしまいました。
幸い目が覚めてベッドの上にいました。
入院して手術をして足も繋がりました。
仲間たちが毎日学校から入院先(20kmぐらいあるが)に学校で習ったことを書いたノートを持ってきてくれてありがたかったです。
ギブスには友達らの名前などがいっぱい書かれていました。
汚れた衣類などは夜間高校の友達の母親たちがやってくれました。
当時は学校には行けない、会社にも行けなくて収入もない、自分以上に不幸な人間はいないだろうと思っていました。
会社は交通事故に対しては冷たい対応でした。
入院中に神父さんがやってきて、以前神父さんになりたいといった事を覚えているのかと、遠回しに何度も問いただしました。
アメリカに行くかといわれました(神学校へ行って神父の道を歩むか)、それなら勉強しなさいと言われました。
英語を勉強しなければいけないと思っていたら、病院の同室の老人から「毎日友達が来てくれて幸せだね」と言ってくれて、涙が出てきました。
言葉の重みを感じて、方向転換させてくれたのかなと思いました。
退院まで10か月かかりました。
教会のつてで横浜区教会に入りそこから受験することができるように手配してもらいました。
アメリカに行くことはなくなり、上智大学を受験して神学に入って司祭のための勉強をしました。(23歳)
38年間日本にいて、人がいなければたぶん自分はたどり着かなかったと思います。
僕は漢字が好きです。
「人」という字には意味があり、たくさんの人が支えてくれたために今生きているという事だと思います。
必至に生きていたために、いろんな人とつながってくると思うんです。
運命という言葉がよくつかわれるが、私は運命はないと思います、運命があったら人間が駄目になる、人生は定められているものではない。
人生は一歩一歩自分で歩んで一生懸命生きることだと思います。
人との関わりができて世界を広く見れる、世界が変わってきます。
人に迷惑をかけないようにと親は教えるが、年々意味が変わってきているように思う。
人に迷惑をかけなければなにをやってもいいというように、発展してしているような。
触れ合いが少ないなかで人に迷惑をかけないようにというような。
人はある程度迷惑をかけあいながら生きるという方が正しいように思う。
いろんな人との触れ合いの中で生きるという事は温かい、冷たいという事がわかってくると思います。
出会いが無かったら今の私はないです。
































2019年9月3日火曜日

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(1)自由を求めてボートでベトナム脱出

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(1)自由を求めてボートでベトナム脱出
カトリック厚木教会の日曜ミサにはベトナムを始め厚木周辺で暮らす在日外国人が大勢集まってきます。
ベトナム人神父ファム・ディン・ソンさん56歳は在日外国人の様々な悩みや相談に乗り異国で暮らしている人の心の支えになっています。
1963年当時のサイゴン、ホーチミンで生まれたソンさんはベトナムをボートで脱出し、18歳の時に日本にやってきました。
ソンさんは幼いころテト攻勢の爆撃に逃げまどった戦火の記憶が鮮明に残っているといいます。
1975年北ベトナム軍を主力とする開放勢力によりサイゴンが陥落、べトナム戦争が終結しベトナム社会主義共和国が誕生します、ソンさん12歳の時でした。
しかしそれによりソンさん一家の生活は一変しました。
17歳のソンさんは自由も展望もないべトナム脱出を決意、しかし定員の10倍も乗り込んだボートは漂流し、脱出7日後に日本人船長のタンカーに助けられて、フィリピンの難民センターに送られました。
翌年18歳のソンさんは移民として日本に受け入れられ、その後さまざまな人々との出会いに支えられて日本で人生を切り開いてきました。
言葉も文化も異なる日本にやってきて、持ち前のバイタリティーで人とのつながりを作り、自分の人生を切り開いていったソンさんにお聞きします。

ソンさんは厚木教会のカトリック神父さんで、日曜日のミサには多くの外国人の方が集まります。
英語圏が中心となるフィリピンの方々、英語をしゃべるアフリカの人たち、べトナム人、中南米、ポルトガル語をしゃべるブラジルの人などが集まってきています。
日曜日は日本語、ほかに第一日曜日はポルトガル語、第二がベトナム語、第三が英語、第四がスペイン語となっています。
英語圏、ベトナム語は100人を越えます、150人ぐらいはきます。
スペイン語、ポルトガル語は50~100人程度です。
母国語で話すと心に染み込んでいきます。

家庭の問題、子供との文化の違い、会社とのトラブル(いところと悪いところがある)、自分の生き方も相談してきます。
一緒にかかわって、乗り越えていくようにかかわっていきます。
ベトナムは50年前の日本という感じです。
ベトナムのことを説明してもなかなか理解してもらえない。
北は共産主義、南はベトナム共和国の二つの国が1954年において出来上がりましたが、北から攻めてくる。
南は自然が豊富ですから。
アメリカは南をサポートし、北は中国とソビエト、キューバ、でも戦っているのは主にベトナム人同士で戦っていました。
状況をみて子どものころ何になりたいかといわれると軍隊になりたいと思うようになりました。
75年に陥落して、南にいる私たちは負けた国で迫害されるわけです。
物を奪われたり、地位の高かった人は地域を追い出されるわけです。
負けた方はおびえて何も言えなくておびえる毎日でした。
学校では全く変わって思想教育が始まって政治的に、私は小学6年でカムバックしましたが、共産主義の事しか教えてくれませんでした。
中学1年の時には打倒アメリカとさけばされるわけです。
学校では寝たふりをしたり北政府に反発ばかりしていました。
75年に新しい政権が発足して自由に物が買えませんでした。(配給制度が始まる)
米は3毛作でたくさんあるはずだが、北にもっていかれる。
親が南政権に携わったといったので学校にも行けないという事がありました。
この国から逃げようという思いが募ってきました。
共産主義は宗教は敵と思っていました。
高校1年の時に友達と逃げる道を探しました。
脱出は3度目に成功しました。
両親からはいつも反対されていました。
父がバイクで先行して、学校に行ってきますと近所に大きく聞こえるように声を出して、その後父に送ってもらって船に乗ることになりました。
向こうにいったら勉強をしっかりしろよという事は父から遺言のように言われました。
当時脱出が可能な確率は1~5%程度でした。
脱出した時には日本という国は頭の中にはなかったです。
7人乗りのボートに10倍の人が乗り込み、船が出発して船底に穴が開いてしまい、水を汲みだしながら3日目にエンジンが壊れて漂流してしまいました。
いくつかの船に出会ったが誰も助けてはくれませんでした。
7日後に大きな日本のタンカーに出会いました。
日本のタンカーは難民を助けてはいけないという風潮があったようです。
日本のタンカーは台風を避けるために路線を変えたために出会うことになったようです。
たまたま船長が我々を発見したようでしたが一旦過ぎ去ってしまった、しかし日本と連絡を取りながら30分後に戻ってきました。
台風もあり死を覚悟していたので、3日間は泣いていました。
どん底の気持ちの中からタンカーを見上げた時には言葉では言えない気持ちが起きました。
私が乗っていた船は幅が4m縦が13m、タンカーは幅が60m縦が300mでした。
生きるという希望が現実となりました。




























2019年9月2日月曜日

2019年9月1日日曜日

佐藤眞一(心理学者・大阪大学大学院教授) ・認知症の人の心の中を知る

佐藤眞一(心理学者・大阪大学大学院教授) ・認知症の人の心の中を知る
1956年東京都生まれ、早稲田大学大学院の文学研究科心理学専攻、博士後期課程を経て医学博士号を取得しました。
東京都老人総合所研究員、ドイツマックスプランク研究所上級客員研究員等を経て、2009年より大阪大学大学院の老年行動学研究分野の教授です。
長年高齢者の心理と行動の問題を研究してきましたが、最近認知症のひとの心の中はどうなっているのかという本を出版しました。多くの方が認知症と診断される方が多くなっていくと思うので、この中で佐藤さんは「キャンディー」(6-3)(CANDy; Conversational Assessment of Neurocognitive Dysfunction)と呼ばれる日常会話から認知症の人の心を知る試みや、遠隔操作型ロボットテレノイドを介して認知症の人の世界に入っていく実例など最新の研究成果を紹介しています。

人や動物の行動を研究する様々な分野がありますが、そういう分野を行動学、あるいは行動科学といいます。
私は高齢者の行動を心理学の方法で研究をしています。
能楽の分野で翁は神に近い存在と考えられていたようで、幽玄とか神秘の象徴といわれています。
正月の年賀は天皇の長寿を祝う儀式として機能するようなところもあったようです。
長寿が大事なところだったようです。
徒然草などに「耄碌」」という様な老いの否定的な面もありましたが、江戸時代以降儒教の影響で長寿者への尊敬の念が育っていったんではないかと思います。

認知症は40、50代に発症する若年性認知症と、老化と相まって80、90代という高齢になってからの認知症に分けることができます。
統計的には85歳以上の約半数は軽度を含めて認知症であろうと推測しています。
若年性の場合は進行の早い場合が多くて明らかに疾患ですから、早く治療法が確立してほしい所です。
長寿者の認知症は対応法を工夫することで普通に暮らすことが可能な人もたくさんいます。
65歳以上の認知症は2012年厚生労働省が発表した人数では65歳以上の15%462万人と発表されています。
現在では500万人以上と予測されています。
2025年には700万人と政府は発表しましたが、もうすこし多くなるかもしれません。
アルツハイマー型認知症、欠陥型認知症、レビー小体型認知症などがあり研究が進んできて原因疾患別の治療や介護が行われるようになってきました。

脳の損傷の影響と生活環境の影響と両方が影響をして、心理行動症状と呼ばれるが、対応の難しい行動に現れることがあります。
例えば食べ物でないものを食べてしまったり、何事にも意欲がなくなってしまったり、食べたばかりなのに食事を要求したり、不可解な要求行動が現れることがあります。
介護は英語のケアの訳語ですが、相手を思いやる、お世話をするという意味ですから、介護は思いやりから始まると思います。
いつの間にか指図するような介護になったり、介護者が苦しさのストレスにとらわれて落ち込んでしまうという事があったりします。
互いに互いが縛りあうような介護になってしまう事がある。
介護関係がうまくいくと安定した日常生活が送れるという事例がたくさんありますので、関係性を大事にしたいなあと思っています。

キャンディーという方式、日常会話式認知機能評価という日本語の名前が付いた認知症の方を簡単に評価する検査です。
長谷川式検査、MMSEという検査が世界的に有名な検査ですが、これはスクリーニング検査です。
いわゆる知能テストです。
プライドを傷つけられて怒り出してしまう方もいると言われます。
医療者もつらく感じる人もいます。
知能テストをしないで認知症の疑いがあるかどうかの検査ができないものかを考えましてキャンディーという方式を考えました。
最初はたくさんの会話例を作成して、各項目を評価してもらい、最終的に15項目30点満点にしました。
点数が高いほど認知機能が低下していて、6点を超えると認知症の疑いがあると考えました。

①会話中に同じ質問を繰り返して質問してくる。
この場合は記憶障害の有無をチェックする。
②質問してもごまかしたりはぐらかしたりする。
特にアルツハイマー方の認知症に多くあらわれる。
取り繕いという会話型が特徴です。
こう言った質問が15項目あって日常生活で何気なく尋ねます。
マニュアルも作成してホームページで無料で公開しています。
スクリーニングした後、その後画像検査など様々詳しく調べます。
アルツハイマー型の認知症は最近の出来事が覚えられないという特徴があります。
昔覚えたことは思い出すことが多い。

介護施設では介護者は1日のうちの全業務量のわずか1、2%ぐらいしか会話をしていないことがわかりました。
会話のほとんどが介護に関する指示などに限られていました。
学会で発表したが、MMSEというような方法では発展途上国では教育が行き届いていない面があるので、キャンディーという方式であれば実施できるということで私に握手を求めてきました。
キャンディー方式を多言語化したくて、現在は英語とデンマーク語版を作りました。
遠隔操作型ロボットテレノイドを使っています。

大阪大学石黒教授の研究チームと共同で研究しました。
人間の個性を究極までそぎ落とした個性のない遠隔操作型ロボットテレノイドです。
特にアルツハイマー方の認知症の進んだ方が気に入られています。
対面会話とテレノイドを介して学生とアルツハイマーの認知症の方との実験をしました。
直接対面して会話をするとお互いに緊張しますのでスムーズに進まないが、ロボットが間に入って会話をすると活発に自分からロボットに会話をするという事がありました。
周りは驚いていました。
絵本をロボットに読み聞かせする人もいました。
介護状況では介護者が自分の世界に認知症の人を連れてこようとするが、テレノイドを介して会話をすると認知症人の世界に会話相手である学生が自然に入っていける。
認知症の見ている世界は認知機能が変化してゆくので、私たちが見ている世界とは異なっているのが様々な実験などからわかってきています。

高齢者の自動車運転、老化現象として視野が狭くなる、判断のスピードが遅くなるといったものがあるが、認知症の人は視野の中に気になるものがあるとそれに注目してしまうという傾向がある。
これは自動車運転にとってはとても危険なものです。
味覚、嗅覚の低下、本人は何とも思っていない。
前頭葉機能に異常がある場合は、上品だった人が中には汚い言葉を使ってしまうというようなこともあります。
認知症によるストレスがこのような言葉を出させてしまっていると思われるが。
理解できないといって突き放してはいけない。
行動には必ず理由や原因があるので、そうした理由や原因を考えてみることが大事だと思います。
専門医への相談、本、認知症カフェなどが地域にあるので家族の経験談を聞くというのも参考になります。

80、90代で認知症になった人の場合は、認知症になっても支えあいによって幸せに暮らす方策がまず優先するべきだろうという事になりました。
認知症の人たちとの共生という言葉がそれを表しています。
若年性認知症の方は生活に大きな支障が出ますので、研究や医療技術の開発には優先して行われなけばならないと思っています。
原因の究明も盛んにおこなわれていますが、根本的治療は難しいといわれています。
共生も難しい概念だと思います。
当事者でなければ判らないことを家族などが正しく感じ取るという事はなかなか難しいと思います。
感じ取ろうと努力することが、それによってどちらにもより良い生活環境に変えていくことが大事だと思います。
否定されることはなかなか受け入れられないし感情的になってしまう。
お風呂を嫌がったり、おむつを交換することを嫌がったりすることがあるが、介護上の工夫が大事だと思います。

5歳まで一緒に育ったいとこが小児がんで亡くなりました。
葬式に行って、死というものの恐ろしさを感じました。
10歳のころに祖母がアルツハイマー型の認知症になり、祖母の異常行動とそれを泣きなながら叱る姿を見てなんとも言えない感情、善悪を越えた苦しみに見えました。
おばあちゃん子だったので複雑な感情を今でも思い出します。
祖母が夜中に鍋を焦がしてしまって、母が叱ったが、翌日祖母がどこかに行ってしまって、道がわからなくなり近所の人に連れられて帰って来た時には新しい鍋をもって帰ってきた。
ニコ・ニコルソンさんと漫画認知症をウェブサイトで連載しています。
ニコ・ニコルソンさんは東日本大震災で実家が被災してしまって、祖母がアルツハイマー型の認知症になってしまって、認知症の知識が浅く、私の本を読んで大変参考となったという事で望まれて漫画認知症という事で発表することになりました。
今後認知機能が低下した時には人はどうなるんだろうか、という事の予習、勉強になるのではなかと思うので、認知症の事を知っていただくことは大事なことですし、お役に立つことだと思います。