玉田元康(歌手 ボニージャックス) ・人生はチャレンジ 90歳のソロデビュー
玉田さんは1958年早稲田大学グリークラブなかま4人でボニージャックスとしてデビューしました。 以来66年に渡って現役でステージに立ち続けてきました。さらに今月2日には、90歳にして初めてのソロコンサートを開き、朗々とした歌声で会場を魅了しました。 一方私生活ではここ数年に間に、最愛の妻とステージを共にした創設メンバーを相次いで亡くしています。 大切な人たちとの別れを越えて、90歳の今もチャレンジを続ける田村さんにお話を伺いました。
*「小さい秋見つけた」 歌:ボニージャックス
西脇久夫さん(トップ・テナー)、鹿嶌武臣(バリトン)の歌声も聞こえます。 鹿嶌さんはこの9月に亡くなりました。 学生時代から数えると70年になります。 西脇さんが亡くなったのは2021年です。 今は2人になってしまいました。
私の生まれは旧満州です。 北朝鮮に近い穏やかな暖かいところです。 両親は九州の生まれです。 満洲で成功した親戚が居て、父は中学を卒業までせずに満洲へ行きました。 母とはお見合い結婚しました。 僕が生まれた頃は坑木を扱い会社でも偉くなっていて羽振りは良かったです。 日本は敗戦となり満洲から引き揚げてきます。 1週間ぐらい野宿して、北朝鮮迄歩いていって、身ぐるみ剥がれたこともあり、38度線を越えてからも1週間ぐらい野宿しました。 仁川という港町迄たどり着いて、その途中でも脱落する人、亡くなる人がいました。 その時は12歳でした。 博多に着き故郷の天草に行きました。
祖父、両親ともに教育には熱心でした。 満洲にいる頃に山を買わないかと言われて、父が購入してそれを売って、僕の早稲田の学費にしてくれました。 兄弟は全部で6人いました。 兄は学徒出陣して、シベリアに抑留されて、僕たちが帰ってきた2年後に栄養失調で帰って来ました。 一番下の妹は若くしてがんで亡くなりました。 2人の姉と妹も音楽教師になりました。 早稲田大学に入ったら合唱はやりたいなと思っていました。 グリークラブの歌を聞いてすぐに入部しました。
ボニージャックスを形成して。第一回目のリサイタルは思い出に残っています。 スタートして5,6年でした。 熱気、拍手に感激しました。 妻は一つ年上で認知症の介護を10年ぐらいして見送っています。 僕が70代の後半に認知症だと判りました。 認知症の症状が段々悪くなってきて、介護していましたが厳しくなって、通いの介護施設に入れて、その後特養老人ホームに入り、その年の12月に亡くなりました。(2018年) 仕事で死に目にも会えませんでした。 私ら夫婦には子供が居ませんでした。 そのころ仕事も少なくなってきていました。 妻が亡くなった施設から新聞の求人広告がありまして、経験不問等ありましたが、70歳以下と書いてありました。 その時には僕は85歳を過ぎていました。 直談判をして入れていただきました。 いろいろな単純作業がありますが、他に「みんなで歌おう。」という事をやりました。 2019年12月から今でもやっています。 最初は週5日でしたが、今は週4日になり、歌の方を重要視してくれるようになりました。 懐かしい歌が多いです。 昔の歌が記憶の回路を繋げてくれると言いう事がある様です。
施設へ20分程度坂を登って歩いていきますが、それが健康にいいことだと思います。 90歳でソロデビューしました。 ためらいとかは無かったです。 大庭照子さん(NPO法人日本国際童謡館館長)からの後押しもありました。 西脇久夫さん(トップ・テナー)、鹿嶌武臣(バリトン)の分も頑張らなければという思いもあります。 ボニージャックス合唱団というのを作ってバックアップしています。 ボニージャックスも2人で続けていきたいと思っています。