2025年12月2日火曜日

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために 

現在87歳になる赤塚さんはハンセン病家族訴訟原告団 副団長として裁判に関わって来ました。赤塚さんの父親はハンセン病患者でした。  赤塚さんが小学校3年生のころ、父親が島にある国立療養所奄美和光園に強制収容されました。  ハンセン病患者への差別は家族にも向けられ、赤塚さんはいじめに苦しみました。  しかしその怒りをいじめた側ではなく、病に苦しむ父親に向けてしまい、父親が亡くなるまで顧みることはありませんでした。 親を差別してきた自分の人生を反省し、20年ほど前から差別によるハンセン病被害の救済に取り組んでいます。    父親との思い出から自分の人生をどう振り返って行ったのか、伺いました。

昭和13年に生まれて3歳のころ父親の出身地鹿児島県奄美大島に移り住みました。 父親は黒糖を作るためのサトウキビを作りに南の方に行きました。  ポナペ(ミクロネシアの主要な島)でサトウキビを作ったり指導したり、黒糖を作ったりしました。  父は熱帯病にかかったと言う事で帰ってきました。  ハンセン病の患者という事で、島にある国の療養所奄美和光園に強制収容されました。

昭和22年2月に警察官と職員、突然3人が来て連れて行きました。 父は42,3歳でした。  小学校4年生の時に「乞食」と言われました。 ハンセン病の子供も乞食になるという考えを村の人は持っていたかもしれない。  そこで判りました。 父の顔が赤っぽくて薬をつけても治りませんでした。  同級生が8人いましたが遊んではくれなかったです。   同級生の親に往復で顔を殴られて(海軍びんた)、悔しい思いをしました。 母親は咎めにも行かなかった。  指さすと指が腐ろなどとも言われていました。  

私が親替わりをして下の子の面倒を見たりしました。  父が家に来る時には夜来て朝方帰っていきました。  高校時代に親の話になったりすると逃げだしたくなりました。  高校を卒業後工場勤務を転々として、奄美大島に戻って来て県の職員として働き始めました。(25歳)  結婚式の時には父を呼んでいませんでした。  子供が出来て5,6歳ぐらいの時に、父は70代ぐらいで家にたまに抜け出して帰って来ますが、妻は子供のことを心配しました。はやく戻るように言ったんです。(贖罪 罪滅ぼし) 父はその時「まだお前はハンセン病のことを理解していないのか、自分は首でも切って死ぬよ。」と言いました。 初めて私に対して怒りました。  ハンセン病が治ったという事を理解していなかったという事です。 それからは家に来なくなりました。  亡くなるまで親を遠ざけたいという思いはありました。

父は83歳の時家で亡くなりました。 父をさするという事は出来なかったです。 知識が足りなかったという事が反省です。  大変な病気で一生かかっても治らない病気であると言われていた時代がありました。  私は手足が欠けたり鼻がくずれたりした人を見て来てるんです。  でも知らないという事は罪なんです、罪を作っているわけです。  いろいろ勉強してハンセン病の内容も判って来ました。  

腑に落ちないから反省してこの問題に取り組んでいるんです。  隔離という事は自由を奪う事です。 人権の侵害になるわけです。  ですから国と争っているわけです。                2001年にはハンセン病の元患者に対する国の賠償責任が裁判で認められ、2019年にはハンセン病元患者の元家族に対しても認められました。  勝ち取りましたが、申請は全体の3割です。 貰う事によって逆に差別される恐れがある。  離婚の原因にもなる、そういう人たちが多いという事です。  ハンセン病に対する理解が行き詰まっている感じです。   出来るだけ人に話したくないという病気なんですね。  まだ隠し続けたいという思いです。

講演を行っていますが、まずは物事を正しく知る事です。 正しく知らなければ間違った判断がいろいろ出てくると思います。  































 



















2025年12月1日月曜日

小山美砂(ジャーナリスト)         ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

 小山美砂(ジャーナリスト) ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

グローバルヒバクシャと言うのは広島や長崎だけでなく、アメリカや旧ソビエトなどの核実験やウラン採掘など世界各地で放射線の被害を受けた方々のことです。 この問題について取材を続けているのが、広島市在住のジャーナリスト小山美砂さん(30歳)です。  小山さんは 大阪市の出身、毎日新聞社の記者として広島に赴任し、原爆10日後に降った所謂黒い雨の裁判を取材しました。  2023年にフリーの記者に転身し、その年の10月にはこの黒い雨の取材で日本ジャーナリスト会議賞を受賞しました。  その後も小山さんは置き去りにされた核による被害者の取材を進め、去年の9月には旧ソビエト時代に核実験が繰り返されたカザフスタンを訪問し、慢性的な貧血や頭痛に悩まされる現地の被害者の声を聞き集めました。  小山さんにグローバルヒバクシャの歴史と現状を伺い、世界の被爆者の人権について考えます。

今年被爆80年で、核に対する関心とか、過去の戦争を原爆を含めて伝えてゆくという一年であったと思います。  一方で今も光が当たっていないか、置き去りにされている被害に私はどうしても目を向けなければいけないという思いがあったので、今年出した2冊も改めてだしたいという2冊になりました。 

2922年『「黒い雨」訴訟』を出版。  黒い雨は原爆10日後に長崎で降った雨のことを言います。  原爆由来のすすとか灰も含めて放射性降下物を総称して、黒い雨を捉えるという観点で私は取材と発信を続けています。  私が赴任した時には「黒い雨」訴訟の裁判が始まっていました。 高東征二さんと言う方が原告でありながら、黒い雨の被爆者の証言を聞いている人でした。  「黒い雨」は語り継ぐ歴史だと思っていましたが、現在進行形の問題であると実感して、取り組まなければいけない問題だと思いました。  もう一つ隠されてきた被害であるという事を非常にあります。  取材をすることで責任感も生まれてきました。

アメリカでの核実験のテストがあって、それからずーっと核開発が進んできて、新たに被爆者も生み出されてきている。  グローバルヒバクシャは核実験の被害者、ウラン採掘、原発事故、原発労働者、などの放射線の被害を受けた方々の言葉として知られるようになってきています。 核実験は地球上でこれまで2000回以上実施されています。  マーシャル諸島の核実験では1946年から10年間で60回以上も核実験が行われています。 第五福竜丸の事件もありました。(他にもあり)  旧ソ連でも沢山の核実験があり、インド、コンゴなどではウラン採掘が行われて病気を訴えている方がたくさんいます。 

去年カザフスタンに取材に行きました。  450回以上核実験が実施されています。 1949年8月に最初の原爆実験が実施されました。(旧ソ連として初めて成功した場所)    核実験の被害を受けた人は子孫を含めて150万人とも言われています。  他のところと比べ乳がん、肺がんの罹患率が2倍近く増加していた。 心臓に関わる病気も1,3倍とかデータとして出ています。  精神的な病気も倍増したといわれる。  カザフスタンは日本の7倍の面積があります。 国土の大半が草原と砂漠です。 2024年9月1日から11日まで行きました。 3か所に行きました(首都、旧首都、核実験場があったところのセミパラチンスク)  セミパラチンスク核実験場は市の中心から150kmは離れている。  四国ぐらいの面積のところで何回も核実験を繰り返していた。  周辺の住民が影響をうけてしまった 。  最後の実験から30年以上経ってしまっているが、放射線量は下がっていないところもある。 そこらじゅうにクレーターが出来てしまっている。 

 核抑止論は嘘だと思いました。  カザフスタンの場合は軍事機密だったので、なんかおかしいと思いながらも被害を認識することが出来なかった。  真実をそのままにしておいてはいけないという、真実を伝えてゆくこだわりは「黒い雨」と共通していると思います。 取材して60歳まで生きられる人が少ないという事はショックでした。  86歳の女性が核実験のことをよく覚えていました。  爆発があるよ親が村の中にある穴の中に子供たちを隠した言っていました。  上から絨毯をかぶせてしばらくいるように言われたそうです。 好奇心で絨毯をめくってきのこ雲を見たと言っていました。  親は経験的に知って子供たちを守ろうとしたんですね。 

首都でも取材をしましたが、彼女は核実験場のあった市で生まれました。 皮膚がかぶれてしまって辛かったそうです。  佐々木貞子さん(2歳で原爆に会い10歳で白血病で亡くなる。)の名が彼女の口から出てきました。  広島、長崎のことに心を痛めていました。 しかし、実は自分たちも核の被害者であることを後で知ったと言いました。  広島、長崎もセミパラチンスクも同じ核の被害で、だから手を携えて人類の危機ともいえるような状況を乗り越えていかなければならないと言っていました。 自分の視野の狭さを感じました。  核の問題は地球規模で考えないといけないと思いました。 

今年8月6日にカザフスタンの女性(71歳)を招待しました。 17歳の時に母親をがんで亡くして、その後姉二人を病気で失い、弟も失い、自身も肺がんを患って治療中とのことでした。 核実験との結びつきを意識しました。  カザフスタンの被爆者の権利を拡充、反核、核実験の現状を訴える活動をしている方です。 原爆ドーム等見学して、被爆者などとの交流を通して、広島のことを学ぶと共にカザフスタンの核実験についても知らせて頂くという滞在になりました。 彼女は子供たちの絵を60枚お土産にという事で持ってきてくれました。  セミパラチンスクと広島が未来に向かって一緒に歩んでゆくという動きを作りたいと言って、持って来てくれたものです。  

今関心があるのは、繋がる、繋げるという事です。  カザフスタンでは精神的つながりと言うものを強く言われました。  自分一人ではない、一緒に歩んでくれる人がいるという事が彼女を強くもするし、ある意味身体も軽くすると思います。  世界中に仲間がいるという事は背中を押しているんだなと言う様な気がします。  人々がよりよく生きられる世界を目指すためにも、核被害者の声をちゃんと受け取って、苦しんでいる人たちを救済してゆく、そういう社会を目指した方が、絶対みんなが生きやすいので、核なき世界を目指していると同時にもっとみんなが生きやすい社会を作りたいという思いで、活動しています。
































                                                                   

2025年11月30日日曜日

スワーダ・アル・ムダファーラ(元私立学校長)・オマーンで日本の心を伝えたい

スワーダ・アル・ムダファーラ(元私立学校長)・オマーンで日本の心を伝えたい

 スワーダさんは東京都出身の72歳、日本名は森田美保子さん。  高校卒業後銀行に就職、19歳で結婚し娘さんを設けましたが離婚、その後文化センターを経営し、洋裁や生け花などを教えていました。 1978年に日本とオマーンの文化交流の催しで、メンバーの一人としてオマーンに渡りました。  それがきっかけでオマーンでの結婚、学校の設立に繋がります。   その学校で日本式の教育を行い多くの成果をあげました。  スワーダさんはオマーン人になった初めての日本人、先日スワーダさんはオマーンで日本式の教育で成果を上げているとして、旭日章受章を受賞しました。

この受賞の喜びは娘にしか伝えられないのが残念です。 父は2000年に亡くなって、実母は子供のころに亡くなっていて、その後継母が育ててくれて、継母も2019年に亡くなりました。 姉も亡くなり、その人たちには聞いて欲しかった。 娘はニュージーランドで学校の先生をしています。 

小さいころからバレエをやっていて、世界と交流が出来たら面白いなと思っていました。   1985年ぐらいまでは森田美保子という名前を使っていました。 戸籍の名前を変更しました。 1979年日本とオマーンの文化交流事業の一人として、初めて行きました。  文化の違いに吃驚しました。  人々がとっても優しかったです。  着物着て琴で「さくらさくら」を弾いたら知っている人がいて一緒に歌っていただきました。  最後の夜にさよならパーティーをしてくれて、やり取りがあり日本に帰った後に、内大臣の秘書から電話がかかって来て、オマーンは好きかと尋ねられました。  もう一度来たいかと尋ねられて機会があれば行きたいと答えたら、本当にチケットが届いてしまいました。  貴方の日本の心をオマーンの女性に教えて欲しいと言われました。  再度行っていろいろ教えて、何回か行き来しました。当時私はシングルマザーで住みにくさはありました。  彼は日本に来て父親に娘さんと結婚してほしいと言われました。  

誠意のある人だったので承諾しましたが、国際結婚は許可ならない時代でした。  正式に結婚したのは1983年でした。 一夫多妻の制度でしたが、離婚が成立して誰もいないという事でした。 相手には3人の子がいて、突然4人を育てることになりました。  買い物は夫がして私は料理を作りました。  ハウスボーイは2人いました。  段々物足りなさを感じるようになりました。  自分で学校を開けば、みんなにいろいろ教えてあげられると同時に、 障害のある子にも何かできるのではないかあなと思って、学校を作ろうと思いました。   主人の兄弟も学校の先生だったので、OKがもらえると思ったらNOだったんです。     しつこく言っているうちに、お金は出さない、自分は一切なにもやらないが、それでもいいんだったらやりなさいと言われました。          

まずお金を生み出すことから開始しました。  自分自身でアラビア語の小学校に行きました。 1990年1月に、弁護士の方に書類を書いてもらって、文部省に提出して、7月に許可が出て9月に始まる予定でしたが、8月1日にイラクがクエートを攻撃しました。  無理かなと思ったのですが、遅れてもいいと言われて開校しました。  5人が来てくれて、私を含めて先生が7人でバスのドライバーが1人いました。  収入を得るためにサマースクールを別途開いて、凄い人数の生徒が来ました。  9月には年少、年長の幼稚園だけではなく、小学1年の3クラスを開きました。  オマーンでもサマースクールが定着しました。

日本の文化を教えるという事で、折り紙、運動会、水泳を教えました。 イスラムで3つの大切なことを教えなければいけないことは、剣、乗馬、水泳でした。  朝礼、ラジオ体操も毎日やっていました。  ラジオ体操をやる事によって脳の活性化が始まるわけです。 上履きを履く。 靴の紐を結わえたりして指を動かすことが脳の発展になる。 指先を使う事を教育の中に入れていきました。  小遣い帳も付けるように言いました。  整理整頓も出来るようになりました。  学校を楽しいところにしたかった。 

2010年に校長職を引退しました。  その当時、小学校から高校生まで850人いました。  これからは大学生を対象に、社会人になるための何かをしてみたいと思いました。  オマーンの大学生と日本に大学生との交流をしようという事でやって来ました。  その延長線上で、子供だけではなくて、大学生ということでいろいろ交流しています。 そして女性の自立を奨励してきました。  日本語を話せる人が結構いて、どうして話せるのか聞いたら、アニメから学んだようです。  日本語ブームは凄いですね。  日本の教育を私は輸出しましたが、輸出した先で学んだ人が、また逆に輸入してくれる。 そこで付加価値がちょっと変わってきて、価値あるものになって行けばいいなあと思います。































2025年11月29日土曜日

谷口浩美(元マラソンランナー)       ・走り続けた人生から皆さんに伝えたいこと

谷口浩美(元マラソンランナー)       ・走り続けた人生から皆さんに伝えたいこと

 谷口浩美さんは宮崎県日南市出身、1991年に東京で開催された陸上世界選手権では日本陸上界初の金メダルを獲得しました。 その翌年1992年のバルセロナオリンピックの一言「こけちゃいました。」は広く知られています。  厳しいマラソン練習を乗り越えたメンタルやオリンピックの裏話など伺いました。 

宮崎県立小林高等学校へ進学、高校2年3年次には全国高校駅伝で2連覇を達成、日本体育大学体育学部体育学科に進学、3年連続で山下りの6区を走って区間賞を獲得、4年目には自身の持つ区間記録を更新し、総合優勝を達成。 卒業後、旭化成陸上競技部に入ってマラソンランナーとして活躍、1991年に東京で開催された陸上世界選手権では日本陸上界初の金メダルを獲得しました。 1992年のバルセロナオリンピックの一言「こけちゃいました。」は広く知られています。 その後は指導者として活躍、現在はマラソンのゲストランナー、講演活動などを行っています。

小さいころから足は速かったです。 中学校から陸上をスタートしました。 宮崎県立小林高等学校へ進学、寮生活になり20人ぐらいの共同生活で全て自分でやらなければいけなくて、生活スタイルが大きく変わりました。  先生になることが夢だったので、そのために小林高校に行き、日本体育大学へ進学しました。 箱根駅伝は第60回からテレビ放送が始まりました。 残念ですが僕は第59回大会の時が終わりでした。  高校駅伝でも2年、3年でも優勝していますが、29回目が3年生で、第30回大会からNHK放送が始まったんです。  テレビに映ることが如何に凄いかという事です。  大学陸上を最後に競技選手を辞めるつもりだったが、教員採用試験で不合格となる。(国体の開催の関係で教員採用されてすでに一杯だった。) 再受験準備のため地元の旭化成に2年間だけ在籍という約束で入社することになりました。

25歳になって教員の道が閉ざされて、宗選手もいてオリンピックを目指す道に進みました。 朝6時ぐらいから12から16km走って会社に出勤します。 4時から6時ぐらいまで練習をします。  エネルギーの元の食を考え、運動するなかで絶対故障しない身体を作ることを考えました。  走っている時には勝つことを考えますが、ずーっと考え続けたら自滅します。頭を使うとエネルギーを結構使うので、エネルギーを如何に使わないように走るかなんです。  走りながらどういう風にエネルギーを温存するかという走り方を覚えない限りは勝てない。  細かなことが全部レースに出て来ます。 

1991年に東京で開催された陸上世界選手権では日本陸上界初の金メダルを獲得しましたが、1988年のソウルオリンピックに出られると思っていましたが、大失敗をして出られませんでした。 1992年のバルセロナオリンピックの3か月前から練習を始めましたが,1か月して右足の人差し指を疲労骨折してい仕舞いました。  1か月前まで極秘入院していました。(バレなかったので参加で出来ました。)  20km地点過ぎて左足をあげるときに外国人選手に踏まれて、転んで、靴が脱げて飛んでいきました。(どこに飛んでゆくのか見てていました。) 直ぐに靴のところに戻りました。  30秒のロスタイムとなる。  一気に追いつこうか、じわじわと追いつこうかと思いました。  30km地点がダウンヒルで、先頭が見えて15番でした。 10位に入れば入賞だと思っていました。 35km地点では12番でした。  8位に入らないと入賞ではないと気が付いて、何とか4人抜いて8位に入れました。8番にしかなれなかったので、言い訳のコメントとして「途中で、こけちゃいました。」といいました。  銀メダルが森下広一さん(旭化成)4位が中山竹通さん 8位が私でした。   

38歳まで現役で宮崎に戻って来ました。  生活のなかで動くという事が基本です。 いまは全く走っていません。 家の階段は4つんばいになってわざと動かしながら登ります。 こんなことをしていても昨年の1月13日に脳梗塞で倒れました。 ゴミを片付けようと思って、左手でゴミを拾おうかと思ったら、左手の先がなんかおかしいんです。  これは脳梗塞だと自己判断して、「脳梗塞だと思うので救急車を呼んでください。」と言って、救急車を呼んでもらいました。(息子からまっすぐ歩いていないとか、タオルを落として何回も拾っているよと言われました。)  日常生活の自分をちゃんと見ているか見ていないかという事は大事です。   ちょっと違うという感覚は自分でしかわからない。  

いろんな機会があれば、話を聞いていただく方が多くいらっしゃればそこに行って、いろんな話が出来たらいいなあと思います。 そのためには健康が大事です。






2025年11月28日金曜日

2025年11月27日木曜日

神津カンナ(作家・エッセイスト・コメンテーター)・〔私のアート交遊録〕 違う角度からものを見る

神津カンナ(作家・エッセイスト・コメンテーター)・〔私のアート交遊録〕 違う角度からものを見る

父は作曲家の神津善行さん、母は女優中村メイコさん、3人兄弟の長女です。 現在は執筆、翻訳、作詞など文筆業にいそしむ一方で、ラジオ、テレビのコメンターターとして、またエネルギーや環境問題、国際協力など様々な分野をクロスオーバーさせて、問題提起をして発信しています。  自らプロデュースする朗読公演、耳で読む文学は16年に及びます。 3年前に食道がんの手術をした後も、両親から受け取ったた多くの言葉に多方面に発信する神津カンナさんに伺います。

2023年12月31日に母が亡くなりました。  母は2歳半から女優をやっていて、凄く長く女優さんをやっているので、亡くなる直前まで仕事をしていて、私の中でわだかまりがあったのではないかと思います。  母親よりも中村メイコさんだという気持ちがあったんですね。 母が亡くなって初めて母に甘えたなあと言う感じがします。 父は93歳で大分耳が遠くなりました。  はずきは母との関係においては、私に嫉妬をするというか、自分を殺して、周りに対して自分のスタンスを持っているという感じです。 善之介は私と14歳違っていて、よく私が面倒をみていましたが、絵描きになりました。 

3年前に食道がんをやって、手術をして大丈夫です。  食道はほとんど全摘しました。 声帯もいじったので声が出にくくなりました。  お酒は飲まなくなりました。 小刻みに食べる様になりました。  母からの教えは質問をすると、同じ質問を返すという事です。 それによって考えることが好きになった。  父からは、富士山を描いてみろと言われて、富士山を描くと二重丸を書いてくれて、これも富士山で上から見るとこう見える、物事は違う角度から見ると、全く違うものが見えると言われました。  最低二つの見方をしなければ、そのものの本当の形は判らないと言われたことが頭に残っています。(小さいころ言われる。)

親の影響がないところで暮らした方がいいという事で、外国へ留学しました。 演劇の方に行きましたが、台本、芝居をやるだけではなくて、全部やらされました。(照明、音響、衣装デザイン、等々)  シナリオを書くことが凄く大変でした。(英語)  脚本を書いた方がいいのではないかと言われて、物書きになりました。  小さい頃三島由紀夫さんに会ったことがあり、何の本を読んだらいいかきいたら、「本と言うのは巡り合うものだから、何を読めばいいと言うものではない。」と言われました。 「だから片っ端から読め。」と言われました。 限りがあるので、周りの友人に私の好きそうなものが有ったら教えて欲しいと言って、 教えてもらって段々私も目があいて、そういったものを好きになって行った。 知らないものを知って、それを世の中に人に味合わせてあげたいと思うようになりました。(20代前半)

エネルギー、環境問題にも目を向けるようになりました。  違う角度から見るという父からのサゼスチョンが生きてきています。 遺骨の問題に出会った時に、初めて日本人特有の考え方があることを知りました。

耳で読む文学は16年に及びます。  単なる朗読ではなく、音楽、照明、スライドでだして、それだけで世界観が作れるかどうかがひとつのテーマでした。  持ち場持ち場の人が率先して考えてくれました。  16回目は辞典をテーマにしました。  いろいろな辞典があり面白いですが、朗読には適さない。  いろいろなことを説明して、辞典ではこういっていますと言う様な構成にしました。 

相撲が好きで、大栄翔が好きで、押しですね。 その人を思っていると「よし 頑張ろう。」と言う気持ちになることが初めて判りました。 

「あるべきようは」と言う言葉が好きです。 「あるべきようは」と考えることが、今生きている私たちが一番失っているものなんじゃないかなあと思います。  「こうあるべきだ。」と言うのではなく「どうあるべきかなあ。」と考えるのが一番いいんじゃないかなあと思います。

北斎漫画は物凄く好きです。  筆は書き直しが出来ないので一回で書き上げます。 書き始めたら終わらせなければならない。 最後まで書くという事は大事だという事を北斎漫画が教えてくれます。









2025年11月26日水曜日

水戸岡鋭治(デザイナー)          ・〔心に花を咲かせて〕 列車だって自然を感じ心地よく

水戸岡鋭治(デザイナー)    ・〔心に花を咲かせて〕 列車だって自然を感じ心地よく 

超豪華列車7つ星を企画デザインして、その斬新さで脚光を浴びた水戸岡鋭治さんです。 他にもこれまでの列車のイメージを変えるようなデザインで注目されて、鉄道関連だけでも数々の賞を受賞しています。 列車を人を運ぶイメージからエンターテーメントに変えたという方です。 元々はイラストレーターやデザイナーで列車デザインとは無縁だったと言います。

100以上の列車のデザインを手がけました。 25歳のころ東京でイラストレーターとして仕事をしていました。  或る時ホテルをオープンするためのポスターを書いて欲しいと言われました。 ホテルの建築は進んでいましたが、ほかのことは全部やらさせて貰いました。 1987年4月、同ホテルのお披露目午餐会に参加し、偶然同席した石井幸孝JR九州社長(当時)の知遇をえました。 これを契機に、同社の列車・駅・広告のデザインに携わることとなります。   観光列車を作るというんで、プレゼンテーションをして、決まってしまいました。 列車のデザインはしたことが無かったんですが、周りからやれといわれてやりました。  タブーである白(汚れやすい)にしてプレゼンテーションをしたら、他の人は大反対でしたが、社長の石井さんだけが賛成してくれて、「この白がサービスの基本になるからね。」と言いました。

オンリーワンの観光列車を作れたらいいと思って、色は白、室内は白と黒だけ、海に向かって走るので、海に向かって椅子を置くとか、考えてJR九州が全部OKといってくれました。 それで終わりかと思ったら、次々と手掛けていきました。 内装に木を使う事も最初は予算の問題とかほかにも問題があって使えず、中途から採用するようになりました。 最先端の技術と懐かしい木を使った列車が出来てきました。  木とか、ガラス、沢山の色とか柄とか、素材をたくさん使っていく。  元々はたくさん使わないのが原則になっています。  一番大事なのは利用者が楽しいという事で、中を歩いても楽しいし、食べたり飲んだり出来たり、そういう旅を提供出来たらいいと思います。 楽しい、笑顔と笑いが生まれる車両が作りたいと思っています。 

マイカーで旅をすると、車内はまちまちで会話もないが、観光列車だとテーブルがあって、話しながら旅をしてゆく事が出来る。 そういったことから最後に豪華列車のアイディアが出て来て、社長から世界一の列車を作るように言われました。  ロマンと夢があるから人を変えてゆくし、社会を変えてゆく。  予算が決まっていても、倍のスピードで仕事をしたり、8時間に自分の時間を足してゆくとコストは半額になって来る。 想いがあるとエネルギーを足して、仕事の質を上げて無駄なことを避けてゆく。  列車であるのに中に応接間が有ったり、バーカウンター、茶室、サウナ、などに加えて西陣織、柿右衛門の陶器、などがあります。  人間国宝の柿右衛門さんのところに行った時に「これは私の仕事だ。」と言いました。  予算がないと言ってもやりたいと言いました。  公共の空間に置くというのが最も大事な仕事だといって、是非列車の中に置きたいと言ってやって頂きました。 それが出来た時に亡くなるんです。  夢と言うロマンに向かって、エネルギーを出して結果として、出来てそのロマン、情熱が見る人を感動させる。  

列車は狭いので、畳一畳の茶室とか、近いからリラックスして喋れるので、本音が喋れる。  狭いと言った人はいません。 茶室は1300✕1800mmしかありません。(景色を見ながらの走る茶室)  私のやっていることはデザイン職人です。  いいものは説明しなくてもしゃべって来ます。  今まで使っていないものとか、知らなかったものとかで、とてつもない新しい事とかはしてい居ないです。  小さいオンリーワンが集まってナンバーワンになってゆくんですね。 

最近では北海道の「赤い星青い星」を作っています。  赤い電車4両と青い電車4両です。 世界のデザイン様式を曼荼羅のように入れたいです。(世界中の人が来るので)  手間と暇を惜しまない。  情熱がクオリティーを作る。  情熱が全てを作ってゆくんだという価値観に戻らないと、薄っぺらな時代になってゆく。  もう一回北海道の良さを知ってもらうにはローカル列車がいい。  無人駅はその村のタイムトンネルで、そこに降りると昔の歴史が判る、物語が見えてくる。  価値があるのに捨ててゆく。 電車とホームと駅は一つのもので、鉄道会社が自分で出来るところ。   地域が変わるためには、ちゃんとデザインできるのは電車とホームと駅なんですね。  駅は元々は皆が集まる公民館みたいなものだった。 駅のトイレは凄く大事に考えています。(ヒーターのある温かいトイレとか) 居心地のいい時間と空間。 楽しいと笑顔が生まれ、最終的には豊かなコミュニケーションが生まれるのが大事です。

如何に生きるはいかにデザインするかと一緒です。 今日は何をしようか、日記をつけることはデザインの行為ですから。  ようやく個人の意識のレベルのデザインが一番難しいというのがわかって来たんですね。  手間がかかるけど自分でデザインしなくてはいけない。  デザインと言う切り口で皆さんのために約に立つことが出来れば(奉仕。、ボランティアなど)可能な限りやっていきたいと思っています。 (稼ぎ仕事(米仕事)から務め仕事(花仕事)へ)  人が喜んでいる姿が一番うれしいですね。