2025年4月11日金曜日

とよたかずひこ(絵本作家)         ・〔人生のみちしるべ〕 小さい子たちへの応援歌

とよたかずひこ(絵本作家)         ・〔人生のみちしるべ〕 小さい子たちへの応援歌 

とよたさんが作る絵本は赤ちゃんや幼児に向けた小さい子供たちへの絵本です。  日本絵本賞を受賞した「どんどこももんちゃん」のシリーズや「わにのばるぼんさん」のシリーズなど子供たちに支持されロングセラーとなっている作品を数多く生み出してきました。  とよたさんは1947年宮城県仙台市生まれ。(77歳)  高校まで仙台で暮らし、大学は早稲田大学第一文学部に入学、卒業後はフリーのイラストレーターとして働きますが、長女の誕生をきっかけに絵本つくりをはじめます。  1983年36歳で絵本作家としてデビューしますが、その後思う様な絵本を作ることが出来ず、イラストレーターとしての収入を得ながら、絵本つくりに挑戦を続けます。  転機が訪れたのはデビューから14年後、50歳で発表した絵本「でんしゃにのって」だと言います。  小さな子供達への絵本つくりに込める思いを伺いました。

絵を描くという仕事は肉体労働なので、病と付き合いながらベストな状況でやらないと、表現するのに知らず知らず出てきちゃうので注意するという事で規則正しい生活が大事だなあと思います。  自分を鼓舞するという事は知らず知らずやっています。  今生きている子供は独特の反応をしてくれるので、知らず知らず自分の作品に反映されているんだなという事は考えたことはあります。  

「どんどこももんちゃん」 2001年出版  日本絵本賞を受賞

全身が桃色の桃のような頭の形をした小さな子供が主人公。

「どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ。 桃んちゃんが急いでいます。 どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ。 桃んちゃんが急いでいます。
橋をわたり、坂道をのぼり……ももんちゃんが、いそいでどこかへ向かっています。
山の上でくまさんにとうせんぼされても、どどどどどどどーんとたおし、どんどこ進んでいくももんちゃん。・・・・・どんどこ どんどこ。 ももんちゃんが急いでいます。 どんどこ どんどこ どんどこ どんどこ。 どーん」

とうせんぼしたくまさんを投げ飛ばして、先を急ぎます。 ところがたいへん、さかでころんで頭をぶつけちゃった! それでもたちあがり、涙をこらえてかけていくももちゃんがどんと飛びついたのがエプロンをしたお母さんの両腕の中でした。

自立したあかちゃん。  中学2年生にこの本を読み聞かせたこともあるそうで、「走れロメス」と「どんどこももんちゃん」が走る姿を重ね合わせた非常に哲学的な解釈をした感想文が多くありました。 

28歳で結婚して32歳で長女が生まれました。  子供の頃は絵が好きでした。  機関車を書いたり溶鉱炉の断面図を書いたりしていました。  小学校4年生の時に宮城県庁を描く時間があり、そこに馬車も描いたらそれが宮城県の特選第一席になりました。  48色のクレパスも貰いました。  

大学卒業後或るプロダクションに入りました。 長女が生まれて、始めて絵本と向き合いました。   肩の力が抜けた絵がとっても多いんです。  こんな絵でいいのかと思いました。  でもその絵に子供は反応するんです。  1983年36歳の時に「ぼくはやっぱりとりなんだ」を出版。(デビュー作)   作品の力と言うものがあるということに気付きました。 デビューから14年目に「でんしゃにのって」を出版。(50歳)  これは祖母からの話が元ネタになっています。  動物が乗って来る淡々としていて、いい仕上がりではなかったと自分では思っていました。  出版社の方から面白いと言われました。  ここから作り方を変えていきました。  繰り返し読んで貰える絵本を作ろうと心がけています。  絵が好きだという事が基本的になります。  乳幼児向けの絵本を深堀りしていきたいです。 









 



2025年4月10日木曜日

東ちづる(俳優 一般社団法人 Get in touch 代表)・まぜこぜの未来 〜“ちがい”を楽しむ社会をめざして

東ちづる(俳優 一般社団法人 Get in touch 代表)・まぜこぜの未来 〜“ちがい”を楽しむ社会をめざして 

まぜこぜの社会という理念のもと、障害の有無、国籍、年齢、性別と言った違いを越えて、誰もが共に生きられる社会の実現を目指し、様々な活動を続けています。  多様な活動の原動力、活動を通じて見えて来た社会の課題、まぜこぜの社会に込めた思いについて伺いました。

一般社団法人 Get in touch 代表という側面があります。  多様性社会を目指して、アート、音楽、映像、舞台などのエンターテーメントを通じて、私たちは多種多様な人たちと暮らしているんですよという事を、見える化、可視化、体現化する活動をしています。  舞台を作ったり、映像制作をしたり、アート展を開いたり、障害の有るアーティストの作品と企業さんを結び付けて商品開発をしたり、音楽を作っていろいろなアーティストに歌ってもらったり、沢山のコンテンツを展開しています。  報道番組からこの世界に入りました。  政治と報道は困った人のためにあるんだよと或る人から教えてもらいました。  白血病などの患者さんのための治療法である骨髄移植のための骨髄バンクを知ってもらうための活動からスタートしました。(33年前)    

白血病の18歳の少年のテレビ番組を見て、いろいろ考えてしまって自分は芸能界にいる意味があるのかなあとか考えました。  最初はポスターを作りました。  活動を続ける中で患者さんとそのご家族、ご遺族の方とつながりが出来て、全国各地でいろいろなことをする様になりました。  1999年からドイツ国際平和村と携わるようになりました。  ライフワークにしようと思って今も続いています。  戦争で傷ついた子供たちを救う団体と一緒に活動しています。   始めた当時は芸能人としてデメリットしかありませんでした。  

2011年から一般社団法人 Get in touchを立ち上げました。  東日本大震災があり被災地の避難所が日本の縮図でした。  普段から生きづらさを感じている人たちが不安に陥りました。  いざと言う時に支え合う社会作りだと思っていたが、こういう時に置いてきぼりになってしまう人がいるという事は寂しいなあと思いました。  社会的弱者が避難所に入ることを遠慮したり、躊躇したり、十分な救援物資が入手できなかったりしたんです。  企業、福祉団体、政治家等々とつながった方がいいんだなと思いました。  東日本以外の障害の有る人たちが自分たちも役に立ちたいと、彼らが描いた絵を東京で売って福祉施設にお金を送るとか、といったやり方を始めました。(今でも続いている。)  

企業とかほかの団体ともつなげてゆきました。   Get in touchは訳としては「報告する・」ですが、感覚的には「繋がりましょう・」と言う感じです。  今は企業さんとかとも繋がり易い時代になりました。  巻き込んでいきたい、自分事としてほしいということです。    多様性などと言うと遠いい感じがするので、「まぜこぜの社会」という表現にしています。   浅く広く緩く依存しあう方が自立できるので、皆で頼り合うという事です。  それをエンターテーメントで拡げて行っています。  笑いが重要です。  最後には見ている人がこれでいいのかなあともやもやして貰う。  

夫も難病になってしまいましたが、最初の2年間は病名が判りませんでした。  身体が思うように動かなくなってしまいました。   1年ちょっと寝たきりになりました。  病名(ジストニア)がわかりましたが、治療法はないと言われて、対処法で回復していきましょうと言われました。  今は車椅子で移動できます。  車の運転も出来ます。  仕事にも行けるようにもなりました。   人生順風満帆などないという事は活動のなかからは知っていました。  或る程度の覚悟があってよかったと思います。  人間は凄い回復力があるということは信じています。   冷静な覚悟と冷静な希望ですね。  私も出血性胃潰瘍になっています。  普段の生活の不摂生と直ぐに病院に行かなかったことです。(コロナ禍)  大きな仕事が入っていて、入院中に電話、オンライン会議して、家事もしなくていいので集中して仕事が出来ました。(東京オリンピックパラリンピック文化プログラム)  

東京オリンピックパラリンピック文化プログラムについて実際にやってみるとすごく大変でした。  ありとあらゆるマイノリティーと呼ばれる特性のあるプロのパフォーマー、アーティストの人たちです。  何か月間も会議をして、メチャクチャ勉強になりました。  説得したり譲歩もしたりしました。   彼らの活躍するチャンスが増えました。  「妖怪まぜこぜ大百科」と言う本を出しました。   妖怪を使って、いろいろな社会課題を述べさせています。 映画 「まぜこぜ一座殺人事件~まつりのあとのあとのまつり」と言う映画に私も出演しています。  人に役立つ社会を作ろうという風に思っています。





 





2025年4月9日水曜日

越尾正子(やなせたかし元秘書)      ・アンパンマンと私の出会い

越尾正子(やなせたかし元秘書)      ・アンパンマンと私の出会い 

越尾さんは1948年東京生まれ。  茶道の稽古を通じて、やなせさんの妻暢(のぶ)さんと親しくなってやなせスタジオに入社、秘書としてやなせたかしさんを支え続けました。  現在はやなせスタジオの代表を務めています。 

やなせたかしさんご夫妻をモデルにした連続テレビ小説「アンパンマン」がいよいよ放送が始まりました。  暢(のぶ)さんは親しみやすいけれども、教えることはきっちり教える人です。   深く知ろうとはしませんでした。  会社を辞めたことを暢(のぶ)さんに話したら家に来ないかと誘われました。  やなせさんが亡くなった後も数えると30年近くになります。  暢さんはやなせさんに対しては、仕事のことは一切言いませんでした。  事務関係、経理のこと、通帳、印鑑などどんと渡されました。  「もし私が悪い人だったらどうするんですか。」と聞いたら、「私の見る目が無かったと諦める。」と言ったんです。  驚くだけでした。  

やなせさんはきちんとデスクの前に座らないと書けないという性格でした。  建物の中に自宅もあれば、仕事場もあるというところでした。  自宅には奥さんのお茶室もあります。   働き者でした。  「ハチキンお暢」と言われていました。  ハチキンとは「男勝りの女性」を指す土佐弁。 高知県の女性は、話し方や行動などがはっきりしており快活、気のいい性格で負けん気が強いが、一本調子でおだてに弱いといわれる。二人だけの時には暢さんのことをやなせさんは「おぶちゃん」と言っていました。         

やなせさんは、「作品は人生で書く。」と言っていました。  自分の人生が作品に反映される。   書いているうちにこの性格は奥さんに似ているとか、お母さんに似ているとか、と言った感じです。  最初からモデルにして書くという事ではないです。  奥さんはドキンちゃんに似ていると言われますが、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラみたいな性格で書こうと思って、書いているうちに奥さんに似て来たりする訳です。   敵役を作ろうという事で後から出来たのがばいきんまんなんです。  ばいきんまんは蝿がモチーフになっています。  羽根もちいさくなっていきました 。 

 *「私はどきんちゃん」 作詞:やなせたかし  作曲:いずみたく

最初アンパンマンは大人には不評だった。  顔を食べさせるのは残酷だとか、幼稚園の先生は良くないとか言っていました。  子供たちが大好きになって、そのうちに先生方も理解してくれるようになりました。  やなせ先生も子供たちがなんで好きになったのかわからないと言っていました。  やなせ先生が子供の頃はアンパンが主流だったので、その印象が強いからアンパンに使ったと言っています。   弟さんを亡くしていますが、歳を取って来るにつれて寂しさがより凄く強くなったと言っています。  弟さんは千尋さんと言って海軍に志願して行きましたが、戦死してしまいました。  

アンパンマンが注目されるようになったころ、暢さんは乳がんに罹られました。  アニメで放送されて3年目ぐらいから徐々に悪くなって亡くなってしまいます。  先生は仕事をしながら少しづつ元気を取り戻して行きました。  暢さんが亡くなられてから20年後、2013年10月に94歳で亡くなりました。  目も段々と見えなくなって太い線で描いているんですが、「絵を描く面白さがわかった。」と言っていました。  絵を描くことで別の楽しみを見つけた様です。  

「やなせたかし先生のしっぽ  やなせ夫妻のとっておき話」を出版しました。 

「神様、仏様 ありがとう。 ありがとう。  お父さん、お母さん ありがとう。 ありがとう。  おぶちゃん 千尋 ありがとう。 ありがとう。  越尾さん ありがとう。 ありがとう。  越尾さん 越尾さん ありがとう。 ありがとう。 ありがとう。」 

先生は戦争を体験しているが、その後94歳まで生きて、「ありがとう」と言う言葉しかやなせ先生はなかったんだなと思いました。  生きる工夫をすべてして、生き切ったなと思っています。

 







2025年4月8日火曜日

カルーセル麻紀(タレント)        ・男に生まれ、女として生きる

 カルーセル麻紀(タレント)        ・男に生まれ、女として生きる

北海道釧路市出身。  映画「一月の恋に歓びを刻め」で第79回毎日映画コンクールで助演俳優賞を受賞しました。  この映画は三島有紀子監督が47年間向かい続けたある事件をモチーフにした性暴力と心のきずがテーマだと言います。 ー20℃の北海道での撮影でとても過酷なロケだったと言います。  カルーセル麻紀さんは1942年生まれの82歳。  1972年にモロッコで性別適合手術を受け、2002年に戸籍の性別を男性から女性へと変更ができました。  当時は差別が大きかったのですが、今はLGBTQ性的少数者への理解が広がりつつあります。 10年ほど前から足の痛みが脳梗塞、目に痛みに襲われましたが、いまは元気になっています。 

 映画「一月の恋に歓びを刻め」で第79回毎日映画コンクールで助演俳優賞を受賞。   貰って初めて嬉しかったです。   鉄工所の一人息子が見合い結婚をして、子供が2人出来てから、どうしても自分は違うと気が付いたそうです。  どうしても女になりたくて奥さんに隠れて女装などしていたそうです。  今回の映画は手術をうけて女性になった父親演じました。  一人で5役をしなくてはいけなくて、難しかったです。  大変でした。  性暴力と心のきずがテーマになっています。  一回見ただけではなかなかわからない。 

カルーセルと言う意味はフランス語で、メリーゴーランドと言う意味です。  1972年にモロッコで性別適合手術を受けました。(53年前)  2002年に戸籍の性別を男性から女性へと変更ができました。  日劇に出た時にマスコミが大騒ぎしました。  グラビアのヌードの仕事ばっかりでした。   9人兄弟で姉が4人いました。  名前が徹男でした。 女性の着物を着たくて姉の着物を着たりしていました。   自分のことは自分でしようと思って新聞配達をはじめました。  夏休みはアルバイトもして、親には面倒掛けないようにしました。  小学校6年までは銭湯で女湯に入っていて、中学になった時に父親から男湯に連れていかれました。(女になりたいとは思っていなかった。)  

姉が本をよく読む人で、三島由紀夫さんの「禁色」があり、それを読んでこういう世界があるんだとぼんやり思いました。  そのころに丸山明宏さんが出てきました。  週刊誌でゲイバーも出ていました。  高校は受からないと思っていたが、受かっちゃいました。  美容師になりたいと思っていましたが、高校に行くことにしました。  演劇部に入り、女役が似合いました。  15歳で東京目指して家出しました。  年齢を誤魔化して北海道札幌市ゲイバーに勤務しました。   親が探して、掴まってしまいました。 母は寝込んでしまいました。   兄からは出て行ってもいいから、もう二度とうちの敷居をまたぐなよと言われました。  店にまた戻りました。(16歳)  その後いろいろなところを流れ歩きました。   その後東京の銀座のバーに行きました。  「麻紀」と言う名前になりました。 

その店からも逃げて全国を転々としました。  名古屋の「カルーセル」と言う店で働きました。  それが芸名になりました。  酒もたばこもやります。 2011年に閉塞性動脈硬化症と言う病名になりました。  70歳で足が痛いと思い歩けなくなりました。  もうちょっと遅かったら足を切断するところだったと言われました。   足を9回手術をしました。  昨年末にも手術をしてロケがあるから返してくださいと言いました。  又5月にも手術があります。  タバコと酒がいけないそうです。  2020年には脳梗塞となってしまいました。  救急車で運ばれて脳梗塞の手術をしました。  3日間で退院しました。 後遺症は幸いなかったです。  右目もちょっと見えなくなっています。  血管が原因のようです。  2回手術をしましたが、全然治りませんでしたが、その後見えるようになりました。  目薬をつけると物凄く痛いです。   100歳まで生きたいと或る所で言ってました。  仕事のためにその衣装を着たく邪魔だったんです。  女になって結婚したいとは思わない。 それぞれの考え方は違っていていいと思います。   生きていれば楽しい事はいっぱいあります。  仕事はやって行きたい。 





2025年4月5日土曜日

2025年4月2日水曜日

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕

ペギー葉山さん 7年前に亡くなる。 1933年生まれ。 30代の半ばに直木賞を頂いた時にペギーさんがお祝いにかけつけてくれました。   CMソング、ミュージカルの時代からずーっと一緒に長い間仕事をしてきましたので同士的な感じがします。 (年齢がほぼおなじ)   亡くなった時にはガックリしました。   デビュー曲が「ドミノ」 ジャズの歌い手として出ました。 「南国土佐をあとにして」を貰った時には最初随分抵抗したそうです。  歌った結果大成功でした。  「「学生時代」もぴったりでした。  歌の幅が広い、実力派でした。    役者魂の有る人で体当たりで演じていました。(妊娠していたのにも関わらず坂道を一生懸命走ったり)   

 都はるみさん  一緒に京都中を歩いて一冊本を作ったことがあります。 (対談集)  自分が演歌を歌うようになったきっかけの話を伺いました。  帰りにジャズ喫茶に行った時にかかっていた曲があって本当はこんな曲を歌いたかったんだとぽつんといったのが、とても印象的でした。  八代亜紀さん デビュー前はジャズを歌っていました。  演歌を歌っている人たちは現代音楽みたいなものの洗礼を受けている人が多い。  都はるみさんの歌い方は譜面よりも微妙にちょっと上に有ります。  だから明るい感じになる。  ジャズを歌っても凄く上手く歌ったのではないかと思います。 

井上陽水さん 「青空二人旅」という本になっています。  対談なので二人旅としました。  彼は福岡で僕も福岡なのでどこかあいますね。  麻雀なんかも一緒にやりました。  対談では直ぐ答えるというのではなく、自分で質問をかみ砕いて答えを出してゆくという人でした。  理論的側面のある音楽家でした。  才能が有りました。  その時代の空気感を無意識のうちに歌の中には感じられるところがあり素晴らしいです。 

歌作りの現場に触れることが出来たという事は作家としては大きな収穫だったと思います。 

浅川マキさん  石川県の人です。  役場に勤めていたという事を聞いたことがあります。 東京に出てきて寺山修司と出会って、「かもめ」とか曲を提供してもらって、あの当時を代表する大スターでした。   「夜が明けたら」僕はあの歌が一番好きです。

山崎ハコさん 音楽生活50年と言っていました。  「織江の歌」 僕が作詞。 大分の方です。  

日本の歌い手は一色ではないという事が素晴らしいと思います。 一つの歌でも違う歌い手さんが歌うとガラッと違う感じになります。  

*「青年は荒野をめざす」 作詞:五木寛之 作曲:加藤和彦 ザ・フォーク・クルセダーズ                       週刊『平凡パンチ』に、1967年3月から10月まで連載した青春小説で人気がありました。 

1965年に一般人の海外渡航がOKになりました。  外国に行くという事は荒野をめざすという様な時代でした。  今はレジャーといった感じです。 

専属作詞家として働いた時期があります。  

 






2025年4月1日火曜日

柴田南雄(作曲家 音楽評論家)      ・〔わが心の人〕

柴田南雄(作曲家 音楽評論家)      ・〔わが心の人〕

柴田南雄さんは文化功労者でもあります。  大正5年現在の東京都千代田区神田駿河台生まれ。幼少のころから母にピアノを習い、 大学時代諸井三郎から作曲を学びました。  東京芸術大学を初め多くの大学で作曲や音楽理論を教え、後進を育成しました。  音楽評論家としてもNHKの番組でもおなじみです。  平成8年2月に亡くなられました。(79歳)

お話は仙道作三さんです。  柴田さんがラジオの音楽番組に出演したのは戦後まもなくです。 (昭和22年 31歳)   その後テレビ、放送大学の先生を担当。  先生とは1971年にお会いしました。  私は中卒で集団就職で東京に出てきました。  クラシックギターを習って町工場で働いていまた。  25歳でクラシックギターを教え始めましたが、理論を知りたいと26歳で柴田先生のところに飛び込みました。  柴田先生の家柄は学者の家柄で、森鴎外の「雁」に出てくる柴田承桂さんと言う人のセリフで「ドイツに渡航するのであれば柴田承桂君に聞き給え。」と書いてありますが、ドイツの薬学を持ってきて薬剤師の名前を付け、東京大学の医学部教授になられたのが柴田承桂さんです。  柴田先生の父親は柴田雄次さんでドイツから化学を持ってきて、東京大学の教授になられた方です。 柴田先生も東大を出られて、私も弟子にしてもらいました。  1週間に一回の稽古でした。  1年目は月謝を払いまいたが、2年目からはいらないよと言われました。 (7年間無料) 

ハーモニーの連結 4つの旋律の和声?がありますが、それをどのように連結すれば、美しいハーモニーが出来るかと言う、8小節、16小節の和声、連結の仕方です。 それをチェックして貰います。  2年目には万葉集にメロディーをつけて、ハーモニーを作るという宿題をあたえられました。   自分で考えた旋律を作る。  万葉集を100冊買いました。 (月賦)  古典文学を勉強して大変勉強になりました。  3年目に私の故郷に先生も同行することになりました。  先生とフィールドワークの調査、研究をしました。  録音してきたものをNHKのラジオから流れるわけです。   柴田先生は芸大の先生を辞めて民俗学に入り、日本の民俗学の研究をはじめました。(フィールドワーク)  静岡県の念仏踊りを取材しました。  越後瞽女、田沢湖の方とか様々なところに行きました。  貴重な記録です。  

先生がシアターピースと言う方法で作った漫才流しの2曲目は強く印象に残っています。   一般的に合唱団は左からソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスという6種類の形態で並んで歌います。  シアターピースと言うのは、舞台でやってホールの方に階段で降りてきて演奏する訳でです。  劇場全体が歌う場。  今も私は継承しています。   漫才流し 三河漫才から始まって、秋田の方に移って発展して来ました。(秋田漫才、横手漫才)   漫才を新しい感覚で自身で合唱を作りました。(シアターピース方式)  

*合唱曲 「漫才流し」  柴田南雄作品

柴田先生の一番すごいところは、「人間について」と言う曲があって、宇宙について、人間と死、自然についてとかいろんな曲、未来につながる永遠のテーマを作っています。  柴田さんは東大で植物学、哲学を学ぶ。  先生は縄文土器、弥生土器も研究して、縄文土器の笛を使って音程を出したりしました。  私の知識と教養を柴田先生が育ててくださった。  とても好奇心の旺盛な方です。  

先生からは「民俗学を研究して新しい自分の様式を作り、研究する人間になりなさい。」と言われました。  私も自然と民族学の方に入って行きました。   宮沢賢治世界、いろんな日本の古典文学、樋口一葉、明治の歌人、文学者の人たちなどをテーマにオペラを作ったり音楽を作って来ました。   今111曲になりました。 

*「利根川322」 第一楽章冒頭の部分 (利根川は322km流れている。)

4月26日に「鳥獣戯画」を発表します。  9月には「清少納言」を発表する予定です。