2020年7月15日水曜日

立元幸治(作家)             ・墓地で出会った珠玉の言葉

立元幸治(作家)             ・墓地で出会った珠玉の言葉
「東京霊園物語」、「東京青山霊園物語」、「鎌倉古寺霊園物語」など霊園三部作を現した立本さんがお墓参りをしつつ気になることがあるそうです。
それは墓石群の片隅にひっそりと眠っている無名の人々のお墓に刻まれた言葉だったそうです。
探すとあちこちにあって実にそれが多彩で、出会えば出会うほどそこから熱いメッセージが伝わり、亡くなった方の人生が浮かび上がって来て感動の連続だったといいます。
長い言葉が刻まれた言葉もあるそうです。
広大な墓地で出会った珠玉の言葉の数々を紹介していただきながら、そこに惹かれる立元さんの人生への思いなど語っていただきました。

著名人のお墓を尋ねる過程でどうしても気になるお墓があります。
決して有名な人のお墓ではなくて、お墓に言葉が書かれている。
言葉探しを始めました。
素晴らしい言葉が実は潜んでいるということに気が付きました。
最初「泡沫」という風に書かれたお墓がありました。
何かこの人の思いがあるのではないかと考えました。
最初歩いたのは多摩霊園で広さが128万平方メートル、埋葬者数が41万人ぐらいです。
無名の人たちの墓なのでガイドブックなど何もない。
いろんな言葉に出会いました。
「天晴れて太平洋に雑魚を釣る」 
人生という大海に出て、もまれながら生きてきたけれど自分は大物は狙わず雑魚を釣る人生で十分だったという風に聞こえました。
「老いて今過不足もなく古茶入れる」
高齢に達して、自分の人生を振り返ってみると いいこともあったし辛いこともあったが、トータルで見ると実に過不足もなくいい人生であった、というような事です。

辞世の句として彫ってほしいというような場合と、残された人が亡き人の書き残したものから選んでお墓に彫るという二つのことがあると思います。
「ゆるり」
これもびっくりしました。
座右の銘としてあったのではないかと思います。
「Que Sera, Sera」「ケセラセラ」(なるようになるさ)
アルフレッド・ヒッチコック監督による知りすぎていた男』の主題歌にある。
スペイン語の原語で書かれていました。
どこか力付けられるような言葉です。

辞世の言葉という風なもの。
「一度の人生自分らしく」
自分らしく生きること自体がなかなか難しい時代でなかなか簡単にはいかないが。
「念ずれば花開く」
坂村真民の詩の中にある言葉で、亡き人が残るものに語る言葉として彫ったものと思います。

人間とか人生に対して面白い見方をしたもの
「名月や銭金言わぬ世が恋し」
「人の世の欲を離れてすがすがし、恨み悲しみ苦しみも無し」
「人間という化け物とさようなら」
「人の世の幸不幸は人と人が出会うことから始まる 良き出会いを」

戦争に対して自分の信念を権力に対して決して主張を曲げなかった人の言葉がお墓に刻まれている。
「汝の道を進め 人をして言うに任せよ」・・・?
そのあとに「軍事教練を拒否し、徴兵を忌避し、反侵略戦争を貫き、そして反権力、反差別の戦いと農民運動に心を傾けてきた父、信じた母」・・・?
先の言葉にお嬢さんが書き足して刻まれたもの。
亡き人の人生を物語ると同時に、一つの時代とか世相を物語る重要な証言者とも考えられる。

亡き人を偲び思いをよせる、深い感謝の気持ちなどをうたった、語った言葉。
「名もなくて秋海棠に咲きにけり」・・・?
商社勤務で海外が多く、ようやく定年で妻とともにゆっくりできると思った矢先に突然妻がなくなってしまった。
伴侶を偲ぶ歌はたくさんあります。
「たすきして西瓜を切りし妻なりし」・・・?
「亡き妻を光し夢の試しとき淡き悔いあり何とはなしに」・・・?

子供が先だった心情をうたった、語った言葉

「明るい午後の日差しの中で静かに眠る愛しき子
何を夢見て微笑んで さやさや風が頬を撫でて 5月のあしたに消えました。
愛しき子よ母は願う 高き心に豊かなる愛 いついつまでも忘れないで
朝露光る明け行く空に はかなく消えた一つの命
思い出だけを父母に残して 一人夢園へ 昨夜の星になりました
愛しき子よ母は歌う あの日の午後の子守歌 いついつまでも歌うでしょう
いついつまでも父母の胸に」 ・・・?
1歳で亡くなったが元気な子で、長い歳月を経たけれども今でもその辺にいるような気がしてならないと言っています。
愛情というものは共に過ごした時間には関係ないんだ、たとえ1年であっても変わらぬ愛情があるとその母親が言っていました。

「梅咲けば 遠き世に住む子の元に ・・・(聞き取れず)」・・・?
22歳で夭折した我が子のことを偲ぶ母親が詠んだ歌
「花こぼれなお薫る」・・・?
26歳で早世した子を偲んだ言葉です。

母に対する思いを墓に刻んだものが多いです。
戦争後外地から7人の子供を連れて引き上げてきたが、苦難の道程であった。
それを偲ぶ子供の言葉。
「昭和21年4月16日 台湾において父正夫戦死、昭和22年11月7人の子供を連れて台湾より帰国し苦難の道を無事歩み続けた偉大な母 和子の愛と努力に感謝してこの碑を建立する。」・・・?
その長男の手記の紹介。

辞世の言葉、亡き人を偲ぶ感謝の言葉、死者と残されたものとを結ぶきずなのシンボルとして言葉を刻んだ墓碑があると思っています。
「私のおじいちゃまの墓」と書かれていたが、これには一番感動しました。
子どもの字です。(8歳)
その子を探し当てて話を聞くことができました。(52歳になっている。)
非常なおじいちゃん子でいつも共に過ごしていた。
おじいちゃんが墓を作るから君は字を書くようにと言われたそうです。
生前に墓を作りたくて、それに「私のおじいちゃまの墓」と刻みたいと思ったそうです。
下書きを書いてそれを石材屋さんが墓碑に彫ったそうです。
そのお墓があるだけで、そのあたりが温かい雰囲気が包まれているように私は思います。
非常に豊かな人生を送られた方が結構おられるなと思います。
有名無名で区切っては駄目だと感じます。

*電話によるインタビューのため聞きにくい部分もあり、「・・・?」で記した墓碑の内容も平仮名、漢字が違うかもしれないし、わかりにくいところもあり正確ではないかと思います。