2015年6月19日金曜日

東 ちづる(女優)        ・どんな”わたし”でも大切に生きる

東 ちづる(女優)           ・どんな”わたし”でも大切に生きる
1960年生まれ 広島県因島出身 短大卒業後、会社勤めを経て芸能の世界に入り、TVの司会やドラマ等で幅広く活躍します。
しかしその笑顔の裏で生きづらさを感じ苦しんでいました。
その原因が子供の頃の親子関係に在ることに気づき、母親とともにカウンセリングを受け、互いの心と向き合いました。
4年前生きずらさを抱えている人たちと、アートや音楽で活動する団体「Get in touch」を設立しました。

大手電機メーカーに入社、会社では販売促進、広報の仕事をしていました。
組織から離れて、季節労働者になろうと思った。
スキー、テニス、ウインドサーフィンに夢中になっていたので、春夏秋冬のインストラクターで食べていこうと思った。
先ず辞めてフラフラしていたら、タレントオーディションが有って飛び入り参加をし、芸能界に入るきっかけになった。
報道番組でレポーター、「金子信雄の楽しい夕食」に出演。
その後バラエティー番組などに多く出演する。
芸能界だけでなく自分自身の存在そのものが判らなくなっていた。
「お嫁さんにしたい女性有名人NO1」といわれるが、もやもやしていた。
独りになったら涙が出てきて、眠れなくなるし、早く朝になってほしいと思ったが、朝になると又今日一日が始まることが怖かった。
自分の中に二人いる様な感じがした。(明朗闊達悩みが無い自分、全く裏側の自分)

「夜の壁」の本 アダルトチルドレンという言葉が有り是は自分だと思った。
家族の中でなにかしらの理由で、自分らしく生きられないまま大人になった人。
父はアルコール依存症(ただただ酒の好きな人)、母が悪気なく完璧さを求め、長女だからと期待する。
母の言う事に対して無自覚に期待に答えていい子をやっていた。
いい人をやっていた、お嫁さんにしたいといわれるタレント、女優になって、そこで生きづらさを感じることになった。
肩書きを全部取ってしまったら、自分は何だろうと、結局どこかで役割をしてしまっていたり、誰かと比較したりしているかもしれない、誰かを目標としているかもしれないし、それと比較しているかもしれない、自分が判らなくなってしまっていた。

先ずはめちゃくちゃ本を読んで、心理学、カウンセリングの本、とか、読んで私がこうなったのは主に母が悪気なくそうしたという事が判って、母も、いい母、いい妻、良妻賢母を目指していた事が判って、親子の連鎖を立ち切ろうと思って母に話しかけた。(30代前半の事)
孫に対して、母の物差しを押しつけるのはどうかなといったら、母は「はあーっ」ですよね。
父は居場所が無かったのではと母に言ったりして、親子喧嘩3年だった。
もともと仲がいいだけに大変だった。
カウンセラーの人に「詰まらない優等生をやっていたみたいです、高校の時の記憶が無いんですよね」といったら、「よく頑張りましたね」と言われた。
「記憶を無くさないと貴方は自分を壊してしまう可能性が有った、それぐらい辛い思春期だったから忘れている、其れは自分を守るためでしたよ」と言われて、号泣しそうになったのをこらえて、トイレに入って泣いた。

これは何とかなると、母にカウンセリングを受けてもらおうと思った。(心理学者の長谷川博一さん)
途中から急激に変わって行った。
良い事は言えるが、ネガティブのことを言えなかった状況から、段々言えるようになった。
「私は辛かった」と言い始めて、いろんなことを思い出して、子供の頃におねしょが止まらなくて、そういったことまで先生に話した。(母は完璧を求めていた)
本当に母は変わりました。
否定しない、受け入れる、許す、これをやって行くのかと、言う。
途中で母を憎む、嫌いになる過程があり、これも悪い事ではないと思った母を好きでなければいけないと思っていた、許せないところもあるけど、とっても大事な存在と思えるようになった。

父は62歳で他界したが、亡くなってから一人の人間としての父を知らないと気付いた。
父が生きている間に、一人の人間、男性としての父と向き合いたかったと思った。
今は母は元気で若返った感じです、新しい扉を開いた感じです。
自分の人生は自分が主役になった。
私は自分らしく生きるようになって友達は滅茶減ったが、いざというときにはお互いが駆け付ける、理解しあえないところもあるが、心の癒しになるし、楽になりました。
相手を理解する事は出来ないと思う、でも理解しようとする気持ちが大事だと思う。
多様性社会、まぜこぜの社会を作りたいと思っている。
被災地の避難所がまぜこぜだった、日本の縮図だった、眼の見えない人、聞こえない人、歩けない人、寝たきりの人、外国の人、いろんな人たちが避難所に集まった。
マイノリティーの人は結果的に排除されてしまった。
普段からまぜこぜに成っていなかったから、どう対応していいのかわからなかった、、と思う。

Get in touch」をたちあげる。
大震災が有った時に、活動していて理不尽だったのは、縦割りだった、横のつながりが無い。
巻き込む活動をしようと思った。
仕事以外で繋がるのは難しい。
一緒にいる、排除しない、これが大事だと思います。
選挙に行かない様な人をどう巻き込むかと言う事で、アート、音楽、ファッション、美味しいもの等
わくわくする空間、時間を提供して、そこでまぜこぜの人間環境を作る。
まぜこぜは居心地がいいと感じる様になる。
違うという事を面白がる、興味をもつ。
日本は国土が狭いのでバリアーフリーにはならないが、だけど私たち自身にバリアーフリーが有ればいい、段差があったら上げてやればいい、白い杖の人にはどうすればいいか聞けばいい、色々な人がいるので聞けばいい。

どんな状況になっても、自分らしく生きていたい、自分の家族、愛する人、大切な人が自分らしく生きてほしい、みんながその方がいい。
見える人と見えない人、聞こえる人と聞こえない人、歩ける人と歩けない人、等々、全ての人が生きづらさを感じない方がいいわけです。
交流はあらゆる手段で出来る。(手話、筆談等)
遠慮は時として人を生きづらくさせる。
生きづらいということで死ぬことばかり考えた時期が有ったが、死にたいのではなく、生きていたいから生きるのがつらくなっていって、選択肢が無い様な気に陥ってしまう。
それと付き合いながら、今は生きるのが面白い。

イベントの時は300人のボランティアで1カ月前から何かあると大変と眠れなくなる。
夫は6年前ぐらい前から、難病指定になっていない難病になって、病名が判るまで2年掛かる。
ジストニア痙性斜頸 脳神経の病気で自分の思い通りに身体が動かない。
夫は2年間寝たきりだったが、いまは歩く事はできないが運転はできるようになりました。
覚悟はあったほうだが、病名が判らない病気になるとは思わなかった、判ったら治る前例が無いといわれて、治療法が無いと言われたが、直してやろうと思った。
弱音を吐かないとやっていられない。
どうして自分はこんなふうにならなければいけないのかと、夫が言ってくると思って、「今あなたはそういう問う時ではない、貴方が問われている、そういう身体になった時に、どう生きていくかと貴方は問われている」と言って、考えようどう生きるかという風に、考えました。
夫婦で一緒に泣くと泥沼になってしまいそうなので、そうならない様にしている。

「Get in touch」の目標は早く解散したい、その必要無くなる社会。
種をまくと必ず芽がどこかで出る、最近実感している。(10年、20年蒔いた種)