2025年1月31日金曜日

野村宏(大島青松園 自治会副会長)    ・「人間を捨てた島」で、人が生きた証しをつなぐ

野村宏(大島青松園 自治会副会長)  ・「人間を捨てた島」で、人が生きた証しをつなぐ 

香川県にあるハンセン病の国立療養所大島青松園で、88歳になった今も記憶を語り続ける野村宏さんとその記憶を後世に繋ぐ役割を担う青松園の学芸員都谷禎子さんお二人にお話を伺います。 ハンセン病はライ菌によって皮膚や神経が侵される感染症です。 感染力は弱く現在は治療法が確立された病気ですが、治療法がなかった時代には不治の病として恐れられ、かつて国は誤った隔離政策を取り続けていました。 強制隔離、差別、堕胎、絶望を生き抜いてきた野村さんの支えになったものとは、野村さんが人生をかけて伝えるメッセージを受け取った都谷さんの覚悟とはなにか、伺いました。

大島に来たのは中学卒業したばっかりでした。 隔離、撲滅のためにハンセン病に罹った人のすべてを隔離するのが、国の法律ですから、強制収容が酷かった。  私の場合は軽症だったので、新しい薬が出来たのですぐに帰ってこられるので、行って直してこいと言われました。 直ぐに帰れるものと思ったがそうではなかった。  もう一生亡くなるまでこの島で生活する、そういう事が大島に入ってから判りました。  私が入所した当時は入所者が700名ぐらいいました。 先生が5人、看護師さんが18人でした。  軽症者の人たちによって園内の維持管理がなされていました。 大工仕事、重症者の足の切断、義足製作、亡くなった人の火葬迄やりました。 一人の人を火葬するためには約100kgの薪が必要で、山から木を切ってきて、5~6人の薪を確保しなければいけなかった。

一緒に仲良く生活していた友達が自殺して亡くなってしまいました。(昭和30年)  8月9日の暑い時で安置所まで運びましたが、遺体の冷たさは今でも忘れることはないです。 そういう風にして数十人の人が亡くなっています。  私の身体も悪くなりましたが、結婚していたのでお互いに支え合って頑張ってきました。 私が結婚した昭和32年当時は21畳に4組が共同生活です。 金がないのカーテンもなしです。  妻が妊娠しましたが、堕胎されました。 堕胎した子供をホルマリンに浸けて研究室の棚に一杯並べられていました。 

妻も中学2年生の時に病気になりここに入って来ました。 妻は家を出てから一遍も家に帰っていないんです。  妻は8人兄弟でしたが、兄弟は妻が最初からいないものとしているんです。(後で判った事)  私も8人兄弟で、家には帰ることが出来たので、妻も連れて帰りました。 母からは「私が元気でおらんと、お前さんたち二人の帰って来る家が無くなってしまうから私は頑張る。」そう言われました。 今でもその言葉は忘れることは出来ない。 それが支えになりました。 

平成8年に熊本裁判に勝訴して、国はいつ帰ってもいいですよと言ってるんですが、我々はもう帰る家がないんですよ。 兄弟も親も亡くなってしまったり、高齢になってしまっている。  後遺症も残るのでいずれどこかの施設に入らなくてはいけないので、差別偏見は無くなったにしても自分で考えてしまう。  大島にいると安心するんです。  一番情けないのは、大島で亡くなって火葬されて大島に安置されますが、偽名のまま置いておくんですね。 骨になっても本名を打ち明けていない。  

平成8年にライ予防法が廃止されました。 その2年後にハンセン病の元患者たちは国の誤った隔離政策で」人権を侵害されたとして、各地で国に賠償を求めた裁判を起こします。平成13年(2001年)5月に熊本地方裁判所が国に賠償を命じる判決を言い渡ししました。  この裁判の原告団には当時の大島青松園に暮らす入所者のおよそ三割に当たる 59人が名を連ね、そのうちの一人が野村さんでした。  小泉総理の時代で、どうぞ控訴しないようにと言う事で総理官邸前で鵜割り込みをしました。 控訴を断念して私たちは勝訴しました。 あの時の嬉しさは忘れられません。 法律が廃止になって子供たちも来てくれるようになりました。 大きな戦いでした。 

園内作業をすると僅かなお金を呉れますが、それでもほしいんです。 作業賞与金と言いますが、刑務所で作業して貰える作業賞与金と同じお金を貰っていました。 70年ぐらいいてよく頑張ったなあと思います。  今納骨堂に2千数百人が安置されています。 見てもらうだけでもいい勉強になると思います。  

大島は、3年に一度開かれている現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」の会場の一つにもなり、国内外から幅広い世代の方が大島に足を運んでいます。 しかし今年1月1日時点で入所者は29人まで減り、平均年齢は87,2歳と高齢化が進んでいます。 壮絶な経験をした人たちの記憶の継承が課題となる中で、彼らの人生を残そうと奮闘しているのが島に常駐している専属の学芸員です。 

青松園の学芸員都谷禎子さんにお話を伺います。 野村宏さんは大島の生き字引みたいな方です。 着任が2018年3月で、7年目になります。 仲間との支え合いを大事にして生きてこられた方たちです。 人にとって一番根本的なことを学べる場所であろという風に思っています。  義務教育を終えていない年代で入ってこられた方たちが、どんなふうに大人が過ごしている世界を眺めて、どんな風に成長していったのか、そういった過程の話を聞いたりすると、胸に刺さる思いがあります。  ハンセン症問題はお子さんを残すことが出来なかったのがほとんどなので、やがて語り継ぐ人もいなくなってしまう。 100人居たら100通りの人生をきちんと残して、伝えていかなければならないと思います。 そこから多くのことを学べるように、一つのツールとして後世に活用してゆく事が、その人たちが語ってくれたことへの報い、お礼の形にもなるのではないかと思います。 

ハンセン病の療養所はアクセスの悪い場所になっています。 VRにして遠くにいる方でも大島の状況を知っていただくために活動しています。 五感をもってハンセン病の歴史を体感し、学んでいただきたいと思っています。  知ったからには、この職についている以上はちゃんと社会に還元していかなければいけないと強く思っています。 ここにいる人たちは仲間の死、自ら命を絶った人などを見送った方なので、凄く命の大切さを身をもって判っていらっしゃいます。  人が生きてゆくために、どの世代にも共通する大切なことを教えてくれる場所がここかなと思います。 生きるヒントを貰える場所という形で後世まで残していけたらと思っています。