2025年6月11日水曜日

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編 

榊原晴子さんは1951年東京生まれ。  結婚を機にアメリカ、カルフォルニア州に暮らし始めて、太平洋戦争中の日系アメリカ人の苦しみを知ります。  さらに品人のシベリア抑留のも関心を持ち、本格的に抑留の歴史や抑留者の証言を集めて、20年余りが経ちました。  以来カルフォルニアの大学で日本語を教える大学生と資料を纏めたり、帰国した時には日本で社会学や歴史を学ぶ大学生に講演したりして、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを伝え続けています。 

講演する中で2005年生まれの彼らはシベリア抑留と言う言葉は聞いたことがあっても実際は何も知らなかった。  これからの日本の歴史を背負うものとして、何かできることは知ろうとすることだという感想もありました。  私のはシベリア抑留を経験した叔父が一人居ました。   満洲で終戦を迎えた時に、 突然侵攻してきたソ連軍の捕虜になりました。  強制労働のどん底の生活の中で、叔父はドイツ語の知識を生かして、ロシア語も学んで将校の通訳になりました。  1950年に最後の船で舞鶴に帰ってきました。  弾丸で前歯が全部撃ち抜かれていたそうです。  どうやって食べて生き抜いてきたのか?  叔父は自分からは何も話しませんでした。   若い頃は溌剌とした青年だったようですが、暗い影を落とすようになってしまいました。  60歳を越えて肺がんで亡くなりました。  

私は結婚してアメリカで暮らすようになりました。  私の夫は日系3世です。  夫の家族の戦争体験を知りました。  義理の父親が日系2世(ジョセフ)です。  その親(榊原平治?)が明治28年にアメリカに渡りました。  1841年12月8日に真珠湾攻撃があって、日米開戦となりました。  ジョセフはアメリカ国籍を持っていましたが、榊原平治?はアメリカ国籍をもっていませんでした。  ジョセフはアメリカ政府からスパイ容疑をかけられました。  日本人の住民は「JAP」と呼ばれて蔑まされるようになりました。  翌年大統領令が出て、日系アメリカ人は全ての自由をはく奪されて、家にあったもの、それまで築いたもの捨てて、立ち退きを命じられました。  持って行けたものはスーツケース2つだけでした。  連れていかれた収容所は砂漠、荒れ地に建てられた掘っ立て小屋でした。  10か所ありました。  

その後戻ってもかつての様な暮らしぶりにはなりませんでした。  仕事の再開も難しかった。日本語も使えなくなりました。  ジョセフは牧師志望だったので、神学校に行かせてもらえました。  広島の原爆のことを知って、戦後日本に戻って広島、長崎の家の復興に関わりました。   私は自分には何が出来るんだろうと深く考えるようになりました。 「何故家を出るの」と言うタイトルの歌を作りました。  英語で作って日本語にもしました。 

サクラメントで偶然に写真家の新正卓さんとお会いしました。  新正卓さんはシベリア抑留の写真集としてまとめ上げました。  日系アメリカ人の強制収容所の写真集のために撮影をしに来ていました。   お手伝いをしたためにその二つの収容所が重なって来ました。  共通する事はそれぞれ収容所のことを語らなくなったという事でした。  シベリア抑留について調査をして「アメリカから見たシベリア抑留」と言う本を昨年出版しました。

シベリアからの生還者に直接会って話をするようにしました。 その中に政治家の相沢秀之さんにお会いして励ましを頂きました。  相沢さんは東京帝国大学法学部政治学科を卒業、1942年9月25日大蔵省に入省、その後陸軍に入る。 ソ連タタール自治共和国エラブガで3年の抑留をさせられる。1948年8月に復員。 大蔵省の戻って政治家として活躍。 引退後も一般財団法人全国強制抑留者協会の会長を務め、戦後の旧ソ連による抑留の「生き証人」として語り部を続ける。  妻の司葉子さんにはシベリア抑留のことは話していないそうです。  夜中にガバッと起きることがあったそうですが、後に抑留と関係があることがわかったそうです。   心身ともに最低の生活だったとおしゃっていました。  だから後にどんな厳しいことがあっても乗り越えられるという思いはあるそうです。   相沢さんとの出会いによってシベリア抑留について背中を押されました。







2025年6月7日土曜日

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)      ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)   ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~ 

谷川さんは今年1月通算1400勝と言う記録を達成しました。  大山泰治15世名人、羽生善治9段に続く史上3人目の快挙です。  阪神淡路大震災から30年となる今年1月に打ち立てたことに特別な思いがあると話します。   棋士として生きて半世紀、さらなる高みを目指そうとしている谷川さんの棋士人生を伺いました。

14歳から初めてまもなく50年になります。  20代、30代がプロ棋士として最盛期ですので20代は年間40勝するのが当たり前といった感じですが、40代を過ぎるとなかなか勝てなくなってきて、最近は二桁10勝するのがやっとという事なってきています。  昨年11月、12月は成績が悪くて7連敗しました。 1398勝になってから進みませんでした。   新年早々の対局で一つ勝つことが出来ました。  1月15日に達成できました。  郷田さんとの対局でした。   30年以上対局してきた相手で、或る意味安心感はありました。  持ち時間が一人6時間で、休憩の時間などを合わせると、午前10時から始めて23時ごろまでかかりました。  20代から得意にしている戦法を選びました。  勝ってホッとして記者会見を行いました。  節目が新会館でした。  阪神淡路大震災30年の節目の年もありました。

1433勝が大山15世名人の記録で、30代のころから大きな目標としてきました。  その目標を掲げる事にはなったと思います。   42年前になりますが、21歳で名人戦の挑戦者になって加藤一二三名人に勝って最年少名人の記録を作りました。  30年前は震災の中、羽生善治さんを挑戦者に迎えて王将戦の7番勝負で第7局で勝利を納めました。  そういった様々な場面が浮かんできます。  

兄と二人兄弟ですが、喧嘩をしないように父が将棋盤を買ってきたのがきっかけです。  一つのことをはじめれば長く続く性格です。  体力が必要なので室内自転車も30年以上やっています。  10手、20手先の局面は頭の中で動かしていきます。  私の場合はパソコンの画面で白黒です。  頭のなかの駒の文字は一つです。(王、飛、角とか)  どういう映像が浮かぶかは棋士によってちがうようです。  

序盤が駒組で、中盤が戦いがあって、終盤は相手の玉を詰ませるとなりますが、終盤の寄せを20代に「高速の寄せ」と付けていただきました。  終盤の始まりでいろいろなイメージが出来ていたのかなと思います。  詰将棋を小学生、中学生にかなりやっていたのでその影響があったのかと思います。   「高速寄せ」は30年前は私の得意分野でしたが、私を研究してくるので、平成、令和のトップのレベルは高くなってきています。  AIを使ってパソコンで研究してゆくので、定石の整備、進化は昔とは比べられないほど早くなってきています。

震災を経験したことで神戸に対する愛着が強くなりました。  自分が住み続けることで神戸の復興を見届けたいと思います。  私の住んでいるところは被害はなかったのですが、両親が住んでいる実家は全壊しました。  大きな怪我はなかったのは不幸中の幸いでした。  羽生さんが7冠達成の挑戦者としてきて、第一局(1月12,13日)の4日後が1月17日でした。  19日妻の運転で大阪に行きました。  普段は大阪まで30分ですが、朝出掛けて大阪のホテルに着いたのが夜の9時になっていました。  20日に対局がありました。  23日には栃木県の日光に行きました。  羽生さんにはタイトル戦で7連敗をしていました。  大坂では温かいご飯が食べられたり、今迄当たり前だと思っていたことが実はそうではなかったんだという事がわかりました。   対局が出来るという事が幸せだと思えました。  初心を取り戻すことが出来ました。   被災地のためにという思いは強かったですね。  防衛が出来ました。   1月17日生まれの子が弟子にしてほしいという事で受け入れました。  考えるヒントを与えるようにしています。 

ここ3年ぐらいは藤井さんの圧倒的な強さがあります。   藤井さんが25歳になるころには将棋界も様替わりして、藤井さんと同年代、後輩の棋士たちによるタイトル争いになって行ってしまうかもしれないです。  ここ数年でAIの影響が凄いですね。  50手ぐらいまではシュミレーションして臨むとか、詰みの近くまで調べておかないといけないぐらい、最新の流行の形で戦おうとすると、それぐらいの準備が必要と言われて来ています。

1時間かけて結論が出そうもないと思うと、指してしまう事が多いんですが、藤井さんは苦労をいとわずに真剣に考えてきたことの蓄積が、今の藤井時代に繋がっていると思います。   40歳ぐらい若い棋士と対局するのも楽しみの一つです。  1433勝は一つに目標として行きたいと思います。  年齢を重ねる程将棋の奥深さを感じます。


















2025年6月6日金曜日

山内聖子(文筆家・唎酒師)        ・“美味しい酒”を地元で味わう旅をしよう!

 山内聖子(文筆家・唎酒師)        ・“美味しい酒”を地元で味わう旅をしよう!

山内さんは岩手県盛岡市出身。 自らを飲む文筆家と称しています。  地方を訪ねた時に出会った地元の人に愛される美味しい酒に魅せられてきました。  日本各地の蔵元などを取材して日本酒の効能、製造工程、歴史、業界の現状や未来などをテーマにした多くのエッセイを書いてきました。  最近書いたのが「日本酒吞んで旅行けば」人気の銘柄や全国屈指の老舗など15の蔵元を訪ねて、美味しい酒つくりへの思いやそれを支える地元の居酒屋や料理人達を取材しています。  日本酒との出会いや魅力、地元の料理人たちの酒に合う自慢の料理など、日本酒と旅に未来や可能性を語ってもらいます。 

母はアルコールを飲めない、父も御猪口一杯で真っ赤になるになる人でした。  私の母方の祖父母家が屋号が「麹家」で麹を作っていたらしいんです。  そこへ婿に入ったひいおじいさんが酒つくりの蔵人だったらしいです。   高校卒業をデザイナーになりたくて上京しました。 グラフィックデザイナーの専門学校に入学しました。  その系列の飲食店で働き始めました。 ある店が日本酒を100種類ぐらいある店でした。(22,3歳)  日本酒の銘柄が読めないので覚えていきました。  飲んでみて目覚めてしまいました。 

日本酒の店をやりたいという思いはありました。  時代は焼酎ブームの時代でした。  日本酒のことについて書くことで多くの人に伝えられるので、ライターになりたいといきなり思いました。  日本酒は透明でどの蔵も同じようなものですが、味が全然違うんですね。  合成酒と言った時代もありましたが、戦後復興と共に原料不足が解消されて行っても、 まずく作ろうが飛ぶように売れていた時代がありました。  戦後蔵の数も減少が続いて、2015年時点では1300ちょっとと言われていました。  今はもうすこし減っていると思います。  杜氏制度が廃れて行っていましたが、その原因が高齢化でしたが、現時点では若返っている様な気がします。  昔は杜氏さんと言うと農家出身の方が多かったのですが、農業大学を卒業した人がどんどん入ってくるようになりました。  

高度成長期は灘(大手メーカー)が全盛でした。  地酒ブームで小さい酒蔵も注目されるようになりました。  それ以降には小さい酒蔵が美味しい酒を造るようになりました。   いろいろなブームがあり吟醸酒ブーム、淡麗辛口ブーム、新潟のお酒も流行りました。    景気がいいとスッキリした辛口の酒が流行る、景気が悪いと甘口の酒が流行ると或る蔵元さんが言っていました。   

地元に行かないと本来の日本酒の姿が判らないのではないかと思いました。 本音を聞くのには地元で聞いた方がいいなと思いました。  20代の女性がライターという事で蔵元に行くと、当時は門前払いを喰う事もあり最初は苦労しました。  作り手の人と深い話をしたいという思いがあり、製造のこと、作り手しか知らないような事を知らないと会話にならないので勉強はしました。  

酒つくりには本当に正解がないという事を、改めて突き詰めたいと思いました。  作り手の譲れないものがあって、そういったことも凄く面白いです。  そういったことを知ってほしいと思いました。  20年ほど前から女性杜氏の方がぼつぼつ出てきました。  最近は大分増えてきました。   

蔵元推奨の居酒屋、小料理屋さんへ必ず訪ねています。  「日本酒吞んで旅行けば」では取材の一環として行って書くことにしました。  地元の野菜など、郷土料理と共に飲むと本当に美味しいです。  日本酒の輸出は伸びてきています。  酒蔵自体を海外で作ってあちらで作って現地の人たちに味わってもらうという流れも出てきました。  コロナ禍をきっかけとして小さな酒蔵さんもSNSで発信するようになりました。  それで便の悪い小さな酒蔵さんでも知ってもらえる機会が増えました。  同時に販売の仕方も変わって来ました。  酒蔵さん自身が自分たちで売ろうと言う様な流れになってきています。  蔵の哲学は変わらないんだけれども、その年、その年でお米の出来、不出来もあるし、時代の流れに合わせて、工夫しているところは多いと思います。  

有楽町に日本酒バーがあって、週に一回お店に立って女将をやっていて14年目になります。料理も作っています。  お客さんの反応を大事にして、ライター業でも書くようにしています。  その人に合ったものが絶対あるので、そこを捜す作業が楽しいです。  質のいいお酒にはこだわりがあるので、そのためには地元に行って酒蔵さんの話を聞かないと判らない。  飲食業とライター業が交差するような形でやっています。  











2025年6月5日木曜日

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋 

箭内さんは専門分野の広告だけではなく、東京藝術大学教授やラジオ局の名誉局長など多岐に渡り活躍を続けています。  今62歳で去年3月に自身の還暦をきっかけとした音楽イベントを開催し、さだまさしさん、石川さゆりさん、GLAY、乃木坂46など親交の深い有名なアーティストが大勢参加しました。  さらに石川さゆりさんが歌った「津軽海峡冬景色」では自らギターを演奏、ミュージシャンとしても参加し、2日間で4公演を行ったイベントは大盛況で話題となりました。  幅ひろい分野で活動を続ける思いをうかがいます。

クリエーティブディレクターと言うのは広告を制作するうえでの責任者です。  その広告で売れなかったり、話題が作れなかったりしたら多くの責任を負うのはクリエーティブディレクターです。  福島県出身。東京藝術大学卒業。  大手広告代理店を経て2003年に独立、様々なジャンルで活躍中。  NHKの番組でも司会をしました。  広告はずっとやって来ました。  来年で30周年になる仕事が一つあります。  タワーレコードのノーミュージックノーライフと言う仕事です。  何枚ポスターを作ったかわからないぐらいずっと続いています。  

福島県のクリエーティブディレクターもしています。  2011年3月に東日本大震災があって、福島第一原発の事故もあって、前代未聞の災害でした。  11年目になりました。   東京藝術大学の教授、ラジオ番組のパーソナリティー(トータルで18年 毎週)もしています。   ラジオ局を設立して名誉局長をしています。  

色々やっていますが、全部広告だと思っています。  企業の応援、社会全体を応援することが広告だと思っています。  商品の魅力を最大化して世の中に伝えていくという仕事だと思います。  やっている事は誰よりも狭いと思っています。  

還暦と言うきっかけをタイミングに、皆がえっと思うようなことを成し遂げないとという宿題を自分に課しました。  それで音楽のイベントを開催しました。  埼玉スーパーアリーナがたまたま空いた日があって、今日返事をもれるのならばお貸ししますと言われて、とりあえず仮抑えしました。  キャンセル料を調べたら100%で進むしかなかった。  GLAYTAKURO(タクロウ)さんにまず話をしたらいいですね、やりましょうという事になりました。  さだまさしさんとか段々増えていきました。  埼玉スーパーアリーナは東日本大震災があって双葉町の皆さんが町ごと避難した場所でした。  2日間行ってとっても嬉しかったです。 

子供の頃は故郷が嫌いでした。  近所の良くないことなどをしゃべりながらご飯を食べている様な状況もあったり、自分の弱さも福島県の県民性にあるのではないかと思っていました。 或る時福山雅治と話をした時に、自分に足りないものを全部故郷のせいにしているのではなく、悪いのは自分なんだという風に言ってくれました。  その時期に東日本大震災が起きました。  そこから夢中で動きだしました。  1億円寄付したくなって3月14日に銀行に借りに行きました。  寄付が目的の融資は出来ませんと言われました。  2010年に結成した福島県のバンドでレコーディングして寄付しようと思いました。  そこから広がって行きました。  

ラジオ局の設立は、大震災のあとラジオが大きな存在であることに気付きました。  つなぎ直すメディアが欲しいと思いました。  放送免許が必要だという事でした。  渋谷には同様な考え方を持つ人たちもいて、私が理事長になって旗振り役を担当しました。  福山雅治さんに話をしたら僕も一緒にやりますと言ってもらえました。  誰でも出て欲しいと思ったので、「聞くラジオから出るラジオへ」と言うスローガンにして始めました。 

実現は自分一人では絶対できないので、沢山の人たちの応援、守ってくれたり、導いてくれたりと言ったことが大事です。  何もやったことがないことを、誰に何をやって貰えるかと考えることが好きです。  

小学校4年生の時に、プロ野球に試合を友人宅で見ました。  優勝が決まる試合で巨人に阪神が9-0で負けました。(9連覇達成の瞬間)   僕にはなんてつまらない事なんだろうと思いました。  9年も同じチームしか優勝しない。  その日から阪神を応援することにしました。  それから主流のものに反対の立場を取り続けるような子供でした。  大学を選択する段になって、美術大学があるという事でこれだと思いました。  親は僕のあまのじゃくの性格をよく知っていて、親からは3つ言われました。 ①家の手伝いするな。 ②悪いことはしてもいい。 ③勉強をするな。  全部反抗しました。  

当時東京藝術大学では就職は負け組で、あえて就職を選びました。  第一位ではなく第二位の広告代理店を受け無事入れました。  いろいろトラブルがって面接時間に間に合わずその2時間後にたどり着いて受けることになりました。  スターチームには入れずに腐って行きました。  1996年にノーミュージックノーライフと言う仕事を始めました。  先輩の木村さんと一緒に仕事を捜し歩きました。  ノーミュージックノーライフの仕事が生まれていきました。   

39歳で13年間いた会社を辞めました。  或る上司から「自由の海に出たら何に逆らうんだ。  お前はもう終わりだ。」と言われてしまいました。  それがアンチの対象になり燃えました。  40歳ならば纏まった退職金、持ち株も1年、2年待てば上場して纏まったお金がもらえたんですが、さんざん周りから言われました。  

僕自身、広告は素人的にしてきました。  好きなものしか広告しないと言う様な考え方でした。   広告を技術だけで作っているという事は空虚であるという事を段々わかって来たんだと思います。  そこに魂があるかどうか、思い、助けたい、応援したいという事が作り手にちゃんと有るかどうかという事が、問われている時だと思います。  それを取り戻していくことがこれからの広告の第二章の始まりかなと思います。 

若い人にチャンスを増やしてあげたいという気持ちは有りますが、でもまだ自分も必要とされていたいというエゴみたいなものもあったりして、そこのせめぎあいが60代の難しさではないかと思います。  撮影の現場が楽しかったという風になるかどうかがとても大事です。 












2025年6月4日水曜日

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 五木寛之作詞の歌

五木寛之(作家)           ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 五木寛之作詞の歌 

20代の後半から作詞をしています。  専属のプロの作詞家としていた時代がありました。    CMソングをまずやっていました。   一日3つぐらい作ったこともあります。  

「思い出の映画館」  新宿に小さな映画館があって、入場料が30円でした。  フランスとかイタリアの古い映画を上映していました。  そこで随分勉強させてもらいました。  映画の題名を次々織り込んでゆくというものです。  忘れられないものの一つです。 

*「思い出の映画館」  作詞:五木寛之  歌:旅人   1979年

一世を風靡した映画が沢山ありました。   

*「織江の唄」  作詞:五木寛之 作曲:山崎ハコ  歌:山崎ハコ  1981年

遠賀川 土手の向こうにボタ山の 三つ並んで見えとらす

 信ちゃん 信介しゃん うちはあんたに会いとうて

 カラス峠ば越えてきた

 そやけん 逢うてくれんね信介しゃん

 すぐに田川に帰るけん

 織江も大人になりました

 

 月見草 いいえそげんな花じゃなか あれはセイタカアワダチソウ

 信ちゃん 信介しゃん うちは一人になりました

 明日は小倉の夜の蝶

 そやけん 抱いてくれんね信介しゃん

 どうせ汚れてしまうけん

 織江も大人になりました

 

 香春岳 バスの窓から中学の 屋根も涙でぼやけとる

 信ちゃん 信介しゃん うちはあんたが好きやった

 ばってんお金にゃ勝てんもん

 そやけん 手紙くれんね信介しゃん

 いつかどこかで会えるけん

 織江も大人になりました。


九州弁で書かれていますが、山崎ハコさんは大分県の出身なんです。 「青春の門」 9巻まで行って10巻で完結する予定ですが、完結してもしなくてもいいのかなあと思っています。  最後は読者が自分で物語を作って解決するという、そういうやり方もあるんじゃないかなあと思います。  


*「インディアン サマー」 作詞:五木寛之 作曲:いまなりあきよし 歌:麻倉末稀


ボサノバ調です。 「織江の唄」とは全然違います。  演歌、童謡なども書いています。


作詞は楽しい仕事です。 小説と違ってリラックス出来ます。  


*「旅の終わりに」  作詞:五木寛之 作曲:菊池俊輔  歌:冠二郎


ごてごての演歌です。 







2025年6月3日火曜日

柏原寛司(脚本家・映画監督)       ・あぶない脚本家の野望

 柏原寛司(脚本家・映画監督)       ・あぶない脚本家の野望

柏原寛司さんは東京出身。 大学在学中に映画撮影所にアルバイトとして入り、特撮テレビ番組「クレクレタコラ」で脚本と助監督を経験しました。   1974年俳優萩原健一さん主演のドラマ「傷だらけの天使」で脚本家として本格的にデビュー。  その後「西部警察」、「大都会」、「危ない刑事」など数々の映画やドラマの脚本を執筆しています。 

数々のドラマを描きましたが、NHKはないです。   毎回殴ったり蹴ったり撃ったり殺したり爆発したり、NHKぽくないです。   1949年東京・人形町に生まれました。  最初は紙芝居が好きでした。  次に漫画、次に映画となりました。  人形町には7軒映画観がありました。  銀座、上野も近いので映画を観る環境は凄くよかったです。  西部劇が大好きでそれが基本になりました。   石原プロは車の壊すのも派手で大変でした。   友人から日本の映画を観るように勧められたのが「用心棒」と「七人の侍」でした。   高校の時に観たんですが、吃驚しました。  それから日本映画を観るようになって監督をやろうと思いました。  

助監督試験は大学を出ていないと受けられませんでした。  大学も落ちてしまってシナリオ研究所に入りました。  3浪を経て日本大学芸術学部文学科に入って、大学4年の時に「傷だらけの天使」、「俺たちの勲章」を書きました。  大学を卒業した時に日活の助監督試験がありましたが、新宿の交番のお巡りさんと喧嘩をしてしまって試験に行けませんでした。  それでライターになってしまいました。   中学、高校の体験が下地になっている部分もあります。  恋愛ものは書かないですね。   萩原健一さん、藤竜也さん、勝新太郎さん等と仕事をしたのは楽しかったです。  

萩原さんとは「傷だらけの天使」のあとは「あいつがトラブル」で再開した様な形になりました。  「豆腐屋直次郎の裏の顔」辺りから萩原さんと仕事をするようになりました。   萩原さんはトラブルが多いので出資する側がビビるんですね。  撮って宣伝活動して劇場公開するまで2年ぐらいかかったりするんです。  萩原さんとやり始めてからはプロデューサー的なこともやり始めました。  映画館を作りたかったが、いろいろ規制がありできなくて、その代わりに試写室にしました。   藤竜也さん主演の映画「猫の息子」を撮りました。   2016年片桐竜次さん主演の映画「キリマンジャロは遠く」を撮りました。   映画監督は面白いすね。  ライターでは責任は取れないが、監督だと責任が取れます。  最終的な責任は現場にあるわけです。  監督だと責任が取れるのでそこが面白いです。  責任が取れる快感があります。  監督は決断をする仕事なんです。  もめ事も好きです、トラブルがない現場なんてつまらない。   それを解決してゆくのがまた快感なんです。 

若手を育てる事には力を入れたい。   映画業界を活性化するためにはいろいろなことはやろうとは思っています。   町内に長く住んでいるので、老人クラブの会長にさせられました。  トラック野郎とは違った切り口で、静岡のトラックに関わる話をを映画化しようと画策中です。















2025年6月2日月曜日

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている 

俵さんは1963年大阪出身。  早稲田大学在学中に歌人の佐佐木幸綱さんに師事、短歌を作り始めます。  1987年発表の第一歌集「サラダ記念日」は社会現象を起こす」だべストセラーとなり、口語短歌の大一人者として多くの歌集やエッセイを発表してきました。  又ホスト歌会、アイドル歌会の選者を務めるなど短歌にとどまらない活躍を続け、これまでに迢空賞(ちょうくうしょう)、紫綬褒章(しじゅほうしょう)などを受賞しています。  この春出版された「生きる言葉」は現代社会における言葉の力について、ご自身の子育てや体験を踏まえて考察していて幅広い 読者を獲得しています。 

「生きる言葉」はエッセイではなく論評、論法となっています。  言葉についてじっくり考えてみたいなあと言う気持ちが自分の中で高まって来ました。  ネットでは顔に知らない人とやり取りをしなくてはいけない時代になって来ました。  言葉の比重が大きくなってきていると思います。  ネットなど便利な反面、誤解も生じやすい。  自分が言葉を書くという事に関して、注意深く楽しむようにしたいと思います。   ネット社会について高速道路に例えると、さきにインフラが整ってしまって、運転するルール、マナーがとかがまだ途中と言うままみんなが運転して仕舞っているという様なイメージですね。  なので事故も起こりやすい。  

ちょっとした一言で、自分が傷ついたり、人を傷つけたりという事は、日常会話の中でも起こっているわけです。  何故言ってしまったのかを考えるとことによって、次への処方箋になるような、楽しんで観察できるような気持で居たいと思います。  正しい言葉と言うのは無くて、お互いの関係性、文脈で正しくもなれば間違った事にもなる。   子育てを通して、自分が考えた言葉と言う風にもこの本は読めます。   言葉に対するまっさらな目を自分でも取り戻しながら楽しんでいたような気がします。   息子がラップが好きで日常的にいろいろ聞いています。  短歌に近いなあと思ったりもします。   言葉の語彙を増やすのにはしりとりは良いと思います。  息子は大学生になり国語学を勉強しています。  

佐佐木幸綱先生からはエネルギッシュな文学論と言う感じで、短歌だけではなく幅広い文学論でした。  先生の歌集に出会って、今を生きる表現手段だと知ることが出来ました。   先生の授業の感想、書いたものの感想とか、手紙で送っています。  短歌を作るのが楽しかったです。  ラップも短歌もリズム感があって、耳から届くという意味では共通するものがあります。   短歌を作るときには音の響きはとっても大事です。  濁音はちょっと耳障りな感じがします。   心の真実を伝える言葉で有ったら、嘘をついてもいいのかなあと思います。  短歌、俳句を作ってくれるAIは有りますが、私たちが短歌を作る醍醐味は、心の揺れを立ち止まって見つめ直して、そこから言葉を選んで形にしてゆく、その過程を含めて歌なんです。  AIにはその過程がありません。   私たちは心から言葉を紡ぐ。 

迢空賞(ちょうくうしょう)を取ったら楽になりました。  もうそれ以上ないし。    50代は色々なことがありました。  子育てが一段落すると親が高齢になり、自分でも病気をしたりしました。   入院も一つの経験になりました。  その中から歌も生まれました。 歌を詠むことで、自分の人生を振り返り、言葉にすることで辛い経験を乗り越えたんだなと言う、達成感があります。   

「作品は副産物と思うまで詠むとは心掘り当てること」   俵万智

私自身も歌を通していろいろな出会いがあります。   言葉のかけらをメモしておいて、もうちょっと育てて行こうかとか、同じようなことが二度三度あった時に初めて歌になるとか、そういう事もあります。   

「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」  俵万智

今一番多くのお母さんが好きと言って下さる歌です。  重ねぬりの度合いの厚みがある時には抽象的な歌でも成立するという事はあります。 

年齢年齢によって見える景色は変わってくると思うので、「アボカドの種」と言う一番新しい歌集では30年振りに会った元彼の話が出てきますが、30年後の恋は20代の人には詠めないぞと思ったりしています。  年齢を重ねることで見えてくる景色などを捕まえて行けたらなと思います。  「アボカドの種」には黒い歌も結構入っています。  良い面を捉えて歌にしたいと言う白い歌を心掛けてきましたが、黒い歌も出来てきて歌集に入れてもいいのかなあと思いましたが、共感して頂いて黒い歌も人を励ますという事があるんだなあと思いました。  言葉にするという事は自分を客観的に見るという事に繋がるので、そういう意味でもいいと思います。   

「人生を楽しむための治療ゆえ今日は休んで大阪へ行く」   俵万智

放射線治療をしている時でしたが、どうしても行きたくて行きました。 

「優しさに一つ気が付くバツでなく丸で必ず終わる日本語」  俵万智

特に中高年の人から共感を得ました。 「マルハラ」マルハラが生まれた背景には、世代間のギャップがあると考えられます。 世代によって、コミュニケーションの目的やゴールが異なる点に、マルハラの発生原因があると考えられます。  仕組み、状況をきちんと理解して、知るという事は凄く大事な事です。  道具なので道具に使われたらおしまいで、道具を楽しいんで便利に使えるという事が大事だと思います。  言葉はなんで生まれて来たかと言うと、伝えたい事、共有したいことがあるから言葉は生まれてきたわけですから、人と人とが繋がるものとして言葉を使っていけたらいいなあと思います。