2025年6月26日木曜日

土方明司(川崎岡本太郎美術館 館長)    ・〔私のアート交遊録〕 太郎の目指した世界

 土方明司(川崎岡本太郎美術館 館長)    ・〔私のアート交遊録〕 太郎の目指した世界

土方さんは1960年東京生まれ。  大学卒業後練馬美術館の立ち上げに参加、その後平塚市美術館でも学芸員生活を経て、2021年からは川崎岡本太郎美術館 3代目館長に就任、かつて大阪万博の太陽の塔で多くの人の注目を集めた岡本太郎の人気は21世紀の今も衰えません。美術と言うジャンルには収まりきらないという岡本太郎の世界とは何なのか、それをどう伝えようとしているのか、子供の頃に何度か岡本太郎と親しくしたことがあるという土方館長に岡本太郎の魅力やアートとの出会いや楽しみ方などについて伺いました。

太陽の塔が重要文化祭として指定されると発表されて話題になりました。  塔が作られた時には賛否両論で、美術関係者からはけちょんけちょんに言われました。  当時日本は高度成長期でで浮足立っていて、その足元をすくう様なデザイン、造形を岡本太郎は出した。  奇怪でグロテスクでまるで死の怨霊が湧き出たような、それを現代の文化を謳歌する万博会場の真ん中にどんと建てた。  異質な存在として現れた。  岡本太郎を大抜擢したのは丹下健三さんです。  お互いにないものを持っていて、強い信頼関係にあった。  すべてのパビリオンとかの建造物は撤去される予定だったが、一般の方々の強い支持で残る様になった。 

岡本太郎は非常に短い言葉で人の心を掴む言葉を連発するんです。  岡本太郎自身も自分のことを謎だったんじゃないですか。  非常に複雑な要素を一人の人間のなかに持っている。岡本太郎の全体像を正確に把握する事は難しい。  出来上がていた流れを全部ひっくり返してしまう。  そして新しい創造をする。  彼は20代のころに10年間パリに行って、哲学者ジョルジュ・バタイユと民俗学者マルセル・モースに出会っている。   人類の生の歴史を解き明かしてゆく民俗学にアプローチした。  

西洋的な価値が美術評論家の美術史の価値になる。  彼は意図的に逸脱しようとしていた。 美術館には若い人たちが面白がって来てくれる。   可愛いと言ってくれる、それに感激しました。  伝統やすでに価値が定まったものを守る言事は絶対おかしい、常に新しく捉え直さなければいけない、そうしなければ創造的な価値が生まれない、と言っている。  太陽の塔の内部に岡本太郎の秘めた思いが色濃く残っている。  呪術性、祭りであり、神への祈り、世界中に共通するものを、仮面、祭祀に使った民具、などを世界中から集めて展示している。 

父と岡本太郎さんは親しかった。  幼稚園の頃に父に連れられて展覧会に行って初めてお会いしました。  目線が低く、不思議な雰囲気を持っていたことをいまだに覚えています。   奥さんは「太郎さんは子供と付き合っていた方が生き生きとする。」、と言っていました。   偉ぶる事は無く、権威、権力を否定していた人で、組織、徒党を組むという事が大嫌いでした。  「芸術家は孤独でなければいけない。」といつも言っていました。  太陽の塔はぽつんと立っていて、岡本太郎自身のように思えてくる。  上は未来を目指し、地下空間は地をめざしていて、天と地を結ぶ宇宙人の様な存在です。 

岡本太郎の言葉。 「君は君のままでいい。」「弱いなら弱いまま。」「誇らかに生きてみろよ。」

父は神奈川の近代美術館の館長を長く勤めていました。  当時は絵描き、彫刻家が酒をもってきて館長室、学芸員室に始終出入りしていて、家にもきて宴会をしていました。  家庭教師の朝原先生?に導きでてて哲学、宗教学などを学びました。  大学の先生から「練馬区に新しく美術館が出来るので、試験を受けてみては。」に言われました。  立ち上げから関わりました。  いい勉強になりました。   練馬美術館には20年間務めました。 その後平塚市美術館でも学芸員生活を経て、2021年からは川崎岡本太郎美術館 3代目館長に就任しました。  生涯学習の一環として公立美術館がある方向に行く。  

岡本太郎の母親(岡本かの子)に実家が川崎市でした。  2000点あまりを川崎市に寄贈してくれました。  それを生かすために今美術館があります。  美術以外のファッション、音楽などのジャンルで活躍している方たちが岡本太郎の大ファンだという方が凄く多いです。 お薦めの一点と言われれば、太陽の塔ですね。  岡本太郎自身、呪術師のような存在だと思います。  仕事帰りに毎日のようにいrぽいろな画廊巡り(40年続いている。)をしています。  自分自身がリニューアルできる。





























2025年6月24日火曜日

石飛博光(書家)             ・創作の原点と これからの書

石飛博光(書家)             ・創作の原点と これからの書 

石飛さんは北海道出身。  小学4年から書道をはじめ、高校3年で後の師匠になる金子鷗亭さんに出会い、1960年東京学芸大学学芸学部書道科に入学、同時に金子鷗亭さんに師事することになりました。  金子さんの提唱する誰にでも読める詩文書、漢字かな交じりの書に精力的に取り組んでいます。  2009年に毎日書道展で文部科学大臣賞を受賞、2012年に草野心平の詩「富士山」を書いて毎日芸術賞を受賞など大きな賞を受賞されています。 去年秋の叙勲で旭日小綬章を受賞しました。  今年は4月にアメリカニューヨークで日本の書ニューヨーク展が開かれ、石飛さんは皆の前で書を書く揮毫をする他、大正大学の学生と共にアメリカの人たちに書道を指導しました。  6月には大阪関西万博で書道の展示や海外からの来場者をはじめ、誰もが筆の体験が出来る実演エリア体験エリアで指導をして評判になりました。

今84歳。 小学、中学のころから中国、日本の作品を真似て楽しんでいました。 金子鷗亭師匠は、師匠を否定しなさい、自分でどんどん求めて書いていきなさいと言われました。  色々な先生からひそかに盗んで自分のものにしてゆくという、そういう勉強の仕方が大事だろうと思います。  但し先生の真似をしているだけでは駄目です。 常に新しいものを求めて、発見して自分の字を作ってゆくんだという気持ちが大事です。  

高校3年で後の師匠になる金子鷗亭さんの講習会に参加させてもらいました。  手の使い方指の使い方などしっかり見ていました。  東京へ行くことを決意しました。  1960年東京学芸大学学芸学部書道科に入学、同時に金子鷗亭さんに師事することになりました。 

一昨年徳島県立書道館で書道展を行いました。  草野心平の詩「富士山」を展示しました。  横16m✕縦2m40cmです。   東日本大震災の折りに作成したものです。  必死になって書きました。  今年は4月にアメリカニューヨークに行き指導したりしました。   6月には大阪関西万博で書道の展示や書道体験を行いました。  こちらの展示場にも草野心平の詩「富士山」を展示しました。  

作品としては40から50点程度は書いています。  楽しい時もあれば苦しい時もあります。一作一作気合を込めて作っています。  これでよしと言う気持ちにはなかなかなれない。日本は中国から漢字の文化を輸入するだけではなくて、 ひらがなを作りました。   漢字、かな混じりの新しい文化として日本人は作りました。  素晴らしい文化だと思います。 

草野心平 富士山 作品第壱

  麓には桃や桜や杏がさき
  むらがる花花に蝶は舞ひ
  億萬萬の蝶は舞ひ
  七色の霞にたなびく
  夢みるわたくしの
  富士の祭典

  ぐるりいちめん花はさき
  ぐるりいちめん蝶は舞ひ
  昔からの楽器のすべては鳴り出すのだ
  種蒔きのように鳥はあつまり
  日本のすべての鳥はあつまり
  楽器といっしょに歌っている
  夢みるわたくしの
  富士の祭典
  
  七色の霞は雪に映え
  七色の陽炎になってゆらゆらする
  鹿や猪や熊や馬
  人はいないか 人もいるいる
  へうたんの酒や女の舞ひ
  標野(しめぬ)の人も歌っている
  ああ
  夢みるわたくしの
  富士の祭典

  遠く大雪嶺からは黄鳥が
  使者になって花を啣へて渡ってくる
  三つの海を渡ってくる
















2025年6月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 兼好法師「徒然草」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 兼好法師「徒然草」 

「日が暮れたが前途がまだ遠い。 我が生ももはやよろめく力なさである。  一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまう時期である。  約束も守るまい。 礼儀をも気かけまい。」 徒然草

清少納言の「枕草子」、 鴨長明の「方丈記」と並んで日本三大随筆の一つ。 

兼好法師とは卜部 兼好(うらべ の かねよし)と言って出家後は俗名を音読みした兼好(けんこう)を法名とした。  鎌倉時代の終わり頃に生まれて南北朝時代、70歳以上は生きたと言われている。 「徒然草」を書いたのは40~50代と言われているがそれもはっきりしない。   兼好法師が亡くなって100年後ぐらいに、正徹という僧侶が徒然草」をひきだし高く評価し、そこから有名になった。  

『徒然草』序段

つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」

することもなくもの寂しい暮らしの中で、朝から晩まで筆を手にしては、心に浮かんでは消えるたわいもないことを、とりとめもなく書きつけてゆくと我ながらわけの判らないように感じられる。 と言う様な内容です。

「つれづれなるまゝに」と言うところも、「退屈で寂しい」という意味にとる人もいれば、孤独の楽しみとか行の境地と言う意味にとる人もいる。 

「あやしうこそ物狂ほしけれ。」も妙にばかばかしい気持ちがすると言う様な謙遜に意味に捉えるのと、熱中しておかしくなるほど興奮しているという高揚感を表現してるとも捉えられている。  専門の学者のなかでも意見が分かれる。

ドイツ文学者の中野孝次さんが「徒然草」の本を出している。

「日本の古典文学の中で「徒然草」は私も最も親しんできた作品だ。  親しむと言っても鑑賞とか研究とかとは程遠くその中の好きな部分を勝手に我流に読んで、それをもって身のやしないとしてきただけだから、専門家から見たら随分偏った見方と言う事になろう。  しかし私は一般の読者が古典に近づくにはそれが一番と信じているのである。 中には自分で読むより先にまずカルチャーセンターのようなところに通って、専門家から字句や事項の説明を聞き、正しい解釈を知ったうえでないと古典に近づかないと言う人もいるようだが、それではどこまで行っても古典は我がものにはならないのじゃないかと言う気がする。  古典がわがものになるにはそのなかの一句でも半句でもいい、ある言葉に打たれそれがわが心のうちにはいり根付いて、もはや古典の文言なのか我が言葉なのか区別がつかないぐらいになり、我が生を導く様になってだと私は思う。」 

まず感動が先だと思います。  どこか一か所でも感動していただけたらと思います。

「日が暮れたが前途がまだ遠い。 我が生ももはやよろめく力なさである。  一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまう時期である。  約束も守るまい。 礼儀をも気かけまい。」 徒然草  112段の一節

人生短いので本当にやるべきことをやった方がいい、という事ですね。

188段

「或る人がその子を僧にして、仏教の学問を知り、因果の哲理をも取得し、説教などして世渡りの手段としてするも良かろうと言ったところが、子は親の命の通りに説教師になるためにまず乗馬を稽古した。  それは輿(こし)、人を乗せて担ぐ乗り物や、車、牛車のない身分で導に来た場合に、鞍に尻が座らないで落馬して困ると思ったからである。 その次には仏事の後に酒の振舞などあった時、坊主がまるで芸がなくとも施主は曲がないと思うだろうと、早歌と言うものを習った。   乗馬と早歌が段々上手になると益々やって見たくなって、稽古している間に説教を教わることが無くて、歳をとってしまった。  この坊主ばかりではない。  世間の人はこの坊主と同様なところがある。 」  「徒然草」

兼好法師はやるべきことをちゃんとやれと言っているが、なかなかできない。 

第137段

「花は満開を、月は名調なものばかり賞すべきものではあるまい。 雨に対して月に憧れたり、家に引きこもっていて気の付かぬうちに春が過ぎてしまっていたなど、情趣に富んだものである。  もう咲くばかりになっていたこずえだのちりしおれた庭などこそ、見どころが多いのである。」 「徒然草」

兼好法師は時間を惜しんで頑張ってきて、成功しろとか、なにごとかなせと言っているわけではない。  そういった価値観に振り回されずに、本当に自分が生きたいように、そう言っている。  

「木に坊主が登って、木のまたのところで見物していた。  木にとっ捕まていてよく眠っていて落ちそうになると目を覚ますことが度々であった。  これを観ている人が嘲笑して、実に馬鹿な奴だなあ、あんな危ない枝の上で平気で居眠りしているのだからと言っていたので、その時心に思い付いたままを、我等が生死の到来ただ今にもあるかもしれない、それを忘れてものを見て暮らしている、この馬鹿さ加減はあの坊主以上でしょう、と言った。」「徒然草」第41段の一節

こういった教訓話遺体なものは「徒然草」にはたくさんあります。

第109段

「「木登りの名人と言う定評のあった男が、人の指図をして高い木に登らせて梢を切らせたのに、非常に危険性があると思われた間は、何も言わないでいて降りる時軒場ぐらいの高さになってから、怪我をするな、気を付けて降りよと、言葉をかけたので、このぐらいなら飛び降りても降りられましょうに、どうして注意しますか、といったところが、そこがですよ、目のまわる様な枝の危ないところでは自分が恐ろしがって用心しているから申しません。  過失は何でもないところできっとしでかすものですよ、と言った。」  「徒然草」

「剣聖も信頼できない、強者は滅びやすい、財産の豊富も信頼できない、時の間に無くなってしまう。  才能が有っても信頼出来ない。  孔子でさえも不遇で有ったではないか。  徳望がるからと言って信頼は出来ない。  顔回、孔子の第一弟子でさえも不幸であった。 君子の寵遇も信頼できない。 たちまちに誅せられる。  罰として殺されることがある。  従者を連れているからと信頼することも出来ない。  主人を捨てて逃げ出すことがある。  人の行為も信頼できない。  きっと気が変る。  約束も信頼できない。  相手に信を守るのは少ない。」  「徒然草」 第211段の一節

あらゆるものが信頼できない。  このぐらいにい思っていれば、腹を立てたりがっかりしないで済むという事ですね。  何があっても動じるなという事です。

「悪人の生まれだと言って人を殺したら悪人である。  千里の駿馬、一日に千里を走るという名馬にみならうのは千里の駿馬の仲間である。  大聖、舜 古代の聖典を学ぶものは舜の一類である。  うわべだけにしろ賢者を手本にするのを、賢者と言っていいのである。」  「徒然草」 第211段の一節

兼好法師はうわべだけでもいいと言っている。  

「筆を取ればその気になってものが書かれ、楽器を取れば音を出したいと思い、盃を取れば酒を欲しいと思い、賽を手にすると賭博を欲する。  心というものは必ずそのことに触れて、催してくる。  いやしくもよからぬ戯れをしてはならない。  形式を尊重しているうちに、内容も充実してくる。  うわべだけの人を見てもむやみに不信人呼ばわりをしないがいい。  むしろ褒め尊重すべきである。」 「徒然草」 第157段の一節  

「いなばの国(現在の鳥取県)になにの入道とか言うものの娘が美貌だと言うので、多くの人が結婚を申し込んだが、この娘はただ栗ばかり食べて米の類は一向に食べなかったので、こんな変人は人の嫁にはやれないと言って親が許可しなかった。」 「徒然草」 第40段の全文

結婚を断る口実にしては栗しか食べないと言うのは、変な理由ですね。  

「盗人を捕縛しほかの悪事を詮議するよりは、世の人の飢えず凍えないような社会にしてほしいものである。  人は定収入が無いと方針も持てないものである。  切羽詰まって盗みもする。  世の中が上手くおさまらないで凍えたり飢えたりするような苦痛があると、犯罪者は絶えないわけである。  人民を苦しめて公金をおかさせるように仕向けて、それに罪を課するというのは不憫な技である。  しからばどうして人民を恵んだらよいかと申すなら、社会の上流に立つものが奢侈、浪費を止めて民を愛撫し、農業を奨励する、こうすれば下民が利益を受ける事疑いはない。  衣食住が人並であるのに、盗みを働く者こそ本当の盗人と言うべきではある。」  「徒然草」 第142段の一節  

「ふいにこの世を去ろうとする時になって、やっと過ぎてきた生涯の誤っていたことに気付くであろう。  誤りと言うのはよそ事ではない。  急を要することを後回しにし、後回しでよいことを急いで過ぎてきたことが悔しいのである。  その時に後悔したって間に合うものでもあるまい。  「徒然草」 第49段の一節 

人生の後悔について。


 



















2025年6月19日木曜日

笹野高史(俳優)             ・どうしても役者になりたい!思いは通じる

 笹野高史(俳優)             ・どうしても役者になりたい!思いは通じる

笹野さんは1948年兵庫県淡路島生まれ。  高校卒業後俳優を目指してに日本大学芸術学部映画学科に入学。  しかし大学2年の時に中退して東南アジア航路の船会社に就職して、船員となります。  その後串田和美主宰の自由劇場に入り俳優活動を始めました。 1979年初演の舞台「上海バンスキング」で注目されるようになります。  1982年自由劇場を退団、活躍の場を映像作品へと広げます。  1985年念願の山田洋次監督の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演、以来「男はつらいよ」シリーズの常連となり、山田洋二監督作品には欠かせない俳優となります。  又舞台では「コクーン歌舞伎」「平成中村座」など歌舞伎にも出演しました。 

母親の時代は当時大流行でした。  映画が大好きな母親でした。  淡路島造り酒屋「東洋長」に四男として誕生。  3歳の時に父を亡くしました。(結核)  母親にもうつっていて母親と兄弟が療養のために別の家に住んでいました。  母親に連れられて映画館に行きました。 (小学校に入る前)  11歳の時に母を相次ぎ亡くして、実家の戻って育てられました。  中学になって自分で映画を観るようになりました。  映画俳優になりたいなあと思い始めましたが、口には出せませんでした。  雑誌から映画俳優になるための方法についての本のことが書いてありました。  手紙を出して届いたのが、呼吸法、しゃべり方などの本でした。  隠しておいた本を兄貴に見つけられてしまいました。  兄たちに大反対されました。  

大学に日本大学芸術学部映画学科があることを調べたら知りました。  俳優コースに入り立ったが、反対されるので監督コースを、という事にしました。   大学に入ることになりまいた。  池袋の映画観に良く通いました。   演劇のグループに入って演劇のことを一から教えて貰いました。  先輩が自由劇場に入って、その先輩に誘われて入りました。  1年後に柄本明が入って来ました。  俳優ってあんな風体でもいいんだと思いました。  学生運動が盛んになり、 小劇場も運動に巻き込まれました。   自分の居場所がなくなってしまいました。  お金を使わないで外国に行くのは船乗りだと思いました。  て東南アジア航路の船会社に就職して、船員となりました。  凄く楽しかったです。  

段々学生運動、小劇場の運動も収束していきました。  船員の道か芝居の道か、悩みました。  役者でやらしていただきたいと、23歳の時に言いました。  自由劇場に入りました。  佐藤B作さんが自由劇場を辞めて自分で劇団を立ち上げました。  柄本さんも辞めました。  彼らがテレビに出るようになって、 役者が飯を食えるようになったんだと思いました。    憧れていた映画「男はつらいよ」に佐藤B作さんが出ました。  悔しかったですね。  自分で頑張ればいけるのではないかと思って、勇気を貰いました。  柄本さんも出ました。  自分でも頑張とうと思いました。  

自由劇団を辞める2年前に「上海バンスキング」がヒットしました。  それで賠償千恵子さん主役のミュージカルへのオファーがありました。  賠償千恵子さんから山田洋次監督に繋がるのではないかと思いました。  舞台を山田洋次監督が見ていただいて、36作目の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演することになりました。  以後毎回呼んでいただきました。  或る人から「笹野さんは主役をやろうと思っちゃ駄目、笹野さんは脇で光る人なんだから」と言われました。   脇を見事にやってのける俳優になってやろうじゃないかと、思いなおしました。  俳優はいつもピカピカなリンゴでないといけないと思っています。 このリンゴは美味しそうだと買っていただくので。  心も身も元気で居ようと心がけています。   セリフが覚えてれるうちはもうちょっとましな役者になりたいと思っています。


















 










2025年6月15日日曜日

忽那健太(プロラグビー選手)      ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦

忽那健太(プロラグビー選手)    ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦 

最近は海外のリーグに挑戦するラグビー選手が多くなってきましたが、まだ日本人のプロ選手がいないスコットランドのプロリーグに挑戦した選手がいます。  忽那健太(くつな けんた)さん30歳。  忽那さんは愛媛県松山市出身で5歳の時からラグビーをはじめ、高校ラグビーの名門石見智翠館高等学校(島根県)から筑波大学、社会人のジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)でトップレベルで活躍しました。  その後膀胱がんの治療を行い、命に限りがある事を改めて知らされ、出来るうちにラグビーの王国イギリスでプレーしたいと一昨年スコットランドのあるクラブチームで活動を始めました。  目標はスコットランドで日本人がまだ誰もなし遂げたことのないプロ契約を結ぶ事でした。  2年間の挑戦を終えて帰国したプロラグビー選手の忽那健太さんにお話を伺いました。

今、全国を回っています。  小中高校大学、社会人の企業団体を回って、命の大切さとチャレンジすることお大切さをやっています。  講話とラグビーの練習もします。  モットーが「やるか、めっちゃやるか」です。  3年前に膀胱がんを患って命と向き合う時間を持ちました。 生きるか、めっちゃいきるか、と思っていまして、一回の人生を後悔無く生きるという思いがあり、「やるか、めっちゃやるか」と言う言葉を使っています。 本気で生きるという事です。  

父は陸上部でした。  団体で競技するラグビーに憧れを持っていたようです。  兄弟3人をラグビースクールに放り込みました。  現在兄が32歳、私が30歳、弟が28歳です。   兄を目標にしていました。   ラグビーは人間臭いスポーツだと思っていて、沢山の友達を作ることが出来ます。  強豪校に行きたくて島根県の石見智翠館高等学校に行きました。 (猛反対があったが。)  3年生ではキャプテンとなって全国大会で準優勝をしています。  大学は筑波大学を選択しました。   体育教員を目指しました。  中学からずっとキャプテンをやって来ました。  責任を負うという事が結構好きでした。  引っ張ってゆくには言葉と行動のバランスですね。  「挑戦する先には成功か成長しかない。」と思っています。 これはスコットランドへ行ってきた経験から得たものです。  挑戦する過程が成功なんじゃなかと思います。   

2017年ジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)に入ります。  トップリーグで戦いましたが、完全に鼻をへし折られました。  身長が172cm、体重が82kgで大きい方ではありません。  3年間プレーした後、26歳の時に膀胱がんと診断されました。   頭が真っ白になりました。  かなり大きくなっていて、2回手術を受けました。(1か月入院)  転移している可能性もあり、先が見えない時間でした。   死を意識末うと同時に人間は死を目前にした時に生の執着は凄いと思いました。  生きるとは何だろうと凄く考えさせられました。  未来に向けて時間を過ごそうと思って、自分が治った後は何がしたいのか、ノートに書き続けました。  もう一回ラグビーがしたいと思いました。  命はいつでも終わると感じて、今をとことん本気で生きようと思いました。 先生から「転移はなかったです。」と言われた時に、泣いてしまいました。  もう一回本気でラグビーをやってみたいと思いました。   

2023年選手として復帰、スコットランドでのプロ活動への挑戦を表明しました。  2回目の人生を貰っているんだという思いがあり、あてのない海外活動でしたが、不安感よりもわくわく感が上回っていました。  安いホテルを捜してチーム探しから始めました。  ヘリオッツ・ラグビークラブに入れました。   司令塔のポジションでした。  英語の会話はそれほどではなかったので苦労しました。  女子のラグビーチームのコーチも担当しました。仕事はチームメイトが紹介してくれた引っ越しやさんの会社で働きました。  週45時間契約で月~金まで働きました。 (何回かもう死ぬかなと思うほどでした。)  夜週3回の練習がありました。  1年目は国内3部リーグのアマチュアリーグでプレイ、年間25試合で24試合に出場、MVP4回選ばれる。  首に怪我をしてしまいました。 

2部リーグ契約直前で2部リーグが軽々破綻という事で解散になってしまいました。  日本に帰る選択肢もありましたが、残る決断をしました。  目標のプロ契約は出来ませんでしたが、思いつくことは全部行動に移したので、後悔はないです。  2025年4月7日、韓国実業団ラグビーユニオンからオファーがあり、プロ契約を結びました。  日本に戻ってきましたが、スコットランドで学んだこと、経験を伝えていきたい。  それと命の大切さを伝えたい。四国二日本一を目指すチームを作りたいという思いもあります。   情熱は磁石だと思います。














2025年6月14日土曜日

2025年6月13日金曜日

ヨシタケシンスケ(絵本作家)       ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

 ヨシタケシンスケ(絵本作家)   ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

ヨシタケさんは40歳お時にオリジナル絵本「りんごかもしれない」を出版、ヨシタケさんが作る様々なアイディアが展開する筋立てのない絵本は発想絵本と呼ばれ、以来数々の賞を受賞、ヒット絵本を生み出し続けている人気絵本作家です。  ネガティブでしょんぼりしがちだというヨシタケさんならではの視点で作られる絵本は多くの人の共感を得ています。 現在「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会が全国を巡回しています。  絵本の世界を体験出来て ヨシタケさんの頭の中に迫る展示会は子供たちにも大人気です。  デビューから12年を迎えた絵本作家 ヨシタケシンスケさんにお話を伺いました。 

デビューから12年が経ちましたが、ここまでやれるとは思っていませんでした。  僕が本にテーマとして選びたい事と皆さんがこれは私に興味があるテーマだと思ってくださる事が思いのほか一致していたことが、凄く運のいい事としかいいようがないです。  その時その時家庭で起きたニュースを作品にするタイプなんだなという事が3,4年経って判って来ました。  人間身体が変ってゆくと考え方も随分変わるという事がここ5年ぐらいで身に染みたことです。   子供の頃の自分が知りたかったこと、読みたかったものを作ろうと、ずっと作ってきて、最近はそれに加えて5年、10年先の自分に向けて描いている感覚があって、そういった作品つくりだと思います。  

私の本を読んでよく視点が優しいと言われることがあります。  それは僕自身が優しくしてほしいからなんです。  自分にとって世の中はこういう風なものなんだよと言われた方がむしろ頑張れるなとか、しんどさから抜か出せるなとか、日々自分で考えながらやっています。 傷つきやすさ、生きずらさみたいなものが、モチベーションになっている。  自分の弱さみたいなものが経費で?落ちる仕事があるなんて知りませんでした。  この表現の世界は優しい世界なんだなあと思います。  

3年前から大規模な個展を全国で巡回しています。  原画展で出来るとは思っていませんでした。  僕の原画は小さいし色もついていないし、場所が余ってしまう。  工夫する中で、本が出来るまでの頭のなかで起きた事の様子を見てもらうという空間を作って行きました。  展覧会は団体競技として作る場なので、自分一人ではできない面白さを凄く感じました。  僕は会場には居ませんので、何を言っても大丈夫です。  「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会です。   新しい選択肢、こういう事もあるかもね、と言う考え方、視点、可能性を「かもしれない」と言う言葉でやって来たので、一つのテーマとして集約するものだと思っています。  断言しない。 

2023年うつ病と診断されました。  元々ネガティブな人間でした。  この4,5年で体力がガクッと落ちました。  ネガティブを体力で補って来ていたのを、体力が落ちてくると補えなくなる。  軽度の鬱状態と言う診断でした。    行って急に治るものでもないと思ったし、いろいろ考えたらもとに戻ることが出来ました。  しんどさを語る事の難しさを凄く改めて感じました。   救いになったものと言うのは今は見つからないが、いつかは見つかるかもしれない、それが救いといっていいのかもしれない。  自分を好きになる事だけが自己肯定の方法なんだろうかと思えるようになってきて、自分と仲良く出来ないという事に慣れてゆくことも、自己肯定の一つなんだろなあと最近は思うようになりました。 

ヨイヨワネ うつぶせ編」、ヨイヨワネ あおむけ編」 弱い自分でいいんだ、弱音を吐いていいんだと言ったものです。  自分に取っては本当に必要な行為であって、この2,3年弱音は半端じゃなかったです。  しんどさを言葉と絵にしたかった。  自分を救うための表現。   生きるのがしんどいあなたに為のウェブ空間 「かくれてしまえばいいのです」に関わりました。  いま「死にたい」「消えたい」と思い悩んでいる子どもや若者への提案です。

一旦この世から隠れてしまえばいいのではないかと思って、隠れる場所さえあればあの世にいかなくてもいいんじゃないかと、この世とあの世の間の「その世」を作って避難する、シェルターのような役割として、そういう場所が良いのではないかと思いました。  チームの人たちが作家としての私を提案を尊重してくださいました。   24時間無料で利用できます。  アクセス数が1か月で200万を越えている。   つらさとか実在する人がいるという事を可視化できるツールは今までなかった。  辛いのは自分一人ではないんだなと思うだけでも、孤独感は薄れたりもする。  最終的に人を救うにはストーリーしかないんだなという思いがあります。   自分で作るストーリもあるし、2000年、3000年とか使われ続けているストーリーもあります。  物語でしか人は世の中を認識出来ない生き物なんだろうなあと思います。  生きていきたくないという人たちに対して、どういうストーリーが用意出来るのか、そういう人に何を届けられるのか、沢山考えることは自分の中で新しいテーマが頂けた気がしています。  自分に取っても必要だった。  

今年52歳になります。  老いについてがテーマ、「まてないの」  あかちゃんから、おばあちゃんまで。まてない人の、まてない絵本。  高齢者向けの絵本があっていいだろうし、高齢者向けの絵本をちっちゃい子が読んだ時に 、どう思うんだという事にも興味があります。  〔人生のみちしるべ〕を捜さなければとあせっていますが、無くてもいいなと言う風に思うために、みちしるべ以外のものが欲しいなと思います。  最後までじたばたする人を見て安心したいです。  自分に甘いから人にも甘くなる。  皆のことを許すから俺のことを許してくれと言う生き方をしているので、そうすればもうちょっと平和になると思います。