土方明司(川崎岡本太郎美術館 館長) ・〔私のアート交遊録〕 太郎の目指した世界
土方さんは1960年東京生まれ。 大学卒業後練馬美術館の立ち上げに参加、その後平塚市美術館でも学芸員生活を経て、2021年からは川崎岡本太郎美術館 3代目館長に就任、かつて大阪万博の太陽の塔で多くの人の注目を集めた岡本太郎の人気は21世紀の今も衰えません。美術と言うジャンルには収まりきらないという岡本太郎の世界とは何なのか、それをどう伝えようとしているのか、子供の頃に何度か岡本太郎と親しくしたことがあるという土方館長に岡本太郎の魅力やアートとの出会いや楽しみ方などについて伺いました。
太陽の塔が重要文化祭として指定されると発表されて話題になりました。 塔が作られた時には賛否両論で、美術関係者からはけちょんけちょんに言われました。 当時日本は高度成長期でで浮足立っていて、その足元をすくう様なデザイン、造形を岡本太郎は出した。 奇怪でグロテスクでまるで死の怨霊が湧き出たような、それを現代の文化を謳歌する万博会場の真ん中にどんと建てた。 異質な存在として現れた。 岡本太郎を大抜擢したのは丹下健三さんです。 お互いにないものを持っていて、強い信頼関係にあった。 すべてのパビリオンとかの建造物は撤去される予定だったが、一般の方々の強い支持で残る様になった。
岡本太郎は非常に短い言葉で人の心を掴む言葉を連発するんです。 岡本太郎自身も自分のことを謎だったんじゃないですか。 非常に複雑な要素を一人の人間のなかに持っている。岡本太郎の全体像を正確に把握する事は難しい。 出来上がていた流れを全部ひっくり返してしまう。 そして新しい創造をする。 彼は20代のころに10年間パリに行って、哲学者ジョルジュ・バタイユと民俗学者マルセル・モースに出会っている。 人類の生の歴史を解き明かしてゆく民俗学にアプローチした。
西洋的な価値が美術評論家の美術史の価値になる。 彼は意図的に逸脱しようとしていた。 美術館には若い人たちが面白がって来てくれる。 可愛いと言ってくれる、それに感激しました。 伝統やすでに価値が定まったものを守る言事は絶対おかしい、常に新しく捉え直さなければいけない、そうしなければ創造的な価値が生まれない、と言っている。 太陽の塔の内部に岡本太郎の秘めた思いが色濃く残っている。 呪術性、祭りであり、神への祈り、世界中に共通するものを、仮面、祭祀に使った民具、などを世界中から集めて展示している。
父と岡本太郎さんは親しかった。 幼稚園の頃に父に連れられて展覧会に行って初めてお会いしました。 目線が低く、不思議な雰囲気を持っていたことをいまだに覚えています。 奥さんは「太郎さんは子供と付き合っていた方が生き生きとする。」、と言っていました。 偉ぶる事は無く、権威、権力を否定していた人で、組織、徒党を組むという事が大嫌いでした。 「芸術家は孤独でなければいけない。」といつも言っていました。 太陽の塔はぽつんと立っていて、岡本太郎自身のように思えてくる。 上は未来を目指し、地下空間は地をめざしていて、天と地を結ぶ宇宙人の様な存在です。
岡本太郎の言葉。 「君は君のままでいい。」「弱いなら弱いまま。」「誇らかに生きてみろよ。」
父は神奈川の近代美術館の館長を長く勤めていました。 当時は絵描き、彫刻家が酒をもってきて館長室、学芸員室に始終出入りしていて、家にもきて宴会をしていました。 家庭教師の朝原先生?に導きでてて哲学、宗教学などを学びました。 大学の先生から「練馬区に新しく美術館が出来るので、試験を受けてみては。」に言われました。 立ち上げから関わりました。 いい勉強になりました。 練馬美術館には20年間務めました。 その後平塚市美術館でも学芸員生活を経て、2021年からは川崎岡本太郎美術館 3代目館長に就任しました。 生涯学習の一環として公立美術館がある方向に行く。
岡本太郎の母親(岡本かの子)に実家が川崎市でした。 2000点あまりを川崎市に寄贈してくれました。 それを生かすために今美術館があります。 美術以外のファッション、音楽などのジャンルで活躍している方たちが岡本太郎の大ファンだという方が凄く多いです。 お薦めの一点と言われれば、太陽の塔ですね。 岡本太郎自身、呪術師のような存在だと思います。 仕事帰りに毎日のようにいrぽいろな画廊巡り(40年続いている。)をしています。 自分自身がリニューアルできる。