2011年11月20日日曜日

小沢竹俊(在宅クリニック院長)   ・寄り添う医療を毎日実践

小沢竹俊(在宅クリニック院長)    寄り添う医療を毎日実践
<概要>
世の中で一番、苦しんでいる人のために働きたいと願い、医師となりました
医療過疎地で従事した後、終末期医療に従事する目的で、平成6年よりホスピス病棟を有する
横浜甦生病院ホスピスにて診療にあたってきました
この間、約1300人の患者さんの看取りを通して、緩和ケアの大切さを学びました
どんな病気であったとしても、安心して最期を迎える社会にしたいこの思いから、在宅緩和ケアを
専門にするめぐみ在宅クリニックを開設
真夜中にお迎えが来れば何時でも出掛けるようにしている 
私に与えられたミッションだと思ってます  
元々救命救急センターに働いた時があり当時も24時間救命医師として
必要な状況があればすぐに駆けつけ診療に当たると言う事を常にしていたので特別な事をして
いる云う事はなく 思っていない
ここの診療所は外来もあるが 外来の力を入れるより 病院等に通えない人の為に仕事をしたいと
言う思いで普段仕事をしています
クリニックと云う看板があるが→なるべく落ちついている患者さんの場合には近くの先生に 
以前私が働いていた病院からの流れもありどうしても以前からの繋がりが
あってお断り出来ない場合は細々と外来を見ていると言うのが現状です

一旦はクリニックには来るが直ぐ訪問しています  
ここのクリニックは開業して6年目を迎えます 
去年は204名を看取っています 延べで750名を超えています (在宅での看取り)  
9割の方が癌で残りの1割の方が老衰に近い御高齢に伴う 病名的には心不全に当たります
最初は家に帰りたいだけど家族に迷惑をかけたくないから最後は病院に行きたいなあと願う方もいます 
家に帰ると病院と違って家族も自由に会える TVもイアホーンをかけずに聞ける 
好きな描や犬に会える 孫の顔を見ることが出来る
非常に自由度が高く 出来ればこのまま家にいたいな 介護保険 家にいる事が出来る
 85%が家で 15%が病院で介護の方が来てくれる

痛みや息苦しさを我慢させたくない 薬をあらかじめめ用意すると医師、看護婦がいなくても対応
ができ苦痛が無く過ごすことができる
これはこだわってやっている 在宅の一番難しいのは預けた人が段々歩けなくなる 
日本人の多くは矢張り自分で自分の事が出来ると嬉しい
当然トイレに行ったり顔を洗ったり ふろに入ったり当然当たり前のように出来ることが前提 
それが病気とともに足腰が弱くなり出来なくなる
これは辛い事であり家族に下の世話をさせたくない 
こういう苦しみを強く持ちます 
歩けた人が歩けなくなる苦しみは薬では取りきれない非常に大きな苦しみとして大事にしています
大事にしています この苦しみはしばしば家族に下の世話になるくらいなら早く死んでしまいたい 
早く先生向こうに行けるようにお願いできませんか

この苦しみにどう対応するかが問われます 励ましは殆ど通用しません 
足が動けなく手も生きててよかったなと思える可能性を探るしかない
これは医師等が一方的に与えるものではなく 苦しみはどんなに科学が発展しても人間の苦しみを
取り除く事は出来ない 
痛みであれば薬で対応できる が苦しみは薬(抗鬱剤等で)取り去る事は出来ない 
その苦しみを抱えながらその人が穏やかに今を生きる支えとは何かと云う事を実は大事にしています
苦しみを和らげるだけではなくて苦しみなりながらではその人がなお生きててよかったなあと思う
支えはどんなものがあるだろう     そういう発想をするんですね
すると苦しみが残りながらもその支えに気が付く時になおなんか穏やかな表情 
ああこういう自分でも生きてていいかな そんな
思いになることがあります
  
医療者、家族が一方的に思うのではなくて一人一人その人の心の
支え  そこを大事にキャッチしてですね
最後の瞬間まで一人の人間として生きていると言う事にどのように係わりどのように応援出来るか
 考えた時 ただ病気だけを診断し 治療する事とは異なる
もっと違った向き合い方があるだろう どうしたら苦しむ人と誠実に向き合い 
援助が出来るかと考えた時に なるべく判りやすい言葉で我々がやっている事を表現する
介護の人達、家族 いろんな人たちとの出会いを通して前のように自由にならない自分でも生きて
ていいなあと思ったらなお係わる可能性がある
患者の反応は→どんな反応であってもそこから出発します 
 
この仕事のポイントは相手の形に合わせる かつて宮本武蔵と云う人がいました
五輪書 戦いの中で相手に合わせて戦いましょう 水は容器に合わせて形を変えている 
戦う薬を探しその薬が継続できるように応援しましょうと言う
もう痛いのは嫌です もう後は痛みなく穏やかに過ごせればもう充分です 
そういう人が居たら一言応援します 痛みなく穏やかに過ごせるように応援しましょう
中には不安です 定期的に検査をしてほしい と云われればその様に応援します 
例え治せない状況であったとしても一人一人苦しみが違う状況の中でその違う生き方をキャッチして
それぞれの生き方を応援すると言う意味でどれだけ応援出来るか
こちらの思いを説明する応援ではなく どんな事を大事に生きてきたのかを丁寧に聞く事を出発とします 
苦しみを全て和らげようとは思わない 構えて何かこうしてやろうとすると大体うまく行かない  
先入観を持たないようにしている
苦しんでいる人が私達の事を理解者だと思ってくれたらいいんです 
相手の事を理解したと思った時に人は話を聞かなくなる
 
紹介状がある 初めて会う人にもう貴方の事を理解していますと言う姿勢で会うと話が聞かなくなる 
なるべくまっさらな気持ちで患者さんに会う 
悩んでいる事等何でしょうかと云う切り口から入ると相手の苦しみの形から入れる
表情から理解してくれるかどうか患者の心が判る  顔が穏やかになる 
私は2つ質問する 初めてこの病気を知った時にどんな事を感じたでしょうか? 
何故私だけこんな病気になったんだろう まだまだやりたい事がある 
何も悪い事は一つもしていない 何でこんな目に有ったんだろう ・・・こんな話を聞いて 
ワーっと話をしてくれる

今まで闘病の中で「支え」となった事は有りますか? 
いろいろ有る 家族です 家内(一人残すわけにはいかない) 孫(せめて小学校に行くまでは) 
関係の支え  (誰かとの関係 人、動物 自然 信仰等)
人は一人では弱い存在ですがそのひとの事を心から認めてくれる誰かとの支えとなる関係が
与えられると強くなれるんですね
まだやりたい事がある 老後の楽しみとして展覧会がある 毎年出品してきた 
今年も是非出品をしたい その将来の夢 の為に頑張って治療続けてきたという人もいる
これは 将来の夢  という支えです  人はただ単に生きていると言うのではなくて過去の様々な
体験から将来の夢に向けて生きようとします
例え夢が短くてもですか? はい  この特徴は将来の夢はこの地上とは限らない
  
先生私は戦争で多くの戦友を失いました 何故自分だけ日本に生き残って 帰って来たんだろう 
そう思いながら戦後 亡くなった戦友のことを思いながら
頑張って仕事をしてきました  不況もあったし会社が倒産しそうになって辛い事があった 
でも亡くなった戦友の事を思うとこんなことでくじけてはいけない
その思いで頑張って生きてきました だから亡くなったら戦友に会ってきます 
相手の支えを言葉としてキャッチしてその支えを強める援助ですね
其の死を超えた将来 向こうから大事な家族を見守る事が出来ると思ったらそれは大きな支えになります
知らないと言う苦しみ 不安がある場合には 知らないと言う不安な気持ちを聞いてみたい 
聞いたうえで不足な情報について安心できるように知らせる

病気よりも大事なことは介護だと思っています 段々食事が少なくなっても、足が動けなくなっても
 ちょうどいい食事が守られ ちょうどいいトイレの手伝い等が出来れば 
何も医師、看護師が24時間いなくても患者さんは家で過ごす事が出来る  という発想です 
どんな私であれば苦しむ人の良い援助者になれるか という思い  
良い援助者とはただ病気の診断と治療する人ではない という思いです
最初は患者さんの前でどのように係わったらいいのか判らない状態だった  
中学卒業までは絶対医者だけにはなりたくなかった
どんな仕事に着いたら幸せになれるか と悩む(高校) 
こんな自分でも他の誰かが喜んでくれたら その人の喜びを通して自分の喜びとしたい
もし自分がいる事で喜んでくれるなら その人を通して本当の喜びに近付けるのではないか
テレサの映画を見る→「確かにインドで多くの助けを必要としている 

しかし先進国 お金はある 
住む家がある 服はある そのような先進国であったとしても
必ず悩み苦しむ人がいる だから貴方はわざわざインドまで来なくてもいい 
貴方は貴方の住む国の最も貧しい人の為に使えて下さい」・・・これが彼女のメッセージですね
私は日本で一番苦しむ人の為に働こうと思ったんです 
どんな仕事が一番喜んでくれるだろうと考えた時に命にかかわる人に付きたいと思った 
将来医者になろうと思ったのが高校2年生の時だった (思いっきり変わった)
 医者になれたら人生を捧げますと祈った 今人生をささげています
もう一つこの仕事を選んだ理由は 医学部4年生の時に臨床実習と云って白衣を着て病棟に行
実習 癌患者と(当人は癌とは判らない)向き合った時に 
絶対嘘をつく事が出来ない 

そういう患者さんとどう付き合ったらいいか判らないので 当時上智大学でアルスホンド・デーケンス先生
のもとで生と死を考える会との出合い 
日本的ホスピスを考えると言う勉強をしていた  
直すことの大切さを学んだ 
一方直すことのできない苦しみを抱えた患者さんこそ本当の意味で苦しむ人に違いない
ホスピスが日本でまだ2~3か所しかない時代 横浜更生病院に入った事がきっかけ
どんな係わりをすれば力になれるのだろうと随分と悩む  
先ず学んだのは人は単に苦しむのではなくて苦しみを通していろいろ学ぶことがあると言う事を
学んできました

有る人は病気になる前は仕事人間、一旦は落ち込むが本当の自分の支えに気が付いて穏やかな
顔に変わっていく姿等を拝見しながら決して死と云うものが
目の前にしながら、なお今は穏やかに生きる人がいると言う事を徐々に学んできたような気がします
最初の頃は何でこの人は死を前にこんなに穏やかなのか、何でこの人はいらいらするのか
判らなかった  
この人はこんな支えがあるから穏やかなんだなあと思えるようになった