2025年10月16日木曜日

柳澤秀夫(元NHK解説委員)       ・現場主義の私が見る、これからの日本

柳澤秀夫(元NHK解説委員)       ・現場主義の私が見る、これからの日本

柳澤さんはジャーナリストとして世界各国の紛争地や沖縄、東日本大震災と言った現場を取材し伝え続けてきました。  NHK退職後はNHK、民放を問わずその経験をもとに今の時代をどう見るか、何を大事にしなければならないのか、発信を続けています。

 1991年の湾岸戦争の時に、トマホークが突っ切て行くのを指さしながら「トマホークだ。」と叫んで放送をしたことを思い出しました。  やっている時には無我夢中でした。  イラク戦争の開戦の時には石澤さんと台本もなしに、エンドレスでやることが当たり前でした。(いろんなことが起きた。)  生放送なので緊張感が忘れられないです。 

NHKでの経歴、初任地が横浜でした。  そこで人との信頼関係を作るにはどういうことなのかなと言う事を育ててもらったと思います。  二局目が希望通りの沖縄でした。 沖縄では5年いました。  1984年報道局外信部(現在の報道局国際部)に配属。 その後海外、バンコク、マニラ、カイロに赴任、カンボジア内戦、湾岸戦争などを取材しました。 2001年9・11アメリカ同時多発テロ、2003年イラク戦争など中東情勢の番組にも出演、「あさイチ」のレギュラー司会を担当、解説委員長も務める。 

記者は元々黒子の仕事だと思っていました。 「ニュースウオッチ9」が始まる時には、一旦お断りしました。(スタジオに入ったら記者ではなくなると思いました。)  上司から「やらないで後悔か、やって後悔するか。」と言われてどうせ後悔するならば、やって後悔しようと思いました。  情報番組と言う、自分の知らない世界に飛びこんでみるのも取材の一つかなと思って「あさイチ」で始めました。  湾岸戦争を自分の目で確かめたかった。  ひょっとしたら自分の命を落とすかもしれないという思いはありました。 何故戦場に記者が必要なのかと問われて、「戦争を止める力だと信じている。」と答えました。  戦争を始めた側は自分の都合のいい情報しか流さない。  大衆を騙してゆく。 それだと戦争は止まらない。  行ってそこで何が起きているのかを伝えなえなければいけない。  そこで一番つらい立場の人は弱い人たちです。  トマホークでピンポイントで攻撃するから、周辺の人たちには被害は限定的といいますが、実際の戦場を観たらそういうものではないです。 

今の戦争は兵隊が血を流すことなく、自分たちに被害を被ることなく無人の兵器で攻撃することになると、戦争のハードルがドーンと下がってしまう。  戦争に歯止めがかからない時代になって来ている。  ウクライナ侵攻では双方で無人機を使っているので、停戦の見通しがつかないという現実も、そういったところに一つの原因があるのかもしれません。 今の時代に主権国家が主権国家を攻撃を仕掛けて侵略するなんて、想像していませんでした。   日本でも備えは必要かもしれないが、もっと大切なのはそういった危機的状況にならないようにするための努力が大切だと思います。 (外交)  敵であろうと見方であろうと基本は対話です。  

通信が発達した現在は、さも対話をしてい居るかのような空間に自分をおいて、錯覚を起こしてしまう。  努力を惜しんでしまうと大切なものを失うと言う気がします。  コミュニケーションの基本はフェース ツー フェース だと思います。 

出身は福島県会津若松市で、小さいころから天体望遠鏡とアマチュア無線に夢中でした。  戊辰戦争で先祖が辛い思いをしたことがありますが、戦争を繰り返さないためにはどうしたらいいかという事を小さいころから教えてもらってきたような気がします。 これまでやってきた記者の部分と通じるところがあります。  歴史を振り返るといつの時代も戦争があり、繰り返されてきている。  ギリシャの哲学者で「戦争が終わったと言えるのは誰なんだろう。」という命題を掲げています。  それは「負けた人、戦争で死んだ人」だそうです。  これほど皮肉な言葉はないです。  戦争は死なないと終わらないのかと言う事。 でもそうさせないためにはどうするかと言う事をこだわり続けないといけないと思います。 

の掟」(ならぬことはならぬです) ((じゅう)は、会津藩における藩士の子弟を教育する組織。)  知らないうちに自分の故郷の道徳訓みたいなものが沁みついてしまっているのかもしれません。  

「夢を持ち続けて諦めずに前に一歩踏み出す。」それしかない様な気がします。 何年か前に「記者失格」と言う本を出しました。  伝えるという仕事にどこまで真剣に自分が向き合っているのか、ひょっとすると自分の自己満足、好奇心を満たすためにこの仕事をしてきたのかなと、自問することがあります。  自分が何か観たり知ったりしたら、観たり知ったことに責任が必ず生じると思います。  それが結局伝えるという事なのかもしれません。 

「記者失格」の「はじめに」の中で「・・・自らの不甲斐なさを意識しながら私は記者と名乗って良いのか、記者としてその名に恥じない生き方をしてきたのか、そんな自問自答をまとめたのがこの本である。 ・・・自分を裸にしてその自分と真正面から向き合う事がいかに厄介な事なのか、そんなことも思い知らされた。」  すべからく思いあがっては駄目だなと思います。  どんなことがあっても自分の謙虚な気持ちを忘れると、これから先のことが見えなくなるし、自分が見えなくなるだけではなくて、周りが見えなくなる。  離れたところから自分を見る目を持っていないと、取り返しのつかない、とんでもない間違いを起こすような道に入って行ってしまうのではないかと思います。 

時代と共に伝える手段は変わってきたと思います。  しかし共通しているのは伝るという事だと思います。  人と人との間でコミュニケーションをもって伝えてゆく事だと思います。 何を誰に伝えるのか、だれのためのものなのか、絶えず反芻しながら考え続けて行かなければいけない事だと思います。  大病をして、死の宣告に近いようなものをされると、健康があって全てなんだなと思います。 食生活も変わったし、自分の人生観も変わったし、毎日自分の家で三度三度食べられる有難さなど、実感するようになりました。  地域の健康診断で、実年齢は72歳でしたが、46歳でした。  過信してはいけないので、日々謙虚に生きたいと思っています。  

















2025年10月15日水曜日

柳原陽一郎(シンガーソングライター)   ・「さよなら人類」から35年、 ソロになって30年

柳原陽一郎(シンガーソングライター)   ・「さよなら人類」から35年、 ソロになって30年 

柳原陽一郎さんは1962年福岡県生まれ。 中学3年の時にギターを始め、大学生の時にバンド活動を始めました。  1984年ライブハウスで歌っていた時に、よく一緒になった石川浩司さん知久寿焼さんと共に、バンド名「たま」を結成、1989年テレビのバンドコンテストで優勝して、1990年5月に柳原さんが作詞作曲をした「さよなら人類」でメジャーデビューとなりました。 大ヒットして紅白歌合戦にも出場しました。 1995年たま」を卒業してソロで活動することになります。 ギター、ピアノの弾き語りによるソロライブや様々なジャンルのミュージシャンとセッションするなど、現在も精力的に活動して、今年ソロ活動30周年を迎えました。 

「さよなら人類」  作詞、作曲 柳原陽一郎

たま」は4人のメンバーがいて、それぞれ一人でも歌えるようなバンドです。(それぞれがシンガーソングライターでした。)   

もともと日本の歌謡曲が好きでした。  1975年中学1年の時にステレオが家に来ました。  エルトン・ジョンのレコードを購入しましたが何がいいのかよくわからなかった。  次にビートルズを聞いて、 次にクイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」が出て来てロックにはまっていきました。  中学3年の時にギターを始めました。 高校1年の時には曲も作るようになりました。  学校の成績もどんどん落ちて来て、世の中を斜めから見るような性格が形成され行きました。(高校時代)  大学の時、21歳のころたま」のメンバーと知り合い、 バンドを結成しました。  自分のペースでやりたいという思いはありました。   1989年にTBS系音楽番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に出場し、3代目グランドイカ天キングとなった。   

1990年5月5日、シングル『さよなら人類/らんちう』で、「たま」としてメジャーデビューしました。  同曲で同年末のNHK紅白歌合戦初出場しました。  この路線で進むのがきつくなりました。  たま」は5年で卒業し、ソロ活動に移っていきました。  

ソロになった自分が確立出来ていなかった。  あるスタッフの方から「一人で出来る様にならないと駄目だよ。」と言われました。 それから30年になりました。 しょうがない曲をいっぱい書きました。  抜け出すのに5年ぐらいかかりました。   創作J活動とライブを一緒にやるという事は結構大変でした。  自分に等身大の、人の根源的な悩みや喜びをちょっと書けるようになってから、逆に楽しくなって来ました。(それまでは楽しいと思った事は無かった。)  面白くなったのはつい最近でしょうか。  今後歳を取って、もっと声が出なくなってくると、それって自分の歌にはプラスになるような気がします。 
















2025年10月14日火曜日

楠木新(作家)              ・70歳からの生き方のヒント

 楠木新(作家)              ・70歳からの生き方のヒント

人生100年時代、定年退職後仕事を続ける方もいれば、のんびり過ごしたい方、趣味や習い事などに熱中している方もいると思います。 しかし70歳を過ぎると体力的にも精神的にも衰えを感じることが多くなると言います。 そんな70歳以降の生き方や生き生きと暮らすヒントについてお伝えします。

「定年後」の本を執筆していましたが、50代後半から60代前半に会社を辞めた後の取材をしてきましたが、私が今年71歳になり、生き方を変えてゆく必要があるんだなと言うことを、いろんな場面で感じました。  これからの参考にしたいという事を含めて、お話を聞いてきました。  2017年「定年後」ベストセラーになりました。 (執筆が60歳前後)  2013年に60歳で辞めるのか、65歳まで務めるのか、大きな議論になりました。 取材をして面白くてやめられなくなりました。  阪神淡路大震災とかがあり、いろいろ悩んで47歳の時うつ状態で休職しました。  復帰はしましたが、40代半ばから50代の人で、60歳の定年を迎えるにあたってに定年状態に陥る人がいました。 「心の定年」と名付けました。 人生が凄く長くなったという事で、60歳前後で私自身がこの先どうしていったらいいか感じ始めました。  60歳前後の人に取材して出したのが「定年後」と言う本でした。

60代の取材の時には現役の雰囲気が残っていましたが、70歳ぐらいの人はその雰囲気が消えていました。  その人たちが仕事の話はもうしなくなって、テレビ番組か、健康の話などでした。  70歳を越えると、個人として、地域のこと、活動範囲も狭くなってくるのでその中でどう楽しんでやれるかと、いう風に変わって来ます。  70代になって来ると①死について語るようになる。 ②小さい子がかわいくて仕方がなくなる。(男性に多い。)   ③考え方、体力のバラツキが大きい。   今持っているもの、あるものをどうやって大切にしていくかがポイントなのかなと思います。 

①本当の寿命、②健康寿命、③資産寿命、④労働寿命(雇用されるのではなく何らかの仕事ができる。)この4つが大事だと思ってきました。  でも70代の人に聞くと、人間関係寿命(人との関係、人とのつながりを持っておくこと。)が凄く大事だなあと思っています。   ある80代の人から「人とのつながりが無くなって行くことが老いる事です。」と言われた時に 、大事なんだなあと感じました。  家族のことで言うと配偶者との関係が大事だと言われます。 (急に良くしようと思っても難しい。 忌憚なくコミュニケーションが出来る夫婦がいい。)  SNSで月に決まった時間に家族、子供家族が一緒にズームで話をするという事もいいことだと思います。  

人との関係を増やしてゆくのに、5つぐらいのバージョンがあります。  ①仕事をする。(人の関係は必ずついてくる。) ②趣味(他の人とつながっていけるような趣味がよりよい。)    ③ボランティア、地域活動(多種多様のものがある。 地区町村のホームページなど参考になる。)  ④学び(書道、卓球・・・ クラブ活動) ⑤少しでも自分の好きなことが有ったら自分の足で動いてみる。   顔つき、雰囲気が重要かなと思います。(プラカードみたいなものです。 柔和な顔つき、雰囲気 笑顔)  物事には光と影の部分があるが、良いところをきちんとみられるという事が大事です。  同じ状況でも、本人のスタイルによって受けとり方も違うのではないか。(良いと思うか、悪く思うか。)

「毎日良かったことを必ず書いてゆく。」  それを続けることが大事。  そこから自分の興味あることを捜すという事もあるかもしれない。  いい面を観れるようになる。 今持っている「もの」、「こと」を大切にする、という事に繋がってゆく。  失ってゆく中でどう楽しんで過ごしてゆくか。  最後、自分との人間関係が良くなる。  最後は一人になる可能性があるので、その時の人間関係は自分だと思います。 






































 


2025年10月13日月曜日

芹洋子(歌手)              ・〔師匠を語る〕 ジャズ歌手 マーサ三宅を語る

芹洋子(歌手)              ・〔師匠を語る〕 ジャズ歌手 マーサ三宅を語る 

ホームソングのシンガーとして知られる芹洋子さんは、日本を代表するジャズシンガーのマーサ三宅さんにレッスンを受けていました。 マーサ三宅さんと芹洋子さん、どんなレッスンでどんなドラマがあったのでしょうか。

マーサ三宅さんは今年の5月に92歳で亡くなりました。  マーサ三宅さんは1933年中国東北部満洲国四平街(後の吉林省四平市)で生まれました。 父を早くに亡くしたマーサさんは終戦の翌年、母と二人で日本へ引き揚げ中学校に入学、卒業後日本音楽学校で音楽の基礎を学びながら、夜はアルバイトと言う生活を続けます。  昭和28年に音楽学校を出たあとは当時人気だったクラリネット奏者でジャズシンガーのレイモンド・コンデが主催するゲイ・セプテットの専属歌手となりました。  

独立したのちはテレビ、ラジオのステージでジャズを歌い続け、スイングジャーナル誌の女性ボーカル部門トップの座を保持し続けました。東京中野にマーサ三宅ボーカルハウスを開校したのは、昭和48年、芹洋子さんはじめ大橋純子さん、今陽子さんなど多くのスターを輩出しました。  1993年には歌手生活40周年記念リサイタルマイライフを開催し、文化庁芸術祭賞を受賞、2000年春の紫綬褒章に続き、2006年春には旭日小綬章を受章しました。 今年の5月に92歳で亡くなりましたが、生前にこう話しています。  「私にとってジャズとは人生でした。  だから夫でもなければ恋人でも親子でもない自分の人生ね。  息絶えるまで歌い続けたい。 」

私は歌が好きで、のど自慢番組とか受けて好成績でした。  1970年からNHKテレビ歌はともだち』に出て、3年間歌ったり司会をしたりしました。  母はがんで、受かったという事を聞いて亡くなりました。  コマーシャルソングの仕事をすることになり、今迄に700曲ぐらい歌ってきました。  商品名をはっきり言わなければいけないので、そういった癖がついてしまって、棒読みみたいな感じになってしまいました。 レッスンをすることになり、1972年にマーサさんのところに行きました。  「自分のありのままの姿を歌にしたらいいからね。」と言われました。  私の歌を聞いて学びなさいと言う感じでした。 ワイドにものが見れるようになりました。(音楽だけではなくて人間性の面でも学ぶことが出来た。)  歌うのではなく語る感じ。  歌う事よりも雰囲気、ムードを大事のしなさいと言われました。(今迄とは全く違った感じでした。) 褒められたことはたくさんあり、叱られたことはなかったです。  段々と自信もついていきました。 先生のステージを見るとレッスンと時とが全く違う先生がいました。  

1974年『愛の国から幸福へ』がヒット、以降『四季の歌』がミリオンセラーを記録、1978年の「第29回NHK紅白歌合戦」(歌は「坊がつる讃歌」)にも出場しました。 『愛の国から幸福へ』がヒットした時にはいろんな結婚式場に行きました。 四季の歌』では中国の愛唱歌になり北京に行って19回やって来ました。  (1992年交通事故により外傷性クモ膜下出血となり、意識は回復したものの逆行性健忘を生じ自身が歌手であったことや持ち歌すべての記憶を失う。しかし懸命のリハビリによって歌手として復帰。)  2000年にラジオ深夜便の10周年記念のイメージソング「夢」を歌いました。 

継続する事は難しいと思いますが、マーサさんは一途に継続してきたことに対して、尊敬をしています。  自分の道を究めるためには、周りの人の協力が必要だと思います。  マーサさんの周りの方々も凄かたっと思います。  その人の人生を変える言葉と言うものはあるんじゃないかと思います。  

マーサ三宅さんへの手紙

「・・・1972年初めてのレッスン、あの時私はとても緊張していました。・・・先生の甘い歌声にその時妙な安ど感を覚えました。 歌う事って、吐く息と吸う息、それに加えて止める息も大切で、その止た息の中に人間性が生きてくるのだと、それからのレッスンで私は学びました。  優しい心そして絹のような柔らかな歌声、マーサ先生にいつも尊敬の念を抱いていました。  今でも私はマーサ三宅さんの大ファンの一人です。 又私のそばで歌って下さい。」













2025年10月12日日曜日

宮川一朗太(俳優)            ・元妻を自宅で看取って

 宮川一朗太(俳優)            ・元妻を自宅で看取って

来年3月に還暦を迎える宮川さんは、高校生の時に森田芳光監督松田優作主演の映画「家族ゲーム」でデビュー、NHKでも多くのドラマに出演していますが、大河ドラマは「光る君へ」が初出演となりました。  私生活では30代で離婚、男手ひとつで子供2人を育てました。 この5月には2年ほど前に末期がんの元妻を看取っていたことをテレビ番組で公表し、反響を呼びました。 

「光る君へ」では藤原顕光役に出演。 40年近く俳優をやって来て、決まった時には光栄でした。 1話から48話(最終話)迄全部出ることになりました。(最後は77歳) 平安時代の作法が大変でした。  階段の乗り降りも常に左足からとか、胡坐をかくにも左足が表と言う感じです。  俳優になるきっかけは女の子にもてたかったからです。(中学2年) 高校1年の時に養成所に入って、1年後に受けたオーディションが「家族ゲーム」でした。 やる気のない状態でしたが、面接ではそれがかえって良かったようでした。 (主人公のイメージに合っていた。) でも主人公は松田優作さんでした。  部分的に取っていたものを試写室で観ましたが、なんて下手なんだろうと思いました。  落ち込んでいたら、優作さんが「それでいいんだよ。 天狗になるよりましじゃないか。」と言われて、いまだにその言葉を支えにやっています。

仕事がない時に、いかに自分に対して努力するか、という事を大事にするようになってきました。  歳を取るほど好奇心の塊になって来て、いろんなことをやってみたいです。  演劇塾「いち塾」を今やっています。  いくつになっても夢を追いかけることが出来ると言ったら、50代過ぎの方が結構入って頂きました。  

23歳で結婚、娘2人が誕生しました。  30代で離婚しました。  俳優と育児は大変でした。  地方ロケの時には、元妻の両親が近くにいたのでお願いしました。  成人するまでは子供たちから離婚したことは発表しないでほしいと言われました。 (7年ぐらい) 困っていることを打ちあける番組があり、子供達に相談してそこで公表しました。  この5月には2年ほど前に末期がんの元妻を看取っていたことをテレビ番組で公表し、反響を呼びました。   ステージ4で病院での治療もしたくないし、南の島の家にも帰りたくないし、娘たちも引き取りたいという事だったが、娘の家も遠いいので、病院から一番近いのがうちでした。  3月に家に来ることになったが、8月に次女に子供が生まれることがわかっていました。(初孫)   元妻を面倒見るという事に対しては凄く葛藤がありました。  元妻がやってきた日に長女が買い物に出かけるんで、見ててくれるように言われました。  観に行ったら上半身起こしていましたが、慌てて寝かしつけました。  翌朝長女が「もうだめかもしれない。」と言ってきました。  次女にも連絡をして、間に合うかどうかわからなかった。 介護の方が「今、脳が休もうとしています。」と言いました。  呼吸が止まってしまうと思えた瞬間、大きく息を吸ったんです。  それが最後の呼吸でした。 

東京で治療をするようになったのは、その半年ぐらい前でした。 何回かお見舞いに行き、会話をしていました。 そのうちに会話も出来ないような状態になりました。 旅立ってから、長女が遺品を整理していたら携帯でメッセージを送ろうとしていた未送信があるという事でした。  「見舞いに来てくれてありがとう。 とっても嬉しかった。」と有りました。  

これから60と言う新しいステージに入ってゆく訳ですが、これは新しいチャンスだと思っていますし、60,70代で物凄く活躍されている先輩が大勢いますので、私もその仲間に入らせていただくという感覚です。  























2025年10月11日土曜日

2025年10月10日金曜日

美谷島邦子(8・12連絡会 事務局長)    ・〔人生のみちしるべ 〕 ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から40年(初回:2021/11/12)

美谷島邦子(8・12連絡会 事務局長)    ・〔人生のみちしるべ 〕 ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から40年 (初回:2021/11/12)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/11/812-36.htmlをご覧ください。