2017年4月14日金曜日

木之内均(イチゴ農園経営)     ・阿蘇に生きる、半歩でも前へ

木之内均(イチゴ農園経営) ・阿蘇に生きる、半歩でも前へ
熊本地震から1年、南阿蘇村立野では大規模な土砂崩れが起き、家屋の損壊、橋の崩落など大きな被害を受けました。
木之内農園は関東出身の木之内さんがおよそ30年前に一人で起こした農園です。
当時阿蘇では珍しかったいちご狩りの観光農園やジャムなどの加工品のアイデアで先進的な農業経営で全国的にも注目されていた農園でした。
昨年の大地震とその後の豪雨の影響で現在も農園は8割が使用できない状況です。
地震から1年、農園を取り巻く現状や 木之内さんの今の思いを伺います。

橋が崩落して先には行けません。
道路は新しく作り直しています。
少し残ったところで畑を耕して、これからジャガイモを植えます。
10ヘクタール近く作っていましたが、8ヘクタールが修復作業に提供していて、農業はごく一部しかできません。
飲料水の水も出なくて農業用水は何時になるか判りません。
水がないのでハウスは全く何も作れない状態です。
橋、道が出来たあと土砂を取り除いて元の畑にする作業があるので、5~6年かかるのではないかと思います。
社員は9人います。(12人いたが辞めた人もいます)
加工場も水が止まっているので12km先から水を毎日汲んできています。
事務所も石垣が崩れて解体しないといけません。

観光のトロッコ列車も止まっています。
今年の梅雨の時期に崩れる可能性もあります。
ハウスが10以上あるが橋の工事のために全部たちのかないといけない。
年間5万人のイチゴ狩りに来て居ましたが今年は全くないです。
農業ボランティアでジャガイモの植え付けをしてもらっていますが、本当にありがたいです。
助けがなければ事業自体が成り立たなくなってしまいます。
地震後、1年は早かったなあと思います。
現場では復旧の入口です。
14日の地震は阿蘇は何にも影響がなかった。
熊本は地震がないといわれていて、前震があった時はこれで地震は終わりだと思っていた。
夜中に本震が来て、陸路が崩れて通れなくて缶詰になりました。
橋が落ちてなければ会社まで5分ですが、会社に来たのは3日目の夕方でして想像を絶する揺れでした。

ベッドにはいつくばっていた感じで揺れが長かったです。
家が滑り落ちているのではないかと思いました。
皆さんには是非懐中電気を枕元に置いておいてもらいたい。
娘の部屋に行くのに物が崩れて居て、何も見えないし、ようやくたどり着いて娘がスマホを握っていたのでその光で2階からようやく降りてこられました。
水槽にウナギを飼っていたが、ありとあらゆるものがめちゃめちゃでした。
懐中電灯を探したが置いてあるところに無かった。
ようやく懐中電灯を探して、集落に行ったが殆ど家がつぶれて居ました。
姪が堀炬燵に隠れたが挟まれていてしまいなんとか助けたが、半年ぐらいは家の中に寝られなかったです。(ワゴン車に寝て居ました)

立野地区の人は大津町の仮設住宅に行ったり親戚にいったりしています。
私も大津町にアパートを借りて居ます。
山にはまだ亀裂が入っていて、地震よりそのあとの集中豪雨で崩れた山の方が多いです。
今年の梅雨で又崩れるのではないかと心配です。
戻ってきたところで水田での仕事がないということもある。
滝野病院があるが100人を超える雇用をもっていたが、ここも閉鎖になっている。
私のところもパートさんの雇用はできなくなった。
若い人は離村の可能性が高いです。
うちは観光農園で規模も大きかったが、今の規模を維持するには他のところには無くて、
他に移る事はできない。
なんとか時間はかかっても立野でやろうと思っているのが会社の方針です。

大学が農学部で子供のころから農場主になりたいと思って現在に至っています。
立野は棚田で外輪山の切れ間に在り、まつぼり風が吹くところで条件のいい場所ではない。
昭和60年ごろは地価の高い時期で場所のいいところには入れなかったので、ここが借りられた。
そして少しずつ大きくなってきた。
私はもともと動植物が大好きでした。
子供時代は川崎にいたので川崎ぜんそくになり、苦しい思いをして、親が引っ越しを決断して町田に行き、周り中山と畑しかなくて、本当にうれしかった。(小学生の頃)
動物を飼うのが好きでしたが、餌の確保に苦労して最終的には自分でお寺の畑を借りて作業して餌を作るようになりました。(小学校5年生の頃から高校まで)
肥料には家のトイレから取り出して利用したりしていましたが、近所から文句を言われたりしました。

34歳のときにあごにがんが出来てリンパに転移していたら長く生きれないといわれて、半分死刑宣告を受けたようなもので、その時若い者たちが家にいてくれて居なかったら100%つぶれて居たし、農業は諦めざるを得なかった。
彼等に何か恩返しをしたいと思って、出資をして取締役になりチームをまとめていけば自分が死んだ後でも続けられるかもしれないと思って、彼等を呼んで会社にしないかと言って、それが有限会社にする大元なんです。
農業はたんぼまで水を引っ張ってくるには何km言う水路が必要で、農道管理もそうだが地域の人たちが共同で守っている。
野焼きもみんなでやっており、野焼きをやめたらブッシュになり阿蘇の景色も見渡せなくなる。
一人ではできないので地域をどういうふうに大切にするかは避けては通れない。
若い後継者が減っているので人材を育成してゆくことも大事です。

無一文から始めて大病したりしてやってきましたが、「危機はチャンス」という言葉がありますが、今度の震災も大きな危機ではあるが、発展的な復興を願っています。
ここは阿蘇の玄関口なので、外輪山を越えないと阿蘇に入れない、立野が唯一の切れ間になっていて通れるところなので、この地区は必ず建て直ると思います。
地域に産業が根付いてないと人も住めないし活気も出てこないので、初めからもう一度作り直せるので、観光農園を作りなおしたいと思っています。






































2017年4月13日木曜日

吉村孝司(天草エアライン社長)    ・たった1機の航空会社

吉村孝司(天草エアライン社長) ・たった1機の航空会社
天草エアラインは所有する旅客機が1機と言う航空会社です。
熊本県天草空港と、熊本、福岡、大阪の間を一日10便が運航しています。
社長の吉村さんは62歳、日本航空で主に営業を担当し、20014年天草エアラインの社長に就任しました。
社長自らが搭乗前の手荷物検査、機体の清掃などを担当するなど社員全員が出来ることを何でも担当するという社風で逆境を乗り切って来ました。
1年前、熊本地震が起きた時には臨時便を運行するなどして、地域の足としての役割を果たしました。
小さな航空会社の経営をどうかじ取りし、大手航空会社にはないサービスを展開しているのか伺いました。

最新型の飛行機、「ATR42」フランスとイタリアの合弁会社の飛行機で日本で初めて導入、音も静かです。(プロペラ機)
1200m~2800mぐらいの低い高度で飛ぶので眺めがいいです、
天草空港がベースで10便飛行して居ます。(天草、福岡、熊本、大阪)
天草空港は午後8時30分までなので、それを超えると入れないので最悪欠航となることもあります。
就航率は過去5年間95%は就航しています。(大手とは引けを取らない)
安全が第一だがお客さんが定時に出発できるように皆が心がけています。
熊本地震から1年になるが、その時熊本市にいて吃驚しました。
2回目の地震の時に熊本空港が閉鎖になり、新幹線も止まってしまい、天草空港は使えたので、天草と福岡を飛び続け臨時便も出したりしました。
交通網が遮断した時に我々の飛行機はずいぶん役に立ったと思います。

熊本県と天草西町で80%ぐらいの出資比率で、残りが天草の民間企業と言うことになります。
天草は島なので不便さを解消しようと言うことで設立されました。
天草は医療施設が沢山ありますが、医者の数が不足していて、天草以外の所から来るときに飛行機を使って通勤代わりに使っている人が30名ぐらいいます。
命の翼と言われていて、そういった関係で毎日運航できるようにしています。
コスト削減のために最低限の社員しかいないので、手伝いすると云うことで私を含めて営業の人達などもヘルプする体制になっています。
手作り機内誌もコストをかけないでお客さんに喜んでもらうというコンセプトで作られました。
一人何役もこなすが、コスト削減と大手航空会社にはない温かみのあるサービスをコンセプトにやっています。

私は日本航空に40年近くいました。
一番長いのは営業です。(旅行代理店との団体営業が主)
日本航空は2010年に経営破たんしたが、その時は鹿児島支店長でしたがびっくりしました。
飛行機は飛ばさなければいけないので、従来通り一生懸命やらないといけないという記憶があります。
去って行く従業員がいて心が痛みました。
2014年に社長に就任することになりました。
前社長もJALのOBで、退任すると云うことで後任にどうかという話があり、そういういきさつで受けることになりました。
どんな会社かということはあまり判りませんでした。
天草エアラインに乗ってみて経験したことのないほっこり感を感じました。
2008年ごろ会社そのものが経営危機に見舞われた。(まだ私が会社に入る前)
リーマンショック、東日本大震災がありお客さんが低迷した時期でした。
債務超過に陥る時期でした。

整備費用がかかるので補助をいただく事と、お客様も増えてきて利益が出るようになりました。
前任者の社長が社長室をぶっ壊してみんなと同じように坐って、コミュニケーションを図ったり、機体の掃除も社長も参画してみんなでやるようになった。(危機感の共通化)
16年前にたちあがった会社で、当時からのスタッフが殆どです。
2009年以降決算が黒字になっています。
市をあげてサンタの街ということで年間を通してイベントをやっているので、クリスマスにサンタの恰好をしてもらっていただけると3000円と破格の割り引き運賃を導入したりしました。(一カ月間座席のコントロールもしながら)
かなりのお客様に利用していただいて大成功でした。
マスコミにも取り上げられ集客につながりました。
ANSB(天草をなんとかせねばいかんばい)という組織を作って、いろんな人がアイデアを出したものを吟味して、その活動で色んな事をやっています。
梅雨の時期に黒い傘を使うが、レインボウカラーにした方がいいと言う事で導入したり、そういった積み重ねで、お客さんが喜んでもらえるようにしています。

あっという間の40年でした。
高校時代に或る放送会社で1か月の派遣の話がありヨーロッパに行く機会があり、見るもの触るものすべて初めてで、心に残って世界と一緒に関わっていきたいとJALに入りました。
天草に来てここはパイロットも客室乗務員も整備、営業、総務もオペレーションも全て同じところにいるので、航空会社にいるんだなと、ここに来てよかったなあと思います。
事業を拡大することは難しく、いかに一機を大事に飛ばしてゆくかと言うことと、費用は決まっているのでいかに収入を増やしてゆくかを考えていかないといけないと思う。
高齢化で年々人口が減っていくのでお客様を増やしてゆくのは厳しいが、天草以外の方々を呼び込むしかないと思う。
外国の方はあまり見かけないので、天草にも外国の方を呼び込むための企画商品、外国人が来やすい様にやっていきたいと思います。























































2017年4月12日水曜日

早川由美子(ドキュメンタリー映画監督)  ・輝くインドの女性たち

早川由美子(ドキュメンタリー映画監督)  ・輝くインドの女性たち
フリーの映画監督早川さんは一昨年、インド、デリーのアジア女性映画祭から招待を受け、その時のインド紀行を2週間の旅日記として製作しました。
現在日本国内各地で上映展開しているこの映画はアジア各国の懸命に生きる女性の姿が生き生きと映し出され映像を生かして自国の難しい状況を必死に伝えようとする女性映画監督の迫力が画面に浮かびあがっています。
早川監督が感じたアジアの女性たちのパワフルな底力はもの言う機会のなかった女性たちが新たな手段として映像を記録、国や地域に訴え社会を変えて行く姿が具体的に判ります。
ストレートに国情を訴える女性の姿と早川さんの受け留め方をお聞きします。

ビデオカメラが段々小型化して、パソコンで編集ができるようになったので女性も段々進出してきました。
映像の凄さに感動して、ビデオカメラで表現したいと思うようになりました。
ティッシュペーパーを配るアルバイトをしていてホームレスの人たちと仲良くなっていて、女性が一生安定して働くには公務員しかないといわれて、郵便局員として働いていました。
駅、公園のベンチのまん中にひじかけがついていて、野宿者を寝かせないためにつけて居るのではないかと思って、凄く厭だと思って、街中から坐ったり、たむろすることに違和感を感じてそのことを取材始めました。(まだ勤めて居る頃)
それを記事にしましたが、何処も載せてくれる媒体はありませんでした。

あるインターネットのサイトが始まって、そこに記事を投稿したら思わぬ反響がありました。
ホームレスは自己責任だ、椅子を占領する方が悪いとか、そういったコメントであふれて居て世の中にはこんなふうに思う人がいるのだと吃驚しました。
この記事に関してTV局から4日間取材されて10時間撮影されて、最終的に放送されたのは3分ぐらいでした。
それを見たときに、表現される世界の情報量の多さと豊かさに圧倒されて私も映像をやってみたいと思うようになりました。
ジャーナリストになりたいと思うようになり、5万円のホームビデオを買ってイギリスに留学しました。
ロンドンの国会の前にテントの群れが並んでいるのが見えた。
イギリスは 国会の前にホームレスがいると思ったら、政府の戦争に反対して抗議活動をしているんだと言われた。

それを記録し始めました。(第一歩でした)
2009年に映画を完成させて日本ジャーナリスト新人賞に応募したら選ばれました。
当時、インターネットに動画を投稿することがはやり始めた時期でもありました。
小さい作品を80品ぐらい作って学んでいきました。
7~8品 原発で家族が崩壊してゆく家庭、公団住宅の問題などの作品を作る。
私は社会運動とか、デモとか何もしていなかったが、映画の上映を通じて社会問題に取り組んでいる人が呼んでくれて、あらゆる社会問題に触れるきっかけになりました。
日本の社会運動を見たときに高齢の方が多い、平和運動でも安保運動での人たちが頑張っている。
若い人の関心はなく日本の高齢化を思いました、、貧困、労働問題でもそうでした。
若い人たちには生活に余裕がなくて、無理だと云うことが判り、住まいの事が何とかなればもっと社会問題の関心も持つのではないかと思うようになりました。
わたしのなかでは住宅が大事なテーマになっています。

一昨年、インドの映画祭。
知り合いに日本駐在のインド大使を紹介してもらって、インド大使は女性だった。
「インドで活躍する女性達」という本を頂いて、面白そうな女性達の事を知りました。
そしてインドに行って、行き当たりばったりの取材をしました。
デリーからアーメダバードという都市に行きました。(ガンジーが育ったところ)
女性の日雇い、露天商とかの労働者が、自分たちの生活、地位を向上させるために組合を作り、銀行、学校作って組織を回している事を知って、会員が200万人がいて40年活動しているとのことでいきました。
文字が書けない読めない人がたくさんいる、担保を持っていないのでお金を借りれない。
高利貸から借りるしかなくて、一生を縛られてしまうので、自分たちで銀行を作ることにする。
文字が読めないのに、40歳から映像制作する人などもいてとてもパワフルです。
自分に自信を持てるようになったと言っています。
映画作りを始めて10年以上になるが原点をみるような思いをしました。

インドの映画作りをやっている人は一般的にエリートが多い。
彼女たちのドキュメンタリー映画は社会を変えて行く武器として使っているという側面が多いと思います。
住居、健康、雇用、暴力、など色んな事を取り込んでみんなに知ってほしいと出してゆく。
「アジア女性映画祭」と云う名前なのでアジアに起源をもつ女性監督の映画が上映されている。
ヨーロッパに亡命している人の作品も上映されていました。
イランの監督とかはスカーフをかぶっていないといけないが、スカーフをかぶらないで出演したので、国に帰った時に政府から引きとめられるかもしれない、政府から助成金が貰えないかもしれないと言っていました。
インドの監督、農地が強制的に取り上げられたり、工場汚水が垂れ流しになり農地が荒れてしまったとか問題が起きているが、そういったことが報道されるのはまれです。
しかし彼女は10年かけて取材して映画にしました。
彼女は暴行を受けて腕を折られて、逮捕されて裁判も開かれないで有罪になって服役して刑務所から出てきて映画を完成させたと言っていました。

カースト制度は法律では禁止となっているが、社会には根付いていて無くすのは難しい状況です。
彼女たちには激しい戦いですが、それが彼女たちが戦う気を起こさせているのかもしれません。
日本でもいろいろ社会の問題はあるが、TV、新聞で取り上げるのはほんの一部で、限度があり、状況を変えたいと思うなら、自分たちで撮って行くのがいいのではないかと思います。
彼女らに見習うべきだと思います。
技術ではないんだよと言っています。
今は撮ったものを瞬時に誰のチェックも受けず、世界に発信されてしまうので、トラブルをどう考えるか、いろいろ問題があると思いますが、そういったことをディスカッションしています。
言いたいことがあって何かを表現している人と接していると、私はこういうふうに生きて居るの、あなたはどうやって生きて居るのと、自分の生き方を問われ続けていると思うので、それが自分の人生をより考えさせてくれるきっかけを与えてくれたし、豊かにしてくれていると思うので、その体験はいろんな人にして欲しいと思っています。















































2017年4月11日火曜日

中野慶(児童読み物作家)      ・ヒロシマの意味を問い続けて

中野慶(児童読み物作家) ・ヒロシマの意味を問い続けて
東京都生まれ59歳 1976年に原水爆禁止運動で被爆者と出会った事から反核運動に参加、出版社で編集者として働きながら、被爆体験の聞き取りを続けて来ました。
アトピー性皮膚炎で苦しんだ自身の体験から被爆者のかゆみに着目し、かゆみを通して被爆者の苦しみに向き合う中学生を描いた児童文学「やんばる君」を執筆するなど、独自の視点から独自の被爆体験を残そうとしています。
中野さんがプロ野球広島カープの新井選手の歩みを絵本にまとめました。
広島にかかわる深いメッセージが込められています。
年々継承が困難になっていると言われる被爆体験を次の世代にどう繋いでいくかお聞きしました。

新井選手は25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。
今年40歳の大ベテランでカープの中心選手。
小学校3年生の時の新井選手に光を当てて、1985年の物語としてこの本は始まっています。
人間的な魅力、素晴らしいひたむきな人柄を子供からお年寄りまでお伝えしたいと思いました。
野球を中心に新井選手の成長物語を書いていますが、脇役が二人登場して、ブツエン先生と「はだしのゲン」で有名な中沢啓治さんです。
中沢さん自身被爆者で原爆でお父さんと、兄弟二人を亡くされています。
この本では中沢さんのもう二度と原爆を繰り返して欲しくないという強い思いを若い世代にブツエン先生と、新井選手が受け止めて行くことが書かれています。

被曝の苦しみと貧しさにも負けずに生きてきた広島の皆さんにとっては広島カープは市民球団で心のよりどころになっています。
25年ぶりの優勝を喜ぶファンの皆さんの心の奥には苦しかった時代の思い出がいつも離れない。
新井選手の成長物語と25年ぶりの優勝を祝っていただける喜んで頂ける内容となっています。
新井さんは放課後遅くまで「はだしのゲン」の本を全巻読んだそうです。
被爆者の戦後の苦しみが並大抵ではなかった、肉親を奪われ食べるもの住む家がない中で人生を歩まざるを得なかった。
踏まれれば踏まれるほど強く生きて行く、ひたむきで強い姿は新井さんが子供時代に「はだしのゲン」に出会った事に深く影響されていると思います。
中沢さんは広島カープ誕生から熱狂的なファンです。
中沢さんは新井選手をずーっと応援してきました。

私は子供時代は東京で育って身近に被爆者はいませんでした。
初めて被爆者の証言に耳を傾けたのは1976年大学1年生の時でした。
悲惨さ地獄絵のようなことに信じられない思いでした。
8月6日、9日は重要な事ではありますが、被爆者であるがゆえに仕事に出会えない、結婚に反対されるとか、さまざま差別を受けたと云う事を含めて、多くの苦しみ悲しみがあったということに目を向けていきたいと思うようになりました。
少しでも理解したいと思いました。
被爆者の証言する機会があると思うと積極的に動いて聞き取り調査をしていきました。
1対1の証言では50人を超えたと思います。
複数を対象にしたことを含めれば100人は超えています。

1985年行宗一さんらと話をしたときに、「皆さんたちは私たち被爆者をカンパを届ける対象としていつまでも見ないでください、このようにお酒を飲んだり、話したり人間同士の付き合いをして行きましょう」と言われた時はハッとしました。
カンパをしなくてはいけないと感じましたが、お金の面だけではなくてもっと一人ひとりの被爆者に人間として向き合ってゆく、親しくなってゆく事が大事だと云う事を強く感じる様になりました。
その2年前に、1983年に肥田舜太郎先生、医者で被爆者でもある方で、先日100歳で亡くなられました。
医師として広島で被爆者と向き合っていたときに、被爆者の数人の方がケロイドの個所を猛烈にかゆがってつらそうにしている、そういうエピソードを話されて、私にとって吃驚仰天するような話だったんです。

私は子供の時からアトピー性皮膚炎で苦しんで来ました。
被爆者は自分とはまったく違う世界に住んでいると思っていたが、かゆみの苦痛をしている被爆者がいたんだと云うことで被爆者との距離が近づいた様に思います。
「やんばる君」 2000年に書いている、被爆者のかゆみについて書いています。
1995年 中学校1年生が主人公でアトピー性皮膚炎でかゆみに苦しんでいる少年。
ヤンバルクイナにちなんだ少年のニックネーム
彼は夏休みの自由研究で沖縄に行きたかったが、広島の事にテーマを切り替え、被爆者のかゆみの問題に直面して、その少年が被爆者から聞き取って行く、自分の皮膚感覚と通じ合う被爆者の苦しみから学び取ってゆくということはまさに私が感じ取ったことです。
被爆者はケロイドの痒さを大げさにはしないが、何故だろうと思い、かゆみも苦痛だったろうけれども、8月6日の広島でおびただしい人が亡くなって行く、助けることもできない。
その後の差別などの苦しみにも直面して行く、結果としてかゆみの苦痛はより相対的にちいさな事になってしまった。

自分自身が感じ取ったことを変形しながら書いたものです。
本当のところを感じ取ってくれたのは大人の方が多かったです。
編集者の仕事が忙しくて夜中までやっていましたが、その上に自分の本を出すということは困難な事でしたが、無名な人がひたむきに生きてきたことがとても大事だという人生観を持って来たので、歴史を動かすのは無名な民衆であるということを信じてきたものです。
若い世代に被爆体験を問い続ける本を何冊も書いてきました。
爆心地から2km離れた広島の或る地域に25回ぐらい通って、そこは被爆に苦しむ人が多くて、60人ぐらいの人から3年数か月かけて聞き取りをして、その町の戦後史を聞き取る中で本名で本を出す事が出来ました。

人間を見る目がすこしづつ豊かになったかなと思っています。
一人ひとりが人間として何に向き合ってきたのか、人に語らずに墓場にもっていきたいと言う思いの人もいれば、胸に秘めてきたことを私に語ってくれる人もいます。
かけがえのない出会いを出来たと思います。
被爆体験はつらく重たいことなので被爆者から2世、3世に伝わって行く事は難しい。
被爆者は高齢になってしまったが、なんとか証言を続けている方が多いが、専門家としてデジタルアーカイブの様な形で世界に発信していることもあり、広島に関心を持ってくれる条件はあると思います。
長い時間の流れの中で被爆者がどう生きて来たのかとか、どのような喜び悲しみ苦しみ辛さがあったのかと言うことをしっかり聞きとろうとしてきました。
原爆の被害によって人生が変えられてしまった人たちをトータルにとらえなおすことが必要ではないかと思います。

大多数の被爆者は有名ではないし、広島長崎に暮らしていた庶民として被爆と言うすさまじい体験をして、それを乗り越えて生きたという事は、庶民の歴史でありながら世界史そのものに足跡を刻んできた。
語り口は淡々としているが何度聞き直しても重たいものを持っているし、自分自身を奮起させてくれるようなものを持っていると思います。
自分はまだ被爆者の苦しみを本当に理解出来て居ない、被爆者の苦しみの本当のところをつかみとっていきたいと人一倍強かったが、被爆者の苦しみに寄り添う形で生きてきて、それが宝物だったように思います。






























































2017年4月10日月曜日

宇津木妙子(ソフトボール・ドリーム理事長) ・【“2020”に託すもの】

宇津木妙子(NPO法人ソフトボール・ドリーム理事長)・【“2020”に託すもの】
ソフトボールは日本が金メダルを取った2008年の北京オリンピックの後種目からはずれてロンドン、リオでは実施されませんでした。
しかし2020年の東京オリンピックでは野球とともに3大会ぶりに実施されることが決まっています。

2008年ソフトボールで金メダルを取った時には放送席が大変で、放送中ですがおめでとうを周りからの声がありました。
その時は大泣きしてしまいました。
1964年東京オリンピックの時、小学校5年生で、たまたま飯島選手から聖火を頂き、運動会の時に聖火をもってグラウンドを2周走って拍手を貰い、オリンピックと自分がラップしていて、何で私だったんだろうといまだに不思議に思いました。
その頃スポーツは好きでいろいろやっていました。
中学校に入ってスポーツで母に褒めてもらいたいと思って、いろんな部に入ったんですが最後にソフトボールをやるるようになりました。
入ったんですが、先生の指導が厳しかったが、その時のとの出会いは今の指導の中でも生きて居ます。
ソフトボールはそれぞれの個性の良さを出せると先生から言われたことは、誰にでもできる手ごろなスポーツだと思います。

ソフトボールは人生そのものだなあと思います。
ピンチがあり、チャンスがあり、苦しい時に逃げたいと思った時に誰か助けてくれたり、でも最後は自分なんだと、自分でミスしたことを取り消すには自分が頑張らなければいけないと学びました。
ソフトボールは一人ではない、だけれども最後は自分なんだと云う事を学びました。
挨拶、時間厳守など当り前な人間教育をさせてもらったと思います。
高校、企業スポーツでもソフトボールを続けました。(13年間)
オイルショックで会社が厳しい中で続けることも有難さ感謝を学びました。
雑用、トイレ掃除などもやらされてコンプレックスも感じたし、3年頑張って人事異動があり寮生と向き合って人をどうやって生かしたら良いかを学びました。

28歳のときにジュニアのコーチをさせていただいて、埼玉に戻った後コーチをしていたら、昭和60年に監督が決まるまででいいから来てくれと言われて行って、12名の選手のいるチームに行きました。
コーチを引きうけ、31歳でバリバリだったので、先頭切って一緒にやりました。
年末に工場長に呼ばれて監督をやってほしいと言われました。
父からはお前が背中を見せてやっていかなければいけないといわれました。
企業スポーツの経験してきた厳しさについても、父にもいろいろ話したら父も泣きました。
女性は公平に扱わないといけないとか、一人ひとりその中から活かして行く事などいろいろ話す中で、やってゆくことを約束しました。
指導者になったら素の自分をさらけだそうと思って、父の涙から学びました。
チームは3部から上がっていって、日本の3冠をとってしまうまでになりました。

アトランタでソフトボ-ルはオリンピックの正式種目になってその時はコーチとして参加、2000年シドニーでは銀メダルを取ったがその時は監督として、2004年のアテネでは銅メダル、2008年は解説者としてオリンピックに行きました。
アトランタは最強のチームだと思いましたが、船頭が5人いて、組織も悪かったのか選手をうまく使いこなせなかったのが一つの敗因にもなったし、経験不足もあったと思います。
これからは守って守って守り抜いたら勝てるのではないかと思いました。
22名の選手を選んで、各々の性格なども考えたりして、向き合って話し合って指導して行きました。
厳しい練習にみんなよく付いてきました。
2000年シドニーでは銀メダルでした。
決勝では同点となり、投手交代を考えたが出来ず、雨の中で戦う中、アメリカのチームは8回の裏、審判が今までストライクを取っていたのが段々ストライクを取ってくれなくなったとキャッチャーが言ってきて、高山のうえのボールでいいから攻めろと言って、高めのボールをレフトに打たれて、レフトが滑って終わりました。

2008年にも雨が降ってきて、その時の場面は一生忘れられないと思いました。
2000年シドニーでピッチャー交代していれば金メダルは取れたと思っていたので、選手に申し訳ないと今でもいっぱいです。
アメリカは強かったです。
2008年には金メダルを取る。
上野投手の413球の熱闘、上野だったら絶対やってくれると思って、夢を彼女に託しました。
次からオリンピックから外れることになる。
普及しか無いと思って、最初ヨーロッパ ロンドンに行って、グラウンド、道具も何とかしないと思ったが、西アフリカに行った時はもっと厳しく草ぼうぼうのグラウンドで、時間はルーズ、何やっていいかわからないような人達で、グラウンド作りから始めて、指導者に指導して、翌年は道具を持って行って子供たちにも指導をしましたが、普及はなかなか難しいと感じました。
身体能力はよかったのでちょっと教えると早かったので、やって観て面白かった。

2011年 リオでのソフトボールの参加の可能性があったが駄目でショックでした。
同年 NPOを立ち上げる。
大震災の時だったのでどうしようか迷ったが、①復興支援、②オリンピック復活、③社会貢献、この三つを柱に書類を出して認可していただきました。
52年間ソフトボールで走ってきたので、ソフトのおかげで今の自分がいるし、いい選手と出会えたし、いい指導者先輩に出会ったし、恩返しをしていこうとしました。
福島、岩手に行ったりして自分の出来ることをやって行きたいと思っています。
2020年、野球、ソフトも勝たなければいけないという使命があり、結果をださなければいけないし、普及もしていかなければいけないと思います。
ソフトボールは人生みたいな感じがするので、世界中の子どもたちに伝えたいと思います。
そのあと続いて行くにはいい試合をしてほしいと思います。
ソフトボールは全部つなぎです、応援も含め和を広げて行くスポーツだと思います。






























2017年4月8日土曜日

向谷地生良(浦河べてるの家理事)   ・弱さを絆に

向谷地生良(浦河べてるの家理事)   ・弱さを絆に
北海道日高地方に浦河町に精神医療の常識を覆すと、世界から注目さわれているコミュニティー社会福祉法人、浦河べてるの家があります。
「べてる」とは旧約聖書の中にある言葉で「神の家」という意味です。
ここでは精神障害のある人達150人が全国から集まり、地域で働きながら共に暮らしています。
べてるの家のメンバーで特に多いのが幻覚や幻聴、妄想を伴う統合失調症です。
理事でソーシャルワーカーの向谷地さんはメンバーがたがいに助け合いながら病気と向き合い地域で生きる為のユニークな取り組みを40年近く実践してきました。
心の病に苦しむ人たちがどのように暮らしているのか、伺いました。

精神障害がある人たちがよりよく生きるためにさまざまな仕組み考え、従来タブーとしてきた幻覚や幻聴妄想との共存を目指しています。
本人たちに聞くと辛いし怖いし、その思いを聞いてもらったら楽になる。
私たちが辛い時に聞いてもらうと楽になるのとおなじなんですね。
単純に聞くのではなくて機嫌よく聞く、楽しい出来事、大事な出来事として聞くわけです。
自分で自分がイメージする病名を付けたらと言うとその名前が全部違うんです。
自己病名をつけ、ユーモラスに語り返すことで病気と言う経験を自分の生活の一部だと云うことで分かち合える。
みんなが培ってきた生きる文化だと思います。

理念があり、「弱さを絆に」、「昇る人生から降りる人生」、生きづらさを抱えた当事者が社会で生きて行くために生み出されてきたものです。
心の病はその人の生きづらさ悩みがに詰まった状態、その中で精神のバランスを崩して病気になっている。
助け合いは必要だと云う事が改めてわかる。
暮らしの中で煮詰まった生きづらさ、苦悩が最大化すればそれをどう生きるか自分らしく、自分のペースで模索して行く、それが生きることで生活すること。
大変ですが、自分のものとして取り戻すことは大切なきっかけになる。

日本の精神医療は入院を中心に考えられてきました。
多くは長期入院となり、病院を増やした結果、入院患者は世界でも突出して多くなっています。
べてるの家は昭和54年にはじまり、精神障害のある人が地域でどう暮らすか模索してきましたが、症状は一進一退でした。
必要以上の入院や薬には頼らない。
生きづらさを仲間に打ち分け、たがいに苦しみ、辛さを共有し、生き易さを目指す。
私は最初は混乱状態でどう対処していいか分からず、積み重ねの中で生まれて来ました。
おまえはだめなやつだとか、死ねとか、辛い状況に追い込まれて、そういった幻聴を共有します。

同情しつつ笑ったりする訳です、情けないけど笑える話があるわけです。
他の人の役に立ったとか、幻聴さんと喧嘩してはだめなんだとか、幻聴さんには優しくしてあげると突然帰ってくれるとか、幻聴さんが判ってくれたとか、やってみたらその通り幻聴さんが帰ってくれたとか、ということで受け継がれていって自分の経験が人の役に立ったんだと云うみんなにとって大きな経験です。
共同生活をしていて、グループホームでは仲間同士が悩みを語り合います。
最近まで治療の常識として、見える(幻覚)、聞こえる(幻聴)、誰かに狙われているとか、そういうことを語らせるとだめだという常識があったんです。(最大のタブーだった)
持って行き場がなかった、緩和させるのは薬と言うことで薬中心になっていた。
私たちの活動は、吃驚すると思います。

昭和30年青森県十和田市に生まれました。
中学1年の時に心の弱さに関心を持つようになりました。
先生と名の付く人とはうまくいかないというジンクスがあります。
担任の先生とはそりがうまくいかなかった。
議事の運営が杜撰だと云うことでみんなの前で、先生にコテンパンに殴られました。
事あるごとに体罰を受け、両親が学校に抗議、自宅療養になりました。
そんな時母親が教会に通うようになりました。
大学紛争の時代でもあり、入ってくる情報と自分の中の現実がミックスされて、大人になっていいんだろうかと、謎を聖書の世界とかに尋ねてみようと思ったりしました。
聖書には弟子に裏切られたりとか、情けないことがいっぱいあり、みじめさに興味、関心がありました。
キーワードは弱さでした、弱さをめぐるエピソードは惹かれるものはありました。

これさえなかったらというあなたの持っているトゲ、こそ私からの最大の贈り物だというメッセージがある。
トゲ、これこそ神様から与えられた恵みなんだと気付く場面があります。
自分の思っている抱えきれない弱い部分、自分の経験そのものに反転?(聞き取れず)した可能性があるかもいしれないと学んだ気がする。
当時公害、薬害の時代でもあった。
仕送りを断り、特別養護老人ホームを住み込みで働きながら大学に通う。(夜間介護人)
自分に根本的苦労が足りないと思ったので、決めたことはとことん苦労しようと言うことでした。
特別養護老人ホームでは不遇な人生を過ごした人が多かった、寝たきりとなり、ここに向かってゆくのかと思った。

大学卒業後病院でソーシャルワーカーとして働く様になる。
当事者と距離を置いて働くようにしていることを知ったときに、違和感を感じました。
寝食を共にしてきた経験からすると、ずれを感じました。
精神障害者に対する有る偏見のようなたぐいのものを感じました。
1年後使われて居ない教会を借りて共同生活を始めます。
精神科を退院したものの地域に居場所を失っていた人たち、後のべてるの家に繋がる活動です。
一緒に暮したらもっとそこでのことが判るのではないか、自分のことが分かるのではないかと思いました。(1979年ごろ)
退院した人たちは何かが欠けて居て病院に戻ってくる。

病院の上司から、訪問しすぎだとか、外へ出る回数が多いとか、電話が多すぎるとか、今日からは私の前から消えてくれと言われました。
目の前が真っ白になりました。
ちょうど結婚したばっかりだったし、この業界は狭いのですぐ事情が伝わるので、人ってこういうふうにして燃え尽きたり、鬱状態になったり出勤できなくなるのかもしれないと思いました。
べてるの家の仲間と共にきよしさん(幻覚、幻聴のある)に寄り添い続けました。
きよしさんは入退院を繰り返し、何かが不足していると考えてもさっぱり分からなかった。
もがき苦しむ中で、イエスキリストが旅の中で、あえて淡々と進むこの旅の風景が自分の中にあるのだろうと、現実的な行き詰まりの中にも、イエスの旅の物語をある種の肯定感が自分の中にベースとしてあるかもしれないと思いました。

病院を退職、べてるの家の仲間たちと歩み40年近くなります。
きよしさんは症状が落ち着き、入院することはなくなりました。
気心の知れた関係が生まれて、話が出来て、通じ合うものが生まれ人の心持が変わると、その人の抱えている生きづらさの心象風景が変わる、幻覚妄想が変わるんです。
その人の生きて居る物語が変わってきます。
2500人ぐらいの人が毎年訪れて居て、心に病に苦しんでいる人たち、関係者がべてるの家の哲学に多くの共感が寄せられて居ます。
絶望的な状況の中でうろうろさえしていればちゃんと突破口はある、そんな絶望の仕方を是非発信していきたいと思います。










































































生きて行くために生み出された