2025年6月15日日曜日

忽那健太(プロラグビー選手)      ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦

忽那健太(プロラグビー選手)    ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦 

最近は海外のリーグに挑戦するラグビー選手が多くなってきましたが、まだ日本人のプロ選手がいないスコットランドのプロリーグに挑戦した選手がいます。  忽那健太(くつな けんた)さん30歳。  忽那さんは愛媛県松山市出身で5歳の時からラグビーをはじめ、高校ラグビーの名門石見智翠館高等学校(島根県)から筑波大学、社会人のジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)でトップレベルで活躍しました。  その後膀胱がんの治療を行い、命に限りがある事を改めて知らされ、出来るうちにラグビーの王国イギリスでプレーしたいと一昨年スコットランドのあるクラブチームで活動を始めました。  目標はスコットランドで日本人がまだ誰もなし遂げたことのないプロ契約を結ぶ事でした。  2年間の挑戦を終えて帰国したプロラグビー選手の忽那健太さんにお話を伺いました。

今、全国を回っています。  小中高校大学、社会人の企業団体を回って、命の大切さとチャレンジすることお大切さをやっています。  講話とラグビーの練習もします。  モットーが「やるか、めっちゃやるか」です。  3年前に膀胱がんを患って命と向き合う時間を持ちました。 生きるか、めっちゃいきるか、と思っていまして、一回の人生を後悔無く生きるという思いがあり、「やるか、めっちゃやるか」と言う言葉を使っています。 本気で生きるという事です。  

父は陸上部でした。  団体で競技するラグビーに憧れを持っていたようです。  兄弟3人をラグビースクールに放り込みました。  現在兄が32歳、私が30歳、弟が28歳です。   兄を目標にしていました。   ラグビーは人間臭いスポーツだと思っていて、沢山の友達を作ることが出来ます。  強豪校に行きたくて島根県の石見智翠館高等学校に行きました。 (猛反対があったが。)  3年生ではキャプテンとなって全国大会で準優勝をしています。  大学は筑波大学を選択しました。   体育教員を目指しました。  中学からずっとキャプテンをやって来ました。  責任を負うという事が結構好きでした。  引っ張ってゆくには言葉と行動のバランスですね。  「挑戦する先には成功か成長しかない。」と思っています。 これはスコットランドへ行ってきた経験から得たものです。  挑戦する過程が成功なんじゃなかと思います。   

2017年ジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)に入ります。  トップリーグで戦いましたが、完全に鼻をへし折られました。  身長が172cm、体重が82kgで大きい方ではありません。  3年間プレーした後、26歳の時に膀胱がんと診断されました。   頭が真っ白になりました。  かなり大きくなっていて、2回手術を受けました。(1か月入院)  転移している可能性もあり、先が見えない時間でした。   死を意識末うと同時に人間は死を目前にした時に生の執着は凄いと思いました。  生きるとは何だろうと凄く考えさせられました。  未来に向けて時間を過ごそうと思って、自分が治った後は何がしたいのか、ノートに書き続けました。  もう一回ラグビーがしたいと思いました。  命はいつでも終わると感じて、今をとことん本気で生きようと思いました。 先生から「転移はなかったです。」と言われた時に、泣いてしまいました。  もう一回本気でラグビーをやってみたいと思いました。   

2023年選手として復帰、スコットランドでのプロ活動への挑戦を表明しました。  2回目の人生を貰っているんだという思いがあり、あてのない海外活動でしたが、不安感よりもわくわく感が上回っていました。  安いホテルを捜してチーム探しから始めました。  ヘリオッツ・ラグビークラブに入れました。   司令塔のポジションでした。  英語の会話はそれほどではなかったので苦労しました。  女子のラグビーチームのコーチも担当しました。仕事はチームメイトが紹介してくれた引っ越しやさんの会社で働きました。  週45時間契約で月~金まで働きました。 (何回かもう死ぬかなと思うほどでした。)  夜週3回の練習がありました。  1年目は国内3部リーグのアマチュアリーグでプレイ、年間25試合で24試合に出場、MVP4回選ばれる。  首に怪我をしてしまいました。 

2部リーグ契約直前で2部リーグが軽々破綻という事で解散になってしまいました。  日本に帰る選択肢もありましたが、残る決断をしました。  目標のプロ契約は出来ませんでしたが、思いつくことは全部行動に移したので、後悔はないです。  2025年4月7日、韓国実業団ラグビーユニオンからオファーがあり、プロ契約を結びました。  日本に戻ってきましたが、スコットランドで学んだこと、経験を伝えていきたい。  それと命の大切さを伝えたい。四国二日本一を目指すチームを作りたいという思いもあります。   情熱は磁石だと思います。














2025年6月14日土曜日

2025年6月13日金曜日

ヨシタケシンスケ(絵本作家)       ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

 ヨシタケシンスケ(絵本作家)   ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

ヨシタケさんは40歳お時にオリジナル絵本「りんごかもしれない」を出版、ヨシタケさんが作る様々なアイディアが展開する筋立てのない絵本は発想絵本と呼ばれ、以来数々の賞を受賞、ヒット絵本を生み出し続けている人気絵本作家です。  ネガティブでしょんぼりしがちだというヨシタケさんならではの視点で作られる絵本は多くの人の共感を得ています。 現在「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会が全国を巡回しています。  絵本の世界を体験出来て ヨシタケさんの頭の中に迫る展示会は子供たちにも大人気です。  デビューから12年を迎えた絵本作家 ヨシタケシンスケさんにお話を伺いました。 

デビューから12年が経ちましたが、ここまでやれるとは思っていませんでした。  僕が本にテーマとして選びたい事と皆さんがこれは私に興味があるテーマだと思ってくださる事が思いのほか一致していたことが、凄く運のいい事としかいいようがないです。  その時その時家庭で起きたニュースを作品にするタイプなんだなという事が3,4年経って判って来ました。  人間身体が変ってゆくと考え方も随分変わるという事がここ5年ぐらいで身に染みたことです。   子供の頃の自分が知りたかったこと、読みたかったものを作ろうと、ずっと作ってきて、最近はそれに加えて5年、10年先の自分に向けて描いている感覚があって、そういった作品つくりだと思います。  

私の本を読んでよく視点が優しいと言われることがあります。  それは僕自身が優しくしてほしいからなんです。  自分にとって世の中はこういう風なものなんだよと言われた方がむしろ頑張れるなとか、しんどさから抜か出せるなとか、日々自分で考えながらやっています。 傷つきやすさ、生きずらさみたいなものが、モチベーションになっている。  自分の弱さみたいなものが経費で?落ちる仕事があるなんて知りませんでした。  この表現の世界は優しい世界なんだなあと思います。  

3年前から大規模な個展を全国で巡回しています。  原画展で出来るとは思っていませんでした。  僕の原画は小さいし色もついていないし、場所が余ってしまう。  工夫する中で、本が出来るまでの頭のなかで起きた事の様子を見てもらうという空間を作って行きました。  展覧会は団体競技として作る場なので、自分一人ではできない面白さを凄く感じました。  僕は会場には居ませんので、何を言っても大丈夫です。  「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会です。   新しい選択肢、こういう事もあるかもね、と言う考え方、視点、可能性を「かもしれない」と言う言葉でやって来たので、一つのテーマとして集約するものだと思っています。  断言しない。 

2023年うつ病と診断されました。  元々ネガティブな人間でした。  この4,5年で体力がガクッと落ちました。  ネガティブを体力で補って来ていたのを、体力が落ちてくると補えなくなる。  軽度の鬱状態と言う診断でした。    行って急に治るものでもないと思ったし、いろいろ考えたらもとに戻ることが出来ました。  しんどさを語る事の難しさを凄く改めて感じました。   救いになったものと言うのは今は見つからないが、いつかは見つかるかもしれない、それが救いといっていいのかもしれない。  自分を好きになる事だけが自己肯定の方法なんだろうかと思えるようになってきて、自分と仲良く出来ないという事に慣れてゆくことも、自己肯定の一つなんだろなあと最近は思うようになりました。 

ヨイヨワネ うつぶせ編」、ヨイヨワネ あおむけ編」 弱い自分でいいんだ、弱音を吐いていいんだと言ったものです。  自分に取っては本当に必要な行為であって、この2,3年弱音は半端じゃなかったです。  しんどさを言葉と絵にしたかった。  自分を救うための表現。   生きるのがしんどいあなたに為のウェブ空間 「かくれてしまえばいいのです」に関わりました。  いま「死にたい」「消えたい」と思い悩んでいる子どもや若者への提案です。

一旦この世から隠れてしまえばいいのではないかと思って、隠れる場所さえあればあの世にいかなくてもいいんじゃないかと、この世とあの世の間の「その世」を作って避難する、シェルターのような役割として、そういう場所が良いのではないかと思いました。  チームの人たちが作家としての私を提案を尊重してくださいました。   24時間無料で利用できます。  アクセス数が1か月で200万を越えている。   つらさとか実在する人がいるという事を可視化できるツールは今までなかった。  辛いのは自分一人ではないんだなと思うだけでも、孤独感は薄れたりもする。  最終的に人を救うにはストーリーしかないんだなという思いがあります。   自分で作るストーリもあるし、2000年、3000年とか使われ続けているストーリーもあります。  物語でしか人は世の中を認識出来ない生き物なんだろうなあと思います。  生きていきたくないという人たちに対して、どういうストーリーが用意出来るのか、そういう人に何を届けられるのか、沢山考えることは自分の中で新しいテーマが頂けた気がしています。  自分に取っても必要だった。  

今年52歳になります。  老いについてがテーマ、「まてないの」  あかちゃんから、おばあちゃんまで。まてない人の、まてない絵本。  高齢者向けの絵本があっていいだろうし、高齢者向けの絵本をちっちゃい子が読んだ時に 、どう思うんだという事にも興味があります。  〔人生のみちしるべ〕を捜さなければとあせっていますが、無くてもいいなと言う風に思うために、みちしるべ以外のものが欲しいなと思います。  最後までじたばたする人を見て安心したいです。  自分に甘いから人にも甘くなる。  皆のことを許すから俺のことを許してくれと言う生き方をしているので、そうすればもうちょっと平和になると思います。












2025年6月12日木曜日

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 後編

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 後編 

シベリア3重苦と言う言葉があります。  飢えと重労働と厳しい寒さ。  

①飢え ドイツとの戦争、飢饉のために元々食料事情が悪かった。  日本人にはわずかな食べ物しか与えられずに多くの人が飢餓状態になりました。  一日に僅かな黒パンとおかゆ、塩味の水の様なスープだけで野菜の切れ端が浮いていればましで、砂糖などは本当に少なかったそうです。   慢性的な栄誉失調が多くなり、そんな中重労働をさせられた。  死亡者が続出した。  抑留者の管理は日本軍の習慣をそのまま使っていた。(厳しい上下関係)  日常生活でも楽なことは上官が占めて、上官は不当な労働を強制して自分たちは楽をする。  食べ物も多くとってしまう。 

②重労働  原則週6日で労働時間は8時間。  達成されないと残業が強制された。  たまたま気候がいい時には12時間労働になったこともある。  日本人はとても手先が器用なので、頼られてしまった。  ドイツ人は穴掘り作業を指示されると8時間かけて終わらせる。    日本人は早く終わらせれば休めると思って早くかたずけてしまう。  余力があるという事でそれ以上のことをやらされえてしまう。  建設工事でが工場、学校、大規模な都市建設まで任されて、水道工事、ダムの建設まで行った。   今も残っていてその土地の人は日本人に恩恵をうけたと感謝をしている。 

③厳しい寒さ  気温がマイナス40℃から50℃になる。  想像を絶する苦しみだった。   全体の80%は初めの冬で死亡している。  

1945年8月9日に旧ソ連は音全日本軍を攻撃してきました。  およそ60万人の日本人が約200か所ある収容所に拉致監禁され強制労働させられた。   その直前には第二次世界大戦は終結に向かっていました。   スターリンはすでに計画されていた日本軍への攻撃をずっと早めて8月8日に日ソ戦争を起こしてしまった。   日本とソ連には領土不可侵条約(5年間)が結ばれていて1年残っていた。  ポツダム宣言で日本に無条件降伏を促したが、ソ連が日本を守ってくれるかもしれないと微かな期待を抱いていた  ソ連に仲介を頼むという動きもあったようです。  その返事を待っていたためにポツダム宣言を日本は黙殺してしまった。  ソ連はすでに連合軍側に加わっていた。  終戦と同時に満洲などにいる日本人はようやく日本に帰れると思っていたが、抑留されてしまった。 

満州は現在の東北地方にあった日本が1932年以降統治していた地域でした。  80万人ぐらいが移り住んでいました。   男性はシベリアへ女性子供は日本へ自力で帰る道が待っていた。  女性の一部もシベリアに抑留された。(従軍介護婦、軍の補助の仕事をしていた人など)  万一の時のために青酸カリを持っていたそうです。  5万5000人ぐらいの人が現地で亡くなっています。  

ソ連には収容所国家と言うのが実態としてあった。  スターリンの時代に農家が政府の集団経営に変えられて富んだ農民は個人の財産を奪われて、強制収容所へ入れられた。 合計数百万人の人が死亡している。  およそ200万人が収容所に入れられている。    ドイツとの戦争で1500万人ぐらいの犠牲者が出て、労働力が圧倒的に不足していた。  組織的なソ連の囚人労働者の実態があきらかになってきた。   日本人抑留者は戦利品です。 ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニアなどの国からも捕虜が送り込まれている。

ナヴォイ劇場の建設。  ソビエト連邦軍の捕虜となった旧日本軍の兵士が建設した劇場でも知られている。  1966年の大きな地震でも無傷でした。  日本人の勤勉な仕事ぶりの賞賛の対象となってきた有名な劇場です。  

苦難を乗り越えて帰ってきた人たちはその後も苦しみがありました。  日本人の抑留者にも共産主義を勉強させた。  洗脳されてソ連の思い通りに動くようになると、食べ物を多くもらえるとか、早く日本に返してやるという事を言われる。  その人たちが抑留所に帰ってくると、軍隊の規律で動いていた収容所が、代わってその人たちが力を持ってくる。  上官がやられるようになる。  吊るし上げと言う様な個人攻撃が始まる。  密告されるのではないかと、お互いが信じられなくなる。  こういったことで帰って来てからが最大の難関となる。  シベリア帰りという事で仕事がもらえない。    

戦後80年を迎える時になり当事者は亡くなってきた。  当事者から聞いた話についてその家族からの話も加えています。  亡くなった人の克明な抑留の記録を見出した人もいます。  平和な時代をもっと長く維持しなければならない。  自分が書いたようなことをよくくみ取って、人間の命を大事にしていってほしい、という事を伝えたかったようです。 

本を書く前にウェブサイトを作りました。  閲覧者数は24万回を越えています。  若い学生たちの協力によってできました。   ウェブサイトには抑留に関するような音楽も入っています。  「シベリアの歌」も入っています。

*「シベリアの歌」






 

2025年6月11日水曜日

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編 

榊原晴子さんは1951年東京生まれ。  結婚を機にアメリカ、カルフォルニア州に暮らし始めて、太平洋戦争中の日系アメリカ人の苦しみを知ります。  さらに日本人のシベリア抑留にも関心を持ち、本格的に抑留の歴史や抑留者の証言を集めて、20年余りが経ちました。  以来カルフォルニアの大学で日本語を教える大学生と資料を纏めたり、帰国した時には日本で社会学や歴史を学ぶ大学生に講演したりして、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを伝え続けています。 

講演する中で2005年生まれの彼らはシベリア抑留と言う言葉は聞いたことがあっても実際は何も知らなかった。  これからの日本の歴史を背負うものとして、何かできることは知ろうとすることだという感想もありました。  私のはシベリア抑留を経験した叔父が一人居ました。   満洲で終戦を迎えた時に、 突然侵攻してきたソ連軍の捕虜になりました。  強制労働のどん底の生活の中で、叔父はドイツ語の知識を生かして、ロシア語も学んで将校の通訳になりました。  1950年に最後の船で舞鶴に帰ってきました。  弾丸で前歯が全部撃ち抜かれていたそうです。  どうやって食べて生き抜いてきたのか?  叔父は自分からは何も話しませんでした。   若い頃は溌剌とした青年だったようですが、暗い影を落とすようになってしまいました。  60歳を越えて肺がんで亡くなりました。  

私は結婚してアメリカで暮らすようになりました。  私の夫は日系3世です。  夫の家族の戦争体験を知りました。  義理の父親が日系2世(ジョセフ)です。  その親(榊原平治?)が明治28年にアメリカに渡りました。  1841年12月8日に真珠湾攻撃があって、日米開戦となりました。  ジョセフはアメリカ国籍を持っていましたが、榊原平治?はアメリカ国籍をもっていませんでした。  ジョセフはアメリカ政府からスパイ容疑をかけられました。  日本人の住民は「JAP」と呼ばれて蔑まされるようになりました。  翌年大統領令が出て、日系アメリカ人は全ての自由をはく奪されて、家にあったもの、それまで築いたもの捨てて、立ち退きを命じられました。  持って行けたものはスーツケース2つだけでした。  連れていかれた収容所は砂漠、荒れ地に建てられた掘っ立て小屋でした。  10か所ありました。  

その後戻ってもかつての様な暮らしぶりにはなりませんでした。  仕事の再開も難しかった。日本語も使えなくなりました。  ジョセフは牧師志望だったので、神学校に行かせてもらえました。  広島の原爆のことを知って、戦後日本に戻って広島、長崎の家の復興に関わりました。   私は自分には何が出来るんだろうと深く考えるようになりました。 「何故家を出るの」と言うタイトルの歌を作りました。  英語で作って日本語にもしました。 

サクラメントで偶然に写真家の新正卓さんとお会いしました。  新正卓さんはシベリア抑留の写真集としてまとめ上げました。  日系アメリカ人の強制収容所の写真集のために撮影をしに来ていました。   お手伝いをしたためにその二つの収容所が重なって来ました。  共通する事はそれぞれ収容所のことを語らなくなったという事でした。  シベリア抑留について調査をして「アメリカから見たシベリア抑留」と言う本を昨年出版しました。

シベリアからの生還者に直接会って話をするようにしました。 その中に政治家の相沢秀之さんにお会いして励ましを頂きました。  相沢さんは東京帝国大学法学部政治学科を卒業、1942年9月25日大蔵省に入省、その後陸軍に入る。 ソ連タタール自治共和国エラブガで3年の抑留をさせられる。1948年8月に復員。 大蔵省の戻って政治家として活躍。 引退後も一般財団法人全国強制抑留者協会の会長を務め、戦後の旧ソ連による抑留の「生き証人」として語り部を続ける。  妻の司葉子さんにはシベリア抑留のことは話していないそうです。  夜中にガバッと起きることがあったそうですが、後に抑留と関係があることがわかったそうです。   心身ともに最低の生活だったとおしゃっていました。  だから後にどんな厳しいことがあっても乗り越えられるという思いはあるそうです。   相沢さんとの出会いによってシベリア抑留について背中を押されました。







2025年6月7日土曜日

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)      ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)   ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~ 

谷川さんは今年1月通算1400勝と言う記録を達成しました。  大山泰治15世名人、羽生善治9段に続く史上3人目の快挙です。  阪神淡路大震災から30年となる今年1月に打ち立てたことに特別な思いがあると話します。   棋士として生きて半世紀、さらなる高みを目指そうとしている谷川さんの棋士人生を伺いました。

14歳から初めてまもなく50年になります。  20代、30代がプロ棋士として最盛期ですので20代は年間40勝するのが当たり前といった感じですが、40代を過ぎるとなかなか勝てなくなってきて、最近は二桁10勝するのがやっとという事なってきています。  昨年11月、12月は成績が悪くて7連敗しました。 1398勝になってから進みませんでした。   新年早々の対局で一つ勝つことが出来ました。  1月15日に達成できました。  郷田さんとの対局でした。   30年以上対局してきた相手で、或る意味安心感はありました。  持ち時間が一人6時間で、休憩の時間などを合わせると、午前10時から始めて23時ごろまでかかりました。  20代から得意にしている戦法を選びました。  勝ってホッとして記者会見を行いました。  節目が新会館でした。  阪神淡路大震災30年の節目の年もありました。

1433勝が大山15世名人の記録で、30代のころから大きな目標としてきました。  その目標を掲げる事にはなったと思います。   42年前になりますが、21歳で名人戦の挑戦者になって加藤一二三名人に勝って最年少名人の記録を作りました。  30年前は震災の中、羽生善治さんを挑戦者に迎えて王将戦の7番勝負で第7局で勝利を納めました。  そういった様々な場面が浮かんできます。  

兄と二人兄弟ですが、喧嘩をしないように父が将棋盤を買ってきたのがきっかけです。  一つのことをはじめれば長く続く性格です。  体力が必要なので室内自転車も30年以上やっています。  10手、20手先の局面は頭の中で動かしていきます。  私の場合はパソコンの画面で白黒です。  頭のなかの駒の文字は一つです。(王、飛、角とか)  どういう映像が浮かぶかは棋士によってちがうようです。  

序盤が駒組で、中盤が戦いがあって、終盤は相手の玉を詰ませるとなりますが、終盤の寄せを20代に「高速の寄せ」と付けていただきました。  終盤の始まりでいろいろなイメージが出来ていたのかなと思います。  詰将棋を小学生、中学生にかなりやっていたのでその影響があったのかと思います。   「高速寄せ」は30年前は私の得意分野でしたが、私を研究してくるので、平成、令和のトップのレベルは高くなってきています。  AIを使ってパソコンで研究してゆくので、定石の整備、進化は昔とは比べられないほど早くなってきています。

震災を経験したことで神戸に対する愛着が強くなりました。  自分が住み続けることで神戸の復興を見届けたいと思います。  私の住んでいるところは被害はなかったのですが、両親が住んでいる実家は全壊しました。  大きな怪我はなかったのは不幸中の幸いでした。  羽生さんが7冠達成の挑戦者としてきて、第一局(1月12,13日)の4日後が1月17日でした。  19日妻の運転で大阪に行きました。  普段は大阪まで30分ですが、朝出掛けて大阪のホテルに着いたのが夜の9時になっていました。  20日に対局がありました。  23日には栃木県の日光に行きました。  羽生さんにはタイトル戦で7連敗をしていました。  大坂では温かいご飯が食べられたり、今迄当たり前だと思っていたことが実はそうではなかったんだという事がわかりました。   対局が出来るという事が幸せだと思えました。  初心を取り戻すことが出来ました。   被災地のためにという思いは強かったですね。  防衛が出来ました。   1月17日生まれの子が弟子にしてほしいという事で受け入れました。  考えるヒントを与えるようにしています。 

ここ3年ぐらいは藤井さんの圧倒的な強さがあります。   藤井さんが25歳になるころには将棋界も様替わりして、藤井さんと同年代、後輩の棋士たちによるタイトル争いになって行ってしまうかもしれないです。  ここ数年でAIの影響が凄いですね。  50手ぐらいまではシュミレーションして臨むとか、詰みの近くまで調べておかないといけないぐらい、最新の流行の形で戦おうとすると、それぐらいの準備が必要と言われて来ています。

1時間かけて結論が出そうもないと思うと、指してしまう事が多いんですが、藤井さんは苦労をいとわずに真剣に考えてきたことの蓄積が、今の藤井時代に繋がっていると思います。   40歳ぐらい若い棋士と対局するのも楽しみの一つです。  1433勝は一つに目標として行きたいと思います。  年齢を重ねる程将棋の奥深さを感じます。


















2025年6月6日金曜日

山内聖子(文筆家・唎酒師)        ・“美味しい酒”を地元で味わう旅をしよう!

 山内聖子(文筆家・唎酒師)        ・“美味しい酒”を地元で味わう旅をしよう!

山内さんは岩手県盛岡市出身。 自らを飲む文筆家と称しています。  地方を訪ねた時に出会った地元の人に愛される美味しい酒に魅せられてきました。  日本各地の蔵元などを取材して日本酒の効能、製造工程、歴史、業界の現状や未来などをテーマにした多くのエッセイを書いてきました。  最近書いたのが「日本酒吞んで旅行けば」人気の銘柄や全国屈指の老舗など15の蔵元を訪ねて、美味しい酒つくりへの思いやそれを支える地元の居酒屋や料理人達を取材しています。  日本酒との出会いや魅力、地元の料理人たちの酒に合う自慢の料理など、日本酒と旅に未来や可能性を語ってもらいます。 

母はアルコールを飲めない、父も御猪口一杯で真っ赤になるになる人でした。  私の母方の祖父母家が屋号が「麹家」で麹を作っていたらしいんです。  そこへ婿に入ったひいおじいさんが酒つくりの蔵人だったらしいです。   高校卒業をデザイナーになりたくて上京しました。 グラフィックデザイナーの専門学校に入学しました。  その系列の飲食店で働き始めました。 ある店が日本酒を100種類ぐらいある店でした。(22,3歳)  日本酒の銘柄が読めないので覚えていきました。  飲んでみて目覚めてしまいました。 

日本酒の店をやりたいという思いはありました。  時代は焼酎ブームの時代でした。  日本酒のことについて書くことで多くの人に伝えられるので、ライターになりたいといきなり思いました。  日本酒は透明でどの蔵も同じようなものですが、味が全然違うんですね。  合成酒と言った時代もありましたが、戦後復興と共に原料不足が解消されて行っても、 まずく作ろうが飛ぶように売れていた時代がありました。  戦後蔵の数も減少が続いて、2015年時点では1300ちょっとと言われていました。  今はもうすこし減っていると思います。  杜氏制度が廃れて行っていましたが、その原因が高齢化でしたが、現時点では若返っている様な気がします。  昔は杜氏さんと言うと農家出身の方が多かったのですが、農業大学を卒業した人がどんどん入ってくるようになりました。  

高度成長期は灘(大手メーカー)が全盛でした。  地酒ブームで小さい酒蔵も注目されるようになりました。  それ以降には小さい酒蔵が美味しい酒を造るようになりました。   いろいろなブームがあり吟醸酒ブーム、淡麗辛口ブーム、新潟のお酒も流行りました。    景気がいいとスッキリした辛口の酒が流行る、景気が悪いと甘口の酒が流行ると或る蔵元さんが言っていました。   

地元に行かないと本来の日本酒の姿が判らないのではないかと思いました。 本音を聞くのには地元で聞いた方がいいなと思いました。  20代の女性がライターという事で蔵元に行くと、当時は門前払いを喰う事もあり最初は苦労しました。  作り手の人と深い話をしたいという思いがあり、製造のこと、作り手しか知らないような事を知らないと会話にならないので勉強はしました。  

酒つくりには本当に正解がないという事を、改めて突き詰めたいと思いました。  作り手の譲れないものがあって、そういったことも凄く面白いです。  そういったことを知ってほしいと思いました。  20年ほど前から女性杜氏の方がぼつぼつ出てきました。  最近は大分増えてきました。   

蔵元推奨の居酒屋、小料理屋さんへ必ず訪ねています。  「日本酒吞んで旅行けば」では取材の一環として行って書くことにしました。  地元の野菜など、郷土料理と共に飲むと本当に美味しいです。  日本酒の輸出は伸びてきています。  酒蔵自体を海外で作ってあちらで作って現地の人たちに味わってもらうという流れも出てきました。  コロナ禍をきっかけとして小さな酒蔵さんもSNSで発信するようになりました。  それで便の悪い小さな酒蔵さんでも知ってもらえる機会が増えました。  同時に販売の仕方も変わって来ました。  酒蔵さん自身が自分たちで売ろうと言う様な流れになってきています。  蔵の哲学は変わらないんだけれども、その年、その年でお米の出来、不出来もあるし、時代の流れに合わせて、工夫しているところは多いと思います。  

有楽町に日本酒バーがあって、週に一回お店に立って女将をやっていて14年目になります。料理も作っています。  お客さんの反応を大事にして、ライター業でも書くようにしています。  その人に合ったものが絶対あるので、そこを捜す作業が楽しいです。  質のいいお酒にはこだわりがあるので、そのためには地元に行って酒蔵さんの話を聞かないと判らない。  飲食業とライター業が交差するような形でやっています。  











2025年6月5日木曜日

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋 

箭内さんは専門分野の広告だけではなく、東京藝術大学教授やラジオ局の名誉局長など多岐に渡り活躍を続けています。  今62歳で去年3月に自身の還暦をきっかけとした音楽イベントを開催し、さだまさしさん、石川さゆりさん、GLAY、乃木坂46など親交の深い有名なアーティストが大勢参加しました。  さらに石川さゆりさんが歌った「津軽海峡冬景色」では自らギターを演奏、ミュージシャンとしても参加し、2日間で4公演を行ったイベントは大盛況で話題となりました。  幅ひろい分野で活動を続ける思いをうかがいます。

クリエーティブディレクターと言うのは広告を制作するうえでの責任者です。  その広告で売れなかったり、話題が作れなかったりしたら多くの責任を負うのはクリエーティブディレクターです。  福島県出身。東京藝術大学卒業。  大手広告代理店を経て2003年に独立、様々なジャンルで活躍中。  NHKの番組でも司会をしました。  広告はずっとやって来ました。  来年で30周年になる仕事が一つあります。  タワーレコードのノーミュージックノーライフと言う仕事です。  何枚ポスターを作ったかわからないぐらいずっと続いています。  

福島県のクリエーティブディレクターもしています。  2011年3月に東日本大震災があって、福島第一原発の事故もあって、前代未聞の災害でした。  11年目になりました。   東京藝術大学の教授、ラジオ番組のパーソナリティー(トータルで18年 毎週)もしています。   ラジオ局を設立して名誉局長をしています。  

色々やっていますが、全部広告だと思っています。  企業の応援、社会全体を応援することが広告だと思っています。  商品の魅力を最大化して世の中に伝えていくという仕事だと思います。  やっている事は誰よりも狭いと思っています。  

還暦と言うきっかけをタイミングに、皆がえっと思うようなことを成し遂げないとという宿題を自分に課しました。  それで音楽のイベントを開催しました。  埼玉スーパーアリーナがたまたま空いた日があって、今日返事をもれるのならばお貸ししますと言われて、とりあえず仮抑えしました。  キャンセル料を調べたら100%で進むしかなかった。  GLAYTAKURO(タクロウ)さんにまず話をしたらいいですね、やりましょうという事になりました。  さだまさしさんとか段々増えていきました。  埼玉スーパーアリーナは東日本大震災があって双葉町の皆さんが町ごと避難した場所でした。  2日間行ってとっても嬉しかったです。 

子供の頃は故郷が嫌いでした。  近所の良くないことなどをしゃべりながらご飯を食べている様な状況もあったり、自分の弱さも福島県の県民性にあるのではないかと思っていました。 或る時福山雅治と話をした時に、自分に足りないものを全部故郷のせいにしているのではなく、悪いのは自分なんだという風に言ってくれました。  その時期に東日本大震災が起きました。  そこから夢中で動きだしました。  1億円寄付したくなって3月14日に銀行に借りに行きました。  寄付が目的の融資は出来ませんと言われました。  2010年に結成した福島県のバンドでレコーディングして寄付しようと思いました。  そこから広がって行きました。  

ラジオ局の設立は、大震災のあとラジオが大きな存在であることに気付きました。  つなぎ直すメディアが欲しいと思いました。  放送免許が必要だという事でした。  渋谷には同様な考え方を持つ人たちもいて、私が理事長になって旗振り役を担当しました。  福山雅治さんに話をしたら僕も一緒にやりますと言ってもらえました。  誰でも出て欲しいと思ったので、「聞くラジオから出るラジオへ」と言うスローガンにして始めました。 

実現は自分一人では絶対できないので、沢山の人たちの応援、守ってくれたり、導いてくれたりと言ったことが大事です。  何もやったことがないことを、誰に何をやって貰えるかと考えることが好きです。  

小学校4年生の時に、プロ野球に試合を友人宅で見ました。  優勝が決まる試合で巨人に阪神が9-0で負けました。(9連覇達成の瞬間)   僕にはなんてつまらない事なんだろうと思いました。  9年も同じチームしか優勝しない。  その日から阪神を応援することにしました。  それから主流のものに反対の立場を取り続けるような子供でした。  大学を選択する段になって、美術大学があるという事でこれだと思いました。  親は僕のあまのじゃくの性格をよく知っていて、親からは3つ言われました。 ①家の手伝いするな。 ②悪いことはしてもいい。 ③勉強をするな。  全部反抗しました。  

当時東京藝術大学では就職は負け組で、あえて就職を選びました。  第一位ではなく第二位の広告代理店を受け無事入れました。  いろいろトラブルがって面接時間に間に合わずその2時間後にたどり着いて受けることになりました。  スターチームには入れずに腐って行きました。  1996年にノーミュージックノーライフと言う仕事を始めました。  先輩の木村さんと一緒に仕事を捜し歩きました。  ノーミュージックノーライフの仕事が生まれていきました。   

39歳で13年間いた会社を辞めました。  或る上司から「自由の海に出たら何に逆らうんだ。  お前はもう終わりだ。」と言われてしまいました。  それがアンチの対象になり燃えました。  40歳ならば纏まった退職金、持ち株も1年、2年待てば上場して纏まったお金がもらえたんですが、さんざん周りから言われました。  

僕自身、広告は素人的にしてきました。  好きなものしか広告しないと言う様な考え方でした。   広告を技術だけで作っているという事は空虚であるという事を段々わかって来たんだと思います。  そこに魂があるかどうか、思い、助けたい、応援したいという事が作り手にちゃんと有るかどうかという事が、問われている時だと思います。  それを取り戻していくことがこれからの広告の第二章の始まりかなと思います。 

若い人にチャンスを増やしてあげたいという気持ちは有りますが、でもまだ自分も必要とされていたいというエゴみたいなものもあったりして、そこのせめぎあいが60代の難しさではないかと思います。  撮影の現場が楽しかったという風になるかどうかがとても大事です。 












2025年6月4日水曜日

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 五木寛之作詞の歌

五木寛之(作家)           ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 五木寛之作詞の歌 

20代の後半から作詞をしています。  専属のプロの作詞家としていた時代がありました。    CMソングをまずやっていました。   一日3つぐらい作ったこともあります。  

「思い出の映画館」  新宿に小さな映画館があって、入場料が30円でした。  フランスとかイタリアの古い映画を上映していました。  そこで随分勉強させてもらいました。  映画の題名を次々織り込んでゆくというものです。  忘れられないものの一つです。 

*「思い出の映画館」  作詞:五木寛之  歌:旅人   1979年

一世を風靡した映画が沢山ありました。   

*「織江の唄」  作詞:五木寛之 作曲:山崎ハコ  歌:山崎ハコ  1981年

遠賀川 土手の向こうにボタ山の 三つ並んで見えとらす

 信ちゃん 信介しゃん うちはあんたに会いとうて

 カラス峠ば越えてきた

 そやけん 逢うてくれんね信介しゃん

 すぐに田川に帰るけん

 織江も大人になりました

 

 月見草 いいえそげんな花じゃなか あれはセイタカアワダチソウ

 信ちゃん 信介しゃん うちは一人になりました

 明日は小倉の夜の蝶

 そやけん 抱いてくれんね信介しゃん

 どうせ汚れてしまうけん

 織江も大人になりました

 

 香春岳 バスの窓から中学の 屋根も涙でぼやけとる

 信ちゃん 信介しゃん うちはあんたが好きやった

 ばってんお金にゃ勝てんもん

 そやけん 手紙くれんね信介しゃん

 いつかどこかで会えるけん

 織江も大人になりました。


九州弁で書かれていますが、山崎ハコさんは大分県の出身なんです。 「青春の門」 9巻まで行って10巻で完結する予定ですが、完結してもしなくてもいいのかなあと思っています。  最後は読者が自分で物語を作って解決するという、そういうやり方もあるんじゃないかなあと思います。  


*「インディアン サマー」 作詞:五木寛之 作曲:いまなりあきよし 歌:麻倉末稀


ボサノバ調です。 「織江の唄」とは全然違います。  演歌、童謡なども書いています。


作詞は楽しい仕事です。 小説と違ってリラックス出来ます。  


*「旅の終わりに」  作詞:五木寛之 作曲:菊池俊輔  歌:冠二郎


ごてごての演歌です。 







2025年6月3日火曜日

柏原寛司(脚本家・映画監督)       ・あぶない脚本家の野望

 柏原寛司(脚本家・映画監督)       ・あぶない脚本家の野望

柏原寛司さんは東京出身。 大学在学中に映画撮影所にアルバイトとして入り、特撮テレビ番組「クレクレタコラ」で脚本と助監督を経験しました。   1974年俳優萩原健一さん主演のドラマ「傷だらけの天使」で脚本家として本格的にデビュー。  その後「西部警察」、「大都会」、「危ない刑事」など数々の映画やドラマの脚本を執筆しています。 

数々のドラマを描きましたが、NHKはないです。   毎回殴ったり蹴ったり撃ったり殺したり爆発したり、NHKぽくないです。   1949年東京・人形町に生まれました。  最初は紙芝居が好きでした。  次に漫画、次に映画となりました。  人形町には7軒映画観がありました。  銀座、上野も近いので映画を観る環境は凄くよかったです。  西部劇が大好きでそれが基本になりました。   石原プロは車の壊すのも派手で大変でした。   友人から日本の映画を観るように勧められたのが「用心棒」と「七人の侍」でした。   高校の時に観たんですが、吃驚しました。  それから日本映画を観るようになって監督をやろうと思いました。  

助監督試験は大学を出ていないと受けられませんでした。  大学も落ちてしまってシナリオ研究所に入りました。  3浪を経て日本大学芸術学部文学科に入って、大学4年の時に「傷だらけの天使」、「俺たちの勲章」を書きました。  大学を卒業した時に日活の助監督試験がありましたが、新宿の交番のお巡りさんと喧嘩をしてしまって試験に行けませんでした。  それでライターになってしまいました。   中学、高校の体験が下地になっている部分もあります。  恋愛ものは書かないですね。   萩原健一さん、藤竜也さん、勝新太郎さん等と仕事をしたのは楽しかったです。  

萩原さんとは「傷だらけの天使」のあとは「あいつがトラブル」で再開した様な形になりました。  「豆腐屋直次郎の裏の顔」辺りから萩原さんと仕事をするようになりました。   萩原さんはトラブルが多いので出資する側がビビるんですね。  撮って宣伝活動して劇場公開するまで2年ぐらいかかったりするんです。  萩原さんとやり始めてからはプロデューサー的なこともやり始めました。  映画館を作りたかったが、いろいろ規制がありできなくて、その代わりに試写室にしました。   藤竜也さん主演の映画「猫の息子」を撮りました。   2016年片桐竜次さん主演の映画「キリマンジャロは遠く」を撮りました。   映画監督は面白いすね。  ライターでは責任は取れないが、監督だと責任が取れます。  最終的な責任は現場にあるわけです。  監督だと責任が取れるのでそこが面白いです。  責任が取れる快感があります。  監督は決断をする仕事なんです。  もめ事も好きです、トラブルがない現場なんてつまらない。   それを解決してゆくのがまた快感なんです。 

若手を育てる事には力を入れたい。   映画業界を活性化するためにはいろいろなことはやろうとは思っています。   町内に長く住んでいるので、老人クラブの会長にさせられました。  トラック野郎とは違った切り口で、静岡のトラックに関わる話をを映画化しようと画策中です。















2025年6月2日月曜日

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている 

俵さんは1963年大阪出身。  早稲田大学在学中に歌人の佐佐木幸綱さんに師事、短歌を作り始めます。  1987年発表の第一歌集「サラダ記念日」は社会現象を起こす」だべストセラーとなり、口語短歌の大一人者として多くの歌集やエッセイを発表してきました。  又ホスト歌会、アイドル歌会の選者を務めるなど短歌にとどまらない活躍を続け、これまでに迢空賞(ちょうくうしょう)、紫綬褒章(しじゅほうしょう)などを受賞しています。  この春出版された「生きる言葉」は現代社会における言葉の力について、ご自身の子育てや体験を踏まえて考察していて幅広い 読者を獲得しています。 

「生きる言葉」はエッセイではなく論評、論法となっています。  言葉についてじっくり考えてみたいなあと言う気持ちが自分の中で高まって来ました。  ネットでは顔に知らない人とやり取りをしなくてはいけない時代になって来ました。  言葉の比重が大きくなってきていると思います。  ネットなど便利な反面、誤解も生じやすい。  自分が言葉を書くという事に関して、注意深く楽しむようにしたいと思います。   ネット社会について高速道路に例えると、さきにインフラが整ってしまって、運転するルール、マナーがとかがまだ途中と言うままみんなが運転して仕舞っているという様なイメージですね。  なので事故も起こりやすい。  

ちょっとした一言で、自分が傷ついたり、人を傷つけたりという事は、日常会話の中でも起こっているわけです。  何故言ってしまったのかを考えるとことによって、次への処方箋になるような、楽しんで観察できるような気持で居たいと思います。  正しい言葉と言うのは無くて、お互いの関係性、文脈で正しくもなれば間違った事にもなる。   子育てを通して、自分が考えた言葉と言う風にもこの本は読めます。   言葉に対するまっさらな目を自分でも取り戻しながら楽しんでいたような気がします。   息子がラップが好きで日常的にいろいろ聞いています。  短歌に近いなあと思ったりもします。   言葉の語彙を増やすのにはしりとりは良いと思います。  息子は大学生になり国語学を勉強しています。  

佐佐木幸綱先生からはエネルギッシュな文学論と言う感じで、短歌だけではなく幅広い文学論でした。  先生の歌集に出会って、今を生きる表現手段だと知ることが出来ました。   先生の授業の感想、書いたものの感想とか、手紙で送っています。  短歌を作るのが楽しかったです。  ラップも短歌もリズム感があって、耳から届くという意味では共通するものがあります。   短歌を作るときには音の響きはとっても大事です。  濁音はちょっと耳障りな感じがします。   心の真実を伝える言葉で有ったら、嘘をついてもいいのかなあと思います。  短歌、俳句を作ってくれるAIは有りますが、私たちが短歌を作る醍醐味は、心の揺れを立ち止まって見つめ直して、そこから言葉を選んで形にしてゆく、その過程を含めて歌なんです。  AIにはその過程がありません。   私たちは心から言葉を紡ぐ。 

迢空賞(ちょうくうしょう)を取ったら楽になりました。  もうそれ以上ないし。    50代は色々なことがありました。  子育てが一段落すると親が高齢になり、自分でも病気をしたりしました。   入院も一つの経験になりました。  その中から歌も生まれました。 歌を詠むことで、自分の人生を振り返り、言葉にすることで辛い経験を乗り越えたんだなと言う、達成感があります。   

「作品は副産物と思うまで詠むとは心掘り当てること」   俵万智

私自身も歌を通していろいろな出会いがあります。   言葉のかけらをメモしておいて、もうちょっと育てて行こうかとか、同じようなことが二度三度あった時に初めて歌になるとか、そういう事もあります。   

「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」  俵万智

今一番多くのお母さんが好きと言って下さる歌です。  重ねぬりの度合いの厚みがある時には抽象的な歌でも成立するという事はあります。 

年齢年齢によって見える景色は変わってくると思うので、「アボカドの種」と言う一番新しい歌集では30年振りに会った元彼の話が出てきますが、30年後の恋は20代の人には詠めないぞと思ったりしています。  年齢を重ねることで見えてくる景色などを捕まえて行けたらなと思います。  「アボカドの種」には黒い歌も結構入っています。  良い面を捉えて歌にしたいと言う白い歌を心掛けてきましたが、黒い歌も出来てきて歌集に入れてもいいのかなあと思いましたが、共感して頂いて黒い歌も人を励ますという事があるんだなあと思いました。  言葉にするという事は自分を客観的に見るという事に繋がるので、そういう意味でもいいと思います。   

「人生を楽しむための治療ゆえ今日は休んで大阪へ行く」   俵万智

放射線治療をしている時でしたが、どうしても行きたくて行きました。 

「優しさに一つ気が付くバツでなく丸で必ず終わる日本語」  俵万智

特に中高年の人から共感を得ました。 「マルハラ」マルハラが生まれた背景には、世代間のギャップがあると考えられます。 世代によって、コミュニケーションの目的やゴールが異なる点に、マルハラの発生原因があると考えられます。  仕組み、状況をきちんと理解して、知るという事は凄く大事な事です。  道具なので道具に使われたらおしまいで、道具を楽しいんで便利に使えるという事が大事だと思います。  言葉はなんで生まれて来たかと言うと、伝えたい事、共有したいことがあるから言葉は生まれてきたわけですから、人と人とが繋がるものとして言葉を使っていけたらいいなあと思います。 





 






 






2025年5月30日金曜日

沢田亜矢子(女優・歌手)         ・75歳からの挑戦

 沢田亜矢子(女優・歌手)         ・75歳からの挑戦

 沢田亜矢子さんは1949年北海道の出身。  地元の高校を卒業後、単身上京して国立音楽大学入学、1973年シングルレコード 『アザミの花』で歌手デビューしました。  その後舞台、映画、テレビ、ドラマ、バラエティー番組の司会など多岐にわたって活躍しています。

芸能生活昨年で50周年を迎えました。  笑顔でいろいろな人に話し掛けて50年過ごしてきました。  大学の教育課程の時の高校生に教えるのが怖いと思ってしまいました。   自分で働こうと思って、都内のホテルのジャズクラブでピアノの弾き語りのバイトを始めました。(22,3歳)   20歳という事でデビューしましたがばれちゃいました。  ピアノは小学生の頃に習い始めました。  父は国鉄の職員で母は農業をやっていました。  兄弟3人の長女です。  3人とも大学を出させてくれました。  いろいろなことをやってきて、一番合っているのはもしかしたら芸能界かもしれないと思いました。  

学校を中退することは事後報告でした。  生活は責任を持つから自立させてくださいと言いました。(24歳)   声楽でクラシックをやっていても流行歌の歌手としてはかなわないと思いました。  森光子さんのドラマに出る機会があり、「ちゃんと歌っているけれども歌は違うのよ、伝えるのは言葉よ、貴方の心よ。」とおっしゃいました。  「それは芝居の世界にも通じて、自分の心を自分の身体を通して、人に伝える事、表現する事が大事かという事を一から勉強しなさい。」と言われました。  「じゃがいも」と言うドラマでした。 

演劇の個人授業を始めました。  森さんからやっといいと言って貰えたのは30年、40年経ってからです。  1979年、『ルックルックこんにちは』の司会を担当。  司会者は目立たないようにしゃべらない方がいいという事を言われました。  オーディヨンではほとんどしゃべりませんでした。  担当していろいろ失敗をしました。  5年半番組の司会をやっていました。(生放送)    

その後女優の道を選ぶことになります。  自分が飛び込んでみて、感じることが私を作ってゆくんだろうなあと言う気がします。  しなくていい苦労もしたかもしれませんが、今考えると無駄な苦労はなかったと思います。   音楽への思いがどこかにあって50周年でCDを作ろうと思って、CDを発売することになって、話題にもなりました。  車にCDを積んで首都圏を回りました。  SNSにて自己PRをしました。   CDはあまり売れませんが、頭の活性化にもなるし、若者の人たちとのいろいろな交流がありました。  自分の生き甲斐を見つけた感じです。  






  

2025年5月29日木曜日

大森青児(映画監督)           ・〔私のアート交遊録〕 スクリーンに描く映画愛

大森青児(映画監督)           ・〔私のアート交遊録〕 スクリーンに描く映画愛

 大森さんは1948年岡山県生まれ。   1972年にNHKにディレクターとして入社、その後ドラマ一筋、連続テレビ小説はじめ大河ドラマ、土曜ドラマ、銀河小説ドラマなど数々のドラマを手掛けました。  NHK退職後大森さんは立て続けに故郷岡山を舞台に映画を製作しています。  最新作は岡山県高梁市が舞台の「晴れの国」コロナや低予算という足かせのなかで、作品を上映してくれる映画館を一館一館探しながら公開にこぎつけました。  故郷岡山にこだわりつつ映画つくりに向き合う大森青児監督の映画観について伺いました。

小学校4年でテレビがうちに来て、父が新国劇、母が新派が好きでよく一緒に観ていました。 それが後々こっちに繋がったのかなと思います。  時代劇映画全盛の時代で父と時代劇を良く一緒に観ていました。  当時は入れ替えなしなので、友達と二人だけで観に行って夜になってしまってひどく怒られた事がありました。  その後舞台も好きになりました。 同志社大学も学生運動が盛んで学校が封鎖したりしました。  大学4年で封鎖が解けて戻ったら、周りの学生は就職活動に懸命になっていました。  NHKの試験に受けられて入ることが出来ました。  その3年後に大阪の芸能部を希望しました。  そこから私もドラマ人生が始まりました。(25歳)  最初は希望通りに行きませんでしたが、5年後に初めての演出が回ってきました。  連続テレビ小説「わたしは海」の3本やる事になりました。(30歳)  

「今この番組は上手くいっていないかもしれないが、死ぬ気でこの番組を支える奴は手をあげてくれ。」と言われてとっさに手をあげました。  「3人死ぬ気でやれるやつがいたら、番組は保てる。」と言われました。  その後の私の人生に大きな言葉だった様な気がしました。朝ドラは7本やりました。  水曜日にちっちゃなヤマを作れ、土曜日に大きなヤマを作れと言われました。  なるべくそのように作って行きました。  朝ドラは芝居に安定感が必要ですね。  最初の頃の朝ドラは、或る女の人ががんばってなにかをなし遂げてゆくというパターンがずっとありました。  途中から、社会が複雑になって、今度は男を主役にしようという時代がありました。  その後独りでは時代を表せないという事で二世代に渡って今をどう生きるかと言うテーマになって行きました。  四姉妹の作品もありました。 手掛けた作品は300本ぐらいになりました

2006年に辞めることになりました。  テレビドラマはやり切った感がありました。   それで舞台と映画に向かいました。  舞台ではいろいろ勉強になりました。  笑う時にはお客さんの呼吸が一緒になって、それがうねるんです。  舞台の魅力を感じました。     セリフが一緒なのに毎回違うんです、これも面白い。   演出もあるんですが、舞台は役者のものだと思いました。  

映画は二本撮りましたが、これもおもしろいです。  映画の一番の魅了は画面が大きいのと音量です。  映画もテレビと同じ様に撮っても問題ないと言われました。  一本目も舞台は岡山県の高梁市です。  都会から戻ってきて家族のきずなを取り戻してゆくというものです。二作目も「晴れの国」は高梁市が舞台になっています。  コロナ禍であったので、高梁市は人脈もあるし、低予算で出来るものを考えました。   ダブル主役の一人がコロナにかかってしまって10日間様子を見なければいけなくなりました。  10日間でとる予定だったので撤退することになりました。  一日に百何十万円かかってしまうので、改めて翌年の5月に撮りました。  私が映画館を一個一個訪ねて行って交渉しました。 

映画を撮ることはまず楽しいからです。  やりがいもあります。  映画は残るんで、今の人だけではなく30年、50年後に観た人が感動してもらえるような映画を作りたいと思っています。  具体的には孫が観て感動する映画を目指しています。  スタッフと役者が混然一体となって、同じ方向を目指して集中する快感と、テレビと違って長く楽しめる。

家族のきずなと言うものは永遠のテーマだと思います。  他の人が幸せそうにしていると、なんか嬉しくなってくるんです。 ガンになって生死にかかわる経験をして、思うようになったと自覚しています。  3本目にとりかかろうとしています。 コロナの時にできなかったものです。   お薦めの一点はイタリア映画「ひまわり」です。  別れる時のマストロヤンニの表情、あれは芝居の原点プラス終着ではないかと思います。 表情を変えずにソフィア・ローレンをじっと見ているだけなんです。  何もしないのに心が思っているから伝わるんです。  


 






2025年5月26日月曜日

2025年5月24日土曜日

山本容子(銅版画家)           ・〔私の人生手帖〕

山本容子(銅版画家)           ・〔私の人生手帖〕

山本容子さんと言うとカラフルな色使いと軽やかな作品を思い出しますが、世界の文学作品などをモチーフにして数多くのアートを生み出す傍ら、エッセイや舞台衣装など美術以外の分野でも多彩なかと同を続けてきました。  1952年埼玉県のうまれ。  75年京都市立芸術大学4回生の時の個展以来、今年は銅版画をはじめて50年の節目の年をむかえています。  膨大な作品群には山本さんの内面のどのような思いが潜んでいるのか、パワーに源にあるのは何なのか、近年精力的に取り組んでいるホスピタルアートについても伺います。

23歳でデビューして73歳になるので、、よくも描き続けてきたというのが感慨です。   早稲田大学が図書館を作って、村上春樹ライブラリーと言う名で、 その場所で展覧会をさせてもらっています。   8か月もやらせてもらっています。   沢山の国籍の違う人のサインがノートにされています。   カポーティをテーマに27歳の時に作品を30点ぐらい描きました。(1979年)  カポーティは中編『ティファニーで朝食を』などを書いてています。  カポーティの作品展をした後7年後に村上春樹さんがカポーティに関する本を書いて、私の絵が取り入れられました。 去年また村上春樹さんとの新しい本が生まれました

銅画は線が命で、線に惚れて銅画をやっています。  細いのに強靭で、薄いのに強いという。  

昔から絵と共にやっているのは、本を読む事、音楽を聴くこと、旅に出る事です。  自分が豊かになることが栄養になっ行くはずなので、それは努力しています。  シェイクスピアのことを描くにしても、古い音楽を聴いたりするとその時代のことが頭に浮かんできて絵を描くための元になります。   国柄が表現できないといけないと思っているので、旅に出て体感します。   シェイクスピアのことを描くにしても、穴からのぞくような多様な視点を使って、154編やっと描けました。  

55歳ぐらいの時に大腸がんになって、仕掛り中の仕事があってそちらへの集中をしました。 がんのことは先生に任せて、その相乗効果で早く治ったと思います。  高校2年生で演劇部で、本を作る方が好きでした。   演劇をしたくてたまたま京都市立芸術大学へ一浪した入ることになりました。  銅画を知らなかったために、返って興味を持ちました。  

父は平成3年に亡くなりました。   集中治療室でずっと天井しか見れなくて、その天井が汚い天井でした。  父の視線、父の気持ちなどに寄り添ったりしていれば、天井をもっときれいにしたいとか、思ったはずですが。  一体だれのために発表しているのか、そこからちょっと変りました。  病院の先生に天井に絵を描かせて下さいと言っていました。  或る病院に描かせてもらいました。 その後ホスピタルアートの絵の勉強にスウェーデンに行きました。  絵は薬にならなければいけない。  子供の部屋には人気のあるキャラクターは置かない。  もし子供が亡くなったら、そのキャラクターを見るたびに、親は子供のことを思い出して悲しくなる。  

2013年に高松の病院の廊下を温かい雰囲気の廊下にしたいという事で、オレンジ色の温かい空気が流れるような、そんな感じにしました。  絵、文学、音楽から得たもの、その通底したものが一つの世界を作っていて、それを一枚の絵を通して見せられたり、重なり合った世界を見せて行けるようになればいいと思います。  祖母がずっと言い続けてきた「どっかで誰かが見ているよ。」と言う言葉が好きで、困ったりした時には思い出します。 

埼玉県立近代美術館に収蔵されている私の作品70点ぐらいを、50周年を記念して展示されます。(6/7~8/31迄)








 




 

2025年5月22日木曜日

十朱幸代(俳優)             ・今、舞台への思い 後編

十朱幸代(俳優)             ・今、舞台への思い 後編 

姿勢のことは子供のことから母親にやかましく言われました。  木登りが凄く得意な女の子でした。  奈良で育ちました。  兄と妹がいます。  父・十朱久雄は芝居が好きで東京に出てき1年後に家族も東京に行きました。  父の世界に憧れ、女優になりたいと思っていました。 (小学4年生)   1958年、NHKバス通り裏』でデビュー。(15歳)  生放送なので毎日NHKに行って撮影をしていました。 (15分ドラマ)  翌年、映画『惜春鳥』(木下恵介監督)で映画デビュー。1980年「震える舌」(デビューから22年後)、1983年「魚影の群れ」、1985年「花

いちもんめ」、 1987年「夜汽車」。  テレビ、舞台が多くて映画は少し経ってからやらせて

頂きました。 映画が盛んな時代でした。 2003年、紫綬褒章受章。(61歳) 2013年度秋の旭日小綬章受章。  歌も歌いました。 

*「セイタカアワダチ草」  作詞:吉岡 治 作曲:岸本 健介 歌:十朱幸代  1977年              

2010年ぐらいの時に足首のくるぶしのところの手術をしました。  捻挫を繰り返していました。(20年ぐらい)   大腿骨の骨を取って足首の骨とを繋ぎました。  11時間の手術でした。  一月後に反対側の足も手術して、5か月間入院しました。  筋肉が減ってしまって歩けないぐらいでした。  舞台も立てるようになりました。  医学に感謝です。   今はプールで30~40分ぐらいは歩いています。  

俳優業は面白いです。 次から次に問題があって、仕事する内容も全部違って面白いです。    自分ではない違う人生をいろいろ堪能できるところが凄く面白いです。  良い人の役ばっかりやっていると悪人がやりたくなります。  今はもういろいろやったので、自分に密着したものをやりたいです。  仕事しかない人生だったので、健康に留意して仕事ができる態勢が目標ですかね。  











2025年5月21日水曜日

山下佐知子(エグゼクティブアドバイザー) ・〔スポーツ明日への伝言〕 志あるところに道ありき 後編

山下佐知子(エグゼクティブアドバイザー) ・〔スポーツ明日への伝言〕 志あるところに道ありき 後編

前編 参考  https://asuhenokotoba.blogspot.com/2025/04/blog-post_16.html

 1991年東京で開かれた陸上に世界選手権の女子マラソンで山下さんは」銀メダルを獲得しました。  子音メダルは日本の女子マラソンにおけるオリンピック世界選手権のメダルであり、陸上競技女子としては1928年アムステルダムオリンピック800mでの人見絹江さんの銀メダル以来63年振りのオリンピック世界選手権でのメダルでした。  競技者として日本の女子長距離を世界レベルに押し上げた山下さんはその後山下さんは第一生命グループ女子陸上競技部監督を28年に渡って務められ多くのトップランナーを育ててこられました。

1992年はバルセロナオリンピック、前年の銀メダルは自分の中では奇跡的な走りで有って、バルセロナオリンピックではいいところ入賞ぐらいの思いでした。  バルセロナオリンピックは午後6時のスタートでした。  結果は4位でした。  男子のマラソンで谷口浩美さんが「こけちゃいました、」と言うマラソンでした。  森下選手が銀メダルを取りました。   「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」と言う言葉が有りますが、本当にそうだと思います。   再現性は大事なことだと思います。

1994年に第一生命に入社。  選手兼特別コーチでした。  京セラからの移動という事で京セラからはいい顔はされませんでした。  グローバルな視点がないと稲盛会長からは言われました。  1996年3月に現役引退を表明。その後同年4月より、第一生命・女子陸上部の監督を務めています。  28年間監督を務めることになります。  自分いことを考えるのがもう嫌になって、自分のことではないことにエネルギーを使いたいと思っていました。     自ら指導し活躍した女子選手には、伊藤真貴子さんが1997年11月の第19回東京国際女子マラソンで優勝しました。  良い事実は言いますが、それほど褒め上手ではないです。  

駅伝ではチームワークを作って行かないといけない。  2002年12月の第22回全日本実業団対抗女子駅伝競走大会では、第一生命の監督として駅伝初優勝を果たしました。  会社が100周年の年でした。  尾崎好美さん野尻あずささん田中智美さん上原美幸さんなどがいました。  2008年11月16日、第30回東京国際女子マラソンを愛弟子の尾崎好美が優勝、2009年8月23日世界陸上ベルリン大会女子マラソンでは尾崎好美が2位に入り銀メダルを獲得。   学ぶ事を辞めたら指導することを辞めなければいけない、と言うように勉強はし続けなければいけないです。   

田中智美選手の(女子マラソン種目)の2015年世界陸上落選について、説明の仕方に納得がいきませんでした。   いろいろ資料を作って説明もしました。  漏れた選手の当事者の気持ちを知ることが出来ました。   ここまで蒔いた知見をもっと社会貢献寄りとか、地域に役立つようにとか、汎用性を広げて面白い事とか楽しい事とか、自分も元気になるし回りもも元気になるみたいな取り組みが、今迄よりもできたらいいなあと思っています。




2025年5月20日火曜日

寺尾聰(俳優・ミュージシャン)      ・やりたいことをやり続けるには 

寺尾聰(俳優・ミュージシャン)      ・やりたいことをやり続けるには 

 寺尾さんは1947年神奈川県生まれ。 父は劇団民芸の創立メンバー宇野重吉さんです。    1996年グループサウンズのザ・サベージ」のベースとしてでデビュー、1968年石原裕次郎制作主演の「黒部の太陽」で俳優デビューし、以後俳優として活躍します。 1981年自身が作曲した「ルビーの指輪」が大ヒット、」その年のレコード大賞、紅白歌合戦出場など音楽業界を席巻しました。  俳優としては代表作に映画「雨あがる」「阿弥陀堂だより」「半落ち」などがあります。  今月16年振りの主演映画「父と僕の終わらない歌」が公開予定です。

「ルビーの指輪」   作詞:松本隆 作曲:寺尾聰 歌:寺尾聰  1981年 

刑事ものの撮影の合間を縫ってレコーディングをしたり、歌番組に出なくてはいけない状況になって、仕方なく出たのが最初です。  いろいろ賞を頂きました。  中学生のころからギターをもってバンドをやったりしていました。(エレキブームの前)  「ザ・シャドーズ」を初めて映画で目にしました。  全身が鳥肌が立つ演奏を聞きました。  それがザ・サベージ」と言う曲でそのままバンドの名前にしました。(高校1年)  僕はベースを担当しました。  高校では野球(レフトで4番バッター)をやっていて、足も速かったので陸上もやりました。  事情があって高校を退学することになりました。 (高校1年を3回やることになりました。)   音楽でプロでやろうという人は一人もいませんでした。  

高校は中退で、卒業証書はもらえないが修了証書を貰うために、終了試験を受けて、それで大学検定を受けられます。  文化学院を卒業しました。  父から石原裕次郎さんに預けられることになって、俳優をスタートします。  初出演が「黒部の太陽」です。 テレビのも多く出て刑事役が多かったです。  大病をして極細になってしまいました。  その姿で演技しているところを子供たちが観て、吃驚するぐらいのファンレターが来るようになりました。  舞台も芸術座で山本周五郎の「柳橋物語」、水上勉の「紅花物語」に出ました。  その後帝国劇場で1,2本やりました。  舞台よりも映像の方が向いていると思って父に話しました。  「好きなものが見つかってよかったな。」と言われました。 

今月16年振りの主演映画「父と僕の終わらない歌」が公開予定です。  イギリスであった実話です。  松坂桃李さんの父親役です。  或る日アルツハイマーだという事がわかり、そこから物語が進んでいきます。  この病に対してどう向き合うかという事も、映画のなかで当然必要ですが、本当にどういう映画を作りたいのか自分で思ったときに、これは全く愛情の映画でいいんだとおもって、関わる息子、妻、友達などとの心のいきかう愛が最後に胸にキュンとしてくれればいいなあと思って、この映画をやったという感じです。 チャップリンの映画『モダン・タイムス』の中の「スマイル」と言うメロディーが大好きだったので、乗せさせてもらいました。  

「フェードイン フェードアウト」のように遠くからスーッと近くに来て、自分の目に前をずーっと通り過ぎて、向こうの方に消えてゆくという、そういうものをちょっと音楽ではやっています。  映画でもそれでいいんじゃないかと思います。







2025年5月17日土曜日

2025年5月15日木曜日

十朱幸代(俳優)             ・今、舞台への思い 前編

 十朱幸代(俳優)             ・今、舞台への思い 前編

十朱さんは昭和17年生まれ、15歳でNHKの「バス通り裏」でデビュー、その後テレビ、映画、舞台などで幅広く活躍、2003年に紫綬褒章、2013年には旭日小綬章受章しています。  子供のころから仕事にめぐまれ途切れなくやって来ましたが、コロナ禍気が付くと80歳を越え、もう舞台はいいかなと思っていたそうです。  2013年70歳から始めた司馬遼太郎の「燃えよ剣」の朗読を再演したいという思いが4年振りに叶いました。 

至って健康です。  風邪で寝込んだこともないです。  ちょっとした運動、食べ物には気を付けています。  7月20日に大阪で朗読劇を行います。  2013年から18年まで毎年やっていました。 (45回の公演)  前回が2021年11月  コロナ禍で朗読劇も途絶えてしまいました。  『燃えよ剣』の土方歳三に愛された女「お雪」  土方歳三は34歳で亡くなっている。  土方歳三の裏には全て死があるんですね。  それを承知で二人が恋愛してゆく過程がドラマチックだと思います。  土方に一目惚れしてしまう。  毎回発見がどこかにあります。  

見ていただく方の緊張感を大事にします。  新鮮さを表現したい。  ピアノ宮川彬良さん)との対話もあります。  [上演台本・演出]笹部博司さんとも一緒するのがうれしいです。  大勢で作る芝居と朗読劇(一人で作る世界)は違います。  演劇では若いときではないと出来なうような体力の問題があります。  

大坂は初めてなので、どういった受け方をしてくれるのか興味があります。  土方歳三もお雪も江戸の人なので、関西の人方が観たらどういう感じなんだろうかなあと思います。   私はこの作品は最後にしたいと思っています。  土方歳三、お雪、ナレーションもやると言う事は最初は難しいと思いました。  土方歳三の気持ちになって演じていると自然にていをなしてくる感じです。  朗読劇ではあまり大きい会場ではない方が伝わりやすいです。    いい作品にめぐりあえたと思います。  





2025年5月14日水曜日

松家仁之(作家)             ・編集者が作家になると

松家仁之(作家)             ・編集者が作家になると

 松家さんは1958年生まれ、東京出身。  早稲田大学在学中に、初めて書いた小説が新人賞の佳作に入選、しかしその後作品が書けないまま雑誌編集のアルバイトを経て出版社に入社、28年間は編集者として仕事をしました。  51歳の時改めて小説に向き合いたいと会社を辞職し、読売文学賞を受賞したデビュー作『火山のふもとで』では建築家の吉村順三をモデルにその事務所に勤める青年が主人公となっていますが、この春刊行された『天使も踏むを畏れるところ』は、その前日譚に当たり空襲で焼け落ちた明治宮殿に替わる新宮殿の造営とそれに関わる人々のドラマを描いています。  これまで芸術選奨文部科学大臣賞を受賞するなど、繊細で美しい文章に定評のある松家さんに、ご自身の人生と作品について伺いました。

今回刊行された『天使も踏むを畏れるところ』は登場人物が結構多いんです。  新宮殿の造営に関わると言う意味では、全員共通していて、立場が違うと思いとかいろいろなことに対して結構丁寧に追って行けるのが長編なと思います。  デビュー作『火山のふもとで』と言う小説の前日譚という事になっていて、もともとは一つの小説として放送されていた。皇居新宮殿の設計を任されたが、 途中で宮内庁と意見が対立して、工事の中途で辞任する建築家がいて、その人の建築事務所に大学を卒業したばかりの男の子が入って行って、老大家と若い建築士との物語で、一つの小説として書こうと思ったんですが、到底無理だと思いました。  皇居新宮殿の話は宿題にして、『火山のふもとで』を書いたことになります。 直ぐかけなかった理由のもう一つは宮内庁、皇居の中で働いている人たちがどういう風に働いているとか、ほとんど判っていない。  宮内庁に関わる様々な本、日記、資料を読むようになったのは、判るようにしてから書きたいと思いました。 

構想25年、作?から数えて15年と言う時間が必要でした。  令和になってから宮内庁の情報公開が大分進みました。  そういった中でのびのびと書かせていただきました。  皇居新宮殿が造営された時代は自分が小学生のころなので、皇居新宮殿が造営されたという事も知りませんでした。  私は学校が苦手でしたが、図書館での時間は、世界への入口みたいなものが空いていて、いろいろなところへも行けて、過去、未来へも行けて私の命の恩人です。  中学、高校と海外文学に関心が向きました。  その世界にどっぷり入っていけました。  小説を書き始めたのは19歳の時でした。  佳作に選ばれました。 

アルバイトで編集の仕事をして、その関係で出版社に入社しました。  30年近く編集者生活がありました。  丸谷才一さんは本当に忘れられない作家でした。  小説とは何かという事を教えられた気がします。  橋本治さんも忘れ難い作家の一人です。  「文学と言うのは要するに鎮魂なんだよね。」とおっしゃって、自分の核心に落ちて来た。  僕が小説を書く時に、ここに描かれた人たちのやってきたこと、思ってきたことを上手く伝えて、それで彼等を鎮魂したいなという事でやっているのかなと思う様になりました。  

自分の思う良い編集者は、つかず離れずちゃんと伴走して、一番大事なところについて率直に言える編集者が優れているのではないかと思います。 2002年、季刊総合誌『考える人』を創刊、編集長となります。  創刊号が養老孟司さんへのインタビューでした。  インタビューは偶然飛んでくる球を受け取るような受け身の姿勢も大事です。

書くという事に集中させてもらおうと思って、会社を辞めました。  会社員時代は一行も書いていないです。  建築についてはずっと関心を持ち続けていました。  『火山のふもとで』の次の『沈むフランシス』では実験的な意味合いのある作品でした。  『光の犬』では家族とか一族みたいなものを描いてみたいと思いました。  芸術選奨文部科学大臣賞 及び河合隼雄物語賞受賞。  新聞小説「箱」は初めての経験です。  出版の歴史をたどる小説です。 本というものが特別な時代であったことはいつの間にか終わって仕舞って、出版界の盛衰も描くし、出版界への愛情もあるので、両方を物語の中に入れていきたいと思います。  僕に中には設計図みたいなものはないです。  人生って思う様に行かないし、それが面白いところでもあるし、やれること、やりたいと思う事をやって行きたいと思います。 



2025年5月12日月曜日

サヘル・ローズ(タレント・俳優・コメンテーター)・〔師匠を語る〕 映画監督・岩井俊二を語る

サヘル・ローズ(タレント・俳優・コメンテーター)・〔師匠を語る〕 映画監督・岩井俊二を語る 

サヘル・ローズと言う名前は「砂浜に咲く薔薇」と言う意味です。  わたしを引き取ってくれた養母が7歳の時に付けてくれた名前です。  私は戦争時に生まれた子なので、私を引き取ってくれた養母が付けてくれました。  或る知人を介して、サへルに会いたいという事で8年ぐらい前に初めてお会いしました。  岩井俊二さんは日本の映画界のなかでも孤立をしていて、自分の考えをもって孤独な存在だけれども、岩井さんにしか表現できない作品が多く作られていて、なにか光を持っている監督という印象がありました。  

岩井さんは映画監督映像作家・小説家脚本家・漫画家・作曲家・作詞家・映画プロデューサーなど多彩なジャンルで活躍している。  1963年生まれの62歳。  仙台市出身。 大学卒業後、ミュージック・ビデオの仕事を始める。  1993年テレビドラマif もしも打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』を演出し、この作品で日本映画監督協会新人賞を受賞。   1995年に初の初の長編映画『Love Letter』を監督。  日本アカデミー賞優秀作品賞、文化庁優秀映画作品賞、芸術選賞、新人賞をはじめとする多くの賞に輝きます。  その後も日本を代表する映画監督として「スワロウテイル」「リリイ・シュシュのすべて」初の長編アニメーション「花とアリス殺人事件」「ラストレター」など話題作を発表、最新作の「キリエのうた」では令和5年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しています。 2006年からおよそ5年間アメリカに拠点を移していましたが、東日本大震災を機に帰国、今も歌い継がれるNHK復興支援ソング「花は咲く」を作詞、岩谷時子賞特別賞も受賞しています。

私は貧しい生活から抜け出したいという事で、這いあがりたいという精神が強かった。   這い上がるという事はちゃんと学歴を持つ事、そのためには大学に行きたいと思っていました。  いろんなアルバイトをする中でエキストラの仕事がありました。  私の場合は中東の人間で、なかなか役を貰えず死体だけを6年間やり続けたこともあります。  たまに生きている役が来ます。  しかしテロリストの役で直ぐに死ぬ役でした。  国籍で仕事が限定される、この目に見えない溝って何だろうと思いました。   中東=テロリストと思われて仕舞う歯がゆさがあり、日本人の役でもできるということを証明したいと思いました。  続けていれば誰かが観ていてくれる。  そのなかに高嶋政宏さんがいて、私を推薦してくれました。  ここから人生が変わっていきました。  それを中井貴一さんが観ていてパルコ劇場「メルシーおもてなし」(2016年)のフランス人の通訳をする女性に推薦してもらえました。  

あらゆる社会の中で起きている問題にフォーカスしているのが岩井俊二家督だと思っています。  何か問題提起を一緒にやりませんかと声を掛けてくれました。  イベントを定期的に開催するようになりました。  第一回目が里親さんでした。  社会的養護化をテーマに一日限定のイベントを行いました。  難民問題、言葉を通してどうしたら社会とつながるかという言葉の問題、社会的弱者に光を当てるイベントを岩井さんが全力サポートしてくれて、一緒に主催してやって来ました。  身寄りのないサヘル・ローズ、可哀そうなレッテルだけ常に貼られてしまって、私はもっともっと表現をして、サヘル・ローズではない人間になりたい、何故ならばサヘル・ローズとして生きるのが辛いんです。  

もっと別の人格になりたい。役者として私も羽根を広げたい、と言ったことを常に相談していて、岩井さんの前で泣いていたりしました。  岩井さんは静かに何時間でも聴いてくれました。  岩井さん自身もいじめにあったり、家族との距離感、友達との距離感とか、今もいまも岩井さんは孤独で、やりたいことをやれていないという事を話していただきました。自分にとって挫折をして来た姿、諦めてしまった姿、弱い姿、を見せてくれたことが、自分の中で師匠として岩井さんを見るようになりました。  最も信頼できる人に変っていきました。   

「花束」 児童養護施設で育った8人の若者が出演した映画。 サヘル・ローズ監督。  社会の中では偏見を持っていることが実はまだ多くて、差別の対象にもなるし、施設出身者はマイナスの方がおおきい。  自分の生い立ちがどこかで自分の人生を決めてしまうというふうに、諦めの方が大きくなってしまう。  コロナ禍で出来なくなってしまったが、岩井さんに再度連絡をして岩井さんに監督になって頂ければいいと思いましたが、、一番重要なのは何を撮りたいか、何を伝えたいか、伝えたい人間が撮るべきだと言われて、全力で支えるからやってごらんと言われました。  過去に闇を持って居たり、傷ついた人間は物つくりをすべきだ、だから僕も物つくりをしている、傷をもっている人間は強いから、映画を作ればサへルの居場所が出来るよと言われました。 

実際に養護施設で育った子供たちが主人公です。  子供たちへのインタビューの中で携帯で動画を撮っておくように岩井さんから言われました。  映画が出来上がってから岩井さんと大衝突がありました。  私は賞にこだわっていました。  映画祭を通ればきっと多くの方に見てもらえると言ったら、岩井さんから「幻滅した。」と言われてしまいました。  貴方もエゴの塊なんですね、評価されたいためにやっているんですね、と言われてしまいました。   僕は賞のために物つくりはいていない。  100年後にも残るものを僕は作ろうと思う。    重要なのは何を届けるかであって、最初は僕の作品なんてみむきもされなかった。 怒られたお陰でその先に進めました。  大事なのは一作目で成功しない事。  失敗してどん底から這い上がるという事。  最初この映画はどこも見向きされませんでした。  映画製作と言うものはただ私に映画を撮らせたかったわけではなくて、映画を通して7年かけて人とつながる、私がやりたかったことを表に出すきっかけをプレゼントしてくれた。  

死にたいと思っていたこともあるが、この作品に生かされている、この作品の為にもちゃんと生きて行かなければいけない、これが岩井さんが私に授けた事なんだろうなと思います。 岩井さんからコメントを頂きました。 「サヘルさんはフィルムメーカーに必要な天使の羽根を持っている。」  このコメントを見た時に号泣して仕舞いました。  

岩井さんへの手紙

「私は岩井さんと出会ったのは9年前のことです。 ・・・この国で外国人として、表現者として、自分の居場所が長く見つからない、そんな私の葛藤に真っすぐ耳を傾けてくれたのは岩井さんでした。 貴方の闇は美しい。 岩井さんの眼差しに、私は初めて過去を肯定し抱き占める許可を得たような気がしました。 ・・・ただ一人のサヘルとして見つめてくれた。  その眼差しが私の尊厳をそっと守ってくれました。  厳しくしかってくれたことも私の中では永遠に残る宝物の一つ。 ・・・居場所は誰かに与えられるものではなく、自分の足で築いてゆくものだ、それを岩井さんはご自身の生き方で教えてくださいました。  私の人生から生み出される映画を生み出すことで、私に居場所をくださった。  岩井さんは常にご自身の経験と背中で私の道しるべになってくれた。  私が映画を撮る勇気を持てたのは岩井さんと言う闇がいたからです。 ・・・誰かの居場所を照らせられるように今後も歩み続けます。  出会ってくれて本当にありがとうございます。」



























2025年5月11日日曜日

土師幸士(浅草神社 宮司)         ・浅草の街に世代を越えて開かれた神社を!

 土師幸士(浅草神社 宮司)         ・浅草の街に世代を越えて開かれた神社を!

東京浅草の街は1年でも最も活気づく三社祭を間近に控え、熱気が高まっています。  その三社祭を執り行う浅草神社第63代宮司の土師幸士さんは、浅草にも神道にもえんがありませんでしたが、思いがけず神職の道を歩むことになりました。  就任以来新規に開かれた神社を目指し、日本の伝統文化の継承や世代間の交流を図るなど、浅草に根差した神社の存在感を高めています。  間近に迫った三社祭を含めてお話を伺いました。

今年は三社祭は5月16日、17日、18日におこなわれます。  3日間で約180万人と言われています。  浅草神社に祭られている神様は、主祭神として三柱の神様がいらっしゃいまして、土師真中知檜前浜成命、檜前竹成命の三柱の神様を祭っている神社という事で、三社と言う言葉が使われています。  628年(約1400年前)推古天皇の時代に漁師の兄弟が住んでいました。  628年3月18日に漁師の兄弟が海に出て、網を投げて魚をろうとしたところ、その日に限って魚が一匹も獲れない。  一体の人型の像がとれます。  持ち帰って知識人の土師真中知(はじのあたいなかともさんに見せてみると、聖観世音菩薩の仏像であるという事が判りました。 明日は是非大漁をお願いしますとお願いして、あくる日には船に一杯の魚が獲れたという事です。  土師真中知さんは聖観世音菩薩の仏像を自宅にお祭りして、自らも出家して僧侶となって仏像を守ってゆくことにしました。  それが浅草寺の始まりです。   多くの方がお参りに来られるようになって、村から街へ都市へと発展してゆきました。  兄弟も出家して土師真中知さんと共に、観音様をお祭りしてゆく事になります。 

今から900年から1000年前にその子孫たちの枕元に観音様が現れます。  夢のお告げをされます。  観音堂の傍らに神として親たちを鎮守すべし、名付けて三社権現と称し祭れば子孫、土地と共に長らく繫栄する、という事で創建されたのが三社権現社と言う神社になります。 明治元年神仏分離政策が行われて、浅草寺と三社権現社を切り離さなければならない。  権現と言う言葉は仏教との繋がりが強い言葉なので使えなくなり、三社明神社と名前が変ります。  明治6年には浅草神社と言う名前に変りました。  お祭りも三社祭りと言う名前に変っていきました。   

私の生まれは山口県です。 高校は愛知県の自動車会社の社員を養成する高校に入りました。 私の母が浅草神社の先代の宮司といとこ同士という事でした。  先代の宮司に子供が一人もおりませんでした。  養子縁組と言う形で土師家に入ることになりました。  まずは浅草の町に溶け込もうと思いました。  神職の資格は一番下の資格(直階)であれば、一か月間座学を受けると資格が取れます。  次に 権正階(ごんせいかい)で一か月間座学プラス一か月間の修行でとれます。  これで浅草神社の宮司になる資格は取れます。  自分でももっと学びたい、周りからも知識教養を深めて欲しいという要望もあり、浅草神社で働きながら国学院大学の夜間部に入りました。 4年間は大変でした。 明階という上から2番目の資格を取りました。  浅草の街の方たちとも交流を深めていきました。  

今でも観光で来る方の97%程度は浅草神社の存在を知らずに帰っているのではないかと思います。  認知度が低い。  まず取り組んだのが浅草神社での結婚式です。  それまでは年間1件ぐらいでした。  1年目が8件、2年目が16件、3年目が30数件となりました。   240件ぐらいまで増えました。  お宮参り、七五三も年々増えています。  教化活動も行っています。  青少年への教化育成事業(浅草神社体験学習など)、日本伝統文化の継承(社子屋の立ち上げ)の二つを柱に活動をしています。  書道教室その他いろいろな教室も行っています。  7月1日に初詣の夏バージョンとして夏詣を考えて、平成26年から取り組んでいます。 今では日本全国で550を越える神社で新しい日本の風習として、参画して頂いています。   

三社祭、浅草が一番活気づく時です。  金曜日は「お練り」という大行列がおこなわれます。  

都の民族無形文化財のびんざさら舞(五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄などを祈って氏子の人々が行う。) が奉納されます。 『びんざさら』は『編木』『拍板』などと書きます。竹、あるいは木の薄片数枚から百枚前後の上部を紐で束ねた楽器で民俗芸能の中でも田楽系統の踊りに用いられています。  街神輿への御霊入れの儀がおこなわれます。  氏子町会は44あります。 各町に大人神輿、中神輿、子供神輿があります。 100基を越える神輿に御霊を入れる為の御霊入れの儀が浅草神社の社殿でおこなわれます。  

二日目は午前10時に例大祭式典がおこなわれます。  一番大事な祭典。  浅草寺本堂の裏広場に100基の街神輿が集まります。   各町に繰り出す町内神輿連合渡御が行われます。 子供宮神輿連合渡御も去年から始めました。  

三日目は浅草神社の宮神輿三基の出御?となります。 三社祭の宮神輿は三基の宮神輿があります。 神社から「宮だし」がおこなわれます。 多い時には担ぎ手が1万7000人ぐらい集まります。  浅草の東部、西部、南部にそれぞれ一の宮、二の宮、三の宮が各方面に行きます。  又街神輿も担がれます。  夜の7時、8時になると神輿が帰って来ます。 「宮いり」格納されてお祭りは終了となります。  2028年が観音様が浅草の町に現れて1400年になります。  「船渡御」と言うのを2028年3月18日に隅田川で行おうとしています。







2025年5月10日土曜日

井上さやか(奈良県立万葉文化館)     ・〔歩いて感じて万葉集 アンコール〕 山の辺の道~後編・天理ルート

井上さやか(奈良県立万葉文化館)     ・〔歩いて感じて万葉集 アンコール〕 山の辺の道~後編・天理ルート 

額田王は天武天皇の后の一人として出てきます。  早い時期に天武天皇と結ばれて、十市皇女(とおちのひめみこ)という子供も設けている。  天智天皇との時代にお互いが恋を交わす歌が有名ですが、三角関係が言われますが、実際に天智天皇と結婚したという記録は日本書紀には一切ないんです。  歌は有名ですが、どういう人物でどういう人生だったかという事は残っていません。

天理ルートでは柿本人麻呂の歌が詠まれています。  まず黒塚古墳が見えてきます。 邪馬台国女王卑弥呼が魏の国からもらった鏡と言われる三角縁神獣鏡が33面も出土した古墳です。 柳本駅から1,8kmの地点に柿本人麻呂の歌碑があります。 

衾道(ふすまじ)を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりとも無し」 柿本人麻呂

衾道(ふすまじ)は建具のふすまの地名になっていて、そこに向かう道のことを衾道(ふすまじ)と言います。 引手の山という山があって山中に、妹と書くが妻とか恋人のことを指しますが、その女性を置いて山道を辿ってゆくと生きた心地もないというような表現をしています。  柿本人麻呂の妻の一人が葬られていたと考えられている。  愛する妻を亡くして悲しみに暮れている心情を表現している。  魂そのものが山に帰るというのが古くから考えられている発想だったと言われている。  

万葉集には柿本人麻呂の歌が80首以上本人の作と断定できるものがあります。  それ以外にも柿本人麻呂の歌集と書かれている歌から引用されているものが、万葉集の中には400首近く残っています。  柿本人麻呂は音とかイメージとか、その連鎖を非常にうまく使う言葉、歌の表現が巧みだと言われています。 

石上神宮の鳥居の脇に歌碑があります。 

娘子(をとめ)らが、袖(そで)布留山(ふるやま)の、瑞垣(みづかき)の、久(ひさ)しき時(とき)ゆ、思(おも)ひき我(わ)れは」   柿本人麻呂

袖を振るという事は魂を自分の方に引き寄せる行為なんです。 恋情を表現する事でもあります。  (少女が袖を振る、)布留山(ふるやま)の瑞垣(みづかき)のように、ずっ~と昔から、あなたのことを思っていました。  七支刀 両刃の剣の左右に3つずつの小枝を突出させたような特異な形状を示す。  神祭りをするもの。 かつては神剣渡御祭(でんでん祭)で持ち出され、祭儀の中心的役割を果たした

石上布留の神杉神さぶて恋をも我は更にするかも」  人麻呂歌集

布留も地名  石上の布留の神杉のように神さびていても、また私は恋をするのかなあ。

神さびていても→年齢を重ねていても

布留の高橋

「石上(いそかみ) 布留(ふる)の高橋(たかはし)
 高々(たかだか)に  妹(いも)が待(ま)つらむ  夜(よ)そ更(ふ)けにける」 作者不詳

石上の布留川にかかる布留の高橋 その高橋のように 高々と爪立つ思いであの女が待っているだろうに 夜はもうすっかり更けてしまった。  「石上 布留の高橋」は、市内の石上神宮付近を流れる布留川にかかる高橋で、男の訪れを待ち焦がれてる女の思いを、この高橋にかけて、「高々に」を引き起こして歌っている。女の許へ通う夜に歌った男の歌である。

 我妹子(わぎもこ)や我を忘らすな石上袖布留川(いそのかみふるかわ)の絶えむと思へや」  作者不詳

私のいとしい彼女よ。私を忘れないでおくれ。あの石上を流れる布留川ではないが、袖振る川が絶えることなどあろうか。









2025年5月9日金曜日

鈴木万里(絵本作家かこさとし長女)    ・〔人生のみちしるべ〕 父・かこさとしの思いを受け継いで

鈴木万里(絵本作家かこさとし長女)    ・〔人生のみちしるべ〕 父・かこさとしの思いを受け継いで

鈴木万里さんは昭和32年かこさとしさんの長女として神奈川県に生まれます。(68歳)  大学卒業後は母校の中学、高校の英語の教師として11年間勤務し、2003年からは絵本作家として多忙な父かこさとしさんの仕事を支えてきました。  かこさとしさんが92歳で亡くなったのが2018年。  それから7年の間に鈴木万里さんはかこさんが残した原稿や絵から絵本や動画集名などを復刊を含めて、新たに30冊余りを出版してきました。  その中にはかこさんが体験した戦争についての絵本が2冊あります。  2021年出版の「秋」と言う絵本と今年戦後80年の年に出版された「くらげのパポちゃん」です。

 かこ総合研究所はかこさとしの分身みたいなものです。  作品に込められた思いを私たちなりにお伝えしたり、意見を交換したりしています。  深い意味が分からないものがあるんですが、お届けしたいと思っています。  戦争についての絵本を2冊出版しましたが、何故争いが起きたのか、なぜそれが今になっても続いているのか、それを分析してそこから戦争のない時代、平和を作るにはどうしたらいいのか、そういうものを多分描きたかったんだと思います。  1980年代に戦争に関する個人的な経験などを元に作品を作りましたが、没にされてしまっていました。  

「秋」には悲しみ、嘆き、戦争への怒りが静かではあるけれども強く感じられる。    「くらげのパポちゃん」では1950年から55年までの文章のみ見つかり、絵は有りませんでした。  悲しさ、理不尽さを伝える一つではないかと思いました。  絵については 中島 加名(かこさとしの孫)が担当しました。  

私は子供の頃は何でもやるのに時間のかかる子でした。  父は昭和電工に入社、研究所勤務を続けるかたわら、川崎市などでセツルメント活動や、児童向け人形劇紙芝居などの活動を行っていました。  定時には帰ってきて一緒に夕食を食べました。  父は自分の時間の管理はしっかりしていたと思います。  33歳で絵本作家としてデビューして、会社を辞めたのが47歳(昭和48年)でした。   講演、海外へ行ったりテレビのコメンテーターをしたり精力的にこなしていました。  

私が英語の教師になったのは、小さい頃英語の絵本が一冊あって、それが発端になりました。  11年間英語教師をしました。  英語を教えるにあたっては、かこの絵本の作り方が参考になりました。  子供たちが興味を持つところから入ってゆく。  

父が77歳の時にお手伝いをするようになりました。  取材を受けりするときに一緒にいて、セツルメント活動、子供の反応、絵本つくりに込めた思いなどを聞いているうちに、いろいろなことが分かってきて、講演会などで話すのもそういったことから話をしています。    

それぞれの絵本にかこが託した強い思いとか願いとか思想みたいなものが、時代によって移り変わるものがありますが、変ってはいけないもの、変わらずに人間として持っていてもらいたいもの、かこが願っていたもの、が入っていると思います。   それが伝わってゆく、受け取ってもらえる、と言うようなことが続いたらなあと思います。  大人たちは世の中を整備したり、社会を整えたり、そういう事をしなさいと言っているのかしらと、自分流に解釈しています。  父が残した沢山の作品が私の道しるべにもなるし、課題にもなるのかなと思います。  





2025年5月8日木曜日

松浦弥太郎(エッセイスト)        ・ていねいに生きる

 松浦弥太郎(エッセイスト)        ・ていねいに生きる

暮しの手帖」前編集長で東京中目黒の書店の店主でもある 松浦弥太郎さんは59歳。    物質的な豊かさではなく自分の豊かさを見つけることを提案する代表作のエッセイ「今日もていねいに」は30万部を越えるベストセラーになっています。  その人生に大きな影響を与えたのは高校を中退していったアメリカへの旅と振り返ります。 

お金では買えない心の豊かさとか心の安らぎ、穏やかさ、自分が工夫してなにかを築いてゆくとか、世の中の人が心の隅で求めている時代なのかなと感じます。 

「今日もていねいに」の一部。

 「ほんのささやかなものでも極く小さなものでも、嬉しさが沢山ある一日がいい。  そんな気持ちで朝目を覚まします。  小さな嬉しさが沢山ある一日であれば、ほんのり幸せになります。  そんな毎日がずっと続けば、生きているのが楽しくなります。  そのための僕なりの方法が自分プロジェクトです。  例えば自分プロジェクトその1は、美味しいハーブティーを入れる事。 ハーブティーを飲むのは僕の朝の習慣です。 ・・・美味しいハーブティーを入れるという自分プロジェクトに毎朝真剣に取り組んでいると考えたらどうでしょう。   おそらくお茶を入れるたった5分が工夫と発見のひと時に変ります。・・・そこから見てくるものが必ずあります。 」

幸せと言うものは凄く漠然としている気がします。  自分がちょっと嬉しいみたいなことを一日の中でどれくらい自分が感じたり、積み重ねたりとかできるのかと言うのが自分プロジェクトと言う風に書いています。  大きな幸せを求めるのではなくて、小さな嬉しいことを一日の中で自分が感じて対処してゆく、それが自分の生活習慣の一つになっています。

「ていねいに」とはどういう事だろうと考えながら生きてゆくという事が、自分にとってはしっくりきました。  今わかる「ていねい」という事の一つは、現実としっかり向き合う事と今日の目の前にあることを一つ一つ乗り越えて、そのすべてに「ありがとう」と感謝をして、その「ありがとう」と言う感謝を精一杯表してゆく、と言う風に思っています。      哲学的に「ていねい」とはどうい事なんだろうと、常に考え続けていくというところが、僕の考えている「ていねい」なのです。  物質的な豊かさではなくて精神的な豊かさを、どうやって自分たちが手に入れてゆくのか、今の時代は心のどこかでみんな共通して求めている事ではあると思います。  

小中学生時代は色々なことに疑問を持つ子供でした。  大人に凄く質問する子でした。  常に逆のことをしたくなる子供でした。  同級生の母親が興味を持って家に連れて来なさいという事になって、そういう風に考える僕を褒めてくれました。  学校では教えてくれないような、学び(本、音楽など)を教えてくれました。  自分には大人に対する意地みたいなものがあったが、認められたことによって心を開いてもいいんだと思う様になって、意地が段々消えていきました。  親、先生、周りの人への接し方が変って行きました。 

高校ではラグビー部に入って全国大会を目指しました。  大きな怪我を繰り返すことになりラグビーを辞めなくてはならなくなりました。   外国への憧れもありました。  高校を中退してアルバイトをして資金を作って、英語もしゃべれない中、18歳で単身で渡米しました。(親は賛成はしてくれなかったが、最終的には承諾を得た。)  何か新しい自分が見つかるような思いがありました。  すべてが判らないものだらけで、困りはてる毎日でした。 (サンフランシスコ)   何もわからないという事は全てが、毎日が新しい。  充実感はありました。  ハラハラドキドキが自分を成長させていったと思います。  挨拶をするという事が、 日々の暮らし、生きることに関して、どれだけ大切な事なのかという事が、アメリカで初めて判りました。  挨拶をするという事は、自分は危害を加えませんよ、大丈夫な人ですよという事を伝えたり感じてもらえることでもあるんです。  人間関係を大切にすれば、基本的には物凄い助け合う社会があると思いました。  

貧乏がそれほど恥ずかしい事ではありませんでした。  貧しい人たちは自分なりに楽しいことを考えたり、楽しく生きるという事に一生懸命でした。   自分に関係ないという事は一つもないという事にも気付きました。(政治、戦争、環境とか)  

アメリカでの経験を書いてみたら、回りから面白いと褒めてもらいました。  書くことを始めたのが20代後半です。  インスタントカメラで写真を撮って、その場で写真をあげているうちにいろいろな人と知り合いになって行き、自分も認められた経験があり、その経験を最初に書きました。   

暮しの手帖』の編集長も9年間務めました。(40歳から)   自分がどうしても謝らなければならないことに関しては、編集後記で誤ったりします。 上手くいっていることは着目されますが、上手くいってい居ないことはその何倍もあります。 

「ドクターユアセルフ」 自分を治療する事は自分である、と言う発想です。  自分が不調であった時に、それを治すのは自分である、人に頼るのではない。  それは自分を大切にする、自分を愛する、自分を好きになる、と言うことの意味でもあるのではないかと思います。  自分自身と向き合うという事は難しい。  いいところだけが自分ではない。  そこに気付き、学び、発見があって、それが自分自身の感動になって、その感動をエッセイとなって世のなかに届けられるんじゃないかと思っています。  書くためにはまず考える。  考えることが生きるという事に対してどれだけ自分の成長、変化させてゆく事に役に立つのか、という事を僕はエッセイを書いていて、常々思います。 

困ることによって人間は色々なことに気付いたりするが、困らなくなってしまうと自分自身が停まってしまう。  段々知りたいことがなんでも判る時代になってきている。  しかし、わからないという自分の感情、状況は、これから人間が生きてゆくには、絶対なくしてはいけないものだと思います。  「待つ」という事も大事です。  早いことが価値があると言う様な時代です。  育てるというのは待つことが基本だと思います。  自分自身に待ってあげるという事も大事です。  成長にはそれなりの時間が掛かります。  「めんどくさい」の中には沢山の気付き、学び、自分だけしかわからない発明があります。  87歳になる母親の親孝行をしたいです。  いくつになっても自分の殻を破って、いくつになっても明日は新しい自分である、それでいいんじゃないですか。

 








 



2025年5月7日水曜日

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 対談は面白い (5)

 五木寛之(作家)           ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 対談は面白い (5)

作詞家、作曲家特集。

星野哲郎さんは大先輩であり兄貴分みたいな感じのお付き合いでした。  五木さんの詩はサビを生かすような手法ではなく、5秒なら5秒緊張していていい言葉がパッと並んでいるからメリハリがちょっとつかない、と言われたことがあります。  星野さんは昭和歌謡の大作詞家です。何でもやれるという人でした。   新人の童謡の作詞をしている吉岡治さんがいました。 サトウハチロウさんのお弟子さんでした。  美空ひばりの「真っ赤な太陽」とか「真夜中のギター」とか大人の曲を書いてそれが好評で、当時の大流行作詞家になりました。  中山大三郎さんは器用な人でした。 「人生いろいろ」作詞。  1941年の生まれで僕より若いです。  作詞家と言うのはどちらかと言うと縁の下の力持ち的な要素があるんです。  大先輩ですと米山正夫さんですね。  本当に才能のある人でした。  抒情的な歌も書くし、明るい行進曲風の「山小屋の灯」とか、オールマイティーなプロの作曲家、作詞家でした。 「リンゴ追分」「津軽のふるさと」などもそうです。  僕は「津軽のふるさと」が一番好きです。  美空ひばりさんは万能の歌い手さんだとつくづく思います。 

船村徹さんの凄い作曲家です。 「別れの一本杉」 矢切の渡し 「兄弟船」・・・  星野哲郎さんと船村徹さんと組んで作ったのが「みだれ髪」です。  今の人にはなかなかわからない歌詞です。  下地を作ったのが大正から昭和にかけての詩人たちでした。 北原白秋とか、西条八十とか、純文学的な詩人として活躍するような人が、世間から見ればちょっと堕落したという感じで流行歌の作詞を始めるわけです。  芸術的なセンスが流行歌の中に取り入れられて、日本の昭和歌謡の質を高めて行くわけです。   レコードのA面がヒットするとB面を担当する作詞家も収入を得るわけで、裏待ち詩人と言われました。 

「歌いながら歩いて来た」 五木寛之作詞作品集  CD

*「鳩のいない村」 ベトナム戦争の時に書いた歌です。  歌:藤野ひろ子

鳩のいない 小さな村
一人ぼっちの 寂しい村
誰もいない 小さな村
たたかいが通り過ぎていった村
鳩はなぜ逃げていったの
人はなぜ村を焼いたの
鳩のいない青空だけが
悲しいほど 悲しいほど
青くひろがる 青くひろがる

鳩のいない 小さな村
一人ぼっちの 寂しい村
誰もいない 小さな村
たたかいが通り過ぎていった村
鳩はなぜ死んでしまったの
人はなぜ花を散らすの
鳩のいない広場のすみに
名前のない 名前のない
墓をつくろう 墓をつくろう

いつになったら平和な村に
いつになったら鳩は帰るの
帰ってくるの

その時代に人の喜び、悲しみ、とかを体現している作品が中心になっていると思います。 個人が書いているけれども、時代に書かされたというか、そういうものが時代を越えて残るんじゃないかと思います。   小説を書くのは苦痛ですが、詩を書くのはちょっといい気持ちです。