2015年1月18日日曜日

伊藤亜人(東京大学名誉教授)     ・韓国と私の45年

伊藤亜人(東京大学名誉教授)    ・韓国と私の45年
昭和18年 東京生まれ 71歳 東京大学で文化人類学を学び、昭和47年から韓国南部の島、珍島(チンド)の村でフィ-ルドワークを始めました。
その後も村に通い続けて生活や伝統行事調査し、韓国の文化を精力的に日本に紹介しています。
文化人類学者の立場から半世紀近くに渡り韓国を見詰めてきた、伊藤さんに伺います。 

大学に入った時は理系に入ったが、子供の時から理科人間だったが、しかし大学になかなか入れずに2年間浪人した。
その間に東北の漁村で牡鹿半島で生活をしたときに、日本の民族学に関心を持ち始めた。
韓国をテーマに選んだ理由は?
日本の漁村だけではなく、朝鮮、中国にも関心があったので、誰もやらない韓国をやろうと思った。
父が画家だったが、写生旅行に中国、フィルピン、モンゴル等に旅行していたが、韓国には旅行していなかった。
その絵を見て子供心に創造を豊かにして、関心を持った。
絵とかお土産とか、子供にとっては大変な存在感があり、アジアについて考える手がかりになる。
母方では、朝鮮から早稲田大学に通う下宿生が来ていて、それで母から朝鮮についていろいろ聞いていて違和感はなかった。

韓国を研究テーマにえらんだのが1970年代 周りは韓国に関心を持つ人はいなかった。
大学ではソウル大学から客員教授を招いてくれて、その先生から手ほどきを得て、韓国語も学んだ。
1971年 昭和46年初めて韓国に行く。
経済的には日本よりだいぶ遅れていたが、表情が豊かで生きいきとしていて活気にあふれていた。
昭和47年から韓国の農村に住みこんで現地調査を始める。
珍島(チンド) 行って見ると海も山も川も綺麗で、文化的社会的伝統、いろんな要件がそろっているので
珍島(チンド)がいいと思った。
交通が不便だったし、村で取れるものを食べていたし、自給自足的な生活をしていた。
電気は通っていなかった。  
月が明るくなるとにぎやかに、特に満月になると、広場では子供たちが縄跳びをしたり、夜まで声が聞こえたり、動物たちもごそごそと動く。
新月になると人も動物も静かになる。

東西冷戦のさなかなので、共産主義に対する警戒は社会の隅々まで徹底していた。
日本からくると警戒する(スパイとか)、日本がアメリカの影響で若者が退廃的な雰囲気があるようだと言う事で、村の青少年に悪い影響があるのではないかとの思いも村の人にあった。
最初村に入った時に、村の年寄りを集めて会議が開かれた。
キムチをほうばる様に食べたら、安心された。
調査すると逆に日本ではどうかと問い合わされる。
思ったことを率直に言う事が重要です。  論理的に話すことは非常に尊重される。

日本の事に対して厳しい態度を取る人もいたし、それはある意味でしょうがないと思う。
反日的な気持ちを持つ事はある意味当然だと思う。
抑圧されたり支配されたりすることは、プライドの上でもたえがたい事だったかもしれないし、十分理解はできる。
反日だけかと言うとそうでもない、日本に対して認めることは皆認めている。
真面目、勤勉、正直だという事は皆認めている、否定する人は誰もいない。
日本人は単純化して、親日か反日かとい言う様に二項択一の様に考えがちだが、配慮が足りないと思う。

わが身を省みることになるが、日本人は細かい事に行きがちで、随分議論はした。
どの社会もそれなりの伝統があり、積み重ねのなかで今の生活がある訳ですから、なかなか行き届かないところがあるわけです。
それはそれとして理解できるわけです。
韓国の場合は個人の気持ち、考えを言葉で明確に表している。
個人と個人の関係を最も重要な基盤とする社会で、組織、制度よりも個人に対する信頼が非常に重要で、日本ですともうすこし制度的な枠によって保障されるし、それを皆求める。
個人と個人の関係が社会を築いている。
日本がむしろ特殊で組織とか制度とかに頼り過ぎているのかもしれない。

韓国の社会、韓国人の魅力は?
はつらつとした個人の言語能力というか、表現力というか、韓国社会ならではのものだと思う。
非常に個人の意思をはっきりした形で言葉で、表情で表す社会なんです。
こちらからも言葉ではっきり言えば判ってくれるし、納得してくれる。
80年代から韓国の社会を紹介する本を日本で出版する。
政治、経済などエキスパートが紹介していて、極一部が独占していた。
実際に生活している人の気持ち、生活の姿がなかなか伝わらない。
経済は手段であるけれども、文化、生活者としての共感が求められる。
政治、経済、言論人の エリートが取り仕切る様な隣国関係は限界があるという事です。
日常レベルでの理解が非常に重要で、其れが無くなってしまうと本当に受け売りの観念だけになってしまう。
観念と言うのは紙に書いた文字の世界なので生活から遊離しかねない。

研究対象である地域社会の人間関係、いろんな関係が見えてくる。
交流と言うものは研究対象になる。
自分は村の人と意見を交換しながら、調査しているのは、これは交流だなと気がつく。
現地の人から珍島人と言われるようになったが、これは有難いことだと思う。
1970年代に撮ってきた写真。
韓国では再現不可能なことになってきている、どんどん消えてしまっている。
当時の農村を韓国の若い人たちはほとんど知らないし、韓国の人も研究しない。

食文化、ショッピング、スポーツ、ドラマとかを通して韓流によって非常にいいイメージが先行して好循環をするようになって、これは非常に幸いなことだった。
交流が始まったが、次の段階として何が不足しているかと言うと、間接的な交流ではなく直接的な関わり、友人を持つという事です。
ドラマ、作品、音楽とかを通した間接的な人との交流だけでなく、直接的に韓国の人と知り合いになる、友だちになる、そして生活を垣間見て、共感を持てるような関係になる、これがこれからの課題です。
今は冷え込んでいるというが、全体としては交流が進んでいる。
問題なのは観念的に物事を考えている人が、韓国について色々否定的なイメージを言葉で紡いでいるという事ですね。

現地に行って直接見て、経験を積む必要があると思います。
芸術性も、宗教性も豊かで、亡くなった人の霊を弔うために儀礼があり、今日どこでそれがあるかそれが判る。
庭でやるが、皆涙を流して泣きじゃくっている。
2年目にツアーでその場に行ってその人たちと共に泣いていたツアーの日本人の人が2人いたが、実は交通事故で夫を亡くした人であった。 共に現地の人と抱き合って泣いていた。
共感できるツアーだったと思った。
文化の違い、伝統の違いをお互いに認め合ってお互いに尊重し合う、近くて遠いではなく、異なるけれども近いという事だと思います。
異文化を楽しむというか、お互いに理解しながら、お互いに満足できる対話が必要だと思います。
交流をどう進めてゆくか、隣の国と共感を持てるようにするには、その為には何をすべきか、交流の為の役割を果たす人を育てることは非常に重要なことだと思います。