2025年1月31日金曜日

野村宏(大島青松園 自治会副会長)    ・「人間を捨てた島」で、人が生きた証しをつなぐ

野村宏(大島青松園 自治会副会長)  ・「人間を捨てた島」で、人が生きた証しをつなぐ 

香川県にあるハンセン病の国立療養所大島青松園で、88歳になった今も記憶を語り続ける野村宏さんとその記憶を後世に繋ぐ役割を担う青松園の学芸員都谷禎子さんお二人にお話を伺います。 ハンセン病はライ菌によって皮膚や神経が侵される感染症です。 感染力は弱く現在は治療法が確立された病気ですが、治療法がなかった時代には不治の病として恐れられ、かつて国は誤った隔離政策を取り続けていました。 強制隔離、差別、堕胎、絶望を生き抜いてきた野村さんの支えになったものとは、野村さんが人生をかけて伝えるメッセージを受け取った都谷さんの覚悟とはなにか、伺いました。

大島に来たのは中学卒業したばっかりでした。 隔離、撲滅のためにハンセン病に罹った人のすべてを隔離するのが、国の法律ですから、強制収容が酷かった。  私の場合は軽症だったので、新しい薬が出来たのですぐに帰ってこられるので、行って直してこいと言われました。 直ぐに帰れるものと思ったがそうではなかった。  もう一生亡くなるまでこの島で生活する、そういう事が大島に入ってから判りました。  私が入所した当時は入所者が700名ぐらいいました。 先生が5人、看護師さんが18人でした。  軽症者の人たちによって園内の維持管理がなされていました。 大工仕事、重症者の足の切断、義足製作、亡くなった人の火葬迄やりました。 一人の人を火葬するためには約100kgの薪が必要で、山から木を切ってきて、5~6人の薪を確保しなければいけなかった。

一緒に仲良く生活していた友達が自殺して亡くなってしまいました。(昭和30年)  8月9日の暑い時で安置所まで運びましたが、遺体の冷たさは今でも忘れることはないです。 そういう風にして数十人の人が亡くなっています。  私の身体も悪くなりましたが、結婚していたのでお互いに支え合って頑張ってきました。 私が結婚した昭和32年当時は21畳に4組が共同生活です。 金がないのカーテンもなしです。  妻が妊娠しましたが、堕胎されました。 堕胎した子供をホルマリンに浸けて研究室の棚に一杯並べられていました。 

妻も中学2年生の時に病気になりここに入って来ました。 妻は家を出てから一遍も家に帰っていないんです。  妻は8人兄弟でしたが、兄弟は妻が最初からいないものとしているんです。(後で判った事)  私も8人兄弟で、家には帰ることが出来たので、妻も連れて帰りました。 母からは「私が元気でおらんと、お前さんたち二人の帰って来る家が無くなってしまうから私は頑張る。」そう言われました。 今でもその言葉は忘れることは出来ない。 それが支えになりました。 

平成8年に熊本裁判に勝訴して、国はいつ帰ってもいいですよと言ってるんですが、我々はもう帰る家がないんですよ。 兄弟も親も亡くなってしまったり、高齢になってしまっている。  後遺症も残るのでいずれどこかの施設に入らなくてはいけないので、差別偏見は無くなったにしても自分で考えてしまう。  大島にいると安心するんです。  一番情けないのは、大島で亡くなって火葬されて大島に安置されますが、偽名のまま置いておくんですね。 骨になっても本名を打ち明けていない。  

平成8年にライ予防法が廃止されました。 その2年後にハンセン病の元患者たちは国の誤った隔離政策で」人権を侵害されたとして、各地で国に賠償を求めた裁判を起こします。平成13年(2001年)5月に熊本地方裁判所が国に賠償を命じる判決を言い渡ししました。  この裁判の原告団には当時の大島青松園に暮らす入所者のおよそ三割に当たる 59人が名を連ね、そのうちの一人が野村さんでした。  小泉総理の時代で、どうぞ控訴しないようにと言う事で総理官邸前で鵜割り込みをしました。 控訴を断念して私たちは勝訴しました。 あの時の嬉しさは忘れられません。 法律が廃止になって子供たちも来てくれるようになりました。 大きな戦いでした。 

園内作業をすると僅かなお金を呉れますが、それでもほしいんです。 作業賞与金と言いますが、刑務所で作業して貰える作業賞与金と同じお金を貰っていました。 70年ぐらいいてよく頑張ったなあと思います。  今納骨堂に2千数百人が安置されています。 見てもらうだけでもいい勉強になると思います。  

大島は、3年に一度開かれている現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」の会場の一つにもなり、国内外から幅広い世代の方が大島に足を運んでいます。 しかし今年1月1日時点で入所者は29人まで減り、平均年齢は87,2歳と高齢化が進んでいます。 壮絶な経験をした人たちの記憶の継承が課題となる中で、彼らの人生を残そうと奮闘しているのが島に常駐している専属の学芸員です。 

青松園の学芸員都谷禎子さんにお話を伺います。 野村宏さんは大島の生き字引みたいな方です。 着任が2018年3月で、7年目になります。 仲間との支え合いを大事にして生きてこられた方たちです。 人にとって一番根本的なことを学べる場所であろという風に思っています。  義務教育を終えていない年代で入ってこられた方たちが、どんなふうに大人が過ごしている世界を眺めて、どんな風に成長していったのか、そういった過程の話を聞いたりすると、胸に刺さる思いがあります。  ハンセン症問題はお子さんを残すことが出来なかったのがほとんどなので、やがて語り継ぐ人もいなくなってしまう。 100人居たら100通りの人生をきちんと残して、伝えていかなければならないと思います。 そこから多くのことを学べるように、一つのツールとして後世に活用してゆく事が、その人たちが語ってくれたことへの報い、お礼の形にもなるのではないかと思います。 

ハンセン病の療養所はアクセスの悪い場所になっています。 VRにして遠くにいる方でも大島の状況を知っていただくために活動しています。 五感をもってハンセン病の歴史を体感し、学んでいただきたいと思っています。  知ったからには、この職についている以上はちゃんと社会に還元していかなければいけないと強く思っています。 ここにいる人たちは仲間の死、自ら命を絶った人などを見送った方なので、凄く命の大切さを身をもって判っていらっしゃいます。  人が生きてゆくために、どの世代にも共通する大切なことを教えてくれる場所がここかなと思います。 生きるヒントを貰える場所という形で後世まで残していけたらと思っています。 







 


2025年1月30日木曜日

堀ちえみ(歌手・タレント)        ・歌うために 私は負けない ~舌がん闘病記~

堀ちえみ(歌手・タレント)        ・歌うために 私は負けない ~舌がん闘病記~ 

堀ちえみさんは1967年大阪府堺市出身の57歳。 第6回ホリプロタレントスカウトキャラバンで芸能界入りして、1982年潮風の少女/メルシ・ボク』でデビューしました。 1983年のテレビドラマ「スチュワーデス物語」で注目を集め、アイドルとして歌とドラマで活躍してきました。 2019年の1月に舌のがんを宣告され、舌全体の6割以上と左首のリンパ節を切除して、舌に太ももの組織を移植しました。 その後食道がんも見つかりましたが、そちらは早期発見の為に事なきを得ました。 舌がんからの復活の道のりは長く厳しいものでありながら、懸命なリハビリの結果みごと復活を遂げ。2023年にはデビュー40周年コンサートを行い、多くのファンの前で歌声を披露しました。 ご主人や7人のお子さん、その他周囲の人たちに支えられてがんを克服した堀ちえみさんに、歌手復活までの道のりやその思いを伺いました。

*「君といる世界」 作詞:堀ちえみ、作曲:杉真理  歌:堀ちえみ

昨年の4月に収録をし直しました。 昔とは違う歌唱法で歌わなくてはいけない状況になって、でも違う味を出せばかなと思って歌いました。  よくここまで来られたなあと自分でも思います。 明日もないかなと言う経験もして、子供達、家族のこと、歌のことが何とも言えないものが押し寄せてきて、命が存続できたあかつきには歌を歌いたいと思たのですが、命は助かったがしゃべる事すら容易ではありませんでした。 病気とまず戦って乗り越えられたら、これを糧にして素晴らしい人生に変えていくチャンスかなと思いました。

34歳の時は特発性重症急性膵炎、48歳の時が特発性大腿骨頭壊死症、2016年ごろからはリュウマチもありました。 リュウマチは今でもあって薬で調整しています。 病気には戦う病気と寄り添って付き合っていく病気があります。  舌がんは51歳、2019年1月に判りました。  ステージ4になっていて、痛みが凄くて戦わずして死をまとうと言う様な状況でした。 手術では5年の生存率は高いという事で、娘(16歳)からはもう一回頑張ってほしいと言われました。 自分だけの命ではないんだなと思いました。  リンパ節への転移があって、11時間に及ぶ手術でした。  舌の6割以上をカットして、太ももから組織を40cmぐらい切って形成して、無くなった舌の部分にあてがうようにして舌の代わりとして作っていただきました。  血管は繋がっていますが、筋肉とか神経は繋がっていません。 脳から指令が行ってもその部分は動きません。 残った部分で動かしているような感じです。

今迄しゃべれていたが出来ないもどかしさがありました。 今迄とは違う発声法と舌が上手く動かない部分、歯とか歯茎、頬の内側、唇などが補ってくれて音を出すようにしてきました。  母音は大丈夫ですが、子音があると結構大変です。 気圧、温度、季節、体温、自分のメンタルな部分なのか、いろんなことを自分なりに研究、実験してみましたが、判りませんでした。 冷やしたりすると血行が悪くなって良くないことは判りました。 夏の方が声を出しやすいです。 やればやるほど良くなってゆく事は判りました。 人生やることがあるという事は幸せなことだと思います。 家族がプラス思考という事はとっても大事です。  主人は超プラス思考です。 前向きな言葉で家族を明るく持って行かないとどうしようもなかったと後で言っていました。 「人生の悩みをシンプルにする50の言葉」という本を主人と一緒に出しました。 告知を受けた直後はプラスに持ってゆこうなんて思えない、不安しかない。 でも諦めないという事は大事だと思います。 

40周年記念コンサートに向けては、本当に出来るのかなとは思いました。 やると決めたらやろうと主人から言われました。 日程を決めて自分を追い込んでいきました。 しゃべるのと歌うのでは違います。 言葉がたどたどしいと、リズムに乗れない。 新しい発見があり、リズムに乗った方が話をしやすいという事でした。 メトロノームを使ってしゃべり出したら体も動いてきて、言葉も早くしゃべれるようになりました。 歌を歌う事によって得たプラスな事です。 コンサートで26曲歌いましたが、最後の方になってゆくほど調子が良くなっていきました。 

2023年デビュー40周年記念コンサートを迎えました。  泣かないようにしようと思いました。 「お帰り。」なんて言われたら大号泣になってしまいました。 「生きていてくれてありがとう、」という言葉がとっても嬉しかったです。 10分でも時間が惜しいし、10分あればいろんなことが出来ます。  年齢を重ねることはマイナスという風に思うかも入れませんが、今年も無事に誕生日を無事に迎えることが出来たという事は有難い事です。 すべてのことが有難いと感じるようになりました。 いい贈り物を頂いたと思います。 今後、もっと歌が上手くなりたいし、ライブで全国を回りたい。 出来る限りのことをやって楽しく笑顔で歩んでいきたいと思います。  

FUWARI」 作詞:堀ちえみ / 作曲・編曲:白山タカシ 歌:堀ちえみ

医療従事者、家族、周りの人たちへの感謝の気持ちを込めて書きました。













 

 








2025年1月28日火曜日

柳澤寿男(指揮者)            ・希望のタクトを振り続ける

柳澤寿男(指揮者)            ・希望のタクトを振り続ける 

柳澤さんは長野県出身、53歳。  旧ユーゴスラビアのコソボ共和国でコソボフィルファーモニー交響楽団の首席指揮者を務めています。 2007年には多民族の音楽家によるバルカン室内管弦楽団を設立しました。 かつて深刻な民族紛争が生まれた地で、音楽を通して共存共栄を目指したいという柳澤さんの願いが込められています。 こうした平和への活動が評価されて令和6年度外務大臣賞を受けました。 

日本とコソボの相互理解の促進やバルカン地域での共栄への功績が評価されたという事で外務大臣賞を受けました。 コソボフィルファーモニー交響楽団の首席指揮者になって17年が経ちました。 その間にいろいろな出会いがありました。  これも皆さんのおかげだと思っています。 表彰式は去年コソボで行われました。  戦後まもなくは生活自体が困難な時代でした。  コソボの音楽史をずっと一緒に作ってきたという思いがお互いにあります。  家族のように仲良くなって、授賞式にも来てくれて本当に嬉しかったです。 

コソボはバルカン半島の真ん中あたりの内陸国です。 かつて同じユーゴスラビアに属していたセルビアと深刻な民族紛争がありました。 2008年に独立を宣言、コソボ共和国になりました。 最初にマケドニアという国に知人の紹介でオペラの指揮をしてマケドニアに住むようになりました。 コソボ紛争が終わって間もない頃、国際機関の或る人がコソボにもオーケストラがあることを教えてくれました。 2007年3月に大事な演奏会があるので指揮をしてほしいと言われて、コソボと繋がって行きました。  演奏会でヴェートーベンの交響曲の第7番を振り終わった時に、凄い拍手が来ました。 知り合いの「バキ」さんというアルバニア人(アルバニア人とセルビア人の紛争だった。)の音楽家がいて、身内の方を2人亡くしていて戦争になったら銃を持って戦争に行きたいと言っていましたが、やはり自分は音楽家だからそういってはいけないと、これからは人に優しく生きていきたいと、涙目になりながら言ってくれました。  凄く嬉しくてコソボフィルハーモニー交響楽団の首席指揮者になって現在まで続いています。 

暮らしは限りなく大変でした。 電力が足りなくて一日の1/3は電気のない生活でした。  いつから停電になるのか判らない。  私が住んでいたのは細長い3畳一間みたいなところでした。(コソボフィルハーモニー交響楽団から借りてもらっていた。) 冬は暖房がないので外とおなじ寒さです。 健康な時には頑張れますが、一番大変だったのは一回盲腸になりましたが大変でした。  12時間以内に処理しないと死んでしまいます、と医師から言われてしまいました。  24時間後に何とか飛行機にキャンセルがあって、それに乗って行ってデュッセルドルフ(ドイツ)に行くことが出来て助かりました。 マケドニア時代は家族っで暮らしていましたが、コソボでは単身生活でした。 家族は日本に戻っていて、私が日本にたまに帰って、また戻る時にはこれで帰ってこれなくなるかもしれないという思いはありました。 「バキ」さんの言葉が有ったので、自分も一緒に何とかやりたいとい思いはありました。 

バルカン室内管弦楽団を設立し音楽監督を務めることになりました。 紛争以後痰民族での楽団になってしまっていて、何とか多民族での宗教とかを越えて共存共栄のオーケストラを設立したかった。  強い反対の意見などもありましたが、国連の支援の下に作って行きました。 2009年に初めてセルビアの方とアルバニアの方が合同で演奏するという事になりました。(立ち上げから2年)  演奏者は賛同者が多かったが、出来ないと言う様な人は多かったです。  演奏会をするにあたっては、3日前までは公表しないことと、名前は公表しない(セルビアの方とアルバニアの方が判ってしまうと危険なことがある。) 2009年5月17日に演奏会を行う事が出来ました。  川を挟んで南と北で行いました。 演奏会が終わると凄くお客さんが盛り上がりました。  国連の方がテレビの収録をしていましたが、メンバーにアルバニア人がいるという事を言うと、喜んでいたセルビア人のお客さん達がシーンとなりました。 

小さい頃親からピアノをやれと言われてピアノを習っていました。 小学校4年生の時にNHKのシルクロードのテーマがあり、クラスでやることになりました。 ピアノをやっていたのでアコーディオンを弾くことが出来ました。 家にヴェートーベンの交響曲第9番がありました。 レコードを聴いているうちに感動して涙が出てきてしまいました。 中学で吹奏楽部に入ってトロンボーンをやり、そこから本格的に音楽をやるようになりました。 高校、大学と音楽の道に進みました。 たまたまウイーンに旅行に行き、演奏会場に行きました。 小澤征爾さんの指揮によるウイーンフィルファーモニー交響楽団の演奏会でした。  演奏が終わった時には指揮者になりたいと思いました。  

2015年に音楽監督坂本龍一さんが東日本大震災復興支援のひとつとして立ち上げた東北ユースオーケストラですが、小学生から大学院生までの学生を集めて(120名程度)、坂本さんがピアノを弾いたりしながら、私が指揮をしながら、東北の震災をした子供たちが書いた詩を吉永小百合さんが朗読をしながら、10年やって来ました。 東北ユースオーケストラは震災復興オーケストラ、バルカン室内管弦楽団は戦後復興オーケストラで似ているところがあり、音楽を媒体に心の復興をしてゆこうという活動です。 坂本さんは病状が悪化いている中で私と連絡を取って指示してくれていました。  亡くなる前に声が出ない中で、東北の子供たちのことを思って、声を振り絞って「ありがとう ありがとう」と言ってくださって、凄く感動しました。  

ウクライナ、ガザとか世界中でいろいろありますが、中東にも思いを寄せて、バルカンの方々と一緒に平和を願ったコンサートを戦後80年の節目にしたいと思います。 平和の尊さをもう一度思い描いていきたい、音楽を通じてメッセージを伝えていきたい。
















 





















2025年1月26日日曜日

熊本マリ(ピアニスト)          ・ピアノも介護も楽しみながら

 熊本マリ(ピアニスト)          ・ピアノも介護も楽しみながら

熊本さんは5歳からピアノを始め、10歳で父の仕事の関係で家族と共にスペインに移り住みました。 スペインでは周りからピアノの天才少女と褒められピアノが大好きになりました。 14歳でピアにストになることを真剣に考えてレッスンに励みます。 1975年からスペイン王立マドリード音楽院で学び、スペイン青少年音楽コンクールで優勝、1982年奨学金を受けてジュリアード音楽院に入学、様々な賞を受賞して1986年プロデビュー、1991年にはスペインの作曲家フェデリコ・モンポウのピアノ曲全集の収録したピアニストとして知られています。 軽快なトークを交えたコンサートは人気が高く、世界的に活躍しています。  2012年には日本各地の民謡をピアノで奏でるアルバムをリリースしました。 来年はデビュー40年になります。 

10歳から17歳までスペインで過ごして、スペインは第二の故郷です。 フェデリコ・モンポウの作品を世界で初めて私は全曲録音しました。  モンポウはしっとりして神秘的で優しい心を癒してくれる音楽です。 

*「湖」 作曲:フェデリコ・モンポウ 

1964年生まれ、東京都出身。 5歳からピアノを始める。 ピアノは好きでしたが、練習は大嫌いでした。  10歳でスペインに引っ越しました。  ピアノを弾く子があまりいなくて天才だと周りから褒められてピアノが好きになってしまいました。  14歳になる時にピアニストになろうと決心しました。  手が小さかったんですが、お風呂のなかでストレッチをすれば伸びるといわれて、それをやって伸びてきたことと、工夫すること、選ぶ曲で十分対応は可能です。  指を怪我する事は駄目なのでスポーツ的なことはやっていないです。  褒められることは最高の喜びですね。  現在は大阪芸術大学で指導もしています。  その子によって、目的に合わせた教え方をしています。  大学で教えて16年になります。  話さなくてもその子の奏でる音楽で性格が判ります。 心理的なことまで出てきます。  他の楽器を聞いたり、オペラ、映画なのでリフレッシュします。 

父は新聞記者でした。 スペインでの生活は楽しかったです。 日本にいる時には恥ずかしがり屋で凄くおとなしい子でしたが、スペインに行って黙っていると相手にされないので、段々オープンになって行って、褒められて仲間が増えていきました。 ニューヨークに3年いて本当に自己主張しないと相手にされなくて、積極的になって行きました。 

脳梗塞に2回なりました。 1回目は血栓が出来て一瞬で終わりました。 2019年にコンサート中に発症してしまいました。  最後までやり切って楽屋から救急車で運ばれました。  入院中とても苦しくて話すことも出来なくて、何か聞きたいと思いました。   綺麗なメロディーでゆっくりな曲でした。  観客の側の弱い立場の人の気持ちが初めて判りました。  2週間で退院しました。   ピアノに対しての後遺症は全くありませんでした。  後遺症がすこしありましたが、段々治って行きました。  

父が95歳、母が93歳になります。 両親ともに身の周りのことは大丈夫です。 一瞬で違う世界へ行ってしまう事を脳梗塞で知りました。 毎瞬、毎瞬楽しまなければいけないと思って、したいことはする、言いたいことは言う、食べたいものは食べる、そういう考え方になりました。  入院生活を経て、完璧を目指していたものから80%でいいかなと、20%のこして 余裕をもって生きること、演奏する事にと思っています。 

旅をもってしてみたいです。 ジャマイカ、キューバ、とかいろいろ行っていない国に生きたいです。 日本の民謡をもっと世界に広めたいという思いもあります。 音楽が人々の生活のなかで役に立ったり、そういったことをもっと研究してみたいと思います。 鳥が好きでオームの研究をもっとしてみたいと思います。  

*「おてもやん」  ピアノ演奏:熊本マリ












2025年1月25日土曜日

平田満(俳優)              ・〔私の人生手帖〕

 平田満(俳優)              ・〔私の人生手帖〕

平田満さんというと1982年の映画「蒲田行進曲」のヤスを思い出される方が多いと思います。 その演技が高く評価され日本アカデミー賞最優秀男優賞などを受賞、その後も舞台、映画、テレビと活躍の場を広げて来ました。 平田満さんは1953年愛知県生まれ。  早稲田大学在学中に劇団つかこうへい事務所の旗揚げに参加、「熱海殺人事件」の刑事役など人気を集めました。  確かな演技に定評の或る平田さんですが、その原点は演出家、劇作家のつかこうへいさんとの出会いがあるといいます。 が、その後大きな戸惑いを抱えるようになります。 どの様にその日々を乗り越えて行ったのか、大切にしてきたつかさんからの人生訓などを伺います。 

「アンダーニンジャ」という映画が公開されたばかりです。 元々は漫画が原作。 高校生の学園もので、忍者もいる。 僕は高校の主事の役です。  昨年はテレビの連続テレビ小説の「つばさ」の最高裁判所の初代長官を演じました。  大学に入る前はお芝居とかとか全く関係ない生活をしていました。 大学に入って、新入生歓迎公演とやっている劇団がありました。 それを見た後打ち上げがあり参加して、その後入団することになりました。   半年もしないうちに自分には向いていないと思う様になりました。  恥ずかしいしセリフも言えない。 アングラ劇などをやっていました。  秋のつかさんの劇に参加するように誘われ芝居に出ることになりました。  即興性のある演技指導とかで、面白く感じました。  

「熱海殺人事件」では、気が付いたら毎年やっていたという感じです。 役ちゅうの人物が、表舞台、社会で注目されないような人物が多いです。 そういうのが向いていたと思います。  つかさんからは「お前がちゃんと生きていないから、芝居がつまんねえんだ。」みたいなことは言われました。 「客に媚びるな。」というも言われました。 客を意識してうけ狙い、つまり下品な芝居をするなという事で「芝居は品が良くなくてはいけない。」と言われました。 「お前の身体には哲学がねえんだ。」とも言われました。  生き方に見るべきものがないんだという事だと思いますが。  愛がないお芝居なんて観たくない、愛したり愛されたりることがない人生なんて、そこになんの喜びがあるんだろうと思っていたりします。  上手くいかなかったりすると、この作品、この本を愛してはいないんじゃないだろうかとか思ったりします。 

映画「蒲田行進曲」については幸せだったなと思います。 銀四郎を風間杜夫さん、小夏を松坂慶子さん、ヤスを僕がやりました。  これがなかったらこれまで俳優をやってこれなかったと思います。  その後テレビ、映画とかの仕事を頂く様になりました。  つかさんのころはセリフを覚えて言われたことをやれば、つかさんが作って下さって指示待ちでした。  引き出しがないので段々駄目になって40代のころになると芝居が少し面白くなくなってきました。 悩んで、事務所を辞めてフリーランスになって、仕事を捜しました。  

最近リーディングの仕事もしていますが、魅力は何でもできるという事ですかね。  舞台装置とか大掛かりになればなるほど形が決まって来ますが、リーディングは言葉しかないが、凄く遠くまで行けたり、時間も移動できるし、どんな人にもなれるし、とても自由な感じがします。  想像力が凄く搔き立てられる。  いろんなお芝居の原点を感じられます。
















2025年1月24日金曜日

谷川俊太郎(詩人)           ・〔ことばの贈りもの アンコール〕 詩人スペシャル対談

 谷川俊太郎(詩人)      ・〔ことばの贈りもの アンコール〕 詩人スペシャル対談

去年11月に92歳で亡くなった谷川俊太郎さんを追悼して、2018年に放送した谷川俊太郎さんと工藤直子(詩人)さんのアンコール放送をします。

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/06/blog-post.htmlをご覧ください。