2013年8月21日水曜日

大野長一郎(炭焼き職人)      ・炭焼きから見える日本文化

大野長一郎(炭焼き職人)     炭焼きから見える日本文化
大野さんは昭和51年 石川県生れ 父の後を継いで、今では4つの窯で年間20トンの炭を出荷しています
風土や伝統を生かした炭焼きと言う仕事を、続けることでこの時代に何か貢献できることがあるに違いないと考えて、炭の需要が細る厳しい状況のなかで、意欲的に炭焼きに取り組んでいます
今、茶道用の炭焼きに取り組んでいます 
炭焼き専業で生計を立てるには、持続できる炭焼きの基盤作りが欠かせません
付加価値の高い製品を作るしかないと考えたからです
炭の原料となるクヌギの植林もして、将来に向けての基盤作りは軌道に乗り始めています
炭焼きは文化を支える仕事、と言う大野さんに伺いました

能登半島の一番北 炭焼きをやっていた人が多かった
昭和25年~30年代前半 木炭の需要のピークを迎えている このころは盛んにやっていた
ガスや化石燃料、電気によって住み、薪の需要は少なくなった
今もなお炭の需要は少なくなってきている
専業で炭焼きをしているのは県内でも私だけ、他は年金をもらいながら兼業で細々とやっている
高校を卒業してから勤めに出て、22歳のときに炭焼きを始める 
父が炭焼きを専業で始める 昭和46年 皆が辞めてゆくときに始める

工場を構えて、機械類を駆使して、運搬して工場で焼く形を始めたが、生活が苦しくて夫婦けんかをやっていて、繰って行くのも大変なので、私は絶対に後を継ぐものかと思っていた
進路指導の先生に紹介してもらったのが、製造ラインの工場だったので、そこに就職した
数年すると、環境問題が出てくるようになった
父がやっていた炭焼きをが、環境炭と呼ばれて、水質浄化、調質脱臭、土壌改良と燃料以外の環境に優しい用途が叫ばれるようになった
20歳のときに(私は父が45歳の時の子)、父は年金受給者になっていた
いろいろ考えて、会社を辞めて、父の後を継いだ

父の言葉として
「時代は巡っている  円の上が時代の最先端 自分たちはかなり遅れている、追いつくのは非常に困難だが、逆に回れば意外とすぐに最先端の前に来れるよ」 、と言っていた
父は炭焼きと言うものはこの世から無くならないものだと思ってやっていた
炭焼きに対する普遍的な価値を父は見出していたのかなあと考えています

炭焼きの工程
木を地主から買い取る(次の山を常に確保しながらやってゆく)→作業しやすいように草、低木を刈り取る→ナラの木を根っこから切り離す→葉を取らすに1カ月放置(葉から木の中にある水分を抜く  乾燥)→雪の降る前に長さを切りそろえる→山から運び出す→太さ、樹種を選別する
→窯詰め→火をくべ始める(4日間 初めちょろちょろ、煙突のところの温度が60度になるように)
→本炊き(5日目 ドンドン薪をくべる 12時間かける 煙突の温度 85度にするように)
→窯に任せる→酸素を遮断して自然に消えるのを待つ(1週間)→取り出し
窯の中は700~800度
備長炭は白炭 火付きが悪いが、一片つくと火持ちが長い 遠赤外線が凄く沢山出るので、焦がさずに中まで火が通せるというのが、白炭の特徴です
ウナギのかば焼き、焼き鳥を営業としてやっている店では、備長炭をよく使っている
バーベキューには白炭は合わない、黒炭が合う(火付きがはやく、火力が強いが、火持ちは短い)

クヌギを使って炭を作る (一般的にはコナラ 低価格)
利益が出る炭を考えて、良質の炭を作ることにした
茶道用炭 当初コナラでも高く買っていたが、品質が厳しく、めんどくさい
クヌギを使ったものが流通していたので、クヌギをやろうと思った
静かに燃えて、すぐに火が付いて、或る程度の火力が得られて、一定時間ちゃんと火力を維持して、ぱちぱち撥ねない、炎が出ない、ほのかな香り
見た目にも厳しくて、断面が真円 樹皮が隙間なく付いている事(着火しやすい) 断面では放射線上に細かな割れが均等に入っている

クヌギはあるが山に点在している、巨木化している
6年~10年生のクヌギが材料として適しているが、まず無い
自分でクヌギを植えようと言う事になっていった(父が他界した翌年の春)1000本植林する
1000本を8年間続けて植林するとようやく、採算がとれるレベル 自力では無理とわかる
体験交流事業化することを考えた 広葉樹林の植林の効果 昆虫の育成効果 環境の効果
2007年 モニターを募ってやってみた 青年団協議会の声をかけて、植林モニター体験してもらったら、いいんじゃないという事になり、植林イベントを開催,NPOとの連携で実施するようになった
目標の本数は1000本×8年  だが現在6000本

草刈りもイベント化してチャレンジしている
炭焼きの存在をしってもらう、炭焼きが果たしている役割、価値を知ってもらう事が自分の作っている炭の価値につながると思って、公益性を訴えて、イベントを開催していこうと思っています
水質浄化、土砂災害が出ない、河川への流れる水の水質とか、言われている、植林による環境への負荷とかをじっくり大学と連携しながらやってゆくことも、やっていきたいことのひとつです

日本の文化とのかかわりが炭の中にある
仕事をしていく上でのモチベーションになっている
茶道 言葉を交わすことなく感じ取れる感性と言うものが試される場なのではないか
炭は表舞台には出ないが、温度は火力のコントロール、燃料としての質が問われる
美味しいお茶の温度のコントロール  炭火が重要な位置付けにあると思う
社会農業遺産に認定された中に伝統産業として炭焼きが入っている
炭焼きの追い風になってくると思うが、炭焼きが必要な存在として、あり続ける事が大事
生活の中に根付いて存在することが継続につながると思っている
炭を使う機会を生活の中に取り入れてもらえればと、思っている

まだまだ、生業としては貧弱なので生業としての確立、 茶道用の炭を焼いて、それが、人が目指したくなるような生活水準にすることが、後継者を生み出して、育てていきたい
産地化することによって、規模がおおきくなれば、広いクヌギ林になり、生態系への影響が見えてくると思う


















































 



2013年8月20日火曜日

モハメド・オマル・アブディン(理事)     ・留学体験を祖国の障害者支援に

モハメド・オマル・アブディン(スーダン障害者教育支援の会理事)  留学体験を祖国の障害者支援に
1978年スーダンのハルツームの生れ 12歳のころからはほとんど、目が見えなくなりましたが、将来、兄と同じ弁護士になることを目指し、ハルツーム大学法学部に進学します
1998年、アブディンさんに国際視覚障害者援護協会の招きで、日本に留学の話が持ち上がります
来日したアブディンさんは、福井県立盲学校で、3年間鍼、灸とマッサージを学び、国家資格を取得、その後、筑波技術短期大学でコンンピューターと画面音声読み上げソフトを勉強し、ひとに頼らず、情報発信ができるようになり、活動の世界が広がります
2007年東京外国語大学、外国語学部、日本語過程を卒業、現在大学院博士課程に在学中で、6年前に設立したNPO法人スーダン障害者支援の会の理事もしています

モハメド・オマル・アブディンは自分の名前(モハメド)・父の名前(オマル)・祖父の名前(アブディン)となる
女性の場合は 自分の名前・人の名前・父の名前・祖父の名前となる
結婚しても名前は変わらない(夫婦別姓)
アブディンはスーダンでも珍しい名前 宗教的な名前
2年前に南スーダンが独立したが、それまではアフリカで一番大きい面積だった
日本語は同音意義語が有って本当に難しい  例えば 講義、広義、抗議とか
(漢字を見ればわかるが、私は目が見えないので判別ができない)

砂漠、密林、海、川(白ナイル、青ナイル)等自然が豊か
ピラミッドの数が多い、サイズは小さい 歴史の古い国
エジプトのピラミッドよりも古いのではないかと言う仮説がある
基本的には農業国 南は石油とか天然資源が豊富(これで紛争の要因となっている) 
農業は国家収入の60%、家畜関係が20%占める 石油がでてしばらくは、農業が軽視されていた時期がある
スーダンの南が独立して、60%の石油収入が見込めなくなった

1996年の終わりにスーダンの大学に入学した
友達に本を読んでもらったり、親に本を読んでもらったりして、耳で聞いて勉強していた
高校では通じるが、大学では勉強の幅が大きく、そうはいかなくなった
途方に暮れていた時に、日本の団体から、鍼、灸の募集があった
直感で決めた 視覚障害者に対して、配慮のある国だと思った
父は猛反対した
兄も目が見えず、法学部の3年になっており弁護士を目指していたが、兄に相談したら、チャンスを逃さないほうがいいと、背中を押してくれた
「我が盲想」を出版している   雪の上にも3年
板橋で3か月 語学の勉強と歩行訓練をした
福井県立盲学校で受け入れてくれたが、方言に最初は苦しんだ
東洋医学理論を学ばなくては行けなくて、通常の日本語とは全く違う言語で苦しんだ

寿司は非常にうまい 口に入れてみたら最高に美味しい
美味しいものを世界に教えなくて良かったのではないかと思う(資源不足が心配)
日本検定試験1級を取得 日本語も自由にしゃべれるようになった
19歳で来日して、15年になる
結婚もした スーダンの人 娘が二人(2歳半、8か月)
筑波短期大学でコンピューターを学ぶ 合成音声が画面の情報を読んでくれる
普通のキーボードで行う

視覚障害は情報障害だと思っている 視覚が7割の情報を得る
音声ソフトを使ってやることで、活動範囲が広がった
NPOを立ち上げて、始めた
小さい時の読書は、自分の今後を決める大事な経験だと思うが、それができなかった
勉強しなければ飢え死にすると母親から言われて、一生懸命勉強するようになった
障害を持つことによる理由で学校をやめる人が多いので、学校でも学べる環境を作りたいと日本で細々と活動を始めた
友達も共感してくれて、一緒に団体を始めてくれた

スーダンの盲学校は1つしかない 日本は70校ぐらいいある
通える人は100人しかいない 通えない人に点字を教える
点字の本を購入して配布したり、大学に通う大学生に音声ソフトの入ったパソコンを設置して講習会を行ったり、スポーツ(視覚障害者サッカー等)の普及に務めたりした活動をやっている
大学の博士課程では、平和構築紛争予防を研究 スーダンの国にとって大事なこと
目の前の現象ばっかり、深みのない紛争解決は善くないと思っている
民主化、選挙しなさい、そうすれば平和になると 細かい状況を考えずにやっていることに疑問を抱いている

スーダンの紛争の歴史はどうだったのかを、認識しておかないと、紛争解決をしてゆくことが難しい
地球の人口の15%は何らかの形で障害を持っていると言われるが、発展途上国では保証が期待できないので、障害者の80%は発展途上国に住んでいると言われる
障害者が勉強して、仕事をして、税金を払って、社会全体のプラスになるような仕組みを作っていかないといけない
そういう意味で教育は大事だと思う
将来的に就労市場で競争できる人材になるために教育の現場の改善を訴えています
ブラインドサッカー 子供のころ 阻害感を味わったが日本でブラインドサッカーに出会ってこれだと思った
大人だけでなく、子供にも教えていきたいと思っている
視覚障害者の教育支援を広げてゆく
娘の父親として、自慢されるお父さんになりたい
失敗しても自分で決めた事は悔いが無い(直感勝負 自分の判断を信じて)


























































2013年8月19日月曜日

乾弘明(映画監督)        ・日本とアジアの関係を映画で見直す 2

乾弘明(映画監督)   日本とアジアの関係を映画で見直す 2
乾さんは北海道の出身 ドキュメンタリー番組を中心に活躍したTVディレクターです 
この10年は映画に活躍の場を移して、、「よみがえる玉虫の厨子」「海峡をつなぐ光」など飛鳥時代から続く日韓の文化交流と、平成の市民や、職人、学生たちの交流を描いてきました
今回の乾さんの映画のテーマは李藝、室町時代に活躍した朝鮮王朝の外交官のことで母を、倭寇に殺されながらも、日本に40数回渡航して文化交流に尽くした人物です
製作は乾さんとともに日韓の市民交流を描いた、映画を製作してきた日本のプロダクションで、
韓国側は韓国のTV局が協力、ナビゲータは韓国の俳優、ユンテヨンを起用
映画の中では韓国を訪れた日本の大学生たちと、韓国の学生たちの議論をする様子などもつたえています
6月から公開が始まりましたが、好評で上映館は全国各地に広がっています
東アジアの国々との関係が多く、多くの課題を抱える中で、日韓の文化を中心とした、交流をテーマにした今回の狙いや、取材の中で感じたこと等をお聞きします

報道ドキュメンタリーをTVでやっていた
NHKの10時からの番組で、環境、水中撮影、 自然の美しさ、、諫早の問題、干潟の干拓の問題、川辺川ダムの問題とか、自然破壊につながる公共事業とか、世界の美しい自然をつたえるとかやっていた
最初、1作目の「平成職人の挑戦」はイランとの合作映画のメーキングを頼まれたが
その一場面に山車の製作の映像があって、それを見たときに、凄いと思い、それが1本の映画になるのではないかと思った(飛騨高山の山車  100年ぶりに作ると言う話がありドキュメンタリーにした)
職人の人たちが凄くかっこいい セリフを聞いているだけで、自分の生き方を問われているような気がした

「よみがえる玉虫の厨子」 日本と韓国の別の意味での職人さんともいえる感じ
復刻版を作ろうとの事で、高山の山車を作ったチームと同じチームが作ることになった
朝鮮半島とのつながりがどうしても出てきて、ちょっとだけ触れることになる
「海峡をつなぐ光」 朝鮮半島とのつながり 新羅で玉虫を使った馬具 同じ技法があり、たまたま韓国で復刻版を作っており、それを韓国MBCがドキュメンタリーで追っており、日本と同時にやっていたので、それでは一本にしましょうと、韓国側と共同制作のような形で、それを一本の作品にまとめた、それが「海峡をつなぐ光」

基本には、日本の伝統の凄さ、文化を受け入れて日本の中で消化させるという日本人の力は3本を通じて感じる
日本の職人の技の凄さ、システム 完全分業制 職人が特化していて、本当のスペシャリストが集まってチームワークで物を作る日本の技術力の凄さが、その時代からつながっているんじゃないかと感じる
蒔絵の技術 日本で昇華させてゆく
現在の先端技術にも通じている

李藝 (イエ) 初代の日本通信使 「海峡をつなぐ光」で日本と朝鮮とも関係を調べてゆく中で、朝鮮通信使は江戸時代来ていたが、室町時代に先駆けとなった人がいたことを知って、この人物は面白いと興味を持って、是非取り上げていたいと思った
資料が全く日本側にはない 韓国側に残っていて、紐といたり、知恵を拝借しながら、事実だけを拾ってゆく作業を先ず始めて、どうドキュメンタリーにするか、難しかった
江戸時代の朝鮮通信使の資料は残っているので、それをベースに韓国の俳優に旅をしてもらい、日韓の交流を改めて今、考えてもらうという形にした(ラフスケッチ)

倭寇が日本海、から朝鮮半島にあらしまくっていた
ちゃんとした国間の条約が出来ていなかったが、そこを調整したのが李藝
いくつかの条約の締結に至ることになる
李藝は地方の役人の子供として生れる  母は倭寇に日本に連れ去られた(李藝 8歳の時)
母を取り戻そうと思って、外交官になったと思う 
母に会いたいと日本に何度も渡ったのではないか(推測)
40数回 日本を往復する 海賊にあったり、難破したりして命からがらが、何度かあった様だ
通ううちに日本人を好きになって、信頼関係が生まれて、いろんな条約を残したり、文化交流などするようになれたのも、憎しみが信頼に替って行った瞬間が絶対あったのではないかと思う

朝鮮通信使が残した書等がお寺など各地に保存している
中国の文化を朝鮮を通じて、学ぼうとしていた
韓国のウルサン支局 (李藝の出身地) 協力してきた
縦軸がナビゲーター 案内役 ユンテヨン 韓国の俳優 子供のころ日本に2年ぐらい住んでいた
釜山から京都までの旅を追ってゆく 韓国と日本の歴史の問題 豊臣秀吉の時代、日韓併合
のことを、考えてもらいたいと思っていたので、取り入れた
映画の後半、日本と韓国の学生たちの議論 韓国大使館の主催でいろんな歴史的なものを見た後で率直な若者同士の議論の場ができた

現代史を若い人たちと一緒に観てみたいと思った
SNSリポーターをやっていて、今回 朝鮮通信使をテーマにしてくれると言う事もあり、一緒に旅をすることになる
最後の討論は私がお願いして、討論会をやってもらった
韓国の学生は被害者としては忘れられないよ、でも文化交流は大事だ
日本の学生は歴史の認識が違っていたが、日本と韓国の小学校からの教育制度の違いが根本的にあるので、教育の大切さ、間違うと良くないと思ったりした
人と人の交流が一番大切だと言う事は、彼らは気付いているので、政治になると、国と国となると難しいという問題がうまれてくるのは何故だろうと言う事は、両方とも感じていると思う
その後も学生同士はメール等でやり取りしている

日本と韓国の間では、ぎくしゃくしているので、タイミングを見ることは有りました、苦労はあった
先の大統領を含めて、どうしてそこまでしちゃったんだろうと思う
寺院、自然の美しさ 日本、韓国のおのおの良さ
建築 技法が似たものがある 韓国は戦争で再建物が多いので色あいが新しい
日本の寺院はわびさびの世界 色落ちした世界 緑とのコントラストがいい風景になっている
日本の文化は朝鮮に影響が与えたものは?→食べ物、 サツマイモは日本から韓国に持ち帰った
水車の技術、船の技術は室町時代は日本は高かったので、李藝が持ち帰って、韓国で広めて船の改造をしていったと言われている
ユンテヨン 気さくな俳優で旅の中でおばちゃんたちと段々交流が深まって言った
今の日韓関係の状況を考えながら、私たちは何をすべきなのかを考えたと言う意見が多いのでやってて良かったなあと思う
映画のテーマでもあるが、人と人とのふれあい ふれあう事でしかわからないことはいっぱいあると思うので、ふれあう事によって広がる事が一杯ある、ふれあう事によって理解できる事がいっぱいある、そのことに賛同してくれる人が一杯あり、嬉しい限りです

日本と言う国は、選択肢はいろいろあると思うが、基礎を抑える事も発信していきたいと思っていて、日本人とは何だ、と言うところをもう一回見つめ直してみたい
ドキュメンタリーの面白さ 予想しないことが起こる 自分の思った通りにはいかない
新たな発見があったりする  チームワークの面白さもあったりする








































2013年8月18日日曜日

酒井充子(映画監督)       ・日本とアジアの関係を映画で見直す

酒井充子(映画監督)   日本とアジアの関係を映画で見直す
1969年 山口県の生れ 北海道新聞の記者だった1998年に台湾に旅行し、日本語世代の老人達と出会い、2000年に映画の製作に転身しました
2009年初監督作品、「台湾人生」を発表 その後も、台湾の日本語世代を取材したドキュメンタリー作品で知られています
今全国で順次公開中の映画「台湾アイデンティティー」は、半世紀にわたる日本統治の中で、日本語を話し、精神面でも日本人的な感性をいまだに持つ人々のインタビューを通じて、戦後日本が去った後の台湾の道のり、現在を描こうというものです
東アジアとの関係が多くの課題を抱える中で、台湾をテーマにした、今回の映画の狙いや取材の中で感じたことなどをお聞きします

大学を卒業して、普通のメーカーに3年勤めて、どうしても新聞記者の仕事をしたいと、受験したら合格して北海道にゆくことになった
98年の夏に、友達が放映されていたものをVHSのテープに撮ったものを、ちょっと見てみたらと、渡してくれて、「愛情万歳」という蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)と言う監督
今の台北に暮らす若者の孤独を描いた映画だった 
自分でも台北に行ってみたいと思って、ぷらっとでかけた
真夏だったが、空港に降りたときに、もわっとした感じを受けて、降りた瞬間から台湾ていいなあと感じた

台湾映画 「悲情城市」侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の映画あって、そのロケ地を訪ねて行った
台北に帰るバス停に行ったら、おじいさんが来て、「日本からいらっしゃったんですか」と綺麗な
日本語で話しかけてきた
子供のころに、とっても日本人の先生にかわいがってもらった、と言う思い出を話してくれた

先生は戦争を終わって、先生は日本に帰ってしまって、連絡が取れないようになってしまって、もし先生が生きているなら、僕は今でもその先生に凄く会いたいと、見ず知らずの私に一生懸命に話してくれて、その旅では本当に印象的な出来事で、今から15年前の事 戦争が終わってすでに53年がたっていた
当時、台湾が日本統治下にあったことは教科書では知っていたが、初めて日本語で話しかけられて、話をした方がバス停のおじいさんだった
台湾と日本のつながりを考えさせられた

日本に帰ってきてからもおじいさんのことが気になり、台湾と日本のことを知りたいと思うようになって、図書館に行って本を探して読んでいた
台湾のことを書いた本が多くは無かった
台湾のことをつたえる仕事ができればいいなあと思うようになった
函館で映画祭が開催されていて、監督、プロデューサーへの取材をする機会があって、だったら映画で台湾のことを伝えたいと思って、転身した(2000年)
当初、でき上った映画を宣伝する仕事をしたが、資金をためて台湾に出かけた
段々助監督的な仕事をするようになり、取材を続けて行く中で、文化庁の助成金を申請したら、企画書が通って、やっとプロのカメラマンにお願いして撮影をして、7年掛かり完成することができた

「台湾人生」 2002年から2009年までかかる
台湾が日本統治下にあった時に、日本語で教育を受けた、今も日本語を話すおじいさん、おばあさんたちに、日本統治時代の思い出、今の日本に対する思いを伺った
1895年 日清戦争が終わった後から、1945年までの51年間日本統治下にあった
同化政策と言う事で 台湾を日本と同じような場所にしようと、日本語で教育して、台湾統治をおこなっていった
昭和元年前後生まれの人たち 個人的な思い出を沢山持っている
恩師のお墓参りをずーっと続けている人とか、女性で もし男だったら特攻隊に行っていたわと言う風にはっきりおっしゃる人とか、いろいろ聞かせてもらった

日本語を話せるおじいさん、おばあさんを先ず探した
段々広がってきて、最終的に5人の方に絞った
日本統治下の、台湾にいた人たちのことに思いを至らせたことが無かった事に痛感させられた
お墓参りをした人は もう亡くなってしまったが、わざわざ台湾から日本に来て日本にあるお墓にお参りをしていた
その先生と偶然再会をすることができた
その方がホテルに勤めていて、日本の客にこんな先生を知りませんかと問い続けてきたが、偶然に知っている人(教育関係者)に出会い、戦後、数十年後に会う事が出来た
その2年後に先生がお亡くなりになった(最後の病床にもたちあう)
その後毎年、毎年お墓参りをするようになったとのこと

特攻隊をと願った女性 公学校(小学校)を出て、女学校、高等専門学校に進んで、茶道、華道等、日本女性のたしなみを全て身につけてこられた方
彼女が青春時代を送った時代は戦争に突き進んでいった時代で、男性は志願して戦場にいく時代だったので、彼女自身もし自分が男だったらと、おっしゃったと思います
外国の戦に志願する気持ちになったのは?→そこまで日本の統治政策が完璧になされた裏返しだと思う
徹底的に日本人教育がなされたことと思う

「台湾アイデンティティー」 2作目 続編と言っていいと思うが、全く違う一つの映画として作ったつもり
日本統治時代が終わった後の台湾で、どのように暮らしてこられたのか、どのような思いで戦後を生きてこられたのかを中心にしている(戦後の人達の人生)
今回、横浜在住の台湾の人、インドネシアのジャカルタ在住の人にも登場してもらっている
1945年に日本軍は台湾を去って、すぐ後に中国から蒋介石を中心とする国民党政権がやってきて、台湾を統治する
戒厳令が敷かれたのは、1949年から1987年まで(38年間) 世界最長と言われる
1947年 228事件が台湾で起こる 中国国民党統治に対する台湾人の武力蜂起
日本統治時代にも主要ポストは日本人が占めていたが、非統治者 台湾の方は或る意味虐げられた部分があったが、戦後変わるかと思いきや、中国、国民党にとって代わられて、台湾人は非統治者であり続けることになり、そのことに対する不満が228事件だった

これからの台湾を引っ張っていくであろう人たち(東大、京大等へ留学した人たちを含めたエリート層)が一掃されてしまった
2~3万人が亡くなったと言われている
228事件のあと、戒厳令下では言論統制がしかれて、日本統治時代の事を日本語で語ることが自由にできない状況になった  北京語が持ちこまれた
台湾語、それぞれの部族の言葉があったが、日本統治下では日本語、戦後は北京語でずーっと台湾の方たちは押し込まれてしまったという長い歴史がある

白色テロ  中国国民党に対抗する勢力に対する弾圧
蒋介石の国民党が自分たちの政権にとって危険だと思われる人物を次から次に摘発してゆく
無実の罪で、逮捕されて適当な裁判にかけられて、何年も監獄に入れられたりだとか、全く無実の罪で死刑になったと言う事も聞いています
台湾の方たちには恐怖心が植えつけられてしまった
2000年に台湾を訪ねたが、戒厳令を解除されてから13年後だが、まだ台湾がどんな時代を迎えるかわからないので、あまりのことは言えないと言うおじいさんは言っていました

父を白色テロで亡くす歌手がいた  父は無実で、共産分子反乱罪で銃殺刑に会う
解放するきっかけが自首証、私は悪うございましたと言う事 と言う話が出てくる
戒厳令が長きにあった 最後の政治犯が解放されたのが、1992年のことだったと言う事なのでつい最近までの事

台湾アイデンティティー  日本統治時代のあと、中華民国の時代に入る
日本語世代にとっては、蒋介石が中国大陸が持ってきた国だという受け留めで、中華民国と言う国の、自分は中華民国の国民だという意識は、実は凄く薄いんですね
台湾は台湾という国であるべきだという、主張をされている方で、彼が言う台湾は、彼が暮らしている島であり、台湾という国である、という意味です
一部の日本語世代にとっては、台湾と言う言葉はすごく大切な国、と言う事です
台湾の人々は親日的と言われて、東日本大震災の時も、かなりの寄付金を集めていただいた
突出していて、200億円を超える金額で、政府主導ではなくて、民間からも大きなお金が寄せられたと聞いている

台湾の若い世代は日本のアニメ、ポップカルチャー、アイドルとか、本当に日本語世代とはまた違う視点で、日本に凄く親近感を持っていると言う事は感じますね
日本に対する思いは? 
もし台湾が戦後、台湾人の台湾と言う国をつくっていたら、ここまで日本時代のことが良かったと言う風に評価されることが無かったかもしれないと思う
228事件、白色テロ、とか凄く辛い時代をを戦後経験されていて、同じ統治下に置かれる身として、日本時代と戦後を較べたら、まだ日本時代の方がよかったじゃないか、 子供時代、青春時代は美しいものとして思いだすと言う事はあると思う
比較して日本時代の方が良かった、青春時代は良かったとあいまって、評価されていると思う

八田與一さん  台湾のお年寄りから教えてもらった話
1920年~1930年にかけて、烏山頭ダム とうダムと灌漑施設を整備する土木工事の責任者であった
干ばつのために農業を立て直すための事業 八田さんの銅像、お墓があって 毎年5/8が命日で慰霊祭が毎年行われている
そんな人がいたんだと台湾に通うようになって解った 
台湾の人の間では、知らない人がいないと言っていいほど、皆さんはよく知っている
今でも台湾の人から慕われている

映画 「台湾アイデンティティー」 日本語世代の声をひとりでも多くの方に届けようと作りました
彼らの声に耳を傾けていただいて、彼らの人生に寄り添っていただけたらうれしいなあと思います
その中で台湾と日本の絆、戦前日本がして来た事、戦後日本がしてこなかったことに思いを馳せて、いただけたらいいと思います
台湾のことを気付いていただける、きっかけになれば良いと思います
台湾をつたえる映画人は他にいないので、勝手に自分しかいないと思って、台湾の事をやっていきたいと思います
我々、一人一人が他国の人たちと心の交流をすることが凄く大事だとおもいます
それがすぐには状況を変える大きな波にはならないかもしれないが、ちいさな積み重ねがすごく大切で、いざという時に一人一人が責任を持って行動することが大事だと思います
国を作っているのも一人一人だと思うので、地に足の着いたところで、自分の責任の中できちんと相手国と向き合って行くと事が、いま一番大事なことだと思います








































































2013年8月16日金曜日

今井高樹(スーダン現地代表)     ・私が体験した現代の戦争と平和

今井高樹(日本国際ボランティアセンタースーダン現地代表)  私が体験した現代の戦争と平和
日本国際ボランティアセンターでは1980年代から東南アジアで難民支援に取り組んできました
2006年からアフリカのスーダンで住民への支援活動を行って来ました
スーダンでは20年以上も内戦が続き、2011年には南スーダンが独立しましたが、今でも紛争が続いています
今井さんは会社に勤めながら、国際ボランティア活動を続け、2010年からは現地スーダンに入って、直接的な緊急支援や、生活支援などの活動を行っています

帰国が1週間だけなので、忙しい
スーダンに6年間生活をいているので、スーダンの方が自分にとって、普通に感じる
日本に来るとこの社会の方がきっちり整理されていて、乗り物に乗ったりするときには時間が正確であるが、スーダンでは時間に集まらないのが普通で、自分が成りきってしまって、日本にも戻っても、何故か時間にはいけなくなってしまう
私が住んでいるのは首都のハルツームと言うところですが、そんな緊張状態ではなく、安全で市民生活とかが行われているところです
国の中で、ダルフール、南コルトファンと言うところでは、紛争が続いていて緊張状態がある
首都では夜中でも女性が一人で歩ける状態

ずーっと日本の会社で、最初スーパーマーケットで肉の担当で、牛肉、豚肉を切ったりしていて、その後本社勤務が結構長かった、そのあと今のNGOの仕事に携わった
もともと学生時代から関心があったが、古い学生時代からの友人が、TVを見ていたら、その友人がカンボジアで一人で国際協力活動していて、それを取り上げたTVを偶然見て、非常に衝撃を受けて、友人と連絡を取り、カンボジアを訪問した
当時は内戦が終わって、時間がたっていなくて、チケットを購入するのに注意をされた
何日か一緒に活動をして、自分もこういう風なことを機会があったらやりたいなと思った
そのあと、日本国際ボランティアセンターで会社員をしながら、毎週一回活動の手伝いをすると言ったことを何年かして、最後には職員と言う形で、海外派遣という形になった

日本国際ボランティアセンター (JVC) ボランティアの草分けの団体
スーダンへ行ったのはJVCへの要望  アフリカには興味があった
スーダンに関しては、戦争、難民とか危ない場所とのイメージがあったが、街自体は安全でイメージと違う感じだった
スーダンはエジプトのすぐ南 東にはエチオピア と言う位置関係
国の面積は 南スーダンが昨年独立したが、独立前はアフリカで一番広い 日本の6倍ぐらい
独立後は日本の4倍ぐらい
首都ハルツーム 人口は 600万、700万、と言われる(地方からの移住者、避難民を合わせるとき)
白ナイル(薄い茶色) 青ナイル(こげ茶色)  首都ハルツームで合流してナイル川になる

気候は 場所によってかなり異なるが、ほとんどが乾燥地帯
40℃は当たり前、乾燥しているので、日本のようにむしむしはしない
ダルフール紛争 2002年から始まって相変わらず続いている
内戦は23年続いたが、南の方が独立した
沢山の民族が住んでいる 自分たちはアラブ国家だと言っているが、国の中には、自分たちはアラブ文化ではない、言葉もアラビア語ではなくて、自分たち独自の言葉があると言う人も多く、南部、ダルフール、東の方に多くいる
国の中央を占めるアラブ系の人が周辺の民族を支配抑圧してきたんだと、言う事で反発をする人々が、反政府勢力になっている

2年前まで南コルドファン州のカドグルと言う街に住んでいたが、そこで紛争が起きた
市街戦になり、同じ国際協力活動をしている団体とか人道支援団体と一緒に避難してきたが、現場を見ると、日本の感覚では信じれれないような、皆、銃を持ち、撃ち合っているような光景もあった
とても身動きできない様な状態になっている
紛争の中で生きている人たちがいるのかと、身に沁みて感じた
紛争地域には入ってはいけないようになっている
紛争が始まって半年ぐらい、事務所が閉鎖された
紛争のなかで避難した人たちに対する緊急食糧支援、毛布、調理器具の支援をしてきた
(現地スーダンの人たちが主体的に動く)

現地スタッフは今は3人いる  電話で一日に何回もスタッフに電話して、情報を仕入れたり、指示をスタッフにしたりしている
避難先に住み付いてしまう人は自活をしてゆくので、自活のための支援もしている
作物を育てる手伝いをしている
この地域は半年雨が降らないので、灌漑設備、小さな池を作ったり、そういったことをやってきた
支援範囲は限られているが、それでも人口は数万人~10万人ぐらいが住んでいるので、結構大きな人口を持っている、その支援をしている
JVC、日本の事はどう思っているか?
日本のイメージはとってもいい 日本の製品 車、電気製品などを観ているので、ヤバニア(日本)といって抱きついてくる人もいる
私たちの団体が活動していることを、知っている人も増えてきたので更に、ヤバニア タマーム(素晴らしい)と声をかけてくれることも、多いようです

スーダンの人は広島、長崎の事は、ある程度教育を受けた人は、結構知っている
欧米、突出したグループの中で、戦火の中を経験して、欧米に肩を並べた日本に対して、自分たちも日本をみならって発展してゆくんだと言う人は中に入る
スーダンはアメリカからテロ支援国家とレッテルを張られて、経済規制があるので一般に欧米に対して反発を感じているが、日本に対しては、親近感を覚えている
今、紛争があちこちで有るが、紛争の原因になるようなさまざまな対立や争いが村にあるのではないかと思っていたが、以外に村の中には人々がお互いに仲良く暮らしてゆくような、争いが起きたときに、解決してゆく仕組みが沢山昔からある
土地をめぐる争い、牧畜民と農家との争い  裁判をやってお互いが損害賠償(作物とか)をやって上手くやっていくような仕組みがあるが、紛争が起きている
もう少しおおきな政治的なものがあって村の中に対立を生じさせてしまう様なものがある

平和構築の活動をやったりもするが、平和委員会を作って、大規模の会合を持つとかやっているが、草の根、村とか地域の中を細かく見てゆくと、共存するための知恵とかいろんなものがあって、私たちは結構そういうところに注目して、村の人にもう一回再認識してもらい、共存していきましょうと言うような活動ができればいいと思っている
地域の皆さんが共存、未来に向けて自分たちで再建してゆく力が、自分でも勇気付けられるところですね
戦争が割と日常的なものになってきてしまっているが、その中で、紛争のような状態でも如何に自分たちがうまく生活をしてゆくのか、戦争があると言う事は、そこに様々な対立が地域社会に
持ちこまれてくる
内戦が多いので、同じ民族グループの中で、政府系、反政府系、と言う事で対立が持ち込まれてくるが、さっき言ったように、地域の知恵で争いごとを解決してゆくような、知恵があり、そういうものを使いながら、国全体では紛争とかがあっても、それぞれの地域ではなんとか上手く生活を続けて上手くやってゆくような、そういう力に勇気付けられることが多い
政治レベルで紛争を解決をするための和平交渉とかはもちろん大切ですが、もういっぽうで
下からのレベルでの共存、平和作りも大切だなあと思っています

雨気が6月から始まっているので、農業関係の支援をしている
井戸の補修とかの活動もやる予定です






























































2013年8月15日木曜日

島利栄子(代表)         ・女性の日記が伝える 昭和史 2

島利栄子(女性の日記から学ぶ会代表)  女性の日記が伝える 昭和史 2
昭和の初めからラジオ店でラジオが日本全国に普及してゆく様を、日記にもつづっていた
吉田徳子さんは 岡山県瀬戸内市 明治24年生まれ 明治末女学校を出て、教員をして、ラジオが出てきたら、すぐに着目してご夫妻でラジオ商になり、戦争中も記録をし、戦後は婦人会長になり、村会議員になり、昭和49年に83歳で亡くなられた女性
日記は15歳からずーと亡くなるまで、書き続けたものがありました
息子さんが寄贈して下さった  62冊 + いろいろな資料、写真
1日の分量が100字~150字くらいの物

日記は市販されていたもの  明治40年2月3日から書き始める
最初の1冊目から3冊目は 和紙で綴じて、筆で書いたもの
私たちの会が出来て間もないころに、全国紙に会の内容が紹介されて、それを見た吉田徳子さんの息子さんが、母の日記があるけれども、自分も高齢になっているので、差し上げますとのことですぐに送ってきてくれた
初めから読みにくいものなので、原稿用紙に書いていった
段々古文書読みの男性が3人4人と助けてくださって、書き写しが進んでいった
明治時代はいろんな言葉が豊富に残っていたと聞いていた
異体字 変体仮名 こむら?  漢字も旧仮名使い 方言も出てくるので、読めても意味が解らないとか、いろいろと苦労しました

昭和20年までしかやっていないが、書き写し作業に13年かかった
面白いと思うところを選んで、そこに解説をつけたりして、2年かかり 15年間かかり、昨年本が1冊出来ました
「時代を駆ける吉田徳子日記」 1907年~1945年までの物 660ページ
沢山の人には買っていただけないので、篤志家に応援してもらって、440人以上の方にカンパをしていただいて、世に出すことができた
昭和とラジオ ラジオと共に生きた記録だと思い、着目した
ラジオ放送が行われたのが、大正14年7月12日   日記にラジオのことが出てくるのが7月14日  2日後にラジオのことが書かれている  
「アンテナラジオの取り付けし、を見る」 とでてくる

「9月5日 ラジオの放送を学校にて聞く日にて、割合よく聞こえたり」
学校でも聞こうとしていた
11月6日、その後頻繁にラジオのことが出てくる
田舎の町でドンドンラジオ熱が高まってくることが、伺える
吉田徳子さんは知識欲の旺盛な人だったと思われる
当時は学校の先生の初任給が50円と言われた時代に、賞金10円を得たことが日記に記載されていた
賞金10円の件で国会図書館等に行って、調べた  大正15年5月号に投書が載っていた
「ラジオのおかげで一家団欒の楽しみ」という題名 岡山、 幸子(匿名)投稿 内容を調べたら徳子さんだった
夫は先生だったが、胸を患っており、休職中で、ラジオは500円かかっていたが、段々と安くなりこの当時は100円で、組み立てるともっと安くなり、夫が組み立てて、聞けるようになり本当に楽しく、ラジオは非常にいいものだと、書いている

一番彼女が興味を持って聞いていたのは、スポーツの実況放送
昭和2年 甲子園で中等学校の野球大会の実況放送が始まったが、その日に面白かったと書いている(8月18日)
昭和3年相撲の実況放送も始まる
昭和4年に教師をやめて、ラジオ商になることにして、昭和5年に開店する
昭和5年12月14日 岡山後楽園に集うもの143名あり 列を作りて放送局に行き、ガス会社、電話交換局等を視察して得るところ多大なり
143名はラジオ店を開くことを希望した人達
初めのころは蓄電池式ラジオ その後昭和5年には交流式ラジオ(エリミナーター)になり、凄く伸びたみたいだそうです

ラジオの売り上げがドンドン上がることが書かれている
子供、高校生も沢山聞きに来る様子も書かれている
300万台突破記念、500万台突破記念と言う言葉が書かれている
満州事変の臨時ニュースの事が書かれている 
昭和16年12月8日 「午前7時臨時ニュースあり  英米軍の交戦状態にいりたる由
広報あり さっそく表に掲示すべく大書す」
翌日から1週間、ラジオの修理と購入のために一杯の人が来客 ラジオが売り切れ
空襲警報の発令 ラジオからの放送があり命の綱みたいなものだった

昭和20年8月15日 「正午 重大放送があるとのことに、日ソ参戦布告か講和あるかと想像しあう  工場より工員たち、整列して聞きに来る 
大陛下の玉音にて、和を求めたもう由 勅有りたり」
6日、9日の原爆投下のことに関しては、書いていない
その時点では、原子爆弾と言う言葉は使われてなかった
岡山の教育委員会お招きいただき、「吉田徳子日記お里帰り展及び講演会」 開催

普通の人たちが思ったことを刻々と、刻みつけた足跡は、歴史にとって本当に大事ななまの声だと思うので、大切にしていかなければいけないと思って居るので、活動をコツコツと続けていきたいと思っている