| 山内晴子 (玉川聖学院講師) 朝河貫一に教えられたこと |
| <概要> |
| 朝河貫一を知る事により其の生涯を調査 博士論文とし 仕上げる 彼の生涯、 考え方(民主主義 戦争回避の行動 戦争反対 その他)を纏める |
| 「朝河貫一論:その学問形成と実践」を出版 10年掛る |
| 日本人として初めてアメリカの大学(イェール大学)で正教授となった朝河貫一(1873~1948) |
| きっかけ 増田弘教授の日本近代近代外交史のゼミで朝河貫一を知る 2004年山岡先生の早稲田大学アジア太平洋研究科の国際関係学博士課程に入学 |
| 2008年に書き上げる |
| 朝河の父は福島にあった二本松藩士父は旧二本松藩士朝河正澄戊辰戦争で戦った 小学校の校長でもあった父正澄の影響の大きかった少年期における朝河の知的精神的成長 |
| 早稲田大学に入学 坪内逍遥、大西祝(倫理学者) にかわいがられる 六ヶ月後に洗礼を受ける |
| 東京専門学校が、キリスト教的知識人以外に知識人がいなかった19世紀末の欧米の 影響下にあったことを、新資料を用いて検証 |
| 大西や坪内逍遥から思想的学問的基盤を獲得 |
| 在学中に日清戦争が起きる |
| 1895年(明治28年)、大西祝、大隈重信 、徳富蘇峰、勝海舟らに渡航費用の援助を 受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学へ編入学 |
| 朝河の理想とする個人を尊重する「民主主義」を、ダートマス大学のタッカー学長の リベラルなプロテスタントの信仰から学んだ |
| 寛容なプロテスタントの理にに基づく民主主義というものを体得してゆく |
| 寄稿文の第1文目に毎朝礼拝で大学が始まる タッカー学長 「教育を受けた人は勇気ある道徳的存在として社会を改良する責任がある」 |
| 「自己犠牲に徹して人類に奉仕することこそが人生の本源である」という事を話をする |
| タッカー学長から体得した民主主義というのは国家至上主義の対極にあって集団ではなくて 個人一人一人を大切に考えて、個人相互の敬愛と信頼に重きを置く民主主義 |
| 一人ひとりが違っていること 多様性を奨励して 又反対の意見も平気に淡白に面と 向かって説く事が出来る精神 自由な意見交換を奨励している |
| 他人の成功を喜ぶ度量の広さ ユーモアを忘れない そういう民主主義というものを体得してゆく・・・タッカー学長からえたもの |
| 朝河は「日本の対外方針」という論文(24歳の時の論文)を国民の友に発表する ロシアの強硬な南下で日露戦争は不可避であると考えて書く |
| 人種も宗教も違う日本が世界で役に立つ国になるには日本の方針を文明最高の思想 と一致せしむるに至りて初めて東洋における義務を悟り世界に対する |
| 地位を得るんだと云っている 文明最高の思想=民主主義 |
| ラングドン・ウォーナー→京都を爆撃から救った人 この人に100ページの論文を送っている |
| この論文の冒頭に「私は民主主義の重要性に気付いて以来、アメリカにおける私の 長い生涯の間たった一人になっても民主主義に踏みとどまってきました」と書いてある |
| 「民主主義は他の政治体制に増して市民にふさわしい良心を持とうと市民一人一人が 個人的責任感を持って初めて成り立つと固く信じております」と書いてある |
| ずっと民主主義を心に留めながら一生涯を送ったと思う |
| ダートマス大学で教えている時に日露戦争が勃発する 戦争後ロシアの利権を受け継いで日本が排他的外交を取るようになる |
| それを心配して朝河は1909年に「日本の禍機」はこのまま続けば日米戦争は免れず、 必ず日本は負けると強く警告している・・・この時から日米戦争阻止を訴え続けている |
| 大隈重信に対して多くのいさめる書簡を出している(1908~1915年) |
| 今は日本は東洋平和を乱す張本人だと信じられちゃっている 其の原因は日本が世界の文明の新傾向を十分に判ってないからだと云う事 |
| 新しい傾向とはどういう事かという事を大隈重信に書く訳です このままだったら文明世界の憎まれものになってしまう ・・・聞き入れられない |
| 朝河貫一氏は日米戦争阻止を幅広く提言されたが結局受け入れられなかった |
| 1938年 甥の斉藤金太郎に手紙を書いている もう新聞で真の戦況を国民に知らせていないのが、今後日本に大損害を招く事になり 罪もない忠実な一般人が |
| 最も気の毒でありますと心配して手紙を出している |
| 国民が正確な情報を自由に入手する事が出来れば、戦争という事も防げると云う風に 考えて情報の自由な入手をとても何時も主張している |
| 村田勉という日本女子大学の人 一緒にイェール大学に学んだ人 オープンレターをだしている |
| 鳩山一郎に回覧している 1939年7月29日の書簡では26日のアメリカの 日本通商条約の破棄は驚かれたろうが、議会で皆賛成である、従来しきりにイギリスを |
| 侮ってアメリカの好意的中立を頼むのは如何にも日本が客観的に現実を見る目がふさがれ ている証拠だと云う風に書いている |
| 1940/1/28にも鳩山一郎に書簡を書いている |
| 何故日本の政府がたびたび変わって小人物がしきりに出没するようになったのか と書いてある 昭和2年から20年までに17人総理大臣が変わっている |
| 何故利害が少ないドイツと国運を結ばんとして失敗したか 何故もっとも将来にとって国運が繋がっていなくちゃいけない英米を敵としなく ちゃいけない事になちゃったのか |
| もし満州事変以来の態度を継続していたらもう国は危機という言葉は今ほど妥当する 言葉はないとう風に鳩山一郎に書簡を出している |
| それでもやはり日米戦争は突入してしまった 朝河氏の祖国を思う気持ちが伝わってくる |
| 1941年(昭和16年)11月、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を 得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、 働きかけを行った |
| 1941年10月10日付「金子宛英訳書簡」 、ラングドン・ウォーナーをして、天皇へ宛てた ルーズヴェルト大統領の親書を朝河に提案させ |
| また天皇制度に関する学説を欧米知識人に再確認させ、天皇のみが軍国主義者の 退場を説得できると朝河が説いた |
| ルーズヴェルト大統領の奏書 スティムソン国務長官、ハル国務次官、アーチボールド・マクリューシュ 議会図書館長をへてルーズヴェルト大統領に渡っている |
| 日米開戦後の12月8日にニューヨークタイムズに掲載されたルーズヴェルト大統領の天皇宛親書は 一部朝河の草案と重複しているが朝河の意図したものとはかけ離れていた |
| 12月10日にウォーナー宛で「外交とは相手の精神の理解を通して自分の目的を達成する に有ります」という風に書いてある |
| 朝河は日本が負けることが判っているから直ぐに日本の戦後構想を描き始めている |
| 「私のたった一つの望みは軍部を改心させる事ではなく彼らを追い払う事が出来る ただ一つの権力すなわち天皇による追放の可能性だ」と書いている |
| 西暦645年 大化改新 1868年 明治維新 これと同様です |
| 天皇の詔勅によって皆の従う事になって国民は見事に直ちに忠誠心を持って改革した んだから今回もそう言ったことにしなくてはいけないというわけです |
| 軍隊は天皇が命令しなければ追い払う事が出来ないと云っているわけです |
| ウォーナーは何故朝河に大統領親書を提言したのかなあという風に、他の人じゃなくて 朝河に提言したのかなあって思っていたのですけれども |
| ボートンと云う人がいるが戦後日本の設計者と言われた人 、 ボートンの回想録にアメリカで天皇制廃止を主張する派が制していた1945年の9月に グルー国務次官も |
| 自分たちも天皇も天皇制も、それ自体戦前日本の超国家主義や拡張政策の原因では ないと固く信じていたと書いてあった |
| ボートンと云う人は朝河の諸論文は欧米の学者たちにとって基本的な日本の文献だと 考えていた |
| 朝河の論文の中にボートンやグルー国務次官をこれほどまでに確信させる発想の起源が あるんじゃないかと私は考えた |
| 朝河の論文1903年に出版した「大化の改新」とかロッジヘンの「ヒストリーネーション」 のシリーズ の中の「ジャパン」というのがある |
| それの明治史を書いている 入来文書 マロクブロック ソロボン大学の人と封建制について 共同執筆した |
| 朝河は日本の歴史に於いて圧倒的に優れた異文化を習得して適応する制度的な 大変革を成功させるカギは常に天皇個人ではなく天皇制度である |
| 皇室は長い世紀に渡って存在したが、専制的であった事は少なかったという学説を 繰り返し主張していた |
| たぶんそれが天皇制 朝河の戦後構想 天皇制と民主主義の共存の異文化融合という 感じですね |
| 民主主義それは結局 敗戦したら日本は民主主義にならなくてはいけないそれを 成功裏にスムースに移行するためには天皇ではなく天皇制にあると彼は云っている |
| 天皇制をうまくつかったほうが日本の占領政策が出来るというアメリカの政府関係者、 世論、が考え出したのはヒュー・ボートン、ライシャワー等の人がいる |
| それを裏付ける資料 アメリカ学術団体評議会1930年に日本研究委員会 太平洋問題調査会 会長ジェロム・グリーンと云う人の要請で7人の中の一人として |
| 1937年まで務めていた ボートンとライシャワー、ファーズの3人が最初に出会ったのは日本研究委員会がハーバート大学で 開催した第一回日本セミナーです |
| この3人は委員会が最初に派遣した留学生で東京大学に2・26事件前後に留学している |
| 1942年9月のライシャワーメモがあるが、これも天皇に関しては朝河と理解がおんなじなんです |
| 日本研究会が育てたボートンは日本研究会1937年に朝河と交代でメンバーになっている |
| 1941年ファーズが日本研究委員会のメンバーになっている ライシャワーも通信メンバーになっている |
| ボートンは1942年には国務省特別調査部の調査アナリストになっている 日本研究委員会のメンバーが極東政策の立案と遂行を通して朝河の学説に基づく |
| 天皇制度と民主主義共存の異文化融合の戦後構想を最後まで貫いたことは注目に値すると おもっている |
| 日本の天皇を(慎重に名前を挙げずに)平和のシンボルとして利用すること プロパガンダ 天皇の扱いは明らかに異文化受け入れるときにそれをスムーズにさせる鍵は |
| 天皇個人ではなく、天皇制度であると云う学説を知っていなければ設定できない宣伝文 句じゃないかなあと思う |
| 1942年の夏にマッカーサーも読んだことが記録が残っている |
| 日本計画が天皇制を残す基になったもので学問的起源は朝河の学説ではないかと思っている |
| とにかく戦争への道へは辿りたくない どうしたらいいかをいつも考えている |
2011年8月16日火曜日
山内晴子(玉川聖学院講師) ・朝河貫一に教えられたこと
2011年8月14日日曜日
山川宏治(主任飼育員) ・象を守った父の教え
| 山川宏治 (主任飼育員) 象を守った父の教え |
| <概略> |
| 東京都多摩動物公園主任飼育員昭和29年2月21日生まれ。東京都立瑞穂農芸高等 学校畜産科を卒業 |
| 47年に都の職員となり、多摩動物公園飼育課に配属、アジアゾウ、ライオン、ヒグマなど を担当する |
| 父が象の花子を飼育担当 花子の経歴 父の飼育の苦労話 父に次いで花子の飼育 |
| 花子は64歳(日本の象の最高齢) 多摩動物公園は昭和33年の5月から開園 アヌーラは当時5歳で来る タカコ |
| 40年近くになる 象の飼育が主体 アヌーラ(セイロン から頂いた象 首相の息子の名前) という名のアジア象担当 54歳 |
| 昭和48年飼育係になる(アヌーラ、タカコ、ガチャ 3頭) 昭和33年開園と同時にアヌーラの担当 を父が行った |
| 象のいる公園は東京都に3か所ある 多摩動物公園 上野動物園 井の頭自然文化園 |
| 花子は父がずっと担当して飼育してきた |
| 花子は2度にわたり人身事故を起こしている 一度目は酔っぱらった人が深夜象舎に中に 忍び込んで花子に殺害されてしまう |
| 数年後飼育担当者が人身事故を起こす(その後亡くなる) 飼育担当が決まらず 父親に飼育担当が任される |
| 花子は昭和24年 タイ国から上野動物園にやってきた 昭和25年から各地を巡回する(都内) 昭和29年井の頭自然文化園に引っ越し(7歳) |
| 象は群れで生きてゆく為に一頭は夜寝ないで見はりをして他の象は眠る 花子は寝なければいけない、見張りをしなければいけない・・・負担がかかる |
| 花子自体も不安で仕方ない そんなことを日々繰り返しているなかで酔っ払いの侵入が有り、それを排除しようとした |
| 精神的に病んでゆく 数年たってから飼育係の人身事故という事で この飼育係は 持病をもっていて餌の中に倒れこんだことで花子は自分の餌を取られてしまう |
| と考え、足蹴りをしたと言われている (揺り動かそうとしたとの話もある)結果として飼育係の人が亡くなってしまう |
| 世間から人殺し象と言われる 処分について検討がなされたが花子が来た経緯が奥さんたちの希望で夢を与えると いうことできた象なので殺すのには忍びないとなる |
| 象の飼育係を探すが6週間時間を要する 多摩動物公園にいる飼育係が井の頭自然文化園に移動することになる(私の父親) |
| 花子の足4つを制約する 鎖を付ける(花子に近寄ることの危険防止策) |
| 花子はあんなに痩せててかわいそうだ・・・父親の一言 不信感と敵意に満ちていて目がぎらついていたという印象を父親は持ったようだ |
| 赴任して4日目に鎖をはずす 花子と飼育係とのきずなの第一歩が始まる |
| 水分を含んだ野菜を沢山食べさせる必要があると判断 食べさせることを主眼にしたらしい |
| 象との関係を築くために餌で動物を操ると云う手法があるが、とにかく無条件に食べろ 食べろ ある程度象の体型を維持させるために食べさせた(8年掛っている) |
| その8年間の間にコミュニケーションを取るために4,6時中花子のそばにいる |
| 日光浴をさせる 心ない人は石を投げた人もいる その人に対して苛立ちをあらわにする 飼育係として一緒にいることによって石をなげなくなった |
| 一緒にいることが花子にとって、とてつもない安らぎになったと思う 心を開いていいのかなという糸口が開けてくる |
| 花子が12歳の時 それから42歳になるまで付き合う 父親と一緒に休みに遊んでもらったという記憶が無い (何で遊んでくれないのか不満を持っていた) |
| 中学生の時に花子の前で父親が帰るのを待っていたら、(お客はもう誰もいない)花子が 気に入らないのか「鼻打ち」(鼻を体に打ち当てる動作)をする |
| 堀のぎりぎりまで来て鼻を伸ばしたのがこの像は怖い象だとの印象がある |
| 農業高校から東京都の職員になる |
| 退職後嘱託で1年間花子とともにいる 体力的に花子と付き合ってゆくには無理と花子の前には立つことがなかった (自分にけじめをつけたかった) |
| アヌーラ 58歳 雄では日本最高齢 メスでは花子が64歳(日本最高齢)アジア象が60頭 アフリカ象が50頭 日本にいる |
| 戦時下 殺処分で象がいなくなる 毒餌(見分けてしまう)、薬殺 注射で殺す方法 (針が皮膚を貫通しない)銃殺(民家が近所にある為駄目と云われる) |
| 殺処分する方法をいろいろ検討したが 適正な方法がなく 食事を与えない方法を選ぶ |
| 一番かわいそうな食べ物を絞る方法 水を与えないでジョン、マンディー、ドンキーを餓死 させることになる 戦時下動物を飼っている場合ではない、戦争鼓舞するための犠牲 |
| 「像の涙」渋谷信吉(もう2度と象には会いたくない) 象を飼育する達人と言われた人の一人 上野の飼育の仕方にも渋谷さんの考えが 取りれられている |
| 多摩動物公園に配属後、1年後に象の飼育に携わる アヌーラとタカコ、ガチャ子の飼育を 担当する |
| 間接飼育 直接象には触らないで調教するスタンスの飼育方法であった 父親の姿をみていたので直接象と触れ合う飼育が出来るのではないかと思い、実行する |
| 朝一番に挨拶する(サツマイモを与える) 先輩が見えて殺されててしまうかもしれないと 大目玉を食う 手鍵で象をコントロール 手鍵を大事にしろ・・・唯一父親からの言葉 |
| 圧死を免れるための道具 象に対しての威圧になる 花子に対して父親は手鍵を持たなかった 悪い事をした時にはしっかり怒る |
| 花子は手鍵に対して他の象より大変な威圧感を感じていた 私が怪我をすると花子の立場が悪くなる (手鍵で自分を守ることは象を守ることに繋がる) |
| 1996年多摩動物公園から井の頭自然文化園に移籍する 花子の担当をすることになる 花子の象の鼻息に接する=もうこれ以上近付くと怒るよという信号 |
| 1カ月以上しても鼻息の信号は変わらず |
| 鼻息の割には目が穏やか→何を考えているんだろう→近付くと鼻息がどんどん小さくなる →花子にはもっとこっちに来いという信号の様である |
| 人間と接して花子が会得した言葉の様だ |
| 花子が何を欲しているのかは花子が私の手を取って目をかけとか、指示をしてくる (花子に受け入れてもらったと確信できた) |
| 以来9年間にわたって花子の世話をする 花子と同じエリアに入ったのは2年後です |
| 花子が疑心暗鬼 人を恨む、危害を加える そう云う感情を持たないように育ててくれた 先人(父親含め)のお陰で大した苦労をしないでコミュニケーションをとれるようになった |
| 花子は世界で一番手のかかる象 象は上下2対の歯がある 一生のうち6回歯が抜け替える 花子の場合は6回目の後20年前にはげ抜けてしまい |
| 右下あごに1個だけ歯が残っているだけ 噛むことが出来ない→長い草飲み込むと 一種の便秘をしてしまう 父親は大変苦労した |
| 3cm刻みにする(今は業者がやるが、父親の時代は全て自分たちでやっていた 餌作りに6時間を費やした 10時間から12時間を全体でかける) |
| 花子は1日4回 朝2回 午後2回 の食事をする アヌーラの場合は餌の塊をドンと置けばよかった |
| 花子の一生 波乱万丈の生き方 仲間がいない さびしい状況にはある |
| 現在アヌーラの飼育担当になる |
| 象を通じて何を子供たちに伝えたいか→動物園は絵本の延長だと思っている 象ってどのぐらい大きいのとかを感じてもらえればいいのかなと思っている |
| 動物たちは精いっぱい生きている 動物たちをみて癒しを感じてもらえれば幸いです |
2011年8月13日土曜日
織田 正吉(放送作家) ・笑いについて
| 織田 正吉 (放送作家) 笑い |
| <概要> |
| 1931年12月4日 - 放送作家、エッセイスト。兵庫県神戸市出身 |
| 日本笑い学会理事。関西演芸作家協会顧問。元・園田学園女子大学短期大学部講師 1982年、上方お笑い大賞功労賞 |
| 「笑い」に付いてのいろいろな事を披露する |
| 職場や家庭の笑いの場所にするには笑いのもとの平等が大切だと説く |
| 大阪落語家は200人を超える NHKの漫才コンクールの審査員を長く担当 コントがやたらと増えてきたのが特色 コントは大阪には無かった |
| 夢路いとし、こいし は画期的 上品な漫才 誰にでも無難に聞ける 毒の部分が必要(毒を抜いてしまうと面白みがなくなる) |
| 面白いもの・・・演者が面白いと思い、聞く人も面白いと思うのが理想的 |
| 笑いユーモアの研究 沢山書くためには理論が必要 方程式が必要になる 笑いの化学分析が必要になる センスだけでは書けない |
| なんか訳のわからない舞い降りる様な状態になる時がある(たまに) 湧いてくる(詩でも俳句でも同じ) 頭で考えて作ったものは駄目 |
| 作者は観客の第一号 書いてゆくためには理論が必要 究極の理論は「緊張の緩和」だ |
| 笑いの生まれる方法として例えばジェットコースターを下りてくる人は大抵笑っている・・・ 緊張が溶けて笑う(生理的笑い)・・・笑いの一つ |
| 落語家 米朝、笑福亭ふくろう との付き合いあり 笑いはいろいろある |
| 笑いはいろいろある 笑いの性質でいえば「嘲笑する笑い」 (あざけり笑い)・・・ 一番原始的な笑い |
| 平安時代の終わりごろの「今昔物語集」というものをみると あざけり笑いが大半 ものを知らないとか作法を知らないとか言い間違え・・・次元が低い |
| 嘲笑の笑いがまず出発点にある 尾籠(おこ)の笑い 下ネタ 誰でも笑う |
| 嘲笑には日本人は敏感 人に笑われる事を恐れる・・・ 恥の文化 (そんなことをしたら近所の人に笑われるよ) 「菊と刀」の本に記載 |
| 人前であんまり笑わない 笑うとその人を馬鹿にしたことになる しかし日本人は笑いが好き |
| 笑っていい場所と笑ってはいけない場所をピシッと分けた 笑いの場→宴会 花見等 暗黙のルール 笑いのスイッチをon、offする(むやみに笑わない) |
| 演芸場は笑いの解放区 昔は下ネタが多かった 大いに笑う 大爆笑 |
| 笑いは感情表現 ユーモアは笑いを見つける才能 |
| 子供はおかしな表現をする 常識がないだけ 大人は常識があるけれども常識の中 に取り込まれてしまう→人間が面白くなくなってしまう |
| 子供のような見方もできるセンスがいる 子供の言葉を面白がってやることが大事・・・ユーモアの出発点 |
| 自分の見方が固まってしまっていることを判らない |
| 子供の背丈で見る環境と大人の背丈で見る環境は違う すべてそうなんです 自分だけの見方が正しいと云う事を棄ててしまう事が大事 |
| 常識から外れるセンス(虹は7色は間違い グラディエーション 何万色もある) |
| 例えばもも太郎の話(ももを割ったらお爺さんが出てきました) 原形がある 原形が有ってそこからはみ出たものに笑う おかしさを感じるその反応が笑い |
| 人間は笑う動物 というよりはおかしさを感じる動物だと思う |
| 緊張が続き過ぎると人間は笑いを求める それで心のバランスが取れる |
| 笑いはNK(ナチュラル キラー)細胞を活性化する NK細胞は癌細胞を攻撃する お笑いが市民権を得る 笑うのは健康にいい |
| ユーモア感覚は心のバランスに必要 緊張ばっかり続いているとそれをふっと緩める 作用、自分から緩めようとすることが出来るのがユーモアのある人・・・大事 |
| 頑張る時は頑張る 真面目な時はまじめにやる そうして大いに笑い多いにユーモアを 楽しむ ユーモアセンスを磨くと云う事が大事 |
| 「笑いの基の平等」・・・上役がダジャレをいう→笑う(笑わないとしゃれの判らない男だと いう) 新人がダジャレを言う→上役は苦い顔をする |
| 上下関係のあるところでは笑いは生まれない 平等なんですよ |
| 江戸時代 狂歌がはやった 町人も武士も一緒に狂歌を作っている 武士はよく笑った(仕事から外れれば) 狂歌、川柳を作る段階になると面白いものをどんどん作った |
| 最高峰は大田南畝 川柳では四方赤良(よものあから ※大田南畝の別号) お笑いの先端を切った人 |
| 平等になる為の雰囲気を作る必要がある ユーモアのある人は一方からだけでなく 別の角度から見ることが出来る(頭の中を自由にしておきたい) |
| 心のバランスを保つためには笑いが必要 |
| 笑いは常識からずれた所にあり、ユーモアというのはおかしさを見つける感じるセンスの ことでユーモアを持ちたいなら常識に捉われてはいけない |
| 上下関係のあるところでは笑いは生まれない (生まれるのはお世辞の笑い) 笑いの基の平等こそ大切 |
| 桂 米朝(かつら
べいちょう)は、上方落語の名跡。本来は、大名跡である桂米團治を 継ぐ前段階の名跡 |
| 入門当時滅びかけていた上方落語の復興に尽力し、6代目笑福亭松鶴、5代目桂文枝 、3代目桂春団治と共に、昭和以降の「上方落語の四天王」と呼ばれる |
| 上方落語界としては初めて(落語界では2人目)の人間国宝となり、後に演芸界初の 文化勲章受章者となる |
2011年8月12日金曜日
小渕真理 (館長) ・命を考える
小渕真理 (館長) 命を考える
<概要>
アウシュビッツ平和博物館の第二代館長
・ポーランド国立アウシュヴィッツ博物館の協力のもと、同館所蔵の関連資料や記念写真等を常設展示する日本で唯一の博物館
この博物館を通して、アウシュビッツのこと、戦争、原爆、命を考える
アウシュビッツ平和博物館 ユネスコ世界遺産「アウシュヴィッツ」を通して、いのちと平和の尊さを学ぶ伝えること
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
第二次世界大戦中に、ヒトラー率いるナチ政権が国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所
収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ
日本国内にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた「アウシュヴィッツ平和博物館」が福島県白河市にある
2003年に開館 様々な戦争と平和に関する企画展や平和を考える交流事業を行っている
私は第二代目の館長をしている 敷地は6000坪 江戸時代の古民家を移築した博物館 常設がアウシュヴィッツ アンネ・フランクの展示 ポーランドの子供たちが第二次世界大戦のさなかに描いた絵とか作文を展示してある
4年前から企画展示が出来るように増設 パレスチナの写真展、広島から借りてきた原爆関連資料、日本では731資料、女性の差別の展示
福祉関係からこの道に入ってきた
差別 どうして同じ人間なのに 差別が何で起こるのだろうか→考えさせられた 最初は子供の目に映った戦争という画集がある ポーランドの子供たちが自分たちが戦争体験した事を絵にしたり作文に書いたりした画集を購入した
その画集が感動的と言ったらいいのか、凄く衝撃を受けて、アウシュヴィッツ収容所という事が頭に浮かんだが、よく判らないことがいろいろあって勉強してみたい思いあり 貨車をリフォームして展示場とした
アンネ・フランクの展示もある (オランダ・アムステルダム) 物置を改造して小さい展示建物とした
アウシュヴィッツ博物館から資料を借りてきて展示をする
原爆と人間展という企画をしている 年4回企画展を実施している
チェルノブイリ写真展も開催予定
原発討論会を予定 命の尊さ 大切さを伝えてゆこうと云う事でアウシュヴィッツを取り上げている
人類が原発と共生できるのかという事は世界中の問題 共通の認識がないといけないんじゃないかなと思う
9月 チェルノブイリ展(今年25周年) チェルノブイリを知らない人がいる
チェルノブイリから私達は何をどう学んだのか 真剣に考えなくてはいけない
写真展をみていただくと福島原発も見えてくるし、私達がこれからどうやって生活してゆかなくてはいけないと云う事が見えてくる
正確に真実を知ってゆくことは大事なこと
11月に水俣 白河展を開く 水俣の教訓が生かされてない
事件が起きた時の国の対応がほとんど変わっていない
展示をみていただいて、原発についてのきっかけになるのではないかと考えている
原発事故の被災地に水俣の経験を 近代とは何か 人間とは何か を考えよう アウシュヴィッツ収容所で人間はどうやって生きてこられたのか
人間を問い続けてゆく問われてゆくと云うことで繋がっていると思う
もっともっと多くの人が自分の身に起きたことと考えて、さまざまな角度視点から人権とか差別について考えるきっかけになればいいなあと思う
命を考える 様々なファクターを提供してゆく必要がある・・・施設の役割
機関紙 題字がイマジン 年4回発行している
人間の特性を探る研究に、アウシュヴィッツという過酷な状況のなかで「愛」「美」「夢」のいずれかを持続した人が生き残った、と結論付けるものがある
その研究を紹介した佐久間章行著『人類の滅亡と文明の崩壊の回避』から 生命を最後まで維持させた人々の特性は次の3種類に分類された
第1の分類には、過酷な環境にあっても「愛」を実践した人々が属した
アウシュヴィッツの全員が飢えに苦しんでいる環境で、自分の乏しい食料を病人のために与えることを躊躇しないような人類愛に生きた人々が最後まで生存した
第2の分類には、絶望的な環境にあっても「美」を意識できた人々が属した 鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じる心を残していた人々が最後まで生存した
第3の分類には「夢」を捨てない人々が属した
戦争が終結したならばベルリンの目抜き通りにベーカリーを再開してドイツで一番に旨いパンを売ってやろう
この収容所を出られたならばカーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が最後まで生存した
<概要>
アウシュビッツ平和博物館の第二代館長
・ポーランド国立アウシュヴィッツ博物館の協力のもと、同館所蔵の関連資料や記念写真等を常設展示する日本で唯一の博物館
この博物館を通して、アウシュビッツのこと、戦争、原爆、命を考える
アウシュビッツ平和博物館 ユネスコ世界遺産「アウシュヴィッツ」を通して、いのちと平和の尊さを学ぶ伝えること
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
第二次世界大戦中に、ヒトラー率いるナチ政権が国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所
収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ
日本国内にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた「アウシュヴィッツ平和博物館」が福島県白河市にある
2003年に開館 様々な戦争と平和に関する企画展や平和を考える交流事業を行っている
私は第二代目の館長をしている 敷地は6000坪 江戸時代の古民家を移築した博物館 常設がアウシュヴィッツ アンネ・フランクの展示 ポーランドの子供たちが第二次世界大戦のさなかに描いた絵とか作文を展示してある
4年前から企画展示が出来るように増設 パレスチナの写真展、広島から借りてきた原爆関連資料、日本では731資料、女性の差別の展示
福祉関係からこの道に入ってきた
差別 どうして同じ人間なのに 差別が何で起こるのだろうか→考えさせられた 最初は子供の目に映った戦争という画集がある ポーランドの子供たちが自分たちが戦争体験した事を絵にしたり作文に書いたりした画集を購入した
その画集が感動的と言ったらいいのか、凄く衝撃を受けて、アウシュヴィッツ収容所という事が頭に浮かんだが、よく判らないことがいろいろあって勉強してみたい思いあり 貨車をリフォームして展示場とした
アンネ・フランクの展示もある (オランダ・アムステルダム) 物置を改造して小さい展示建物とした
アウシュヴィッツ博物館から資料を借りてきて展示をする
原爆と人間展という企画をしている 年4回企画展を実施している
チェルノブイリ写真展も開催予定
原発討論会を予定 命の尊さ 大切さを伝えてゆこうと云う事でアウシュヴィッツを取り上げている
人類が原発と共生できるのかという事は世界中の問題 共通の認識がないといけないんじゃないかなと思う
9月 チェルノブイリ展(今年25周年) チェルノブイリを知らない人がいる
チェルノブイリから私達は何をどう学んだのか 真剣に考えなくてはいけない
写真展をみていただくと福島原発も見えてくるし、私達がこれからどうやって生活してゆかなくてはいけないと云う事が見えてくる
正確に真実を知ってゆくことは大事なこと
11月に水俣 白河展を開く 水俣の教訓が生かされてない
事件が起きた時の国の対応がほとんど変わっていない
展示をみていただいて、原発についてのきっかけになるのではないかと考えている
原発事故の被災地に水俣の経験を 近代とは何か 人間とは何か を考えよう アウシュヴィッツ収容所で人間はどうやって生きてこられたのか
人間を問い続けてゆく問われてゆくと云うことで繋がっていると思う
もっともっと多くの人が自分の身に起きたことと考えて、さまざまな角度視点から人権とか差別について考えるきっかけになればいいなあと思う
命を考える 様々なファクターを提供してゆく必要がある・・・施設の役割
機関紙 題字がイマジン 年4回発行している
人間の特性を探る研究に、アウシュヴィッツという過酷な状況のなかで「愛」「美」「夢」のいずれかを持続した人が生き残った、と結論付けるものがある
その研究を紹介した佐久間章行著『人類の滅亡と文明の崩壊の回避』から 生命を最後まで維持させた人々の特性は次の3種類に分類された
第1の分類には、過酷な環境にあっても「愛」を実践した人々が属した
アウシュヴィッツの全員が飢えに苦しんでいる環境で、自分の乏しい食料を病人のために与えることを躊躇しないような人類愛に生きた人々が最後まで生存した
第2の分類には、絶望的な環境にあっても「美」を意識できた人々が属した 鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じる心を残していた人々が最後まで生存した
第3の分類には「夢」を捨てない人々が属した
戦争が終結したならばベルリンの目抜き通りにベーカリーを再開してドイツで一番に旨いパンを売ってやろう
この収容所を出られたならばカーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が最後まで生存した
2011年8月11日木曜日
山川剛(原爆被爆教職員の会副会長)・平和への願い 2
山川剛(「長崎県原爆被爆教職員の会」副会長) 平和への願い
子供たちが今の世の中の動きをみてるだろうか 今が平和を守る入口だろうと思う
関心を持つか持たないかが非常に重要
今起こっている基はどこなのか→遡って見る
ここで初めて過去を学ばなければいけない・・・必然性が出る
今戦争が起きているとすると、その原因はなにか過去にさかのぼってみないと判らない
今→昔→未来の順に考える
戦争、原爆、平和を考えるときにまず今を考える・・・ここが入口になる
あることについて何故そこを学ぶ必要がるのかという動機付けがないから
原爆が投下されたのはある日急に降ってくるわけがない
戦争という世の中があったから 何故戦争が起きたのか 起きた歴史をどうこれから学ぶべきか 戦争になると最初の犠牲者は真実なのだ アメリカの国会議員の言葉
戦時中の銀座の立て看板を紹介する→日本人なら贅沢はできないはずだと書いてある→「贅沢は敵だ」・・・息苦しい世の中になる
竹槍を持った女学生がわら束を突きさす写真 竹槍訓練中の女学生と書いてある→戦争になると学校は人の殺し方を教えた写真だよと説明
「鬼畜米英」 一皮むけばあいつらは鬼なんだ 女の先生が生徒に叩き込む→ どんなことがあってもつかまってはならんという事だった
高さ60mの断崖から飛び降りる女性の写真を見せる・・・ここまで戦争は命を粗末にしている
一旦戦争になると人間は如何に残酷になるか・・・子供たちはショックを受ける
真実を学ばなければならない
戦争になると逆転して真実が潰される・・・だから世に中の出来事に関心を持たなくてはいけない 政治に臆病になるな
希望を学び希望を語る 薄い冊子を出版した ・・・希望平和学を学校に教えるきっかけになる
女性と平和 ジャネット・ランキン アメリカの国会史上初めての国会議員 太平洋戦争が勃発したパールハーバーのときに、日本に対して戦争を開始するが
388:1で 戦争によって何も解決はできませんと言ってたった一人で反対している
9・11ニューヨーク貿易センタービルが破壊される アフガニスタンに報復戦争をやると動くが バーバラ・リーという女性が一人だけ反対する
たった一人の反対者はこの二つに於いて女性だった・・・ここに私は関心を持たざるを得なかった
女性国会議員の占めている割合 意外と女性国会議員が少なかった
先進国軒並み低いと云う事が判った・・・非常に意外だった
男女平等度(男女の格差) 先進国(アメリカ、イギリス、フランス等)意外と低かった
女性の地位が向上する 政策の決定権の地位にいる女性が今は非常に少ないから 男性優位の世界できている
平和と女性というものは凄く関係があるんです
ドイツは閣僚の半分は女性 アジアでトップはフィリピン 日本は残念ながら100番を上下している(完璧に男性優位の社会)
北欧3国は4割はどちらかの性になるようにという制度がある 男女平等度が高い
軍隊の無い国 戦争を捨てた国 150年戦争をしていない国 パナマ、コスタリカ スイスは190年戦争をしていない スウェーデンは約200年戦争をしていない
戦争をしない何らかの仕組みがあるんじゃないか →それを皆さん勉強してみて欲しい
こんなちっぽけなスイスを占領したところで何の利益があるのか そういう国作りをしている
コスタリカは軍隊ない スウェーデンは軍隊有 20以上の国に軍隊がない(外務省資料) 希望の証し (事実としてある)
ドイツの兵役義務が今年無くなる(徴兵制度) 良心的兵役義務の拒否
オーストラリアにブリスベーンと云う街がある 小学校で1カ月をかけてバクテリアから長ーい年月をかけて今の私達人間が出来上がっている
命の尊さ、友達との思いやり、いろんな希望がうまれてくるものがぎっしり詰まっている・・・ブリスベーンの教育を知りたいなあと思っている
子供たちは一生懸命聞いてくれて判ってくれているんですと先生は云っている
子供たちが今の世の中の動きをみてるだろうか 今が平和を守る入口だろうと思う
関心を持つか持たないかが非常に重要
今起こっている基はどこなのか→遡って見る
ここで初めて過去を学ばなければいけない・・・必然性が出る
今戦争が起きているとすると、その原因はなにか過去にさかのぼってみないと判らない
今→昔→未来の順に考える
戦争、原爆、平和を考えるときにまず今を考える・・・ここが入口になる
あることについて何故そこを学ぶ必要がるのかという動機付けがないから
原爆が投下されたのはある日急に降ってくるわけがない
戦争という世の中があったから 何故戦争が起きたのか 起きた歴史をどうこれから学ぶべきか 戦争になると最初の犠牲者は真実なのだ アメリカの国会議員の言葉
戦時中の銀座の立て看板を紹介する→日本人なら贅沢はできないはずだと書いてある→「贅沢は敵だ」・・・息苦しい世の中になる
竹槍を持った女学生がわら束を突きさす写真 竹槍訓練中の女学生と書いてある→戦争になると学校は人の殺し方を教えた写真だよと説明
「鬼畜米英」 一皮むけばあいつらは鬼なんだ 女の先生が生徒に叩き込む→ どんなことがあってもつかまってはならんという事だった
高さ60mの断崖から飛び降りる女性の写真を見せる・・・ここまで戦争は命を粗末にしている
一旦戦争になると人間は如何に残酷になるか・・・子供たちはショックを受ける
真実を学ばなければならない
戦争になると逆転して真実が潰される・・・だから世に中の出来事に関心を持たなくてはいけない 政治に臆病になるな
希望を学び希望を語る 薄い冊子を出版した ・・・希望平和学を学校に教えるきっかけになる
女性と平和 ジャネット・ランキン アメリカの国会史上初めての国会議員 太平洋戦争が勃発したパールハーバーのときに、日本に対して戦争を開始するが
388:1で 戦争によって何も解決はできませんと言ってたった一人で反対している
9・11ニューヨーク貿易センタービルが破壊される アフガニスタンに報復戦争をやると動くが バーバラ・リーという女性が一人だけ反対する
たった一人の反対者はこの二つに於いて女性だった・・・ここに私は関心を持たざるを得なかった
女性国会議員の占めている割合 意外と女性国会議員が少なかった
先進国軒並み低いと云う事が判った・・・非常に意外だった
男女平等度(男女の格差) 先進国(アメリカ、イギリス、フランス等)意外と低かった
女性の地位が向上する 政策の決定権の地位にいる女性が今は非常に少ないから 男性優位の世界できている
平和と女性というものは凄く関係があるんです
ドイツは閣僚の半分は女性 アジアでトップはフィリピン 日本は残念ながら100番を上下している(完璧に男性優位の社会)
北欧3国は4割はどちらかの性になるようにという制度がある 男女平等度が高い
軍隊の無い国 戦争を捨てた国 150年戦争をしていない国 パナマ、コスタリカ スイスは190年戦争をしていない スウェーデンは約200年戦争をしていない
戦争をしない何らかの仕組みがあるんじゃないか →それを皆さん勉強してみて欲しい
こんなちっぽけなスイスを占領したところで何の利益があるのか そういう国作りをしている
コスタリカは軍隊ない スウェーデンは軍隊有 20以上の国に軍隊がない(外務省資料) 希望の証し (事実としてある)
ドイツの兵役義務が今年無くなる(徴兵制度) 良心的兵役義務の拒否
オーストラリアにブリスベーンと云う街がある 小学校で1カ月をかけてバクテリアから長ーい年月をかけて今の私達人間が出来上がっている
命の尊さ、友達との思いやり、いろんな希望がうまれてくるものがぎっしり詰まっている・・・ブリスベーンの教育を知りたいなあと思っている
子供たちは一生懸命聞いてくれて判ってくれているんですと先生は云っている
2011年8月10日水曜日
山川剛(原爆被爆教職員の会副会長)・平和への願い
山川剛(「長崎県原爆被爆教職員の会」副会長) 平和への願い
6年前から希望の平和学を教えるようになる
教師として子供たちへ戦争・原爆の悲惨さを教えてきた
退職して振り返った時に悲惨さしか教えてこなかった事に気付く
子供たちの取って平和教育とは楽しくなかっただろうなあ、暗い気持の中1時間の授業を過ごしたんだろうなあ
新聞にアンケート結果が出てショックを受ける
①今後核戦争は有ると思うか・・・80%があると答える
②核兵器無くせるか・・・70%がなくせないと回答
如何して日本の若者たちは悲観的な考えなんだろうとジクジたる思いをした・・・ 悲惨さだけを伝えても悲観的な想いにいたり、希望をもたせる伝え方をしないといけないと思う
その後は希望を持たせるような伝え方に変更した
国民学校3年生の時(8歳)に爆心から4kmの処の防空壕の前で被爆する(熱線を浴びる) 1945.8.9 午前11時2分
何があったのか何も分からなかったが、左ほほを思いっきり引っ叩かれたような感じ 防空壕に突進して奥の壁まで逃げる
爆心地から500m地点 浦上天主堂 、城山小学校(全校生徒1500名中1400名が死亡)
先生を目指すために大学教育学部に入る
先生になり25年間は暮らしの中で被爆の経験について話すことはなかった
1970年に被爆教師の会が生まれる(広島は1969年に発足)
被爆教師の会として何をやるかを話し合う
①長崎の子供たちの意識調査・・・戦争、原爆についてどのように思っているのか?・・・その結 果が私を変えました
原爆や戦争の話を誰からあなたは聞きますか?・・・先生からというのが一番少なかった
長崎に原爆が投下されたと云う事実について・・・・・知らない子供達が一割いた
私は今まで被爆者と教師とは別々のものだった
被爆+教師→被爆教師になる・・以後戦争、被爆に対して積極的に話すようになる
手探りの原爆教育を進める
②原爆登校日 登校日は以前は1の付く日だった 8/9に変更するように運動する
3年後に70%実施するようになる 現在は100%
自分の担当クラスの被爆者手帳を持っている人が半分ぐらいいることが判った
クラスの親に被爆当日の事を書いてほしいと要望し、その文をわら半紙に印刷して子供たちお よび親に読んでもらった
「あの日」 1945年8月9日 午前11時2分 ここがスタート (広島は8/6 午前8時15分)
死者7万4000人 負傷者7万5000人 系統立てて学校では教えてなかったが教えるようになっ た
改めて原爆は私たち人間にどんなことをしたのか を知って行った・・・結構衝撃を受けている
当時被爆している親が沢山いたので原爆教育に対する反発は親からはなかった
行政からはあった
③原爆教育、平和教育をどう教えればいいのか?→冊子を作る・・・足がかり
組織的にやってないので 1年間のやってきたことを持ち寄ってみよう
実践記録を持ち寄りお互いにそれを基に勉強しよう
その中からまとめあげて冊子を作成する
発達段階に応じて教える
子供たちの手に何も持たせていない事に気付く→原爆についてのやさしい、正しい読み物 これがない
④学年に応じた中身を提示する・・・本作りをする
36年間 原爆、戦争に付いては命、生き方に係わる分野だと思う・・・自分では思っていた
定年までは自分なりに平和教育に力を注いだつもりはある
原爆がもたらした悲惨さと将来は皆さんがこんな風になってほしいんだという意味で希望を語るその事を付け加える
定年まで話していて欠落した部分を補うと云う仕事を今はやっていると思う
66年前に人間が作りだしたもの必ず寿命が来るはずである 必ず核兵器は無くせる・・・希望を持ってもらう
6年前から希望の平和学を教えるようになる
教師として子供たちへ戦争・原爆の悲惨さを教えてきた
退職して振り返った時に悲惨さしか教えてこなかった事に気付く
子供たちの取って平和教育とは楽しくなかっただろうなあ、暗い気持の中1時間の授業を過ごしたんだろうなあ
新聞にアンケート結果が出てショックを受ける
①今後核戦争は有ると思うか・・・80%があると答える
②核兵器無くせるか・・・70%がなくせないと回答
如何して日本の若者たちは悲観的な考えなんだろうとジクジたる思いをした・・・ 悲惨さだけを伝えても悲観的な想いにいたり、希望をもたせる伝え方をしないといけないと思う
その後は希望を持たせるような伝え方に変更した
国民学校3年生の時(8歳)に爆心から4kmの処の防空壕の前で被爆する(熱線を浴びる) 1945.8.9 午前11時2分
何があったのか何も分からなかったが、左ほほを思いっきり引っ叩かれたような感じ 防空壕に突進して奥の壁まで逃げる
爆心地から500m地点 浦上天主堂 、城山小学校(全校生徒1500名中1400名が死亡)
先生を目指すために大学教育学部に入る
先生になり25年間は暮らしの中で被爆の経験について話すことはなかった
1970年に被爆教師の会が生まれる(広島は1969年に発足)
被爆教師の会として何をやるかを話し合う
①長崎の子供たちの意識調査・・・戦争、原爆についてどのように思っているのか?・・・その結 果が私を変えました
原爆や戦争の話を誰からあなたは聞きますか?・・・先生からというのが一番少なかった
長崎に原爆が投下されたと云う事実について・・・・・知らない子供達が一割いた
私は今まで被爆者と教師とは別々のものだった
被爆+教師→被爆教師になる・・以後戦争、被爆に対して積極的に話すようになる
手探りの原爆教育を進める
②原爆登校日 登校日は以前は1の付く日だった 8/9に変更するように運動する
3年後に70%実施するようになる 現在は100%
自分の担当クラスの被爆者手帳を持っている人が半分ぐらいいることが判った
クラスの親に被爆当日の事を書いてほしいと要望し、その文をわら半紙に印刷して子供たちお よび親に読んでもらった
「あの日」 1945年8月9日 午前11時2分 ここがスタート (広島は8/6 午前8時15分)
死者7万4000人 負傷者7万5000人 系統立てて学校では教えてなかったが教えるようになっ た
改めて原爆は私たち人間にどんなことをしたのか を知って行った・・・結構衝撃を受けている
当時被爆している親が沢山いたので原爆教育に対する反発は親からはなかった
行政からはあった
③原爆教育、平和教育をどう教えればいいのか?→冊子を作る・・・足がかり
組織的にやってないので 1年間のやってきたことを持ち寄ってみよう
実践記録を持ち寄りお互いにそれを基に勉強しよう
その中からまとめあげて冊子を作成する
発達段階に応じて教える
子供たちの手に何も持たせていない事に気付く→原爆についてのやさしい、正しい読み物 これがない
④学年に応じた中身を提示する・・・本作りをする
36年間 原爆、戦争に付いては命、生き方に係わる分野だと思う・・・自分では思っていた
定年までは自分なりに平和教育に力を注いだつもりはある
原爆がもたらした悲惨さと将来は皆さんがこんな風になってほしいんだという意味で希望を語るその事を付け加える
定年まで話していて欠落した部分を補うと云う仕事を今はやっていると思う
66年前に人間が作りだしたもの必ず寿命が来るはずである 必ず核兵器は無くせる・・・希望を持ってもらう
2011年8月9日火曜日
河野次男(原爆被害者の会) ・若人へ被爆体験を伝える使命感
河野次男(東大和市・原爆被害者の会84歳) 若人へ被爆体験を伝える使命感
東大和市原爆被害者の会を作って被爆体験を語り継いでいる
会員は30名あまり 河野さんは長崎で被爆
若い人に語り継ぐ被爆体験記を昨年発行した・・・広島、長崎で被爆した13名の方の体験記と昭和の歴史も判り易く描かれている
結成20周年になる 当初44名の会員でスタートした
お互いが被爆者だと云うことで体験の話が出た
年齢は80歳代になる 「若い人への昭和史と広島、長崎での被爆体験記」昨年11月に纏める
次々に被爆者がなくなってゆくし、こういう大事なことを若い人たちに伝えてゆきたいと云う気持ちがあった
私が講演をしていた時に中学校の若い社会科の先生が 実はこういう事実を自分は全然知らなかったと 学校で習わなかった
社会科の教員をしていて、中学校でこの様な事を話をし、教えなければならない立場にあるのに非常に困っていると云う話を聞いた
日本は何故そんな無謀な戦争をしたのか、若い人はちゃんと歴史を踏まえなければいけないと思った
「歴史を知らないと云う事は盲目だ」 ドイツのワイツゼッカー大統領の言
第一部が若い人への昭和史 ・・・なぜ日本は戦争に向かったのか?
概略をかいつまんで記載 第二部が広島、長崎の被爆体験記 各8人、5人
東京都内には多い時には1万人以上の被爆者がいた
今は約8000名 東友会が取り纏め2カ月に1回理事会がある
最初は東友会から声が掛り、各地区に被爆者がいるので、私にも連絡があり、是非地区の会を発足させようと立ち上がった
被爆者団体協議会・・・全国に各支部がありその統卒をしている 各都道府県にある
私は長崎で被爆した
18歳 昭和20年3月にとうりょう中学の第一期卒業 海軍の航空隊に行く
東京で厳しい訓練 後残り半年の命だから郷里の墓参りをと帰郷
長崎に帰ったところ被爆する 母と私は木造家屋だったので大変な被害を受ける
父は安田銀行鉄筋コンクリートだったので被害は少ない 兄は河野造船でこちらもOK 家は爆心地から2.5kmの距離にあった
伯父が爆心に近いので探しに行く
皆焼けただれてボロボロの状態で家まで行ったが一家全滅 真っ黒焦げの死体がごろごろある
家に帰ってきたらそのまま失神してしまう 何カ月も寝たきりになる
少しずつ元気を取り戻す 放射能の事は一切知らなかった
その後も次から次に病気をする
昭和24年に新制高校にゆく 第1期卒業後 長崎大学仁行く
昭和28年学校の先生になる 鶴鳴学園その他を歴任
先生の時代は被爆体験の事は話していない
半分以上はお互い同士は話せるが他の人に話すのははばかられる(話すことに抵抗がある)
被爆の語りべとしての自覚が湧いてきたのは講演した時に若い社会科の先生からの 若い人に話を伝えてほしいとの要望があり少しずつ対応していった
平成16年米国に行く
被爆体験の講演 スミソニアン博物館別館に行きB29をみる
広島に原爆を落とした飛行機が展示してある
この飛行機こそ「もう誤ちは繰り返しません 安らかにお眠りください」を書きたいと思った
一週間遊説した 共感する人がいた
ラジオでも放送 いろいろと共感してくれた
ガラスの破片が体につきささる 距離の近いところはガラスが溶けてしまっている
しばらく経つと化膿してきて、ウジがわくと云うような事が髄所にある
廻りの人が亡くなってゆく
自分自身の体の不調 が続く
13人書いているが殆ど癌で ここで新たに4人が亡くなっている
私も昨年心筋梗塞になる
太ももの処からカテーテルを入れて心臓のところまで行っている
その時先生は可能性として5分5分だと云われた(一命を取り留める)
二度と戦争をしてはいけない
昭和29年の3月 第五福竜丸事件 久保山愛吉さんが亡くなられる
ビキニ水爆実験場から160kmもある 性能の巨大さが知れる
25年 チェルノブイリ 何年も何年もたってから後遺症が出てくる
福島原発事故から 自然エネルギーへの転換が必要
若い人には是非読んでほしい
東大和市原爆被害者の会を作って被爆体験を語り継いでいる
会員は30名あまり 河野さんは長崎で被爆
若い人に語り継ぐ被爆体験記を昨年発行した・・・広島、長崎で被爆した13名の方の体験記と昭和の歴史も判り易く描かれている
結成20周年になる 当初44名の会員でスタートした
お互いが被爆者だと云うことで体験の話が出た
年齢は80歳代になる 「若い人への昭和史と広島、長崎での被爆体験記」昨年11月に纏める
次々に被爆者がなくなってゆくし、こういう大事なことを若い人たちに伝えてゆきたいと云う気持ちがあった
私が講演をしていた時に中学校の若い社会科の先生が 実はこういう事実を自分は全然知らなかったと 学校で習わなかった
社会科の教員をしていて、中学校でこの様な事を話をし、教えなければならない立場にあるのに非常に困っていると云う話を聞いた
日本は何故そんな無謀な戦争をしたのか、若い人はちゃんと歴史を踏まえなければいけないと思った
「歴史を知らないと云う事は盲目だ」 ドイツのワイツゼッカー大統領の言
第一部が若い人への昭和史 ・・・なぜ日本は戦争に向かったのか?
概略をかいつまんで記載 第二部が広島、長崎の被爆体験記 各8人、5人
東京都内には多い時には1万人以上の被爆者がいた
今は約8000名 東友会が取り纏め2カ月に1回理事会がある
最初は東友会から声が掛り、各地区に被爆者がいるので、私にも連絡があり、是非地区の会を発足させようと立ち上がった
被爆者団体協議会・・・全国に各支部がありその統卒をしている 各都道府県にある
私は長崎で被爆した
18歳 昭和20年3月にとうりょう中学の第一期卒業 海軍の航空隊に行く
東京で厳しい訓練 後残り半年の命だから郷里の墓参りをと帰郷
長崎に帰ったところ被爆する 母と私は木造家屋だったので大変な被害を受ける
父は安田銀行鉄筋コンクリートだったので被害は少ない 兄は河野造船でこちらもOK 家は爆心地から2.5kmの距離にあった
伯父が爆心に近いので探しに行く
皆焼けただれてボロボロの状態で家まで行ったが一家全滅 真っ黒焦げの死体がごろごろある
家に帰ってきたらそのまま失神してしまう 何カ月も寝たきりになる
少しずつ元気を取り戻す 放射能の事は一切知らなかった
その後も次から次に病気をする
昭和24年に新制高校にゆく 第1期卒業後 長崎大学仁行く
昭和28年学校の先生になる 鶴鳴学園その他を歴任
先生の時代は被爆体験の事は話していない
半分以上はお互い同士は話せるが他の人に話すのははばかられる(話すことに抵抗がある)
被爆の語りべとしての自覚が湧いてきたのは講演した時に若い社会科の先生からの 若い人に話を伝えてほしいとの要望があり少しずつ対応していった
平成16年米国に行く
被爆体験の講演 スミソニアン博物館別館に行きB29をみる
広島に原爆を落とした飛行機が展示してある
この飛行機こそ「もう誤ちは繰り返しません 安らかにお眠りください」を書きたいと思った
一週間遊説した 共感する人がいた
ラジオでも放送 いろいろと共感してくれた
ガラスの破片が体につきささる 距離の近いところはガラスが溶けてしまっている
しばらく経つと化膿してきて、ウジがわくと云うような事が髄所にある
廻りの人が亡くなってゆく
自分自身の体の不調 が続く
13人書いているが殆ど癌で ここで新たに4人が亡くなっている
私も昨年心筋梗塞になる
太ももの処からカテーテルを入れて心臓のところまで行っている
その時先生は可能性として5分5分だと云われた(一命を取り留める)
二度と戦争をしてはいけない
昭和29年の3月 第五福竜丸事件 久保山愛吉さんが亡くなられる
ビキニ水爆実験場から160kmもある 性能の巨大さが知れる
25年 チェルノブイリ 何年も何年もたってから後遺症が出てくる
福島原発事故から 自然エネルギーへの転換が必要
若い人には是非読んでほしい
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