2024年3月29日金曜日

山本 學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕 朗読編

山本 學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕 朗読編 

山本學さんは昭和12年生まれ。(87歳) 1958年のデビュー以来存在感のある演技で活躍しています。 山本學さんがライフワークとおっしゃる朗読を再構成してお送りします。

「軍師官兵衛」で演じた快川和尚の言葉  織田信長は明智光秀に交渉に当たらせるが、快川和尚は断固拒否、焼き打ちという事になる。 ドラマでは心頭滅却すれば火もまた涼し」という場面はなかったです。 もしやらされたらこうだという感じでやってみます。

心頭滅却すれば火もまた涼し

吉田忠左衛門の辞世の歌  吉田忠左衛門は禄高200石で、忠臣蔵の中で侍とはどういうものかと命がけで主張して死んでゆく。 統領を補佐する役。 出陣の前に詠う。

「君がため 思いぞ積もる白雪を 散らすは今朝のみねの松風」  君=浅野内匠頭  

平家物語の冒頭の部分。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし。 たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

人間死ぬときはみんな同じで、「風の前の塵に同じ。」という、どんなに偉そうにしていても、でも皆生きてきたんだよと言う、なんか不思議な世界です。

高杉晋作  小唄  「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」  高杉晋作が唄ったとされる都々逸(どどいつ)の歌詞。


高村光太郎の詩を三篇読む。

記憶せよ、十二月八日

「この日世界の歴史あらたまる。

アングロ サクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

 否定するものは我等ジヤパン、

 眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治しろしめたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

 強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

われらの否定は義による。

 東亜を東亜にかへせといふのみ。

 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を摧かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

 老若男女みな兵なり。

 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 世界の歴史を両断する。

 十二月八日を記憶せよ。」 


終戦の時の詩

「一億の号泣」

「綸言一たび出でて一億号泣す

昭和二十年八月十五日正午

われ岩手花巻町の鎮守

島谷崎神社々務所の畳に両手をつきて

天上はるかに流れ来る

玉音の低きとゞろきに五体をうめる

五体わななきてとゞめあへず

玉音ひゞき終りて又音なし

この時無声の号泣国土に起り

普天の一億ひとしく宸極に向ってひれ伏せるを知る

微臣恐惶ほとんど失語す

ただ眼を凝らしてこの事実に直接し

荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさゞらん

鋼鉄の武器を失へる時

精神の武器おのずから強からんとす

真と美と到らざるなき我等未来の文化こそ

必ずこの号泣を母胎として其の形相を孕まん」

 

昭和22年の詩

暗愚小伝に中の「山林」の一部

「私はいま山林にゐる。

生来の離群性はなほりさうもないが、

生活は却て解放された。

村落社会に根をおろして

世界と村落とをやがて結びつける気だ。

強烈な土の魅力は私を捉へ、

撃壌の民のこころを今は知つた。

美は天然にみちみちて

人を養ひ人をすくふ。

こんなに心平らかな日のあることを

私はかつて思はなかつた。

おのれの暗愚をいやほど見たので、

自分の業績のどんな評価をも快く容れ、

自分に鞭する千の非難も素直にきく。

それが社会の約束ならば

よし極刑とても甘受しよう。」

高村光太郎は空襲で、智恵子と暮らした家も失い、岩手県の花巻で小さい家で独り暮らしを始める。  自分を見つめ終戦。

「一億の号泣」僕も聞いて泣きました。 
高村光太郎はそれまで体験したことがないような不自由な暮らしを強いられる。 土に親しむ喜びみたいなものも言っている。                            「山林」では非難する人は非難してくださいと言い切っている。 

戦中戦後、私も飢えを教えられたことは大きかったです。 

映画監督山本薩夫(叔父) 僕は医者の役でした。 エッセーを読みます。

「白い巨塔」を映画で発表したのが1966年。

「白い巨塔」エッセー 朗読

「私の撮ってきた作品を見てみると、権力というものに対して反抗してゆくような内容を持った映画には、自分でもなんか張り切ってぶつかってゆくようなところが見える。 だがそうでない作品になるとどうも気持ちが乗らない。 大映で1966年に撮った「氷点」などもその一つだ。朝日新聞に当選した三浦綾子の原作で映画は評判がよく、興行的にもかなりヒットしたものだ。 人間の原罪と言うモチーフとして展開される話の内容に戸惑い、私自身もう一つ乗り切れないところがあった。・・・ 山崎豊子の「白い巨塔」は派閥抗争に明け暮れる医学界の内幕を暴く中で、一つの権威を突くという要素を持っており、題材としても非常に面白いものだ。 ・・・私としても撮りたい作品のひとつであった。 ただ問題は撮影である。医学界の派閥や権威が絡んでどの病院も協力してくれない。・・・だが世の中には権威に対して反感を抱いている医者も必ずいるものである。 ・・・一人は日大病院の医者で彼がセットなどの面倒を全て見てくれることになった。 ・・・映画が嘘にならないように指導してもらったわけである。・・・手術はなかなかセットで撮影するというわけにはいかない。・・・ 東京女子医大の手術室を見せてもらう事にした。・・・偶然にも主人公のモデルになった医者がそこで手術をしていた。・・・映画では彼を悪として描いており、これはまずいなと思ったが、ここの手術室だけは貸してもらわないとならない。・・・ 日曜日だけを利用して撮影することに決めた。・・・たまたま噴門癌の手術の患者がいたので、不道徳なことだとは思ったが、私は撮らせてもらう事を頼んだ。・・・そして撮影されたのがこの映画のトップシーンとなった。 白黒にした。 カラーでは刺激が強すぎて出せなかったからである。・・・ 

病院内は色々な病院を撮影してつなぎ合わせた。・・・ 白い塔についてはやっと聖路加病院の許可を得たのだが、この病院の塔には十字架がついている。・・・十字架を上手く切って「白い巨塔」とした。  この映画はモスクワの映画祭に出品され、トップシーンの手術実写が残酷だと問題になり、グランプリには取れず、銀賞になってしまった。 ・・・ 医者で小説を書く人たちがグループを作っており、そこへ呼ばれていったことがある。・・・これまで医者を扱った日本映画はすべて嘘だけれど、これだけは本物だと言って褒めてくれた。 これはどんな賞を貰うよりも嬉しかった。・・・役者たちもよくやってくれたと思う。 ・・・ 世の中には派閥や権威に反駁している人間が必ずいるという事、そういう人たちの協力が無ければ、こういう映画は出来ないという事を、この映画を通して私はつくづく学ぶことが出来た。」 

映画を作る側は色々な苦労があるという事を知りました。 監督となると全体的な苦労があるんだなと思いました。 反骨の塊の人でした。

中原中也は長男文也を僅か2歳で亡くしました。 中也の悲しみは深く精神のバランスを崩し、療養所に入ります。 退院して一月後に発表したのが「春日狂想」でした。

「春日狂想」

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない


奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。

テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入(はひ)りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外(そと)はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。


ではみなさん、 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。

中原中也は可哀そうな人だったんです。 

「まぶしく、美(は)しく」となっていますが、いちいち説明するのも面倒なので、僕は「まぶしく、麗しく」と読んでしまっています。 僕は正確さよりもリズムを大事に思うので、詩を解説して読むというんじゃあないんですよ。








 


2024年3月28日木曜日

藤井フミヤ(ミュージシャン)       ・〔アート交遊録〕 アートワールド~藤井フミヤの世界

 藤井フミヤ(ミュージシャン)   ・〔アート交遊録〕 アートワールド~藤井フミヤの世界

ミュージシャンとしてだけではなく、画家としての顔を持つ藤井フミヤさん、1983年にチェッカーズのボーカリストとしてデビューし、当時の音楽シーンを席巻しました。 歌手として活躍する一方、子供のことから絵を描くことが好きだったフミヤさん、本格的な画家としての活動はデジタル技術を駆使したCG作品の製作からでした。 その後16年の長い沈黙の後再びアート活動を再開、油絵や水彩画にとどまらずシールや針金を使った作品を生み出し、海外や全国の美術館で展覧会を開くなど、クリエーターとしてのマルチな才能が注目されています。 今年に入ってからもデジタルとアナログで創造する藤井フミヤ展「フミヤアート2024年」を開催すると同時にステージでも全国で精力的に活動を続けています。 音楽とアートで時に甘美に時にファンタジックに表現の世界を広げ続ける藤井フミヤさんにお話を伺いました。

八戸市美術館で展覧会が開かれている最中です。 モチーフが女性が多いんですが、見やすいというのがあるのかもしれない。  自分でも作ってみようという気持ちになってくれたら嬉しいです。 ミュージシャンとしてのファンは40,50代ですね。 2世代目もいます。(30代)  材料も色鉛筆、クレヨン、針金、シールとかいろいろあります。 女性を美しく描こうと思っているんで、女神みたいな気持ちで描いています。 

音楽の成績などは良くなくて、美術は100点でした。 デザインとかに行くのかなあと思っていたら、テンエージャーのころバンドをやり始めて、音楽になって行きました。   子供のころは絵を描いたりするのが好きでした。  東日本大震災の時には歌わせてもらったり、チャリティーアート展をやって、それを全部寄付しました。 接して元気を貰うような気がしました。 チェッカーズを解散して最初にやったのがアートの仕事でした。   その後3,4年はデジタルアートを作っていました。  いろんなものに興味を持って自分が何者か判らなくなりました。 一回すべてやめました。 音楽だけをやることにしました。 趣味程度に絵を描いていたら、或る人が個展でもやってみないかと言われて個展をやったら反響がありました。 グッズとかも自分でデザインしたりしていましたし、パンフレットとかなんでも自分でやっていました。  

16年のブランクの後はアナログになってしまいました。 コンピューターで描くよりも筆で描いたほうが面白いと思いました。  油絵なども本を購入して勉強しました。  チェッカーズのころは週に5本ぐらいのレギュラー番組がありましたが、今は自分たちがでられる歌番組はほぼないです。  最初は真似ですが、自分のオリジナルを描くことが大切に思っています。 アンテナは張り巡らしています。 細密画、日本画も好きです。 伊藤若冲はブレークする前から好きでした。 一番最初は宗教画が好きでした。 何で厳粛な場なのに裸なの、という疑問がありました。  背中に羽が生えていたりして、宗教画にSF感を感じました。 最初のCGの作品もデジタル宗教画を描きました。 きれいな女性の裸婦を描くようになりました。(宗教くさくはない)  女神というイメージ、それと生命は意識せざるを得ないです。 生とセックスと死と。 アートは面白い世界です。

チェッカーズのボーカルとしてスタートしてから40年になります。 紅白に出場しましたが年齢は上から三番目になってしまいました。  グループで活動していた時には援護射撃が有ったような思いがしますが、一人になると自由な気楽さはあります。  音楽の世界は愛しか描いていない。(ラブソング)  歌は団体を動かす力、一体感といったものがあります。  音楽はもう仕事ですね、ライフワークと言うか。 ファンとのの長い付き合いもあるので「辞めた。」という訳にはいかない。  音楽も、絵もここまでに仕上げるというものがないと作品は中々上がらない。 

細かい作品を長い時間かけて描く時には首を保護するためにコルセットを付けてやっています。  水も飲まずトイレもいかず、気が付いたら4,5時間集中していたという事は結構あります。 画家は長生きが多いです。 ストレスがないのかもしれない。 歌もコンサートなど発散性はあります。 陰と陽と言った感じです。 40周年記念で全国を回って行こうとしています。 習っていないので油絵は一番難しいです。歌も時代時代で作りたいものが出てきてしまいます。 お薦めの一点。 衝撃を受けたのはバチカンの中にあるミケランジェロのピエタ聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする彫刻)です。 人間技ではないと思いました。 





















2024年3月27日水曜日

イトウマサトシ(編集者)         ・〔心に花を咲かせて〕 日本庭園の素晴らしさを発信

イトウマサトシ(編集者)      ・〔心に花を咲かせて〕 日本庭園の素晴らしさを発信 

イトウさんは「おにわさん」という日本庭園の情報を発信しているサイト、ホームページなどを個人で作って、庭園の魅力や情報を発信している方です。 IT関係の仕事をされているそうですが、日本庭園をめぐるのは大好きだったと言う事です。 「おにわさん」というサイトを2016年から始めました。 まだ10年経ちませんが、現在までに2000庭園を訪ねてその情報を載せているという事です。 日本庭園のどこに惹かれて何を発信したいと思っているのでしょうか。 沢山の庭を見続けていてどんなことを感じているんでしょうか。

趣味で日本庭園を巡っていましたが、日本庭園の情報が載っているウエブサイト、ホームページがあまり存在していませんでした。 そこでホームページを作りました。 交通情報などを含めて作りました。 写真と行き方を紹介出来ればいいと思っていました。  親しみを込めて「お庭さん」という名前にしました。 

日本庭園の魅力としては歴史、デザイン性と言ったものが好きでした。  植物、生き物、建築物とかいろいろ幅広く楽しむ事が日本庭園の魅力だなあと今は感じています。 最初は歴史的なものでしたが鳥とか花とか、毎回景色と自分が見るものが変って行っています。 どんな人が庭に手を入れてどんなところを見せたいのかと言うような事に、思いを巡らします。   

東京都では旧浜離宮恩賜庭園、東京にこんなに開放的な広い空間があるのかと感動しました。 江戸時代初期に作られた日本庭園で、将軍徳川家の別荘だった庭園です。 背景には高いビルが立ち並んでいて、東京ならではの懐の深さを感じます。 

新潟県の柏崎市にある貞観園という庭園が私は好きです。 国指定の文化財は200~300か所ありますがそのうちの一つで、柏崎市の山間部にある庭園です。 吃驚するぐらいの苔一面の庭園が広がっています。  元庄屋さんだった家のところです。 6月から11月ぐらいまで公開されています。 ぼーっとするには最適な場所だと思います。 

島根県の旧豪農屋敷に大きな枯山水庭園があります。 一面に白い砂を敷き詰めてその中に石を置いて歩ける庭園がいくつか残っています。 歩けるという事がとても面白いと思いました。 回遊式枯山水庭園です。 

日本全国には独特のデザイン性があるものがあります。 青森県独自の庭園のデザインの流派があります。 必ずその庭園に津軽富士岩木山をかたどった石を置き、それを拝むための礼拝石(平べったい大きな石)をビューポイントに置くという一貫したデザインがあります。 

京都で修業した方が各地散らばって行って、学んだことに地域の独自性を組み合わせていろんな庭園を造って行った。 どこに行きたいという場所が先にあって、どういうお寺が残っているとか、文化施設があるのか調べて行って、それを巡ると言う形です。 見つけた時の楽しみが大きいです。  島根県は面白い場所だと思っています。 松江市にはお茶の文化が強く残っています。  庭園文化が松江には残っています。  松平不昧(ふまい)公(7代・松平治郷は特に有名な藩主)は趣味であった茶道に傾倒して不昧流を創設。 お茶室が必要になるとお庭が必要、お菓子も必要となり、松江には和食の美味しい店が多いです。  歩ける枯山水庭園は冬は雪が降るので、飛び石は高くなっている。 

「おにわさん」には外国からのアクセスもあり、外国人が来るきっかけにもなっています。 6~7割は海外からのフォロワーさんになっています。 足立美術館を注目したのも海外の方です。 兼六園には年間300万人ぐらいの方が来ます。  有名ではない場所では年間1000~2000人程度になっています。 穴場が沢山あります。 個人的には海外の方から学ぶことは多いです。 海外の方には古民家の坪庭が物凄く人気があります。 私も坪庭にも興味を持つようになりました。 歴史のある坪庭を中心に紹介しています。 2016年から2000か所ぐらいになりました。 

少子高齢化が庭園に影響している点がいくつかあります。  所有者の高齢化、相続の問題で庭がつぶされてしまう。  庭師の高齢化などで管理が行き届かなくなる。  SNSをやっていると、海外の有名なロックミュージシャンの方が来日公演して、盆栽、日本庭園が好きで「おにわさん」をフォローして下さったり、映画監督、プロサッカー選手、建築家、美術家、アーティスト等がフォローしてくださっています。 若い方も見て下さっています。知られないまま時間がずっと過ぎてしまってゆくことが一番残念なことだと思うので、興味を持ってもらえることで、何か次につながって行くと思います。 

庭園の或る所(ビューポイント)で立ち止まってゆっくり回ると言う事をお勧めしたいです。  我々が思っている以上に、海外の方は日本庭園が凄いと思っています。 

















2024年3月26日火曜日

目黒祐樹(俳優)             ・父と兄に学んだこと

目黒祐樹(俳優)             ・父と兄に学んだこと 

目黒祐樹さんは1947年東京都出身。 6歳の時に子役としてデビューしますが、時代劇ドラマ「風小僧」に主演した後、一旦学業に専念し、アメリカに留学しました。 帰国後再び映画やテレビドラマで活躍しています。 父は時代劇の剣豪スターと呼ばれた近衛十四郎さん、兄は俳優の松方弘樹さんです。  

「チコちゃんに叱られる」に、出演したこともあります。 岡村さんと似ているとも言われますが、圧倒的に兄に似ているといわれ、又父に似ているとも言われます。父が近衛十四郎、母が水川八重子で兄が松方弘樹です。 父に撮影所に連れて行ってもらって、撮影所が遊び場のような感じでした。 子役の話があり、躊躇なく受けました。(6歳)  「やくざ狼」と言う作品でした。  主役が嵐寛寿郎さんで私がその息子役でした。 兄よりも何年か先に芸能界入りをしました。 嵐寛寿郎さんはとっても優しかったのを覚えています。 遊びの合間に撮影をするような感じで、撮影を嫌がったりするんで、撮影が中断すると大変なんで、よく嵐寛寿郎さんが機嫌を取ってくれました。 周りの大人たちはハラハラドキドキだったそうです。 

成人して時代劇シリーズで主演した時に、嵐寛寿郎さんがお寺の和尚さんとして出演していただいたことがあります。 或る時、遅れて行った時、2時間半ほどが嵐寛寿郎さん待っていて肩に手をポンと叩いて、「ユー坊おおきゅうなったな。」と言って下さって一気に涙でした。(20年以上振りでした。)  チャンバラごっこと言うとみんな鞍馬天狗になりたがるんです。 嵐寛寿郎さんの鞍馬天狗をやらせてもらって不思議なご縁を感じました。   嵐寛寿郎さんの立ち回りは日本一でした。 迫力があると同時に華麗で美しかった。 

勝新太郎さんとは撮影で一緒になったことはないですが、或る時にお会いすることが出来て、私のテレビ出演している時代劇を見て「よかった。」と褒めていただき一層フアンになりました。 いつ見てくれているか判らないと思うと下手なことはできないと思うと、そういう意識を与えてくださったと言う事には、大感謝です。 座頭市の立ち回りは凄いですね。 座頭市と言えば勝さんです。 勝さんに要望されて、勝さんの前で座頭市を歌った事があります。 座頭市シリーズでは必ず強敵が現れるが、座頭市が勝つんですが、相手が死ななかったのは、素浪人シリーズのうちの親父と三船さんだけは斬られなかった。 二人が右と左に別れて行くという感じです。  親父と勝さんの立ち回りを見て、相手の動き、気合いそんなものをお互いが感じ合いながら、立ち回りをやっているように見えました。  あの場面を見て幸せな二人だなあと思いました。(僕らには出来ない。) 

親父は存在感の塊みたいな人でした。 母親のお通夜の席で父親と兄と3人で飲んでウイスキーが5本空いてしまいました。 飲み終える潮時を母親がたしなめていましたが、もう母親はいないので、僕が言ったら、「なにい、お前みたいなものに言われる筋合いはない。」と僕を睨んで、周りの人々もシーンとしてしまって、その後に「 お前みたいなものは破門だ。」と言ったんです。 半年間破門状態でした。 或る時親父の背中が寂しげで小さく見えた時があり、その時に「言い過ぎてすみませんでした。」と謝ったんです。 今までこっちの顔を一遍も見ていなかったのに、ピッと僕の顔を見て「ウン わかりゃいいんだ。」と一言言いました。  急にいろいろしゃべりだしましたが、それから4か月後に親父は亡くなりました。 

親父の晩年の素浪人シリーズの「いただき勘兵衛旅を行く」では共演させて貰えたことがありました。 私には宝物です。 親父と兄、僕の立ち回りはよく似ていると殺陣師さんから言われます。 「矢張りDNAですね。」と言われました。  兄松方弘樹は2017年74歳で亡くなりました。 兄は子供のころはシャイでした。 ただ喧嘩は強くて学校を仕切っていました。  兄とは5歳違っていて、子供のころはとても敵わなかったですが、大人になって或る時ふっと相撲をとろうと兄が言いだして、やったら僕が勝ってしまいました。 相当ショックだったようです。 今年77歳になります。 身体には気を付けてウオーキング、プールで泳いだりしています。















 

2024年3月24日日曜日

キャロル・サック(デイレクター)    ・ハープの調べで、心によりそう

キャロル・サック(リラ・プレカリアプログラム・デイレクター)    ・ハープの調べで、心によりそう

キャロル・サックさんは祈りの竪琴と言われるアイリッシュハープを奏で、東京山谷の希望の家でのボアランティアなど多くの場所で人の心を癒す活動を長く続けています。 2011年3月の東日本大震災では、家も学校も教材も失った子供たちに希望を持っても貰おうと、「アイ ユー ウィー」という歌を作ってハープの音色に合わせて、子供たちと一緒に歌い励まし続けてきました。

ハープは心に深く届く音色だと思います。  ハープは何千年前から心を癒すために用いられてきました。(最も古いハープの記録は、紀元前4000年のエジプトと紀元前3000年のメソポタミアのものではないかと言われている。) 聖書の旧約聖書にもそういう話がります。    音楽死生学、アメリカではこういった学問があります。 1970年代から始まりました。  患者さんと1対1で向き合ってハープの音色と歌声を通して、貴方は大事ですよ、貴方の存在はとっても大事ですよ、と言葉なしで音楽を通して伝えようとします。 私たちが使っているハープは34弦です。 振動がとっても豊かで、患者さんの身体全体に伝わります。

アメリカ、ミネソタ州で生まれ、父親は牧師さん、母親は聖歌隊の指導をしていた。   人間にはみんな尊厳を持っていることは小さいころから教育されました。  大学では看護学、教育学を勉強しました。 21歳の時に音楽クラブの一員として日本に来ました。   歌が大好きでした。 日本が大好きになり、再度日本にきて嬉しかったです。 九州の高等学校で英語の先生をやりました。(3年間) アメリカに戻って結婚して、3人の子を設けました。 長男が生まれた後に日本に又来ました。 3歳でペダル・ハープに憧れました。 ハープに触ったのは40歳になった時でした。(中型の小さいハープ) 人前での演奏は諦めて、祈りとして病に苦しむ人のそばでハープの音色を届けようかなと思いました。 音楽死生学の学校がありました。50歳の時に2年間勉強しました。  音楽死生学の資格を持っているのは日本では私だけだと思います。 

東京山谷にある「希望の家」というホスピスがあり、毎週火曜日にボランティア活動で行きました。 むしろ自分が希望を与えられる気がします。 アメリカでは音楽死生学は臨床医学の一つとして用いられています。 日本人にも教えませんかという依頼が来ました。 パストラルケアーとしてはどうなのか、考え始まました。 身体的ケアよりも心のケア。  ハープはとってもふさわしい気がします。 2006年から12年間養成講座を行い、全国13都道府県で40名近い人が育っています。  終了した人たちが講師をしています。

患者さんと出会う時に、患者さんの過去は何にも知りません。 その人に何が一番必要かも知りません。 そのために私たちは知らない音楽、なじみのない言葉(スウェーデン語とかいろいろ)を使います。 日本語はほとんど使いません。 大事なことは患者さんの呼吸に合わせて奏で、歌います。 吸う時には筋肉が緊張します。 吐く時にはリラックスします。 リラックスするところに合わせようとしています。 患者さんが中心になります。   息と魂とスピリットの意味が同じです。 息に注意を向ける時はスピリチャリティーの実践ではないかと思います。 反応は眠く成ったり、涙を流したり、天井をぼーっと見て居たりしています。(心の旅をしているのかなあと思います。) 

山谷の患者さんからの手紙。

「最初は半信半疑だった。 2回目の時に今まで思い出したこともなかった父のことを思い出した。 親不孝をしたのかなと身体から感じ出した。 現実から離れてそれは地上の音楽ではなくて、天上の音楽、・・・こんな音楽を聞けたらいいことがあるんじゃないかと思ってしまうね。 楽園の入口にいるような。 こんな気持ちになれるんだって、自分でも驚いた。 俺も捨てた無んじゃないなと思ったよ。 」

「俺も捨てた無んじゃないなと思ったよ。」と言う一行が、私の人生の宝物と思いました。

東日本大震災の時には小、中学校にお邪魔しました。  「アイ ユー ウィー」と言う歌を作りました。  15分間で歌詞も曲も現れ、自分でも吃驚しました。 戦争をしましたが、実は私たちは兄弟です。 貴方は愛を求めている。 大事にされることが必要です。  私も同じです。 だから友達だけではなくて、本当は家族です。 兄弟です。と言った曲です。 

*「アイ ユー ウィー」  作詞、作曲、演奏、歌:キャロル・サック













2024年3月23日土曜日

三山ひろし(歌手)          ・日々小さな花を咲かそう

三山ひろし(歌手)          ・日々小さな花を咲かそう 

*「どんこ坂」 作詞:さいとう大三 作曲:弦哲也 歌:三山ひろし

1980年高知県南国市出身の演歌歌手三山ひろしさん(本名、恒石 正彰) 2009年「人恋酒場」で歌手デビューしました。 大ヒット曲「お岩木山」を発表した2015年からNHK紅白歌合戦に9年連続出場するなど、大活躍しています。 歌手として長年努力を重ねながらけん玉の普及活動にも余念がない三山さん、そうした人生を支える考え方を、デビューに至る家族の支えなど、エピソード盛沢山でお話頂きました。

けん玉を操りながらの登場。 デビュー15周年。 けん玉でも初めてのタイトルを頂きました。(社会人新人王) 「日々小さな花を咲かそう」と言うタイトルは自分で決めました。  夢と言うと壮大なものを考えがちですが、日々の達成はかなかなか感じにくい。  日々小さな目標を積み重ねて行くのもいいんじゃないかと思いました。  気が付いたら夢に近づて行ってるんじゃないかという事で、小学校でも話をしました。 「一所懸命」 今日は茶碗を洗おうとか、わずかな事でいいんです。 その積み重ねが前向きになれる。 生き生きとしてきます。 

自分が親になって、両親への感謝など出てきます。 小学生の時に母子家庭になり、育ててくれて、子守りは祖母がしてくれました。 母親は仕事に出掛けて愚痴一つ言わずに常に働いてやって来ました。 自分もそのようにやらなければいけないと、母親の背中が教えてくれました。 小遣いを欲しいとも言えないので、中学校では新聞配達を始めました。(5年間)  母親も「日々小さな花を咲かそう」と思ってやっていたのではないかと思います。母は常に笑顔で前向きで明るくて、僕も譲り受けているところがあると思います。    

2004年(20年前)祖母がNHKのど自慢に出て、優勝しました。 僕が3歳ぐらいの時から演歌歌手にさせたいとずっと言っていました。  僕が高校卒業するころにNHKのど自慢に出場しました。 鐘が二つで落ちてしまいました。 一旦諦めましたが、祖母が詩吟教室に通うようになって、僕もついて行きました。 再度NHKのど自慢に挑戦することになり今週のチャンピオンになりました。 節目節目で祖母が歌の道に導いてくれました。  海に向かって叫んで、歌って練習していました。  四国大会に行ったりすると3,4番でした。 四国大会で優勝して全国大会に行くと入らなかったりするんです。(23,4歳)  

高知は三方向が山で囲まれているので、「三山」にしました。 もう一つ意味があって、師匠の山が左右にあって、真ん中に自分の山があるんです。  真ん中に山を積み重ねて、高くなればなるほど綺麗な山の形になるという願いを込めて、芸名を考えました。 山を築くには土台をしっかりしなければいけない。 土台に欠けたところが見つかると、積み重ねないで、土台の部分へ手間をかけないといけない。 

けん玉の技は一見簡単そうに見えますが、積み重ねが非常に大事になって来ます。 「慌てず、焦らず、諦めず」という三つの「あ」があるんです。 集中力が大事です。 ちっちゃなことが凄く大事です。 歌の世界でも同じです。 息の取り方を間違えても、歌謡浪曲は歌えないんです。 10分ぐらいあるので、それを歌いきるという事は集中力が大事です。 「三山家とさ春」と言う名前で落語をやっています。 名付け親は「立川志の春」師匠です。 3年前から高座を務めさせてもらっています。 落語と歌謡曲が一緒になった作品がかつてはなかった。 新しく落語歌謡と言うジャンルを作りました。(昨年11月) 全体で9分です。  私とディレクターさん、編曲の先生、作曲の先生、詩を作ってくれた志の春師匠と5者でいろいろ練りながら作りました。 太陽のような光を照らせませんが、世間の隅をぽっと照らせるような、そんな灯りでありたいと思っています。(小さな花)