2025年10月21日火曜日

伊藤政則(音楽評論家・DJ)        ・ラジオフィフティ 音楽とともに 

伊藤政則(音楽評論家・DJ)      ・ラジオフィフティ 音楽とともに  

伊藤さんは20代前半にイギリスで出会ったハードロックヘビーメタルに感銘を受け日本においていち早くこれらのジャンルを紹介し、普及と発展に尽力しました。  ボン・ジョヴィやエアロスミスなど世界的なロックバンドとも交流を深め、ご自身がディスクジョッキーを務めるラジオ番組で独占インタビューや世界初披露となる楽曲を数多く紹介してきました。 ディスクジョッキーとして今年50周年を迎えた伊藤政則さんが半世紀の間ラジオと音楽に注いできた情熱、貫いていた思いやポリシーなど伺います。

高校時代から深夜放送が大好きでした。  ロンドンに本場の音楽を観たいという事で何か月かいろんなバンドを観ました。  帰国後、友人から「オールナイトニッポン」のアシスタントディレクターのお手伝いの仕事があるという事で、ADとしてアルバイトしました。 (半年) 1975年から「オールナイトニッポン」の深夜3時から5時を担当しることになりました。 (22歳)  レコード会社に行くようになって、アルバムの解説を書くようになりました。  音楽評論家の足がかりになりました。  今もラジオ番組をやっていて30年以上になります。  最近は音楽雑誌が減ってきている。  日本版も出なくなることも多々あります。 そうなると音楽評論家の肩書はあるが仕事をする場所がどんどんなくなってきている。 音楽評論家と名乗って仕事をしている人は少ないです。  

海外で聞いたヘビーメタルを普及してきました。  ロンドンに行った時に新聞で「ヘビーメタルナイト」と言うイベントがあることを知りました。 1979年の夏にいってヘッドバンギング (リズムを取るためのアクション)を観て吃驚しました。  今もツアーをやっている、アイアン・メイデンのまだメンバーも異なる若き無名のアマチュア時代でした。  そのバンドを追いかけていましたが、友達になって、後からカセット、シングル盤を送ってきてくれました。  1980年1月に又ロンドンに行きました。  今度は新しいバンドが一杯出ていました。  戻って来てNHKの番組にゲスト出演して、今ロンドンで何が起こっているかという事でアイアン・メイデンなどの楽曲をかけていただいて、それが日本で一番最初にかかったヘビーメタルの楽曲でした。  反響があり、ファン層が増えて行きました。 

ボン・ジョヴィも全く無名なバンドでした。 1984年夏に「スーパーロック84」というフェスティバルが日本でハードロックヘビーメタルのフェスティバルが初めて行われました。その時に初めてボン・ジョヴィが来日しました。  それがきっかけで彼らとは仲良くしています。  山あり谷あり、長い間やって来て絆が出来ました。  

ポール・ギルバートが僕の番組にゲストで来て、スタジオで生でギターを弾いてくれたりしました。  即興で作ってくれたのを僕の番組で、ポール・ギルバートのテーマで始まるという事になりました。 

ローリング・ストーンの初来日コンサートで、僕が指名されてインタビューすることになりました。  キース・リチャーズのインタビューを30分ぐらいしました。 キースにとってロックンロールとはどういうものなんか聞いたら、「やっとわかり始めたところだ。」と言いました。  

無名時代から一緒に苦労しながら成功を目指してきたアーティストに立ち会っていたことがおおきいし、 インタビューをする時には質問を作って行かないんです。  相手がどんな顔色でどんな調子なのかを見てからでないと話は聞けない。  事前チュエックはやります。  窓口の人はそのアーティストを守る役目もあるわけです。  そういうところを切り崩していかないと真のインタビューは出来ない。  信頼関係も作って行かないとアーティストの本音を聞く事が出来ない。  

ラジオが僕にもたらしたものは、外の全く知らない文化を僕に教えてくれた。  今活躍している若い世代にも定型に定まらないで、はみ出た方がはみ出た分だけ面白いと言う気持ちでどんどん作って行ってもらったら嬉しいです。 70年代後半から80年代前半はFM曲の開局ラッシュでした。  そこで音楽とラジオが変りました。  A面、B面も全部聞かせてくれたりしてこれは大事な事です。 アメリカのラジオは、60年代はシングルヒットしかかけない。  アンダーグラウンドラジオとして60年代にA面、B面も全部聞かせてくれるものが出始めました。  音楽をどういう風に紹介するのか、と言うのがラジオにとって凄く大きなポイントだなあと思います。  ジミー・ペイジはアルバムで聞いて欲しいと新しい時代を耕して行ったという事だと思います。  ラジオを聞いて作ってきた世代と、効かないで育ってきた世代では何か音楽が違うような気がします。 

ラジオってきっちり伝わるのは、自分の愛情が乗った紹介の仕方であり、自分がどれだけその愛が込められているのかと言う風な事だと思います。  判ってしまうのでラジオは怖いですが、そういって試され得てるんだと思います。  皆にしゃべるのではなく、一人にしゃべっている感じがします。  楽しいです。






 




















         

2025年10月19日日曜日

竹田高利(芸人)           ・汗かきコントに、ひとすじの涙

 竹田高利(芸人)                      ・汗かきコントに、ひとすじの涙

 竹田高利さんは1957年東京都生まれ。 1984年山口弘和さんとコント「山口君と竹田君」を結成し、初出場したオーディション番組「お笑いスター誕生」で優勝しました。 その後テレビやラジオのバラエティー番組、旅番組のリポーターなどで活躍し、俳優としてもNHK大河ドラマ炎立つ』に出演しています。 

デビューした時が27歳です。  今は68歳です。  「ゆーとぴあ」のホープさんから面白いから一回テレビに出てみないかと言われたのが「お笑いスター誕生」でした。  山口さんはすでにコントをやっていて、僕は26歳の時にストリップ劇場へ見に行きました。  俺が入ったらもっと面白くなるんじゃないかなあと思いました。(コントの経験は一切ない。)  高校卒業後は秋葉原の電気屋に務めました。 父と一緒に山口さんのところに行きました。   とりあえず一人でやってみろと言われて、ステージで自分のネタをやったら全然受けませんでした。  10分のところを5分も持たなかった。(冷や汗が出ました。)   

山口さんがネタを作ってやっています。  「お笑いスター誕生」で優勝して以降が大変でした。  覚えが悪くて400回ぐらいやったコントを出してましたが、テレビにでて、コントを作らなくてはいけなくなって、そこからが地獄でした。  台本渡されるがなかなか覚えられず、一時期人としゃべっれなくなりました。  コント山口君と竹田君のおじゃましますが立ち上がったが、視聴率が振るわず、わずか1ヶ月半で打ち切られた。 根っからの汗っかきです。 山口さんとはいつもネタ合わせを事前にしています。  去年でデビュー40周年になりました。  寄席での生の舞台が好きです。  受けなかった時には引きずります。   山口さんからは変に色をとけるな、ボケるな、素のままでやれと言われました。   

「熱海殺人事件」に出演しました。  撮り直しが何べんもあり、つかこうへいさんから素のままでいいからやれと言われました。  旅のリポートもやりました。  

レム睡眠行動害は睡眠中に夢を見ているとき(レム睡眠中)に、通常は抑制されているはずの体の筋肉が活動してしまい、夢の内容に合わせた行動や発言が現実に出てしまう病気。  レム睡眠行動害のために、急に動き出して箪笥の角に思い切りぶつけてしまい、おでこを17針縫いました。  今は薬で押さえています。  お笑いは健康にいいです。 






 

2025年10月17日金曜日

伊東勤(西武ライオンズ元監督)      ・常勝チームのつくり方

 伊東勤(西武ライオンズ元監督)      ・常勝チームのつくり方

プロ野球の西武ライオンズ、1980年代から90年代にかけて広岡達郎監督時代の4年間でリーグ優勝3回、日本一2回、森祇晶監督時代は9年間でリ-グ優勝8回、日本一6回と黄金時代を築き上げました。  今日伺うのは当時から西武ライオンズの主力キャッチャーとしてチームの中心であり、後に監督として日本一を経験する伊東勤さんです。  伊東さんは1962年熊本県の出身で現在63歳、1981年のドラフト1位で西武ライオンズに入団し、22年間の現役生活でリーグ優勝14回、日本一8回、2379試合出場、ゴールデングラブ11回、ベストナイン10回、2017年には野球殿堂入りをしています。 現在はNHKの大リーグやプロ野球中継の解説を務めています。  西武ライオンズの黄金時代の強さの秘密を伺いました。

阪神の藤川監督は1年目ですが、積極的に選手とのコミュニケーションをとって、距離を縮めながっら会話を大事にして、相手の選手を分析していってと言うところから入ったと思います。  オーソドックスな野球を1年間貫き通して、故障者が少なかったですよね、それが最大の強みだったと思います。  ちょっと西武と似ていました。 広岡さん等は食生活から変えていきましたから。  故障者が少なくて1年間戦えるという事は強みです。 

私は引き出しはほかの人よりも多く持っていたつもりですが、成績とか数字にはそんなにこだわりはなかったです。  「黄金時代の作り方 あの頃の西武はなぜ強かったのか」と言う本を出しました。  出版社からの依頼がありましたが、自分を掘り起こすきっかけにもなりました。  広岡達郎監督時代時代に入団しましたが、厳しさがありました。  当時は選手の寄せ集めと言った感じでしたので、纏めてゆく事を監督はしました。 強くするために練習を含めて厳しくやっていました。  食生活から含めて1から変えていきました。  肉は駄目で野菜中心になって白米から玄米になり、僕は白米が大好きだったので消化不良で内臓を痛めたりしました。  遠征先のホテルでもそうでした。  独身の若いメンバーが主にターゲットになりました。  

毎日が野球漬けで大変でした。  投げだしたくなるが、徹底的に基本練習の大事さを教え込まれました。 結果的には大事な場面とか試合の中で生きてくるんです。 地味にやって行って点を取って行くという事を徹底的にやらされました。 3イニング単位で考え、最後の3イニング目でどうやって勝ち切るか、徹底的に教え込まれました。  長打を打つ人、脇役、役割分担をしっかり叩き込まれました。  段々と勝つための自分の役割を感じていきました。  広岡監督との会話は余りありませんでした。  監督の圧のかかる緊張感が張り詰めた中での練習でした。  地味な野球でしたが、こうやって行けば勝っていくんだという事が判って来て、食生活などを含めて後で気付いていきました。  ベテラン、中堅、若手がバランスよくかみ合うようになりました。  

土台をしっかり広岡さんが作り上げたので、森監督時代はそれの貯金だと思います。  若手が中堅になって戦う主力になってきました。  選手間で注意をしあうようになっていきました。  食生活も緩和されて玄米から白米に変ったり、肉も食べられるようになりました。 準備、先読みなど全部自分で捉えながらゲームに臨んでいきました。  監督がサインを出さなくても自分がやるべきことは、みんなが判っていて、それに徹していました。      固定メンバーで戦うのが一番の強みですよね。  言葉で洗脳されていったということはありました。  4勝したら勝ちなんだけれども、3敗してもいいんだよ、このピッチャーだったら力も落ちるから取れるとか、展望を話してもらえると、なるほどなあとなるんですね。(気が楽になる。)

私が監督になりますが、キャッチャーをやっていたので、要なのでキャッチャーを誰にするかという事を重点にしました。   監督業は描いてなかったです。  広岡監督がやってきたことはやはりベースになりました。  広岡監督がやってきたことを今やろうとしても無理ですね。  今の選手の気質を観ながらチームを作って行かなくてはいけない。  一番うまくやっているのが日本ハムの新庄監督だと思います。  1,2年目は批判されたたが、3,4年目になって自然と選手たちに競争させていました。  若い選手が多くて、今年は優勝争いをするチームになっています。  

強制的にやることも必要ですが、時代に合った指導方法、また厳しさも必要だと思います。  
































2025年10月16日木曜日

柳澤秀夫(元NHK解説委員)       ・現場主義の私が見る、これからの日本

柳澤秀夫(元NHK解説委員)       ・現場主義の私が見る、これからの日本

柳澤さんはジャーナリストとして世界各国の紛争地や沖縄、東日本大震災と言った現場を取材し伝え続けてきました。  NHK退職後はNHK、民放を問わずその経験をもとに今の時代をどう見るか、何を大事にしなければならないのか、発信を続けています。

 1991年の湾岸戦争の時に、トマホークが突っ切て行くのを指さしながら「トマホークだ。」と叫んで放送をしたことを思い出しました。  やっている時には無我夢中でした。  イラク戦争の開戦の時には石澤さんと台本もなしに、エンドレスでやることが当たり前でした。(いろんなことが起きた。)  生放送なので緊張感が忘れられないです。 

NHKでの経歴、初任地が横浜でした。  そこで人との信頼関係を作るにはどういうことなのかなと言う事を育ててもらったと思います。  二局目が希望通りの沖縄でした。 沖縄では5年いました。  1984年報道局外信部(現在の報道局国際部)に配属。 その後海外、バンコク、マニラ、カイロに赴任、カンボジア内戦、湾岸戦争などを取材しました。 2001年9・11アメリカ同時多発テロ、2003年イラク戦争など中東情勢の番組にも出演、「あさイチ」のレギュラー司会を担当、解説委員長も務める。 

記者は元々黒子の仕事だと思っていました。 「ニュースウオッチ9」が始まる時には、一旦お断りしました。(スタジオに入ったら記者ではなくなると思いました。)  上司から「やらないで後悔か、やって後悔するか。」と言われてどうせ後悔するならば、やって後悔しようと思いました。  情報番組と言う、自分の知らない世界に飛びこんでみるのも取材の一つかなと思って「あさイチ」で始めました。  湾岸戦争を自分の目で確かめたかった。  ひょっとしたら自分の命を落とすかもしれないという思いはありました。 何故戦場に記者が必要なのかと問われて、「戦争を止める力だと信じている。」と答えました。  戦争を始めた側は自分の都合のいい情報しか流さない。  大衆を騙してゆく。 それだと戦争は止まらない。  行ってそこで何が起きているのかを伝えなえなければいけない。  そこで一番つらい立場の人は弱い人たちです。  トマホークでピンポイントで攻撃するから、周辺の人たちには被害は限定的といいますが、実際の戦場を観たらそういうものではないです。 

今の戦争は兵隊が血を流すことなく、自分たちに被害を被ることなく無人の兵器で攻撃することになると、戦争のハードルがドーンと下がってしまう。  戦争に歯止めがかからない時代になって来ている。  ウクライナ侵攻では双方で無人機を使っているので、停戦の見通しがつかないという現実も、そういったところに一つの原因があるのかもしれません。 今の時代に主権国家が主権国家を攻撃を仕掛けて侵略するなんて、想像していませんでした。   日本でも備えは必要かもしれないが、もっと大切なのはそういった危機的状況にならないようにするための努力が大切だと思います。 (外交)  敵であろうと見方であろうと基本は対話です。  

通信が発達した現在は、さも対話をしてい居るかのような空間に自分をおいて、錯覚を起こしてしまう。  努力を惜しんでしまうと大切なものを失うと言う気がします。  コミュニケーションの基本はフェース ツー フェース だと思います。 

出身は福島県会津若松市で、小さいころから天体望遠鏡とアマチュア無線に夢中でした。  戊辰戦争で先祖が辛い思いをしたことがありますが、戦争を繰り返さないためにはどうしたらいいかという事を小さいころから教えてもらってきたような気がします。 これまでやってきた記者の部分と通じるところがあります。  歴史を振り返るといつの時代も戦争があり、繰り返されてきている。  ギリシャの哲学者で「戦争が終わったと言えるのは誰なんだろう。」という命題を掲げています。  それは「負けた人、戦争で死んだ人」だそうです。  これほど皮肉な言葉はないです。  戦争は死なないと終わらないのかと言う事。 でもそうさせないためにはどうするかと言う事をこだわり続けないといけないと思います。 

の掟」(ならぬことはならぬです) ((じゅう)は、会津藩における藩士の子弟を教育する組織。)  知らないうちに自分の故郷の道徳訓みたいなものが沁みついてしまっているのかもしれません。  

「夢を持ち続けて諦めずに前に一歩踏み出す。」それしかない様な気がします。 何年か前に「記者失格」と言う本を出しました。  伝えるという仕事にどこまで真剣に自分が向き合っているのか、ひょっとすると自分の自己満足、好奇心を満たすためにこの仕事をしてきたのかなと、自問することがあります。  自分が何か観たり知ったりしたら、観たり知ったことに責任が必ず生じると思います。  それが結局伝えるという事なのかもしれません。 

「記者失格」の「はじめに」の中で「・・・自らの不甲斐なさを意識しながら私は記者と名乗って良いのか、記者としてその名に恥じない生き方をしてきたのか、そんな自問自答をまとめたのがこの本である。 ・・・自分を裸にしてその自分と真正面から向き合う事がいかに厄介な事なのか、そんなことも思い知らされた。」  すべからく思いあがっては駄目だなと思います。  どんなことがあっても自分の謙虚な気持ちを忘れると、これから先のことが見えなくなるし、自分が見えなくなるだけではなくて、周りが見えなくなる。  離れたところから自分を見る目を持っていないと、取り返しのつかない、とんでもない間違いを起こすような道に入って行ってしまうのではないかと思います。 

時代と共に伝える手段は変わってきたと思います。  しかし共通しているのは伝るという事だと思います。  人と人との間でコミュニケーションをもって伝えてゆく事だと思います。 何を誰に伝えるのか、だれのためのものなのか、絶えず反芻しながら考え続けて行かなければいけない事だと思います。  大病をして、死の宣告に近いようなものをされると、健康があって全てなんだなと思います。 食生活も変わったし、自分の人生観も変わったし、毎日自分の家で三度三度食べられる有難さなど、実感するようになりました。  地域の健康診断で、実年齢は72歳でしたが、46歳でした。  過信してはいけないので、日々謙虚に生きたいと思っています。  

















2025年10月15日水曜日

柳原陽一郎(シンガーソングライター)   ・「さよなら人類」から35年、 ソロになって30年

柳原陽一郎(シンガーソングライター)   ・「さよなら人類」から35年、 ソロになって30年 

柳原陽一郎さんは1962年福岡県生まれ。 中学3年の時にギターを始め、大学生の時にバンド活動を始めました。  1984年ライブハウスで歌っていた時に、よく一緒になった石川浩司さん知久寿焼さんと共に、バンド名「たま」を結成、1989年テレビのバンドコンテストで優勝して、1990年5月に柳原さんが作詞作曲をした「さよなら人類」でメジャーデビューとなりました。 大ヒットして紅白歌合戦にも出場しました。 1995年たま」を卒業してソロで活動することになります。 ギター、ピアノの弾き語りによるソロライブや様々なジャンルのミュージシャンとセッションするなど、現在も精力的に活動して、今年ソロ活動30周年を迎えました。 

「さよなら人類」  作詞、作曲 柳原陽一郎

たま」は4人のメンバーがいて、それぞれ一人でも歌えるようなバンドです。(それぞれがシンガーソングライターでした。)   

もともと日本の歌謡曲が好きでした。  1975年中学1年の時にステレオが家に来ました。  エルトン・ジョンのレコードを購入しましたが何がいいのかよくわからなかった。  次にビートルズを聞いて、 次にクイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」が出て来てロックにはまっていきました。  中学3年の時にギターを始めました。 高校1年の時には曲も作るようになりました。  学校の成績もどんどん落ちて来て、世の中を斜めから見るような性格が形成され行きました。(高校時代)  大学の時、21歳のころたま」のメンバーと知り合い、 バンドを結成しました。  自分のペースでやりたいという思いはありました。   1989年にTBS系音楽番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に出場し、3代目グランドイカ天キングとなった。   

1990年5月5日、シングル『さよなら人類/らんちう』で、「たま」としてメジャーデビューしました。  同曲で同年末のNHK紅白歌合戦初出場しました。  この路線で進むのがきつくなりました。  たま」は5年で卒業し、ソロ活動に移っていきました。  

ソロになった自分が確立出来ていなかった。  あるスタッフの方から「一人で出来る様にならないと駄目だよ。」と言われました。 それから30年になりました。 しょうがない曲をいっぱい書きました。  抜け出すのに5年ぐらいかかりました。   創作J活動とライブを一緒にやるという事は結構大変でした。  自分に等身大の、人の根源的な悩みや喜びをちょっと書けるようになってから、逆に楽しくなって来ました。(それまでは楽しいと思った事は無かった。)  面白くなったのはつい最近でしょうか。  今後歳を取って、もっと声が出なくなってくると、それって自分の歌にはプラスになるような気がします。 
















2025年10月14日火曜日

楠木新(作家)              ・70歳からの生き方のヒント

 楠木新(作家)              ・70歳からの生き方のヒント

人生100年時代、定年退職後仕事を続ける方もいれば、のんびり過ごしたい方、趣味や習い事などに熱中している方もいると思います。 しかし70歳を過ぎると体力的にも精神的にも衰えを感じることが多くなると言います。 そんな70歳以降の生き方や生き生きと暮らすヒントについてお伝えします。

「定年後」の本を執筆していましたが、50代後半から60代前半に会社を辞めた後の取材をしてきましたが、私が今年71歳になり、生き方を変えてゆく必要があるんだなと言うことを、いろんな場面で感じました。  これからの参考にしたいという事を含めて、お話を聞いてきました。  2017年「定年後」ベストセラーになりました。 (執筆が60歳前後)  2013年に60歳で辞めるのか、65歳まで務めるのか、大きな議論になりました。 取材をして面白くてやめられなくなりました。  阪神淡路大震災とかがあり、いろいろ悩んで47歳の時うつ状態で休職しました。  復帰はしましたが、40代半ばから50代の人で、60歳の定年を迎えるにあたってに定年状態に陥る人がいました。 「心の定年」と名付けました。 人生が凄く長くなったという事で、60歳前後で私自身がこの先どうしていったらいいか感じ始めました。  60歳前後の人に取材して出したのが「定年後」と言う本でした。

60代の取材の時には現役の雰囲気が残っていましたが、70歳ぐらいの人はその雰囲気が消えていました。  その人たちが仕事の話はもうしなくなって、テレビ番組か、健康の話などでした。  70歳を越えると、個人として、地域のこと、活動範囲も狭くなってくるのでその中でどう楽しんでやれるかと、いう風に変わって来ます。  70代になって来ると①死について語るようになる。 ②小さい子がかわいくて仕方がなくなる。(男性に多い。)   ③考え方、体力のバラツキが大きい。   今持っているもの、あるものをどうやって大切にしていくかがポイントなのかなと思います。 

①本当の寿命、②健康寿命、③資産寿命、④労働寿命(雇用されるのではなく何らかの仕事ができる。)この4つが大事だと思ってきました。  でも70代の人に聞くと、人間関係寿命(人との関係、人とのつながりを持っておくこと。)が凄く大事だなあと思っています。   ある80代の人から「人とのつながりが無くなって行くことが老いる事です。」と言われた時に 、大事なんだなあと感じました。  家族のことで言うと配偶者との関係が大事だと言われます。 (急に良くしようと思っても難しい。 忌憚なくコミュニケーションが出来る夫婦がいい。)  SNSで月に決まった時間に家族、子供家族が一緒にズームで話をするという事もいいことだと思います。  

人との関係を増やしてゆくのに、5つぐらいのバージョンがあります。  ①仕事をする。(人の関係は必ずついてくる。) ②趣味(他の人とつながっていけるような趣味がよりよい。)    ③ボランティア、地域活動(多種多様のものがある。 地区町村のホームページなど参考になる。)  ④学び(書道、卓球・・・ クラブ活動) ⑤少しでも自分の好きなことが有ったら自分の足で動いてみる。   顔つき、雰囲気が重要かなと思います。(プラカードみたいなものです。 柔和な顔つき、雰囲気 笑顔)  物事には光と影の部分があるが、良いところをきちんとみられるという事が大事です。  同じ状況でも、本人のスタイルによって受けとり方も違うのではないか。(良いと思うか、悪く思うか。)

「毎日良かったことを必ず書いてゆく。」  それを続けることが大事。  そこから自分の興味あることを捜すという事もあるかもしれない。  いい面を観れるようになる。 今持っている「もの」、「こと」を大切にする、という事に繋がってゆく。  失ってゆく中でどう楽しんで過ごしてゆくか。  最後、自分との人間関係が良くなる。  最後は一人になる可能性があるので、その時の人間関係は自分だと思います。 






































 


2025年10月13日月曜日

芹洋子(歌手)              ・〔師匠を語る〕 ジャズ歌手 マーサ三宅を語る

芹洋子(歌手)              ・〔師匠を語る〕 ジャズ歌手 マーサ三宅を語る 

ホームソングのシンガーとして知られる芹洋子さんは、日本を代表するジャズシンガーのマーサ三宅さんにレッスンを受けていました。 マーサ三宅さんと芹洋子さん、どんなレッスンでどんなドラマがあったのでしょうか。

マーサ三宅さんは今年の5月に92歳で亡くなりました。  マーサ三宅さんは1933年中国東北部満洲国四平街(後の吉林省四平市)で生まれました。 父を早くに亡くしたマーサさんは終戦の翌年、母と二人で日本へ引き揚げ中学校に入学、卒業後日本音楽学校で音楽の基礎を学びながら、夜はアルバイトと言う生活を続けます。  昭和28年に音楽学校を出たあとは当時人気だったクラリネット奏者でジャズシンガーのレイモンド・コンデが主催するゲイ・セプテットの専属歌手となりました。  

独立したのちはテレビ、ラジオのステージでジャズを歌い続け、スイングジャーナル誌の女性ボーカル部門トップの座を保持し続けました。東京中野にマーサ三宅ボーカルハウスを開校したのは、昭和48年、芹洋子さんはじめ大橋純子さん、今陽子さんなど多くのスターを輩出しました。  1993年には歌手生活40周年記念リサイタルマイライフを開催し、文化庁芸術祭賞を受賞、2000年春の紫綬褒章に続き、2006年春には旭日小綬章を受章しました。 今年の5月に92歳で亡くなりましたが、生前にこう話しています。  「私にとってジャズとは人生でした。  だから夫でもなければ恋人でも親子でもない自分の人生ね。  息絶えるまで歌い続けたい。 」

私は歌が好きで、のど自慢番組とか受けて好成績でした。  1970年からNHKテレビ歌はともだち』に出て、3年間歌ったり司会をしたりしました。  母はがんで、受かったという事を聞いて亡くなりました。  コマーシャルソングの仕事をすることになり、今迄に700曲ぐらい歌ってきました。  商品名をはっきり言わなければいけないので、そういった癖がついてしまって、棒読みみたいな感じになってしまいました。 レッスンをすることになり、1972年にマーサさんのところに行きました。  「自分のありのままの姿を歌にしたらいいからね。」と言われました。  私の歌を聞いて学びなさいと言う感じでした。 ワイドにものが見れるようになりました。(音楽だけではなくて人間性の面でも学ぶことが出来た。)  歌うのではなく語る感じ。  歌う事よりも雰囲気、ムードを大事のしなさいと言われました。(今迄とは全く違った感じでした。) 褒められたことはたくさんあり、叱られたことはなかったです。  段々と自信もついていきました。 先生のステージを見るとレッスンと時とが全く違う先生がいました。  

1974年『愛の国から幸福へ』がヒット、以降『四季の歌』がミリオンセラーを記録、1978年の「第29回NHK紅白歌合戦」(歌は「坊がつる讃歌」)にも出場しました。 『愛の国から幸福へ』がヒットした時にはいろんな結婚式場に行きました。 四季の歌』では中国の愛唱歌になり北京に行って19回やって来ました。  (1992年交通事故により外傷性クモ膜下出血となり、意識は回復したものの逆行性健忘を生じ自身が歌手であったことや持ち歌すべての記憶を失う。しかし懸命のリハビリによって歌手として復帰。)  2000年にラジオ深夜便の10周年記念のイメージソング「夢」を歌いました。 

継続する事は難しいと思いますが、マーサさんは一途に継続してきたことに対して、尊敬をしています。  自分の道を究めるためには、周りの人の協力が必要だと思います。  マーサさんの周りの方々も凄かたっと思います。  その人の人生を変える言葉と言うものはあるんじゃないかと思います。  

マーサ三宅さんへの手紙

「・・・1972年初めてのレッスン、あの時私はとても緊張していました。・・・先生の甘い歌声にその時妙な安ど感を覚えました。 歌う事って、吐く息と吸う息、それに加えて止める息も大切で、その止た息の中に人間性が生きてくるのだと、それからのレッスンで私は学びました。  優しい心そして絹のような柔らかな歌声、マーサ先生にいつも尊敬の念を抱いていました。  今でも私はマーサ三宅さんの大ファンの一人です。 又私のそばで歌って下さい。」













2025年10月12日日曜日

宮川一朗太(俳優)            ・元妻を自宅で看取って

 宮川一朗太(俳優)            ・元妻を自宅で看取って

来年3月に還暦を迎える宮川さんは、高校生の時に森田芳光監督松田優作主演の映画「家族ゲーム」でデビュー、NHKでも多くのドラマに出演していますが、大河ドラマは「光る君へ」が初出演となりました。  私生活では30代で離婚、男手ひとつで子供2人を育てました。 この5月には2年ほど前に末期がんの元妻を看取っていたことをテレビ番組で公表し、反響を呼びました。 

「光る君へ」では藤原顕光役に出演。 40年近く俳優をやって来て、決まった時には光栄でした。 1話から48話(最終話)迄全部出ることになりました。(最後は77歳) 平安時代の作法が大変でした。  階段の乗り降りも常に左足からとか、胡坐をかくにも左足が表と言う感じです。  俳優になるきっかけは女の子にもてたかったからです。(中学2年) 高校1年の時に養成所に入って、1年後に受けたオーディションが「家族ゲーム」でした。 やる気のない状態でしたが、面接ではそれがかえって良かったようでした。 (主人公のイメージに合っていた。) でも主人公は松田優作さんでした。  部分的に取っていたものを試写室で観ましたが、なんて下手なんだろうと思いました。  落ち込んでいたら、優作さんが「それでいいんだよ。 天狗になるよりましじゃないか。」と言われて、いまだにその言葉を支えにやっています。

仕事がない時に、いかに自分に対して努力するか、という事を大事にするようになってきました。  歳を取るほど好奇心の塊になって来て、いろんなことをやってみたいです。  演劇塾「いち塾」を今やっています。  いくつになっても夢を追いかけることが出来ると言ったら、50代過ぎの方が結構入って頂きました。  

23歳で結婚、娘2人が誕生しました。  30代で離婚しました。  俳優と育児は大変でした。  地方ロケの時には、元妻の両親が近くにいたのでお願いしました。  成人するまでは子供たちから離婚したことは発表しないでほしいと言われました。 (7年ぐらい) 困っていることを打ちあける番組があり、子供達に相談してそこで公表しました。  この5月には2年ほど前に末期がんの元妻を看取っていたことをテレビ番組で公表し、反響を呼びました。   ステージ4で病院での治療もしたくないし、南の島の家にも帰りたくないし、娘たちも引き取りたいという事だったが、娘の家も遠いいので、病院から一番近いのがうちでした。  3月に家に来ることになったが、8月に次女に子供が生まれることがわかっていました。(初孫)   元妻を面倒見るという事に対しては凄く葛藤がありました。  元妻がやってきた日に長女が買い物に出かけるんで、見ててくれるように言われました。  観に行ったら上半身起こしていましたが、慌てて寝かしつけました。  翌朝長女が「もうだめかもしれない。」と言ってきました。  次女にも連絡をして、間に合うかどうかわからなかった。 介護の方が「今、脳が休もうとしています。」と言いました。  呼吸が止まってしまうと思えた瞬間、大きく息を吸ったんです。  それが最後の呼吸でした。 

東京で治療をするようになったのは、その半年ぐらい前でした。 何回かお見舞いに行き、会話をしていました。 そのうちに会話も出来ないような状態になりました。 旅立ってから、長女が遺品を整理していたら携帯でメッセージを送ろうとしていた未送信があるという事でした。  「見舞いに来てくれてありがとう。 とっても嬉しかった。」と有りました。  

これから60と言う新しいステージに入ってゆく訳ですが、これは新しいチャンスだと思っていますし、60,70代で物凄く活躍されている先輩が大勢いますので、私もその仲間に入らせていただくという感覚です。  























2025年10月11日土曜日

2025年10月10日金曜日

美谷島邦子(8・12連絡会 事務局長)    ・〔人生のみちしるべ 〕 ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から40年(初回:2021/11/12)

美谷島邦子(8・12連絡会 事務局長)    ・〔人生のみちしるべ 〕 ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から40年 (初回:2021/11/12)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/11/812-36.htmlをご覧ください。

2025年10月7日火曜日

柴崎春通(画家)            ・絵を描くことは人生の喜び

 柴崎春通(画家)            ・絵を描くことは人生の喜び

 柴崎春通さんは1947年千葉県生まれ。(78歳)  絵画講師歴はおよそ50年になります。今年4月Eテレで放送した番組3か月でマスターするシリーズでは講師として出演しました。 70歳からはYouTubeで絵の描き方などを動画配信し、現在島崎さんのYouTubeチャンネルを登録している人は国内外で200万人を超え、人気YouTuberとしても活躍しています。 大人にこそ絵を描いて欲しい、絵を描くことは自分と向き合う事になると語る柴崎さんのこれまでの歩みや活動を続ける思いについて伺いました。

モチーフは世界中歩き回って、ひとりでに集まってきたようなものです。  70歳からはYouTubeを始めました。  個展には若い人が多いですね。  50代のころから銀座で個展をやっていましたが、違う切り口でやってみたいと思っていました。 息子が「YouTubeでやってみない。」と言ってんです。 それで始めました。 ある時アメリカのCNNテレビに取り上げられました。 日本でも話題になって、フォロワーが段々と増えていきました。 

戦前は貧しい農家でした。 農地解放でようやく生活がそこそこできるようになって、私が生まれた時には自分のところでお米を作っていました。  昭和30年ごろになると日本は景気が上向いてきました。  一人で何かをしているのが好きな子でした。  ものを作ったり絵を描くことが好きでした。  本も好きで図書室で片っ端から読んでいました。  画集を観て驚きました。  農業は親を楽にさせるためにずっと高校までやっていました。  県庁を受けて受かったが、何んとなく嫌で行きませんでした。  友人が東京の専門学校に行くと言うので、自分も行きたいと思って絵を勉強に行くということを口実にしました。  親も賛成してくれました。  阿佐ヶ谷美術学園(現・阿佐ヶ谷美術専門学校)に行ってみたら,みんな絵が上手くて、ガックリしました。  上手い人の絵を描くのをひたすら見るようにしました。 アルバイトはビル掃除をしていました。 

東京藝術大学を受験する。1次試験のデッサンに合格し、2次試験の油絵まで進んだ。 納得のいく課題提出に至らなかった。そのため合格発表日に確認しに行くことなく進学を断念した。 和光大学に開設間もない人文学部芸術学科があることを知り、1967年に入学しました。 就職のことは何も考えて居なくて、荻太郎先生にに呼ばれ、絵画通信教育講座である講談社フェーマススクールズを紹介されました。  アシスタントとして就職、そのうちにほかの先生と同じ仕事をやってみないかと言われ講師に昇格しました。  仕事もどんどん増えていきました。契約状態も良くなってきて、遣り甲斐を持てるようになりました。(40代)  

でもこのまんまでは面白くないと思て、2001年に文化庁派遣芸術家在外研究員としてアメリカに渡りました。  東南アジアに行って道端で絵を描くことなどを繰り返していました。  絵を描いていると危険なところでも、危険な目に遭う事は無いです。  相手も警戒しない。  

親が農業をやっている間は、農繁期には会社で仕事をしていても、土日は農業の手伝いをしていましたが、親が歳をとって農業をできなくなってからは、時間も出来て個展をするようになりました。(50代前後)  頑張りすぎて心臓の病気になってしまいました。 入院して何回か手術をしました。(入退院を繰り返す。)  人間は死ぬんだなと思いました。  改めて自分を見直すきっかけになりました。  絵を描いていると、今の自分に正直になれる。 絵を描くという事は人間の五感を使ってする作業の、自分を一番正しく表に出せる原点だと思います。  皆さんたちの生活の中にも浸透できるようにして行ったらいいんじゃないかと思います。  

モットーにしている言葉は「我は一人」、生まれた時から死ぬまで、よくよく見ると自分一人なので、だからこそ自分に正直に生きる。 だからあまり色々なものはいらないという事ですね。  固執しないで、どんどん捨ててゆく。 捨てることによって新しいものがキャッチできるような気がします。  人並みに、とつい乗っかりたくなるが、「我は一人」なんですよ。  判断するにも、何をするにも、ここが大事かと思います。  一人一人だからこそ、認め合えるんです。  大人だからからこそ、絵を始めた方がいいと思います。 達成感を味わってみる。






















 


2025年10月6日月曜日

舘野泉(ピアニスト)          ・88歳 “左手のピアニスト” が奏でる世界

舘野泉(ピアニスト)          ・88歳 “左手のピアニスト” が奏でる世界

 現在88歳の舘野泉さんは、65歳の時リサイタル中に脳溢血で倒れ、右半身の自由を失いました。 その後2年ほどのリハビリ生活を経て、左手のピアニストとして活動を再開、今年演奏活動65周年を迎えました。  舘野さんは1936年東京生まれ、東京芸術大学を首席で卒業後、ピアニストとしてデビュー日本とヘルシンキを拠点に世界各地で演奏活動を行ってきました。 左手のピアニストとして活動を再開した舘野さんは、現在年間30回にのぼる演奏会を開き人々に深い感動を届けています。 

*「赤とんぼ」  ピアノ演奏:舘野泉

左手で弾いているという感覚は全然ないです。  右手は全然使えないです。  弾くのは身体全身で、特別なことだと思った事は無いです。  右の方を弾く時には身体をよじらないといけないので身体の負担は非常に多いです。  右手が使えなくなって25年経ちますが、その時には左手で演奏する曲が少なくて、自分で演奏活動をしてゆくのにたりないので、いろんな作曲家に頼んで曲を作ってもらいました。  一番最初に書いていただいたのが間宮芳生さんです。  間宮さんとは40年以上のお付き合いです。  最初の作品は大変だったらしいです。 二か月後に弾きやすいように修正した作品を作って頂きましたが、やはりオリジナルの方がいいのでそれにしました。  今では世界の作曲家(10ケ国余り)から書いていただいています。  作曲家にとっては自由な発想だ書けるので、喜んで作曲してもらっています。

右手が利かなくなってから再び鍵盤に向かうまで2年掛かりました。  でもピアノを弾くことは何もしていませんでした。  1年を過ぎた頃、小山 実稚恵さんがアンコールで「左手のためのノックターン」を弾いてくれて、僕の方を観たんです。 (こういうのもありますよというサインだった。)  でも僕は機が熟していなかった。(2年間)  左手で弾くいう事は、前と変わらない音楽をやって行けるという事に歓びを感じました。  落ち込んだ事は無いです。(瞬間的にはあったが。)   神様が「左手だけでよく頑張ったから、右手も返してあげる。」、と言っても「結構です、でも僕は左手だけで満足です。」と言います。

「赤とんぼ」は梶谷修さんが編曲したもので、1本の手で旋律が同時に3本重なっていて、両手のピアニストに弾けと言われても出来ないです。 一日にピアノに向かう時間は平均すると2時間ぐらいです。  新しい作品に向かう時には4時間ぐらいです。  ピアノを弾いている時にはおれは生きているんだという思いがあります。 

ピアノを始めたのは5歳の時です。(太平洋戦争が始まった年) 舘野弘チェリスト。母舘野光(小野光)はピアニストでした。  母は本当は絵描きになりたかったそうです。 祖父がピアノを買ってくれてピアノをやるようになったようです。 私は実際には5歳よりも前からやっていたようです。  自由が丘に住んでいましたが、東京大空襲があって上野毛に疎開しましたが、また大空襲があって焼夷弾で家が焼けてしまってピアノも焼けてしまいました。 ピアノよりも宮沢賢治の「風の又三郎」、「西遊記」が焼けてしまった方が悔しかった。 戦災を避けて栃木県小山市間中に一家で疎開しました。  音楽なんてないとんでもない生活ですが、自然のなかにすっかり入ってしまいました。  

最近の若い人のピアノを聞くと技術の進歩が凄いです。  ただいろんなことをやっているんだけれど、一つ型を破って出てくる、それが欲しいなあと思います。  小さくまとまっていて、隙が無い。  自分が好きなことをずーっと変わりなく持ち続けてやってきたことは、本当に幸せだと思っています。  引退なんてことはしないで、最後まで弾いて「さようなら」と言えたら幸せだと思います。



























2025年10月5日日曜日

石丸謙二郎(俳優)            ・中高年こそ人生を楽しもう

石丸謙二郎(俳優)            ・中高年こそ人生を楽しもう 

NHK第一放送のラジオの「石丸謙二郎のやまカフェ」では山の情報や魅力を伝えています。 この番組の司会を務める石丸謙二郎さんは、登山を楽しみながらスキーやピアノなど多くの趣味を楽しんでいます。 石丸さんの山への思い、年齢を重ねてこその人生の楽しみ方を伺いました。

「石丸謙二郎のやまカフェ」は今年で8年になります。 でもまだしゃべり足りない。 いまは山に登らない人でも聞いてもらっています。  去年マッターホルンに登頂しました。  65歳になった時に登ってもいいんだという思いが湧きました。  準備をして飛行機を予約をしたりして、行こうと思ったらコロナになってしまった。  全部キャンセルして、5年後70歳になる時に、再度行こうと思って準備をしました。  マッターホルン(4478m)は一日で日帰りをしなければならないので、若くないと出来ない。  息が上がっても休みなしです。ヘルンリ小屋が3260mのところにあって、そこで一泊して朝の4時過ぎに、いきなりロープでクライミングをして登るようなことから始まります。  

頂上までの標高差が1300mの半分の時点で2時間半を切らないと、そこで降ろされてしまう。 5時間で登って5時間で降りてこないといけない。  ようやく中間地点に行って休めるかと思ったらどんどん先に行きます。 なんとか頂上までたどり着けました。  高度順化するために何回も富士山に登り中途から2往復しました。  最初のうちは苦しかったが、段々慣れてくると呼吸法も覚えました。  マッターホルンの頂上は畳一畳ぐらいで、写真を撮って、宇宙に自分の首がズボっと抜けたような感じがしましました。 降りようとしたら上がってくる人がいて、すれ違いざまは物凄く気を使いました。  頂上にいられたのは1,2分でした。  降りる時が怖くて一番傾斜の強いところは80度ぐらいあります。  本来は降りて来てリフトで下るんですが、止ってしまっていて、それを見越して自転車を用意しておいて、夕陽を見ながら自転車で下って来ました。 ホテルに着いたのは夜の9時でした。 

大学のころは毎週のように山に登っていました。  それから40年ぐらいになります。   僕は石橋を思いっきり叩いて渡る人ですね。  60歳からスキーを始めました。  70歳になってからスノーボードを始めました。 (今年始めて10回以上行っています。)  ウインドサーフィンは37歳から始めました。  47歳からフリークライミング、65歳から絵(墨絵)を描き始め展覧会もやりました。  同じ時期にピアノも始めました。 街角ピアノがあるので行った時に弾くようにして、60か所で弾きました。 ピアノを弾くと自分の身体に返って来ます、それには吃驚しました。 又ピアノって一台一台違う事にも吃驚しました。   高いピアノを弾くことができる機会がありましたが、その時には4時間弾いていました。

歳を取って来ると時間が出来るので、トライできると思います。  ピアノも一曲しか弾けなかったのですが、2曲目、3曲目を挑戦しています。  出来ると思ているが手を出さないのが二つあって、そば打ちと陶器作りです。  はまったら大変なことになると思っています。  舞台、芝居だけだとストレスが溜まってしまうので、僕の中ではバランスがとれています。 遊びは真剣にやるから、遊びをする時には全部忘れる。  歳を重ねると山に対しては畏敬の念を抱く様になります。 (特に富士山など)  やりたいと思う事が有ったらとりあえずやってみる。  駄目ならやめればいい。  今が一番若いから、富士山を逆にしたように、これから末広がりでいろんなことが出来ると思う。




















2025年10月4日土曜日

吉田憲司(国立民族学博物館 前館長)    ・世界の人びとの暮らしと文化をつなぐ ~“みんぱく”創設50周年

 吉田憲司(国立民族学博物館 前館長) ・世界の人びとの暮らしと文化をつなぐ ~“みんぱく”創設50周年

国立民族学博物館は去年創立50周年を迎えました。 文化人類学、民俗学とその関連分野で大学との共同利用機関として1974年に創設されました。  所蔵する研究者は世界各地でフィールドワークを続けていて、世界の人々の暮らしや文化を調査研究して半世紀に渡って、その成果を発信してきました。 アフリカの仮面やアマゾンの生き物文化など博物館で紹介されるさまざまな展示は世界を知る入口になっています。 民博の成り立ちや役割など国立民族学博物館の前館長の吉田憲司さんに伺いました。

国際的に見てもユニークな研究機関であって、博物館を用いる大学院教育も準備している研究機関です。 現在大学の研究者は専任で54名います。  それぞれが世界各地でフィールドワークに従事している。  展示、コレクションの世界では・・?をカバーしている点では世界唯一の存在ことになります。  50年間で世界各地から収集してきた標本資料は34万6000点を越えました。  20世紀後半以降に築かれた民族誌(民族の生活様具に関する)としては世界最大の規模のものです。  世界最大の民俗学博物館になっています。

国立大学設置法の改正法で、民博を作るという法律が国会を通て施行された日が1974年6月7日でそれが創設の日になります。  準備室が出来て万博の敷地内に博物館の建物を建てました。 公開したのが1977年です。(開館記念日)  創設室の中心になったのが、文化人類学者の梅棹 忠夫さんです。  民博を世界第一級の博物館に、研究自体も常に先端であれ、といつも研究者に叱咤激励していました。  又フィ-ルドワークを大切にする一方で、いろんな文化、文芸を俯瞰する見方を常に持っておけと、言っていました。

太陽の塔の地下に世界中のいろんな民族が生み出した生活用具約2500点が展示されました。  そこで岡本は人間存在の多様さ、共に生きている共感を謳いあげようと述べている。基本的な考え方、態度を今も我々は継承していて、重要な言葉だと思っています。  万博から民博へと言う大きな繋がりがあると思います。 

アフリカの仮面研究の大一人者、『仮面の森:アフリカ、チャワ社会における仮面結社、憑霊、邪術』などの著書があります。(吉田憲司) 私が大学に入ったのは1975年(民博創設の翌年)  探検部に入って人類学の真似事のフィールドワークを国内で始めました。 梅棹 忠夫さんが探検部の顧問でした。  チャワで2年間フィールドワークをして、その後民博に移ったのが1988年です。  はじめての展示を私が担当しました。  仮面の文化をアフリカ、そして世界に広げていきました。  仮面結社、仮面を被れるのが特定の人間に限られ、多くの場合は男性だけで構成される。  チャワでは13,4歳になると仮面をかぶって舞踊を行うグループに参加するようになる。(「成人儀礼も兼ねている。)  一定の試練を与えて、チャワではむち打ちで、子供の魂を追い出して、大人の魂を吹き込む。 見聞きする事はメンバー以外には秘密にする、そういった秘密結社です。  結婚して妻と一緒に現地に行って1年間は何も教えてもらえませんでした。  その後現地の子供と一緒に儀礼をうけてメンバーになることが出来ました。  その後はほぼ毎年チャワに行っています。(フィールドワーク)  1年経っても何も教えてもらえなかった時には追い詰められた感じがしました。 妻も女性の結社に入ることが出来て、女性の儀礼のことは妻が調べてくれました。 女性は誕生、出産に関する事、男性は死、葬儀に関する事を秘密にしている。 二つが一セットになっていることが判りました。 (生命の循環)    

仮面は現地で作ったものを元にして、帰ってから日本で作ってそれを展示しています。 女性が成人儀礼の時に動物の粘土像を作るんですが、長老のおばあちゃんに作ってもらったものの福祉を日本で作って、チャワに関しては一つのコーナーを作りました。 仮面儀礼の重要な儀式は基本的には夜おこなわれます。 衣装は黒い布で現場を再現するようにしました。 現場の再現にはこだわりました。  

人類学は基本的には現在学です。 現地の人に来てもらって、民博の所蔵品を観てもらってコメントをデータベースに入れてゆく。  一つ一つの物に対する記憶、知識、経験とか語ってもらって文字或いは映像にしてデータベースに取り込んで行く。 世界のいろんな地域をカバーしてゆく、データベース作りを続けています。  人類の貯蔵庫、そして現地の人も使って自分たちの新しい次の時代を作ってゆく作業の素材を集めてている場所になってきています。異文化の理解が時間的にも深くなる、そう言う効果があります。  

万博では命と言うものをもう一度見直して、未来に向けた命の在り方を一緒に考えるような、構想するような、そういう場にできないだろうか、あるいはそういう場にしないともったいないと思っています。  人間中心的な生命観を脱して、すべての生命圏全体を包含するような生態系と言うものを全部視野に納めるような、そういう命についての見方、生命観を世界で共有できる貴重な機会になるのではないかと思います。 最大のレガシーになるのではないかと言う気がします。 









































2025年10月3日金曜日

吉屋敬(画家・作家)           ・ゴッホの祈りを見つめ続けて

 吉屋敬(画家・作家)           ・ゴッホの祈りを見つめ続けて

今年はゴッホイヤーとも言われるほど多くの作品が全国各地を巡回します。  現在上野にある東京都美術館ではゴッホ展「家族がつないだ画家の夢」が開かれています。  肖像画、風景画、書簡などが展示されて多くのゴッホファンでにぎわっています。  長年ゴッホの研究を続けてきた画家で作家の吉屋敬さん(80歳)のお話です。  吉屋さんは小学4年生の時にゴッホの絵を見て感銘を受け、画家を志すようになりました。 一方で吉屋さんの叔母は大正から昭和にかけて活躍した小説家の吉屋信子で、幼いころから信子のような自立した女性像を目指して、文学少女として成長しました。  絵画制作と文筆活動を並行しながら大学在学中に、ゴッホの故郷であるオランダに留学、そこからゴッホの足跡をたどる取材を続け、ゴッホにまつわる本の出版や講演などに携わって来ました。  今年1月にはゴッホの精神と生きざまに焦点を当てた著書「ゴッホ 麦畑の秘密」を刊行し、絵を描くことで人々の幸せを祈ってきた新たなゴッホ像を打ち出しました。 

今年は大きなゴッホ展が二つ来ます。  東京都美術館ではゴッホ展「家族がつないだ画家の夢」が開催され、ファン・ゴッホ美術館から30点が来ています。  もう一つは神戸で9月20日から始まります。  その後2月から福島の県立美術館に移ります。  神戸、福島は大震災で被害を被ったところで、慰霊を込めて凄い量の作品が巡回します。 

家の近くの絵画教室に通っていました。  小学4年生の時に先生からゴッホの絵の本を見せてもらって、吃驚しました。  それから絵を描いてみたいと思うようになりました。  中学の頃に国語の先生が作文を凄く褒めてくれて作文を一生懸命に書く様になりました。  高校で卒業するときには絵か、文学に進むか迷っていました。 絵の方の文化学院に行きました。 オランダへの伝手があってオランダに行くことになりました。(絵画留学)  父の3つしたが吉屋信子でした。  父は信子の自立する生き方に共感していて、留学には賛成しました。 学長の方と面接をして、いつでも入りなさいという事になりました。   色彩学とかいろいろ理論があってそれにはついていけませんでした。 別の学校を紹介して貰いました。 (国際色豊かな学校で共通語が英語だった。)  居心地が良くてその学校に7年いました。 

女王の肖像画を描く25人の中に選ばれて、私以外は全部オランダ人でした。  行ったら女王が私に微笑みかけて腕を取って宮殿内を全部案内してくれました。  その絵の展覧会があって、その後絵の活動が始まりました。  日本に帰って来て展覧会もするようになりました。  30年経った時に、私にしか出来ないゴッホを何とか作り出そうと思いました。 (50歳) 一生懸命にゴッホの足跡をたどるようになりました。   隔月の雑誌にゴッホの紀行文を書くことになり、5年ほど書きました。  とんでもない僻地まで行ってゴッホの足跡をたどりました。  2000枚ぐらいになり、日本に帰ってきた時に、「青空の憂鬱」(2005年)を出版しました。 (2000枚を250枚ぐらいに縮める。)  

それからも20年ぐらいゴッホの取材を続けていました。  ゴッホが絵描きになって、ハーグで暮らしていたころ、娼婦を囲って家族のまねごとをしていたんですが、弟のテオとかに顰蹙を買って、彼女を捨ててドレンテと言うところに行きます。(僻地)  彼が滞在していた宿屋が残っていましたが、そこが壊されるという事が新聞に載っていました。(1990年ごろ)  これは大変だと思って、300km離れていましたが、3,4回行きました。 保存協会が出来て保存することになり、保存の状態を事細かに取材する事が出来ました。  

今年1月にはゴッホの精神と生きざまに焦点を当てた著書「ゴッホ 麦畑の秘密」を刊行しました。  絵描きにとって何が幸せかと言うと、自分の描いた絵が後世にまで評価され、大きな影響を人々に与えるという事だと思います。  その意味ではゴッホほど幸せな画家はいなかった、という事を言いたかった。  絵を描いた期間は10年でしたが、経済的に飢えさせないようにテオと言う弟がいたんです。  お金だけではなくて、ゴッホの絵が必ず後世に残る絵だという事をテオは認めていました。  ゴッホが悲劇の画家だという事は辞めて欲しいと思います。  

人間ゴッホを書きたかった。  ゴッホは若い頃から、貧しい人、虐げられた人、そういった人たちをどうやって救うか、それだけです。  彼は牧師になろうと思って失敗した人です。 宗教はまやかしであるという事にある時悟ったわけです。  自分は何をしたら人を救う、幸せにすることが出来るか、それが彼の一生の課題になりました。  そのために苦しんだんです。  最後に行きついたのは「それでも神はいる。」と言うんです。  「自然の中から神が語りかけてくる。」と言っている。 牧師が言っている神とゴッホが言っている神とは違うものだと思います。  彼の絵に自然に表れている。  何かを通して一緒にいる人たちを幸せにする(大げさかもしれないが)、彼の思想が残っている、大したものです。  ゴッホは自分の絵を通して何を伝えたかったのか、これだと思います。  ゴッホに出会えたことは、運命的でもありラッキーだと思います。  彼は「人々への愛」、と言うことを凄く言っています。 人の役に立つという事を一つの自分の思想としているわけです。






















2025年10月1日水曜日

直川礼緒(民族音楽・民族楽器研究家)   ・世界の“民族楽器・口琴”に魅せられて

直川礼緒(民族音楽・民族楽器研究家)   ・世界の“民族楽器・口琴”に魅せられて 

口琴、世界に広がる民族楽器です。 アイヌの皆さんはムックリと呼んでいます。 直川礼緒さんは金沢生まれの65歳、民族音楽としての活動はおよそ40年になります。 現在は東京音楽大学付属民族音楽研究所の共同研究員を務めています。  直川さんは早稲田大学在学中に北海道でアイヌの皆さんが演奏するこの口琴に出会い、更に数年後インドネシア、バリ島でヤシで出来た口琴に魅せられ、世界の口琴を訪ね歩く様になりました。 直川さんは1990年に日本口琴協会を設立し、数年に一度開催される国際口琴大会に1991年の第二回から参加してきました。 今年10月24日から26日まで東アジアではじめて阿寒湖アイヌコタンで開催される国際口琴実行委員の一人として準備を進めています。 大会には世界30の国と地域から研究者や演奏者が参加します。 直川さんに民族楽器の魅力など、民族楽器ともに歩んできた自らの人生について話を伺います。

これは15cmの竹のへら状のもので、真ん中に振動弁が切り出されている。 紐が付いていて、ひもを引っ張ると音がでます。  これを口にあてて鳴らします。  人間の口は口の形、口腔の容積、の運動、咽喉鼻腔の開閉、息遣いなどを変化させることによって様々な音色を変化させられる。  

ジャズ研に入っていて、1983年に北海道に行った時にムックリと出会いました。 その後インドネシアに行く機会があり、バリ島での芸術祭に出演することになり、私もにわかメンバーになって参加しました。 そこでもたまたま口琴に出会いました。  ムックリとよく似ていて、材料はヤシの木の枝で出来ていました。   ムックリは自然の音と言った感じですが、バリの場合は一人ではやらない。  二人一組で楽器に男女があり、大き目で音の低いのが女性、小さめで音が高いのが男性です。  二つのリズムを組み合わせて一つのリズムを作る。 そこから口琴にはまりました。  

平安時代は本州にもありました。 鉄で出来ていました。  平安時代のものが4本発掘されています。 (大宮の氷川神社の遺跡から2本、同じ埼玉県の羽生の遺跡から1本、千葉県からも1本) 江戸時代も口琴が大流行して、幕府が禁止したという事もありました。 元々はアジアの楽器です。 一番古いものは紀元前20世紀の中国の陝西省で骨製のムックリとよく似たものが発掘されました。 ウラジオストックでも紀元5世紀ごろの鉄の口琴が出ています。 12,3世紀にヨーロッパに伝わったようです。 ヨーロッパ全域で使われるようになった。  大航海時代にアメリカ、太平洋の島々に行って、広がって行った。 サハ共和国では鉄の口琴が国民楽器になっていて盛んです。 普遍的でありながら、同時に民族の個性が出る、そういったところにも魅力があります。 振動源と枠のたった二つの部品しかないが、いい音を出そうと思うと凄い技が必要です。 

1990年に日本口琴協会を作りました。  情報を集めると同時に発信しようと思いました。  口琴ジャーナルという雑誌を作りました。  100人ぐらいいました。(会員制ではない。)  1984年にアメリカ、フレデリック・クレインと言う研究者の発案で世界口琴大会がおこなわれました。 1991年にサハ共和国(土壌は全て永久凍土で、面積の40%は北極圏に含まれる。)で第二回世界口琴大会を開催。 アイヌの方と3人と私も参加しました。  今年北海道の阿寒湖で第10回世界口琴大会を開催することになりました。  入場料はありません。  演奏者、製作者、研究者も来ます。  大会はヨーロッパがそれまでは多かった。今回はアジアの参加者も多いです。 

口琴は自然の音(風、しずくの音、動物の鳴き声などいろいろ)だけではなく、おしゃべりもできる。  メロディーも演奏できる。  心、感情に強く働きかける楽器だと思います。 














2025年9月30日火曜日

林家三平(落語家 二代目)        ・〔わが心の人〕 初代 林家三平

 林家三平(落語家 二代目)        ・〔わが心の人〕 初代 林家三平

初代 林家三平さんは1925年七代目林家正蔵さんの長男として東京に生まれました。 今年は初代林家三平さんの生誕100年にあたります。 三平さんは父親である正蔵さんに入門し、昭和33年真打の昇進します。 歌いながら全身で笑いを生み出す舞台は、昭和の爆笑王として高座だけでなくテレビ、ラジオでも大人気となりました。 昭和55年54歳の若さで亡くなりました。  

12月で55歳になります。  父が享年54歳だったので、父を越えることになります。  私が生まれた時が父が45歳の時でした。  私が45歳の時にせがれが生まれています。  父は羽織袴と言うよりは紺色のスーツと言うイメージでした。  中が赤い裏地でした。 それは父と石原裕次郎さんだけでした。  もじゃもじゃ頭は天然パーマでした。  父が亡くなる前まで数時間一緒でした。  医師が「三平さん、三平さん貴方自分の名前を言ってください。」と言った時に「加山雄三です。」と言ったのは、本当の話なんです。  亡くなる寸前まで人を笑わそうという意識は強かったです。  「人間は笑われるんじゃない、笑わすことが僕たちの仕事だ。」と父はよく言っていました。  若いときには3時間ぐらいしか寝ないでネタを作っていたと言います。  いつも時代に合ったネタを作っていました。 

父の高座の姿をそでから毎日のように観ていました。  父と手を繋いでいると、父の手が段々冷たくなってゆくのを感じましたが、それは今迄の高座よりもいいものをやろうとすると人間緊張するという事で、越路吹雪さんもそうだったと言います。  高座に出て来なさいとよく父から言われて小話をしたことがあります。  いくつか父から教えてもらいました。  父は笑いと言うものを植えるけてくれました。  笑って頂くためには何でもするという父でした。  舞台から降りてお客さんを追っかけたりするので、父の足袋はいつも裏が真っ黒でした。  「舞台は戦場なり」という座右の銘があります。  「芸に死に、芸に生きよ」とか、21歳の時に書いています。  


父は特攻隊要員でしたが、終戦を迎えた同年10月、敗戦により兵長として復員しました。   兵隊に行く前はおとなしいフランス文学の好きな父でした。  父を変えたのは、死と向き合った戦争だのかもしれません。  七代目林家正蔵の生きざまを観てこれが僕の道だと思ったと思います。  最初は普通のネタでやっていたが、二つ目になっていきなりネタが「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ」でした。  シャンソンの題で高座に上がっています。  ネタは何をやったのか判りません。  父はかなりの近眼で、お客さんの顔は見えていないと思うんですが、お客さんに向かって話かけているんです。 

私は噺家になろうとは思っていませんでした。  大学の夏休みの時にヨーロッパにいって、自分の国のお国自慢をしろといわれて何も言えなかった。  帰って来て日本の文化を勉強しようと思ったのが、落語でした。  小噺のほかには「味噌豆」(5分程度)という話だけは父から教わりました。  兄は古典落語に真剣に取り組んでいます。  父の落語を追いかけるのが僕の使命ではないかと思っています。  アコーディオンを使って父の真似をしています。  浅草で生誕百年祭を11月にやることになっています。 (台東区のお祭りの一環)

「笑わせる腕になるまで泣く修業」 父が僕に残した色紙です。 (父が亡くなる半年前に書く。)  笑わせることの難しさをしみじみと感じています。  祖父の国策落語(戦争昂揚落語)を10年ぐらい前から始めています。  日本がどんどん勝っているという話なので、日本は負けたというイメージで聞くと、意味が全く分かりません。  勝っているというイメージでないと全くわからない。  お客様にそこのところを理解してもらって、そういった活動もしています。  農業もやっています。  母の疎開先が穴水という事で能登の方の応援もしています。 



2025年9月29日月曜日

2025年9月28日日曜日

福島富子(神奈川県原爆被災者の会 副会長) ・記憶を語り継ぐ

 福島富子(神奈川県原爆被災者の会 副会長)       ・記憶を語り継ぐ

今年は広島、長崎に原爆が投下されて80年、被爆の体験をどう語り継ぐかが年月の経過とともに難しくなっています。 神奈川県在住の福島富子さんは、長崎で生後間もないころに被爆し、4歳の時に親戚の住む五島列島の小値賀町に一人預けられました。 成人して神奈川県に移り住み30代で被爆者健康手帳を取得、現在は被爆体験を語り継ぐ活動をしています。 家族や親戚から伝え聞いた自身の被爆当時、その後の状況を語ると同時に高齢になった被爆者の体験を語り継ぐ長崎の交流証言者としての活動もしています。福島さんは去年日本被団協がノーベル平和賞を受賞した際、共にノルウェー、オスロを訪れています。 被爆時に幼すぎて直接的な記憶がない福島さんは、被爆について語ることを長年ためらってきたと言います。 その思いが変ったきっかけ、そして最も若い被爆者として自身の体験をどう語り継いできたのか、長崎で被爆した他者の体験を今後語り継ごうと決意した経緯について伺います。

生後6ケ月のころ被爆しています。  兄は3,4歳でしたが鮮明に覚えています。 母が私を抱っこして、兄を負ぶって防空壕に逃げたという事を兄から聞いています。  ここも危ないという事で竹藪の方の防空壕に行ったそうです。  父は食糧調達に行っていて、私たちは亡くなっていると思っていて、探していたら大丈夫だという事がわかりました。 父ともに親戚の家に疎開しました。  そこを離れたという事が良かったかなと思います。

4歳ごろヤギの乳を飲まされたきおくはあります。  被爆したことを隠すために預けられたと思います。(五島列島の小値賀町)  一人で預けられて泣き続けたことは覚えています。 高校卒業後は長崎に実家に戻りました。  10歳の時に一度実家に帰ったことがありましたが、母が号注していました。  この人誰、なんで泣いているの、という記憶があります。  子供をもって母の号泣している姿がやっとわかりました。  実家に帰ってすぐに父は脳溢血で亡くなりました。  母は病院に入院していました。  しばらくは兄と私と妹の3人で暮らしていました。  6か月して母が退院してきましたが、妹を介して私に話をするんです。(うまくいかなかった。)  東京の洋裁店に行って働いて生きて行こうと思いました。 その後結婚して神奈川県に住みました。

被爆手帖はあにがとった方がいいと言うので取ることにしました。 (34歳)  当時は被爆者はひっそりと生きていました。 神奈川県原爆被災者の会に所属しました。(20名程度)2011年の福島原発まで私は語る資格はないと思っていました。(何も覚えていないから)「被爆その後の福島さんの人生を知りたいんだ。」とある先生から言われて、 そうなのかと思いました。  それから自分探しを始めました。  福島の方々が差別されていました。 葉山の町に福島ナンバーの車があり、そこに「帰れ」と書いてありました。 何とかしないといけないと思いました。  戦争、原爆のことなど勉強しました。 

広島の村上さんと言う方の話を聞いて衝撃を受けました。(20年ほど前)  2018年に村上さんが神奈川県の新聞に自分の証言を掲載されていました。 それを機にお付き合いするようになりました。  村上さんが私の話をしてほしいと言われました。  交流証言者として登録しました。 

村上さんは被爆者なのに原爆に負けてないと見えました。  村上さんの話としては、原爆が落ちた瞬間から、身体がだるく成ったり、沢山の血を吐き、周りの人からもう助からないという中で、自分が負けずに生きてゆくというその部分を伝えています。 村上さんは95歳になり、判らないことを聞くと、もう忘れたというんですね。  頼りにしているのは村上さんから頂いた資料です。  若い人たちが交流表現者になっていただけるのが、今後の励みになります。(小学4年生の子が交流表現者なる。)  

去年日本被団協がノーベル平和賞を受賞した際、共にノルウェー、オスロを訪れています。 ようやく思いが通じたという瞬間でした。  オスロの方々は温かかったです。 被団協がノーベル平和賞を受賞したことを若い人に聞くと何人かは知らないです。 世界にどれだけ伝わっているのか疑問です。  戦争のない世界を作りたい。  私が知っている事実を話していきたい、身体の続く限り。





















2025年9月27日土曜日

根岸季衣(女優)             ・〔私の人生手帖〕

根岸季衣(女優)             ・〔私の人生手帖〕 

朝の連続テレビ小説、114作「風薫る」に出演が発表されている女優の根岸季衣さん。「ハイカラさん」「澪つくし」の連続テレビ小説、民放の「ふぞろいの林檎たち」と数多くのドラマに出演、映画の大林宣彦監督の作品の常連としても知られています。  根岸季衣さんは1954年東京都出身、つかこうへいさんの、『蒲田行進曲』で注目を集めました。  20歳のころ演劇科の大学を辞め、保育士を目指して短大に入りなおしましたが、その短大も『ストリッパー物語』の主役に抜擢され、短大を半年で辞める。 その後も映画テレビなどで存在感のある役を続けていますが、その素顔はどんな方なんでしょうか。  これまでの女優人生や大林監督に学んだこと、ご家族のことなど話していただきました。

「風薫る」に出演が決まりました。 明治時代のことで、看護師としての職業はまだなくて、看護学校に学んで、二人の女性の生き方をずっと描いていきます。  姑の役です。 栃木弁でやります。  母は95歳になりますが、朝ドラに出ると言ったら喜んでくれました。 11月の夜ドラにも出演します。  偏屈なばあちゃん役をやります。  平屋に住んでいる若者の話ですが、おばあゃちゃんが若者と触れ合ってゆく、楽しいい仕事でした。  

デビューが1974年、映画「廃市」恋に滅びてゆく愛の物語ですが、大林監督に抜擢されて感謝しています。(美人役でした。)   愛に滅びてゆく役なので痩せてくるように言われ、それほど無理をしないでも落とせました。 行ったら監督も感動してくれました。 下剤も使ったこともありましたが。  今も1週間に一度絶食するようにしていますが、これは体にいいです。 痩せないけれど体はスッキリします。  水はがぶがぶ飲みます。  一晩ぶっ通しで撮影したりしていました。(低予算)  大林監督の作品は27本出ています。  内容の判らないまま出てくれと言われて出演した作品もあります。  

映画を作るってこんなに楽しくって面白くて素敵な事なんだという事を、大林監督から教えてもらいました。  「時をかける少女」は恋物語でもあるので、「私たちはまだまだ青春と思っていたのに、青春を見守る側になっちゃったんですね。」と言ったら、監督が「僕たちはずっと青春なんだよ、でもあの子たちは無自覚の青春なんだ。」っていいました。 素敵な表現をする監督でした。  いい出会いが出来てラッキーだったと思います。

小さいころは出たがり屋でした。(学芸会とか)  劇団とかダンスとかは近くになくて何もやれませんでした。  高校の時にダンス(モダンバレエ)を始めました。  19歳の時につかこうへい事務所に見に行って、入団しました。  アルバイトで保育園に行ったら楽しくて資格を取らないといけないと思って、専門学校に入りなおしましたがそこではおもしろくなかった。  1975年の『ストリッパー物語』の主役に抜擢され、短大を半年で辞め根岸とし江の芸名で芝居の世界に戻った。  何をよりどころにやってきたのかと言うと、のびやかでいられたのかなあという事と、周りに恵まれて嫌な思いもしないまま来たという事ですかね。 

ダンスをしていたことによって、凄く助けられたかなと思います。  ダンスは身体が喜ぶと言った感じです。  蒲田行進曲』では3か月やっていて一日も真っすぐ家には帰りませんでした。  20代なのに毎日身体がきつかったです。  喜びも考える暇もないようでした。 オファーして頂けるので、それを受けているだけで十分楽しいというか、そういった感じです。  子供に対しては今思うともっと時間を割いてあげればよかったと思いますが、よくまともに育ってくれたと思います。  長男はお坊さんになっていて、次男はドラムをやりながらライブハウスの仕事をしています。  弁当にはポリシーがあって、夜の残り物、冷凍食品は使わないという事をしてきました。  両親が助けてくれたので助かりました。 70歳を越すとやたら昔が懐かしくなります。  それまでは振り返る暇がなかったんでしょうね。

熱海に住んでいるので、週2回日が出る15分前にビーチに行って、ラジオ体操とストレッチヨガをやっています。 (冬は厳しいが日の出がいい。) 



















2025年9月25日木曜日

村田あやこ(路上園芸鑑賞家・ライター)  ・〔私のアート交遊録〕 道ばたに咲く植物に魅せられて

村田あやこ(路上園芸鑑賞家・ライター)・〔私のアート交遊録〕 道ばたに咲く植物に魅せられて 

福岡の自然豊かな街で育た村田さん、東京にはコンクリートジャングルのイメージがあったが、住んでみると緑の多いのに気が付いたと言います。 道端の何気ない植物たちは計算された美ではないが、あれているとも違う、その場に共存している姿に思わず見入ってい仕舞い、気は付けば疲れた自分が癒されていたと言います。 こうしたた村田さんの路上園芸観察がSNSを中心に話題を呼び、路上園芸学会を立ち上げ、園芸活動や植物の魅力を発信していますが、あえて会員は募りません。  あくまで緩く楽しみたいというのがその理由です。 村田さんに道端の花や草などの見方を通して日常の光景に価値を見出すその視点について聞きます。

福岡で生まれて家のすぐ裏に山があって、毎日山の中を駆け回るような子供時代を送っていました。  大学は北海道に行って、そこでも自然豊かな状況でした。  東京で就職をして20代半ばで植物と付き合うような仕事っていいなあと突然思い立ちました。  植物を使った空間デザインに興味を持ちました。  その後街角の緑に目が止まるようになりました。 自然と一緒になって長年かけて育ってきたような風景はなんか健やかで素敵だなあと思いました。或る時から写真をSNSにコメントを一言添えて投稿する様になりました。  そうするとよく見るようになりました。  そういったことが重なって本に繋がっていきました。 

言語化するという事が良かったと思います。  自分の正直な思いを言葉にすることによって、そこが誰かと響く部分と言うのは大きかったと思います。  美術を楽しむことと共通するところがありますね。  当時、神保町での昼の散歩が日々の楽しみになっていて、街角の植物を観た時に独り脳内大喜利大会のような感じで脳トレをはじめて、ゴロのいい言葉はないかなあと親父ギャグを思い浮かべるよいうになりました。  漬物の樽を転用した鉢が有ったら、これは別の業界で活躍していた器が転職していたという事で「転職鉢」といた風に言葉にしていきました。  そういったことはメジャーな楽しみ方だと思います。  言葉にすることによって、自分にとっての名所になります。 「植物壁画」「果肉御殿」とか本の中にあります。  発砲スチロールは「転職鉢」でもメジャーなものです。(軽い、加工しやすい、手に入りやすいなど)

蔓系の植物ではビルの壁面にはって、面白いと思います。  落葉性だと綺麗に紅葉することがあります。  落葉すると茎だけになってドローイングのようになって、偶然出来たアートのようなものになります。  楽しみ方の素材は街中にごろごろ転がっています。 

中、高校時代には植林のボランティアなどもしました。  本を作る仕事をしたいと漠然に思っていました。  巡り巡っていまは植物の本を出したりしています。  カメラで写真に撮って記録してみると、何年後かの風景と比べてみると、その差が楽しいです。  コンクリートの隙間から生えている様な小さな草花でも、俯瞰で撮ってみると砂漠の中のオアシスに見えたり、撮る角度によって全然違ったものに見えてきます。  他人の撮った写真と見比べてみるのも楽しいです。  

塚谷裕一先生の「スキマの植物図鑑」には、道端の草と言うのは人間から見るとド根性〇〇というキーワードで語られがちですが、意外とそういう場所は光を遮るという事がなかったり、水を独り占めできる楽園なんだよと言う様なことが書かれています。  偶然種がたどり着いて、そこがあっているからだけで、不思議に見えるがそこが何かしらの理由であっているからそこにいるんだろうなあと思って、想像しながら見ていると不思議だなあと思います。

街中に大きなサボテンを見かけましたが、そこにも物語があり、東日本大震災で水道管が壊れて根腐れして枯れてしまったが、以前株わけしたところから逆に分けてもらって大きくなったと言った話もあります。  路上園芸に関して言うと、人の生活が濃厚なエリアにたのしい風景がひろがっているように見えます。  その街のリアルな生活風景に触れられる入口になるのではと思います。  名前を憶えてゆくのも楽しくなると思います。 お薦めに一点はドラマで「パンとスープとネコ日和」です。 (鉢植えの風景などが良く出てくる。)











2025年9月24日水曜日

堀部貴紀(中部大学 准教授)        ・〔心に花を咲かせて〕 サボテンは地球を救う救世主

堀部貴紀(中部大学 准教授)     ・〔心に花を咲かせて〕 サボテンは地球を救う救世主 

サボテンが今課題となっている食料問題、地球温温暖化を緩和する救世主になる可能性があると、中部大学 准教授の堀部貴紀さんは熱弁しています。 2017年には国際連合食料農業機関が食用サボテンは食糧危機を救う作物になりうると発表しているそうですし、地球温暖化対策にも有効で、人類にとってとても重要な存在だという事です。

世界的には種類が2000種以上あり、品種と言うものを入れると8000品種以上あると言われています。  育っている地域(砂漠、熱帯雨林など)によってサボテンは姿を変えます。 熱帯雨林の地域では水が要らないので膨れない。  ウチワサボテンは観賞用だけではなくて世界を救う作物にもなりうると言われています。 

サボテンを始めたのは大学の先生になってからです。  生き物が好きで農学部の大学に進みました。 大学の時には花(バラ)の研究をしました。  研究は狭い領域なので広い領域のメディアの世界(テレビ局)に一旦就職しました。  研究の楽しさを思い起こして、1年ぐらいで辞めてしまいました。  名古屋大学の大学院へ戻り、花の研究をして博士号を取りました。  中部大学で教員として採用されて、研究者として独り立ちができました。 

中部大学のある愛知県の春日井市は日本で一番サボテンを作っている地域です。  春にはサボテンのお祭りがあり、サボテンラーメン、サボテンの串焼き、などサボテンの料理が一杯ありました。  オクラとかメカブに近いネバネバがしてちょっと酸っぱい(リンゴ酸)味がしました。  メキシコでは肉と相性がいいという事で、普通に野菜として食べられています。 ウチワサボテンは成長が早くて柔らかいんです。  商業生産されているのは30か国を越えています。  イタリアなどではサボテンの実を食べます。  例えばドランゴンフルーツ。   ウチワサボテンでは大きな果物(トゥナ)を付けます。  地球温暖化が進むなかで絶対に重要な作物になりうると思いました。  これをテーマにしようと思いました。 

日本にはサボテンの研究者がいなかったので、アメリカ、メキシコなどの研究者と連絡を取って行っていろいろ教えてもらいました。  棘のないウチワサボテンがありました。 (実際にはちょっと棘があった。)  韓国にも行きました。(観賞用のサボテンの研究所)  アフリカ、ヨーロッパにも行きました。  

テーマはいくつかあって①日本でサボテンを野菜にしてしまおう。 企業と組んでやっています。 ②合う土壌  ③ウチワサボテンは3,4種対しかないので、それらの低温耐性を調べる。(大型ではマイナス4℃ぐらいまでは耐える。) 水があった方がウチワサボテンは良く育ちます。 サボテンは生命力があります。  アリゾナ砂漠では凄く暑いんですが、サグアロサボテン(西部劇などに良く出てくる大きなサボテン)は元気に立っているんです、感動しました。  

1年半前、診療内科を受診してADHD(注意欠如・多動症(Attention-deficit/hyperactivity disorder)と双極性障害(躁(そう)状態または軽躁状態と抑うつ状態とを反復する精神疾患という事でしたが、サボテンの姿は精神的にも支えにもなっています。  それが研究をするうえでプラスにはなっていると思います。 今力を入れているのは、サボテンを地球温暖化防止に使おうという研究です。  サボテンは空気中の二酸化炭素を結晶化する性質があります。空気中の二酸化炭素をシュウ酸カルシウムにと言う結晶に変えます。 結晶化したものはサボテンが枯れても土に残るんです。 二酸化炭素を土に閉じ込めることが出来ます。 それとサボテンを植林しても水を含んでいるので火事にならない。  何故,二酸化炭素が結晶化するのか、結晶の数を沢山増やせないかという事を研究しています。

結晶を増やす技術も見つかって来ましたし、カンボジアでサボテンを使った二酸化炭素の固定実験を企業とやっています。  地雷の除去の後にサボテンを植えることになりました。  サボテンの植林事業する企業もあります。 2017年には国際連合食料農業機関が食用サボテンは食糧危機を救う作物になりうると発表している。  健康にも良いという事で、脂肪の吸収を抑制する。(ダイエット効果)  マウスに食べさせると免疫機能が上がるという研究成果も出ています。  野菜にもなるし、加工品の原料にもなる、家畜のえさにもなる(トウモロコシの一部を置き換えれば人間に回せる。)、植林にもなる。  サボテンを牛に食べさせると水の量が減るんです。(節水効果)  欠点としてはサボテンが強すぎるので、管理しないとほかの植物を駆逐してしまう可能性がある。 

日本では野菜や家畜飼料ですね。  オクラは30℃を越えると生育不良になって来ます。  サボテンは50℃でも平気です。  暖かい地域ではよく育ちます。  企業と協力していろいろやっていますが、サボテンの漬物などもトライしています。  美味しいと言っています。 サボテンの生命力を社会の役に立てることが目標です。 サボテンによる地球温暖化の防止、食糧難の解決、サボテンの機能性を明らかにしたい。  チームで取り組むことが大事で、考えていなかったアイディアが出るとか、新しいい商品が出来たり、事業がスタートしたり、新しい取り組みが生まれる。  サボテンの国際組織があり、サボテンの研究者、技術者が集まる場所があって、わたしはそこのアジア担当者です。  日本とメキシコでタッグを組んで研究するとか具体的になってきています。  エネルギー事業にサボテンを使えないかと言うような話もあります。  サボテンの棘を取るのを機械で出来ないかと言ったこともあります。











2025年9月23日火曜日

坂崎幸之助 (THE ALFEE ミュージシャン)  ・走り続けてなお、終わらない夢

 坂崎幸之助 (THE ALFEE ミュージシャン)  ・走り続けてなお、終わらない夢

THE ALFEEは1974年にデビュー、桜井賢さん、高見沢俊彦さんと共に去年50周年を迎えました。 ライブ通算本数3000本を目前にして、今なお精力的に活動しています。 坂崎さんは今年6月寄席デビューを果たしました。  幼いころから通っていた演芸場で71歳にしてデビューしたいきさつについて、また多くの趣味を持ちカメラや骨董などコレクターとも知られる坂崎さんが幅広い分野で活動を続ける思いも伺います。

紅白に41年振りに出ました。  新規のファンが増えました。  来年でライブ通算本数3000本になります。  メインボーカルを皆で歌うことを目指していたので、当たり前と思っています。  THE ALFEEの雰囲気は良く平和だと言われます。  最近は寄席デビューしました。  初代林家三平生誕百年記念興行の浅草演芸ホールで行いました。 三平さんは子供のころから好きでした。 小さいころから浅草演芸場、上野鈴本などに行っていました。   深夜放送で「すみません」コーナーをやっていました。  事務所に三平さんの弟子の新平さんが来たので、三平さんのところに連れて行って貰うように頼みました。  家に伺ったらミュジシャンで弟子になったのが二人いるんだと言いました。  YMOの高橋幸宏とTHE ALFEEの坂崎幸之助だと言ってくれました。 (本当の弟子ではないのですが、そういって下さいました。)  そこから付き合いが始まりました。  

生誕百年になるので出てくれませんかと言われました。  どうせやるならギター漫談をやろうかなと思いました。  ネタは書いていました。  大変受けました。 落語協会に入ってくれないかと言われましたが、さすがに敷居が高いです。 71歳でデビューと言うのは自分の人生の中でも大きな出来事でした。  続けているといろいろと夢が降って来ます。  フォーク・クルセーダーズに中学1年の時に憧れましたが、2002年に再結成すると言って、加藤さん、北山さんが坂崎を呼ぼうと言って、3人でやろうと言ってこれも一大事でした。 吉田拓郎さんとか憧れた方と共演と言うのが結構ありました。 それもTHE ALFEEを続けているからだと思います。 

メインの趣味はカメラ、骨董一般ですが特にガラスです。  江戸切子大使をやっていて、江戸切子は、昔は江東区、墨田区が一番盛んでした。  カメラ、骨董は40年以上やっています。  始まると好奇心が旺盛なのでどんどんはまってしまいます。  中学の時にグッピーを飼いだして、同じ仲間にどんな魚がいるのだとか、グッピーは卵をお腹の中で孵して出てくるので、他の同様な魚はいるのかとか調べて、飼ったりしました。  ギターは200本弱あります。  去年欲しいギターがあり、それを買うのに30本ぐらい手離しましたが、半額ぐらいにしかなりませんでした。 30年ぐらい前から売らないのか聞いていました。 日本では1本のギターと思っていたら、マーチン社の1968年製の試作器でずーっとウインドウの中にあったんです。  憧れていたギターだったんです。 カメラも2000台買ったことがあるんです。  カメラをセリで売ったりしました。  

コレクターは自分で抱えてしまうのではなくて、継承していくこともあると思うんです。 海外から買い戻したものもいいものがいっぱいいあります。  生き物はカメが5,6匹とヤモリの仲間が3匹、猫が6匹です。 (減りました。)  

自分がギターを弾きたくなったのは、エレキギターブームです。  小学校4年ぐらいからベンチャーズ、ビートルズが好きになりました。  中一でフォークギターを買って、フォーク・クルセーダーズ、そして日本のフォークにはまって、拓郎さんに行くんですね。 桜井とはコンテストで知り合いました。(彼らが優勝した。)  高見沢(当時ロック)も桜井と同じ高校でした。  大学で又ばったり高見沢と会って、その後3人でやるようになりました。

「結婚しようよ」で吉田拓郎が世に出て、フォークがメジャーになって行き、その後いろいろなグループが出てきます。  大ヒットし始めたのが1973年ごろです。 僕らがでた1974年は何百組と出たんです。  3,4年ぐらいはレコード会社のない時代がありました。  独りだと落ち込みましたが、3人集まると頑張ろうみたいな雰囲気になりました。 

29歳の時に一回目の紅白歌合戦に出ることになりました。  3人の音楽がちょっとずつ違っていたので、お互いの刺激になりました。  アコースティックギターをバンドの中に取り入れた方が面白いと思いました。  作品に関しては高見沢任せです。 






















 

2025年9月21日日曜日

長谷川一男(日本肺がん患者連絡会 理事)  ・患者が変える肺がん医療~肺がん患者会結成10年~

 長谷川一男(日本肺がん患者連絡会 理事)・患者が変える肺がん医療~肺がん患者会結成10年~

長谷川さん(54歳)は1間から15年前2010年に肺がんの打てージ4と診断され、余命10か月と診断されました。  そこから情報交換の場として神奈川県を中心にNPO法人肺がん患者の会「ワンステップ」を立ち上げ、患者にネットワークを広げながら自らの治療法についても積極的に医師に働きかけ、攻めの治療を行ってきました。 その「ワンステップ」の活動を全国各地の患者会と連携させた組織が日本肺がん患者連絡会です。 その結果世界肺がん学会の発表などを通じて製薬会社の協力を得ながら、日本で初めて患者提案型の臨床試験の実現にも成功し、長谷川さんは2016年には世界肺がん学会から、今後の医療を変える5人にも選ばれています。  がん患者のために働くことが生きる証しと語る長谷川さんに、自らの治療と患者会での活動について伺います。

ステージ4と診断さてから15年が経ちます。 がんはいるんですが大きくならずにそのままじっとしています。  治療はもう10年ぐらいはしていないです。  半年、1年の間にがんが大きくなっていないかチェックの検査はしています。  治療は抗癌剤、放射線、手術をやっていますが、その一つ一つがちゃんと効いてくれたことが一番だと思います。 

ある時から咳が止まらなくなり、どんどんひどくなりました。  右の首元が晴れてきました。病院に行ったら肺がんと言いう事が判りました。  ステージ4で余命10か月と言われました。  妻と7歳、5歳の子供がいました。  今は上の男の子は社会人になって、下の女の子は大学4年生になり就職が決まりました。 親として一緒にいられるという事は病気になった時には全く考えていませんでした。  

闘病の様子を映像で残しました。 病気になると治療だけの生活に入って行きました。 それまでテレビのディレクターをしていました。  自分を正気に保つ術が欲しかった。  自分を記録して、自分を題材にしてドキュメンタリーを作てやるんだみたいな思いがありました。 2010年から5年間で30回以上入院しました。  右の肺は全摘しています。  ステージ4だと抗癌剤だけの治療で、最初の薬が半年ぐらいで効かなかったら次の薬を3か月ぐらい、その次の薬を1か月ぐらいでおしまいです。 僕の場合も最初の薬はデータ通りに効かなくなっていくんです。  10か月をどうやったら延ばせるのかと言う事を一生懸命考えてトライして、駄目なら次をトライしてという事を繰りかえしていました。 薬の効いている期間はデータ通りに半年でしたが、がんの縮小に関しては爆発的に効いて、こぶし大のがんが小指の先ぐらいになりました。 (20人に1人ぐらいの確率) 

2015年4月にNPO法人肺がん患者の会「ワンステップ」を設立しました。  病気が一段落した時のこれからどう生きてゆくのか考えた時に、自分の経験が役に立つことをしたいなあと思いました。  患者会で治療法、どん思いか、と言ったことを伝えてゆく会が出来ればと思いました。  肺がんの患者会自体が日本にはありませんでした。  設立後10年になります。  情報を患者さんが貰ってありがとうございますという事がとっても多いです。 がんになって命がなくなると突き付けられると、単純に怖いんです。  死ぬことに対してあがらう、自分らしく向きあって行くものがないと死にきれないという風には思います。  それが「おびえて生きたくない。」と言う言葉になると思います。  

患者力、自分で意思決定が出来ることが幸せだと思うという信念を持っています。  治療についてきちんと概要を知って、自分の選択肢を知って、それを決めてゆくという事が必要になります。  それが患者力だと思います。  最先端の治療にはリスキーがあります。  自分で納得して決めていない限り、死ねないという風な思いです。 

患者提案型の治験の実現、通常臨床試験は医療者、研究者が進めて行くものですが、患者がこういう臨床試験をやって欲しいと、提案して実現してゆくものです。  提案するきっかけはとてもいい薬があったんですが、それを使えないような場合のルールがあり、それはおかしいのではないかといことで提案に至りました。  肺がんの中でも型があり、EGFR(推算糸球体濾過量の略称で腎臓の働き具合を示す指標)の人たちが使える薬で、その中でも使える人と使えない人が分かれしまっていました。  科学的な根拠のためには臨床試験を、という事になりました。  薬代だけで10億円以上かかると言われました。  

医療者、製薬会社が患者の声を取り入れて行こうという気持ちが根っこにあったんだと思います。  患者の思いをきちんと取り入れて作ったものが、患者さんに資するものになるという考え方が多分土台にある。  患者会からの臨床試験への提案があり、それが科学的に間違ってないという事であれば、やってみる価値はあるのではないかとう風に考えてくれて、今回実現に至った。  困っている方々の命も伸びる、その結果にとても嬉しかった。  目の前のことを一つ一つやってゆく事によって、段々大きなものになっていって、影響できるものが大きくなっていったと思います。  医師、看護師、研究者、製薬企業とのつながりが出来てもっといろんなことが出来るようになって、責任も大きくなったなあと思います。  人生が有限であるという思いは凄く強くなりました。  今をもっと大切にしようとか、その部分は大きく変わったかもしれないです。 































2025年9月20日土曜日

2025年9月19日金曜日

柳家さん生(落語家)           ・落語で故郷・富山に挑む

 柳家さん生(落語家)           ・落語で故郷・富山に挑む

江戸落語の演じ手として東京の寄席に出演する傍ら、ふるさと富山でも積極的に落語会を開催して落語ファンを拡大しています。  地元の声に応える形で始めた富山話と言われるオリジナル落語の制作、上演にも力を入れています。 東京と富山を行ったり来たりするなかで生まれた故郷への思い、江戸落語への思いを伺います。

東京と富山は半々です。  二拠点生活はコロナのちょっと前ぐらいからです。 1957年富山県富山市出身。  1975年に富山県立富山東高等学校を卒業、日本大学藝術学部に入学、1977年中退して5代目柳家小さん門下の3代目柳家小満んに入門する。  前座名は小勇。  1982年二つ目に昇進、1993年真打に昇進し、さん生に改名する。 

8代目文楽がいいなあと思って、3代目柳家小満ん師匠に訪ねて行きました。  自分ではなまっているつもりではないけれど、なまっていると言われて富山には帰らないでいました。 コロナ禍の半ばごろから富山でやるようになりました。  2023年から富山の人物を取り上げた新作落語を毎年1人づつのペースで発表しています。 最初は日本の治水技術、砂防技術の基礎を築いた赤木正雄さんを題材にした落語を上演する。  実は富山出身ではなかった。

飛越地震が昔あって山が崩れて、土砂が雪解け水、嵐などのたびに川に落ちてくる。  村が駄目になって砂防を明治からやって来るが、上手くいかなかった。  国に陳情して作り上げていった。  赤木正雄さんを題材にした落語を上演する。  まずは関係者約150人ぐらいのところで行いました。  2024年「鍬は刀なり」(富山県の名産の入善ジャンボ西瓜と流水客土にまつわる話。)   流水客土とは周辺台地の赤土を水と混合し用水路を通して水田に引き入れる工法で、昭和26年度から昭和35年度にかけて黒部川扇状地・小川扇状地の5,522ヘクタールで実施された。  県会議員になって口説いて予算を取ってしまう。 黒部川の両岸の土地の土壌をを変えてしまう。    入善ジャンボ西瓜は大きいのは25kgあります。  2025年発表が町医者萩野昇という人の話。  イタイイタイ病をテーマに取り上げた落語。  国と戦って弁護するときに、「僕は一介の町医者なのでとても国と戦う力はありません。  でも患者が可哀そうです。 だから僕は助けるんです。」と言っただけで帰って行くんです。  原因不明の奇病に苦しむ多くの女性患者たちがいた。 (ほんの一角だけ) 三井金属鉱業神岡鉱山から排出されるカドミウムが原因であることを突き止め発表する。 地元からも「嫁のきてが無くなる」「米が売れなくなる」と白眼視される。  しかし立ち上がる。 (1968年5月8日厚生省はイタイイタイ病を公害病と認定した同年日本医師会最高優功賞、朝日賞を受賞。)

新作を作るならば人情噺として作ります。  リアルにしゃべれないので、モルモットになっているネズミが喋るという風にしました。  古典落語をやったあとに、この新作落語をやったんですが、古典落語は余計だねと言われてしまいました。








 






    

2025年9月18日木曜日

ユリア・ジャブコ(ウクライナ人言語学者) ・国を守ることは、言語を守ること

 ユリア・ジャブコ(ウクライナ人言語学者) ・国を守ることは、言語を守ること

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続く中、戦争が当事国に住む人々の言葉にどう影響するのか研究している言語学者がいます。  日本在住のウクライナ人で茨城基督教大学准教授のユリア・ジャブコさんです。 戦争は人々の潜在意識にどのような影響を与え、発せられる言葉にどのような変化をも垂らすのか、そして平和とは何か、社会言語学の観点から戦争と言葉について考えます。 

2006年に交換留学生として初来日、その後言語博士号を取得して現在は茨城県にある茨城基督教大学准教授として、社会における言語の役割について研究しています。  高校の時に言語学が好きで英語を勉強していましたが、ごく当たり前な外国語だったので、もっと難しい言語に挑戦したいと思って日本語を選びました。  言語を通して日本を学ぶ。  社会言語学は社会と言語のかかわりを研究している分野で、社会は言語にどういった影響を及ぼしているか、言語は社会に影響あるのかを考える分野です。  私はウクライナから来ているのでウクライナで使用されている言葉を使うのは当然です。  私たちの仕事は言葉とアイデンティティーのかかわりを理解する事です。 

その国でどの言語を使うかという事は重要です。  言語は国家を運営するために必要です。  言語政策、数少ない言語使用者を多数の方に合わせる。  簡単に言うと戦争によって新しい土地を手に入れることによって、同じような言葉を使わせることによって、同じような意識を作る事です。  今まで持っていた文化の代わりに、権力のあるより強い文化を持つことにある。  社会的な支持的な権力のある民族に合わせる。  戦争で勝った国の方が植民地として治める。  ニュージーランドではイギリスが英語化しました。  19世紀オーストラリアでは英語教育をする。  先住民の言葉はほとんどなくなている。  西アフリカ、中央アフリカの植民地ではフランス語が公用語になる。  ベトナムは一時期フランスに占領されていた。  当時ベトナムではフランス語が公用語だった。  小学校で教える言語を政治的な権力がある言語に切り替える。  アイデンティティー形成に言語は最も利用されています。

ウクライナの同化政策は、18世紀はウクライナの一部は当時はロシア帝国のなっていました。  ウクライナでは激しいロシア語政策が始まります。  学校教育はロシア語が必須だったり、文化の抑圧(ウクライナの言葉で出版できないなど。)があり、19世紀にはウクライナ語での出版が禁じられました。  最も強くなったもは19世紀の終わりです。  言語を使う事によって社会的なステータスを得る。  ウクライナの独立は1991年、それまではロシア語がウクライナ語よりも上だという認識があった。  当時4000万人でそう簡単には言語はなくせない。  ウクライナ人はロシア語とウクライナ語の両方を履萎えますが、使い分けています。  戦争前ではウクライナ語のみを使っている人は4~5割弱、ロシア語のみを使う人は3割、どちらも使う人が3割ちかくです。 生活の場面場面でウクライナ語とロシア語を使い分けたりします。  

2022年にロシアの軍事侵攻が始まります。  ウクライナで戦争によってどのような影響がでているのか、を継続して研究してきました。  ①母語の選択(親から覚えた言葉 アイデンティティー 自分は何者かを認識するうえで非常に重要)  軍事侵攻を境目に大きな変化がありました。  ウクライナ語が母語だと答えた人は2021年に77%、2022年には87%に増えました。  私がウクライナ人だと示すためには母語がウクライナ語だと答えています。  

②戦争は言葉の意味を変える。  沈黙です。  静かだと今から爆発音が聞こえるのではないかと考えてしまう。  攻撃を受けるとお互いに大丈夫か確認する。  沈黙は死だと思ってしまう。  シェルター内ではざわざわしている。 話をすることによって、生きている感があるんです。   沈黙は終わり、死と言う意味もあるので、ウクライナ人は静かな環境が怖い。 電話で親が生き残ったか聞いて、沈黙は一番嫌な意味です。 戦争が持ってきた新しい意味です。  静寂と沈黙をやすらぎと感じますが、ウクライナ人は戦争によって恐怖に変ってしまった。  

③言葉から見える潜在意識。  日本に避難してきたウクライナ人30人に調査をしています。  ウクライナ語を話す人とロシア語を話す人、それぞれに自由に話をしてもらいと言う実験。  頭に浮かぶものを教えてもらう。  ロシア語を話す人の方がよろいネガティブなことを言った。(悲しみ、怒り、攻撃的な言語)   ロシア語は話したくなくて、ウクライナ語を話したいが上手く話せない。  相手に影響を与えるために言語は使います。(説得)   ロシアは説得機能をよく利用していて、ウクライナ人はそれがすごく怖いです。  ウクライナは存在の危機にあり、文化も存在危機にあり、ウクライナ語も存在の危機にあります。  ウクライナ語を使い続けるという事が、自分らしさ、アイデンティティーを守るための武器になる。  言語は国境。 

家、心の居場所でもある。  家庭からアイデンティティーは生まれてくる。  仲間が同じ言葉を使うと家の気持ちが強い。  言葉は心の居場所でもある。  破壊された家を建て直しても気持ちが戻れない。  占領されたところには戻れない。  多様性、いろいろなバックグラウンドの人たちがいるという事を意識しましょう。  自分の言葉を捨てないで、出来るだけ自分の文化を守りながら、相手の言葉を勉強する事が一番いいですね。 知らないから知る努力をする、知ることから平和が始まると思います。 









 













2025年9月17日水曜日

渡辺司(プロゴルファー)         ・〔スポーツ明日への伝言〕 ゴルフこそ人生、いくつになってもやめられない! 後編

渡辺司(プロゴルファー)         ・〔スポーツ明日への伝言〕 ゴルフこそ人生、いくつになってもやめられない! 後編

 渡辺さんは日本のゴルフツアーの安定した実力派プレーヤーとして19シーズンに渡って、シード権を維持しながら2勝、更に50歳以上のシニア―ツアーではメジャー大会の日本シニア―オープンなどを含む5勝を挙げてきました。 ところが2023年11月左ひざ半月板の手術を受ける際の血液検査から多発性骨髄腫と診断されました。  多発性骨髄腫とは、血液細胞の一種である形質細胞ががん化し、症状がひどくなると骨の破壊や腎障害を起こす恐れがあるとされます。 それでも10か月の治療とリハビリの結果ゴルフを再開できるようになって、今年は開幕からツアーに復帰しています。 

勝つことと二位であることにわけてきたのは、「足して二で割る。」と言うゴルフを長年やってきましたが、そのなかで僕も優勝したいという気持ちがない訳ではない。  一つの大きなテーマ、家のローンが終わるまで(56歳ごろ)はと言うものがありました。 シニアーになって2年間で12試合3年目で8試合しかない。  この3年間(20試合)で僕は3回優勝しました。  20年やって2回しか優勝しなかった人間でしたが。  シニアーになったら「足して二で割る。」ゴルフを辞める勇気が湧いた。  順位を落としてでも上を狙うのが競技者かもしれませんが。   ここは攻めるのか、刻んで安全に行くのか、ゴルフのどんな場面でも頭にあります。  

49歳で肩を痛めました、(50肩)  試合をしながら治療をするのは効果が薄いので1年間治療に専念して、50歳でシニア―ツアーに出る時には肩の痛みを感じないでゴルフができるようになりました。  多発性骨髄腫を見つけてくれたのは整形外科の先生でした。  半月板の手術を受ける際の血液検査で積極的な検査をして頂きました。  多発性骨髄腫と診断されました。  膝の手術は2023年1月に行いました。  多発性骨髄腫に関しては、急に治療をしなくてはいけないのかどうか聞いたら、直ぐにやらなくても定期的な検査を受けて1年経って12月に検査を受けた時には何ともありませんでした。  その間試合にも出ていました。 自覚症状は一切ありませんでした。  腕が痛くなって先生のところに行ったら腕の骨がぐずぐずになっていました。  そこから多発性骨髄腫の治療が始まりました。(2024年1月から)   肩の部分を切って骨の中に髄内釘?という金属を入れて固定して、手術が終わって、抗がん剤の治療を始めました。  それから1年8か月ぐらい経ちましたが、先生からは普通に暮らしていいという風に言われました。  ゴルフはやっていますが、免疫力が落ちているので、過度に疲れないようにとは言われています。

最初バンカーショットでは思っているところにクラブが降りないんです。  半年はかかりました。  ドライバーの方が簡単でしたが、250ヤード飛んでいたのが180~200ぐらいしか飛ばないんです。  試合復帰は2024年9月の大会でしたが、試合に出ると言うよりゴルフ場にリハビリに行くというような感じでした。  

2009年シニアーオープン優勝。   初日73,2日目68,3日目66で9アンダーで単独トップ、2位と一打差。  一緒に回る筈だった腹痛で参加しなくなり、代わりの人(アマチュアのクラブチャンピオン)と一緒にまわることになったが前半その人が35で回って、僕は36でその人に負けてしまって、絶対この人には負けたくないと思って回ったら、30でした。  最終日は後半は凄い雨になりました。  最終ホールのグリーンは歩くとぴしゃぴしゃするような感じで、ボールは転がらないだろうなと思って打ったら、意外と転がって1m50近く残りました。  このパットが外れると4人のプレーオフになるので、このパットが入らないと僕の負けなんだと思って最後打ちました。  入ることが出来ました。

青木さんに練習ではこんなにうまくいくのに本番では全然うまくいかない、どうしてか聞いた時に、青木さんは「練習で100回やって100回成功する事が、たった一回の本番で失敗するのは当たり前なんだ。」と言いました。  「練習は地面の上に敷いた30cmの幅の板だと、試合と言うのはこの地面の板が状況によって10mにも20mにも50m、100mにあがってゆく。  足を踏み外した落ちてしまう。  地面で足を踏みはずしても何も起きないだろう。  自分にとって失敗に対する恐怖心が手を動かなくさせる、身体を固くする、地面の上を1万回歩いても身に付かない。  本番で板の高さが高くなるという事は自分の進歩なんだ。  マイナスではない。  ビビるということは進歩なんだ。  そこを歩く様にするためには這ってでもいいからそこで前に進むしかない。」 と言われました。   よく平常心を保てと言いますが、緊張状態から平常心に戻るのではなくて、緊張状態の上に興奮状態があるんです、この興奮状態が僕の思うゾーンなんだと思います。  戻ろうとするとこのゾーンには入れないんじゃないかと思います。 青木さんと言う偉大なる目標が僕の道の前を歩いているので、追いかけたいなあと思います。











2025年9月16日火曜日

小野武彦(俳優)             ・石原裕次郎さんに憧れて            

 小野武彦(俳優)             ・石原裕次郎さんに憧れて

小野さんは1942年東京都生まれ。 俳優座養成所(15期生)を卒業後文学座に入団し、舞台を中心に活動、1960年代後半から映像の世界でも活動を始め、数々の映画やドラマに出演、特に倉本聰さんの作品に数多く出演しています。 その後1997年に出演した「踊る大走査線」が大人気となり欠かせない存在となります。  名脇役として活動する中で2023年映画「シェアの法則」で初主演、話題になりました。 

83歳になりました。  「大都会」は33歳でパート1でレギュラーで入りました。  倉本聰先生がメインライターで地味なもので刑事ものと言うよりは、組織の人間の末端を書いたようなものでした。 刑事ものを31本やりました。 それから刑事ものが50年途切れませんでした。  最近はおじいさん役が多いです。 

12歳のころに狛江市に住んでましたが、近くに東欧一の真っ白なかまぼこ型の日活の撮影所が出来ました。 見にいっているうちに裕次郎さんに憧れてしまいました。  学業の合間にエキストラとして撮影所に通う日々を送った。  映画も見るようになり、しっかり演技をする人たちを調べてみると新劇の人たちでした。  俳優座養成所へ行きたいと思って受けることにしました。(3年間 15期)  養成所の後は映画、舞台、ミュージカルなどいろいろな方面に行く人たちがいました。  その後文学座に行きました。  4月に入って稽古をして5月には抜擢されて出れました。  文学座は大所帯だったんですが、分裂して特に男優が少なかったので出れたのはラッキーでした。  文学座には4年間いました。  映像の方もやってみたいという思いがありました。  映像の世界でも俳優座の先輩の方がいて有難かったです。

2023年映画「シェアの法則」で初主演となりました。  地味ですが,観た方は感動してくださいます。  10月で2年になります。  奥さんがシェアハウスをやっている夫の役です。  妻が倒れたので替わりに面倒を見ることになる役です。  「冬へのパッサカリア」北海道を舞台にした3つの物語からなる、美しくて静かな余韻の残るオムニバス作品。 その中の2番目の「記憶とリゾート」に出ました。  幼いころに河童を観たという事で場所を訪ねるという話です。(実話)  北海道は河童伝説の多いところです。 

普通に平凡に生きて来た人間が、たんたんに生きているみたいな、これと言った事件も起こったりはしないけれど普通に生活している、でも生きているっていいなと思ってもらえるようなものをやってみたい。(それでもドラマはある。)  皆さんにも共通するようなものを表現できるような映画をやりたいと思います。















 

2025年9月15日月曜日

江上剛(作家)              ・〔師匠を語る〕 作家・井伏鱒二を語る

 江上剛(作家)              ・〔師匠を語る〕 作家・井伏鱒二を語る

江上さんは小説「非情銀行」でデビューし、銀行員から小説家に転身しましたが、江上さんが師と仰ぐのは「山椒魚」「黒い雨」で知られる昭和の文豪井伏鱒二です。 井伏鱒二と江上剛さんとはどんな関係だったんでしょうか。 

「屋根の上のサワン」というエッセイみたいな小説ですが、教科書に載っていてそれを読んだ時に、田舎で育ったんですが、青春時代に時代の閉そく感みたいなものを感じて、そういったところから旅立ちたいとう思いが、先生の小説と共感するものがあったんだと思います。 

井伏鱒二は1898年(明治31年)広島県福山市で生まれる。 本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。  上京し早稲田大学に進学しましたが、退学し同人誌で作家修行を開始、関東大震災の後一旦は帰郷したものの再び東京に戻り杉並区の荻窪に自宅を構えます。 井伏鱒二を師と仰いだ太宰治はこの家で結婚式を挙げてます。  「ジョン萬次郎漂流記」で第6回直木賞を受賞したのは昭和13年、戦時中は陸軍に徴用されて南方に派遣された時期もありましたが、47歳で終戦を迎えます。  戦後も作品を発表し続けて、昭和31年日本芸術院賞を受賞、原爆を題材とした対策「黒い雨」を発表した翌年昭和41年には文化勲章も受賞しました。  この「黒い雨」は今村昌平監督により映画化されカンヌ国際映画祭でフランス映画高等技術委員会賞を受賞したほか、20を越える言語に翻訳され今も世界中で読まれています。東京杉並荻窪の自宅近くの病院でなくなったのは1993年(平成5年)7月10日、95年の生涯でした。

早稲田大学に入った昭和47年、当時連合赤軍の事件、榛名山のリンチ殺人事件があったり、学生運動が内ゲバの時代になっていました。  早稲田大学も荒れていました。 井伏鱒二論を書こうと思って、「黒い雨」などを読んでいました。  先生に会おうと思い、公衆電話で先生に電話をしました。  そうしたら簡単に「来なさい。」と言ってくれて自宅まで行きました。  家は平屋の簡素な家で、表札が名刺の後ろで画鋲で止めて「井伏」と書いてあったんです。(一番びっくりした。)  ウナギ屋さんからウナギを取ってくれて、ジョニ黒のウイスキーを出してくれました。  早稲田の学生が来たのは太宰以来だと言ってくれました。 ざっくばらんにいろいろな話をしてくれました。 (原稿料が上がらないと言った話まで。)

太宰の話が多かったです。  文学とはと言うような大上段に構えたテーマになると、太宰は崩していた足を正座して聞いたとか、原稿用紙をピンクのリボンで綴って持ってきたとか、そんな話を聞きました。  古典を読みなさいと言われて、ロシア文学、ドフトエフスキーとか、プーシキン、ツルゲーネフとか古典を読みなさいと言われました。 「黒い雨」は静馬(重松静馬)さんと言う姪の方の日記がベースになっている。(本のなかでは「閑間重松」」となっている。)  先生は「あれは小説ではない。」とおっしゃっていました。  「小説では書けなかった。」と。  何とか姪を結婚させようと原爆症にはかかってないよと、黒い雨は浴びてないよと、何とか証明しようとしたが、それが無駄になってゆき、最後は鯉が遡上してゆくシーンで終わるが。 我々から見ると小説の極みと思うが。  

「非情銀行」で作家デビューしたのが2002年、井伏鱒二邸を初めて訪れてから30年後のころになる。  小説家になりたいなんて言う事は先生には一度も言った事は無いです。  ドフトエフスキーとかずーっと読んでいました。  先生のところにブラっと訪ねてゆくのが楽しみでした。  「小説家と言うものは文体を確立することに苦労する。」とおっしゃっていました。  飲むのは良く二人でした。(文豪と18歳ぐらいの青年  年齢差56歳)   よくフラッと訪ねて行きました。  丹波の田舎から親が松茸を送ってきたので、先生のところに持っていきました。  先生が「一緒に食べよう。」とおっしゃったんですが、「留年している身であるし、一緒には食べられない。」と言うと、「お前がまともになるまでこれを預かっておく。」と言うんです。  「佃煮にしておく。」とおっしゃったんです。 まともに就職が決まったりしたらご報告にまいります。」と言って家を後にしました。  1977年第一勧業銀行に決まりました。  報告に行きました。  奥さんが小さな器に入った黒い煮しめを出しました。  先生が「これは去年君が持ってきてくれた松茸だよ。」 とおっしゃったんです。 涙があふれました。   「兎に角小説はいつでも書けるから、大阪は商売人の街だから商売をしっかり覚えておきなさい。」、と言って革靴を二足買って下さいました。 その靴を履いて銀行員として頑張りました。  銀行員の忙しい時代は訪ねるのは少なかったです。  手紙のやりとりはしていました。 

先生の訃報を聞いた時には、もうこれで会えなくなったのかと、本当にさみしさがありました。  残念で残念で泣きました。  「小説は頭ではなく胸三寸で訴えるものを書くんだぞ。」とおっしゃっていました。  今でも古典を読んでヒントを得たり、自分考えを正したりすることは多いです。  先生の作品は心に沁み込んでくるよいうな作品が多いですね。 詩集にはすごく影響を受けました。   自分の人生の生き方で影響を受けたのは多いですね。 にっちもさっちもいかなくなった時に、あの詩のように廊下を靴音高く、靴ひもをしっかり締めて廊下を前向いて歩けばいいんだという事をいつも思いました。 

井伏鱒二への手紙

「井伏先生、・・・何故井伏先生は貴方を受け入れたのか、私はどう答えていいかわかりませんでした。 先生に初めてお会いしたのは、1972年 のことです。 ・・・・・先生のファンだと言って公衆電話から電話をしました。 ・・・電話口に出られた先生は「直ぐ来なさい。」と一言、嬉しかったのを覚えています。・・・何よりも表札が名刺の裏でしたね。 先生は表札を取ってゆくものがいるんだよ、受験のお守りかね、僕の表札なんかお守りにならないのにと笑っておられましたね。私は小説家希望だとは一言も言いませんでした。 原稿もお見せしたこともありません。 それなのに先生は古典を読め、小説は胸三寸で書け、小説はいつでも書けるなどと、小説家としての心構えを話してくださいました。あれは私の中に将来小説家になる兆しめいたものを見つけてくださっていたからでしょうか。・・・どうかいつまでもお守りください。」











2025年9月14日日曜日

宮川純(ブラインドダンスチーム代表)   ・広がれ!ブラインドダンスの可能性

宮川純(ブラインドダンスチーム代表)   ・広がれ!ブラインドダンスの可能性 

ブラインドダンスは視覚に障害のある人が行う社交ダンスで、日本が世界に先駆けて2006年から競技大会を開催、今年も今月23日に東京で全日本選手権大会が開かれることになっています。 宮川さんは東京都出身の47歳、30歳の時に糖尿病が原因で視力を失いました。   10年ほど前グラインドダンスに出会って以来、その魅力を伝えようと普及活動に取り組んでいます。 今年の2月には耳の聞こえないパートナーとペアを組んで華麗なステップを披露し、話題になりました。 

ブラインドダンスは視覚障害者の方と目の見える方がペアを組んで踊る社交ダンスになります。 リーダー役が視覚障害者のペアと、パートナーが視覚障害者に分かれるリーダー部門、パートナー部門に分かれて踊る社交ダンスをブラインドダンスと呼んでいます。  2006年に公益社団法人日本ダンス議会(JDC)の当時の会長がゴルフのコンペに行った際に、視覚障害の方がゴルフをやっていたのを見て、社交ダンスにも視覚障害者がやっている人がるのではないかというのがきっかけで、全国的に調査をしたところかなりの人数がやっていることが判って、やろうという事になりました。(2006年)  ブラインドダンスはワルツ、タンゴ、チャチャチャ、ルンバの4種目で競技会が行われます。  

生まれた時には未熟児でした。  母が心配して1歳でベビースイムをやらされて、中学途中まではずっと水泳の選手でした。  水泳、野球、ラグビー、サッカー、ゴルフなどやりました。  小学校6年生の時には180cmあり、その後は伸びていません。  30歳のころに飲食店をやっていて、以前から糖尿病があり、30歳の時に足に大やけどをして血糖値のコントロールが狂ってしまって失明してしまいました。  10か月で全盲の世界になりました。  見えなくてもきっと新しい扉が開けるのではないかと思いました。  白杖、スマホ、パソコンの使い方などを勉強しました。  友達からの協力もありました。  入院中の方がメンタル的にはきつかったです。 その間に20回ぐらい手術もしました。 

東京都盲人福祉協会に訓練部があり、まずは白杖を手に入れる事から始めて、歩行訓練をしました。  中途失明の人は早くても2年ぐらいは掛かると言われますが、僕は2,3か月であちこち歩きまわりました。 バリアーフリーと言う言葉は知っていましたが、自分でなってみると、こんなことも社会はしてくれないのとか、こんな状況なのかという事を感じました。 東京都盲人福祉協会の役員になって、視覚障害者の役に立つようにやっています。 理不尽なことも経験しました。  飲食店は一緒にやっていた仲間に渡しました。 

2005年12月に視覚障害者の女性から社交ダンスの見学に行きたいという事で一緒に行きました。 視覚障害に仲間を社会参加させるきっかけになるのではないかと感じました。(コミュニティーの場)  社交ダンスを指導する先生と一緒に作り上げていきました。 入院中は68kg迄体重はおちて、その後105kgまで増えてしまって、ダンスを始めた当初は100kgぐらいありました。  ダンスを初めて半年で87kgまで減り、今は84kgです 

5名でスタートして、2025年8がつで 51名いて半分が視覚障害者、半分がボランティアだったりします。  バリアーフリーで一番大切なことはそのバリアーを知る、学ぶという事だと思います。  ブラインドダンスは共生社会の縮図みたいなもので、障害のある人とない人が手を組んで一緒に一つのものを達成されているところだと思います。  ダンス以外の周りの時間も大事です。  一般の競技会に出て頑張っている人もいます。  それぞれの障害を持っている方がもっと連携できると世の中がもっと変わるのではないかなと思います。 ここに風穴を開けたいと思っています。  ブラインドダンスとデフダンス(聴覚障害)に挑戦を始めました。 僕が彼女の耳の役、彼女が僕の目の役(互いに補いながら踊る。) 僕のダンスのパートナーの清水が手話通訳が出来るので、手話でのコミュニケーションで爆発的にダンスのスピード感が上がりました。  今年の2月に国際的な大きな大会があり、そこでブラインドダンスとデフダンスをやらせていただきました。  

今年の6月にブラインドダンスをテーマにした電子コミックが出ました。 私も登場しています。 吃驚しています。 宮田君と言う準主役で登場します。  パラリンピックの種目になればうれしいと思っています。  7歳の時に母が他界していて、父も仕事の関係で海外に行っていることが多くて、周りの方に支えられて生きてきました。  回りの同じ境遇の仲間も助けられたらなあとか、そういった気持ちはあります。







  















 





2025年9月13日土曜日

秋尾沙戸子(ノンフィクション作家)    ・GHQと京都 ~進駐軍の記録と記憶を探して~

 秋尾沙戸子(ノンフィクション作家)    ・GHQと京都 ~進駐軍の記録と記憶を探して~

秋尾さんは30年余り前にNHK総合テレビで放送された「ナイトジャーナル」や民放のニュース番組でキャスターやコメンテーターを務めました。  民主の進む東欧やアジア各国を自ら取材、2000年インドネシア初の女性大統領メガワティ氏の半生を描いた著書『運命の長女: スカルノの娘メガワティの半生』でアジア太平洋賞特別賞、2009年には『ワシントンハイツ: GHQが東京に刻んだ戦後』で日本エッセイストクラブ賞を受賞しました。  占領下と民主化の研究をライフワークとしている秋尾さんが次に関心を持ったのは、GHQの西日本全体を統括する第6軍司令部のおかれた京都市で何があったのかでした。 秋尾さんは2013年に京都に移住、10年かけて体験者の証言を集め、去年12月著書『京都占領:1945年の真実』にまとめました。 京都で何があったのか伺いました。

ワシントンハイツと言うのは、戦後すぐに東京原宿駅の近くに誕生したアメリカ村のことです。  827個の木造住宅と学校や教会、野球のグラウンドなどが出来ました。 本国と同じような暮らしができるアメリカ村として建設されました。  元々は日本帝国陸軍の練兵場でした。  日本人が入れない禁断の地として20年近くありました。  そこを主役にして戦後の日本人が何故アメリカを好きになったのか、庶民の衣食住がアメリカ化されて大量消費社会に向かって行ったかを、日本とアメリカの資料、証言を集めて検証した本です。(『ワシントンハイツ: GHQが東京に刻んだ戦後』)

今回は続編の京都版。  死ぬまでに日本人としての軸を作りたいという思いと、歴史、地名などに疎い自分がありました。 母が63歳の時に動脈瘤破裂で急に亡くなり、祖母が選んだ素敵な着物がいっぱいあって、着こなすことで母とつながるかなあという思いがありました。 東京では着物は非日常的で、以上のような理由で京都に行きました。

ベルリンの壁が崩壊して、美しい涙を浮かべていたが、共産圏のことをよく知りませんでした。  東欧に向かいました。  共産党の一党独裁が崩れて何が起きるかという事を調べめした。 その後アジアを歩いて、インドネシアでは32年続いたスハルト政権の崩壊の場に立ち会ったりしました。  それを見てくると背後にアメリカの存在があるんです。 アメリカ目線で世界を観てみようと思って、アメリカのジョージタウン大学ワシントンD.C.)に行って外交を学びました。(2003年)  イラクにアメリカが侵攻した年でした。  占領が上手くいかなくて、私に何故戦後の日本の占領は上手く行ったのか、教授や周りから突き付けられました。  よくわかっていなくて、占領のことをきっちり調べようと思いました。  日本の占領期のことが民主化の成功例となって、アメリカは世界中の民主化に推進してゆくという感じです。 

『京都で、きもの修行 55歳から女ひとり住んでみて』は日本の伝統文化を判りたくて京都にやって来ましたが、京都の年中行事に着物で見学したりすると、現地の人と会話が始まります。 いろいろ勉強になりました。  行事では邪気払いが多いですね。  根本は人間は生かされれているという風に感謝しています。  神、仏、ご先祖、魑魅魍魎全部含めて見えないものに対するリスペクトがあるという事が物凄く勉強になりました。 

京都市にGHQの西日本全体を統括する第6軍司令部がおかれました。  大阪の伊丹空港が軍事的には重要拠点で大阪に置きたかったが、焼け野原になっていたので空襲が少なかった京都にと、海がなくて空港がないので攻められにくいという考え方もあったようです。 全国に40万人来ました。  安全が確認できると25万人になり、そのうち京都府は8000人で京都市には5500人がやってきています。  1945年9月4日に外務省からの要請で京都府庁の中に終戦事務連絡委員会、進駐軍受け入れ実行本部が配置されます。

9月25日に米軍がわっと入って来ます。  凱旋パレードをやりました。  何をやるのかわあkらないので怖くて女学校は休校になりました。  日本軍の第16師団が伏見界隈にあるのでまず接収しました。  四条烏丸の大建ビル?に司令部の執務室、北の方で暮らし始めています。  洋館が接収のねらい目になりました。  兵士の宿舎、病院、ダンスホール、クリーニング工場などになったりしました。  神道はお取りつぶしが凄く怖かった。  国家神道として戦争を支えてしまったので。  氏神信仰は悪くないという事で神社は残るが、政教分離で政治がスポンサーになってはいけないことになる。  京都には根強い噂が二つあって、①接収に関して、米軍は京都御所を狙っていた、②一人の官僚が京都御所を守った。

二点について調べ始めて、候補地はいっぱいあったが、最後に3つになります。  ①京都の競馬場、②府立植物園、③京都御苑(京都御所の周りにある、いまは公園になっている場所)京都御苑が取られないように右往左往している時に、私は凄い文章を見つけてしまいました。  宮内大臣の松平さんが「どうぞ御苑を使ってください。」というサインが入った文章が英語と日本語で出て来たんです。  宮内庁に行ってどうにかしてほしいという事で、課長さんたちが行って交渉したがそうはひっくりがえらないので、吉田総理大臣の名前で御苑の代わりに、植物園を勧める文書を出して、事なきを得た。 ワシントンハイツに比べると規模は小さかったという事です。 

上賀茂神社、戦前は一般の人は二の鳥居の中には入れず、皇室に近い神社だった。(聖域指定)  突然行政からゴルフ場にするという話が入ってきた。  御神木が切り倒された。    京都にはシェフィールドと言う軍政管が、知事と同じようなポストでいたが、彼が死ぬほどゴルフが好きで、ゴルフをするのには5時間かけて宝塚まで行かなければいけなくて、京都に作ってしまえばいいという事で、伐採にやって来る。  その場所は葵祭の重要な神事をやる場所がその中に含まれていた。  抵抗が出来なかったが、10か月して中止命令が来た。 予算が2億7000万円という事で、吉田総理がGHQに文句をつけて中止になったという風に記録が残っています。 大蔵大臣の石橋湛山が地方の占領軍は金食い虫だ、このままでは日本の経済が持たないという事で国会で訴えた。  GHQ本部からではなく地方で勝手に動いたという事でシェフィールドは後に軍法会議にかけられて降格させられる。  シェフィールドは執念深く動いて、第3セクターが動いて3000万円でゴルフ場を作ることになる。

地方とGHQの攻防があった。 米軍から守った人とそこで儲けた人もいた。  戦争で亡くなったり、空襲で亡くなったりした家族は米軍憎しだが、被害に遭わなかった原宿エリアの人たちは、日本軍への不信感が半端ではなかった。  目の前にアメリカの豊かな暮らしを見せつけられると、アメリカのデモクラシーを受け入れた方が豊かな暮らしが待っているのではないかと言う風に考えて、素直に受け入れたという側面が一つあります。  アメリカ兵は子供たちとの交流が楽しかったようです。  「日本という国に恋をした。」と複数の人が言っていたようです。  京都が余りメリカ化が進んでいない。 それはGHQが植物園のなかにあったからよかったんだと思います。  余り接点がなかった。  京都に伝統文化が残ってるのは植物園の中に納まっていてくれたお陰ではないかと私は思っています。  とりあえず知っていることを書き留めようと思いました。














2025年9月12日金曜日

あまんきみこ(児童文学作家)       ・〔人生のみちしるべ〕 子どもの私は、ずっと戦争の中にいた

 あまんきみこ(児童文学作家) ・〔人生のみちしるべ〕 子どもの私は、ずっと戦争の中にいた

あまんきみこさんは昭和6年旧満州で生まれ、敗戦の2年後15歳の時に中国大連から日本に引き上げてきました。  あまんさんは2人の子供を育てながら物語を創作するようになり、昭和43年37歳で車のいろは空のいろ」でデビュー、以来60年近く子供たちに向けた作品を書き続けてきました。  その中には教科書で知られるちいちゃんのかげおくり」をはじめ、「鳥よめ」、「あるひあるとき」など戦争を描いた作品もあります。  戦後80年となる今年、あまんさんは「さくらがさいた」と言う物語を絵本として刊行しました。 この絵本は旧満州中国の大連と言う街から、敗戦後日本に引き上げる家族と犬との別れを描いた物語です。 あまんさんの子供の頃の体験がもとになっています。  出版した「さくらがさいた」について、子供たちに伝えたい平和への思いについて伺いました。

「さくらがさいた」は作るのに30年掛かったとあとがきにも記しています。  大連から引き揚げる時には金魚とか小鳥などは貰ってもらえるんですが、犬だけは貰ってもらえない。  家には2匹の犬がいました。  「レオ」は私と同じ年でした。 「ロン」は私よりも若い犬でした。  「ロン」?は他人に貰ってもらいました。  泣いた覚えがあります。 「レオ」はそのままずっと家にいました。  引き上げる1週間前ほどで永眠しました。 お墓に埋めて、父が「これで思い残す事は無くなったなあ」と言ったんです。  その言葉が子供心に沁みました。  このことを書こうと思いました。  書きたかったことが書けた時にはホッとします。  

人と言うものは年輪のように幼年時代、子供時代があり少女時代がありそれに全部自分が抱え持っているんだなと気が付きました。(40代)  50歳の時にちいちゃんのかげおくり」、1999年に「おはじきの木」、2014年に「鳥よめ」、2020年には「あるひあるとき」、2025年に「さくらがさいた」を出版。 

私が生まれた時に満州事変が起こっています。  子供時代はずっと戦争の時代でした。   私は自分のことを書けないんです。  戦後教育が真っ逆さまになり、これは本当にショックでした。  私たちは平和のための戦争と習っていました。  満洲のことは知らなかったので国会図書館に行って調べました。  兵隊にとられて亡くなったり、集団自決が有ったり沢山の人が亡くなっています。  開拓団の人たち棄民のこととか、読めないで涙が出ました。  私が苦労したとかそういったことはないんです。  自分自身としては書けないが、自分が小さくなったら書けたんです。(幼少期)   

引き揚げてきて熱が出て、目が覚めてみたら広島の風景を観ました。  原爆と言う言葉は知らなくて「新型爆弾で広島はなくなった。」と父が言っていました。  93歳になり、もう亡くなった人も多くてお祈りするために生きていますと言っています。  物語に込める思いは、戦争だけはいけない。  殺される前に殺すというのが戦争の原則です。  戦争のない世界になって欲しいと思います。  

自分の中に思っていることが出てくる時、書けると言った感じです。  書きたいものはたくさんあるような気がするが、それが一つになる時と言うのはそんなにないんです。  子供の頃は身体が弱かったので本を読んでいました。  本を読むことによって扉を開けて向こうの世界へ行ったり戻ったりしていました。  戦争がない世界でないと一杯笑えない。 子どもが笑うという事が一番素敵です。