綿矢りさ(小説家 第130回芥川賞受賞) ・綿矢りさと語る 宇野千代の“底力”
今年秋から放送開始予定の連続テレビ小説「ブラッサム」のヒロインのモデルが山口県岩国市出身の作家宇野千代さんです。 1897年生まれで、明治、大正、昭和、平成と98年に渡る生涯を波乱万丈に生き抜いた宇野千代、作家デビューは大正10年、芥川龍之介や菊池寛といった近代日本文学を築いた文豪と重なる時代です。 大ヒット小説で映画化もされた「おはん」を始め、85歳の時に書いた「生きてゆく私」は100万部のベストセラーになりました。 作家だけではなくファッション雑誌の編集やモデルに着物デザイナーとしても活躍しました。 そんな宇野千代の大ファンと言うのが、小説家の綿矢りさんです。 1984年京都府生まれの綿矢さんは、高校2年生で小説家デビュー、大学生で書いた「蹴りたい背中」は第130回芥川賞受賞を史上最年少で受賞、現在にいたるまで精力的に執筆活動を続けています。 宇野千代の生い立ち、考え方、宇野千代を取り巻く男性たちをテーマに話が弾みました。
宇野千代さんが書いている小説やエッセーに共感したというのもありますが、生き方見たいなものが、元気が出る生き方をされていて、若いときよりも歳を取ってきた頃の方が、どんどん明るくなっていって、入院などもあるが強調して書かず、125歳まで生きるというような不滅みたいな精神が好きです。 若い頃は借金、作った会社が倒産、離婚したりいろいろありましたが、テレビに出始めた頃から楽観的にさらに楽しくなっていかれたので、凄いな強いなと思います。
父親は俊次と言う名前で作り酒屋の次男でお金はいっぱいあった。 放蕩、自由奔放ですさまじいタイプです。 母親のトモさんは2歳ぐらいで亡くなる。 後妻を貰うが若いリュウさんと言う人です。 その間に4男1女が出来て、その長女になる。 背中に弟、妹を背負って生きて来た。 雪の降る日に裸足で行かされたり、虐待のエピソードも残っている。 父親のことを恨むようなことは書いていない。 継母も優しい人だったようで、明るく成長したと思います。
17歳で小学校の代用教員になるが、若い男性教師と恋に陥る。 免職処分となり相手の男性とも破局。 その後朝鮮京城へ行くがとんぼ返りで舞い戻り、元夫の弟・藤村忠と結婚。 北海道に渡り、書いた懸賞短編小説『脂粉の顔』が一等になる。 尾崎士郎が二等。 受賞のために東京に行くが、尾崎士郎と恋に落ち、北海道には帰らなかった。 1923年(大正12年)5月、尾崎士郎と結婚。 1936年にはファッション雑誌『スタイル』を創刊、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めた。 東郷青児に取材に行くが惚れてしまい、その日から結婚生活が始まる。 着物のデザインも始め、スタイル誌で紹介、販売もした。 人と話す時が一番おちゃらけた様な感じで、エッセイはもう少し真面目で、小説は暗いと言っていいほどの内容になっている。 3層も4層もある方だと思います。
「向こうが追いかけるのが嫌だと思うと、私は追いかけるのを辞めるの。 未練もあるし、追いかけたくても、それが恋愛の武士道やな」とインタビューで語っている。
北原武夫さん、新聞記者だった北原さんは後に作家になる。 宇野千代が42歳の時に、10歳差で結婚して『スタイル』を創刊。 67歳の時に別れる。 『刺す』は北原さんとの時代のことを書いた小説です。 借金、倒産の苦労話も書いているが、一番の苦労は不倫をされていたという存在に気付きながらも、全然注意できなかったという事で、そのつらさを忘れるためのに新しい雑誌を作ったりするが売れなくて窮地に陥ってゆく。 不倫相手の写真を偶然見つけてしまう。(この部分の表現が面白い。 朗読する。)
「男性的なものを汲み取るという事は、私たちの様に物を書く人間には必要なんす。 ・・・付き合った人からいろんなものを吸い取る。 東郷青児からは色と形の配分、北原武夫からはフランス文学とはどういうものかという事を勉強しました。 ・・・でたらめな女のようにご覧になるでしょうが、ちゃんとでたらめではない自分の好きな、好きだと思う事でなければしなかったんですね。」 或るインタビューから。
1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く書いた。
「・・・幸福のかけらはいくつでもある。 ただそれを見つけ出すことが上手な人と下手な人がある。 幸福とは人が生きてゆく力のもとだと私は思っている。 ・・・幸福も不幸もひょっとしたらその人自身が作るものではないか。 そして人の心にたちまち伝染するものではないのか。 自分にも他人にも幸福だけを伝染させて、生きて行こうと私は思う。幸福はたちまち伝染して次の幸福を生む、自然に生む。 これは誰でも自分の気持ちを自然に考えると思いあたることである。」