2026年3月15日日曜日

山内惠介(歌手)              ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

 山内惠(歌手)          ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

山内惠介さんは、1983年福岡県糸島市の出身。 高校1年生の時作曲家水森英夫さんに見出され、高校3年生だった2001年「僕はエンカな高校生」のキャッチフレーズでデビュー、2015年にNHK紅白歌合戦に初出場して以来、現在まで10回連続で出場。 2025年には第67回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。  演歌の貴公子と呼ばれ、ラブソングから硬派な歌まで親しまれています。  山内さんに「午前4時」に込めた思いや、節目の年デビュー25年を迎えた気持ちなどを伺います。

深夜便の歌「午前4時」を作っていただきました。 「午前4時」っていうのはほっとする作品です。  詩を書いていただいたのが、直木賞作家の桜木紫乃先生です。「午前4時」と言う題名の割には、「午前4時」という言葉が入ってないのでお伝えしたところ、入れていただきました。 演歌に関してはこぶしをつけるということですけれども、この歌に関してはあまり必要のない作品です。 ですから極力意識して抜いています。 自分が歌うことで緑の草原、ふるさとの風景みたいものがファーっと浮かぶことができれば、伝わってるって言う証拠なんだと思います。 ステージで歌っててわかる時もあれば、わからない時もあります。 「午前4時」と言うこの作品は難しい歌ですね。 さらっと歌うと言うのが1番難しいです。

高校生でデビューして伸び悩んだ時期もあり、辞めたいと言うものがありましたが、辞めたい時期は俺がやめろと言うから、と先生から言われました。     先生とはほぼ30年近い付き合いになりますが、いまだに何かがあったら先生からいろんな言葉をいただいています。 「生きるという事は地獄道なんだ。」と先生から言われました。 ステージ、コンサートは、僕の発散させる場所でもあるわけです。 それは歌い手の醍醐味かなと思います。  

コロナ禍のときにはこの先どうなっていくんだろうなと思いましたが、助けてくれたのはフアンの方ですね。 オンラインライブなどをやってます。 出会いは広がりました。 紅白歌合戦には2015年から10年連続で出さしていただきました。2025年は止まってしまったと言うのは、僕にとってはちょっと落ち込んでしまいました。自分がもっと穏やかになりたいと言うのが課題ですね。 短気なんですよ。喜怒哀楽を表現するので、自分で自分の空気の入れ替えをできるようにならないといけないと思ってます。

僕は曹洞宗で25分のCDがあって、それを楽屋で聞いています。(法話)     30周年に向かっては若さとは違う、自分の武器みたいなものを持っていたいです。  渋さとか味わいのあることを歌っていたい。 

*「この世は祭り」 作詞:松井五郎 作曲:村松崇継            最初この曲のタイトルは「明鏡止水」でしたが、「この世は祭り」と言うふうに変わりました。





2026年3月14日土曜日

飯田未希(立命館大学教授)         ・戦時中、外地で就職した女性たち

 飯田未希(立命館大学教授)         ・戦時中、外地で就職した女性たち

飯田さんは、戦中、戦後の新聞、雑誌の記事や投書、企業の社員誌、個人の手記等丹念に徹底的に調べる手法で、戦時中の女性たちの実像をつかむ研究を続けています。 その飯田さんが去年「女たちよ天使を抱け 戦時下 外地で就職する」と言う著書で、戦時中にもかかわらず、海を渡って外地、中国や南方にある軍の施設や企業で働いた若い女性たちにスポットを当てました。 女性たちは、なぜ戦時中に海を渡って就職したのか、どんな体験をしたのか伺いました。

2020年に「非国民な女たち 戦時下のパーマともんぺ」と言う本を書きました。 戦時中にもかかわらず、髪にパーマをかけ、スカートときにはミニスカートを履く人たちがいた事など、したたかにおしゃれを楽しんだ姿を明らかにしました。 その飯田さんが、「女たちを大志を抱け 戦時下 外地で就職すると言う本を書きました。 調べていくと、ドレスメーカーの女性たち、タイピスト、電話交換手、そういった仕事をするために、外地に渡っている人たちがいると言うことをわかりました。

多くの求人は満州、中国北部とかの交通会社、電信電話会社その他の会社が多かったです。 最初に求められたのは高学歴の女性たちでした。 東南アジア地域が日本軍によって占領されて、占領された地域に出て行った女性たちもいます。 軍で働いたり満鉄とか、鉄道会社に就職した人が多かったです。 1930年代後半には満鉄では10万人近い人を雇用していました。 1945年頃には20万人近くになっていました。 その1割が女性だったと言われています。 

タイピストは高等女学校卒の高学歴の方が多かったと言われています。 電話交換手は高等小学校卒が多かった。(外国語用に大学卒もいた。) 総動員令が敷かれ、女性も多く働くようになっていきました。 女性たちもお国のために外地で働くと言う新聞記事が出たり、女性たちもそういう意識になりました。 どうせ南方に行くならば、少しでも戦争を感じられるところに行きたいと言う様なことも中には言ってます。 女性の仕事は、男性の補助者だと言うような見方がされていました。女性の立場は、内地より遅れていたかもしれません。 「満州の女」とか「大陸の女」とか、偏見で見られるようなこともありました。 

内地ほどの締め付けがないので、いろんな服を着ていたりはしてました。 日本語を教えるために行った女性たちに対して、これが日本婦人だと言うことを現地の人に教えなさい、と言うようなこともありました。 西洋化されていた現地では、なかなか受け入れられなかったようです。 中国で戦況が悪化していって、前線に近いところへ行かざるを得ないようなと思いました。 

中国に渡った女性たちそれから南方に渡った女性たちも、戦後すぐには日本には帰れませんでした。 南方に関してですが、タイピストとかで働いていた女性たちが危険に会うといけないと言うことで、臨時看護婦と言う形で、戦後現地にしばらくいた女性たちが結構いました。 女性の軍属も、山の中をさまよったと言う話もあります。 外地に働きに行った女性たちは座談会などでも、結構自己主張があって面白いです。 今の人よりも元気なんじゃないかなと思います。

2026年3月13日金曜日

落合恵子(作家・子どもの本の専門店 主宰) ・「“わたし”を生ききる覚悟 後編

落合恵子(作家・子どもの本の専門店 主宰) ・「“わたし”を生ききる覚悟  後編

後編、子供の本を主催する専門店として、まもなく50年と言う落合恵子さんに絵本と人生について伺いました。

子供の本の専門店を作ったのが昭和51年31歳の時に誕生させました。 子供の頃に本って、こんなに面白いもんだと言うことを知りました。  母と接した中から、人は本を記憶とし、同時に人の大事な部分の要素は本からもできてるのかなと思います。  東京に母が私を連れて、アパートの1部屋で生活を始めたのが最初の東京の日々でした。   

母が台所の仕事を終えて私の寝ている布団に潜ってきて「さぁ、絵本の時間ですよ。」と始まるんです。  大事な私たちの親子の儀式でした。そこには必ず絵本がありました。 本って、自分にとって大事な栄養になるからねと買ってくれたのを覚えています。  子供の絵本の専門店は、その後オーガニックレストランや八百屋さんとか食べ物屋さんケーキ屋へ発展させました。  500何十人の応募者から30数人がケーキおばさんになってくれました。 その時の最も若い子がまだいらっしゃいます。

そこで誰かと出会う、本と言う誰かと出会う、何かと出会う場所ではあります。 10代の秋の日に母からもらった言葉「される側の人と柔らかく、手をつなぎなさい。」と言う言葉  あなたは残念だけど、差別される側の子供かもしれない。  だからこそいろんな場面で、される側の人で柔らかくつながって離してもいい、また繋げばいいそれを頑張りなさいって言うふうに言われました。 私が本とであったのは4万から5万だと思います。  今ちょっと焦っているのが、本がどんどんなくなっていってしまうということです。 

大好きなものを1冊でいいんだよと伝えたいです。 好きな本のうち1冊が「お休み僕」。  これは「がんと生き切る。」でも紹介してるんですが、部分と全体、人間の体は部分でできているけれども、全体を忘れてはだめだよね、と病気の人にとっても意味があります。 人は全体で生きてるんですが、病気になるとある部分がクローズアップされてしまう。でも全体を忘れるのはだめです。 

2冊目は2010年初版長田弘さんが原稿を持ってきて本にしたいということです。   長田さんの書いた詩の最初の読み手は、連れ合いである瑞枝さんと言う方です。その瑞枝さんが入院されている。 花と木だけをまとめました。 あと数日と言うところで、瑞枝さんは残念ながら亡くなってしまいました。 死ではなく、その人が自分の中に残していった確かな記憶を私は信じる。 自分の中に亡くなった人が記憶を残してってくれた。 それを信じて、私は今ここに生きていると言う、死と言うものが、ありありと私たちに教えてくれるのは、その人と自分の間にあった絆であると言うふうに長田さんはおっしゃってます。 

3冊目は(書店さんにない本。) 「ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯」 ハーレムに本屋さんを作った。 ニューヨーク7番街に1939年に小さな本屋さんを作ったルイス・ミショーの生涯を描いたものです。 どうして僕たちには僕たちの本がないのか、アフリカ系の人間がアフリカ系に向けて書いた本があってもいいと言うことで本屋をやろうと決めます。 色々な人たちがその本屋さんに来ました。 キング牧師も来ました。 気がついたら彼は70代になっていた。 癌になって彼は考えます。  一体自分がやった事は誰の役に立っているんだろう。 ただただ忙しく働いてきた。一体どこに向けてメッセージを発信してきたんだろう。 でも答えが出ました。 

若い男が近づいて、私はあなたの店で父に医学についての本を買ってもらいました。 あなたは「この子は医者になるといい。」と言いました。  1冊の本が彼を医者にさせることになりました。 彼は、古くからの友人のように、私の背中に手を回した。 私は涙が溢れて、私は赤ん坊のようにワンワン泣いてしまいそうだった。  本って、そこに1冊あればあっちともこっちとも繋がれるすごいものです。

扉が1個開くとこっちも空いてないなと、気づいて全部開けちゃうって言う感じでやってきました。 子供専門店は今年12月5日に50周年になります。  その間にもいろんなピンチがありましたけれども、続けてこられました。  次の世代に手渡していかなければいけないと考えるようになりました。 その社会において、最も声の小さい側の人が、声の出せる、みんなに伝わる社会でありたいと思います。 

外に出るのがしんどくなってしまっている人が、土をいじったり、自分が食物、食べ物を作ることができたらどんなにいいかなと思ってます。  病を体験することによって風景が違ってくるものってありますね。  それらは書いていきたいと思っています。  変わってないものとしては、「悲観にも楽観にも傾かず。」です。  私は自分の人生に大好きな3冊の本があればいい、大好きな3本の木があればいい、大好きな3つの料理があればいいと思ってます。 そばが好きです。 「癌と生ききる、悲観にも楽観にも傾かず」を自分の真ん中に置きたいと思ってます。






2026年3月12日木曜日

藤原稔三(映画監督・プロデューサー)    ・「人生は生き直せる」

 藤原稔三(映画監督・プロデューサー)    ・「人生は生き直せる」

映画監督藤原俊三さんがメガホンを取った映画「ミックスモダン」はベルリン国際映画祭で注目されました。 この映画は、藤原さん、自身3本目の映画でメジャーデビュー作となりました。  映画「ミックスモダン」は少年院から出た少年を周囲が再生させて行くと言うもので、現在上映中です。 4月にはフランスでも公開される予定です。 藤原さんは23歳で黒澤明監督の「影武者」で俳優デビュー、その後様々な映画、テレビなどに出演して、俳優として順調に動き出しました。 しかし38歳の時に、舌癌を患い舌の1部を切除する手術を行って、それまでのような発声喋りができなくなりました。 俳優としての仕事は諦めざるを得なくなり、すさんだ生活をするようになりました。 しかし、それを救ってくれたのが映画だったといいます。 作ることならできると、プロデューサーや映画監督として仕事をするようになったのです。 映画監督であり、俳優、保護司でもある藤原俊三さんに伺います。

「ミックスモダン」 映画館で、自分の作品が一般公開は全く初めてです。    2月7日公開、今回が3本目の映画です。 映画のタイトルが「ミックスモダン」、「ミックスモダン」はお好み焼きに焼きそばを一緒に入れて焼きそを挟むように焼くものです。 映画の内容は、罪を犯すことでしか自分を感じられなかった少年が主人公ですが、お好み焼き屋の夫婦に会って、生きる意味を見つめていくヒューマンドラマ。 お好み焼きを営んでいる夫婦が、元受刑者や少年院の出身者を雇いながら、社会復帰の手助けをしている。  主人役を、私がやってます。 

映画監督、出演俳優、脚本、プロデューサー、編集の5役をやってます。 学生時代は8ミリで自主映画を作っていました。 30年前ぐらい舌癌になりました。 放射線治療をやってました。 一旦収まったんですが、再発してしまいました。 舌の両側にできて片方を切除しました。 仕事ができなくなってしまいました。  23歳の時に、黒澤明監督の「影武者」でオーディションに出て受かりました。 「乱」にも出ました。 北野武監督の「あの夏、いちばん静かな海」にも出演しました。    俳優の仕事が順調に行くようになりました。 舌癌になってしまい事務所もクビになりました。 芝居の本を書くようになりました。 舞台の台本も書きりました。 ワークショップで、ユニットを作ってメンバーはいろいろ変わりますけれども、40歳の頃からだんだんやり始めました。 その後映画に取り組み、2002年に「シアター」、「空の裏側」を2014年、「ミックスモダン」が2025年と言うことになります。

1956年生まれ、現在69歳です。 大阪で綿織物の工場を営む経営者の孫として生まれました。(三男) 6歳の時に会社が倒産しました。 父親は働こうとせずやけ酒を飲んでました。 母親はため込んでいたへそくりを使って喫茶店を始めましたけれども、父親は邪魔をしたりしました。 中学、高校、大学と暇さえあれば映画館に通ってました。そこで本を書く事、映画に関することが勉強出来ました。 経験が今の本や映画になっていると言う感じです。

子供が犯罪を犯して周りがどう支えたらいいのかとか、悪い思いなんかみんなないのに、それが社会ではうまくいかないと言うような、すごく大きな問題を抱えた映画と言うふうに思います。 彼らのお父さんお母さんとまず仲良くなると言うことをすごく大事にしてます。 仲良くなることで絶対息子さんは変化があるはずだと僕は信じているんです。 

僕は高校で停学するようなことをしましたけども、ずっと親は見てくれていて見捨てなかった。 それは今の自分のベースになってます。 僕が保護司として担当した少年の半分は、小学校、中学校で勉強があまりできなかった子です。 でもできなかったんじゃなくて、やる感情がなかったと本当に思います。 できない子じゃなくて、やるチャンスがなかったんだと、それだけなんです。 ちょっとした環境の違いで、やるチャンスをもらえなかったと言うのは、段々その子たちが集まって、悪さをし始めてしまうと言うことだと僕は思います。  映画を通して多少なりともこういうことをわかっていただいて、広がっていけばうれしいなと僕は思います。




2026年3月11日水曜日

垣添忠生(日本対がん協会会長)       ・「Dr.カキゾエ みちのくの沿岸を歩く」

垣添忠生(日本対がん協会会長・国立がん研究センター 名誉総長) ・「Dr.カキゾエ みちのくの沿岸を歩く」 

垣添さんは3年前82歳の春に、東日本大震災で被災した沿岸を南北に走るおよそ1000キロの「みちのく潮風トレイル」を歩き抜きました。 多くの出会いを得ながら歩みを進めるその姿を追ったドキュメンタリー映画「Dr.カキゾエ歩く処方箋」が今全国で順次公開されています。 がんの専門家でもある垣添さんがなぜみちのくの沿岸を歩こうと思ったのでしょうか。 旅の途中で出会った震災で被災した人やがん患者達との交流からどんなことを感じたのでしょうか?

参照 https://asuhenokotoba.blogspot.com/2012/02/blog-post_15.html

1941年生まれ、今年の4月で85歳になります。 がんの専門家でもあり、連れ合いをがんでなくした患者遺族でもあり、さらにはご自身もがんと戦ったがんサバイバーでもあります。 現在は国立がん研究センターの名誉総長でもあり、日本対がん協会の会長として、がん予防や検診の推進、患者や患者家族の支援、がんの正しい知識の普及や啓発などに取り組んでいます。

何故東北を歩くようになったのか、8年位前に全国がんセンター協議会に加盟している32施設、南は九州から北海道まで半年かけてずっと歩きました。(2500キロ位。)その前に妻を亡くした後で四国のお遍路を3年がかりで歩きました。 2022年にドキュメンタリー映画監督の野澤和之さんから、私の書いたものに感動したと言うことで映画を撮らしてほしいと、できるならば歩いて欲しいと言われました。 それでみちのくトレイル1000キロを歩こうと思いました。 この道は青森県の八戸市から福島県の相馬市までの1025キロ。  北山崎、浄土ヶ浜などが印象的でした。 岩のところに松が生えていて植物とは強靭なんだなぁと思いました。

一瞬にしてご主人とご主人の両親を失ってしまった方とか、酒のお店をやっていて「負けねぇぞ気仙沼」と言うラベルを作って、一升瓶を売って、何とか店を立ち直らせたとか、その他いろいろ凄い体験された方に出会うことができました。 岩手県の大槌町吉祥寺と言うお寺の高橋住職にお話を伺いましたが、その一角では2000名近い方が亡くなったり、行方不明になったりもしてます。 巨大な苦しみや悲しみをどうやって一人の身で受けられたのかと聞きましたらば、どんなに忙しくても夜5分でも10分でも座禅を組んで、自分の心を空っぽにしたと言ってました。

3時間、4時間の睡眠時間が続いたと言うことでした。 無私の精神、仏教徒の原点を見たような気がしました。 若い女性の方の両親と姉さんが津波で行方不明になってしまって、私も人の役に立つ仕事をしたいということで、薬剤師になって戻ってきたときに、心臓発作でなくなってしまったと言う女性がいました。 お寺でお預かりしてると言うふうに住職はおっしゃってました。 こういう苦しみ悲しみに会っている方が無数におられると言うことを強く思いました。 乳がんの女性は私を追いかけてきて、15年化学療法をやっていて、頭がすっかり髪の毛が抜けてしまった方がいまして、明るい方でそれだけの苦しみを耐えてきて、お話できたと言うことがありました。その方も亡くなったと言うふうに、お姉さんから連絡がありました。

俳句を作っています。

「春風に防潮堤の遺構立つ」?

「二人の子授かり災後十二年」(被災した時には高校生だった人。)

「災後十二年千の話千の意味」 (伺った話が全部違う。)

俳号は冬瓜(ガンと戦う)

「がん語る女性の顔に春日さし」?(15年がんと闘ったった人への句)

私は大腸癌を内視鏡で切除して、早期発見だったので1日も仕事を休まずに直してしまいました。 妻の昭子も癌で亡くなりました。 二つのがんは直しましたが、三つ目の小細胞肺がんと言う、肺がん4種類の癌の中で1番の悪い癌が見つかりました。 再発して抗がん剤治療をやりましたが、癌が全身に広がっていきました。  妻は自分の余命が3ヶ月位であると言うことを自覚しました。 

ほとんど動けなくなった時に家で死にたいと言いました。 あら(魚)鍋を食べたいということで作って、大きなお茶碗2杯おかわりしておいしいと食べました。  苦労して家に連れ帰りましたが、家に連れてきて本当によかったなぁと思いました。 その翌日12月29日から意識が途切れ途切れになりました。 31日の朝から完全に昏睡状態になりました。 呼吸困難であえていましたが、夕方6時15分突然妻が半身を起こして、私の方を見て自分の右手で私の左手をぎゅっと握って、その後心肺停止になりました。 言葉にはならなかったと思いますが、ありがとうと言って亡くなったと思います。

亡くなった後、妻との対話が一切できないと言う事は本当に辛かったです。   亡くなってから3ヶ月間本当に鬱状態だったと思います。 心を紛らわすためにウイスキーとか強い焼酎を飲み、泣いていました。 よくあんな状態でアルコール依存症にもならず、肝臓も痛めないでこっちの世界に戻って来れたと思います。    仕事はやっていましたけれども、私は仕事は普通にやってるつもりでしたが、周りからは声をかけられないような雰囲気だったと言ってました。 百箇日の法事を過ぎた頃から、腕立て伏せ、腹筋、背筋の運動を始めました。 だんだん生活も規則正しくなってきました。 

1年がかりで見かけ上普通の生活に戻れましたが、やっぱり心の底には深い苦しみ、悲しみは残っています。 そういう経験をすると他者に対して寛容になると思ってます。  癌になった人の苦しみ、悲しみの心情がよくわかるようになったと思います。 いろんな被災の経験者が、どういう状況からどうやって立ち直られたのかとか伺っていくと、すごい勉強になりました。 

毎朝予定よりも1時間早く起きて家でトレーニングをやってます。 腕立て伏せ110回、軽い腹筋500回、スクワット10回ずつツーセットとか相撲の四股を10回とかやってます。  最初のころはそれほどはできませんでしたが、妻が亡くなった、2007年以降ずっとやってます。 人間と言うのは歩くことが1番体を健康に保つためには大事だと思います。 毎日家から事務所まで片道3300歩往復6600歩、歩いてます。 他に歩いているのを足すと10,000歩なんて軽く行きます。 

私は完全高齢単独世帯者です。 家で死のうと思ってます。 往診してくれる良い先生を見つけられました。 玄関ドアを遠隔で施錠したり開錠したりできるように変えました。 信託銀行にエンディングノートのサービスがあって、書類の手続き、スマホ、カード、パソコンの解約とかを全部代行してくれます。 今度のトレイルでだいぶ無理をしたので右膝を痛めました。 

私が思ってきたのは、がん検診の受診率を上げることです。 早期発見すればもう普通の病気ですから。日本に組織型検診と言って、台帳管理をして対象の年齢の人はみんな受けてもらうと言う体制を導入したいと思います。 これは法律をいじらなくてはいけないので大変な作業なのでその方向性だけでも実現したいなと思ってます。 ガンサバイバーを支援すると言うことも私のライフワークです。 家で亡くなりたいと言う人が沢山いて、それを実現できるような体制を実現したい。 38万人ぐらいが癌で亡くなって、そのうちの20万人が配偶者を亡くしている現状です。 医療の中にグリーフケアとかといったことを取り組んでいければなぁと思ってます。

人生の途中で津波で足元を救われた人癌で足を救われた人、そういう意味では同じ経験なんじゃないかと思います。 過酷な体験をしながら、人は何か立ち直ってこられる。 人は何か少しでも希望があれば生きられると言う結論に至りました。  「行動をすることが希望につながるんだ。」と言うふうに思ってきました。

グリーフケアは専門家が手を差し伸べ支えること、グリーフワークは自分で立ち上がるために努力すること。 反跳力が人間には備わっていると思います。    人はどんなに苦しい状況にあっても、かすかな希望があれば、生きられると言うのは映画の重要のテーマであり、私が生きていく上でも大事なテーマになってます。



2026年3月10日火曜日

田内洵也(シンガーソングライター)     ・「“流し”こそ、わがスタイル」 

田内洵也(シンガーソングライター)     ・「“流し”こそ、わがスタイル」 

 このほど東京近郊の飲食店で、いわゆる流しと呼ばれる活動をしているシンガーソングライターの田内洵也さんが、サザンオールスターズの桑田佳祐さんにその才能を評価されて、田内洵也さんが作詞作曲した「深川のアッコちゃん」と言う曲を、桑田さんがアレンジしたり、コーラスをつけたりして発表し話題を集めています。田内洵也さんは長野県生まれの37歳、小学生までは愛知県で過ごし、中学の3年間はタイのバンコクで育ちました。  この時にビートルズや桑田佳祐さんの影響で、音楽に目覚め、ギターを覚えて路上ライブを始めます。  高校から日本に戻り、大学卒業後は世界各地を旅しながら、路上ライブやミニライブを続けました。  都内のバーで活活動中に偶然桑田佳祐さんと出会い、流しのシンガーソングライターとしてこだわって、音楽活動を続ける田内さんの気持ちにも弾みがつきました。現在全国21カ所を回るツアー中です。 田内さんに音楽活動の原点や、流しとして歌う魅力、桑田佳祐さんとの出会いについて伺いました。

 「深川のアッコちゃん 」(produced by 夏 螢介 a.k.a. KUWATA KEISUKE) をリリースされました。 愛知県の実家から上京した際に、隅田川の近くにずっと暮らしていました。 下町の人情あふれる光景を目にして、それと自分の経験を混ぜ合わせて出来上がった曲だと思います。

*「深川のアッコちゃん」 (produced by 夏 螢介 a.k.a. KUWATA KEISUKE)  作詞、作曲:田内洵也 編曲、コーラス:桑田佳祐

当時、毎週演奏していた店があって、そこに偶然桑田さんが来ました。(2017年、27歳) 桑田さんの前で歌って、その後交流が始まりました。  桑田さんの方から一緒にレコーディングしてみたいと言う話がありました。  すごく丁寧に直していただいたり、教えていただいたりしながら曲が出来上がってきました。    一期一会で出会った人との前でギターを弾くと言うことをずっとしてましたが、顔の見えない人に対して発信する音楽の作り方とか、聞く人のことを深く思って丁寧に作り上げていくと言うことを桑田さんから教えられました。  僕が想像していた以上のものが出来上がりました。

長野県で生まれて、愛知県の春日井市で幼少期を過ごして、中学の3年間は父親が新聞記者をしていたと言う関係で、タイのバンコクで過ごしました。  最初ギターを手にして、近所の公園で覚えたてのビートルズを歌ってました。  だんだん演奏すると言う音楽にのめり込んでいきました。  高校から日本に戻りました。東京の大学に通い始めてもライブ活動はしていました。 グループで、音楽をやるよりも、1人の方が性に合っていました。 オリジナル曲は50曲ほどあります。

「深川のアッコちゃん」に関しては、立ち寄った居酒屋が地元出身の方が多い店でした。 海外にも1ケ月ぐらいアメリカ、イギリス、フランスドイツなどに行きました。  そこでもギター1本持って歌ってました。  ギターで世界中の人たちとつながることができました。  全国ツアー中で車にギター1本乗せて1人でやってます。  

去年10月12日に桑田佳祐さんが主催する日本武道館での九段下フォークフェスティバルで前座としてステージに立つことができました。 10,000人の前で「深川のアッコちゃん」を弾き語りしました。 凄く緊張はしましたが、ギターがいざなってくれました。 流しと言う自分のスタイルを、しっかりと残していきたいと思ってます。 今まで世の中に活かしてもらってた人間なので、自分が少しでも良い音楽を作って、世の中に貢献していきたいなと、心の底から思うようになりました。  自分の心をさらけ出す曲を作りたいと思います。 47都道府県に行ってみたいと言う夢があります。

*「街の音」 作詞作曲、田内純也

2026年3月9日月曜日

山崎まさや(俳優・お笑い芸人)       ・師匠を語る「志村けんを語る」

山崎まさや(俳優・お笑い芸人)       ・師匠を語る「志村けんを語る」 

日本の笑いの最前線で活躍し続けた志村けんさんが突然亡くなってから、まもなく6年が経とうとしています。志村けんさんと山崎まさやさん、どんな師弟関係があったのでしょうか。

志村さんとの年齢差はちょうど20歳違います。 僕は1970年生まれです。 僕が物心ついた小学校4年生の頃「8時だよ。全員集合」を見てなんて面白いおじさんたちなんだろうと思いました。

志村けんさん、本名志村康徳さん、1950年(昭和25年)2月東京東村山市で誕生します。 小学校の教頭を務める父親のもと厳格な家庭に育ちましたが、テレビで喜劇の舞台中継を見ている時だけは、家族一緒に笑えたことから、笑いが持つ力を実感、生涯の仕事にしようと決めました。 ザ・ドリフターズのリーダー、いかりや長介さんに弟子を志願したのは、高校卒業する間際の18歳の時でした。 「ぼうや」と言う付き人をし始めます。一時はドリフから離れ、「マッククボンボン」と言う漫才を結成したこともありましたが、1年ほどでそのコンビは解散。 再びザ・ドリフターズの「ぼうや」に戻った志村さんは、その後メンバー見習いに昇格して、配役として8時台の「全員集合」の舞台に立つことになりました。 

荒井忠さんの脱退に伴って、ザ・ドリフターズの正式メンバーになったのは、1974年4月志村さん24歳の時でした。  加入から2年後の1976年には、東村山音頭が大ヒット、さらにヒゲダンスなどのギャグで国民的な人気を博し、1985年に「全員集合」が終了した後も、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだ」「志村けんのバカ殿様」などで大ブレイク、バカ殿、変なおじさんを始めとするユニークなキャラクターを生み出し続け、1999年にはゴールデンアロー賞芸能賞を受賞しました。 日本の笑いの最前線で活躍し続けた志村さんでしたが、2020年3月29日新型コロナウィルス感染症に伴う肺炎のため70年の障害を閉じました。 志村けんさんのテレビドラマ初出演にして遺作となったNHK連続テレビ小説「エール」の放送がスタートしたのは訃報が届いた翌朝の事でした。

人を笑わしたいと言う夢があり、高校を出るときに東八郎さんのコメディアン養成所「笑塾」に入りました。 高校を出て18の春、その3ヶ月後東さんが亡くなられました。 志村けんさんが1人ぐらいは面倒見られると言うことで、私が選ばれていくことになりました。  初めて志村さんと会うことになり名前を言った後に「教えてやることはできないけども、見てやることはできるから」と言われました。  それで最初の出会いは終わりました。 

付き人として70,000円貰いました。当時としては良い額だったと思います。  送り迎えはやらないでそばにいて、空気感、間とかタイミング、その場の状況などを勉強するために横にいると言うことで、僕には運転させなかったです。  志村さんはテレビの前で見る志村さんではなく、すごくクールで人見知り、恥ずかしがりさんです。シャイな方です。 本番に入るとキャラクターに豹変する。それが尊敬です。

番組に出演するようになって、最初は「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で前説をやることになりました。   何も用意してない状態で、300人いる前でドーンと出されて、頭が真っ白でした。僕が前説を始めた頃からずっとスタジオの後ろで、ずっと見てくれてたそうです。(あと後から知った話) 付き人を始めてから半年後からスタートして、やめるまで約4年半位ずっと前説をやってすごく勉強になりました。 コントも脇役をやってもらえるようになりました。 表を歩く時には「通行人をよく見るように。」と言われました。 10人いたら10人違うと言われました。 1番よく言われたのは「相手に対して好演しなさい。」ということでした。  「相手がやりやすい演技をしろ。」と言われました。  

一回加トちゃんケンちゃんごきげんテレビの現場で遅刻したことがありました。 加藤ちゃんが「俺についてこい。」と言って、そこには志村さんがいました。  加藤ちゃんの一言「志村、今日から俺の付き人になった山崎」と言ったら、志村さんが突然立ち上がりまして「どうもはじめまして。志村と申します。と言われて「よろしくお願いします。」それがドーンと受けました。 その後志村さんが「馬鹿野郎早く仕事に戻れ。」と言われました。その後加藤さんから「次は自分で考えろよ。」と言われました。 

ある時、志村さんに「一人立ちしたい。」と申し入れました。 怒られるかなと思ったら「やっと言ってきたか、遅い位だよ。」と言われました。 付き人の最後の日に、車の後ろに一緒に乗せてもらって、六本木の高級な店に連れて行ってもらえました。そこで初めて「こいつが俺の弟子だ。」と紹介されました。 すごく嬉しくてトイレで泣きました。 独立後もそっと見ていてくれたようです。

2020年3月29日新型コロナウイルス感染症に伴う肺炎のために亡くなりました。 ちょっと前に志村さんのマネージャーからコロナで体調崩してしまって、入院したと言う話が聞きました。 その後状況があまり良くないって言う話も聞きました。スマホに入ってきた訃報の情報で初めて知りました。 まさかまさかと思いました。 最後に会ったのは亡くなる1ヵ月位の誕生日の時でした。「ありがとう。またね。」と言うのが最後の会話でした。

志村さんへの手紙

「初めて会ったのは、師匠が38歳僕が18の時のことでした 。笑いはもちろんいろんなことを教えていただきました。たくさん笑いました。たくさん怒られました。そして少し褒めてくれました。・・・ 師匠と桜を見に行ったことがありました。最高の思い出の1つです。 僕はきれいな桜を見るたびに少し悲しくなります。  この先花見をするたびに思うんではないでしょうか。 師匠が亡くなられて日本中が驚き、コロナウイルスの恐ろしさを知り、政府まで動かし、本気の注意喚起が始まったのではないかと思います。 たくさんの国民の爆笑させて、たくさんの国民の命を助けて、本当に凄い方だと心の底から思います。・・・僕もいずれそちらに行きます。・・・お会いできたらまた付き人をやらせてください。その時までもう少しこの世で頑張っていきます。」