榊原晴子(大学講師) ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編
榊原晴子さんは1951年東京生まれ。 結婚を機にアメリカ、カルフォルニア州に暮らし始めて、太平洋戦争中の日系アメリカ人の苦しみを知ります。 さらに品人のシベリア抑留のも関心を持ち、本格的に抑留の歴史や抑留者の証言を集めて、20年余りが経ちました。 以来カルフォルニアの大学で日本語を教える大学生と資料を纏めたり、帰国した時には日本で社会学や歴史を学ぶ大学生に講演したりして、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを伝え続けています。
講演する中で2005年生まれの彼らはシベリア抑留と言う言葉は聞いたことがあっても実際は何も知らなかった。 これからの日本の歴史を背負うものとして、何かできることは知ろうとすることだという感想もありました。 私のはシベリア抑留を経験した叔父が一人居ました。 満洲で終戦を迎えた時に、 突然侵攻してきたソ連軍の捕虜になりました。 強制労働のどん底の生活の中で、叔父はドイツ語の知識を生かして、ロシア語も学んで将校の通訳になりました。 1950年に最後の船で舞鶴に帰ってきました。 弾丸で前歯が全部撃ち抜かれていたそうです。 どうやって食べて生き抜いてきたのか? 叔父は自分からは何も話しませんでした。 若い頃は溌剌とした青年だったようですが、暗い影を落とすようになってしまいました。 60歳を越えて肺がんで亡くなりました。
私は結婚してアメリカで暮らすようになりました。 私の夫は日系3世です。 夫の家族の戦争体験を知りました。 義理の父親が日系2世(ジョセフ)です。 その親(榊原平治?)が明治28年にアメリカに渡りました。 1841年12月8日に真珠湾攻撃があって、日米開戦となりました。 ジョセフはアメリカ国籍を持っていましたが、榊原平治?はアメリカ国籍をもっていませんでした。 ジョセフはアメリカ政府からスパイ容疑をかけられました。 日本人の住民は「JAP」と呼ばれて蔑まされるようになりました。 翌年大統領令が出て、日系アメリカ人は全ての自由をはく奪されて、家にあったもの、それまで築いたもの捨てて、立ち退きを命じられました。 持って行けたものはスーツケース2つだけでした。 連れていかれた収容所は砂漠、荒れ地に建てられた掘っ立て小屋でした。 10か所ありました。
その後戻ってもかつての様な暮らしぶりにはなりませんでした。 仕事の再開も難しかった。日本語も使えなくなりました。 ジョセフは牧師志望だったので、神学校に行かせてもらえました。 広島の原爆のことを知って、戦後日本に戻って広島、長崎の家の復興に関わりました。 私は自分には何が出来るんだろうと深く考えるようになりました。 「何故家を出るの」と言うタイトルの歌を作りました。 英語で作って日本語にもしました。
サクラメントで偶然に写真家の新正卓さんとお会いしました。 新正卓さんはシベリア抑留の写真集としてまとめ上げました。 日系アメリカ人の強制収容所の写真集のために撮影をしに来ていました。 お手伝いをしたためにその二つの収容所が重なって来ました。 共通する事はそれぞれ収容所のことを語らなくなったという事でした。 シベリア抑留について調査をして「アメリカから見たシベリア抑留」と言う本を昨年出版しました。
シベリアからの生還者に直接会って話をするようにしました。 その中に政治家の相沢秀之さんにお会いして励ましを頂きました。 相沢さんは東京帝国大学法学部政治学科を卒業、1942年9月25日大蔵省に入省、その後陸軍に入る。 ソ連タタール自治共和国エラブガで3年の抑留をさせられる。1948年8月に復員。 大蔵省の戻って政治家として活躍。 引退後も一般財団法人全国強制抑留者協会の会長を務め、戦後の旧ソ連による抑留の「生き証人」として語り部を続ける。 妻の司葉子さんにはシベリア抑留のことは話していないそうです。 夜中にガバッと起きることがあったそうですが、後に抑留と関係があることがわかったそうです。 心身ともに最低の生活だったとおしゃっていました。 だから後にどんな厳しいことがあっても乗り越えられるという思いはあるそうです。 相沢さんとの出会いによってシベリア抑留について背中を押されました。