2020年5月12日火曜日

高山みな子(フリーライター)       ・「子孫が語る、勝海舟の魅力」

高山みな子(フリーライター)       ・「子孫が語る、勝海舟の魅力」
幕末から明治にかけて活躍した勝海舟の没後120周年を記念して去年9月洗足池のほとりに大田区立勝海舟記念館がオープンしました。
全国初の勝海舟の記念館とあって地元はもとより 全国から大勢の勝海舟ファンが訪れ
ています。
フリーライターで勝海舟の玄孫にあたる、高山みな子さん(57歳)は生前の海舟を知る祖母の話や坂本龍馬の研究家たちとの交流を通じて海舟の人物像に魅せられたといいます。
江戸城の無血開城をはじめ数々の難題に立ち向かい、日本の近代国家樹立のために活躍した勝海舟とはどんな人物だったのか、子孫だからこそ知る素顔も含めて「勝海舟の会」名誉顧問の高山みな子さんに伺いました。

小学校の5,6年生の時に歴史の授業があって、咸臨丸の艦長が勝海舟だったということを習って、家にかえって母に話したらそれは家の先祖よと言われてそうなんだとおもったがぴんと来なかった。
2000年過ぎたころ「咸臨丸孫の会」が作られて、両親も参加していたが、父の代わりに行きなさいと言われて、何にも知らないまま伺いました。
ある人からあまりにも知らなすぎるから勉強しなさいと言われて、家にある本を読み始めたら結構面白くなりました。
海舟は9人子どもがいて、長女は「夢」、次女「孝子」、三番目は男で「小鹿」、ペリーが来てその後幕臣に取り立てられて忙しくなって、四番目が「四郎」、五番目が「逸(いつ)」(うちの祖母)、六番目は長崎で生まれたので「梅太郎」、七番目が「七郎」、八番目が「八重」、最後が「妙子」ということでした。
子孫は総勢で父の代で300人ぐらいいるのではないかと言っていました。
「梅太郎」は国際結婚して妻はアメリカ人でした。

勝海舟が生まれたのが1823年、本所の貧しい旗本の家に生まれる。
剣の達人で、蘭学なども学び、ペリー来航の時には幕府へ海防に関する意見書を提出して要職につくようになった。
咸臨丸でアメリカにわたったのが1860年、神戸に海軍の学校を設立してそこに坂本龍馬などが集まってきて勉強をした。
西郷隆盛との交渉で江戸城無血開城を行う。
明治になっても政府の要職を歴任する。
位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。
仕えていた徳川慶喜と明治になっても交流を続けて救済に尽力する。
明治維新の時に海舟は徹底抗戦するか、恭順するか(海舟はこちらを目指していた)聞いたところ、徳川慶喜はインド、支那の二の舞になってはいけないので恭順の道を選ばれる。
その時のつらい道を選ばれた恩義を海舟は生涯持っていたと思います。
長男の娘のところに慶喜公の十男を養子にいただくが、旧幕臣は子爵なんですが、子爵では慶喜公の息子に継がせるのはよくないと思って、伯爵ではなくてはいけないと思って頑張ったということです。(いろいろ陰口はたたかれたようですが)
政府の中に片足残して慶喜公の名誉回復を何とかしなければ、ということがあったと思います。

大久保利通公に旧幕臣の就職斡旋をお願いしたようです。
大臣には榎本武揚公、事務次官、NO2,3の名簿を見ると旧幕臣の名前が結構多いんで、やりにくさはあったと思いますが、新しい国つくりに邁進していったんだと思います。
慶喜公が明治天皇に拝謁するような仲立ちも海舟は行っています。
海舟の日記に「苦節30年やっと願いがかなった」と書いてありました。
坂本龍馬が脱藩して海舟を訪ねてきてから、そこからずーっと家族ぐるみのお付き合いがあったみたいです。
祖母が3歳のころに龍馬さんは赤坂の家に出入りしとぃたみたいで、龍馬さんに肩車してもらったといっていました。
豪商に支援されながら、海舟は「三方よし」の商人の考え方を学んでゆく。
龍馬さんの実家は豪商でもあったので考え方が相通じるところがあったようです。
海援隊海外貿易は商人の人たちです。

西南の役で亡くなった西郷隆盛の名誉回復のためにも尽力しています。
西郷さんが沖永良部に流された時に書いた詩を直筆で石に彫らせていていて、洗足池の海舟の墓の隣に海舟の弟子が移築しています。
石の裏には海舟の書いた詩があって、維新の時に大変だったという書き出しから始まって
結びのところには自分のことを一番よくわかっているのは西郷さんだし、西郷さんのことを一番よくわかっているのは自分だということを書いています。
西郷隆盛と海舟の出会いは島津斉彬公の紹介があってなんです。
島津斉彬公が江戸にいたころにも海舟は大変お世話になっていました。
島津斉彬公は阿部伊勢守(阿部正弘 主席老中となる)と仲が良くて、島津斉彬公が勝林太郎という人がいるので阿部伊勢守によろしく頼むよ、と言っていたように私は思っています。
ペリー来航の時には幕府へ海防に関する意見書を海舟が提出して要職につくようになったのは、そのようなことがあったので取り入れられたと推察しています。
人の繋がり非常に大きな力を持ったのではないかと思います。
おととし江戸城無血開城150周年で、その時に西郷さんのひ孫の方がいらっしゃいまして、交流を続けています。
海舟がこなしてきたことは後から見るとダイナミックに見えるが、当時は自分に与えられた仕事をいかに努力してこなしてゆくか、それだっただろうと思います。
要所要所で素晴らしい人たちにより助けてくれる人たちがいた。

海舟は下戸でした。
お菓子をお客が持ってくるので小さい菓子部屋があって、菓子をつまんだ後は祖母たち孫のところに行くわけで、祖母はそれが楽しみであったようです。
つぼ屋の最中が好きだったようです、又ウナギも好きでした。
西郷さんも酒はあまりたしなまなかったようでスイカなど好きだったようです。
海舟の記念館ができて、いろいろ面白いものが展示されて居ます。
海舟はいろいろ言葉を残していて楽しめるような展示になっています。
「人には余裕というものがなくてはとても大事はできないよ」
「人は逆境に立たなければ本物じゃないよ」
「勝海舟の会」という会がありまして、現在名誉顧問を務めていて、勉強会、史跡めぐりもしています。
人望を広める機会を作ることをどうやってゆくか、と言うことをどうやってやってゆくかということを海舟の人生から学べるかなあと思います。