2023年6月21日水曜日

栗山英樹(第5回WBC日本代表監督)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 夢の続きを語ろう

 栗山英樹(第5回WBC日本代表監督)  ・〔スポーツ明日への伝言〕  夢の続きを語ろう

1961年東京都生まれ、創価高校、東京学芸大学を経て、ドラフト外でヤクルトスワーローズに入団、1989年にはゴールデングラブ賞を獲得しますが、1990年限りで現役を引退、引退後はスポーツキャスター、白鷗大学教授として活動し、2011年に北海道日本ハムファイターズの監督に就任、10年間指揮をとりパリーグ優勝2回、2016年には日本一にも輝いています。  2022年に就任した野球日本代表さむらいジャパントップチーム監督として、今年のWBC(ワールドベースボールクラシック)に臨み、日本代表を3大会ぶりの優勝に導きました。  5月いっぱいで監督としての任期を終えた栗山さんに伺いました。

多分10年後ぐらいから、今回のWBCを見た子供たちが又プロ野球に入ってくるという時代になるので、そういうふうに、あれでやりましたという子が増えてくれれば物凄く嬉しいなあと思います。  世界一の大きさというのは全然違うんだなあという事が一つ、勘違いしちゃあいけないという、皆さんが褒めてくれるので普通に戻ろう戻ろういう自分がいます。 これから本当に何をしなければいけないか、何をするべきなのか、心にすとんと落ちていなければ、あんまり慌てて決めないほうがいいのかなあと、落ちてくるのを待っているんですが。 

色紙には「感謝」「夢は正夢」と書いていますが。  小学校の卒業アルバムに「将来プロ野球の選手になり、プロゴルファーになり、体育の先生になる。」と3つ書いています。 一人前の選手にはなれなかったので、未だにその思いは強いですね。  いろいろ大きな決断がありましたが、自信があってそうしたことは一回もないですね。  やりたくて、やるんだという感覚があって、やらない後悔はしたくないと思ってずっとやってきたので、という感じです。  プロ野球のレベルを知っていればプロ野球には入らなかったと思います。100年経ってもレギュラーになれない感覚というのは凄く強かったので、野球が怖かったという時期がありました。  内藤博文二軍監督から、言葉を頂きいまだに僕のベースになっている「人と比べるな」という一言でした。   人が生きてきて苦しむのは、だいたい人と比較するという、比較して何になるんだという、自分さえうまくなればいいんだという風に思えたという事は、野球をやる怖さが消えたというか、物凄く大きかったですね。

監督の立場での比較はありますが、そういう時にはあまりうまくいかないです。 こいつだったら打つという事で出さないと選手は打たないし、僕の心の中途半端なものが、必ず結果に表れるので、監督をやっていて経験した事なので、この人なら必ず打ちますよと思って出してあげないと、打たないので、という感覚ですかね。

選手は絶対力を持っているんで、出来る限り待ってあげたいし、でも勝たなければいけないので、僕がそうしてほしいなあという事をやっているだけなんですが。

辞めたときには、戦力外通告されたわけではなくて、自分で決めました。  「野球を嫌いになりたくなかった」という一点です。 プロに入って2年目から平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになりました。  

辞めてからメディアの世界に入りましたが、沢山の人に会いたい、沢山のことを見たい、それだけでした。  野球では中途半端な思いがあり、今度こそ一人前になりたいと凄く思ったので、学ぶためにはそれが必要だと思ったので。  いろんな人に会ったり見たりしてきたので今の自分にはプラスになっています。   野球に関して、もっと結果が出る方法とか、なんかある、といつも思っています。  

2004年ジャイアンツの阿部慎之助選手が4月に16本ホームランを打って月間タイ記録を作ったことがあり、彼の腰の使い方を番組で取り上げたことがありました。  腰をちょっと逆に戻すようなしぐさがあり、今はツイストというような言葉を使いますが、壁が出来るので先っぽがはしるというような感覚です。  そういう感覚を教わったのは中西太さんでした。  今の12球団の日本のバッティング理論のベースは全て中西さんからスタートしていると僕は思っています。     言う事が凄くシンプルなんです。  壁を作らないとバットは走らない、それを極端にやると逆に回さないとバットは走らない、そういう感覚です。  

中西さんとはほんの1,2年の間でした。  中心になる選手を中心に練習は組まれますが、中西さんはそういったことがまったくなくて、僕にも同じように愛情をこめて投げてくれました。  若松さんとスイッチヒッターへの挑戦をして、左打ちの猛特訓をしてスイッチへと転向しました。  中西さんからは「天につばするな」といつも言われていました。       「選手に本当に正直に丁寧に真心こめてぶつかりなさい」、「偉そうにするな」、「誰それの悪口云うな」という事を含めて、中西さんは言ってくれていました。  中西さんの義理のお父さんが有名な三原監督です。  三原監督が最後につけていた背番号「80」を付けました。   中西さんから三原監督が付けていた詳細に書かれたノートを見せていただき、衝撃を受けました。    それが僕のベースになっていて、今回のWBCもいろんなノートを持っていきました。

戦争を経験された監督は腹の座り方、勝負の仕方は僕らには太刀打ちできない強さ、覚悟とかがあり、そういうものに近づきたいという思いがありました。  三原さんのノートは何とか書物にして次の世代に渡してあげたいと思います。   最後は人だという事がわかるんです。  人間としてちゃんとした人に育てないと、人は育たないという事を判っているのに、決して選手にはそうは言わない。    「好きにやれ、でも野球だけはちゃんとやれ」みたいな、そういわないと選手はいかないという事を知っておられたんじゃないかという、深みというか凄いと思いました。 三原監督は選手から監督になる間に新聞記者をやっていましたね。  ジャーナリズムの世界で野球を観ていたこともある。  

大谷翔平という宝物を預かったので、5年間毎日怖かったので、もし怪我をして野球が出来なくなったらどうしようという責任もあり、そういう時間でした。  WBCの前に王さんに会って「もう一回やりたいんだったら、選手と監督のどっちがやりたいですか」と聞いたんです。     バッターだと思っていたら、「ホームランもいいけど、監督は多くの選手のためになれるからね、良いんだよ」といいました。   僕は監督というよりも、育ってゆくのを手伝うという仕事がいかに素晴らしい事かという事を凄く実感しています。  WBCの時、王さんが付けていた「89」をつけていいですかと、許可を頂いて付けましたが、負けないでよかったなあと正直思います。

他のチームがどういう体系で、どういうお金の流れで、どうなっているのかと言う事は、一度見たいという事は凄くあります。   それが判ればファンの人たちが喜ぶチーム作りとか、お金をかけていいところとかけてはいけない所、球場の在り方とか、僕らも学んでいかなければいけないかなと思います。  長嶋さんからは「高校野球を守れ、日本の野球のベースは高校野球で出来ているから、その環境さえしっかり守っていければ、野球の環境はある程度守られるんじゃないか」というようなことを言っていました。  先輩たちの思いを何か形にしていきたいと思います。