2024年5月13日月曜日

桂小すみ(音曲師)           ・〔師匠を語る〕 三味線漫談家・玉川スミを語る

 桂小すみ(音曲師)           ・〔師匠を語る〕 三味線漫談家・玉川スミを語る

桂小須美さんは大学で洋楽を学んだあと、三味線の魅力にとりつかれて邦楽の世界に移ります。 そして修業を経て寄席の囃子として活躍していましたが、当時すでに大御所であった玉川スミさんの目に留まり、その芸を伝授されることになりました。 2012年に玉川スミさんが亡くなるまでのわずかな期間に、小すみさん伝えられた熱い思いをたっぷり語っていただきました。

音曲師と言うのは、寄席においては三味線を弾きながら歌を歌うという三味線音楽です。   玉川スミさんは芸の百科事典、生き字引といった人でした。 

大正、昭和、平成と90年近くに渡って演劇の世界で活躍した玉川スミさんは、1920年(大正9年)福島県郡山市生まれ。 生後間もなく両親が離婚し父親の元で浪曲を子守歌代わりに育った玉川スミさんは、幼いながらも浪曲を巧みに歌う天才少女と呼ばれたそうです。  その噂をききつけた女流歌舞伎の一座に入寮し初舞台を踏んだのは3歳の時、その後も10人以上の育ての親の元を転々とし、浪曲だけでなく民謡、舞踊、チンドン屋、サーカス団のブランコ乗りなど様々な芸能を経験し、習得します。 

戦後しばらくは3代目春風亭柳好さんから授かった桂小豆の名で、漫才師として寄席に出ていましたが、相方にめぐまれず昭和33年からは、一人で演じる三味線漫談を始めます。 芸名を玉川スミに替えたのは1960年(昭和35年)劇作家長谷川伸さんの門下生だったユーモア作家の玉川一郎さんから名前を授かりました。 幼いころから習得した様々な芸を盛り込んだ玉川スミさんの三味線漫談は独自の芸風を確立、120本もの扇子を使って松を表現する松ずくしという芸は1971年(昭和46年)文化庁芸術祭優秀賞にも選ばれました。 又1991年(平成3年)には勲五等宝冠章を受章しています。 晩年も舞台に立ち続けた玉川スミさんでしたが、2012年9月25日心不全のため亡くなりました。(92歳) 芸能生活90年を迎える直前でした。  

14歳までに13人の親が変っていたと言っていました。 稽古で頭をバチで殴られて7針縫ったというようなことも言っていました。  10代には失恋をして樺太の海に飛び込むとか、大変なエピソードがいろいろあります。  負けん気が強い性格でした。 2001年に国立演芸場で見ましたが凄すぎて、いろんなことをやりました。 三味線漫談、マジック、漫才、民謡に合わせて二挺鼓、太鼓の解説、日本舞踊、浪曲(一本刀土俵入り)と言ったものを一日で全部やるんです。 

桂 小すみさんは東京学芸大学教育学部音楽学科中学校課程卒業。大学在学時、在学中にウィーン国立音楽大学に国費留学、再び東京学芸大学に戻り邦楽の授業で三味線とお琴を学びました。 大学卒業後は長唄三味線方の杵屋佐之忠に師事。 その後国立劇場の大衆芸能研修生となり、寄席囃子の専門訓練を受けた後に、2003年落語芸術協会のお囃子になります。 2018年からは桂小文治門下に入り前座修行、2019年3月デビューしました。 これまでにも数々の賞を受賞していますが、今年は芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞しています。

ウイーンではミュージカルを専攻していたので、御芝居、バレエ、声楽などいろんな勉強をさせていただきましたが、洋楽の観点からも和風な観点からもすごく面白くて、自分もそうなりたいという思いはなく、絶対無理だと思います。 

*さのさいり?都都逸の一部  玉川スミ

三味線の稽古場があり、「さのさ」を教えてあげるという事で、玉川スミさんが先に弾いてその後弾いたら覚えがいいと言われました。(その前に何百回と見ているので、一応真似は出来たんですが)  前に聞いた歌が素敵だったのでどういうものか聞いたら、にあがり新内という事で、稽古をつけていただきたいと言いました。  OKを頂きましたが、凄く難しい歌だったそうです。 同じことを真似っこして歌うんですが、宇宙に飛んで行ってしまったような不思議な感じがしました。  その後に師匠がお客様の前で歌ってみて弾いてみてどんな節がいいのか、と言ったことを練ってゆくものだ、そういう勉強を売る気はないかと言われました。  20分の初高座に収まるような歌をいくつか教えていただきました。 そうこうしているうちに師匠が入院してしまいました。 入院中も指導があり、危篤に二度なっても元気になったりして、「貴方の初高座を見るまでは死ねないよ。」といって下さいました。 その一月後には亡くなってしまいました。 

私はオペラ歌手になりたかったが、声が上手く出なくて挫折しましたが、ミュージカルの方は楽しく歌えるようにはなりました。  その後、長唄など日本の歌を勉強しました。  貴方の声は日本の物に向いていると言われて凄く嬉しくなりました。  私は末廣亭に入ってから亡くなったことの連絡を受けました。 吃驚して直ぐに飛んでいきました。 

「興味を持ったものはどんなものでもいいから、全部一生懸命勉強しなさい。 いっくらやっても足りないから。」と言われました。  師匠の生き方そのものかもしれません。 鏡、着物など頂きましたが、大事に使っているのが木魚と「リーン」となるのが一つにくっついているものです。 念仏するときなどに使っています。 

玉川スミ師匠への手紙

「・・・スミ師匠に音曲師への転向をお勧めいただいてからおよそ7年掛かりましたが、お囃子の古田直美師匠と、桂小文治師匠、他皆さまのご支援、御指導のお陰様を持ちまして、音曲師桂小すみとして歩き出してからちょうど6年経ちます。・・・信じられない賞をいくつかいただきまして、私もびっくりしています。 ・・・ 私にお稽古つけてくださいながらスミ師匠が何度もバーッとデビューさせて皆を驚かしてやるとにやにやしながらおっしゃっていたのを思い出します。・・・ スミ師匠が私の長唄三味線の師匠杵屋佐之忠先生と長く前からのお知り合いだという事は吃驚するご縁でした。 ・・・ 先生たちが私が入門する前に大病患われており、奇跡の復活をされた時にたまたま私が入門しています。 

私に情熱的に三味線のすばらしさ、面白さを、演奏を通して稽古を通して教えて下さいました。・・・覚えの悪さを申し訳なさを思いつつ、いまは感謝の気持ちでいっぱいです。・・・生きている間は一生懸命はたらいて、死んでからゆっくり休めばいい、とスミ師匠が毎日言っておりました。・・・スミ師匠がどれだけ苦労されて、様々なことを学ばれたのか、その大変さは想像が尽きません。学校にいけなくても読み書きを覚え、6歳のころには着物の仕立てを覚え、いろいろな伺うことが一昔前の芸や暮らしの図鑑の様でした。  その大変さを微塵も感じさせず、強い負けん気と芸の力はいつも身体から溢れておいででした。・・・ 病床ですら芸事を教えていただきました。 ・・・スミ師匠いつもご指導ありがとうございます。」