2012年5月13日日曜日

梅田純一(陶芸家)        ・旅は学び舎 人生は不思議な出会い


梅田純一(陶芸家)       旅は学び舎  人生は不思議な出会い
1950年 駒込に生れる 22歳のときに自分を強くしたいと全国徒歩の旅に出掛ける  
野宿など体験 出会いが縁で 徳島県海陽町(旧宍喰町)船津杭瀬に住み19年 
試行錯誤を体験して独学で陶芸の道を歩みました  
多くの人との出会いに支えられて、自分があると言います
ドナルド・キーンさんとの不思議な出会いと交流も梅田さんの創作活動の刺激となっています

「こぼれ梅」 作品集を出版した  梅は小さい頃に大きくなってゆく実にするために小さな実は落ちて行き大きくなる実を助ける 其れがこぼれ梅 
18歳で父親(54歳)を亡くす 其の時に目が覚めた 
陶芸の道に進むために京都に行く(修学旅行で行った経験から京都を選んだ)
家族の理解は有った  身よりも知り合いも無い中を京都に行った 駅で寝て仕事らしきものはないかと歩いて 最初は京都新聞の配達をした
絵つけをもして2年間過ごす   出会いの運のいい人だと自分自身思っている  
食えない作家を応援してくれた
人を愛することによって自分をもっと強くしたいと思った
  
1日300円と決めて1年間歩いて旅をした  
「線と線を結ぶような旅じゃなくて、点と点をつなげていって線にする、そんな旅がしたかった」  権威的な組織の中ではなく物つくりをしたいと思っている
クリエーティブな作品を作るなら生き方に於いても独自の生き方をしたいと思った
星野宏之(旅で出会った人で話の中で住む家を紹介すると約束してくれた人)  
徳島県の廃校になった建屋を見付けてくれて住むところを紹介してくれた
ドナルド・キーンさんとの出会い 個展に出品した時に作品を買ってくれた(20数年前)  
ドナルド・キーン文庫を作って今でも本を送ってくれている

昔土佐藩の若者23人が明治維新に向けて改革をしたいと嘆願するが、追手がかけられる 、同藩の人間と争いたくないので、山を越えて 生き死にを決めた
どの道を取るか かんの浦から船に乗って京都にでるのが目的だったけど船は来ないで追手が来た 徳島藩に名乗りを上げた
この決定をしたのが「船津」と言うところ  そこに姥ユリが咲いていて私がそのユリのスケッチをしていた(そこが彼らの生き死にの場所だと後で知って) 
この想いをユリの絵に託して 23士の絵を書こうと思って書いた 
 
其れを彼に話したら 「ゆく夏や 別れを惜しむ ゆりの昼」という俳句を絵に書いてくれた
其れを陶板(1m×3m)に23のゆりを書いた その横にドナルド・キーンは後でわざわざ来てくれて 「ゆく夏や 別れを惜しむ ゆりの昼」と書いてくれた
其れを2人で相談して図書館に寄贈した  
出会い 毎日何かに出会う(風景、物、人等)  人との出会いが私はしたい  
究極は自分との出会い     自転車や車では駄目  歩くと言うのは考えると言うのとペースが近いし、人と直ぐ声を掛けられる だから山の中を歩くのではなく人家を歩く  
出会い(道であう) 出合い(出会って話して親しくなって心が通じる)  
「出合い」の出来る人は一時の「出会い」を大切にする

独学の道を選んだ理由?→何か人に教えて貰うより人生のページを毎日、本をめくる様にさあ次は何が出てくるのかなと思いながらめくってゆくのが楽しい事でしょう
子供達に言っているんですけれど、学校の先生になるのなら大学に行きなさい、アーティストを目指すなら一日も早く家を出て自分の道を探せと言っている
自分が人生を学ぶと言う事は誰も知らないことを一つ学ぶこと  皆が知っていることを沢山学ぶよりも皆が知らないことを一つ学ぶ方がそれだけで飯が食えると
一人は18歳でもう一人は20歳で家を出てそれぞれの道を探しました 
一人はシルバーの作家(彫金) 弟は革 (革の財布とか アクセサリーとか) 家を出てゆきました
地域での活動 地方の百貨店と共同で個展をやっている
  
110回になる 30年掛ったが、3m×8m壁面に大皿を100枚 並べて夜桜の絵を書いた
 皿の大きさは40cm~70cm 素焼1回本焼き一回 後絵が4~5回 合計6~7回 
これを100枚、600回~700回 梯子を登ったり降りたりした     
これからは毎年一作ずつ10年間やりたい これが夢です  
次は鶴の千羽鶴 組絵皿、今は知識を教える  私は生きる知恵を教える 
今は知恵を教える場が無い   
私は女運がいい 特に母親 12年間母は植物人間状態だが母には感謝している 
色んな意味での生きる力を示してくれている