2018年2月17日土曜日

前田益尚(近畿大学准教授)        ・がんとアルコール依存症を乗り越えて

前田益尚(近畿大学准教授)        ・がんとアルコール依存症を乗り越えて
54歳、マスコミ論を教える近畿大学准教授。
2006年に膵管結石、2007年にはステージ4の下咽頭がんが見つかりました。
闘病は苦痛の連続でしたが治療をアトラクションととらえ、病院スタッフを笑わせながら明るく乗り越えました。
2013年アルコール依存症と診断されました。
お酒を飲むとアイディアがひらめいたり、自分の意見を堂々と言えたりすると信じていて、長い間お酒を飲み続けたと言います。
依存症治療のプログラムで回復した前田さんは、アルコール存症は治療で回復する精神疾患であると知ってほしいと、学生に、広く社会に伝えようとしています。

2006年 膵管結石はアルコールの大量摂取で膵臓に一部が石灰化して石が沢山出来て、膵管が詰まると植物を分解するインシュリンが分泌されなくなって糖尿病が悪化するとか厄介な病です。
衝撃波によって体内の硬い物質だけを破壊する技術で管に詰まった石を破壊すると云う治療を受けました。
溜まるたびに破砕手術を受け、痛さを耐えました。
2007年にステージ4の下咽頭がんが見つかる。
声帯を取ろうと言われたので即座に困ると断わりました。
放射線治療なら完治は見込めないかもしれないけれども、余命5年で生存率50%の選択肢があると云うことで即座にそれに乗りました。
京大病院に実験的に声帯を残して咽頭がんを切除する先生がいると云うことで紹介してもらい、伺いました。
手術をしての付随する悪いことを色々言われました。
食道は守りきれないかもしれないとか神経を傷つけて左手が動かせなくなるかもしれないとか言われました。
声帯を残して教壇に戻れるのであれば構わないと思い、声帯を残す実験的手術をする事になりました。
上手くいって現在こうしていられます。

放射線治療、抗がん剤治療などで10カ月喉に開けた穴がふさがらなかったり、色んなことが有りました。
アトラクションだと思って看護師さんなどを笑わせて、楽しい入院生活を送っていました。(苦しいが笑いが取れるともてるんです)
胃カメラの時にはエーリアンのことを思って、苦しかったが楽しみましたというと看護師さんに受けるんです。
そのほか色々なことをしました。
虚勢を張ってでもポジティブに考えて、自然治癒力をあげる努力をみずからしました。
2013年アルコール依存症と診断される。
癌から退院して、その後結婚したが、妻から言わせると飲み方がおかしいと言われました、一日中飲んでいると。
妻がネットで調べて、アルコール依存症と云うことだったが、自分は認めませんでした。
後で判ったが、アルコール依存症の脳は自分ではコントロールできない障害を起こしている。

隠れていても飲む。
大学にもいけなくなって、妻に導かれるようにして入院しました。
アルコール依存症になる人は大量に飲むように思われがちだが、私は余り飲めるタイプではなかった。
量ではなくて酒を常に手放せない状態に心身ともになっているのが依存症です。
厳格な父(精神科医)に厳しく育てられて、中学の中間、期末試験で90点以下だと血が出るまで殴られた。
委縮した人格が形成されたと思う。
大学に入っても自分のアイディアを自信を持って発言できなかったが、コンパでお酒を飲んで、父親の恐怖がスーと抜けていくようで、恐怖が無くなって自分のアイディアが発言できるようになったんです。
それをきっかけにお酒を手放せなくなりました。
大学の先生にも認められるようになり、お酒さえあれば自分の能力が認められると思うようになり、手放せない存在になりました。
又、良いアイディアが出ると錯覚する様になりました。

35歳で近畿大学の専任の教員の職を得るようになりましたが、お酒がやめられない状態になっていて、後のち、依存症になっていった訳です。
朝から飲んでしまいます、お酒を飲まないと不安で、不安感でついお酒を飲む、お酒で頭を浮かせておかないと大学へも通えない、と思ってしまっていました。
僕の場合は妻にたいして暴力、暴言はありませんでした。
その分発覚が遅れたと云うこともあったかもしれません。
先生からこのままでは内臓がボロボロになり死ぬことになると言われてしまいました。
アルコール専門病院を妻が見付けて家族の振る舞いを勉強して、妻の心配が取れると云うことであればということで病院に行ったのが治療の第一歩でした。

脳の前頭前野が健常者とは違った状態になっている。(コントロール障害)
自分の意志で酒をやめたいと思っても、脳から優先順位は先ず酒だろうと指令が来る。
止めたいと思っても、お酒を手に取らないと手が震えたり、汗が出てきたり、落ち着いて体が反応しないような脳が出来上がってしまって、そうなると結果とりあえず一杯飲んで、日常生活ができるようにというふうに、なっていってしまう。
日本はコンビニでいくらでも手に入ることが出来る。
体がアルコールしか受け付けず疲弊していて起き上がれないような状態でも、脳から優先順位は先ず酒だろうと指令が来るので、アルコールのためだったら起き上がってアルコールを買いに行ってしまう。
入院して隔離されないと、酒と接触させないようにしないといけない。
先ず自分ではコントロールできないと云うことを勉強しました。
自助グループ(断酒会など)に参加することを入院中に促される。
お酒がいくらでも手に入る社会に戻っても酒を止められる体質を作らないといけない。
脱落する人も必ずいますが、私の場合は3か月の入院と1年間の休職で、自助グループまわりでの会合で立ち直りました。

体験談をひたすら語り合います。
自分は一人ではないと踏ん張ります。
休職中は延べ330回行きました。(一日2回行ったこともあります)
今までに619回行っています。(行くとスタンプを貰えますので、それが励みになります)
飲酒第一の回路に上書きしないといけない。
私の場合、自助グループ第一の回路へと上書きしていきました。
君子危うきに近づかず、ですが、それぞれ個体差がある。
飲酒の回路がどう再起動するのか、色々です。
危ういと思ったものには近づかない。(酒席には絶対行かない)
卒業の謝恩会で注がれると断れないと思うので、一切酒席には出ません。
自動販売機があるとコインを入れたくなるが、「キープカミングバック」というメダルをもらって、小銭入れに入れておき、これを見ることで抑止になる。

大学の休職願いの時にはこの件は気になったが、大学にも診断書を出して退路を断って、大学も理解してくれて休職することになりました。
先ず謝罪の日記を書きました。
学生にたいして申し訳なかったと、謝罪の文章を書いたが、退院した頃は学生は社会人になっていて、15人の卒業生の中から3名がメールをくれました。
日記をみてくれて、私が断酒会へいったり、酒を辞めて辛いだろうと思うと僕の会社での辛いことなどはと、励みになります、毎日日記を読ませてもらってますとメールを貰って、教壇に戻る意義があると思って1年間毎日日記を書いて、復帰しました。
回復している姿をおおやけにすれば、後にどうしているか判らない人にたいして、そういう姿を見せると云うことも教育者の一つの有りようだと思って開示しています。
そういうことで退路を断っています。
2016年「楽天的闘病論」を出版。
癌は絶望的になれば自然治癒力が落ちる。
精神疾患は自分でのたゆまぬ努力が必要で、感動的な体験談を聞けたとか楽しみがあるという気持ちをもって、人生の苦境に陥った時にポジティブに考えて欲しいと云う意味で出版しています。