米村でんじろう(サイエンスプロデューサー) ・挫折こそが人生を開く
米村さんは昭和30年千葉県に生まれました。
3年間浪人の後、東京学芸大学教育学部に入学し卒業ご 、同大学院理科教育学専攻科を終了、学校の先生になります。
ところが学校や保護者とうまくいかず 40歳で退職してしまいます。
その後サイエンスプロデューサーとしての活動をはじめ、舞台で楽しい科学実験をしたり本を出版したりと幅広く活躍するようになりました。
サイエンスプロデュ―サーとして新たな世界にたどり着くまで米村さんはどんな日々を送ってこられたのでしょうか。
62歳になります。
年間週1回ペースで日本全国廻っています。
名刺を作るときに肩書きを書くのに、科学関係の仕事なので「サイエンスプロデュ―サー」という言葉を勝手に作ってしまいました。
ステージで1時間から1時間半程度のサイエンスショーをたのしんでいただくステージを中心に動いています。
科学を多くの人に楽しんでもらう、そのためのアイディア、企画、製作、自分が出て実演するそういうような仕事です。
昭和30年、千葉県の田舎に生まれました。
人見知りのする、内気な子供でした。
自然豊かなところだったので、そういったところで遊んでいました。
動植物、星とか、自然の中の遊びと学校の理科との中から、興味を持ちました。
集団の中に入るのは不得手でした。
夏休みの後の学校へ行くことは気が重かったです。
中学、高校もクラブ活動はせずにさっさと家に帰っていました。
将来に対する考えがなくて漠然と科学関係の仕事がいいなあぐらいに思っていました。
大学に行って科学関係の道に歩みたいと思ったので、大学の試験を受けたたのですが不合格になってしまいました。
実力のないのを見せつけられて落ち込む半面、本当はがんばれば何とかなると云うことの葛藤がありました。
浪人生活に入って予備校には2時間もかかるので、自分で参考書を買って勉強するが、勉強のやり方が良く分からず、模擬テストをやっても合格が難しいという結果が出てきて、又落ち込んでしまいました。
気がついてみると3浪ということになり、世間が遠く見え焦りを強く感じました。
父は高校卒業するときに労災で亡くなり、母親がおおらかだったのでプレッシャーを感じなかったのはありがたかったです。
東京学芸大学教育学部に入学して、引き続き大学院に進みました。
大学卒業後まだ仕事は無理だという思いと勉強が判り始めて、大学院に進むことにしました。
大学に籍を置いて研究生と言う立場になりました。(26歳)
3年間研究生として過ごして、就職活動をしなくてはいけないと思って、理科の教員になろうとして合格して教員採用と言うことになりました。(29歳)
赴任した学校はいわゆる教育困難校で、授業が思う良うに成立しない状況でした。
多くの生徒は弁当を食べたり勝手な事をやって教室は雑然としていました。
そもそも自分はなんで理科の教師をやっているのかと言う思いがあり、理科の楽しさをつたえるためには原点に帰って、実験とか観察とか、実習的な事を体験させることで、興味が湧くのではないかと言うことに思い至って積極的に実験をやらせる、実験を見せて興味を引く事をしました。
生徒も興味を持ち始めたが、学習内容そのものに対するモチベーションではないので学習指導は順調に言った訳ではなかった。
実験そのものは周りから注目され始めましたが、授業はなかなか成功してはいなかった。
教師になって13年経って、当初目指していた授業には成っていなくて、自分の限界のようなものを感じ始めて、教師には向いていないのではないかと思うようになり、精神的にも行き詰ってしまって、真剣に転職を考えるようになりました。
気持がいろいろ揺れましたが、比較的簡単に学校をやめられることになり、独立をしました。
いろんな仕事をやっていたら、講演依頼とか、実験を見せてほしいとか話が来るようになって、アシスタントも必要になり、経理関係などの問題があり法人化しないといけない
ということが判り、会社を設立をしようということになりました。
順調になってきて結果的には今はそうやって自分の仕事を納得させている。
世の中が引っ張り上げてくれているので、これが天職でそうなってるのかなとは思っています。
落ちこぼれた生徒の気持ちは良く判るし、一般の人、子供たちに実験を見せた時に原理とか勉強的な話はついてこれないよということは良く分かるし、科学は難しいよねと言うのが判るので、どういうふうに話したら判ってもらえるか、自分自身が落ちこぼれのようなものなので、一般の人達、子供達の接点になるにはいい経験を積んだことが結果的には良かったと思います。
自分は思うようにいかなかったが、頑張っていればなんとか成っていくものだなあと思うので、うまくいかないことも有るかと思うが、苦労が必ず実になり糧になり繋がって行くので、あきらめずに今関わっていることに頑張って集中していれば将来人生を切り開いてゆくきっかけになると思う。
躓いたことが後の実りになっているので、うまくいっていないことが受けとめることになると思います。
人生は長いので、思うように発揮できなくてもこつこつやっている中でどこかで観てくれている人もいますし、努力は実を結んでゆくので、若い人たちは短絡的に見ないで希望を持っていかれたらいいのではないかと思います。
2017年4月7日金曜日
2017年4月6日木曜日
中島京子(作家) ・ロング・グッドバイ、ダディ!
中島京子(作家) ・ロング・グッドバイ、ダディ!
厚生労働省の推計では2025年には65歳以上の5人に1人はなると予想される認知症、アメリカでは認知症のことをロング・グットバイ 時間とともにゆっくりお別れしてゆくと表現するそうです。
直木賞作家の中島さんは認知症の父親を10年間介護して看取りました。
記憶や言葉が失われてゆくのは悲しくて辛くて、介護は大変な事もありましたけど、お父さんは楽しい思い出もたくさん残してくれたと言います。
その体験を小説にした「長いお別れ」は同じように認知症の介護に当たってる人や医療関係者から感動と共感を呼んでいます。
お父さんとの長いお別れ、いとおしくて大切な時間に込められた家族の思いを伺います。
2013年の暮れに父が亡くなったので、3年になります。
86歳でした。
父は大学の先生をしていまして、フランス語とフランス文学を教えていました。
定年後は外に余り出たがら無かったですが、趣味は囲碁が大好きで碁会所に通っていましたが、碁会所が無くなってからちょっと居場所がなくなったようなさみしさをもっていたように思いました。
そのころから記憶に自信が無くなることが起って来たんじゃないかと思います。
一緒には暮らしてはいなかったのですが、鬱のような感じで食べ物をあまり食べなくなって、ネガティブな発想ばっかりしてどうしたのかなと思った頃がありました。
病院から抗うつ剤などを貰ったが、父は嫌がって全部捨ててしまったりしました。
今から思うと認知症の前段階だったのではないかと思います。
2004年の春、父の同窓会があり、何時もやっている場所なのに、判らなくて家に帰ってきてしまったことがありました。
もう一回送り出したが又帰ってきてしまって、おかしいと思って物忘れ外来にいきました。
他に記憶が不確かになってきたように思いましたが、そんなに進んではいませんでした。
進行を遅らす薬を処方されていまして、3年間はゆっくり進行させることは出来ると言われていましたのでそんなには進みませんでした。
あるとき母がどこかに父と一緒につれていって、一人で帰ってくることはできました。
フランスに姉が結婚して住んでいたので、父母と私でフランスに行ったことが大きな思い出となっています。
セーヌ川を荒川(荒川の近くに住んでいました)と間違えたのが面白い思い出でした。
一番びっくりしたのは、車を運転していて父から突然「ところであんたはだれの娘だっけ」と言われてどういうことになっているか判らなかった。
自宅で母が父の面倒をみて居て、私が家に通っていました、私が2009年に3カ月アメリカに行くことになり、通うことができなくなるので、2008年ぐらいからデイサービスに行くようになりました。
スタッフの方から先生と呼ばれたりして、楽しそうにデイサービスに通っていました。
歩けなくなったり、しものことが自分でできなくなってくるが、そうであっても尊厳を保ちたいと思っているようで、そういうふうに思いながら介護した方がスムーズだと思います。
2012年に転んでしまって、ベットから良く落ちてしまったり、幻覚を見るようなことが多くなりました。
父は若い頃柔道をやっていたので転ぶ時には受け身のような転び方をしていましたが、最後には大腿骨を骨折して、入院することになりました。
手術は無理と言うことで寝たきりになるといわれました。
坐れるようになれば車椅子で生活ができれば、お花見ぐらいは出来るのではないかと思いました。(介護4でした)
オムツが厭だったので、夜中に何度も母がお手洗いを手伝ったりしたので母は大変でした。
入れ歯を直したら食べられるようになって食欲が出てきて、食べると元気になって歩けるようになりました。(栄養を摂ることは大事なんだと思いました。)
1回目入院し、家に戻ってきた、意識が無くなって救急車で2度目の入院しました。
それが最後で亡くなってしまいました。
12月25日に入院して、フランスの姉に連絡して27日に帰ってきて、29日の朝に亡くなりました。
父は短歌を作ったりエッセーを書いたりもしていたので、病院のベットで父の書いた面白いエッセーを枕元で読んだりしました。
人が笑ったりするのが好きだったので良かったと思います。
看取った後は余り何を考えたか覚えてないです。
介護の体験を小説にしました。「長いお別れ」
アメリカでは認知症のことをロング・グットバイと呼んでいるので、タイトルを「長いお別れ」としました。
介護自体は楽しいかと言うと難しいが10年の間に父が残してくれた、一緒につくった思い出が10年なので沢山あります。
直木賞を受賞した時に可笑しかったのは、候補になっていることを言ってはいけないと言われていて、つい母に言ってしまったが、誰にも言ってはいけないと言って父ならば言ってもすぐ忘れるので、どうしても言いたい時は父には言ってもいいと云ったんですが、そのまま父はすぐ忘れるからいっても大丈夫というようなことを言ってしまったんです。
父は嬉しそうに「さすがはお父さんだな」、と父自身が言ったんです。
ある時期から言葉の意味が判らなくなってしまっていて、単語の意味をなさないことをいうようになりました。
私のしょげている様子を見て、意味なさないが、ここは慰めなければいけない場面だと思って、慰めてくれるような口調で言ってくれる事がありました。
「鼠」とか難しい漢字を書いて吃驚することがあります、昔覚えたことは忘れないんですかね。
『長いお別れ』で第10回中央公論文芸賞・第5回日本医療小説大賞をそれぞれ受賞。
介護をしてとっても大変だったと思っていたけど、この小説を読んだらそういえばおかしいことがたくさんあった事を思いだしたと言って下さって、そういう風に読んでいただけたら嬉しいと思いました。
厚生労働省の発表では2025年には、65歳以上の5人に1人は認知症になると予想している。
認知症はそれほど怖がらなくてもいいのではないかと思います。
厚生労働省の推計では2025年には65歳以上の5人に1人はなると予想される認知症、アメリカでは認知症のことをロング・グットバイ 時間とともにゆっくりお別れしてゆくと表現するそうです。
直木賞作家の中島さんは認知症の父親を10年間介護して看取りました。
記憶や言葉が失われてゆくのは悲しくて辛くて、介護は大変な事もありましたけど、お父さんは楽しい思い出もたくさん残してくれたと言います。
その体験を小説にした「長いお別れ」は同じように認知症の介護に当たってる人や医療関係者から感動と共感を呼んでいます。
お父さんとの長いお別れ、いとおしくて大切な時間に込められた家族の思いを伺います。
2013年の暮れに父が亡くなったので、3年になります。
86歳でした。
父は大学の先生をしていまして、フランス語とフランス文学を教えていました。
定年後は外に余り出たがら無かったですが、趣味は囲碁が大好きで碁会所に通っていましたが、碁会所が無くなってからちょっと居場所がなくなったようなさみしさをもっていたように思いました。
そのころから記憶に自信が無くなることが起って来たんじゃないかと思います。
一緒には暮らしてはいなかったのですが、鬱のような感じで食べ物をあまり食べなくなって、ネガティブな発想ばっかりしてどうしたのかなと思った頃がありました。
病院から抗うつ剤などを貰ったが、父は嫌がって全部捨ててしまったりしました。
今から思うと認知症の前段階だったのではないかと思います。
2004年の春、父の同窓会があり、何時もやっている場所なのに、判らなくて家に帰ってきてしまったことがありました。
もう一回送り出したが又帰ってきてしまって、おかしいと思って物忘れ外来にいきました。
他に記憶が不確かになってきたように思いましたが、そんなに進んではいませんでした。
進行を遅らす薬を処方されていまして、3年間はゆっくり進行させることは出来ると言われていましたのでそんなには進みませんでした。
あるとき母がどこかに父と一緒につれていって、一人で帰ってくることはできました。
フランスに姉が結婚して住んでいたので、父母と私でフランスに行ったことが大きな思い出となっています。
セーヌ川を荒川(荒川の近くに住んでいました)と間違えたのが面白い思い出でした。
一番びっくりしたのは、車を運転していて父から突然「ところであんたはだれの娘だっけ」と言われてどういうことになっているか判らなかった。
自宅で母が父の面倒をみて居て、私が家に通っていました、私が2009年に3カ月アメリカに行くことになり、通うことができなくなるので、2008年ぐらいからデイサービスに行くようになりました。
スタッフの方から先生と呼ばれたりして、楽しそうにデイサービスに通っていました。
歩けなくなったり、しものことが自分でできなくなってくるが、そうであっても尊厳を保ちたいと思っているようで、そういうふうに思いながら介護した方がスムーズだと思います。
2012年に転んでしまって、ベットから良く落ちてしまったり、幻覚を見るようなことが多くなりました。
父は若い頃柔道をやっていたので転ぶ時には受け身のような転び方をしていましたが、最後には大腿骨を骨折して、入院することになりました。
手術は無理と言うことで寝たきりになるといわれました。
坐れるようになれば車椅子で生活ができれば、お花見ぐらいは出来るのではないかと思いました。(介護4でした)
オムツが厭だったので、夜中に何度も母がお手洗いを手伝ったりしたので母は大変でした。
入れ歯を直したら食べられるようになって食欲が出てきて、食べると元気になって歩けるようになりました。(栄養を摂ることは大事なんだと思いました。)
1回目入院し、家に戻ってきた、意識が無くなって救急車で2度目の入院しました。
それが最後で亡くなってしまいました。
12月25日に入院して、フランスの姉に連絡して27日に帰ってきて、29日の朝に亡くなりました。
父は短歌を作ったりエッセーを書いたりもしていたので、病院のベットで父の書いた面白いエッセーを枕元で読んだりしました。
人が笑ったりするのが好きだったので良かったと思います。
看取った後は余り何を考えたか覚えてないです。
介護の体験を小説にしました。「長いお別れ」
アメリカでは認知症のことをロング・グットバイと呼んでいるので、タイトルを「長いお別れ」としました。
介護自体は楽しいかと言うと難しいが10年の間に父が残してくれた、一緒につくった思い出が10年なので沢山あります。
直木賞を受賞した時に可笑しかったのは、候補になっていることを言ってはいけないと言われていて、つい母に言ってしまったが、誰にも言ってはいけないと言って父ならば言ってもすぐ忘れるので、どうしても言いたい時は父には言ってもいいと云ったんですが、そのまま父はすぐ忘れるからいっても大丈夫というようなことを言ってしまったんです。
父は嬉しそうに「さすがはお父さんだな」、と父自身が言ったんです。
ある時期から言葉の意味が判らなくなってしまっていて、単語の意味をなさないことをいうようになりました。
私のしょげている様子を見て、意味なさないが、ここは慰めなければいけない場面だと思って、慰めてくれるような口調で言ってくれる事がありました。
「鼠」とか難しい漢字を書いて吃驚することがあります、昔覚えたことは忘れないんですかね。
『長いお別れ』で第10回中央公論文芸賞・第5回日本医療小説大賞をそれぞれ受賞。
介護をしてとっても大変だったと思っていたけど、この小説を読んだらそういえばおかしいことがたくさんあった事を思いだしたと言って下さって、そういう風に読んでいただけたら嬉しいと思いました。
厚生労働省の発表では2025年には、65歳以上の5人に1人は認知症になると予想している。
認知症はそれほど怖がらなくてもいいのではないかと思います。
2017年4月5日水曜日
D・アトキンソン(文化財修理会社経営)・世界を魅了する“日本の宝”
デービット・アトキンソン(文化財修理会社経営)・世界を魅了する“日本の宝”
デービットさんはイギリスの生まれで大学で日本語学科を専攻しました。
およそ30年前に来日し、金融業界で活躍していましたが、42歳で仕事を辞めて趣味の茶道を楽しむ生活をしていました。
2年程してひょんなご縁で文化財の修理を専門とする会社を任されました。
昨年日本の経済を活性化する方法を提言した本を出版して話題となっています。
「新・所得倍増論」を発表。
日本の国宝を守る本だったが、そこから日本経済の全般に対する見方からスタートして、パーツパーツを取り上げて、専門書を書いてきました。
今回は経済専門書と言うことで、生産性の分野を取り上げて書いた本です。
国連の分析、世界銀行の分析とかで日本人労働者の質がきわめて高いという評価をされているにも拘わらず、世界第3位の経済かもしれないが、一人当たりで計算すると27位だった。(本を書いた時点)
2016年の数字では世界第30位です。
子供の6人に一人が貧困、福祉、年金が大変な状況で、高齢者の介護、医療は国として払えるかどうかと言うところがあって、国の借金が1000兆円を超えて居る。
悪循環にある。
これまでの実績のある国の経済成長してきた中で、子供の6人に一人が貧困で、国が破綻して良いのか、いいわけがない、しかし危機感もない。
現実を客観的にみて欲しい。
イギリスの田舎の生まれ、4人兄弟で3番目です。
オックスフォード大学で日本学科を専攻、文学、日本史、読むこと、書くこと、そして戦後経済の発展は論文を書いた部分でした。
漢文、古文、漢詩なども勉強しました。
当時イギリスは失業率が13%とかで日本は高度経済率が高く日本を勉強する人がいなくて、就職が有利なのかなあと思って決めました。
日本企業がニューヨークに進出している関係から、3年間アメリカに住んでいました。
バブルが崩壊して1990年に来日。(日本にある仕事しかなかった)
その後金融機関に入社、42歳で会社を辞める。
茶道、書、能、旅行したりしていたが、京都の町並みを見て、何処にもあるような町並みに変って行くのをみて、ストレスがたまるだけで、一軒を買って改修して日本文化が楽しめるようにしました。
文化財修理会社の面倒を見てほしいといわれて、引き受けることにしました。
日光東照宮が出来たときに出来た会社で、漆塗り、彩色調飾り金具の修理をしてきた会社で、日本最高の技術を持っている。
京都の技術は日光の技術には足元にも及ばないものです。
この業界の職人の4割ぐらいを雇用していて、最大手の会社です。
これが無くなることは日本の文化財の修理としては大打撃です。
職人集団を守らないとしょうがないからと言うことで引き受けました。
京都は分業制が多いが、日光の場合は、日光東照宮を中心に380年前から常に修理をしている場所です。
日光東照宮は建物が多く、仕様が極めて重く、常に仕事がありますから、物凄い技術が集中されています。
18歳で雇って亡くなるまで会社で仕事をしてもらう文化があるが、いろいろ問題があり一時期4割を非正規社員にされた時期があり、私が社長になった時にこれはおかしいので内部の無駄を省いたりして全員正社員に戻しました。
技術の継承は若い人を雇っているか、雇っていないかだけの問題です。
文化財を守ると云うこと自体は意味があるとは思えない。
近代的なものだけではなく、古くはこういうものがありましたということで、人生が豊かになる。
赤坂迎賓館、京都迎賓館のアドバイスをやっているが、国賓が来るときに使われるが、たまに使われるだけなので、もったいない。
一般公開しましょうということになり、毎日何千人来て、意味合い、使われ方、歴史的背景、何処の大統領がきたとか、両陛下がこういうところで実際に御挨拶されるとか、いろいろ紹介している。
文化財は守るためにあるのではなくて、皆さんが学んだり体験したり空間を楽しんだりするためのものなので、文化財を皆さんに楽しんでもらうためのものだと思っていて、楽しんでもらうために修理をしなければいけないということで、修理をする職人が結果として必要になってくるが、これがメインになってはだめなんです。
文化財を説明するときに、建造物としての説明が多くて残念に思います。
陽明門を50年ぶりに修理をして今年3月10日一般公開しましたが、私が検査してきましたが500以上の彫刻があり、漆、金箔がありすばらしいものです。
いろいろな彫刻物などはそれぞれ深い意味合いがあり、日本の宗教の考え方、哲学的な事、道徳、なんの意味があり何を伝えようとしているのか、残念ながら伝えて居ない。
これからは解説しようと、事業を立ち上げて居る最中です。
日光の場合は見えるところが彩色されている処だけではなくて見えないないところも彩色されている。
職人の世界と神様の世界で、修理するときにしか見れない。
角の龍の彫刻などは頭の部分は誰にも見れないので普通のやり方ではそこには彩色しない。
彩色は通常は顔料をじかに塗るが、日光ではまず漆を塗って(黒と赤の両方塗っている)、その上に全面的に金箔を貼って、その上に彩色を塗るが、普通は一色塗るが、二、三回塗り重ねていってぼかしたり色んな事をしています。
こういったものは日光にしかない。
段々劣化して外側が消えていくが、重ねて塗っているので顔が変わっていきます。
更に劣化すると、金箔が見えてきて、金箔が無くなると、漆が見えてきて何時まで経っても木が見えない、違う楽しみがみえてきて何時まで経っても美しいままで、これは独特の文化です。
こういったことは説明しないと判らない。
外国人観光客にいうのではなくて、向こうから言ってもらうのがベスト、感じてもらって理解してもらって日本文化の深さを言ってもらう。
時間とお金をかけて日光に来て、感動するものなのに感動させないままで帰ってもらうことは作った人(命をかけて修理しているのに)に対して失礼だと思います。
外国人にもきちんと説明すると又来たいと感じるかもしれません。
明日の日本を支える観光ビジョン構想会議が開かれたが、2020年4000万人、2030年6000万人外国人観光客を誘致すると云う目標が設定された。
文化庁の日本遺産認定が数年前から始まっているが、ストーリーがあるので、物語を語ってもらおうと整備している。
どういう神様、仏様かとか、歴史的な事とかいろいろな情報を知らせる。
多面的に判るように解説をやろうと文化庁などでやっています。
観光産業がどう伸びて行くのか楽しみです。
京都は世界観光都市として満足度世界一になりました(イギリスの雑誌で紹介)
外国人宿泊世界観光都市ランキングがあるが、2年前 100位以内に入っていない、昨年89位、潜在能力は1位、実績は89位と言うことです。
日本経済全面的なものです。
89位をトップ10あるいは20にするのか、潜在能力をものにするのが今一番求めてられている。
デービットさんはイギリスの生まれで大学で日本語学科を専攻しました。
およそ30年前に来日し、金融業界で活躍していましたが、42歳で仕事を辞めて趣味の茶道を楽しむ生活をしていました。
2年程してひょんなご縁で文化財の修理を専門とする会社を任されました。
昨年日本の経済を活性化する方法を提言した本を出版して話題となっています。
「新・所得倍増論」を発表。
日本の国宝を守る本だったが、そこから日本経済の全般に対する見方からスタートして、パーツパーツを取り上げて、専門書を書いてきました。
今回は経済専門書と言うことで、生産性の分野を取り上げて書いた本です。
国連の分析、世界銀行の分析とかで日本人労働者の質がきわめて高いという評価をされているにも拘わらず、世界第3位の経済かもしれないが、一人当たりで計算すると27位だった。(本を書いた時点)
2016年の数字では世界第30位です。
子供の6人に一人が貧困、福祉、年金が大変な状況で、高齢者の介護、医療は国として払えるかどうかと言うところがあって、国の借金が1000兆円を超えて居る。
悪循環にある。
これまでの実績のある国の経済成長してきた中で、子供の6人に一人が貧困で、国が破綻して良いのか、いいわけがない、しかし危機感もない。
現実を客観的にみて欲しい。
イギリスの田舎の生まれ、4人兄弟で3番目です。
オックスフォード大学で日本学科を専攻、文学、日本史、読むこと、書くこと、そして戦後経済の発展は論文を書いた部分でした。
漢文、古文、漢詩なども勉強しました。
当時イギリスは失業率が13%とかで日本は高度経済率が高く日本を勉強する人がいなくて、就職が有利なのかなあと思って決めました。
日本企業がニューヨークに進出している関係から、3年間アメリカに住んでいました。
バブルが崩壊して1990年に来日。(日本にある仕事しかなかった)
その後金融機関に入社、42歳で会社を辞める。
茶道、書、能、旅行したりしていたが、京都の町並みを見て、何処にもあるような町並みに変って行くのをみて、ストレスがたまるだけで、一軒を買って改修して日本文化が楽しめるようにしました。
文化財修理会社の面倒を見てほしいといわれて、引き受けることにしました。
日光東照宮が出来たときに出来た会社で、漆塗り、彩色調飾り金具の修理をしてきた会社で、日本最高の技術を持っている。
京都の技術は日光の技術には足元にも及ばないものです。
この業界の職人の4割ぐらいを雇用していて、最大手の会社です。
これが無くなることは日本の文化財の修理としては大打撃です。
職人集団を守らないとしょうがないからと言うことで引き受けました。
京都は分業制が多いが、日光の場合は、日光東照宮を中心に380年前から常に修理をしている場所です。
日光東照宮は建物が多く、仕様が極めて重く、常に仕事がありますから、物凄い技術が集中されています。
18歳で雇って亡くなるまで会社で仕事をしてもらう文化があるが、いろいろ問題があり一時期4割を非正規社員にされた時期があり、私が社長になった時にこれはおかしいので内部の無駄を省いたりして全員正社員に戻しました。
技術の継承は若い人を雇っているか、雇っていないかだけの問題です。
文化財を守ると云うこと自体は意味があるとは思えない。
近代的なものだけではなく、古くはこういうものがありましたということで、人生が豊かになる。
赤坂迎賓館、京都迎賓館のアドバイスをやっているが、国賓が来るときに使われるが、たまに使われるだけなので、もったいない。
一般公開しましょうということになり、毎日何千人来て、意味合い、使われ方、歴史的背景、何処の大統領がきたとか、両陛下がこういうところで実際に御挨拶されるとか、いろいろ紹介している。
文化財は守るためにあるのではなくて、皆さんが学んだり体験したり空間を楽しんだりするためのものなので、文化財を皆さんに楽しんでもらうためのものだと思っていて、楽しんでもらうために修理をしなければいけないということで、修理をする職人が結果として必要になってくるが、これがメインになってはだめなんです。
文化財を説明するときに、建造物としての説明が多くて残念に思います。
陽明門を50年ぶりに修理をして今年3月10日一般公開しましたが、私が検査してきましたが500以上の彫刻があり、漆、金箔がありすばらしいものです。
いろいろな彫刻物などはそれぞれ深い意味合いがあり、日本の宗教の考え方、哲学的な事、道徳、なんの意味があり何を伝えようとしているのか、残念ながら伝えて居ない。
これからは解説しようと、事業を立ち上げて居る最中です。
日光の場合は見えるところが彩色されている処だけではなくて見えないないところも彩色されている。
職人の世界と神様の世界で、修理するときにしか見れない。
角の龍の彫刻などは頭の部分は誰にも見れないので普通のやり方ではそこには彩色しない。
彩色は通常は顔料をじかに塗るが、日光ではまず漆を塗って(黒と赤の両方塗っている)、その上に全面的に金箔を貼って、その上に彩色を塗るが、普通は一色塗るが、二、三回塗り重ねていってぼかしたり色んな事をしています。
こういったものは日光にしかない。
段々劣化して外側が消えていくが、重ねて塗っているので顔が変わっていきます。
更に劣化すると、金箔が見えてきて、金箔が無くなると、漆が見えてきて何時まで経っても木が見えない、違う楽しみがみえてきて何時まで経っても美しいままで、これは独特の文化です。
こういったことは説明しないと判らない。
外国人観光客にいうのではなくて、向こうから言ってもらうのがベスト、感じてもらって理解してもらって日本文化の深さを言ってもらう。
時間とお金をかけて日光に来て、感動するものなのに感動させないままで帰ってもらうことは作った人(命をかけて修理しているのに)に対して失礼だと思います。
外国人にもきちんと説明すると又来たいと感じるかもしれません。
明日の日本を支える観光ビジョン構想会議が開かれたが、2020年4000万人、2030年6000万人外国人観光客を誘致すると云う目標が設定された。
文化庁の日本遺産認定が数年前から始まっているが、ストーリーがあるので、物語を語ってもらおうと整備している。
どういう神様、仏様かとか、歴史的な事とかいろいろな情報を知らせる。
多面的に判るように解説をやろうと文化庁などでやっています。
観光産業がどう伸びて行くのか楽しみです。
京都は世界観光都市として満足度世界一になりました(イギリスの雑誌で紹介)
外国人宿泊世界観光都市ランキングがあるが、2年前 100位以内に入っていない、昨年89位、潜在能力は1位、実績は89位と言うことです。
日本経済全面的なものです。
89位をトップ10あるいは20にするのか、潜在能力をものにするのが今一番求めてられている。
2017年4月4日火曜日
伊藤ゆき(ネパール研究者) ・ネパールに魅せられて40年
伊藤ゆき(ネパール研究者) ・ネパールに魅せられて40年
ネパールについての講演やコンサルティングなど幅広く活躍されている伊藤さん、伊藤さんは埼玉大学付属図書館の秘書で仕事をする傍ら社会人の山岳会に所属して国内の山に数多く登っていたそうです。
34歳のときに4人の子育てが一段落したのをきっかけに、ネパールへの3週間のトレッキングにでかけて、これがきっかけでネパールの民族、文化に関心を持つ様になりました。
帰国してからはネパールの言葉や民族について学び、日本ネパール協会などで川喜田二郎や、西堀栄三郎たちの指導を受けました。
1991年には在ネパール日本大使館専門調査員としてネパールにおもむいて、そのときは選挙戦を取材したり、航空機の墜落事故の捜索などにあたったりしました。
9年間で44回行っているので、年に4~5回行っていて、平均で2週間ぐらい滞在していて、3年間向こうの大学に勤務していました。
友人の家に居候させてもらっています。(2人います)
私の指導をして下さった文化人類学者ドール・バハドゥール・ビスタ先生、彼の指導がなかったら今の私は無かったと思います。
35年前ごろ上智大学の大学院で勉強されていた人で、彼女は今年日本外務大臣賞を貰った人です。
いつも彼女は憧れですし、指導する素晴らしい方です。
ネパールは5月下旬から10月初めまでが雨期で、後は乾期になります。
4月は暑くて水はなく、電気は停電になったりします。
ヒマラヤは4月になると湿気を帯びてきてカトマンズからは見えない。
12月から1月半ばまで3つの調査をしました。
①日本で技能自習制があるが、ネパールに帰って技術が生かされているかどうかのフォロー調査。(国交省に応募しての調査)
②教育の調査、留学生が急増しているがどうして日本に来るようになったのか、ネパールでは困っているのではないか、社会の変化等有るかどうかなど。(私立大学からの依頼)
③自分のライフワークのような調査、アンナプルナ、ダウラギリという8000m級の山が有りますが、その裏側に小さな村があり、総人口1万4000人ぐらいのタカリ族という民族があり、12年に一度お祭りをしていて、3回目の調査です。
村の形が変わって来ている。
この村は日本と大きなかかわりを持っている。
村の男性の8割以上が日本に出稼ぎにきたことがあり日本語が飛び交っている。
日本で稼いだお金で起業したり、ホテル経営、教育などにつぎ込み経済に大きな役割をしている。
お祭りもその資金でやっている。
タカリ族は清潔で一番良い台所を持っている。
ネパールでは2015年に大地震がありました
王制だったが、2008年からネパール連邦民主共和国になりました。
ヒンズー教が国教でしたが、今は85%はヒンズー教、仏教が10%、イスラム教、キリスト教もいます。
山の方の人は仏教が多いです。
海抜80m~8849mまでヒマラヤの南斜面にへばりついているような国の地形です。
面積は北海道の1.8倍、2850万人、山間の人たちはモンゴロイド系、南はアーリア系の凹凸ある顔をしている、穏やかな人達です。
GDPは2500ドルぐらい、日本は40000ドル程度。(比較は無謀のような気がする)
食べることには困っていません。
大きな国に囲まれているが、一度も占領されたことはない、賢い生き方をしている。
したたかさ、人を読む力がある。
30年前は500人ぐらいしか日本にいなかったが、現在は出稼ぎ、留学生、技能実習生など85000人ぐらいになっています。
来るのにお金がかかるので、不法就労が起きてしまう状況がある。
高校時代シルクロードに興味があり、山をやっていたこともあり、山岳会もヒマラヤにやってきて、子育て後には何時か行ってやろうと思っていました。
1980年ネパールに3週間来る事が出来ました。
いろいろ民族、顔、家の形、言葉、子供の扱い方も違って、それが面白く、その衝撃がとっても大きかったんです。
民族の方に興味を持ってしまって、最終的にタカリ族にたどり着きました。
帰ってきてネパール語を勉強しました。(週に一回 片道1時間半以上かかりました)
押し掛けて行ってビスタ教授(文化人類学者)について勉強しました。
シェルパは民族名です。
川喜田二郎先生や、西堀栄三郎先生たちの指導を受けました。
ネパールの日本大使館の専門調査員をしていたときに、誰もが私を受け入れてくれて、まったく警戒心を持ちませんでした。
出稼ぎの夫の愚痴を女性たちから聞いてあげたりしましたが、夫が帰ってくるとガラッと変わってたりして女性は同じだなあと思いました。
妊婦さんに「何時生まれるの?」と聞いたら、恥ずかしそうに「生まれるときに生まれる」といわれ、人間って生まれるときに生まれて、死ぬ時には死ぬんだと気づかされました。
まず少しでも良いからお金を得て子供に教育をしたい、次に台所を綺麗にしたいということで、女性は経済的に自立すると云うことがとても大事なんだと云う事でした。
ネパール民法の家族法の中の女性の権利について日本語にして、歴史を解きほぐす仕事を論文にしました。
ジャパンスタディーセンターでは日本の文化、経済、社会の在り方などを大学院レベルまで教えるつもりで行ったが、とにかく日本に行って出稼ぎに行きたいと云う圧力が強くて、学問どころのさわぎではなかった。
日本語を土台にしてもっと伸びていってほしいと思いました。
経済学ではソニーの盛田さんが書かれた英語版があるのでそれを参考にさせ授業させて貰ったりました。
日本文化、生け花、日本料理なども教えたりしました。
日本との架け橋になるような人材育成をしたいと思っていまして、会社として仕事を始めて居ます。
ネパールについての講演やコンサルティングなど幅広く活躍されている伊藤さん、伊藤さんは埼玉大学付属図書館の秘書で仕事をする傍ら社会人の山岳会に所属して国内の山に数多く登っていたそうです。
34歳のときに4人の子育てが一段落したのをきっかけに、ネパールへの3週間のトレッキングにでかけて、これがきっかけでネパールの民族、文化に関心を持つ様になりました。
帰国してからはネパールの言葉や民族について学び、日本ネパール協会などで川喜田二郎や、西堀栄三郎たちの指導を受けました。
1991年には在ネパール日本大使館専門調査員としてネパールにおもむいて、そのときは選挙戦を取材したり、航空機の墜落事故の捜索などにあたったりしました。
9年間で44回行っているので、年に4~5回行っていて、平均で2週間ぐらい滞在していて、3年間向こうの大学に勤務していました。
友人の家に居候させてもらっています。(2人います)
私の指導をして下さった文化人類学者ドール・バハドゥール・ビスタ先生、彼の指導がなかったら今の私は無かったと思います。
35年前ごろ上智大学の大学院で勉強されていた人で、彼女は今年日本外務大臣賞を貰った人です。
いつも彼女は憧れですし、指導する素晴らしい方です。
ネパールは5月下旬から10月初めまでが雨期で、後は乾期になります。
4月は暑くて水はなく、電気は停電になったりします。
ヒマラヤは4月になると湿気を帯びてきてカトマンズからは見えない。
12月から1月半ばまで3つの調査をしました。
①日本で技能自習制があるが、ネパールに帰って技術が生かされているかどうかのフォロー調査。(国交省に応募しての調査)
②教育の調査、留学生が急増しているがどうして日本に来るようになったのか、ネパールでは困っているのではないか、社会の変化等有るかどうかなど。(私立大学からの依頼)
③自分のライフワークのような調査、アンナプルナ、ダウラギリという8000m級の山が有りますが、その裏側に小さな村があり、総人口1万4000人ぐらいのタカリ族という民族があり、12年に一度お祭りをしていて、3回目の調査です。
村の形が変わって来ている。
この村は日本と大きなかかわりを持っている。
村の男性の8割以上が日本に出稼ぎにきたことがあり日本語が飛び交っている。
日本で稼いだお金で起業したり、ホテル経営、教育などにつぎ込み経済に大きな役割をしている。
お祭りもその資金でやっている。
タカリ族は清潔で一番良い台所を持っている。
ネパールでは2015年に大地震がありました
王制だったが、2008年からネパール連邦民主共和国になりました。
ヒンズー教が国教でしたが、今は85%はヒンズー教、仏教が10%、イスラム教、キリスト教もいます。
山の方の人は仏教が多いです。
海抜80m~8849mまでヒマラヤの南斜面にへばりついているような国の地形です。
面積は北海道の1.8倍、2850万人、山間の人たちはモンゴロイド系、南はアーリア系の凹凸ある顔をしている、穏やかな人達です。
GDPは2500ドルぐらい、日本は40000ドル程度。(比較は無謀のような気がする)
食べることには困っていません。
大きな国に囲まれているが、一度も占領されたことはない、賢い生き方をしている。
したたかさ、人を読む力がある。
30年前は500人ぐらいしか日本にいなかったが、現在は出稼ぎ、留学生、技能実習生など85000人ぐらいになっています。
来るのにお金がかかるので、不法就労が起きてしまう状況がある。
高校時代シルクロードに興味があり、山をやっていたこともあり、山岳会もヒマラヤにやってきて、子育て後には何時か行ってやろうと思っていました。
1980年ネパールに3週間来る事が出来ました。
いろいろ民族、顔、家の形、言葉、子供の扱い方も違って、それが面白く、その衝撃がとっても大きかったんです。
民族の方に興味を持ってしまって、最終的にタカリ族にたどり着きました。
帰ってきてネパール語を勉強しました。(週に一回 片道1時間半以上かかりました)
押し掛けて行ってビスタ教授(文化人類学者)について勉強しました。
シェルパは民族名です。
川喜田二郎先生や、西堀栄三郎先生たちの指導を受けました。
ネパールの日本大使館の専門調査員をしていたときに、誰もが私を受け入れてくれて、まったく警戒心を持ちませんでした。
出稼ぎの夫の愚痴を女性たちから聞いてあげたりしましたが、夫が帰ってくるとガラッと変わってたりして女性は同じだなあと思いました。
妊婦さんに「何時生まれるの?」と聞いたら、恥ずかしそうに「生まれるときに生まれる」といわれ、人間って生まれるときに生まれて、死ぬ時には死ぬんだと気づかされました。
まず少しでも良いからお金を得て子供に教育をしたい、次に台所を綺麗にしたいということで、女性は経済的に自立すると云うことがとても大事なんだと云う事でした。
ネパール民法の家族法の中の女性の権利について日本語にして、歴史を解きほぐす仕事を論文にしました。
ジャパンスタディーセンターでは日本の文化、経済、社会の在り方などを大学院レベルまで教えるつもりで行ったが、とにかく日本に行って出稼ぎに行きたいと云う圧力が強くて、学問どころのさわぎではなかった。
日本語を土台にしてもっと伸びていってほしいと思いました。
経済学ではソニーの盛田さんが書かれた英語版があるのでそれを参考にさせ授業させて貰ったりました。
日本文化、生け花、日本料理なども教えたりしました。
日本との架け橋になるような人材育成をしたいと思っていまして、会社として仕事を始めて居ます。
2017年4月3日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】西郷隆盛
神田 蘭(講談師)
来年は日本の近代化が始まった明治元年から150年になります。
近代日本の基礎を作った明治の人にスポットを当て、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんと語り合っていきます。
祖父母が明治の生まれで祖父母の影響が多かったと思う。
西郷隆盛
海音寺潮五郎がこよなく愛していたのが西郷さん。
内村鑑三の「代表的日本人」の著作の中でも、西郷の事を絶賛している。
江戸幕府を倒した西郷隆盛は官の中心になりました。
10年後明治新政府に納得がいかず乱をおこし賊軍となる。
それから12年後、大日本帝国憲法を発布するときに、賊名を解かれて、正三位を授与され官に返り咲く。
その後上野公園に銅像が建てられる。(薩摩藩出身者が声をかけて、宮内省から下賜された500円と全国の寄付金(2万5000人)で建てられた。)
除幕式に参加した妻の「糸子」さんは似て居ないと云ったそうだ。
奄美大島にいた時に「愛加那(あいかな)」という女性に惚れられて結ばれる。(その後彼女は西郷を想って一生独身で過ごす)
「糸子」は「愛加那」が生んだ菊次郎を引き取り一緒に育てる。
後に菊次郎は台湾総督府の役人から京都市長にまで登りつめる。
1回目「伊集院須賀」と25歳の時に結婚、2回目が「愛加那」、3回目が岩山八郎太の23歳の娘、「糸子」と結婚(本妻)
薩摩藩邸は田町に有ったが、他の藩士は品川宿の女郎屋に行ったようだが、西郷さんは全くかどうか判らないが、行っていなかったようです。
「英雄色を好む」という言葉があるがそうではなかったようです。
薩長同盟
坂本龍馬が出てくるが、決断をしたのが西郷さんだったと考えられている。
江戸城の無血開城
当時100万人がいたので、犠牲になっていた可能性があるので国作りが遅れたのではないかと思う。
江戸は破壊され首都は大阪になっていたかもしれない。
明治新政府への参加
一旦鹿児島に帰るが大久保利通から参加を要請される。
明治4年11月から明治6年10月まで岩倉使節団が欧米視察に行くが、西郷留守内閣が出来る。
西郷さんが実質的にGOサインを出していた。(最終決定は明治天皇だが)
廃藩置県、藩が無くなってしまう、武士の世の中が変わると云うこと。
西郷さんの力があったればこそ出来たと言われている。
武士だった人たちは役人になった人もいるが、教育者になった人もいて、商売を始めた人もいるが財産を無くしてしまった人もいる。
学制の制定
教育こそが国の基礎であるということを地で行った。
小学校、中学校、大学校を作り、男女ともに小学校に行くという義務教育を導入した。
識字率はほぼ100%が達成された。
お茶の水女子大学(東京女学校)、教育大学(東京師範学校)も作っている。
薩摩は子弟教育が盛んだったので、その辺りからきているかもしれない。
郷中教育
鉄道開業
明治5年9月 当時の技術としては吃驚。
新橋ー横浜の間に機関車が走る。(近代化の代表)
太陽暦の採用
日本を新しくしようと明治5年12月3日を明治6年1月1日にしてしまった。
キリスト教の自由化
宗教は自由であるということになる。
西郷さんは古い感じのする人だが凄く開明的な事をやっている。
西郷さんは寛容、それが魅力。
林真理子さんの西郷像の見方 「西郷(せご)どん」の原作者(来年の大河ドラマ)
すべての人を引きつけずにはいられない、会うと西郷さんのことを好きになってしまう。
決断の時すばやくて、相手のことを思いやる。
無血開城 掛け引きなどが書かれていないが、小説家としてそれを描く言葉を考えているが難しい。
物事(富、名誉、地位)に執着しない、自由な心が生まれる人だと思っている。
義を尊ぶ、庄内藩は官軍と戦って降伏したが、西郷さんが救いの手を差し伸べた。
藩主から下々の人まで西郷ファンになってしまって、西郷さんのところに遊学させたりした。
西郷隆盛の義理の妹に当たる人の肉声が残っていた。岩山トクさん(95歳)
(隆盛の奥さんの弟の嫁さん 昭和27年6月の録音)
鹿児島市長との対談 「優しい人だった。」「なんでもおいしいと食べました。」・・・。 「兄弟仲良くしてました。」・・・。 等々。
1857年生まれ 隆盛が亡くなった時は20歳だった。
もし今いたら女性の総理大臣を出せとか、言ったんではないかと思います。(本郷)
今の日本はこうなってしまったのかなあと嘆いているかもしれない(神田)
政府関係者は西郷さんに叩かれているかもしれない。(本郷)
神田 蘭(講談師)
来年は日本の近代化が始まった明治元年から150年になります。
近代日本の基礎を作った明治の人にスポットを当て、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんと語り合っていきます。
祖父母が明治の生まれで祖父母の影響が多かったと思う。
西郷隆盛
海音寺潮五郎がこよなく愛していたのが西郷さん。
内村鑑三の「代表的日本人」の著作の中でも、西郷の事を絶賛している。
江戸幕府を倒した西郷隆盛は官の中心になりました。
10年後明治新政府に納得がいかず乱をおこし賊軍となる。
それから12年後、大日本帝国憲法を発布するときに、賊名を解かれて、正三位を授与され官に返り咲く。
その後上野公園に銅像が建てられる。(薩摩藩出身者が声をかけて、宮内省から下賜された500円と全国の寄付金(2万5000人)で建てられた。)
除幕式に参加した妻の「糸子」さんは似て居ないと云ったそうだ。
奄美大島にいた時に「愛加那(あいかな)」という女性に惚れられて結ばれる。(その後彼女は西郷を想って一生独身で過ごす)
「糸子」は「愛加那」が生んだ菊次郎を引き取り一緒に育てる。
後に菊次郎は台湾総督府の役人から京都市長にまで登りつめる。
1回目「伊集院須賀」と25歳の時に結婚、2回目が「愛加那」、3回目が岩山八郎太の23歳の娘、「糸子」と結婚(本妻)
薩摩藩邸は田町に有ったが、他の藩士は品川宿の女郎屋に行ったようだが、西郷さんは全くかどうか判らないが、行っていなかったようです。
「英雄色を好む」という言葉があるがそうではなかったようです。
薩長同盟
坂本龍馬が出てくるが、決断をしたのが西郷さんだったと考えられている。
江戸城の無血開城
当時100万人がいたので、犠牲になっていた可能性があるので国作りが遅れたのではないかと思う。
江戸は破壊され首都は大阪になっていたかもしれない。
明治新政府への参加
一旦鹿児島に帰るが大久保利通から参加を要請される。
明治4年11月から明治6年10月まで岩倉使節団が欧米視察に行くが、西郷留守内閣が出来る。
西郷さんが実質的にGOサインを出していた。(最終決定は明治天皇だが)
廃藩置県、藩が無くなってしまう、武士の世の中が変わると云うこと。
西郷さんの力があったればこそ出来たと言われている。
武士だった人たちは役人になった人もいるが、教育者になった人もいて、商売を始めた人もいるが財産を無くしてしまった人もいる。
学制の制定
教育こそが国の基礎であるということを地で行った。
小学校、中学校、大学校を作り、男女ともに小学校に行くという義務教育を導入した。
識字率はほぼ100%が達成された。
お茶の水女子大学(東京女学校)、教育大学(東京師範学校)も作っている。
薩摩は子弟教育が盛んだったので、その辺りからきているかもしれない。
郷中教育
鉄道開業
明治5年9月 当時の技術としては吃驚。
新橋ー横浜の間に機関車が走る。(近代化の代表)
太陽暦の採用
日本を新しくしようと明治5年12月3日を明治6年1月1日にしてしまった。
キリスト教の自由化
宗教は自由であるということになる。
西郷さんは古い感じのする人だが凄く開明的な事をやっている。
西郷さんは寛容、それが魅力。
林真理子さんの西郷像の見方 「西郷(せご)どん」の原作者(来年の大河ドラマ)
すべての人を引きつけずにはいられない、会うと西郷さんのことを好きになってしまう。
決断の時すばやくて、相手のことを思いやる。
無血開城 掛け引きなどが書かれていないが、小説家としてそれを描く言葉を考えているが難しい。
物事(富、名誉、地位)に執着しない、自由な心が生まれる人だと思っている。
義を尊ぶ、庄内藩は官軍と戦って降伏したが、西郷さんが救いの手を差し伸べた。
藩主から下々の人まで西郷ファンになってしまって、西郷さんのところに遊学させたりした。
西郷隆盛の義理の妹に当たる人の肉声が残っていた。岩山トクさん(95歳)
(隆盛の奥さんの弟の嫁さん 昭和27年6月の録音)
鹿児島市長との対談 「優しい人だった。」「なんでもおいしいと食べました。」・・・。 「兄弟仲良くしてました。」・・・。 等々。
1857年生まれ 隆盛が亡くなった時は20歳だった。
もし今いたら女性の総理大臣を出せとか、言ったんではないかと思います。(本郷)
今の日本はこうなってしまったのかなあと嘆いているかもしれない(神田)
政府関係者は西郷さんに叩かれているかもしれない。(本郷)
2017年4月2日日曜日
堀 絢子(声優) ・【時代を創った声】(第14回)
堀 絢子(声優) ・【時代を創った声】(第14回)
堀さんは50年以上にわたって声優活動を続けてきて、「忍者ハットリくん」のハットリくんや、「新オバケのQ太郎」のQ太郎役などで知られています。
先月にはその年度で最も印象に残る声優や作品をたたえる第11回声優アワードで功労賞を受賞しました。
広島を舞台にした反戦反核を訴える独り芝居、「朝ちゃん」は30年近く続けられて講演数は250回を超えています。
「新オバケのQ太郎」が1970年代、「忍者ハットリくん」が1980年代に放送。
曽我町子さんが演じて居て2作目のお化けのQ太郎を担当。
子供の世界が良く描かれていた、子供が遊べるような、子供たち自分が飛び込んでいけるような子供の世界という、気持が遊べるようなそれが素敵だったと思います。
声優の人たちもまだアニメの世界がいっぱい作られていたころではなくて、始めたばかりだったのでみんな遊びたがっていました。(収録自体を楽しんでいた)
ハットリくんは服部半蔵の子孫と云う設定となっている。
語尾に「ニンニン」とつけたのは私でした。
いきなり屋根を掃除することになり、そのシーンが長くて困ったと思って、間が持てないと思って「ニンニン」と言って暴れたんですが、スタッフも気がつかなくて、それでも受けていました。
そのほかに「ニンともかんとも」とかいろいろ付け加えていきました。
アドリブもそこが楽しければ楽しいほど生き生きとしてくる。
ちょっとした表情とか動きとかの中に楽しさがあると良いんじゃないかと思います。
ちゃんとした絵が無くて勝手な想像でやってるだけのこともありました。
高橋和枝さんがいてゲストが来て電話をする形式があり、キャラクターがコロンコロン変わって見事だなあと思ってあんなことがやれるのならやってみたいと思いました。(高校生の頃)
高橋和枝さんは天才だと思いました。
それから入って行きました。(その前は児童劇団に入っていました)
母親から大反対されて、往復ビンタを貰いました。
ろくなもんじゃない世界だと思っていたようです。
いろんなアルバイトをしながらレッスン料を稼いで、母親には内緒でレッスンをしていました。
作ると云うことに凄い魅力を感じて居ました。
やっている中の面白さは他にたとえようもなく楽しかったです。
父は医者で母親は進路はそっちの方面を願っていたようでしたが、父は早く軍医として招集されて広島に行って、8月6日の朝礼の時に原爆が落ちて、三次までトラックで自分ではいあがれる者だけ連れて行ってたが、父は亡くなってしまいました。
母は医僚系の仕事に(医者がだめなら薬剤師とか)つかせたかった。
反対を押し切ってやってきました。
独り芝居「朝ちゃん」、原爆の被害にあった朝ちゃんを助けようとする家族と友人の物語を通して反戦反核をうったえる独り芝居。
反戦(半千の)500回の公演を目指してきて、現在254回ようやく半分になりました。
どんなに父が悔しかっただろうと思いまして、あの人が生きている方が私が生きて居るより世の中のためになると凄く思ってしまって、私が何十倍も頑張らないと生きているって許されないと思ってしまって、自分に出来ることは無いかと思ったときに、子供の番組をやらせていただいてきたので、恩返しもしたいと思って、そういう内容に取り組むことにしました。
命を大事にしてほしいということと、粗末に自殺したりするなんか許さないと思って、命を大事にしなくてはいけないと云う事をずーっと訴えて来ました。
最初の頃、20歳代の女性が来て、自分はずーっと死にたいと思っていて、手伝えと言われたからここに来たけど死にたいと思うのはやめましたと言って、凄くうれしかったです。
どんなにつらくても生きていきましょうと言ってその人と手を取り合ってニッコリ出来ました。
一回しかない命だから粗末にしては厭だ、と一生懸命訴えて居ます。
山本 真理子さんの「広島の母たち」という本に出会いました。
これを形にして伝えていかなければいけないと思いました。
ハットリくんを始めたころでしたが。
白いセーラー服にモンペ姿でやっています。
難しいのは誰も助けてくれないということと、芝居全体の把握がきちんとできるように自分で心がけて居るつもりです。
でもまだ足りないのではないかといつも思っています。
若い人たち皆さんとっても出来るのが早くて器用ですが、もうちょっと下手でもいいかなあと思ってしまいます。
器用すぎて、上手過ぎて面白くないんです、生きて居るってそんなに器用でパキパキしてないと私は思います。
欠けて居るのが人間だと思っていて、皆さん上手だからどういう風にやればと口では言えないが、段々やっているうちに自分で感じ取って下さるしかないと思います。
人間としての心がちゃんとみなぎっていれば、温かみがちょっと加わって来ると思う、そうすればしめたものだと思います。
これから先もそれなりにやってゆくしかないですね
2017年4月1日土曜日
山本一力(作家) ・歴史にみる土佐人の気質
山本一力(作家) ・歴史にみる土佐人の気質
山本さんは昭和23年高知市で生まれ、少年時代を高知市で過ごした後、14歳で東京に移りました。
その後旅行会社勤務やコピーライターなどのさまざまな職業を経て、46歳で作家になり平成14年に「あかね空」で直木賞を受賞されました。
時代小説を中心に数多くの作品を発表しています。
自身の人生、ジョン万次郎初め小説に書いてきた高知県出身の人物を通して土佐人の気質を考察します。
窪川の町に来て思ったことは町がまだ達者でいるなと云う事、喫茶店の小さな女の子が行った先が天ぷら屋さんでした。
私達夫婦も行ってコロッケといも天が大好きなので買ったら、たこ焼きもあると云うことで、喫茶店から来ていた女の子の母親らしき人が喫茶店をやっていて、喫茶店でもたこ焼き食べていいと云うことでした。
「お嬢さんですか」と聞いたら孫と云うことでした。
かみさんは脇にいて「おとうさん」と私に向かって呼びかけたので、そのママさんはうちのかみさんを見てお嬢さんですかと云うことでした。
コーヒーを存分にいただいたが、そこのママさんはこの窪川で一歩も外に出てないとのことでしたが、良い町ですよとおっしゃいました。
郷土を自慢してくださる物の言い方がものすごくうれしかった。
わが町を自慢すると云うことは本当に大事な事、そのことに触れられて物凄くうれしかった。
喫茶店を出て、国道の信号があり渡ってきたら、女子中学生が歩いてきた。
どこのだれかもわからない私たちでしたが、すれ違う直前で4人の女の子たちが「こんにちは」と笑顔を見せてから挨拶された。
「こんにちは」と云い返して「だれにでもそういうの」と聞いたら「はい」と云って嬉しそうな笑顔で去って行った。
自転車に乗った女の子たち二人、すれ違いざまに「こんにちは」と云いました。
最近の自転車のマナーは凄く悪い、無灯火で走ったりする。
自転車がそちらに向かっていますよと云う為の明かりです。(人を気にしていないと云う事)
すれ違いざまにあいさつをすると云うことは、人が来ているということを自分が認めて居て、「こんにちわ」と云う。
本当に心が温まります。
学校で教わってるのかと聞いたら、自分たちでそういう風にしているとのことだった。
「自由は土佐の山間から」と云う言葉が今も残っています。
土佐人の大事なもののひとつは自分たちが基を作っていくんだという強い志です。
俺たちが始めるんだという気概と、やりたければどうぞ一緒にやってくださいという心の大きさ、こういうものが土佐にはずーっと伝わってきているんだと、高知を舞台にした小説を書くなかで強く思います。
名前を求めない、やったことであれは俺だと後に名前を残そうとしない。
ジョン万次郎、日本人で初めてアメリカの本土を踏みました。
英語を覚えて帰って来た。
万次郎が漂流民でアメリカに暮らしていたということは、黒船でやってきた日本にやってきた、1853年に日本にやってきたペリーが、アメリカのニューポートにいたときにすでにそういう情報を得て居ました。
情報を得ようと万次郎の所に行こうとしたが、すでに日本に帰ろうとして西海岸のサクラメントの近郊に行っていませんでした。
ペリーが後年日本に軍艦4隻で日本に入ってきて、浦賀に来た時には通訳の控えとして幕府から任命を受けて居る。
そのあとも咸臨丸に乗って太平洋を横断したが、万次郎は主要な乗組員として、活躍した。
明治維新の政府になった後、名を求めて要職に付くことは一切せずに、弓町(有楽町駅の近く)と云う所で一市井の人間として生涯を閉じて居る。
ハワイにいたデーモン神父(万次郎を直に育ててくれた)が日本にやって来たときに万次郎はどういう職について、日本の政治の中枢に座ってるか楽しみに来たら、何の官職にもついていなかったので、憤っていたと云っている。
自分が裏側に回った事をよしとした。
土佐藩の藩主2代目忠義公の頃、野中兼山と云う奉行がいた。
信任が厚かった。
最後には失脚をして血筋が絶えるまで、幽閉をされてその地で果てて居る。
幕末のころに土佐は色んな働きをするが、出来上がった明治維新の政権に加わることは無かった。
理由は良くは判らないが、俺が俺がと言って前に出て行った人たちが、当初のころは首相の首を取り換えて行ったが、その中に土佐は含まれていませんでした。
何か残してゆくと云う事が自分を残すのか、そのことを大事にして自分の名前は無くてもやろうとしたことが後に続いてくれればいいか、根本から違ってきます。
早稲田大学の建学の母といわれる小野梓と云う方も宿毛に出ている。
小松製作所の礎となった人も宿毛にいました、ほかにも随分います。
東京に行った人は私財を肥やすことなく後から来る人の面倒を見て行った。
今に至った時に振り変えれば驚くほどの人数が郷土から排出したことが歴史として残る事になる。
宇佐浜から万次郎は船出をして行って、遭難して最終的にはアメリカの捕鯨船に助けられましたが、遭難をしたときに5人いました。
その末裔が宇佐に暮らしています。
森田さんと云う漁師の方、船頭だった筆之丞の末裔です。
戻ってきたときに、自分たちが見聞した事を一切口外してはならんと厳命されて、自分の郷里に暮らして行った。
筆之丞は一切云わなかった、直系の森田家には筆之丞からの言い伝えがほとんど残っていない。
万次郎は江戸で一市井の人間として生涯を閉じます、筆之丞も同じです、家族にも伝えず生涯を閉じて居ます。
土佐人の一つの気風だと思っています。(日本人と云っていいと思います。)
今これを云っていいか悪いのかを、自分で考えて云うのはよそうと、あえて口をつぐむ事、わきまえて居る。
子供を社会が育てて行く、大事なことです。
女子中学生が誰に言われるでもなしに、(家庭で言われているとしか思えない)挨拶が出来て居る。
こういうことがここには育くまれています、このことは物凄く大事なことです。
女子中学生がこの地から出ていったときに挨拶が出来、可愛がられると思います。
今日本人はいろんなところで無言です、相手を意識していないのと同じことになります。
アメリカに行くと、一番強く感ずることはお互いに見ず知らずの人が言葉を交わすと云うことです。
礼儀正しいとか、愛想がいいとは断じて違っていると思います。
今アメリカは人を受け入れていいかどうかが報じられているが、多国籍の人が暮らしていて、お互いが相手に対して私はあなたに敵意を持っていません、貴方に害を与える人間ではありませんよと、そのことを相手に伝えるために「ハイ」「モーニング」を云うのです。
云われればお互いが心を開いてお互いに言葉が交わせる。
この町の中学生はそれをやっている、物凄く大事な事です。
日本はグローバル化を云っているが、英語学習だとかを思っているが言葉の前に相手に笑顔をむけて「こんにちわ」がいえるかどうか、大人が出来るかどうか、それがグローバル化の第一歩です。
大事なのは、「自由は土佐の山間から」と今はっきり言える事を後に残して行ってやることです。
その人がやろうとした志を受け止めて次代を担ってくれる子供たちにそれを申し送ってやることが一番大事だと思います。
当時私の廻りに怖い大人がいっぱいいました、そして大人がいろいろな技を持っていました。
大人になったら自分もそんな大人になりたいと思っていました。
宿毛にいた僧侶白明(はくみょう)さん、忠臣蔵の討ち入りの時に江戸の泉岳寺にいたということを去年知りました。
四十七士の4人をお世話して、懐紙に筆で遺墨を書き残してもらったもの4人分を持ち帰っています。
江戸と宿毛が繋がっていたんです。
大高源吾の筆で書き残されていますが、一気に時間を超えて討ち入りのあった12月14日に自分が運ばれてゆくような気がします。
郷土にはこういった歴史、文化、風俗、言葉、食べ物などいいものがあると、バトンを若い人につなげて行ってほしいと思います。
山本さんは昭和23年高知市で生まれ、少年時代を高知市で過ごした後、14歳で東京に移りました。
その後旅行会社勤務やコピーライターなどのさまざまな職業を経て、46歳で作家になり平成14年に「あかね空」で直木賞を受賞されました。
時代小説を中心に数多くの作品を発表しています。
自身の人生、ジョン万次郎初め小説に書いてきた高知県出身の人物を通して土佐人の気質を考察します。
窪川の町に来て思ったことは町がまだ達者でいるなと云う事、喫茶店の小さな女の子が行った先が天ぷら屋さんでした。
私達夫婦も行ってコロッケといも天が大好きなので買ったら、たこ焼きもあると云うことで、喫茶店から来ていた女の子の母親らしき人が喫茶店をやっていて、喫茶店でもたこ焼き食べていいと云うことでした。
「お嬢さんですか」と聞いたら孫と云うことでした。
かみさんは脇にいて「おとうさん」と私に向かって呼びかけたので、そのママさんはうちのかみさんを見てお嬢さんですかと云うことでした。
コーヒーを存分にいただいたが、そこのママさんはこの窪川で一歩も外に出てないとのことでしたが、良い町ですよとおっしゃいました。
郷土を自慢してくださる物の言い方がものすごくうれしかった。
わが町を自慢すると云うことは本当に大事な事、そのことに触れられて物凄くうれしかった。
喫茶店を出て、国道の信号があり渡ってきたら、女子中学生が歩いてきた。
どこのだれかもわからない私たちでしたが、すれ違う直前で4人の女の子たちが「こんにちは」と笑顔を見せてから挨拶された。
「こんにちは」と云い返して「だれにでもそういうの」と聞いたら「はい」と云って嬉しそうな笑顔で去って行った。
自転車に乗った女の子たち二人、すれ違いざまに「こんにちは」と云いました。
最近の自転車のマナーは凄く悪い、無灯火で走ったりする。
自転車がそちらに向かっていますよと云う為の明かりです。(人を気にしていないと云う事)
すれ違いざまにあいさつをすると云うことは、人が来ているということを自分が認めて居て、「こんにちわ」と云う。
本当に心が温まります。
学校で教わってるのかと聞いたら、自分たちでそういう風にしているとのことだった。
「自由は土佐の山間から」と云う言葉が今も残っています。
土佐人の大事なもののひとつは自分たちが基を作っていくんだという強い志です。
俺たちが始めるんだという気概と、やりたければどうぞ一緒にやってくださいという心の大きさ、こういうものが土佐にはずーっと伝わってきているんだと、高知を舞台にした小説を書くなかで強く思います。
名前を求めない、やったことであれは俺だと後に名前を残そうとしない。
ジョン万次郎、日本人で初めてアメリカの本土を踏みました。
英語を覚えて帰って来た。
万次郎が漂流民でアメリカに暮らしていたということは、黒船でやってきた日本にやってきた、1853年に日本にやってきたペリーが、アメリカのニューポートにいたときにすでにそういう情報を得て居ました。
情報を得ようと万次郎の所に行こうとしたが、すでに日本に帰ろうとして西海岸のサクラメントの近郊に行っていませんでした。
ペリーが後年日本に軍艦4隻で日本に入ってきて、浦賀に来た時には通訳の控えとして幕府から任命を受けて居る。
そのあとも咸臨丸に乗って太平洋を横断したが、万次郎は主要な乗組員として、活躍した。
明治維新の政府になった後、名を求めて要職に付くことは一切せずに、弓町(有楽町駅の近く)と云う所で一市井の人間として生涯を閉じて居る。
ハワイにいたデーモン神父(万次郎を直に育ててくれた)が日本にやって来たときに万次郎はどういう職について、日本の政治の中枢に座ってるか楽しみに来たら、何の官職にもついていなかったので、憤っていたと云っている。
自分が裏側に回った事をよしとした。
土佐藩の藩主2代目忠義公の頃、野中兼山と云う奉行がいた。
信任が厚かった。
最後には失脚をして血筋が絶えるまで、幽閉をされてその地で果てて居る。
幕末のころに土佐は色んな働きをするが、出来上がった明治維新の政権に加わることは無かった。
理由は良くは判らないが、俺が俺がと言って前に出て行った人たちが、当初のころは首相の首を取り換えて行ったが、その中に土佐は含まれていませんでした。
何か残してゆくと云う事が自分を残すのか、そのことを大事にして自分の名前は無くてもやろうとしたことが後に続いてくれればいいか、根本から違ってきます。
早稲田大学の建学の母といわれる小野梓と云う方も宿毛に出ている。
小松製作所の礎となった人も宿毛にいました、ほかにも随分います。
東京に行った人は私財を肥やすことなく後から来る人の面倒を見て行った。
今に至った時に振り変えれば驚くほどの人数が郷土から排出したことが歴史として残る事になる。
宇佐浜から万次郎は船出をして行って、遭難して最終的にはアメリカの捕鯨船に助けられましたが、遭難をしたときに5人いました。
その末裔が宇佐に暮らしています。
森田さんと云う漁師の方、船頭だった筆之丞の末裔です。
戻ってきたときに、自分たちが見聞した事を一切口外してはならんと厳命されて、自分の郷里に暮らして行った。
筆之丞は一切云わなかった、直系の森田家には筆之丞からの言い伝えがほとんど残っていない。
万次郎は江戸で一市井の人間として生涯を閉じます、筆之丞も同じです、家族にも伝えず生涯を閉じて居ます。
土佐人の一つの気風だと思っています。(日本人と云っていいと思います。)
今これを云っていいか悪いのかを、自分で考えて云うのはよそうと、あえて口をつぐむ事、わきまえて居る。
子供を社会が育てて行く、大事なことです。
女子中学生が誰に言われるでもなしに、(家庭で言われているとしか思えない)挨拶が出来て居る。
こういうことがここには育くまれています、このことは物凄く大事なことです。
女子中学生がこの地から出ていったときに挨拶が出来、可愛がられると思います。
今日本人はいろんなところで無言です、相手を意識していないのと同じことになります。
アメリカに行くと、一番強く感ずることはお互いに見ず知らずの人が言葉を交わすと云うことです。
礼儀正しいとか、愛想がいいとは断じて違っていると思います。
今アメリカは人を受け入れていいかどうかが報じられているが、多国籍の人が暮らしていて、お互いが相手に対して私はあなたに敵意を持っていません、貴方に害を与える人間ではありませんよと、そのことを相手に伝えるために「ハイ」「モーニング」を云うのです。
云われればお互いが心を開いてお互いに言葉が交わせる。
この町の中学生はそれをやっている、物凄く大事な事です。
日本はグローバル化を云っているが、英語学習だとかを思っているが言葉の前に相手に笑顔をむけて「こんにちわ」がいえるかどうか、大人が出来るかどうか、それがグローバル化の第一歩です。
大事なのは、「自由は土佐の山間から」と今はっきり言える事を後に残して行ってやることです。
その人がやろうとした志を受け止めて次代を担ってくれる子供たちにそれを申し送ってやることが一番大事だと思います。
当時私の廻りに怖い大人がいっぱいいました、そして大人がいろいろな技を持っていました。
大人になったら自分もそんな大人になりたいと思っていました。
宿毛にいた僧侶白明(はくみょう)さん、忠臣蔵の討ち入りの時に江戸の泉岳寺にいたということを去年知りました。
四十七士の4人をお世話して、懐紙に筆で遺墨を書き残してもらったもの4人分を持ち帰っています。
江戸と宿毛が繋がっていたんです。
大高源吾の筆で書き残されていますが、一気に時間を超えて討ち入りのあった12月14日に自分が運ばれてゆくような気がします。
郷土にはこういった歴史、文化、風俗、言葉、食べ物などいいものがあると、バトンを若い人につなげて行ってほしいと思います。
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