2020年7月16日木曜日

本田 徹(医師)             ・誰一人取り残さない医療を目指す

本田 徹(医師)             ・誰一人取り残さない医療を目指す
愛知県生まれ、今年73歳、北海道大学医学部を卒業して、1977年から2年間青年海外協力隊員として北アフリカのチュニジアで医療活動に携わりました。
帰国後長野県の佐久総合病院を振り出しに、各地の病院で診療にあたるとともに東京の山谷で社会から取り残され人たちの医療を支え医療ボランティアに長く携わってきました。
去年に2月からは東京電力福島第一原発の南20kmのところにある福島県の広野町高野病院で地域の高齢者の訪問診療にもあたっています。
本田さんは小児科医としてチュニジアに派遣した時に一冊の本を持参します。
それは長野県で地域医療に携わっていた若月俊一さんが書いた「村で病気と闘う」という本でした。
さらに若い本田さんに強く影響を与えたのは1978年に発表されたWHOのアルマ・アタ宣の目標、「すべての人にとり、健康に生きることは基本的人権であり、必要な医療サービスは住民参加で作り上げそれが医療の在り方」という目標でした。
本田さんは1983年にNGOシェア国際保健協力市民の会の設立に参加し、現在共同代表理事を務めています。
NGOシェアの目標誰ひとり取り残さない医療を目指し問うことにどのような思いがあるのか、伺いました。

国連に加盟する190ぐらいの国が参加して2015年から人類の共通目標、貧困、教育、環境の問題など様々な人類共通の問題に取り組んでゆく、医療もありますが、17あります。
その中で一番大事とされている、人類の中で一人でも取り残されたり、教育とか医療とかから取り残される人がいないようにということを共通の目標にしています。
日本の場合25条で生存権をうたっています。
その項がベースになって国民皆保険制度が1960年代に作られて、一応基盤ができています。
国連などでは国民皆保険制度をより大きな概念でユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(Universal Health Coverage : UHC)と呼んでいます。

医師になったきっかけは、私が5歳の時に弟が麻疹で亡くなってしまったことがあり、両親が非常に悲しんで、ショックを受けて後々影響したのか、潜在的にあったと思います。
高校時代にいろいろな影響を受けたりして医療の道に行きたいという思いが養われて行ったと思います。
叔父から受けた影響もあったと思います。
父はシナリオライターでTVの「7人の刑事」などやりました。
大学は北海道大学医学部に進み、あこがれて馬術部に入りました。
命を大切にすることが、馬との生活が後々役に立ったと思います。
世話をした馬が足の骨を折ってしまって、獣医に薬殺してもらうというという悲劇的な経験がありました。
その時にはみんなが号泣してしまいました。

1977年(43年前)から2年間青年海外協力隊員としてきたアフリカのチュニジアに行きました。
学校が荒れた時代でした。
自分自身の生き方を探しあぐねていた時代でもありました。
チュニジアはイスラムの文化圏で、アフリカのほうにある国であり、フランスの植民地でもあったので非常に多様な文化があり、非常に魅力を感じました。
割合排外的ではなかったし、親日的でした。
ちょうどそのころにプライマリ・ヘルス・ケア (PHC)を知ることになります。
1978年にWHOとユニセフが中心になって開発途上国の医療が充実していなくて、医療の改革が必要なのではないかということで、知恵を寄せ合って作り上げたのが、プライマリ・ヘルス・ケア (PHC)に関するアルマ・アタ宣でした。
すべての人にとり健康に生きることは基本的人権であり必要な医療保険サービスは住民参加で作り上げてゆく、それが医療の在り方だとうたっている。

長野県の佐久総合病院の院長の若月俊一さんが先駆的な仕事をされて、プライマリ・ヘルス・ケア (PHC)というような言葉がない時代にプライマリ・ヘルス・ケア (PHC)を実践されていた。
1947,8年ぐらいに積極的に予防活動、地域の健康を予防して医療費の面でもコストを安くするということで実施しました。
若月俊一さんは「村で病気と闘う」という本を書かれて、私はその本を携えてチュニジアに行きました。
日本で医療を取り組みにあたって、国際郵便で若月俊一さんに手紙を出して先生にお世話になりたい、ということでお世話になることになりました。
先生は大変な勉強家でもありました。
先生は「医療の技術は社会の公共財であり自分のものと考えたはいけない。」と書物に書いています。

2007年に独立行政法人国際協力機構(Japan International Cooperation Agency、JICA)でアフガニスタンの病院の医療論理の研修をするので、JICAの専門の方から招かれて、又日本国際ボランティアセンター(JVC)から呼ばれて、その二つの仕事で1か月行って、その時に中村哲さんがいらっしゃいました。
灌漑事業、クナール川から用水路を引いて砂漠を緑地に変えるという事業で4年目ぐらいでした。
感染病の病院の医師として1980年代から仕事をされていて、最終的に灌漑事業に向かいました。
去年の12月4日に襲撃を受けて亡くなられるという悲報に接しました。
尊敬していたので本当にショックを受けました。
まさに中村さんは「国手」(国にそのものを癒すことをいう。)という名に値するようなことをアフガニスタンでなさったと思います。

「クナール川の一滴一滴が泪と化すとき」 という一遍の詩を作りました。
「2007年ナンガルハルの宿舎でお会いしたあなたは温顔を向けて、ゆっくり水路をめぐっていってください、とだけ言った。
苦難に満ちた大事業を成しえた男はあくまで謙虚で、寡黙だった。
柳の枝が川岸にそよぐその長い水路は、コーランにある天上の楽園さながらに
人々の飢えと渇きを癒し流れ続けていた。
この水路が作り出す緑野と涼しい川岸の陰は、戦火に苦しんできた何十万の人たちの命の支えとなる。
ハキーム中村よ、あなたの魂魄は永遠にアフガンの地にとどまって、チャンバルハルの花のように咲き続けるだろう。
2019年12月」
ハキームというのはアラビア語で医者という意味です。
チャンバルハルは藤の木と同じようなマメ科の大木で初夏に黄色い美しい花を咲かせる。
私のなかでは中村さんとチャンバルハルの花が一体となってしまっているような思いです。

中村さんに捧げる演劇も作りました。
タイトルは「チャンバルハルとジャンカラの民」です。
演劇雑誌「テアトロ」の2020年5月号に掲載されています。
編集長の中村みどりさんから要請されて書くようになりました。
いわきに平藩の沢村さんという方がいて中村哲先生とそっくりな方で、干ばつに苦しんでいて、水路を引いて10ケ村で水田を作れるようにした。
妬みからか讒訴して沢村さんは腹を切らされた。
亡くなった翌年に沢村さんを慕って農民が自発的にお寺に集まって彼を偲ぶための念仏を始めた。
これを「ジャンカラ」といういわきでは有名なお祭りです。
私の中で中村先生と沢村さんが繋がって一つのストーリーになったということです。

ディヴィッド・ワーナーさんはもともと障害を持った方で、足が弱くていじめられてつらい目にあったが、優れた絵描きになりました。
1960年代の後半からメキシコの山のなかで、人々の健康つくりのための活動を始めて、その経験をもとに村の人たちと一緒に作った本が「医者のいないところで」という本で
1977年ごろに英語版が出て、世界中で医療の手引書として使われて100ぐらいの言語に訳されて今も使われています。
日本語版を出すことでディヴィッド・ワーナーさんと交流をすることができました。
村のヘルスワーカーへの助言ということで5つ言っています。
①村の人々に親切にしよう。
②あなたの知恵、知識を伝えて村の人たちと共有しよう。
③地域の方たちの伝統とかんがえかたを尊重しよう。
④自分自身の限界を知ろう。
⑤学び続けよう。