2022年12月12日月曜日

平野啓子(語り部)           ・〔師匠を語る〕 鎌田弥恵

 平野啓子(語り部)           ・〔師匠を語る〕  鎌田弥恵

NHKの「おはよう日本」のニュースキャスターや大河ドラマ「毛利元就」のナレーションを担当した平野さんは語り部の第一人者として1997年に第52回文化庁芸術祭大賞を受賞しています。    師匠である鎌田弥恵さんについて伺いました。  

*芥川龍之介の冒頭部分を語る。   平野啓子

顔の表情。体全部を使って身振り手振りで語る。  

 鎌田弥恵さんは1947年NHK放送劇団に二期生として入団。  1952年からNHKラジオで放送され、その時間帯は銭湯の女湯が空になると言われた伝説的な番組「君の名は」のナレーションで鎌田弥恵さんは広く知られるようになりました。  1979年からは語り部として活動を始めています。  1991年度の芸術祭大賞を受賞。  平野さんを筆頭に多くの後進を育成し2019年91歳で亡くなりました。  

私にとって語りの世界の親という存在でした。  語りの会があるから行かないかと誘われました。  それが「鎌田弥恵物語の会」でした。  銀座のバーでお酒を飲みながら語りを聞くという会でした。   杉本苑子さんの「ひばり笛」という作品を、何にも本を見ずに客席に語りかけるんですが、全部文学作品の文章ですが、普通の言葉に聞こえてくるんです。   物語がダイナミックに心の中に広がって来て、自分がやりたかったのはこれだと思いました。   いきなりその後すぐに「弟子にして下さい。」と叫びました。  弟子は取っていないので学校の生徒として来てくださいと言われました。   私は初級コースで鎌田先生は上級コースを教えていたので直には教えてもらえず、2年間頑張り中級コースにあがりました。  中級コースの先生が辞める事になり鎌田先生が中級も教えるようになりました。    クラスは5,6人で順番に一つの作品を読んでいきます。   「違うんじゃない。」と言われるが何が違うのかわからないんです。  手本を示すと言いう事はほとんどないんです。 

中級で2年ぐらいしてから鎌田先生から、「今度の私の秋の舞台に出てみない。?」と言われました。   10~15分で終わるものを一生懸命探し回りました。    言われたのが6か月前でしたが、一つに絞り切れなくて公演の3か月前になってしまいました。  二つ、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と宮沢賢治の「いちょうの実」でした。  先生に聞いていただいて芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に決まりました。   覚えるのに時間が掛かっていよいよ2か月になってしまいました。   前座というような形でやる事になりました。  初舞台は言葉のミスはなかったのですが、大きな声で最初から最後まで語り続けて、その時の様子を覚えていないんです。   先生は、私が独立した後も前座にどんどん新しい人を登壇させていました。   思い切った先生で若い人たちにチャンスを与える、という事をしていました。   或る時、お客さんから私に「貴方、先生とそっくりになってきたね。」と言われ、似てきたことに喜んでいたら、後で先生が「私の亜流になっては駄目よ。亜流になってしまったら、独立しても私の亜流でしかなくなる。 それは決してあなたにとっては良いことではないのよ。」と真剣なまなざしで言われました。

自分のなかで戦って作り出した表現がないのではないかもしれないと思って、演劇なども勉強しようかと思ったら、「誰かに習おうとしないで、一流のものばっかり見て歩きなさい。」と言われました。    自分の世界の中に取り入れたいと思うようになりまいた。 やり始めて行ったら自分のなかになにかが見つかって行きました。   自分で考えてやってみて発見して、やってみて又検証してゆくという事の繰り返しでした。  

先生について、6,7年経って独立する事になりました。   4作品をやる事にしました。  先生にリハーサルを見てもらって、山台をもっと広くするようにアドバイスされました。  初の独演会は成功したと言ってよかったのかなあと思います。 

1997年に第52回文化庁芸術祭大賞を受賞して、先生からは「この賞は通過点でしかないので、みなさんこれからも応援してください。」と言われました。   もっともっとたゆまぬ努力をしなさいと言われたような気がしました。   

先生からは自分で考えるように言われていて、年に数回電話する(一回に2時間ぐらい話す。)程度でした。  さまざまな話をしていました。  亡くなる1年前ぐらいに電話をかけたら、「勉強したいものがあったら作品を持っていらっしゃい。  私が教えられる時間はもう僅かよ。 あなたに最後に教えるわよ。」と言ってくださいました。  山本周五郎の作品での悪党のシーンでした。  「常識の外で生きている人たちの日常の声にしなければいけない。」と言われました。   何回も電話口でやり取りしましたが、それが師匠との最後の会話になりました。   

鎌田先生への手紙

『鎌田先生 こうして口にするとなんと懐かしい事でしょう。・・・お亡くなりになった時にまっさっきに思ったことは 、もう先生に直接呼びかけることも、先生の生のお声に触れることもできないという事でした。・・・ 艶のある、遠くからでも耳元に聞こえてくるような、温かい潤いのあるお声、声そのものが芸術の様でした。・・・ 先生のお声がいまある自分の人生の扉を開いてくださいました。・・・先生がお亡くなりになって私の心の中に先生の芸が鮮やかによみがえってきます。・・・自分の世界を築くにしても、自分はまだまだだと初心に立ち返ることができるのは鎌田先生のご存在が何時も心の中にあります。 ・・・最後に先生、謹んで口ずさんでよろしいですか。「忘却とは忘れ去ることなり。  忘れ得ずして忘却を誓(ちこ)う心の悲しさ。」』