2025年9月4日木曜日

松原始(東京大学総合研究博物館 特任准教授)・あなたの知らないカラスの話

 松原始(東京大学総合研究博物館 特任准教授)・あなたの知らないカラスの話

とかく嫌われがちなカラス。 動物行動学者の松原始さんはそんなカラスに興味を持って30年以上もカラスの研究を続けています。 驚くべき学習能力の半面、意外とお茶目で間抜けな面もあり、その興味深い習性や行動からカラス本来の姿を知れば一番身近な野生動物カラスとの共存共生を考えるヒントになると言います。  9月6日のカラスの日を前に松原さんにカラスの知られざる魅力とカラスと上手に付き合うヒントを伺いました。

9月6日はカラスの日  96で「クロウ」Crow 、黒いから「黒う」です。 カラス友の会があります。  子供の頃から動物は好きで、家の近くにカラスのねぐらがありました。  下から「カア」と言ったら返事をしたような気がしました。(小学生) 大学に入って何か研究してみようと思って、カラスを観かけ始めたのがきっかけです。  東京大学総合研究博物館では空き時間にカラスの研究をしています。 

カラスは世界で45種、47種とか言われていて、日本では7種類で、そのうち2種類は迷鳥と言って迷子で来てしまったもので、定常的には5種類です。 繁殖しているのがハシブトガラスとハシボソガラスの2種類です。 (くちばしが太いか細いか)  東京都心部で見かけるカラスはほとんどホシブトガラスです。  くちばしが曲がっていて長い、「カアカア」と鳴きます。  ハシボソガラスはくちばしが細くて真っすぐ、鳴き声がひしゃがれただみ声です。 河川敷とか芝生、農地とかが好きです。 ホシブトガラスは元々が森林性の鳥なので地面があまり好きではない。  電柱、ビルとかに止まっている時間が長い。  地面にはいい餌がある時だけ降りてくる。  1970年代からハシボソガラスは東京からは消えていきました。

カラスの産卵は1年に一回です。  ハシボソガラスが3月中、ハシブトガラスは4月です。 4~5個産みます。  孵化まで20日ぐらいです。 雛から巣から出てくるまで一か月ちょっとかかります。  赤ん坊が立っち出来るぐらいで、独りでは何にも出来ないです。 巣立ってから何か月かは親元にいて餌を貰ったりしています。  独立するのが夏の終わりから秋ぐらいです。  若いカラスの集団がありそこにどんどん入って行きます。  順位付がありよくケンカしています。  順位が高いと餌を得やすいし、女性にも持てます。  メスの方にも順位付けがあり強いメスには弱いメスはプロポーズも出来ない。( 寄って行くとほかのメスに怒られる。) 

ワタリガラスと言う種類は寿命が60年を越えます。  ハシブトガラス、ハシボソガラスは飼育していると40年ぐらいです。  野生ではっきりしているのが19年4か月です。  基本的には一夫一妻で仲がいいです。  死別すると再婚という事もあります。  離婚と言う例もあります。  基本的には夫婦でテリトリーを持っていて、そこにはほかのカラスを入れないというのが繁殖個体の生活です。  巣は普通は木の上です。  巣の材料は基本は木の枝です。 ハンガーを使う事が良くあります。  

カラスは夜明けの1時間前ぐらいから起きています。  暗いうちにえさ場まで行きたい。   カラスは雑食性です。  果実類、昆虫、 動物の死骸、他の鳥の卵、雛などです。  渋谷、新宿は凄い餌場です。  高カロリーが好きで油類が好きです。  カラス対策でゴミ類が減って来ています。  猫缶とか、ドックフードを食べに来ています。  カラスは一日一回は行水をやっています。  餌を食べた後は必ず口を拭いていて綺麗好きです。 陽が完全に落ちる前にねぐらに帰って行きます。  

学習能力は相当高いです。 記憶も相当いいです。  1年経っても覚えています。  物事を関連付けて覚えるという事もします。  好奇心も強いです。  人の顔も見分けています。   カレドニアカアスは道具を使うことで知らています。  道具を自分で作って使う。  倒木にカミキリムシの幼虫が入っているので、大きな葉っぱの真ん中の軸だけを残して噛んで先っぽを曲げるんです。  それを穴に入れて動かして幼虫が噛みついたら引き上げる。  車にくるみを轢かせるのは日本のハシボソガラスだけです。  

ハシブトガラス、ワタリガラスは物まねが特にうまいです。  電線で大車輪みたいな遊びをしているのも見かけます。  滑り台で滑り落ちてきたりもしています。  みかんを咥えていてほかのカラスが「カア」と鳴いたので、「カア」と鳴いたらみかんを落としました。    線路に置き石をする行動ですが、 線路の敷石の下に餌を隠してあり、 石を咥え上げてそこにレールがあるのでレールの上に取り敢えず石を置くんです。  そこに列車が来るとカラスは逃げる。  石だけが残って置き石になっていた。     カラスが襲ってくるのはカラスが子供を守る時だけです。  声を出したり、頭をかすめるように飛んできて、気の荒いカラスでは頭を蹴ります。  後ろから襲います。 

脂分が好きで、石鹸を持ってい行ったり、ロウソクをもっていったりします。  ゴルフ場でゴルフボールを咥えて行くことがありますが、卵と間違えているのかもしれません。    ビニールの袋の中にはいいいものが入ってい居るはずだという事をよく知っています。  赤、オレンジ色は果物が熟している色なので食べたくなる色です。  荒らされたくないので、 カラスの死骸みたいなもの、キラキラしたものを置いても、一時的には嫌がられるが慣れてしまいます。  物理的にゴミに触れさせない。  

カラスの名前の由来は、「カラ」がおそらく鳴き声です。  「ス」は鳥を意味する言葉だと言われています。  世界中でカラスを意味する言葉は鳴き声から来ていると思われます。   カラスの羽根の中にメラニンの顆粒が大量にあって、地の色として黒に見えるが、羽根の表面にケラチンの層があって、これが光を散乱させていて、光沢がのります。  サッカーの日本代表のユニホームにカラスがシンボルマークになっているが、日本神話に出てくるヤタガラスから来ていると思います。  カラスの天敵は大型の猛禽類と大型のフクロウですね。  カラスは食べられますが、それほど美味しくはない。  カラスを飼う事は基本的には駄目です。  カラスの本来の姿をもう少し知って頂けると、そこまで怖いものではないという事が判ってもらえると思います。







  

2025年9月2日火曜日

松本隆(作詞家)             ・作詞活動55年

松本隆(作詞家)             ・作詞活動55年 

松本さんは1949年東京都生まれ。 1968年細野晴臣、小坂忠柳田博義、菊池英二らとエイプリル・フールを結成し、その後細野、大瀧詠一鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成します。1970年アルバムはっぴいえんど」をリリース、日本語ロックを初めて作ったバンドとして評価されました。  はっぴいえんど」解散後は作詞家に、アグネスチャン、太田裕美、松田聖子、近藤真彦などに歌詞を書き、多くのヒット曲を生んでいきます。 作詞した作品は2100曲以上、今年作詞家生活55周年を迎えました。 

英語のカバーが多くて、英語のカバーをやっているんだったらあまり意味がないと思って、自分たちの言語でロックでもフォークでもやった方がいいんじゃないかと思いました。 はっぴいえんど」では遠藤賢司に最初に会いました。  その後はっぴいえんど」の構想が固まって来ました。  その後はっぴいえんど」が解散して作詞家になります。  中学生ぐらいから文学青年でした。  詩なんて書いたことなかったんですが、はっぴいえんど」のファーストの「ゆでめん」です。 自分にとっても第一作品です。  

男性向けの詩としては南佳孝と鈴木茂が多かった。  女性向けと男性向けは区別して書いています。 絵を描くことも好きでしたが、中学3年生の時に断念しました。  ロックの方に進むんですが、父は南九州財務局長、仙台銀行相談役で、硬い人でした。  僕が大事にしたのは五感なんです。  普通音楽は耳から入りますが、それ以外に記憶とか匂いとか、強いじゃないですか、触った感じも大きいし、それで五感を大事にして、それと絵ですね。  背景に何があるのかという事が非常に重要で、海があるのか都会があるのかとか。  あと物語です。 物語を軽く見ているが、物語は非常に大きいです。  それを教わったのが「ウエス・トサイドストーリー」です。(派閥があって人種問題があるとか、シェークスピアのパクリだとか)  

キャラクターを書き分けると言うようなことはないです。  「赤い靴のバレリーナ」で甲斐さんが歌ったのと松田聖子さんが歌ったのでは、景色の見え方、ストーリーが違う。

「赤い靴のバレリーナ」  歌:松田聖子

「赤い靴のバレリーナ」  歌:甲斐祥弘(作曲)

「風をあめて」(はっぴいえんどの楽曲) 映画の主題歌でっ全世界封切りだったから、日本語のままで皆覚えちゃう。  歌が勝手に独り歩きして世界中をさまよっておるみたいな、そういったのが好きです。 (企業とかが関わらない。)  

55周年コンサートを行います。  カバーも新しい命を貰っているような感じがするので、そういうのもありかなあと言う感じです。  

「白睡蓮」新曲   歌:氷川きよし


















2025年9月1日月曜日

松谷直美(NPO法人 代表)         ・盲ろう者と生きる喜び

 松谷直美(NPO法人 代表)         ・盲ろう者と生きる喜び

松谷直美さんは昭和21年中国東北部の生まれ、生後3か月で帰国し、福岡県で育ちました。  上京して就職、結婚して子宝に恵まれしたが、長女を生後4か月で亡くし、悲しみのどん底にいました。  次の年に出産し、子育てが落ち着いたころに手話を習い始めます。   講習会で目と耳が不自由な盲ろう者と出会たことを機に、35年前から盲ろう者と交流し、手話通訳や介助を始めます。  視覚と聴覚に障害があっても盲ろう者の夢を叶えたいと20年前にNPO法人を設立し、共に楽しめることを行ってきました。  盲ろう者の心の声に寄り沿って、活動20周年を迎える松谷さんの思いを伺いました。

盲ろうの方と触手話と言って相手の手を触って、相手が言いたいことを汲み取って、自分が言いたいことを手話で伝えるというコミュニケーションをしています。  盲ろうの方は色々なコミュニケーションがありますが、手話、触手話など。  視覚と聴覚の両方に障害の有る方は総称して盲ろう者と言います。  全国で約1万4000人いると言われています。  盲ろうの程度によって4つに分けると、①全盲ろう、②盲難聴(全く見えなくて少し聞こえる。)、③弱視ろう(少し見えて全く聞こえない。)、④弱視難聴(少し見えて少し聞こえる。)

NPO法人「夢叶えたい」の活動をするには仲間がいないと活動できないので、事前準備があります。  歴史が好きな方がいて皆さんに説明するために、画用紙に前日に一睡もせずに作るんです。  チームワークで活動をしています。  盲ろうの方が6人いて会えるのが楽しみです。  通訳介助員も一緒に参加します。  

昭和21年中国東北部に生まれしたが、高校生になるまで全く知りませんでした。  母が晩年に話し始めました。  姉夫婦が満州にいて、牡丹江と言うところで布団屋さんをやっていたそうです。  義兄が出征てしまって心配になって牡丹江に言ったという事でした。 ソ連が侵攻してきて街が炎に包まれてしまった。 貨物列車で逃げて鉄嶺と言う街に着いた。  昭和21年3月に私は生まれました。 何とかして私を連れて日本に帰ってきた。  それがあるから人に優しくできるのかなあと思っています。  6月に戻って来て福岡の母の兄の6番目の子として私を入籍しました。  母が結婚した時に私が養女となって入籍されています。  それを知ったのは高校に入学するときに戸籍抄本が必要で、それを見たら養女となっていました。  父は家庭のある人だった。(母の姉からの説明)  自殺しようと思うくらいショックでした。  家にいてはいけないと思って、高校卒業したら家には居ないと決めていました。 

卒業後、東京で就職しました。  結婚して男の子が二人。3番目が女の子です。 その女の子が生後4か月で亡くなりました。  保育所でミルクが器官に詰まって亡くなってしまいました。  翌年次女を出産して、この子は絶対自分の手で育てるんだと思いました。  小学校について行ったら、娘に「ついてこないでくれ。」と言われてしまいました。  会社も辞めていたし暇なので世田谷区の手話講習会に行きました。  地域で手話通訳として活動するのと手話講習会の助手をやるようになりました。  会場の入り口で白杖を持った男性が白杖を持った全盲ろうの女性を手引きしてきました。  場所を間違えたのではないかと声を掛けたら、手で何かやり取していて、「今日はお招きして頂いてありがとうございます。」と言ったんです。  その人は講師の一人でした。 衝撃的でした。 自分の不甲斐なさを感じました。   

生まれて初めて弱視ろうの手話通訳をしました。  その人からFAXが入って新宿で待ち合わせをして欲しいという内容でした。  35年前だったので当時は盲ろう者を支える制度は全くありませんでした。  ガイドはしたことがないので必死でした。(2時間のガイド)   ガイドヘルパーの研修を受けました。  

①視覚障害が先に起こって聴覚障害を伴う場合「盲ベースの盲ろう」(多くは点字を習得している。)コミュニケーション方法としては点字、指点字 ②聴覚障害に視覚障害が伴った場合は「ろうベース盲ろう」(多くは手話を習得している。) 手話、接近手話(見える位置での手話)  全盲ろうになった場合は触手話、パソコン通訳(最近多い) ③先天的又は乳幼児時期に発症した場合を「先天的盲ろう」 コミュニケーション方法としてはローマ字式指文字、成人期以降に盲ろうとなった場合は、耳の近くなどで話す音声を用いたり、掌に書く手書き文字などがあります。  

苦労しましたが、点字の勉強もしました。(1年掛かってようやく読めるようになりました。)全国盲ろう者協会の職員になりました。   悩み相談も受けて、会社を首になって死にたいという人の説得を手話で3時間かけて必死でやったこともあります。  最後に同じような症状の会に参加するように促して、参加してその方は元気になられました。 その人は今は関東地域の代表をしています。  

NPO法人を設立しました。  皆さんに助けられてやっています。  東京都立つばさ総合高校総合学科のなかの福祉科で教えています。  盲ろう支援の大切さを伝えていかなければいけない思っています。  福井県にある社会福祉法人「光道園」(障碍者施設)につばさ総合高校では合宿に行きます。   今があるのは盲ろうの方に出会ったからだと思っています。   












2025年8月31日日曜日

涌井友子(新聞記者)           ・94歳 生涯現役新聞記者

 涌井友子(新聞記者)           ・94歳 生涯現役新聞記者

涌井さんは1931年生まれの94歳、静岡県藤枝市出身。  激動の戦中戦後、夢であった教師への道を諦め静岡鉄道に勤務、その後東京都中野区で新聞記者をされていた涌井啓権(ひろのり)さんと結婚され1974年に夫婦で地域に寄り添った新聞「週刊東京」を創刊します。  しかし創刊からわずか7年で夫の啓権さんが亡くなりました。  …?が全くないなか、夫の遺志を継ぎ4人の子供を育てながら、たった一人で続けてきた「週刊東京」は去年創刊50年を迎えました。  激動の時代を生き抜いてきた涌井さんの歩みと新聞記者としての思いを伺いました。 

元気で50年を迎えられたという事はありがたいです。  東京都中野区を中心に新聞をだしています。  中野区は独りで回るのには面積がちょうどいいです。  発行部数は2000部ぐらいです。  10日と25日付の2回です。  もう1342号になります。  考えの古い家に育って、約束したらやらなければいけない、嘘をついてはいけない、そういことが基本にあります。  新聞のことは全然知らない素人ですが、皆さんに助けられて続けてきました。  

子供の頃は父の集めた文庫本などを読みました。  子供の頃に親の発した言葉と言いうのは子供にとっては凄く大事なものだと思います。  成長してから感じます。 5人兄弟の下から2番目です。  母、叔母たちが教員をやっていて、姉二人兄も教員で自分でも教員になりたいと思いました。   学校の2年の時が終戦で、家庭の事情もあり教員にはなれなれず悔しい思いをしました。  教育体制が633に変る狭間で、代用教員になったものの2年過ぎて「もう来なくてもいいよ。」と言われてしまいました。  卒業証書を出した学校と出さなかった学校で教員になる道が分かれて仕舞いました。 

終戦の翌年、母が急性リウマチになってしまって、トイレも行けずご飯も食べられないので介護と、炊事洗濯、お風呂から全部しなければいけなくなりました。  母を見送って今度は父が倒れ父の看病をしました。  私が静岡鉄道に勤めることが決まってから父は亡くなりました。(20歳で就職)  務めるようになってそれまでとは180度変わった世界で青春を謳歌しました。  中野区に短歌会がありそこに通っていたら、或るローカル誌に社長から声を掛けられて、自分の部下に引き合わせる作戦で啓権さんと出会いました。  結婚式だけはしましたが、お金がありませんでした。  集金で中野区内を回ってお店の方とかから親切にしてもらいました。  集金していた当時は子供が二人いて何とか保育園に頼み込んで対応しました。   もう会社に来なくてもいいと言われて、主人と二人で「週刊東京」を立ち上げることになりました。  記事を書くことになり、主人が校正をしたりしていました。(ベッドで)  

創刊たちあげた7年後に夫が亡くなりました。(私は50歳でした。)  その時子供は全員女の子4人でした。(一番下が小学校上がったばっかり)   市役所の広報の方から書き方とか本当に真実のことを書く様に言われました。  作家の水上寛裕(ひろやす)さん植田康夫さんからもいろいろ教わったり、ただで書いてもらったりもしました。  二人とも大宅荘一の弟子です。  大宅壮一の「マスコミ塾」にも通いました。  今は娘も助けてくれています。 大腿部を骨折してからは自転車には乗らないで歩いていきます。  本当に平和という事は有難い事です。  中野区では意見を出し合って、より住みよいところにしていただきたいなあと思います。










2025年8月30日土曜日

薫田真広(東芝ブレイブルーパス東京 社長 )・武骨に、日本ラグビーのために ~ラグビーリーグワン

薫田真広(東芝ブレイブルーパス東京 社長 )・武骨に、日本ラグビーのために ~ラグビーリーグワン

日本ラグビーの最高峰 、ジャパンラグビーリーグワンは東芝ブレイブルーパス東京 が2年連続の優勝を飾りました。  この東芝ブレイブルーパス東京 のGMとしてチームの編成を任された薫田真広さんはその手腕が評価され、8月1日付でチームの社長に就任し、更にGMを兼務することになりました。 薫田さんは1966年岐阜県生まれで、岐阜工業高校からラグビーを始め筑波大学に進学し、大学時代に日本代表に選ばれました。  卒業後は社会人の東芝府中に入社、1996年からの日本選手権3連覇に貢献しました。  日本代表ではワールドカップに3大会連続で出場し、95年の南アフリカ大会ではキャプテンを務めました。 ポジションはフォワードのフッカーで日本代表キャップは44で、その後東芝の監督に就任し、日本選手権優勝を始め、トップリーグ3連覇を成し遂げました。  日本代表でもアシスタントコーチや日本協会の強化委員長などを務めました。  今回クラブチームの社長に就任した薫田さんにリーグ2連覇を達成した要因や今後のビジョン、2年後にワールドカップを控えた日本代表の現状などについて伺いました。

トップリーグから、2022年からリーグワンに替わってこれまで4シーズンですが、2連覇したチームは今回が初めてです。  激戦の多いリーグになりました。  圧倒的なアタック力で勝ってゆくを目指しました。  世界の一流プレーヤーがにほんのクラブチームに集まるようになったのは、2019年のワールドカップが大きいと思います。  彼らは家族を大事にする文化なので、家族に対する安心感が彼らが日本に来る一つの要因になっていると思います。  GMはスタッフ、選手のチーム編成を主に、1シーズンを通したプランニング、マネージメントをしてゆきます。  8月1日付でチームの社長に就任しました。 事業と強化をしっかり廻してゆく責任を感じています。  今のラグビーの環境に適した戦略は立てられると思ってい居るので、周りの方と連携を取ってやっていきたいと思っています。

試合前は無骨さを出す、試合が終わったら選手が笑顔を見せながらファンサービスをするという、紳士さを見せようというコンセプトでやっています。  共感を頂いてています。  今は試合が終わっても30分ぐらいは帰らずに、スタンドに立って選手たちに声援を送っています。  うちだけは観客動員数が増えています。  開幕戦を4万人でという風に計画しています。(今迄決勝にみ達成)  

クラブが大事にしているのは真面目な選手を取って行って、人を育てるという事です。  「猛勇浪士」をチームコンセプトにしています。  そしてチームつくりには変化が必要です。   相手の分析を如何にうわ回れるかという事が非常に大事です。 

筑波大学に進学しましたが、フッカー(スクラムで中心を務める選手)に変更したのは高校の日本代表の強化合宿に行っている時に監督から言われました。  大学卒業後は東芝府中を選びました。  理由は日本一になっていないチームで日本一になりたかった。 1992年度、1994年度に全国社会人大会で準優勝、1996年から日本選手権3連覇に貢献。  東芝のDNAは派手ではなく無骨にラグビーを真面目にする、 と言ったものです。 

1991年のワールドカップではアフリカのジンバブエに52-8で勝って、ワールドカップ初勝利。  ジンバブエはどんなプレイをするのか判らなかったので、下見に行きましたが。当時エイズが流行っていて恐怖心を抱きまいた。 帰国した時にも全員エイズ検査をしました。(命がけの戦いでした。)  第3回ワールドカップ南アフリカ大会予選プールで、3戦全敗でニュージーランドに17-145という大差で負ける。 (キャプテンを務める) アタックがどの程度通用するのかと言ったところにフォーカスしました。  戦った結果がどう影響するのかという事を理解していませんでした。  負の遺産を残したショックが大きかった。           1999年の第4回ワールドカップ、予選プールで3連敗。(選手としては最後の大会。)  日本ラグビーが大きく発展する大会でした。  チーム力が上がってきている段階でした。 

33歳で引退しました。  2002年に東芝の監督に就任。(2年間の準備期間はあった。) トップリーグ3連覇など多くのタイトルを獲得。  相手が倒しにくるところを如何に立ち続ける為のスキルとフィジカルをあげるかと言う練習を徹底的にやりました。  選手がいつ伸びるのか、心技体の前に知力(いかにベンチワークが出来るかなど)については伸びしろがあるなと思っています。  そういった選手を如何に育てるかという事をやっていました。

1995年のワールドカップがオープン化、プロ化して海外のラグビーが変ってゆく時代でしたので、日本人の情報量ではこの先の日本ラグビー、日本代表は結果を残すという事がしんどいだろうとは思っていました。  最近では日本代表のヘッドコーチは外国人の人が多く務めています。  日本人でもできる指導者がここ最近出て来ていますので、日本人が担当するという事にチャレンジしてもらいたいと思います。  2027年のワールドカップにはしっかり結果を出してもらいたいと思います。  2019年のワールドカップでは決勝ラウンドで戦う余力が残っていなかった。  選手の層の厚さ、総合力の差がこの決勝ラウンドに出たと思います。まず層を厚くしなければいけない。  現在世界ランキング14位。  結果をあげて行かないと予選プールが難しくなる。  東芝ブレイブルーパス東京については3連覇に向けてしっかり準備してゆく事だと思います。  戦力が均衡化してきているのでハードルは上がっています。








2025年8月29日金曜日

2025年8月27日水曜日

永田晶彦(園芸文化協会 副会長)      ・〔心に花を咲かせて〕 薬草を観賞の花に変えた日本の花文化

 永田晶彦(園芸文化協会 副会長)・〔心に花を咲かせて〕 薬草を観賞の花に変えた日本の花文化

愛知県の花市場の理事長をしている永田さん、花の流通だけでなく地元から海外まで広く日本の花文化を広めたいと活動しています。  特に中国とのつながりが強くて44歳から中国語を習い始めて、文献を読んだり中国に行って花関係者とも交流し、日本の植物は中国から渡ってきた薬草を元に品種改良を重ねた結果であり、日本は世界に誇れる花文化立国だと実感しているそうです。

営業を担当していましたが、退いて市場の理事長と言う立場になりました。  花自体が時代と共に変わっていきます。  花市場に役に立つことをしていったら段々手が広がって来ました。  日本の花文化は日本人にとっての生まれながらの資産と言うふうに思えてきました。  或る程度知識が固まってきたのが45歳ぐらいからです。  先代の理事長がある程度集めたものを段々増やしていって、植物園にしました。  最初は古典菊、カキツバタなどを中心に種を増やしていって、ツバキ、シャクヤク、ボタン、モミジなど日本伝統の植物を増やしていきました。  素人なのでいろいろなところへいって植物の基本から教えてもらいました。  今は2000種類ぐらい栽培しています。  ほとんど伝統園芸です。  椿は250種類ありますが、250株だけです。  

日本の植物、特に花は元々は中国から薬草として伝わったものが多いです。  本草書が文化として伝わって来る。 奈良時代の初期頃。  種とか薬とかから始まります。  代表的なのが朝顔とかです。 (芍薬、牡丹もそうだったと思います。)  朝顔は江戸時代に大ブレークします。  旧暦の9月9日に咲いた菊についた露を飲むと長寿になると言った言い伝えがあり、文化とともに伝わって来て、日本でも菊を栽培するようになりました。  菊が伝ったのは奈良時代の中ごろから終り頃です。  後鳥羽上皇が皇室の御紋にまでして、菊は日本の代表の花という事になりました。  栽培技術、新しい品種を作るという流れは日本の方が発展していきました。 (江戸期以降昭和)  日本はかなり優れています。  中国は菊で作った建築物の様なものに趣きを置いています。(規模が凄い) 

きんもくせいは香りのする花の代表の一つですが、中国から渡ってきています。  しかし、日本のきんもくせいほどは香らない。  日本ではどんどん香るものに集中していったと思います。(品種改良)  芙蓉は中国の四川省が発祥と言われています。  中国からすると芙蓉は木に見えるらしい。

44歳から中国語を習い始めて、文献を読んだり喋れるようになりました。   中国ではシュウカイドウは、清の時代悲劇の象徴のような花です。  雄花と雌花がありますが、雄花が先に落ちてしまいます。  残された雌花、と言ったところから小説が出来ました。    ホウセンカは周り花が咲き終わった頃に、耐え抜いたうえで花が咲く。  これに対して著名人が色々な詩を書いています。  毛沢東もホウセンカが好きだという事で書いています。(中国ではあまり知られていない。)   中国語を始めて20年になります。  2009年に中国で中国語で講演をしました。(当時は丸読みだったが。)   日本の花の文化のことを話します。  好意的に捉えてくれるのが圧倒的に多いです。  

営業を担当していましたが、退いて市場の理事長になって時間が出来て、日本の花の文化にも興味を持ち、中国語も勉強したり、一気にいろいろ始めました。  お茶の作法なども勉強しました。  万葉集、百人一首だとかから花の部分を理解していきました。  かつては花と日常が一つになっている文化ってありましたよね。(今は余り無い)   モミジは日本にしかないです。  花は日本人の生活の中に沁み込んでいて、そのレベルが高いです。 日本は花の多様性が発達する土壌があったんです。  日本の伝統文化、(文学、芸能、能、雅楽など)、はどれをとっても世界に通用するものばかりです。 だから日本で生まれている植物は世界最高峰に達する何かを持っているんです。  日本の花の文化レベルの高さを皆さんにお伝えしていきたいです。










2025年8月26日火曜日

木村一茂(被爆者・元会社員)       ・1歳の被爆者 証言を始める

 木村一茂(被爆者・元会社員)       ・1歳の被爆者 証言を始める

木村さんは81歳、1歳の時に広島市内で被爆しました。 それまで木村さんはさんは人前では被爆体験を語ることはほとんどありませんでした。 81歳を越えてから証言を始めました。   木村さんの証言のベースとなったのは、父や母が残した手記でした。  木村さんが被爆体験を語り出したのは何故なのか、被爆体験を伝えてゆく意味合いは、伺いました。

1歳9か月で被爆しましたが、ほとんど覚えていません。  父が昭和46年に広島の戦災史と言うものに手記を出して、その後話をしてくれたのでそのころから、被爆の意識を知るようになりました。  父は軍人で経理課長として勤めていました。 母は弟を生んで、8日は縁側であせもの薬を塗っていました。  3つうえの姉がいました。  その後父は病院の立ち上げに携わっていたと言っていました。  公職追放令があったので、父は母の実家の方に行って農業をやっていたと言います。  その後警察予備隊の募集があり、そちらでずっと勤務していました。  最後は陸上自衛隊の経理学校の校長を務めて終わりました。

私は東京の電気の学校に行きました。  電気関係の会社に就職したのちに、30歳の時に羽村にある自動車会社に就職をしました。 ラインの整備点検の業務をしていました。 父の手記とか母は被爆の会の証言集などを書いていたので、それらから被爆のことを知るようになりました。  母からは被爆の話を聞くことが出来ました。  私は剣道を教えていて講話で被爆のことを少しは話をしていました。  

私が80歳になった頃、東友会と言う東京の原爆被害者協議会に所属していましたが、高齢化して話をできる方が少なくなってきました。  危機感を感じて自分で話せることだったら話をして、核兵器禁止を訴えていかなければいけないと思いました。  父母の手記がまずベースになりました。  姉からも聞くようにしました。  私なりに組み立てていきました。  

母は縁側で生まれて8日目の弟にあせもを塗っていて、閃光が走ったので驚いて隣の部屋に飛び込んだそうです。  元の場所に戻るとガラスの破片で一杯だったと言っています。 姉は庭の片隅で血を流して(耳の後ろを切って)佇んでいたそうです。 私と姉は飛ばされた様ですが、私は無事だったようです。  避難しようと山の方に出たらしいんですが、途中では山から下りてきた人に出会って、皮膚がぼろきれのように下がっていたそうです。  着く頃には大粒の雨が降ってきて慌てて防空壕に避難したそうです。  黒い雨で放射線をたくさん含んだ雨だったようです。  黒い雨を浴びた方は病魔に襲われて沢山亡くなったと聞いています。母は父がけがをしたという事が頭に浮かんで、それが現実だったという事でした。 (母の手記を中心に姉からの情報を含めた内容)

父が被爆した日は、朝に自転車で市役所に行く中途で、よく晴れた空にB29が飛んでくるのが見えたそうです。  B29から光るものが落下したというので、伏せたとたんに閃光と爆風に襲われたと言っています。  自分の上には一杯瓦礫がかぶさていたそうで、それをどけておき上がったら頭から一杯血が出ていたそうです。  持っていた風呂敷で止血をして、軍の自転車なので捨ててゆくわけにはいかないので、担いで避難所の方に向かったらしいです。知っている軍医がいたので治療をしてもらおうかと思ったが、怪我をした人が沢山集まってきていて、自分が頼めるような状態ではなかったそうです。  

諦めて宇品の部隊に向かったそうです。  完全にではないが消毒をしてもらって縫ってもらったそうです。  昼頃には宇品の部隊に被爆した人がどんどん集まって来て総出で対応したそうです。  家の状況を見に一旦帰った部下の人たちが語るには、悲惨な状況を語る人が沢山いたそうです。  父も家に帰ることになったのですが、宇品から宮島に船で渡ったそうですが、市内は凄く燃えていて大変な状態になっていたという事でした。  下船してから救援のトラックと何台かすれ違ったらしいですが、亡くなったかは放り投げてゆき、負傷して歩いている方を乗せていくと言う様な状態だったと言っています。  自宅に戻ったら半壊の状態で誰もいなかったという事で、防空壕に向かったら母や私たちが無事だという事で、ホッとして虚脱状態になって、茣蓙のところに横になったと言っていました。  8日に部隊から迎えがあって行ったそうです。     部隊で治療を受ける人たちも食事はとれず水で2,3日過ごしたそうです。(父の手記を元にした内容)

父は67歳でなくなりました。  白血病の一種が発症したようです。  ノーベル平和賞については、私自身もよかったと思います。  妻と一緒に孫と被爆したところを見て回りました。  核兵器を廃絶するためには、我々が被爆証言をしっかりやって、世界の方々にも聞いてもらって、被爆資料館を観てもらえるように、そういう証言をしていきたい。 








2025年8月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 水木しげる~没後10年~

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 水木しげる~没後10年~

 水木しげるさんは鳥取県境港で育ち、21歳の時に太平洋戦争の激戦地のラバウルで左腕は失いますが、九死に一生を得て生還します。  戦後紙芝居作家を経て漫画家となり43歳で少年雑誌に登場すると一躍大人気作家となりました。 その後数多くの名作を発表し、2015年93歳で亡くなりました。 

「家の二階には英語の原書を読む以外何一つしないで生涯を過ごした親類の叔父さんがいた。  彼と親父は大いに意気投合して金持ちの親類を前にしては金儲けがいかに愚劣かを、説くことを喜びとしていた。」  水木しげる(人生をいじくり廻してはいけない と言う本から)

水木さんは大正11年の生まれ。 江戸時代は廻船問屋をやっていてお金持ちだったらしい。 明治以降の鉄道が発達して大きな家は人手に渡ってしまった。  水木さんは働いているお父さんを見た事がないといっていました。  金儲けする人が多い中で、金儲けがいかに愚劣か、と言うような人がいると、どちらの価値観も絶対ではないという事に気付くわけです。 子供のころは周囲にいろいろな価値観が乱立している方が、いいと思います。 

「今は随分つまらない。  おかしな大人を面白がる余地がうんと狭くなっている。」と書いています。  

「私は小さいころから兎に角寝る事と食べることが大好きでした。 それも普通ではないくらい好きだった。 兄や弟は朝寝坊すると朝ご飯を食べずに学校に行く。 私はどんなに時間がなくても朝ご飯はゆっくりと食べる。  お陰で小学校の時には毎日2時間目からの登校でした。  もちろん先生には叱られましたが、肝が太かったせいか全然平気でした。」水木しげる(人生をいじくり廻してはいけない と言う本から)

戦場で病気してけがをしても、現地の人からもらった果物、食べ物で回復している。  食べる人間が生き延びるという事は本当なんだなと思います。

「小学校の成績は極めて悪く、上の学校は受ける事さえ教師が禁じた。」

高等小学校を卒業すると就職することになる。  いろいろのところに就職するが対応できずに辞めさせられる。  新ためて学校に受験するが、50人募集のところに志願者が51人で、水木さんだけが不合格となる。  面接で猫のくそをお菓子と間違えて食べたことがあるという話をしたと言いう事です。  社会に収まらない人は貴重です。 

「小隊長はなぜおめおめと生きて帰ってきたと私を責め、それどころかお前も死ねと罵ったのだ。 」 水木しげる(人生をいじくり廻してはいけない と言う本から)

昭和18年、21歳の時に召集令状が来る。  水木さんは子供の頃は軍人に憧れていたようです。 

「強くて勇敢なものが好きで、だから軍にもあこがれていた。」 (自伝)

「戦争は鉄砲を撃ち合うものだと思っている人だと思っている人はあるが、それまでの日常生活というものはとってもつらい。  わずかの米と塩と汁で365日過ごし、たまにかぼちゃの芽が入ったりするが、それで働くのは人の3人前、一時間の休みもない。  その上に毎日殴られる。  何で殴られるのか質問すると、半殺しの目に遭う。

「戦争はあんた死ぬような目にどころじゃない、みんな死ぬんですわ。」(インタビュー)

ラバウルに向かうがその船はいつ沈んでもおかしくないようなボロボロな船で、触ると金具がポロっと落ちるというんです。 (日露戦争の時の船)  この船以降の船は皆撃沈されている。  この船も帰りには沈められている。  ラバウルについて決死隊に選ばれる。  或る時敵を見る役になり、思いがけない方向から敵がやってきて銃撃を受け、みんな死んでしまう。 水木さんは寝ずの番をやっていたので助かった。  渦巻く海に飛び込んだが、後ろから機関銃の射撃があった。 海から這い上がってようやく味方のところにたどり着いたら、先ほどの言葉を言われた。  

「小隊長はなぜおめおめと生きて帰ってきたと私を責め、それどころかお前も死ねと罵ったのだ。 」  愕然とする。

次はマラリアに罹って42℃の高熱を出す。 爆弾が落ちて左手を大けがをして大出血をする。 その血を止めるために翌日左手を切り落とすことになる。  

手術をした後はウジ虫が湧いて大変だった。  死にかけるが現地の人から食べ物を貰って食べて回復してゆく。  暫く経つと腕の傷跡から赤ん坊の匂いがしてきた。  なんだか生命が沸き上がって来る匂いだった。  

「兵隊がどれだけ内地に帰りたいかという事は、それこそ筆舌には尽くしがたい事だ。  それは体験したものでないと判らぬとしか言いようがない。」  水木しげる( 水木しげる伝から)

「何度も自問自答を繰り返し、自分は生きて帰ったんだ事を確認してみた。 なんというか悟りを開いた高僧の気持ちと言うのか、生きていると言うただそれだけのことがめちゃくちゃに嬉しかった。」

「軍隊でない世界っていいものだなあ。」 

戦後の世界でいろいろな職業に就いて働くがなかなかうまくいかない。 生きて戻ってきたが生活が苦しくて自殺した人が結構いた。  PTSD((Post Traumatic Stress Disorder)とは、命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験、イベントに関連する刺激の回避、否定的な思考や気分、怒りっぽさや不眠などの症状が持続する状態を指します。日本語では“心的外傷後ストレス障害”といいます。)が大きかったのかもしれない。

「兎に角長年の貧乏は、あの半死半生の目に遭った戦争よりも苦しいほどで。」 水木しげる(「寝ぼけ人生」の中の言葉)

「紙芝居から貸本漫画と十数年飲まず食わずの生き地獄が続いた様な気がする。」 水木しげる

「こんなに働いてどうして貧乏なんだろうと情けないよりも不思議さが先に立つくらいだった。」 水木しげる

「税務署員がやってきた。 何事かと思えば、申告所得が余りにも少ないが、ごまかしがあるのではないか、と言うわけ。 だって現に所得がないんです。 ないんですといったって、生きている以上は食べてるでしょう。  これじゃあ食べていける所得じゃあありませんが、と食い下がる。 我々の生活が貴様らにわかるか。  僕が怒りと絶望とでかなり迫力のある声をあげると、その後税務署からは何も言ってこなくなった。」 水木しげる

「全く金のない人間には世の中は無情なもので、何一ついいことがない。  兎に角この貧乏を克服しなければ笑い声一つ上げられない。」 水木しげる

「貸本漫画がだめになりかけた頃、僕は40歳を過ぎていた。 もう僕も漫画家として陽の当たる存在になることは出来ないだろう。 そう思っていた。  雑誌など陽の当たる場所に40歳を過ぎた漫画家が登場した例などなかったからである。」 水木しげる

「そんな時永井勝一?夫妻がおかきを持って現れた。 ・・・今度ね ガロという本を出すんだ。  原稿料は1ページ500円出すよ。 」水木しげる

ガロが転機になる。  売れっ子になって忙しすぎる。

「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。」水木しげる(水木しげるさんの幸福論)

「栄光や対価などに求めず、大好きなことに熱中する、それ自体が喜びであり、幸せなんです。  水木さんの場合は漫画を描くことだった。  その行為が金銭的に報われる方がいいに決まているが、結果の良しあしには運が付きまとう。」水木しげる

「好きだからといて成功するわけではない。  いくら情熱を傾けて努力をしても、報われない人はたくさんいます。 努力は人を裏切るという事も言っておくことです。  好きなことに情熱を傾けている間はきっと幸せな空気が漂っているものです。」 水木しげる

「世の中には人間の五感では捕まえられないものがいる。  世の中には見える世界のほかに見えない世界が広大無辺に広がっているのです。  そこには目に見えないものが沢山いる。  かつて妖怪が盛んに活動していた昔は現代にはない充実感のようなものが山野に満ち溢れていたようなのです。 その存在感が薄れると共に、どうも人間はつまらなくなったようです。」水木しげる

















2025年8月23日土曜日

川口和久(野球解説者)          ・人にできることは自分にもできる

川口和久(野球解説者)          ・人にできることは自分にもできる

 川口さんは1959年鳥取市の生まれ。 野球は子供の頃から始めました。  高校は鳥取城北高校へ進学、エースとし県大会の決勝にまでチームを導きますが、甲子園にはとどきませんでした。 社会人野球を経て、1980年プロ野球広島に、左のエースとして3回にリーグ優勝に貢献、1994年のオフにFA権を行使して巨人に、現役引退後は巨人のコーチとしても活躍しました。 4年前に鳥取にUターンして野球解説者として、もう一つある事にも取り組んでいます。

野球の解説をしながら農業をやっています。  鳥取で18年間勉強しないで遊んでばかりいました。  テレビの長嶋さんの姿がかっこいいと思ったのと兄二人が野球をやっていて、野球をやってみようと思いました。  小中高校と野球をやってきました。 高校は鳥取城北高校でした。 高校3年生の時に金田正一監督からロッテに来い、契約金は3500万円俺の背番号「34」もやると言われました。 しかし断りました。 高校卒業して1軍で活躍する人は少なかった。 デュプロに入社野球がやりたかったら仕事をしろと社長から言われました。  野球をやりたかったが営業の仕事でした。  3年目に友人の伝手で、広島への話があり、1980年のドラフト会議原辰徳を抽選で外した広島から1位指名を受ける。  契約金3500万円でサインした。

古葉監督から左ピッチャーのエースになって欲しいと言われました。  エースとしては北別府さんがいて、針の穴をも通すコントロールと言われていて、僕はノーコンの川口と言われていました。  奪三振王を3回取っています。  ファールでカウントを稼いで一球決めて三振を取るタイプでした。  カープ14年目に妻の父親がすい臓がんになってしまって、シーズン始まる前に他界しました。  FAを宣言した時に、妻から「長嶋さんと言う人から電話よ。」と言われました。(小さいころから長嶋さんの大フアンでした。)  急遽長嶋さんと会って、巨人に入団することになりました。 (35歳)  長嶋さんのそばにいると元気になります。  

1996年のメイクドラマ、11,5ゲーム差をひっくり返して優勝しました。 突っ走っていたのは広島カープでした。  札幌丸山球場の試合の時に、僕は2軍でしたが急遽呼ばれてリリーフ専門になりました。  そのゲームに勝利しました。  そこから潮目が変わりました。  「みんな、人生もそうだけど野球は何が起きるかわからないから、兎に角一勝一勝勝って行こう。」と長嶋さんが言いました。  9月には0.5ゲーム差にまでなりました。 10月6日長嶋さんが投手陣を呼んで、「兎に角今日は勝たなければいけない。 先発、リリーフはそれぞれぞれがしっかり投げて、川口お前が抑えるんだ。」と言われて、嬉しかったです。 試合もその通りに運んで、9回マウンドに立った時には心臓の音が聞こえるんです。 (初めての経験) 立浪選手を三振に取って勝ちました。  その後巨人でコーチを4年間やらせてもらいました。

2011年広島でオープン戦をやっていました。  原監督から「川口、テレビ見て来いよ。」と言われてテレビを見たら、仙台に津波が押し寄せている映像が映っていました。 その年は3位でした。  2012年優勝できました。 それから3連敗しました。  責任を取らなければいけないので「僕辞めます。」と言ったら、原監督から「そうか」と言われました。(もっと何とか言ってほしかった。) 

コロナの時には鳥取に戻り、鳥取を知ることになりました。  野菜は美味しい、米は旨い、肉は旨い、鳥取はいいところだと思いました。  米を作り始めて1年目が2反3畝、2年目が5反、3年目が6反、今年1町です。  来年は2町歩やろうと思っています。 新しいことをやると人間若返る、それは追及するから。  都会はストレスが溜まるが、田舎はストレスは溜まらない。  









2025年8月22日金曜日

吉田欽哉(シベリア抑留 経験者)      ・遺骨を家族のもとに帰したい 生き証人としての使命

吉田欽哉(シベリア抑留 経験者)  ・遺骨を家族のもとに帰したい 生き証人としての使命 

終戦後およそ60万人とも言われる日本人が当時のソビエトに連行されて過酷な労働を強いられたシベリア抑留、重労働に加えて飢えや寒さ、病気などでおよそ5万5000人が犠牲になりました。  北海道利尻島で生まれ育った吉田さんはシベリアで4年間の抑留生活を送りました。  吉田さんが忘れられないのは戦友たちに必ず迎えに来ると声をかけながらシベリアの地に埋めた事、生き証人の使命として遺骨を家族の元に返したいと語る吉田さんの思いを聞きました。

赤紙が来て何月何日入隊せよと連絡が来ます。  利尻島からは3人が樺太に行くよぅにとありました。  玉音放送があり終戦を知りました。  これで帰るると思いました。  終戦から1週間後に飛行機が来て爆弾を落とし、爆撃にあいました。  大泊?には9月上旬に行きました。  日本人が引き揚げて行って残った空き家みたいなものをロシア人が勝手に使っていて、その家の手入れを一か月ぐらい作業しました。  稚内へ帰れるという話がありました。  船に乗って稚内へ行くのかと思ったら北に向かっていることが判りました。  捕虜になったと思いました。  ソフガワニ?と言う港のところへ到着し収容所に入れられました。   

まず港の拡張作業をやらされました。  歩いて移動させられて次に伐採作業をやらされました。  様々な収容所に移動させられまいたが、ほとんど歩きで行きました。(トータルで2000kmぐらい歩いた。)  冬は伐採、夏は道路、建築などです。  一日8時から5時まで作業しました。  食事は一枚のパンとスープ、夜も黒いパンで酸っぱい。  足りないので倒した木の皮をはいで、内側の白い部分を削って食べました。  食べられるものは何でも食べました。  1月~3月が特に厳しかった。 (寒さと飢え)  朝になると硬くなっている人が多かった。(栄養失調などで死亡)  一日4体の穴掘り作業をしました。  20日間行いました。  今度は自分が入るかもしれないという思いで作業していました。

4年間の抑留後、1週間ぐらいかけてナホトカについてそこから日本に帰ってきました。  帰れるという自分のことしか考えていませんでした。  2019年にかつて戦友を埋めた場所で国土省の調査が行われました。  私も同行しました。  足の骨を掘り起こしましたが、持ち帰ることはできませんでしたが、そばにあった石を持ち帰りました。  「また来るから我慢してよ。」と墓地では声を掛けてきました。  遺骨収集の事業は、今一時中断しています。(コロナ、ウクライナ侵攻)  生き証人がいる間に無事に家族の元に返してあげたい。 

今年100歳を迎えます。  戦争とはどういうものなのか、捕虜とはどういうものなのか、自分の生きざまをきちんと整理して、生きている間にもう一回行きたい。  供養のために一昨年慰霊碑を建て、戦友に声をかけています。  戦友とは軍隊に入らないと判らない。   遺骨を家族のもとに帰したい。


















2025年8月21日木曜日

中谷豊実(街角保健室)          ・性や体で悩む若者たちの居場所を作りたい

中谷豊実(街角保健室)          ・性や体で悩む若者たちの居場所を作りたい 

ユースクリニック:若い世代が性や身体に関する悩みについて相談できる場所で、ユース相談室、ユースカフェなどと呼ばれ、全国に60か所と広がているとされています。 生理で体調が辛い、正しい避妊の方法を知りたいなど、中高生や20代の学生から様々な悩みが寄せられています。 しかし、こういうクリニックに自らアクセスして足を運べる若者たちばかりではありません。 特にDVや性被害などの問題を抱える若者は大人に対する警戒心が強く、繋がるのは簡単ではないと言います。  そんな若者たちを支援しようと夜の街に出向いて活動いているのが中谷豊美さん(63歳)です。  中谷さんは愛知県名古屋市で活躍する現役の保健体育の教員、プライベートではピエロの格好で病棟を回り入院患者たちをコミュニケーションで元気付けるボランティア活動を長年行ってきました。  コロナを機に若者の居場所や性や身体の悩みに直面し、4年前から名古屋の繁華街にある公園の一角にピンク色のテントを張ってボランティアで若者の性や身体の相談に乗る街角保険室(ケアリングカフェ)を開いています。  この夏休みの時期は夜中までテントを開いて、若者を支援しているという中谷豊美さんにその思いを聞きました。

名古屋の栄4丁目は通称「女子大小路」と言う名前が付いています。(昔女子大があった。)そこの真ん中に池田公園がありピンクのテントを張って街角保健室をやっています。  繁華街で、以前は池田公園はセクシャルマイノリティーティーの聖地などとも言われました。   コロナのちょっと前からホストクラブが集中してきました。 ホストクラブで人生の質をどんとおとしてしまう若い女の子たちが多いんです。 一回で何十万円使ったと言う様な話もあります。  月2回土曜日の夕方の6時にピンクのテントを建て始めて、7時から運営を始めて10時まで行っています。  街角保健室ケアリングカフェが正式名称です。  夏休みはパラソルを数本たてまして、午後8時から12時30分まで実施しています。 ボランティアでやっています。  

メンバーは私は教員で、医者、産婦人科医、精神科医、養護教員、保健室の先生、助産師、看護師、福祉を学んでいる学生などが参加してもらっています。 性被害、実の父親という率も多いんです。  誰にも言えないので生きづらさに繋がって来る。  ホストとの間に臨まない妊娠、中絶をしたとか、感染症系が多いです。  他にDVです。  私たちが持っているネットワークに繋がります。(無料産婦人科など)  自分の身体を大事にするという事をそもそも知らない。  知識がない。   

私は保健体育の教員で、性教育研究会の役員をしています。  高校生の性に関する実態の調査、研修、などをやっています。  人生に関わる様々な知識、人権の学習でもあります。   日本は性教育に関しては凄く遅れています。  やりがいがあると思って性教育研究会を立ち上げました。  2021年コロナの真っただ中、若い女の子たちの自殺率が急に高くなっているという記事を見掛けました。  友達とも会ってはいけないような状況で息が詰まってしまうような状況になってしまいました。  生きづらさを抱える子は家が最も居づらい。  しかしいなければならない。 そういった状況が影響しているのではないかと思いました。  

何とかしなければいけないと思って、街角に保健室を作りました。  性感染症や生理、望まない妊娠のこととか相談してほしいと、大きな看板を建てているんですが、相談にはほとんど来なかった。  まずは色々な方法でコミュニケーションを取るようにしました。  私は2006年から総合病院で入院している子供達のところに、ピエロになってケアリングクラウン(ピエロ=クラウン)をやっていました。  コミュニケーションを取るのにはマジックがとてもよかったんです。  街角保健室にケアリングカフェという名前を付けました。  街角保健室ではマジックだけではなく、いろいろな方法でコミュニケーションを取るように工夫しました。  信頼関係が出来て来て、その中から深い闇が出てくるんです。  リピーターも多いです。  段々知ってもらえるようになりました。  テントの持ち出し、持ち込みは全部一人でやっています。  私が体調を崩すと出来なくなってしまっているので、いなくてもできるようなシステムを作って行かなければいけないと思っています。(仲間は増えていますが)

私の父親は左足が曲がらない身体障害者でした。 心臓に難病を抱えていました。 父は映画館で映写技師として働いていました。  教会の神父さんの手伝いで廃品回収などもしていました。  困った人、貧しい人たちのために父は動いていて、それを間近で見ていました。 父は私が中学2年生の時に亡くなってしまいました。  母親はキャバレーに私と一緒に住み込みで働いていました。 私がそこで見た風景は、性の健康、命の安全教育、ケアリングクラウンとかに絶対繋がっていると思います。  ホステスさんたちはマスターから殴られたり、望まない妊娠をしたりして、独りで生んだり中絶したりしました。  シングルマザーになると一気に貧困になって行きます。  女性の方が社会的立場も、身体も弱い。  生きずらさを抱えた女性たちとずっと繋がりを続けるために、細く長くワイフワークをずっと続けていきたい。  自分のことを大切にする術を知らない、知識がない、自分を大切に出来るように、自分の尊厳を大切に出来るように、これからも奮闘を続けて参ります。









2025年8月20日水曜日

渡辺司(プロゴルファー)         ・ゴルフこそ人生、いくつになってもやめられない! 前編

 渡辺司(プロゴルファー)   ・ゴルフこそ人生、いくつになってもやめられない! 前編

渡辺さんは日本のゴルフツアーの安定した実力派プレーヤーとして19シーズンに渡って、シード権を維持しながら2勝、更に50歳以上のシニア―ツアーではメジャー大会の日本シニア―オープンなどを含む5勝を挙げてきました。  今年68歳、現在もトーナメントに出場して活躍中です。

50歳以上がシニア―、60歳以上がグランドシニアー、68歳以上がゴールドシニアー。   今年の2月に68歳になりましたので、今年尾崎直道君と一緒にゴールドシニアーの大会に出ました。  尾崎君が優勝で僕が2位でした。  エイジシュートに挑戦する機会がありましたが、残りの3ホールでバーディー一つとれば達成できたのですが、ボギーが二つ続いて見事失敗しました。  ワクワク感はあります。

日大一高時代は野球部に所属し、アンダースローの投手をしていました。  控え選手で甲子園のマウンドに上がったことはないです。  父がスポーツ新聞の記者をやっていて、ゴルフを担当していました。 17歳からゴルフをはじめました。 私は料理が好きだったので調理人になりたいという気持ちがありました。  プロゴルファーを目指すのか悩みました。   18歳でゴルフ場に就職しました。  そこでは自由に遊び惚けていました。  プロテスト合格まで7回かかってしまいました。 (4年半)  師匠は青木功と言うスーパースターです。25歳のころに20試合トーナメントに出る月齢がありましたが、2個しか予選を通らなかった。  稼いだ賞金が40万円ぐらい。  一試合に経費が15万円かかるので全部で300万円かかります。  稼げるようになるために、栃木の山奥のゴルフ場に隔離されました。 これが僕を変えてくれた一番の転換点ですね。   

何にもない所なので、時間をつぶすのには練習しかないんです。  グリーンを早くしてもらて練習したり、工夫していろいろなことをトライしました。 丸2年経った時に、試合で頑張れるようになって、シード選手になれました。 (1985年 30位)  最終ラウンドの残り3ホールでシード取れるかどうかという事がわかって、ガチガチになってしました。  最後のホールで80cmぐらいのパーパットを沈めれば大丈夫という状況で入れることが出来ました。  2位タイとなりシード権を獲得することが出来ました。  

優勝は2回で、2位が17,8回ありました。  回りからは万年2位とか言われました。  ゴルフの夢は見ないが野球の苦しい夢は見るんです。  ゴルフは生活の糧なんだ、仕事なんだと思って、リスクは背負いたくないと言う方が強かったと思います。  両親、夫婦、子供で暮らせる家を建てようと思って、土地を見つけてローンを組みました。  ローン返済が完了するまで堅実なゴルフをしようと思いました。  「足して2で割るゴルフ」 ピンの位置は池の近くであるとか、難易度の高いところにピンを切るんです。  ご褒美は得られないがペナルティーも受けにくい。  「足して2で割るゴルフ」と言うのは真ん中とピンの真ん中を狙うんです。  チャンスをゼロにはしたくないが、ピンチも迎えたくない。  堅実なゴルフを目指したので2回しか優勝が出来なかったのかもしれません。  

最初の優勝がプロになって13年目、35,6歳歳の時でした。    最終日、トップはアメリカのトム・カイト(その年の全米オープンチャンピオン)、2位が台湾のチン・シチュウでした。  13番ホールで単独トップとなる。  自分では結局は2位とか3位になるんだろうなあと思っていたら最終ホールまで来て、6~7mのバーディーパットでしたが、狙いたいが危険を冒したくないと思って、打ってカップのそばに来ました。  お先にといって先に打ってしまいました。(ウイニング パット)  柴田国明さんと言うWBC世界フェザー級王者の方がいるんですが、「渡辺さん、僕が世界チャンピオンになれた最大の理由は、僕が臆病者だから。」と言ったんです。  「僕は誰よりも打たれたくなかったので、防御の仕方を人の何倍もやった。」と言っていました。  僕にも多少そういうところがあったのかなと思います。   










2025年8月19日火曜日

高田敏江(女優)             ・朗読に託す平和への思い

高田敏江(女優)             ・朗読に託す平和への思い

高田さんは昭和10年群馬県前橋市の生まれ。  1954年に女優デビューし、以来、映画、テレビ、舞台で活躍してきました。  特に舞台では40年に渡って広島長崎で被爆した人たちの手記を朗読しています。 

今年の誕生日で90歳になります。  1985年に戦後40年という事で、被爆者の手記とかの朗読劇をやりたいという声がかかって来て、引き受けました。  最初は6人の女優で始めましたが、皆戦争体験者なので涙が出て来てしまって、それをこらえるのが大変でした。 私は終戦の年が10歳でした。  こんなに長く続くとは思ってもいませんでした。  1995年に沖縄公演に行きました。  2007年に地人会解散して、2008年にこれは絶対続けましょうという事で18人の女優たちが「夏の会」と言うのを作りました。  製作から全部やるので大変でした。  

「広島 母たちの手記」 新谷君江? 朗読

「勝次ちゃん(?) 貴方が生まれて2週間後に支那事変がはじまり、そして8月6日から10日後に終戦、戦争の間から貴方は生を受けていたのね。(?) 人間らしい楽しい生活も知らないままに、貴方が物心ついたころから夜は灯火管制で暗闇の生活。 食べものは大豆かすのご飯やぬかの混じったおだんご、貴方は大豆ご飯が大嫌いだった。 8月6日のその朝も、お母さんは仕方なく大豆ご飯を炊きました。  嫌いと言ったあなたはお母さんから叱られて涙を一杯浮かべて食べました。  そして学校に行ったのね。 ランドセルを背負って「行ってきます。」これが最後の言葉でした。 貴方は二度とお母さんの元にな帰ってこなかったの。・・・貴方はどこで死んだの。  火に包まれながら「お母さん、お母さん」と泣き叫んだのではないかしら。  全身やけどを負いながら、苦しい息の下から、「お母さん水を、お母さん水を」と言いながら、息は絶えたのではないかしら。  どんな姿になってもいい。  もう一度お母さんの元に帰って来て頂戴。  そしたらこの旨にしっかり抱きしめて、そして真っ白ご飯を腹いっぱい食べさせてあげたいの。  これがお母さんの切なる願いです。」

私も1945年8月5日前橋で空襲の体験をしました。  自分の街が燃えるのを赤城山の中腹から呆然と見ていました。  前橋の家のすぐ近くには大きな防空壕があり、家にいたらその防空壕に入っていたと思いますが、熱風でドアが開かなくて入っていた人たちは全員亡くなりました。 

18人でスタートしましたが、亡くなったりして2018年に解散という事になりました。  2019年には有志が長崎に行って朗読しました。  広島の世界平和記念聖堂と言うところで朗読と公演を頼まれまして、それを聞いていたなぎさ中学がそれからずっと平和学習としてやってくださいという事で今年もやって来ました。  この平和を何としても続けていきたいといった感想文を送ってもらっています。  中学生にも一緒に朗読してもらって、それが疑似体験にもなります。  

身体が続く限りはこれを皆さんに伝えてゆく事が、自分の責務じゃないかなあと思います。  


峠三吉の「墓標」   峠三吉は広島で被爆をして1951年原爆詩集を出版。

「小さな墓標」 舞台用の台本で朗読

「君たちはかたまって立っている。 ・・・今はもう気付く人もない一本の小さな標。 ・・・雨が降れば泥沼となるそのあたり、君たちは立っている。  段々朽ちる木になって何を甘え、何をねだることもなく、黙って、黙って立っている。 ・・・熱い熱い風の暗い暗い息の出来ぬところで、柔らかい手が小さな首が石や鉄や材木の下で、血を吹きどんなにたやすく潰れた事か。  「兵隊さん助けて。」と呼んだ時にも、君たちに応えるものはなく、何にもわからぬままに死んでいった君たちよ。 ・・・君たちは片付けられ忘れられる。 かろうじて残された一本の標柱も、やがて土木会社の拡張工事の土砂に埋まり、その小さな手や首の骨を埋めた場所は何かの下になって永久に判らなくなる。  「斉美(せいび)小学校戦災児童の霊」 ・・・あの日の朝のように空はまだ輝く青さ、君たちよ出てこないか。  柔らかい腕を組み起き上がってこないか。 ・・・戦争を起こそうとする大人たちと世界中で戦うために、そのつぶらな瞳を輝かせ、その澄み通る声で「ワーッ」と叫んで飛び出して来い。」   そしてその誰の胸にも抱きつかれる腕を広げ、誰の心へも正しい涙を呼び変えす頬を押し付け、僕たちは広島の、広島の子だとみんなの身体へ飛びついてこーい。」







2025年8月17日日曜日

井上あずみ(歌手)            ・歌は“自分の生きた証”

井上あずみ(歌手)            ・歌は“自分の生きた証”

井上さんは石川県金沢市生まれの60歳。  1986年スタジオジブリ宮崎駿監督作品天空の城ラピュタ』のエンディング挿入歌「君をのせて」に抜擢され、澄み切った歌声と確かな歌唱力で一躍注目を集めました。  その後『となりのトトロ』『さんぽ』など数々のジブリ作品の主題歌、イメージソングを担当、NHK「みんなのうた」のテーマ曲カバーや「みんなのうたです」のタイトルコールも長らく担当しました。  25年以上にわたり全国各地で家族向けのコンサートを開きその歌声を届けてきました。  2023年8月歌手デビュー40周年記念コンサートのリハーサル中に脳出血で倒れ、緊急手術を受け一命をとりとめました。  左半身にまひが残る中、懸命にリハビリを続け去年11月にステージ復帰を果たしました。  その後は香港やシンガポールに遠征、海外でも歌声を披露しています。  精力的な活動の源、今後の夢、そして新曲「母の家計簿」によせた思いなどお聞きしました。

車椅子で来ました。 リハビリも現在も続いています。  倒れた時までは覚えているんですが、病院の中でのことは覚えていないです。  後で回りの人から聞いて状況を知りました。  コンサートのリハーサル中に「君をのせて」を歌っている最中でした。  ろれつがまわらなくなりました。  高いマイクだったのでマイクを落としてはいけないという思いがあって、マイクを握ったまま、倒れたようです。  救急車がなかなか捕まらなかったんですが、娘(ゆーゆ 歌手)の的確なアドバイスで救急車を呼べました。  娘が詳細に症状と時間をメモっておいてくれました。  救急車の方が見て的確だったようです。(医療関係の仕事をやっていたのではないかと言われた。) 

7㎝ぐらいの血の塊があった様です。  これを取ったら身体が半分麻痺してしまうと先生が言ったそうです。  意識が戻ったのは2,3日あとです。  血圧が最高200迄上がったことがあります。  高血圧が判ったのは随分前ですが、薬は飲んでいました。  リハビリが始まりました。  左半身の手と足が半分麻痺している状態なので、まず動けるところから始まりました。  歌の発声に関しても娘から指導してもらいました。  大きい声でしゃべりなさいと言われました。  厳しかったです。  一週間に一回デイサービスに行っておじいさんやおばあさんと話をするのもいいリハビリになりました。  戦争、疎開の話などを聞かしていただきました。  歌手だという事は知ってもらっていました。 デイサービスでは歌のレッスンもありそれもいいリハビリになりました。 3か月後にステージに復帰しました。  「さんぽ」と「となりのトトロ」を歌って、娘が「君をのせて」を歌いました。  

1983年にアイドル歌手としてデビューしましたが、全然売れませんでした。 家族がみんなが歌好きでした。 のど自慢大会に出場していました。  審査員に歌手にならないかと言われました。  後に乙田修三歌謡研究所に門下生として在籍して歌手デビューを目指し始めました。  デビューは18歳でした。  天空の城ラピュタ』に出会たのはそれから3年後でした。  レコード会社の方と知り合いになって、アニメの歌を歌う女の子を捜しているという事で、カセットテープに入れて持っていきました。  それを宮崎駿監督などが聞いて、それからとんとん拍子に決まって行きました。  

天空の城ラピュタ』より「君をのせて」  作詞:宮崎駿 作曲:久石譲 歌:井上あずみ

この歌は余りヒットしませんでした。 ファミリーコンサートをするようになって生計を立てられるようになりました。  それまではいろいろバイトをしていました。  ファミリーコンサートは1年間に80本ぐらいやっていました。  

仕事復帰後1年余りのうちに、香港、シンガポール、インドネシアなど世界様々な地域で歌を披露しています。  コンサートをやると待っていてくれたんだなあという事が判り、頑張りたいなあと思いました。  私にとって歌は、生きていくためになくてはならないものです。今後の夢は新しく録音した曲がヒットする事です。 

*「母の家計簿」  作詞:松井五郎 作曲:中村由里子  歌:井上あずみ

ピアニストの中村由里子さんは私の1年前に脳出血で倒れて、その前からこの曲は貰っていました。 中村由里子さんはちょうどコロナのころで、リハビリが上手くいかなくて寝たきりになっています。  由里子さんが元気になればいいなあと思って歌っています。









 

2025年8月16日土曜日

深澤吉隆(元中学校教諭)         ・仏像疎開、その真意を伝承する

 深澤吉隆(元中学校教諭)         ・仏像疎開、その真意を伝承する

太平洋戦争のさなか、国宝の仏像など貴重な文化財の数々は所蔵する寺などを離れより安全だと思われる地域へ移送、疎開させられていました。  しかしその資料はあまり残っていません。  中学校教諭だった奈良市の深澤吉隆さん(62歳)はこの事実を若者たちに伝えるため、おもに奈良県内の仏像疎開について、数少ない資料から調べたり関係者に聞き取りをしたりして、学校現場で使う教材を作成しました。  仏像疎開とはどういうものだったのか、戦争の知られざる一面を次の世代に伝える意味とはなにか、伺いました。

平和学習はどこでも取り組んでいることだと思います。  奈良市では修学旅行で小学校では広島、中学校では沖縄に行くことが多いです。  地元の奈良のことをどれだけしているのかなとふっと思いました。  それがきっかけとなりました。  仏像の疎開と言うのはあまり知らないんじゃないのかなあと思いました。  それを教材化していこうとしました。   

基本は文献資料を当たってゆく事ですが、仏像疎開に関しては出てこないんです。 疎開をしているので現地に行ってみる。  関わった人がいたら聞いてみたいと思いました。  昭和16年3月に、国立博物館(当時は帝室博物館)から「東京帝室博物館有事の際における御物並びに保管美術品の処置方針」と言うものが政府に上申された。  これがスタートです。 この12月にアメリカに宣戦布告します。  その場所に選ばれたたのが奈良だったと言われます。  天皇を中心に国家を形成しようというあり方だったので、天皇家に伝わる御物をまず疎開させるという事はあったと思います。  戦況が悪化すると、「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」を閣議決定して、奈良にある国宝、美術品をさらにもっと安全なところに移動させようという方針が決定される。(昭和18年年末ごろ)  

昭和19年1月に文部省と県が協議をして、東大寺、興福寺、法隆寺と言ったお寺の仏像疎開、偽装(空から見てお寺とは判らないようにする)とい織ったことが決定される。  3月に東大寺、興福寺の国宝66点ぐらいが奈良市の円照寺に移送された。  その後ほかのお寺にも移送された。  昭和19年4月さらに疎開をしていこうという事が決められた。  昭和20年3月に大阪の大空襲がある。  三月堂、二月堂、大仏殿廊下と言ったものの解体の要請がある。  三月堂の解体は拒否していたようです。  昭和20年6月1日に東大寺の転害門(国宝)から西大寺に向かう一条通り沿いに空襲があった。  危機に瀕して三月堂の解体の承認をしてゆく。 興福寺の阿修羅像などの疎開も準備されてゆく。  

法隆寺はその何年も前から解体修理を進めていた。  仏像などは民間のところに疎開させるという事をしていました。  釈迦三尊像と救世観音像については断固拒否をしたそうです。(お寺の要)  唐招提寺の鑑真和上像の疎開には応じなかった。 興福寺は6月1日の空襲をきっかけに移送を決めます。  移送先が吉野の当時の町長宅(民家の土蔵)だった。 阿修羅像などが鉄道で運ばれたようです。  奈良側では移送には人手が無くて刑務所の受刑者を動員した様です。  終戦後直ぐには戻らなかった。  アメリカ軍の接収を恐れた。 戻ったのは昭和20年の年末。  

戦争になると異常な状態になる。  最悪の状況を想定して行った仏像の疎開など、全部情報が流れていたら、あの戦争ももっと早く終わっていたのかもしれない。  経験した方がいるかいないかという事は凄く大きいことだと思います。  やがて戦争を知らない人ばっかりになってしまう。  忘れないためには今判っている事実に基づいて正確に次世代に繋げてゆく、そういう事が大事だと思います。 







2025年8月15日金曜日

阿刀田高(小説家)           ・戦争と平和

阿刀田高(小説家)           ・戦争と平和 

2007年から2011年まで日本ペンクラブ会長を務め、各地で平和について語って来ました。  阿刀田さんは現在90歳。  80年前小学5年生の時に疎開先の新潟県長岡市で長岡空襲を経験します。  当時の生活や空襲の記憶、そして戦後80年の今、日本の歩むべき道をどのように考ええているかを伺いました。

父が元々東京と長岡に意仕事の関係をもっていました。  戦争が激しくなり昭和19年の夏に家族で長岡に疎開しました。  米作りを2年間しました。  川に魚影を見かけて魚を取りに行くのが楽しかったです。   昭和20年8月1日  夜に空襲があり母と川の土手に避難しました。  B29が100機ぐらい来ました。  幸い私の家は焼けませんでした。  長岡市が焼けるのを信濃川?から見ていたので、心配しましたが。  5歳うえの姉がいて、姉は独りで逃げて、同行した人と共にもっと田舎の方に行きました。  家族はそれぞれ無事に帰ってきたのに姉だけは帰って来ませんでした。  ひろまろ?小学校が緊急避難所となっていたのでそこに姉がいるかどうか見てくるように言われました。  遺体なども置いてありました。  防空壕では或る母親と子供を二人抱えて死んでいるのを見ました。(防空壕は焼夷弾だと蒸し焼きにされてしまう。)  従兄弟が材料力学の専門家で、焼け跡の焼夷弾の鋼鉄を拾ってみて、「こんな鉄を捨ててゆく国と戦争をしては勝てないな。」と言ったのを非常に強く覚えています。  

私の世代は先生にも殴られ、天皇陛下に一命を奉げるという事をまるっきり信じた世代なんです。  8月15日が来て、その後9月、10月頃の授業で、これからは日本は戦争をしないんだと先生が言ったのを聞いて、天気のいい青空を観ながらもう戦争はしないんだと思ったのが凄く記憶に残っています。  これからは民主主義だとコロッと変わってしまって、大人は信用できないという事を我々の世代は根強く持っています。 (大人不信) 

我が家は戦前から自由な家庭でしたので、戦後の自由な雰囲気には割となじみやすかったと思います。   長岡花火は昭和22年にあがっています。  何でやるのか釈然としないところがあります。 焼夷弾に似てるんですよ。  花火を見ると空襲のことを思い出さない日はないですね。  

今は大変な時代に入ってきているなと言う実感があります。  もしかして人類は滅びやしないだろうけれども、もう一回地球の1/3ぐらいどうかなりそうなことが起きて、ようやく反戦にに至って、又次の何かが誕生するという事さえ起きるのではないかと思います。  日本は80年戦争せずにやってきたという事は凄い事だと思います。  あっちへペコペコ、こっちにペコペコしながら、平和を求めてゆく。  石原慎太郎さんのようにかっこいいことを言って頑張ってもこの国はなかなかうまくいかないよと、と言うのが私の考えです。 

先進諸国との格差は絶対追いつかない。  上手く折り合いが付くわけがない。  何かの拍子でとんでもないことが起きる。  独特な宗教観もあり折り合いがつかない。  世界の95%の人間は平和を願い、望んでいると思います。  でもなかなかそういう風にはならない。宇宙人が攻めてきたら地球人は纏まるでしょう。  小説家のたわごとみたいですが、本当に難しいことだと思います。  

日本人は、日本国は間違いない世界一の財産を持っているんですよ。  それがいろんなところで生きていると思います。  日本人は文字を知っている事、字が判るという事、文字がちゃんと読める、書ける、この力は国民の力にはなっている。  これを上手に生かしてゆく事、それがこの国が栄える道ではあるけれど、これで世界の混乱が何とかできるかと言うと、簡単には出来そうもない。  

日本はあの戦争があって負けて、良い国になったんだと思います。  日本の軍閥をなくすことは簡単ではなかった。  軍国主義を完全に葬られたということは、日本が負けたお陰だと思います。  平和、民主主義とかをちゃんと考えられるようになったのは、戦争に負けたお陰だったと思います。  今のアメリカの国を見るとこの国は大して立派な国ではないと言う気がしてしょうがない。  

あの戦争を体験しているのは我々世代でもう終わりです。  書かれたものが、個人の何かの原動力になるほどの強い印象を持つことは残念ながらないと思います。  これからは普通に賢く守ってゆくと言う事で、何とかこの国をやってゆくという事しかないんじゃないかと思います。   「日本国民は立派だ。」と言ってマッカーサーは去っていったんですね。  素朴な大切な事をちゃんと大事にしてやってゆく。  それで駄目ならその時は仕方ないんだと私は思っていますが。   平和を愛し、隣人を愛し、つまらないことに染まらず、極普通に人間として正しいと言われることを、ちゃんと素朴に守って行く、それが大多数であれば何とかそれなりの国でやってゆけるのではないかと思っています。








 








2025年8月14日木曜日

山口輝人(元兵士 山口静雄の次男)     ・木の上で闘い続けた男

山口輝人(元兵士 山口静雄の次男)     ・木の上で闘い続けた男

俳優の堤真一さん、山田裕貴さん主演の「木の上の軍隊」と言う映画が公開されています。  舞台は沖縄戦の縮図とも言われる凄惨な戦いがおきた伊江島、作品はそこで終戦を知らないままガジュマルの大木に身を隠し、2年間生き延びた2人の兵士の実話をもとに描かれています。 映画のモデルの一人となったのは宮崎県出身の兵士山口静雄さん、35歳のころ伊江島に派遣されました。  今回インタビューしたのはその静雄さんの次男である山口輝人さん(87歳)です。  父の背中を見て感じる平和への思いとは何でしょう。

昭和20年4月16日にアメリカ軍が上陸して伊江島を一気に制圧しようと猛攻撃を浴びせました。  6日間の戦闘で日本兵の戦死者およそ2000人、住民も逃げ場を失って集団自決に追い込まれるなどして、当時島にいた人たちの半数に上る1500人が犠牲になりました。  その島で静雄さんは2年間生き延びました。  父は断片的に話をしてくれました。  壕の中にいたら全然逃げ場がない。   自分の身を隠すことを考えた時に、ガジュマロの木が点々とあるぐらいで、身を隠す場所がなかった。  木の上にあがることを決めたようです。木の高さは8~10mぐらいです。  幹の太さは二人が手を広げたぐらいの木です。  葛が巻いたようになっているので登り易い。  

登って2,3日して木から落ちて、へこんだ地面のところに身を隠して、佐次田秀順さん( 一緒に木の登ったもう一人の人)が落ち葉、木の枝をかぶせました。  数週間すると米軍のブルトーザーが畠の整地をし始めた。  父の隠れているすぐそばまで来て、その時にはもう駄目だと思ったそうです。  運よく手前で止めたそうです。  傷を負ったところから膿が出てきたが、衣服の切れ端を細い枝に巻いてその部分に付けていたら、その後傷が良くなってきたそうです。  その間は佐次田秀順さんがイモとかとうきびなどの食料を調達してくれました。 昼間は木から降りられないので、夜遅くこっそりと出ていったんでしょう。  身体の具合も良くなってきて、助けてもらいながら、木に昇ったそうです。  木の枝で身を隠す工夫をしていました。   マムシなどの心配もありました。  空き缶に糞をして木から離れたところに臭わないように捨てた。   

2年間も木の上で生活していたという事は考えられないです。  二人で何とか手を取り合って頑張ったと思います。(意見の合わない時もあったと思いますが。)   二人だったから生き延びれたと思います、一人ではできないと思います。  父、山口静雄も体調がよくなってきて食べ物を探すようになりました。  食料を小屋の隅に隠して置いて、行ってみると少なくなっているので、「食べ物を取らないでください。」と書置きを2,3回書いたらしいですが、「日本の兵隊さん出て来て下さい。」と書置きしてあったそうです。  「戦争はもう終わりました。」とも書いてありました。  最初は信用しなかったが、出てゆく事を決断した。  

家では母親が中心となり細々と農作業をしていました。  父が帰ってきたのは小学校4年生でした。   服は米軍の服で、帽子は日本軍の帽子でした。  自立しろよ、と言うような父親でした。  兄弟で相撲をとったりしているところを見て、喜んでいました。 平成9年に父親が登っていたガジュマロの木に登りました。  「苦しい苦しいなか、2年間よく支えていただき、本当にありがとうございました。」、と独り言で話をして帰ってきました。  命の大切さをお互い考えて、平和な国であることを願うばかりです。





 

2025年8月12日火曜日

田中恭子(青森県六戸町)         ・最後にもう一度 父の眠る島 ペリリュー島へ

田中恭子(青森県六戸町)         ・最後にもう一度 父の眠る島 ペリリュー島へ

 太平洋戦争で日本人が1万人以上の命を落としたパラオ諸島のペリリュー島、この島に今も眠る父親の遺骨を求め手がかりを捜し続けてきたものの、その活動に一区切りをつけた女性がいます。  青森県六戸町に住む田中恭子さん(84歳)です。 戦後80年経った今、父親にどんな思いを抱いているのか聞きました。

父親がどんな人だったのかはわかりません。  父親がいつ動員されたのかも知りません。  満洲に行ったことは手紙で知りました。  昭和19年3月に軍服が送られてきて、母親は新聞などから南方に行くんだろうとさとったようです。  昭和19年5月にペリリュー島へ着きました。  この島には旧日本軍の大規模な飛行場があり、アメリカ軍はフィリピン攻略のために、重要な拠点と考えていました。  4通の手紙が私の手元にあります。  蟻の巣みたいに島の中全体に洞窟を作るために忙しかったようです。  2枚目当たりまでは余裕があって様々なことを書いています。  30数名の部下の家族のも父は手紙を書いていました。4通目は文書も少なくなっていて、 私のこと(・・・明るさと素直さを生かす如く恭子の訓育を望む。)、母親のこと(不幸であった俺の分まで母上様に孝養を願う。健康第一なり。病める家があるものは暗いものである。・・・)短めに書かれています。  遺書の様なものなので母が私に渡してくれたものと思います。

艦砲射撃があり、日本軍が1万名に対してアメリカ軍は5万名でした。  兎に角長引かせて本土に来るのを遅くさせるという事だったようです。  昭和20年4歳で父の死を知ることになります。 父がいないという事に引け目を感じていました。  父親の最後を知りたいと願う様になりました。  きっかけは満洲の戦友から「戦死した人のことを風化させてはいけない。」と電話を受けた事でした。  夫が中心となりペリリュー島戦車隊の会を結成、夫と共に情報を集めてきました。  生き残った人のうち4名の方の話が貴重でした。  父親の戦車に「陸奥」と書かれていたことを知りました。(アメリカの資料)   

平成7年に初めてペリリュー島に行くことになりました。  父に全部関連して景色などを考えました。  10日間泣いて帰ってきました。  全国から20数人行きました。  初めて会った人たちでしたが、兄弟みたいな感じがしました。  平成27年にペリリュー島を訪れました。  長年の活動が実り、戦車の掘り起こしと、遺骨の収集が本格的に行われました。 これまでに掘り起こされた戦車には「陸奥」の文字の戦車は発見されませんでした。  去年12月国が新たに戦車の掘り起こしをするといういことで、これが最後かと思ってペリリュー島へ向かいました。  しかし発見する事は出来ませんでした。  もうお骨はないと思って諦めました。(土にかえったものと思います。)   万一、父親のお骨が判っても、部下30数目にのお骨が見つからないままだったらどうしようと思いましたが、父だけのお骨を持ち帰ることは出来ないと思います。  


















2025年8月11日月曜日

瀬古利彦(元マラソンランナー)      ・〔師匠を語る〕 陸上部監督・中村清を語る

瀬古利彦(元マラソンランナー)      ・〔師匠を語る〕 陸上部監督・中村清を語る 

瀬古さんは四日市工業高校時代インターハイの800m、1500mで優勝するなど、中距離、長距離ランナーとして将来を期待されていました。  その瀬古さんを日本屈指のマラソンランナーに育てたのが早稲田大学競走部の中村清監督でした。  厳しい練習で知られる中村監督と瀬古選手、どんな師弟関係があるのでしょうか。 

中村監督が亡くなって今年で40年です。  怖かったです。  話が長くて練習の前に1時間ぐらい話します、乗っちゃうと2時間ぐらいは話します。  先生にとっては息子のような感じでした。  中村清さんは1913年韓国ソウルに生まれました。  早稲田大学在学中の1935年箱根駅伝で1区を走り区間一位、翌年は10区を走り区間2位の好成績をおさめます。    陸上1000m、1500mでも当時の日本記録を樹立して、1936年に開催されたベルリンオリンピックに日本代表として出場しました。  1938年軍隊に招集され従軍、母校競走部のコーチに就任したのは終戦の翌年でした。  早稲田が箱根駅伝で18年振りの総合優勝を成し遂げたのは就任から6年後の1952年、更にその2年後の箱根でも総合優勝に輝きました。  一旦早稲田の競走部から退きますが、監督として復帰したのは瀬古俊彦さんが入学した1976年でした。  中村監督の指導の下、瀬古選手は大学2年で福岡国際マラソンで日本人トップとなったのをはじめとして、次々と記録を打ち立てます。   昭和55年瀬古さんが卒業してからは、瀬古さん所属の実業団SB食品陸上部の監督も兼ね、強豪チームに育て上げました。  中村さんは1985年5月渓流釣りの最中に足を滑らせて川に転落、帰らぬ人となりました。(71歳) 

私は早稲田から誘われましたが、受験に失敗しました。  南カルフォルニア大学に入学しました。  1976年早稲田大学に入学、中村コーチでした。  当時は箱根駅伝のは予選会にも通らなかったです。  瀬古を教えるのには中村しかいないと小田幹雄先生が頼んだらしいです。  それで合宿に参加しました。  「こんな弱い早稲田にしたのはお前たち学生のせいではない、OBが悪い。 私が謝らせてくれ。」と言って、自分の頬を自分の平手で思い切りバンバンたたき出しました。  「これで許してくれ。」と言ってみんなは唖然とました。   海岸に行って、 「瀬古君これからマラソンをやるんだけれど私の言う事を聞けるか。」と言って片手で砂を取って、「この砂を食べたら世界一になれる薬だったらお前食べれるか。」「これを信じて食べたら世界一になれるんだよ。」 私だったら簡単だと言って、口に入れて食べちゃいました。  凄い人だと思って、「ハイ、マラソンやりますから教えて下さい。」と言いました。  

月曜日は大学は練習が休みですが、私だけ中村監督の家に呼ばれて、話を聞いて練習をして美味しいステーキを食べて帰るという事をしていました。(特別扱いされていた。)  中村監督は中距離をやっても大した選手にはならない、マラソンだったら君のスピードを生かしたら世界に通用する。」と言われてマラソンに進む事になります。 (大学1年)  私なりの練習方法を二人で会話しながら進めていきました。 (ああしろこうしろとは言わなかった。)   宗選手の練習は朝40km、夕方40km走ると中村監督からは言われていましたが。   急には追いつけないので徐々に練習方法も増やしていこうと言われました。  「昔は選手を殴ったが、聖書を読んで愛の精神を勉強している、だから絶対殴らない。  本当にいう事を聞かなかったら自分を殴る。」と言いました。  この人は命がけでやる人だなと思いました。練習で雨が降る時がありましたが、傘をさしているのを観たことがないです。  練習時間が5時間とか長いですが、座っているのを観たことがないです。  

どっかの時点で厳しい練習では限界があることを感じたのかもしれません。  聖書に「他人にしてもらいたいことを貴方も他人にしなさい。」と書いてあります。  中村監督はその精神なんです。  私もそのような思いでアドバイスをします。  私は大学2年で福岡国際マラソンで日本人最高の5位でした。  3年生では日本選手としては8年振りとなる福岡国際マラソン優勝、4年生では日本人初の2連覇、モスクワオリンピック代表の座も射とめる。  福岡国際マラソンで日本人最高の5位になって、来た中村監督と座ったままで握手をしたら、「貴様はなんだ、教えている監督に座って握手するとはなにごとだ。」と言われて怒られてしまいました。  そういった精神は僕の心に残っています。 

1980年 SB食品に入社しました。  中村監督が「SBに行くぞ。」と言われてそうしました。  陸上部が無くて監督が自由に作れるからと言っていました。  1980年5月にモスクワオリンピックのボイコットが決まる。  「オリンピックだけがマラソンではない、他のマラソンで勝ちまくったらオリンピックに勝っただけの価値があるから、瀬古いいか、そういう風にしよう。」と言われました。  3つの目標を立てて全部達成しました。  1983年東京マラソンで自己最高の2時間8分38秒で優勝、福岡でも優勝、1984年のロサンゼルスオリンピックでは金メダル間違いないという予想だったが、14位だった。  「金メダルを期待している。」と毎日言われるわけです。  重荷になってもっと頑張らなければと勝手に思ってしまいました。  勝てばいいかも知れないが、負けることも人生に取って大事。   

その翌年新潟県で渓流釣りをしていた中村監督は事故で亡くなりました。  テレビで知りました。  家内と結婚する3週間前に亡くなりました。  妻に任せられると、僕は安心して天国に行ったと思っています。  1986年ロンドンマラソンで優勝、1987年ボストンマラソンでV2を達成。   瀬古は中村監督がいないと走れないと思われたくなくて、いなくても走れることを見せたかった。   1988年現役を引退。  勝てるような練習が出来なくなりました。   ソウルオリンピックの代表選考がもめました。  福岡国際マラソンで一本化という事でしたが、僕は怪我をして回避してしまいました。   4か月後の琵琶湖マラソンに出たんですが、物議をかもして瀬古は卑怯だといろいろ批判が出ました。 琵琶湖マラソンでは優勝しましたが、タイムはよくはなかった。  何で瀬古が選ばれるんだという事で、自分は皆さんから喜ばれてないんだなと言うようなことがあって、マラソンが楽しくなくなってしまいました。  ソウルは最後のマラソンだと思って出ました。  

SB食品の監督に就任しました。  自分の顔を叩いたり、砂を食べたりもしましたが、人真似は駄目だと思いました。  自分の心から出てくる言葉とかでないと駄目ですね。  中村監督は、自分が選手の見本になる人、そして引っ張てくれる人、そういう人です。  中村監督はソウルで生まれて貧しくて、日本に戻って来るのに皆さんのカンパで東京に来て、その恩返しのために自分は強くなって陸上競技に貢献する、原点がそういったところだと思います。  自分がお世話になった恩返しだと思います。  僕らも恩返しと言う気持ちはあります。  

中村監督は手紙を書くのが好きで、私に所には100通ぐらい来ています。 他の選手にも同様です。   

「49年前に先生にお目にかかった時のこと今でも鮮明に覚えています。 ・・・早稲田大学のセミナーハウスで、長距離合宿がありました。 ・・・ 「君が瀬古君だな、1年間浪人させてすまなかったな。  OBを代表して私が謝るから。」と意外な言葉が返ってきました。・・・「1000m、1500mのラストの切れ味は素晴らしい日本人離れしている。」と褒められました。 ・・・これはきっとマラソンで大成する。 私が命懸けで面倒を見てあげるから。」と言って命がけで指導して下さいました。 ・・・自分の顔を叩いたり、砂を食べて見せたり、雨のなかを5時間も6時間も立ったままで、私たちを観てくださいました。 ・・・私も先生と同じ年頃になりました。・・・こうやって半生を陸上競技に奉げてこられたのも先生のお陰です。  これからも陸上競技、マラソンの発展のために残りの人生をかけて行きますので、どうか見守って下さい。 」

言葉って、人の命を救うし、喧嘩もする。  だから言葉って本当に大事だと思います。 

















2025年8月10日日曜日

大島花子(歌手)             ・あれから40年 父・坂本九の心を歌いつないで

大島花子(歌手)             ・あれから40年 父・坂本九の心を歌いつないで 

今から40年前の8月12日日航機墜落事故で亡くなった歌手の坂本九さん、「上を向いて歩こう」「見上げてごらんよ要るの星を」などその歌は40年経った今も幅広い人々に愛され続けています。  当時11歳だった大島花子さんは、現在シンガーソングライターとして父坂本九さんの歌を通してその思いを届けたいとライブ活動を続けています。  大島花子さんは坂本九さんと女優の柏木由紀子さんの長女として1973年に生まれました。  大学在学中ミュージカルなどの舞台に立ち、そのまま作詞作曲を手掛けながらライブ活動を始めます。  2003年には「見上げてごらん夜の星を」でメジャーデビューを果たしました。  坂本九さんへの思いと時代を越える歌の力について伺います。 

父の影響は大きかったと思います。  健康で居なくてはいけないという事で、家ではサウナスーツを着て腹筋の運動をして汗をかいたり、テニスをしたり健康管理には気を使っていまいた。  舞台に向かう時の緊張感とかを垣間見ました。  今となっては何ともいない時間が戻りたい瞬間というような気がします。  亡くなる前日に暑いなかを庭掃除を一緒にしました。  その瞬間がキラキラ胸に焼き付いています。  一緒にいられる事がどれだけ価値のあるものだったのかという事が、その瞬間を思い出すたびに考えさせられます。 

あの出来事があって、感情を誤魔化しながら日々を生きていたような気がします。  30年経った頃に私は「悲しみを私は乗り越えていないんです。」と言えるようになりました。  悲しみと一緒に歩いて行けばいいんだなと思いました。  それから楽になったような気がします。  乗り越えなくてもいいんだと思った時に楽になりました。 

2009年に男の子を出産しました。  命の尊さを改めて考えさせられました。  出産をきっかけにもっと歌いたいと思うようになりました。  2003年にデビューをしましたが、命の尊さ、日常の大事さと言ったことを音楽で伝えていきたいとくっきり見えてきたのが、出産後でした。  より生活と密着した思いと地続きの曲を歌うようになりました。  今は息子も高校生でバンドをやっています。  

シンガーソングライターとして20年になります。  トークでは何でこの歌を歌うのかとか、何のためにこの曲を作ったのかとか、説明してから歌ったりします。

*「上を向いて歩こう」  歌:大島花子  手話で一緒にうたう。

父が手話が好きで習っていました。  私も大人になって手話の勉強をしました。  永六輔さんが作った「そして思い出」と言う曲がありますが、手話から作られた曲で坂本九が歌いました。  「誰かと話がしたい。」と言う出だしがありますが、心を通わすことが話をすることなんだなあと思いました。  人と人がコミュニケーションをするのを教えてくれたのは手話かもしれないと思います。  東日本大震災の時には40回以上継続的に伺っています。  音楽はお腹を満たしたりすることは出来ないが、ご飯では満たせない心を満たすという意味では、人間にとって必要なものだなあと思います。

「上を向いて歩こう」は保育園から高齢者施設でも歌いますが、一緒に歌ってくれます。 音楽は言語を越える力があるんだと、父の歌が証明している様な気がします。 

「心の瞳」は素敵な曲なのでA面にと思ったのですが、B面になってしまいましたが、父が亡くなってしまって、葬儀では私が弾いて父の声と重ねるという事にしました。  亡くなる当日にラジオの歌番組に収録があってこの歌を歌っています。  これを聞いた中学の先生が合唱にしようという事で徐々に広まっていきました。  大事な人との別れは必ずだれもが経験することで、その心をもっと大事にしていいんですよと、悲しみは有っても別に悪いものではないにのだから、泣いてもいいし泣かなくてもいい、私だから伝えられるメッセージだと思うので伝えていきたいと思います。  大事な人が目の前にいる人は、その時間を大事にして頂きたい、私はそんな思いを歌に載せて歌い続けて行きたい。











2025年8月9日土曜日

2025年8月8日金曜日

森貴美子(被爆者)            ・語れなかった80年の恋

森貴美子(被爆者)            ・語れなかった80年の恋 

長崎に原爆が投下されて明日で80年です。  今年被爆者の数が初めて10万人を下回り、平均年齢は86歳を越えました。  被爆の記憶や記録を少しでも多く次世代に残そうと、国では全国の被ばく者を対象に体験記の募集を始めました。 そのなか被ばく80年にして初めて語ったと言う体験記が長崎に寄せられました。  綴られていたのは原爆に翻弄された或る恋の物語です。  手記を出したのは長崎で被爆して現在は群馬県高崎市にお住まいの森貴美子さん(85歳)です。  森さんが5歳の誕生日を迎えた4日後に原爆が投下されました。  森さんは被爆体験を語るのに何度も葛藤したと言います。  80年間誰にも話さなかった過去をなぜいま語ることにしたのか、伺いました。

こんなことは人に話すようなものでもないし、今まで誰にも話したこともないし、それをわざわざ書かなくてもいいかと思っていました。   死に直面した病気にかかてしまいました。  自分の命の限界を知った時に、何かの役に立てばと思って、 書くことにしました。  被爆したのは私の責任ではないじゃないですか。  もし被ばくしていなかったらこんな生き方をしていなかっただろうとか、苦しむことはなかっただろうとか、心のなかに自分は被爆者だという事を絶対思っていましたから。  

5歳の時に爆心地から4,5kmの家で被爆しました。  光が全体を包んだと同時に家中の家具とかが爆風で全部とんじゃって家に中は無茶苦茶でした。  母と伯母が私と妹を押し入れに突っ込みました。  それが良かったのかもしれないです。  妹と二人で泣いていました。  妹が亡くなりましたが、いつ亡くなったのか私は判らないです。 

「終戦を迎え私は大学時代にある男性と交際を始めました。  彼は私より7歳年上。 将来は結婚を前提としたお付き合いです。 勿論私の両親公認でした。 その方は真面目で正直な人でした。  結婚が二人の間で具体的になり始めた頃、私は初めて迷い出したのです。 私は被爆者。  このまま結婚して子供が生めるのだろうか。  仮に子供が生まれてもその子は一生被爆二世として生きて行なければならない。  今考えると馬鹿な考えと思うところもあるかとは思いますが、当時の私は不安で結婚に踏み切れなくなりました。  彼は子供のことが心配なら子供入らないとさえ言ってくれましたが、私自身いつ発病して死ぬかわからない、という思いに取りつかれ彼との交際を諦めお別れしました。  私が何の躊躇もなく結婚していたら今と全く違う人生が展開していたと思っています。  原爆は一瞬のうちに人の人生、生き方を変えてしまうものと思っています。 幸い体には目に見える傷は残っていないものの、心には生きる事への諦めがずっと残っていました。」

はじめて恋をした方と結婚したかった。  結婚してもいいのか迷い出しました。 私は被爆者なんです。  家から彼を送ってゆくときに小さな公園で被爆のことを話しました。 隠し事をして結婚するのは卑怯なことだと思いました。  二人で背負ってゆくんなら二人で背負ってゆくしかしょうがないだろうと言いました。  聞いた時にこの人に負担をかけたら絶対駄目だと思いました。  結婚に踏み切れた人は勇気があったと思います。  

被爆体験のことを書いて読み返してみたら、こんなに浅い考えじゃないよな、もっと根深いものが自分のなかには残っているなと言う気がしています。   結婚をお断りした後、もう自分の人生は終わりだと思いました。  もう他に人とも結婚はしないし、出来ないし、これから先何を目当てに、何のために生きていくんだろうと思って死にたくなりました。  写真を全部ハサミで切ってしまって捨てました。  生まれた時から24,5歳までの写真は一枚も残しませんでした。  死のうと思いましたが、母に見つかって失敗しました。  被ばくしたからこそ生きて行かなければいけないと、今は思っています。 

原爆は私から愛、家庭、子供、自分そういったものを全部奪いました。  被爆するという事はある意味殺されるという事、生きる意味を否定される事です。  自分の夢や目標に向かって進んでいきたいと思た時に、それに全部ストップをかける。  原爆は本来の私を殺した敵です。  逃れられないから皆苦しんでいる。   特に小学生たちに、昔こういうことがあったんだよ、貴方たちの時代には絶対こういう事がないような、そういう世界をつくってねって、それを言いたかった。  原爆のことを知らない人たち、ちょっとでも知ってほしい。













2025年8月7日木曜日

金城利一(沖縄県豊見城市)        ・砲弾の雨をくぐりぬけて 今も悔やむ南部への道

金城利一(沖縄県豊見城市)     ・砲弾の雨をくぐりぬけて 今も悔やむ南部への道 

金城さん(91歳)が生まれ育ったのは沖縄県南部の豊見城市。  沖縄戦当時、海軍司令部などの軍事施設があったため、アメリカ軍の激しい攻撃をうけ、おおくの住民が犠牲となりました。  戦後80年沖縄戦を体験した世代の沖縄県民全体に占める割合は8%を切り、戦争体験を聞くことはますます難しくなっています。  11歳の時に沖縄戦を体験し、家族5人を失った金城さんに戦争の記憶と戦後80年の今、強める平和への思いを伺いました。

私は幼少のころ父が亡くなりまして、弟と二人兄弟でした。  貧乏で二人は育てられないという事で、私は母の実家で母と一緒に育ちました。  弟はおばあさんと一緒に育ちました。  弟とは一緒には遊んでいました。  学校でも遊びは兵隊ごっこでした。  小学校3年には軍事訓練も受けました。  ルーズベルトとチャーチルの藁人形を作って竹やりで突くわけです。5年生の時には学校は兵舎になって、兵隊が防空壕を掘って、その土を出すのが我々の仕事でした。  授業はなかったです。  軍国少年として育っていきました。  

1945年3月になるとアメリカの艦船が接近して、艦砲射撃が始まります。  4月には沖縄本島に上陸してきます。  4人に一人が犠牲になった地上戦が始まります。  3月23日は5年の終了式の日でした。  直ぐ帰るように言われてその日から防空壕暮らしです。  5,6世帯(20名ぐらい)が一つの壕に入っていました。  最初のころに母の実家は艦砲射撃でやられました。  1945年5月22日には旧日本軍の第32軍が首里城地下の司令部を放棄して、沖縄本島南部に撤退することになる。  住民も南へと避難を余儀なくされる。朝早く壕を出ました。  隊列を組んで後ろの方を歩いていました。  2,30mぐらいのそばに弾が落ちるわけです。   そこで隊列から別れてしまいました。  戻ったのは1/3ぐらいでした。  その後南へと向かいましたが、会えませんでした。  後ろの組は全員生き残りましたが、先の組は生き残ったのは2人でした。 おばあさんと弟は先の組でした。

命令なので南部を目指していきましたが、向こうに行っても壕はないとおじいさんが言うので、行かないでおこうと言われました。   戻るとアメリカ軍の捕虜になってしまうので戻れない。  近くで壕を捜してそこに入ろうとおじいさんが言って、壕を見つけて入りました。その間に10体ぐらいの死体は見ました。   4,5日してからアメリカ兵が出て来いと言ってきました。  手榴弾も投げれれることもなく、アメリカ兵が入ってきました。  おじいさんに向かって「心配ない 心配ない」と言ってきました。  手で引っ張り出されて、ここで殺すんだなと思いました。  水と菓子を出しましたが、毒が入っているのではないかと食べませんでした。  兵隊は水を飲んで菓子を 食べて見せました。  私は水も飲みましたが、その後殺されると思いました。  

糸満の潮平と言うところまで歩かされました。  そこには一杯人がいました。    母、おじいさん、私と親戚合わせて7,8名ぐらいが一緒でした。   弟、おばあさん、母方のおばあさんはおじさん伯母さんらとははぐれてしまいました。  南へ逃げた弟たちは壕を見つけて入ったそうですが、日本兵が後から来て民間人を追い出したそうです。  岩陰に隠れているところを集中砲火を浴びて亡くなったそうです。  その中の2人(従兄弟)は生き残り、日本兵の壕にもぐりこんだと言っていました。 (後日聞いた話) 戦後遺骨を捜しに行ったら大きな岩のところに白骨がありました。  誰の遺骨か、残っていた衣服のきれっぱしで母が判断しました。  遺骨を前に声を出して泣きました。

戦争と言うのは悲惨なものです。  どんなことがあっても戦争だけはいけないと思います。 南部撤退がなければ亡くならないで済んだのになあと思います。  捕虜になれば我々みたいに生き残った。  いまでも戦争はなくならず、一番被害を受けるのは住民です。  今の状況は戦前の臭いがします。  戦争に参加しない、戦争を起こさない運動を広げるべきだと思います。










2025年8月6日水曜日

岡本教義(愛媛県原爆被害者の会 会長)   ・14歳の地獄。被爆者救護の島で

岡本教義(愛媛県原爆被害者の会 会長)   ・14歳の地獄。被爆者救護の島で 

8月6日広島原爆の日です。 爆心地から南東に6km広島湾にある周囲およそ5kmの金輪島、原爆投下直後大榮の被爆者がここに運び込まれましたが、その記録は乏しいのが実情です。  島には陸軍の船舶司令部が設けられ、当時14歳だった岡本教義さん(94歳)が勤務していました。  被爆者を船から引き揚げる作業で、自身も間接被爆、島は地獄のような光景となりました。  戦後は職を求めて松山市に移住したものの、病気や差別に苦しんだ岡本さん、60歳になり戦争の記憶を語り継ぐ活動をはじめ、現在は愛媛県原爆被害者の会 会長を務めています。 今年戦後80年を迎えて一層募る平和への危機感、その思いを伺いました。

9人兄弟の5番目、1945年3月に学校を卒業して、軍族となって広島市中心部の実家を出て広島港にある旧陸軍船舶司令部の寮で暮らしていました。  金輪島は日清日露戦争のころからの本隊の要塞で、日本の地図には載っていない。  軍事施設があるという事を公にはできなかったようです。  原爆が投下された時には、朝礼が終わって南西の方向でぴかっと光りました。  白い煙が真っすぐ上がって横に広がりました。  金輪島では間口10m長さ20mぐらいの倉庫、木工所が潰れました。(爆風と海のしぶき)   ありとあらゆるむしろ、毛布、テントを出すように言われました。  夕方3時ごろから船が広島から来るようになりました。  人をピストン輸送しました。  負傷者を船から持ち上げます。  肩を貸して手を持つと腕の皮膚がツルっと抜ける。  前は焼けただれるが、背中は綺麗なのでそこに手を添えて移動する。   自分の親や兄弟ももしかしたらそうなっているのかとふっと思いつきました。  水を持ってきて傷を洗ったりしてあげる。  何のためかと言うとそこにはウジ虫が沢山湧いているのを取ってやるためです。   恐る恐るやると上官が来て、親や兄弟そう思ったら手ぬるいことができるかと酷く怒られました。  

お母さんが一生懸命に子供に乳を飲まそうとしている。  しかし子供は息絶えているから口が開いてない。  名前を呼んで一生懸命飲まそうとしていた光景を思い出します。  火葬場に行く時の臭いは思い出します。  人間の末路かなあと言う臭いがしています。 魚の腐ったものよりもまだ悪い。  息絶え絶えに「水を呉れ」と言うので綿花に水を浸して飲ましてあげると、兵隊に見つかって怒られる。  「火傷をしている人間に水を飲ましたら死ぬんだ。お前はそういう事が判らぬか。」と言うんです。  14歳の子供にわかるわけないです。  いずれ死んでしまう様ならば水を飲ましてあげて、「美味しかった。」と言ってもらえればそれに越した事は無い。  目を盗んで水を飲ましてあげて、10分もするとその人はいきを引きとる。  そのことはいまだに気になってはいます。  医者は軽症者には水を飲ませてもいい、重傷者には飲ませないようにと言うが、人間1/3火傷をすると助からないという事は後々わかるが、水を飲ませたのが良かったのかどうなのか、教えてもらえません。 これは永遠に僕が死ぬまでもっていかなければいけない事かと思います。 

家族を捜すための許可を貰って、8月13日に広島市街に入りました。  焼け野原で歩いても歩いても瓦礫ばかりでした。  似ているなと思って声を掛けたら弟でした。  帰ったら両親もいました。  全員無事でした。  父親は喉頭がんで、戦後の生活はどん底でした。  食べ物には苦労しました。  電気工場に見習いに行きました。 (広島)  その後松山に永住することになりました。  

被爆者を介護する時に間接的に被爆しました。  喉頭がんが2回、舌癌が1回やっています。21歳のころに娘さんと結婚することになり、親に話に行ったら被爆者と結婚したら奇形児が生まれるから、結婚したらいけないと反対されました。 原爆手帖を持っている、原爆被害者と言うだけで結婚が出来ませんでした。  その後別の人と結婚することになりましたが、被爆のことは結婚後に嫁に話しました。   60歳になって定年になったら定年離婚となりました。  30年間辛抱してくれました。  

語り部になったのは愛媛県原爆被害者の会 に入ってからです。  60歳を過ぎてがんになった時に原爆のことなどいろいろ考えました。  病室で自身の経験をノートに書いてみました。   会長職を5,6年やっていますが、段々人が少なくなって平和運動が薄れていくのではないかと言う危惧をしています。  若い人に平和の尊さを噛み締めて欲しい。  選挙の投票率も少ない。  今自分がやらなくても他人がやってくれるからと人任せにして、これは一番危ない事です。 平和はどこから来ているのかという事を噛み締めて欲しい。  今の若い人は平和ボケしている、なんかおかしいですね。  戦争になる根本はどこにあるか、こういうことを考える若者は一人でもおりますか。  核兵器廃絶に関して理屈無し、絶対に持ったらいけない。  

去年ノーベル平和賞受賞、日本原水爆被害者団体協議会の活動が注目されましたが、全世界の人から核兵器の廃絶と言うものに対して、もっと目を向けなければいけないという警鐘のための尻叩きのものと僕は感じています。  80年は第一歩です。  今は小さな平和です。  今の平和はほころびています。 ほころびを糸と通そうか、抜こうか中途のところです。  情けない事です。  何べんもがんを患ってもなおかつ生かしてもらっていることは、まだまだ僕の努力が足りないから、もう少し頑張れもう少し頑張れと、生かされているのではないかと思います。  どんなことがあっても戦争だけは止めて下さい。













 

2025年8月5日火曜日

高橋昇一(占守島の戦い 体験者)      ・占守島の戦いを語り継ぐ

高橋昇一(占守島の戦い 体験者)      ・占守島の戦いを語り継ぐ 

数少ない生存者北海道小樽市に住む高橋昇一さん(103歳)。  高橋さんは昭和18年千島列島最北の島占守島に配属されました。   終戦3日後の8月18日未明島にソ連軍が上陸、終戦後の戦闘という事もありその詳細はほとんど知られていません。  80年前の夏、占守島で何があったのか。(占守島の戦い

占守島は昭和20年には日本の領土でした。  夏は濃い霧が出て冬は猛吹雪の厳しい島でした。  ソ連軍が上陸する前は、国境警備、陣地の設営、豪を掘っていました。  国境警備は望遠鏡でカムチャツカ半島のソ連兵の動きを観て報告していました。  陣地の設営ではトーチカ(鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語 10人ぐらいが入れる。)を作っていました。  豪は深さ1,2mぐらい幅は60cmぐらい長さは4~5kmぐらいはありました。  アメリカが毎日空襲に来ました。   機関銃を扱う部隊長として11人ほどの部下がいました。  

8月15日テントに30人程度集められて玉音放送を聞きました。  負けそうだなと言う話は何となく聞いていました。  占守島は穏やかな丘が続いて、草原や沼地があり島の北側の一部は砂浜。砂浜以外はほとんど崖で多くの岩礁がある。 四嶺山(しれいさん、標高 171 メートル)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていた。 18日の未明に巨大な輸送船が8800人のソ連兵を連れて竹田浜沖に現れました。  まさかソ連だとは思わなかった。  重装備していたので昼頃につきました。  第一分隊が先に行っていたが、我々が行った時には撃たれていた。   機関銃は4人で操作するものでした。  1分に600発出ました。  豪に身を隠しながら応戦しましたが、ソ連軍からは丸見えでした。  ソ連軍との距離は150mぐらいでした。  戦闘は夕方まで続きました。  21日に白い旗を掲げて四嶺山のところで停戦の交渉をしていたようです。   交渉を終わってその上官は車に乗って帰るところをソ連の兵隊に撃たれました。  

その後私は捕虜になりました。  取り調べ後に日本に返すという事を言われました。  700~800人が貨物船に乗せられれました。  夜の北斗七星を観て北に向かっていると気付きました。  シベリアのスヴェトラヤと言う町に連れて行かれました。  一番寒い時には氷点下50度になります。  身体検査をして身体が丈夫な人は1種、次は2種、3種に分けられました。  1種は山で木の伐採、2種は掃除など、3種は特殊な技能を持っている人。 8~9時間の労働でした。  朝はご飯、とキャベツのおつゆなど、昼は100gの黒パンと魚、力仕事には足りるなんて言うレベルではなかった。  テントのなかに25人ぐらいが寝ていました。  トイレは外に壁もなくむき出しで、むしろがあるだけで、順番待ちなので辛かった。  仕事のノルマに達しないと食事を減らされて、痩せて栄養失調になって行きました。 

亡くなった方を埋葬するのに穴が掘れないのでダイナマイトで爆破して埋葬用の穴を作りました。  伐採仲間も栄養失調のため一人が亡くなりました。 4年間の抑留生活をしました。 痛んだスコップの柄を利用して麻雀のパイを或る人が作り上げました。  それが唯一の楽しみでした。  生きるためには喰う事でした。  昭和24年帰国することが出来ました。  

ウクライナは可哀そう。  ソ連は勝手です。  早く辞めてくれればいいが。

今後ロシアが占守島に博物館を建設するという意向です。  あの戦争のことを後世に残すための博物館と言う事だそうです。  ロシアにとっていい話ばっかりになるのでは。  戦後80年、連絡を取り合う戦友はいないです。   戦争は悲しい。 戦争だけはどんなことがあっても駄目。






2025年8月4日月曜日

齋藤幸子(旧満州国開拓移民2世)     ・わが子を滝に投げた母 ~地獄の記憶を紡ぐ~

齋藤幸子(旧満州国開拓移民2世)     ・わが子を滝に投げた母 ~地獄の記憶を紡ぐ~

 山形県鶴岡市に住む斎藤幸子さんは満州で生まれました。  太平洋戦争の終わり、旧ソ連軍による侵攻から逃れて、日本に帰国しています。  その後自分が引き揚げ者であることを人に話すことはありませんでした。  戦後間もない食糧不足の時代、身寄りを頼って生きる引き揚げ者は肩身の狭い思いをしてきたためです。  しかし戦争体験を語る人が少なくなる中、後世に伝えたい思いが芽生えてきました。  7歳の時に経験したソビエト軍からの命がけの逃避行、それは軍に気付かれないように、母親が泣き叫ぶ生まれて間もない弟を、犠牲にするほど過酷なものでした。  戦後80年の今、斎藤さんが過去の記憶とどう向き合い振り返ったのかを伺いました。  

仏前に毎日ご飯とお水をあげるたびに、毎朝思い出します。  名前を呼び掛けますが、私だけが生きてきてごめんなさいという事です。  平和なところに住まさせていただいていることが申しわけないと思っています。  私は長女で二人の妹、弟がいました。  昭和14年4月8日満州で生まれました。  昭和13年に渡って中国人と共に生活はしていました。  昭和19年3月父が兵隊として取られました。  昭和19年9月29日に戦死して、その間に4番目の子供を身ごもっていました。   父は優しくて手が器用で遊び道具を全部作ってくれました。 

昭和20年8月9日、ほとんど着の身着のままで2台の馬車に分かれて乗りました。  母と私と弟でした。  日中に歩く時には身のまわりに草を刺して山の中を移動しました。  日中は隠れていてなるべく夜に歩きます。  或る時に寒いので焚火をしたら発砲が始まりました。 翌朝日本兵がふたりの女の子を連れてきて、どこの子かと言うんで見たらうちの妹たちでした。  血だらけで虫の息でした。 (6歳と4歳)  母が二人をおんぶしたと思います。 私は弟をおんぶしました。  2,3日後に山の中で二人は亡くなりました。  弔って直ぐあとにしました。  逃げるのに精いっぱいで妹たちのことはよく覚えていません。  それを今でも悔やんでいます。  

母についてゆくのが精一杯でした。   四方八方から撃って来るので皆さん亡くなります。  山の中での逃避行になると、食べ物が何にもなくなりました。  ブドウの蔓を食べたり葉っぱを食べたりして生き延びていました。  山の中では首をつって死んでいる人もいたし、小さな水溜まりに皆が駆け寄って飲んだりしました。  毎日毎日亡くなった兵隊の姿を観かけていました。   母はお乳がでなくなって弟がギャーギャーと泣くわけです。  泣き声を聞くと発砲してくるので、誰かの命令で始末するようにという事になりました。  山の中の滝のところに4,5人が立って「一、二の三」でそれぞれ子供を投げたんです。  沈んだり浮かび上がったり数回見かけて「洋一」と叫んだら、母から大きな声を出さないようにとたしなめられました。  みんなの犠牲になって落とされてしまって、今でも毎日涙しないといられないとことです。 (弟は1歳)   

生き延びるのには犠牲になってもらうほかないと思って、私も母に対して反対した覚えはありません。  母と二人になり、私も今日か明日かもという気持ちでした。  母には捨てられるのではないかという事は何回かありました。  用を足している間に母は歩いて行ってしまっていて、それに追いつく場面という事は何回もありました。  周りには子供がいなくなって身軽になっている様子を見て、自分にも子供がいなければ、と思ったのかもしれません。  流れの激しい川を渡ることがありましたが、私は母に肩車されて、数人で手を繋いで渡っていました。  その隊列に向かって「お母さん」と呼ぶ声があり振り返ってみると、ひろしちゃんが叫んでいました。  ひろしちゃんは生きていたんだと思っていたら、川の急流に流されて行ってしまいました。  助かっているのかもしれないので、 残留孤児が来るたびにひろしちゃんを捜しますが、見かけていません。  ひろしちゃんの母親がいましたが、一切見向きもしませんでした。(その時には皆自分のことで精一杯でした。) 

川を渡り終わったらソ連兵が発砲してきました。  そこでほとんどの人が亡くなりました。 (何十人、何百人)  たまたま生き残った私は銃を突き付けられました。  ここで死ぬのかなと思いました。  降参だと言いながら手をあげました。  母が「この子だけは助けてください。」と言っていました。 (「日本語)  母は私を日本に連れ帰ってくれました。   母には感謝しかないです。   弟のことに関しては戦中だったので仕方のない事だったと思うしかないと思っています。   

日本に着いたのは昭和21年9月8日のことでした。  母の実家には9年間暮らしました。 (中学3年まで)  引き揚げ者に対しては周りは冷たい眼で見ていました。(差別)  友達は作りませんでした。  戦争はあらゆる人を不幸にします。  弱いものを犠牲にする。  40年も戦争のことはしゃべらない様にしていました。   「救われた人は救う人になりなさい。」と母から言われました。   話を聞きたいという人たちが出てきました。  最初は思い出したくないので勇気が要りました。  亡くなった家族に対しては感謝しかないです。












2025年8月3日日曜日

太田ゆか(南アフリカ政府公認サファリガイド)・南アフリカで、人と自然をつなぐ

太田ゆか(南アフリカ政府公認サファリガイド)・南アフリカで、人と自然をつなぐ

 太田さんは1995年アメリカロサンゼルス生まれ、神奈川県育ち。 立教大学観光学部に在学中に南アフリカのサファリガイド訓練学校に入学し、現地の資格を取得、大学卒業後の2016年からグレータークルーガー国立公園にてガイドとして活躍しています。  ガイドの傍ら罠にかかった野生動物を救助、密猟からサイを守るためのプロジェクトなど野生動物の保護活動にも取り組み、そうした野生動物を取り巻く現状とサバンナの魅力を広く伝えようと、動画やSNSなどを使って積極的に発信しています。  2023年にはその活動の様子を綴った「私の職場はサバンナです」と言う本を出版しました。 

南アフリカの北東部に位置するクルーガー国立公園に広さは四国がすっぽり入ってしまうぐらいの広さです。  アフリカでも有数の保護エリアになっています。  哺乳類は114種類、鳥類は960種類ぐらい、虫は2万種ぐらいいます。   南アフリカは今は冬です。  朝は4℃ぐらいまで下がって、昼間は30℃ぐらいまで温かくなります。  動物たちにとっては厳しい季節になります。  乾期なので段々干上がってゆく水の中でどうやって生きるか、と言った感じです。 

サファリガイドとしては、世界中から野生の動物を観たいお客さんが来て、四輪駆動のサファリカーに乗ってもらって、広大なサバンナの中で動物を見つけ出すのがメインの仕事です。 見つけ出せたらこの動物に関するいろいろなことを解説します。  水場とか、なわばりをもつ動物がいるので、そういったところを重点的に探します。  後、音も頼ります。 寝ている時もいろいろな音が聞こえてきます。   サバンナなので不便なことは一杯あります。   ものが壊れたりすると自分で直すのが当たり前です。   棘が多いので服に穴が開くのは当たり前です。(いちいち直さない)  南アフリカのご飯は美味しいです。  普通の洋風のご飯と言う感じです。  

小さいころから自然と動物が大好きでした。  環境保護に興味を持つようになって、たまたまネットで見つけたアフリカでのサバンナ保全プロジェクトに参加したのが初アフリカのタイミングでした。   こんなところで働けたらいいなあと感じました。  サファリガイドと言う仕事があることを知りました。   大学3年の時に休学して1年間サファリガイド訓練学校に入学し、現地の資格を取得しました。  実技系と筆記系があります。  出会った時の動物との距離の取り方、安全に観察することが一番大切なので、現場でないと学べません。  種類ではなく個体によって反応は違います。  動物の気持ち、表情、ストレス感、とかを読み取るというのも訓練学校だから学べるものです。  8割は南アフリカ人で、2割は外国人と云った感じです。  英語が出来なかったので周りに助けてもらいながら勉強しました。 

都会では感じられない贅沢な生活があると思います。  自然のリズムに沿って暮らす事は本当に人間にとって必要な事だと思います。  個体認識できるようになると、同じ動物でもそれぞれ違う性格、特徴があります。  

*像が水を飲むときの音  録音を聞く。 鼻で吸って貯めて口に放出する。 綺麗な水を吸いたいので水面にそっと鼻を近づける。  

常にアンテナを張るのが日常です。  ライオンの足跡が古いか新しいか、時系列を判断する事はサファリガイドの必須のスキルです。   ウンチが一番重要です。  ウンチを開くと何を食べたのかとかいろいろな情報が判ります。   

サバンナでの環境の変化は、乾燥した地域に行くと気候変動の影響は顕著に出ています。  10年間近く干ばつが続いているところもあり、草が生えなくなっていて、草食動物がいなくなり、肉食獣も減って行きます。  ライオンも村の家畜を襲うようになります。  人とライオンの殺し合いみたいになってしまいます。  

  








2025年8月2日土曜日

桂文枝(落語家 六代)          ・落語家60年目にみる景色(後編) ~落語家として生きて~

桂文枝(落語家 六代)   ・落語家60年目にみる景色(後編) ~落語家として生きて~ 

大坂出身82歳。   母一人子一人で、母の兄弟に預けられて育ちました。  姉の叔父さんに連れられてNHKの第一スタジオの「お父さんはお人よし」を観て笑いに目覚めました。  高校になって演劇部に入って先輩に直井さん(レッツゴー3匹の真ん中にいるレッツゴー正児さん)がいました。  漫才を観て面白そうだなと思いました。  自分で書いて相方と始めたのが漫才でした。  直井さんがプロになってはじめた時の相方が横山やすしさんでした。  その後別れて最終的に横山やすしさんがきよしさんと組みました。  その年に私はこの世界に入りました。  私と組んだ相方が漫才を辞めることになり私は大学に入りました。 大学の2年の時に落語研究会を作ろうという話もあり、桂米朝師匠の公演を観て、感銘を受けました。

落語研究会を作ることに参加しました。  部長になって浪漫亭ちっく」の芸名を付けて授業にはあまり出ませんでした。    この先はと思った時には落語しか頭の中にはありませんでした。  プロになるように回りから言われてプロになりました。   同じ世代の人に聞いてもらうのと、世代の違ういろんなお客様に見せるのとこれほど違うのかという事を、厭と言うほど思い知らされました。  師匠の言うとおりにやっても受けませんでした。  受けるにはどういたらいいのか、悩んで悩んでやり始めて受けるようになってゆくというのが良かったと思います。  深夜番組に出るように師匠から言われて、いったら同年代層の人たちで、学生時代と同じような感じでやったら、凄く受けプロデューサーに気に入っていただきました。  

ラジオに出て有名になって、レギュラーが10本ぐらいもありました。  落語もやらないといけないという思いもありました。  長門裕之さんからいっそ落語を辞めて、司会者などになったらどうかと言われました。  悩みましたが、初心は忘れてはいけないという事で長門さんには落語を続けていきたいと話しました。  座布団を5枚贈られてきました。 合間合間に稽古をやり続けました。   「新婚さんいらっしゃい」で司会をやり始めて、51年3か月続けてやりました。  落語の話し方とは違う話し方をしているうちに、自分で落語を作ってみようと思いました。  意外と作ることができました。  創作落語現代派と言う名前をつけて頂き、声を掛けてさんまさんとか鶴瓶さんも出ました。  そこからずっと続いていきました。  いろんな創作落語をやってきました。  古典をこんな風に枝雀さんがされるようなものになったら私は到底出来ないなあと思って、新しい落語を作り出しました。  枝雀さん古典に戻りましたが、私は古典落語に戻る暇もなく創作を続けてきました。 

60歳の時に上方落語の会長に就任しました。  上方では60年振りとなる天満天神繁昌亭を開場しました。  上方落語家も300人に近づく勢いになりました。  上方落語を観ていて非常に危うい感じになって来ました。  落語を何とかせねばいかんと言う気概がちょっと薄れているような気がします。 また漫才に押されているという面もあります。  漫才へはいろんなところで1万組ぐらいが応募します。  落語は300年の歴史があり、10ぐらい覚えたら十分にいろいろな仕事が出来るんです。  それだけで満足してしまうと言うきらいはありますね。  漫才は苦労して苦労して頂点を目指してやっている。  まくらがあって本体があって下げがあって一つの落語ですが、どこに山を持っていくかとか、落語界のなかに教室をもって、次の世代の人のためにやってみようかなとは思っています。 

落語家がなかなか出て行けるところがないので、お客さんの前でしゃべるという事が大事なので、正統にやって欲しいと思います。  そういった場を増やしていきたい。  最後の最後まで落語に関わって、最後の最後まで落語をやって行きたい。  面白い落語を必ず500作完成させたい。















 

岡本知高(ソプラニスタ(男性ソプラノ歌手))・ソプラニスタの声が響くとき

岡本知高(ソプラニスタ(男性ソプラノ歌手))・ソプラニスタの声が響くとき 

岡本さんは高知県宿毛市出身。 その澄んだ高音と圧倒的な存在感でクラシックの枠を越えておおくのファンを魅了してきました。  宗教曲やオペラはもちろん、日本の唱歌やポップスなど幅広いジャンルを歌い、そして個性あふれるキャラクターと華やかな衣装でも注目を集めています。  岡本さんのこれまでの歩みを振り返りながら、声を通して音楽の楽しさや力をどう伝えてゆくのか、その思いに迫ります。

身長は175cmあります。  ヒールが5cmで衣装も大きいので巨大に見えます。  岡本さんは変声期を経てもなおソプラノの高音域を自在に響かせるという、世界的に稀有な男性ソプラノ歌手です。  国立音楽大学を卒業後にパリ市立プーランク音楽院を首席で終了しています。  奇跡の歌声と評される歌声は聞く人の心の奥に優しく届いていきます。 クラシック界はもちろんですがあらゆるジャンルのファンを魅了しています。  印象に残っているのは2021年の東京オリンピックの閉会式でオリンピックソングを歌いました。

*「ボレロ」  作曲:モーリス・ラヴェル  歌:岡本知高

ソプラニスタ(男性ソプラノ歌手) 少年のボーイソプラノもソプラニスタです。  裏声でソプラノを歌える方もソプラニスタです。  僕の場合は生まれつきのソプラノです。  足がちょっと痛い痛いと思っていたら、先生の診断ではペルテス病という股関節の難病でした。  小学1年生から4年生までの間、家族と離れ特別支援学校で過ごしました。  皆親元を離れて施設に集まって生活をしているという同じ条件ですし、皆障害と向かい合って戦っているので我慢を抱えているんだけれど、でも逞しいんです。  身体が動かせなかったので、夜になると先生方が歌を歌う時間を設けてくださいました。  僕にとっては大きな最初のステップだったと思います。  地元に戻って5年生からピアノを習いはじめました。中学では吹奏楽部に入りました。   サックスを担当することになりのめり込んで行きました。  音楽の先生になりたいという思いが湧いてきました。  高校も吹奏学部でした。  

楽器から教育の受験コースに転向しました。  入試科目に声楽がありますので高校3年で声楽の門を叩きました。 (愛媛県宇和島市 神﨑克彦先生)  ソプラノは声が出るが、低い声にチャレンジしたんですが、駄目でした。  その場で国立音楽大学の瀬川先生に電話をして東京に行くことになりました。  特殊な声で個性的なので声楽科を受験してみてはどうかと薦められました。  入学後声楽の基本から習いました。  大学4年でデビューしました。日本初演のドイツ捕虜兵たちの演奏(徳島県鳴門の収容所)を再現した第九でした。  君の声はカウンターテナー(裏声)じゃあないと言われました。 カウンターテナー(裏声)は緻密なテクニックの上に成り立っている。  ソプラニスタという言葉を知って、ソプラニスタと名乗って大学の卒業のコンサート(成績上位者)で歌って卒業しました。

国立音楽大学を卒業後にパリ市立プーランク音楽院を首席で終了しました。  先生にたどり着くまで13人でした。  もっと広いジャンルに向かった方がいいと言われました。  フランスではフランス語を大切にする国なので、自分では日本語を大切に歌う歌手になりたいと思いました。  日本に帰ってきて「スタジオパークからこんにちわ」と言う番組でした。  そこから芸能の道が広がって行きました。   歌が好きだという事が心の根っこにありました。  歌はオペラであれ、歌謡曲で有れ、僕の中では一緒で境目がないという感じです。

学校訪問コンサート、神崎先生から誘われて宇和島の体育館のコンサートで歌ったのが、僕の初ソロコンサートでした。  肥っていたので生地を買ってきて自分で工夫して衣装を作り始めました。  衣装は良かったが首から上に違和感がありました。  化粧も工夫してやがて顔と衣装が一体化したという瞬間が訪れました。  大学時代は勉強でしかなかった歌が、今は人に喜んでいただけることが嬉しくて、お返しするものだと思ってステージに立っています。  奥深さは年齢を重ねた方が出ると思います。  歌はうまいからいんじゃなくて、そこになる味わいに、歌っている自分、聞いて下さる方々が心を震わせた時に、歌の魅力が生まれると思うので、味わい深い歌が歌える歌手でありたいと思います。

*「あなたに太陽を」  Kiroro玉城千春書き下ろし新曲  歌:岡本知高










2025年7月31日木曜日

澤田勝彦(松山商業野球部 元監督)     ・“奇跡のバックホーム”が教えてくれること

 澤田勝彦(松山商業野球部 元監督)     ・“奇跡のバックホーム”が教えてくれること

1996年の夏の甲子園の決勝、愛媛県の松山商業対熊本工業の試合。  同点で延長戦となり、絶体絶命のピンチとなった10回の裏を奇跡のバックホームと言われた好プレーでしのいだ松山商業が延長11回に勝ち越して熊本工業を破り27年振り5回目の夏の甲子園優勝を飾りました。  この時の松山商業の監督が澤田勝彦さん(68歳)です。  澤田さんは愛媛県松山市の出身で、松山商業、駒沢大学で活躍し、1980年に母校松山商業のコーチに就任、1986年夏の甲子園準優勝を経験した後、1988年9月に監督に就任しました。  監督としては春夏併せて6回甲子園に出場し、96年夏の甲子園で優勝、2001年の夏の甲子園ではベスト4進出を果たしました。  その後愛媛県の北条高校を定年まで勤め、松山商業野球部OB会の顧問として部を支えています。

1996年の夏の甲子園の夏の優勝から来年で30年になりますが、あっという間でした。  奇跡のバックホームと言われるが、いろんな要素が含まれていると思います。  起用に彼が答えてくれた事には監督と選手との信頼関係があったとか、彼の練習を実証してくれたとか、様々なことを表してくれた、そしてその後の後輩に対してもいい教訓を与えてくれたことを含めて色々な要素があるバックホームになったと思います。 

私の高校時代は全国制覇を成し遂げた一色俊作監督、大学時代も全国制覇を成し遂げた太田誠監督と言う名将から指導を受けました。  学んだことを一言でいうと人間力だと思います。  野球をする以前に人としてどうあるべきかと言う事を叩きこんでいただいたと思います。  「目標は全国制覇、目的は人間形成」と言うスローガンを監督となってから掲げました。   ワンプレイごとに必ず人間性が出てくると思いますから、人間性を磨いておかなければ、特に土壇場の境地におかれた時には、人間力、人間性と言うものが如実に表れます。   信頼関係は一日二日で出来るものではありません、一日一日の積み重ねです。   

雪が降る真冬に上半身裸になってノックをやったという時もありました。  二人でノックをやっている時にショートのキャプテンの水口(後年近鉄に行く)が、急に上半身を脱いで「こいや」と叫んだら、内野の選手からボール拾いの選手まで全員が上半身を脱ぎました。 あの光景はいまだに忘れません。  彼の統率力が出ました。  当時の監督と私の目が合って自分らも脱がなければ駄目だと思って上半身を脱いで熱く盛り上がりました。

96年の夏の甲子園に出場、10年振りの決勝進出を果たす。  東海大三高さんに一回戦で8-0と勝てたことが、すべてのプレッシャーから解き放たれたと思います。  2期連続一回戦敗退と言う事でしたから。  決勝では熊本工業で初回に3点を取ることが出来ました。(押し出しが2点)   2回、8回に一点ずつ返される。  9回裏2アウトランナー無しと言うところで、沢村選手に同点ホームランを打たれる。  相手は10回裏に2ベースヒットを打って、この場面でピッチャーをエースの新田投手から渡辺投手に変える。

送りバントで1アウトランナー3塁、1番バッター、1番バッターを敬遠して満塁策を取る。  ピッチャーの後ライトに回っていた新田選手から矢野選手をライトに変える。  次が3番の左打ちの好打者だったのでライトが気になった。   後のピッチャーのことをことを考えるとどうしようかなどと頭がぐるぐると廻ったが、直ぐ決断をした。(矢野選手をライトに変える事)  打たれた瞬間に終わったと思いました。  矢野選手はフライ(逆風で失速)をキャッチしてダイレクトでホームに返球した。  

矢野選手は普段からバックホームが苦手な選手でした。(チームメートからも信頼を置かれないような選手だった。)   判定はアウトになり難を逃れる。   矢野選手は同級生から土下座されて辞めてくれと言われて(私は彼らの卒業後に知った。)、こたえたと思います。  自分への不甲斐なさの葛藤もあったと思います。 全てがあの一投に出たと思います。  矢野選手が11回の表に2ベースヒットを打って、そこから3点を取って6-3で松山商業が27年振り5回目の優勝を飾る。 

「勝機一瞬」勝ちに結びつけるためには一瞬を大事にする。  どう取り組んで、どういう生活をして行かなければいけないのか、磨かれた人間力が成績に現れたことと思います。   高校野球はひたむきさだと思います。










   

2025年7月30日水曜日

立川志の春(落語家)           ・一寸先はわからない

立川志の春(落語家)           ・一寸先はわからない 

志の春さんは大阪の出身。  父親の転勤で8歳から3年間アメリカニューヨークで過ごし、帰国後千葉の高校からアメリカのイエール大学に留学、卒業後商社で鉄鉱石を扱う部門で働きます。  2001年に偶然立川志の輔さんの落語を聞いて衝撃を受け、商社を辞めて落語家の道を歩む事になります。  26歳で志の輔さんに入門して、2011年に二つ目2020年に真打に昇進しました。  古典、新作とどちらも見事にこなす今注目の落語家です。  また英語で落語をする英語落語で海外の人たちにも喜んでもらうなど、新しい試みを行っています。

昭和51年生まれ、48歳です。  師匠は二刀流なので新作もやるように言われています。   新作を自分で作ってみると古典がどれだけうまくできているかと言うのを、再確認できます。  手持ちは古典が120ぐらい、新作が50ぐらいです。  新作は一回やった後、練り上げてゆく事が必要ですね。  子供の頃は相撲が好きでお相撲さんになりたかった。  スポーツは好きでした。  父親の仕事の関係で8歳の時にニューヨークに行きました。  順番にクラスの仲間から英語を習って、聞く方は半年、1年で出来るようなりました。 

帰国後、千葉県柏市で育つ。 渋谷教育学園幕張中学校・高等学校と楽しく過ごしました。     イェール大学に留学しました。 (親は猛反対でした。)   イェール大学に行くことは、英語が全く話せない8歳の時の恐怖の時の方が大きかったです。  大学では中国史を選択しました。  日本のことをもっと知りたい、経験したいという思いがありました。   日本通の友達から日本映画のことなどについて衝撃を受けました。  帰国後三井物産に入りました。  鉄鉱石を扱う部門に配属されました。  2年後に立川志の輔の落語と出会いました。落語ってこんなに面白いものだという事に度肝を抜かれました。(25歳)  その後落語一色の日々になりました。  

立川志の輔師匠に履歴書をもって会いに行くことになりました。  会社勤めを続けながらアマチュアとして落語を楽しむ方が、一番幸せではないのかと断られました。  会社を退職して再度会いに行きました。  弟子ではなく見習いと言う立場でスタートしました。  今やっておかないと後悔をするという確信はありました。  3番弟子となったのが26歳。 2011年に二つ目2020年に真打に昇進しました。  カルチャーショックでした。 アメリカでは褒めてのばすようなやり方に対して真反対でした。  気を遣うという事はむずかしかったです。  13回も破門されるようなことがありました。 

英語落語をやっています。  基本は海外に行ってやると言う事ですが、日本でも日本人と外国人が混ざったような会場で行います。  基本的には古典落語を訳してやっています。   げらげら笑うし、泣く時にはワーワー泣いているし落語の力を感じます。  AIで訳した古典落語を見せてもらったことがありますが、結構いい線いっているんです。  落語家になることに反対していた両親もよく見に来てくれています。  弟は大学卒業(オックスフォード大学数学科)後、劇団四季に6年ぐらい在籍して、今はミュージカルのプロデュースをしています。  子供の頃に新しい環境に入ることがそんなに怖くないという免疫が付いていた、それが今に繋がっていると思います。  出来るだけたくさんの古典落語を訳して、普遍性が備わっているからこそ、どの国の人が聞いても面白いし、人種、宗教観、とかがもろもろの人たちが同じ場で笑えるのが落語の笑いだと思うので、やって行きたい。  新作も普遍性が供えているものを作れるというのも一つの目標です。 







2025年7月29日火曜日

永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・老いを照らす短歌

 永田和宏(歌人・細胞生物学者)      ・老いを照らす短歌

永田さんは1947年生まれ、千葉県出身。  湯川秀樹博士に憧れて京都大学に進学し、同時に入会した京大短歌会で後に妻となる歌人河野裕子さんと出会いました。  短歌と科学の2足の草鞋を履き続け39歳で京都大学の教授となります。  短歌では迢空賞、現代短歌大賞を受賞、又研究では日本人として初めてハンス・ノイラート科学賞を受賞するなど、どちらの世界でも第一線で活躍して来ました。  現在は宮中歌会始の詠進歌や新聞歌壇の選者、宮内庁御用掛、JT生命誌研究館館長を務めています。 2010年に妻の河野裕子さんが亡くなってからは二人の思い出を作品として発表し、ドラマ化もされました。  永田さんは今年の春、エッセイと短歌で綴る「人生の後半にこそ読みたい秀歌」を出版しました。   河野さんを亡くして15年ご自身後期高齢者となり、老いを迎えるための人生観を古今の短歌に探りました。

細胞生物学者と言うのは、細胞は一番小さな生命の最小単位ですが、細胞が生きて行くためには、細胞のなかにはタンパク質だけでも10万種類ぐらいのタンパク質がそれぞれの役目を果たしながら細胞の命を支えているわけです。   それぞれのタンパク質がどのような働きをして、細胞が生きて行くためのこの部分にこんな仕事をしているというのを研究しているわけです。  コラーゲンが作られるためには作るのに別のタンパク質が必要で、私が見つけた分子シャペロン(分子介添え役 さまざまな物質で混み合った細胞内で、フォールディング途上の不安定な中間体や熱で変性したタンパク質が凝集にならないようフォールディングを助けているタンパク質が存在します。) はアメリカ留学中に見つけました。  この研究を長くやっていました。   

タンパク質はアミノ酸が連なったものですが、間違って不良品のタンパク質が出来ます。  そのままにしておくといろいろな障害が起きます。  例えばアルツファイマー病、パーキンソン病とかいろいろな神経変性疾患を起こす。  間違って作られた不良品のタンパク質を如何に除いてやるか、元に戻してやるかという事がとても大事で、これをタンパク質の品質管理と言います。  間違って作ったら直そうとしますが、どうしても直せなかったら分解してい仕舞う、こういう品質管理の機構が働いています。 それに関わる新しい遺伝子をいくつか見つけました。  サイエンスの面白いのは一つ答えが出た、やったと思うと必ず別の問いが出てくるんです。 

歌の方で言うと、或るものを見た時に自分だったらこんなふうに感じるだという、自分だけしか感じられない思いが出てくる。  それを言葉にして表現できるのが非常に楽しいです。2つのことをやるというのは、後ろめたさ以外なかったですね。 

「人生の後半にこそ読みたい秀歌」  人生後半、老後と言うのはどんどん面白くない人生になってゆくようなイメージを持ちます。  後半の方がいろんなバラエティーがあって、年齢、時間に裏打ちされた感じ方の深さがあって、この一冊にしてみて自分で発見でした。

動物は性の成熟年齢と言うものがあって、子供が生めるようになる、子供が生めるような年齢から最大寿命は大体5~6倍とだいたい決まっている。  人間だけがそれよりもはるかに長く生きる。  生命にとって一番のミッションを解かれたあとの生の時間をどんなふうに生きるかという事は、最近になってようやく直面した問題でもあるわけです。  人生後半になって詠んだ歌を読んでゆくというのは、とても大きな示唆、ヒントを与えてくれる。

「人は皆慣れぬ齢を生きているゆりかもめ飛ぶまるき?曇天」  私の娘の歌

皆初めての齢を生きているという事に気が付いた歌。 人生の後半もいろんな後半があるんだよという事を紹介したい。  共感と自分にないことに対しる驚きと言うのは歌を読んでいくと色々あります。  

「明かる過ぎる秋の真昼間百円の老眼鏡をあちこち置く」  共感できる。

「銀行の監視カメラにお辞儀して嬉しくおろす初の年金」 

「老衰をわがするまでにかかるという数千万円を悲しく思う」  稼ぎつつ老いて行かなければならない。  どんなふうに人生設計しなければいけないのだろうか、と言った歌。

この20年気が付いた歌に介護のジャンルの歌が大きな割合を占めるようになった。

「浅き眠りの父をかたえに?読みふける介護の歌なき万葉集」  言われてみるまで考えたことがなかった。

「初めてのおむつをした日母が泣いた私も泣いた春の晴れた日」  こういう時代になったんだなとよくわかります。  こういった経験をした人は多いと思います。

妻が亡くなりましたが、ありえないことが起きたという感じでした。  がんの歌を作ると妻が死ぬという事をどっかで思い浮かべながら作ることが多いので、作らなかったんですが、再発してからはそうも言っていられなくなり、

「歌は残り歌に私は泣くだろういつか来る日をいつかを恐る」?  普段の言葉では言えないが、私の歌を読んで気持ちを一番よくわかってくれただろうと思います。

「お父さん頼みましたよわが髪を撫でつつこらえ残せし言葉」  亡くなる2,3日前の歌です。  

娘の言った言葉に、「歌を一首つくると時間におもりが付く。」と言いました。  一首作るとその時の時間がありありと思い出される。  歌がなかったら思い出なんてどんどん少なくなっていって、限られた思いでしか残らない。  他人の歌なのだけれども、自分の思い出としてよみがえって来るという歌がいくつもあります。  

「逝きし夫(つま)のバックの中に残りし二つ穴空くテレホンカード」                  今亡くなろうとしている人に「ありがとう」と言う言葉を伝えるくらい難しいことはないですね。  言ってしまったら別れを告げるに等しい。  

市川康夫?先生の所へ亡くなる前の日に行ったことがあります。  先生にはご厄介になったので「ありがとう」の一言が言いたくて行ったんですが、ついに「ありがとう」は言えませんでした。  「また来ます。」と言って病室を出たら、先生が「永田君 ありがとう。」と叫んだんですね。  私からも「ありがとうございます。」と言ったつもりでしたが、嗚咽の方が酷くて伝わったかどうかわかりません。  その夜に亡くなりました。 先生の「ありがとう」がその後の私を支えてくれたと思います。

人生後半、気を付けないと自分の生活圏がどんどん狭くなってしまう。  刺激が少なくなって、喜怒哀楽が少なくなって面白味のない人生になってゆく。  いろんなものに共感するという事がとても大事です。   共感力を如何に高めて行くかという事が人生の後半でとても大事な事だと思います。   私は酒が好きなので酒の歌を結構作っています。  若山牧水は酒が好きで一日一升飲んでいた。   僕もそのくらい飲んじゃいます。  

「足音を忍ばせて行けば台所に我が酒の瓶は立って待ちおる」

寂しがり方が15年経つと段々違ってきます。  初め大きな欠落感がありました。

「あほやなあと笑いのけぞりまた笑うあなたの椅子にあなたがいない」  笑い出すと止まらない妻でした。  今の自分を観てくれているひとがいない、その寂しさが大きいです。  私は外で食べるという事が出来なくて、買ってきたもので食事を作ります。  作ることはできなかったので、妻が料理の仕方を教える取ったんですが、拒否しました。 それは妻の死を認めるという事になってしまうので。  独りになって段々作れるようになってきました。  今の自分を観て欲しいし、褒めて欲しい。  褒めてくれる人がいないという事は悲しい事です。  

宮内庁御用掛  3代前には直接皇居に行って、お会いして指導されていたようです。     以降はファックスになりました。  私の代からはメールが主になりました。   皇族の方々はメールで歌を送ってこられます。 

美智子様は現代に百人の歌人のなかにいれた方です。  未発表のものを私の方で選んで「ゆふすげ」と言う歌集になりました。  

「まなこ閉じひたすら楽ししたのし君のリンゴ食みいます音をききつつ」  皇太子のころにリンゴを食べている、美智子様が目を閉じて音だけを聞いている、それだけで楽し楽し。 

ヒントを差し上げるというスタイルで行っています。

二足の草鞋を履くという事には後ろめたさがあって、両方進めてゆくためには睡眠時間を削るしかないですね。  今でも朝4時ぐらいまで起きています。








2025年7月27日日曜日

中山秀征(テレビタレント)        ・ピンチがチャンスになる

 中山秀征(テレビタレント)        ・ピンチがチャンスになる

 中山さんは1967年生まれの57歳。  5歳の時に当時大人気だったフィンガーファイブに憧れて芸能界を目指します。  1985年お笑いコンビ「ABブラザース」としてデビュー」その後ソロとして活動を続け今年芸能生活40周年となりました。  数々のピンチをチャンスに変えて来た芸能生活について、又今年カンヌ映画祭で作品展を開催したライフワークの書道について伺います。

15歳で上京、今年で40周年。  今年カンヌ映画祭に書道家として御招待頂きました。   去年個展を群馬県でやりました。  去年の暮れに電話がありました。  デジタルアートをやっている赤松裕介君からでした。  彼は40年前、僕の家に下宿していたんです。  カンヌでコラボやりましょうという事でした。(詐欺かと思いましたよ。)  書道を始めたのは小学校1年生です。  小学校2年生で県に出展したら大きな賞を頂きました。  小学校、中学校と大きな賞を頂きました。  上京して以降時間がなかなか取れなくなってきて余りやっていませんでした。  子供には書道を習わせようと思って、そのついでに自分でも習い始めました。  毎日書道展で入選しました。  書道は自分の中では芯ですね。  個展をやらなかったらカンヌもなかったわけで、今やりたいと思う事はやろうと思いました。  40周年で自分の青写真をパンパンに埋めた感じです。

5月に「気くばりのススメ」と言う本を出版しました。  1か月で3万1000部突破しました。  まずは本気で相手の意見を聞いて、柳のようにしなやかに最後に自分の意見を言う。  徳光さんは話術、技術が凄いのは当たり前ですが、気配りの面で言うと、歌の特別番組で歌手の人は60名ぐらい出るわけです。  「中山秀ちゃんご丁寧にありがとう。」と言うんです。  どうしてかと思ったら徳光さんがゲストの方に手紙を書いていて、 僕の名前と竹下さんの名前が連名なんです。  手書きで書かれていて、凄いなあと思いました。

志村けんさんと出会ったのは30歳前でした。  良い言葉を一杯貰いました。  「いつまでも馬鹿でいろよ。」と言う言葉で「お前は司会をやったり情報番組などをやってゆくと思うが、知識が入って勘違いしてゆく。  そうすると人からみて上から目線になってゆく、上から目線になったら絶対駄目だから気を付けろ。」と言われました。  司会者はかっこよくやりたいという思いがどうしてもある。  

「週刊金曜日」と言う萩本欣一さんの番組があり風見慎吾さんがバンドを勇退することになり、新メンバーを水面下で募集することになりました。  僕が16歳の時でした。  今週のゲストは聖子ちゃんなので、トランペットで「赤いスイートピー」吹いてくれる?と言われました。  トランペットは吹いたことはなかったんですが、夜までには吹けるようになりました。  金ちゃん番組?と書いてありました。  意味が分からなかった。  「実は風見さんが戻るという事になりました。」と言われました。 (脱退無し。)  ピンチに落ち込むことはあると思いますが、しょうがないと思って、面白い方に振ってみる。  自分で深みにはまらないようにしているのかもしれません。 

ピンチをチャンスにその①  呼ばれてもいないのに上京して栄養失調になった16歳。  フィンガーファイブに憧れ、中学2年で劇団にはいります。  3か月でテレビに出ることが出来ました。  行けそうだと思って上京したが、その後は受からなかった。  栄養失調になってしまいました。  倒れて病院に行ったら栄養失調と言われました。  オーディション雑誌から片っ端から受けて、その一つが大手の渡辺プロダクションでした。  

ピンチをチャンスにその②  歌も芝居もイマイチで、バラエティー班にぎりぎり引き取ってもらう。  譜面も読めないし楽器も出来ないし、芝居の方がいいのではないかと言われました。  芝居をやり出したら芝居もイマイチだなあと言われてしまいました。  バラエティーは最後の砦でした。  高校から帰ってくるとレッスンを毎日やりました。  そのなかには作家志望の三谷幸喜さんもいました。  1985年、同プロダクションの松野大介さん(現在は小説家)とコンビ『ABブラザーズ』を結成しました。  

渡辺プロダクションの社長が亡くなってから、変って行きました。  社員も辞めてゆく人たちが居ました。  先輩たちも辞めていきました。  クレージーキャッツは残って、俺と松本明子だけになってしまった状態でした。(20歳)    チーフの塩崎さんが、ここをチャンスにしようじゃないかと言う考え方でした。   それ以降渡プロの形が随分変わって行きました。   今では一番大きいのはバラエティー班です。  

ピンチをチャンスにその③   お笑い第3世代の波に飲まれて負けを認めた。  第3世代は「ダウンタウン」「ウッチャンナンチャン」 などでした。  連中は小さい時から志が一つで来ている、もうやらなくていいよと言われました。  ただ一人としてはこれからが勝負だと言われました。  自分の戦い方を見つけようと思いました。  歌、ドイラマなどをトライしました。  辞めたいと思ったことは一回もないですね。   テレビでは一人ではできなくていろいろな人が時間をかけて作ってきたものを僕たちは演じているわけで、丁寧に表現してあげたいと思っています。  書道も個展をやろうと思っています。










 








2025年7月25日金曜日

鴻巣麻里香(ソーシャルワーカー)     ・私とあなたを区別する境界線 “バウンダリー“とは?

鴻巣麻里香(ソーシャルワーカー)  ・私とあなたを区別する境界線 “バウンダリー“とは? 

鴻巣さんは1979年生まれ。  一橋大学大学院を修了後、ソーシャルワーカーとして精神科医療機関に勤務、東日本大震災の被災者、避難者支援を経て2015年福島県白河市に非営利団体「KAKEKOMI」を立ち上げ、地域に暮らす生きづらさを抱えた人たちの支援の携わっていましたが、鴻巣さんは人間関係のトラブルやもやもやの多くは、自分と相手との間にある心の境界線、バウンダリーを侵害したりされたりすることで生じると語ります。  自分や相手のバウンダリーを守るのにはどうしたらいいのか、子供と良好な関係を築くため気を付けたいことなどについて伺いました。

非営利団体「KAKEKOMI」 ミッションとしては社会的な孤立と言うものを防止しようという事です。  活動としては大きく分けて2つあります。  ①子供食堂 週に一回子供、大人を含めて一緒に食べましょうと居場所を作る事業。  ②貧困、暴力などから抜け出したいが難しい人たち(女性)を対象としたシェルターを運営しています。 2015年に子供食堂を作りました。  私自身子供の頃いじめを経験し母親(外国人)にも相談できずに、居場所がありませんでした。   困難から遠ざかることが出来なかった。  食へのいろいろな困難さがあったので、作ったわけです。  私は料理は大好きですが、私自身は余り作らず子供が作ったご飯を、大人がお金を出して食べるという、変った子供食堂です。 高校生のスタッフたちが中心になって料理をして、小さい子が絡んできたりします。 

子育て中の母親にも気楽になれる場所があってもいいと思います。  良いことをする前に、害になることを辞める。  その子の容姿、体形などに一切コメントをしない。  許可なく身体に触らない。  性別で役割を押し付けない。 勝手に予定やルールを決めないなど。   小学生でダイエットをしたいとか、整形したいとかと言う声が珍しくないです。  身近な人たちから体形、容姿をからかわれるとかがきっけけになることがあります。  SNSとか広告が強く影響していると思います。   

バウンダリーは自分と他者との間にひく、お互いを守るために越えてはならない存在する境界線のことです。 (心の境界線)   赤ちゃんが生まれてから段々と親との境界線が育まれて行きます。  それが段々広がって行き、それぞれとの中に境界線が少しづつ構築されて行きます。  バウンダリーの太さ、強度は一定ではないです。  バインダリーの調節機能が壊れてしまうと、自分に対して嫌な事いじわるなことを言ってきても、境界線が緩くなってしまうと、その人の言っていることを全部受け入れてしまい、自分は駄目なんだと落ち込んでしまう。  反論も出来なく、厭なこと受け入れてしまう。  

無意識のうちに親が子供のバウンダリーを侵害していることは結構有ります。  大人の考える美醜の基準でジャッジしたり、子供の趣味を否定したり、意見を押し付けたり、子供に失敗を責めたり、いろいろあります。  つい心配から口出ししてしまう事は多いと思います。  親が道をしっかり整えた上を子供が順調に歩けたとしても、果たして子供自身は自分自身の力で歩って来たのか、誇れる様になるかどうか。  子供には躓いて欲しくないという思いは当然持っていますが、そのことばっかり力を注いだら、世の中の傾向が強まるだけで、変な世の中になってしまうので、その大人のエネルギーを何度躓いてもいいから、何度でもやり直しが出来るような世のなかにするにはどうしたらいいんだろうと、ちょっとそのエネルギーを持って行った方がみんながハッピーになれるのではないかと思います。 

子供が秘密を持つことに対して、親が過度に不安になる時は子供との間に話してもらえないという溝が出来てしまっている。  その溝はたいていは大人の側に何かしらがある。  私の願い、私の不安、とかまずは別々のお皿に出すことから始める。  テーブルに並べてみんなで見る。  それが対話かなと思います。 子供の声を聞く。  最善の答えをみんなが探してゆく。  時間をかけてゆく。  夏休み明けは子供が心と身体の健康を崩すいろいろなリスクを持っています。  夏休みはきっかけで有り原因ではない。  

















2025年7月23日水曜日

2025年7月20日日曜日

佐藤克文(海洋生物学者・東京大学教授)   ・海の生き物が教えてくれること

佐藤克文(海洋生物学者・東京大学教授)   ・海の生き物が教えてくれること 

現在58歳になる佐藤さんは、海中を動きまわる動物たちに小型の記録計をつけるという新しい手法で海の動物の研究を行っています。  その研究から重さ90トンのシロナガスクジラから500gの海鳥迄餌をとる時には、ほぼ同じ速度で泳いでいることを発見しました。  他にもアザラシやマッコウクジラはどのぐらいの深さまで餌を取りに行くのかなど、知られざる海の中の生き物たちの暮らしを次々に明らかにするる研究を行っています。 

動物の泳ぐ速さを測る装置をそれぞれの動物の身体に付けて調べたので間違いないと思っています。  餌を取る瞬間はダッシュしたり、動物ごとに変わりますが、呼吸をする水面と餌のある深さを往復するときの速度は同じでした。  時速4,0km~8.0kmです。 人間が早歩きする速度です。 一番少ないエネルギーで移動できる速さだったという事が判って来ました。  その手法をバイオロギング(陸上や海中の野生動物に行動記録用の電子端末「データロガー」を装着し、その生態を観察するサイエンスの分野または技術)と言う名前を付けました。  手法は1980年代から始まりました。  

野生動物を捕まえて身体にその装置を付けて、海に放してやります。 もう一回捕まえて回収する作業が必要ですが、2回捕まえることは難しい。  しかし、南極だと警戒心がゼロなんです。  南極が一番やりやすい場所でした。  水の中に入った瞬間に電波は使えないので、記録するという手法に頼らざるを得ない。  南極のウェッデルアザラシは一日中寝ていて、時々水のなかに入りますが、判らなかった。  バイオロギングで調査したら300mの深さまで潜っていたことが判りました。

私は1998年から2000年にかけて南極で調査を行いました。   夏の間はペンギンの調査、秋から春まではアザラシに新型カメラを取り付けて調査するのがミッションでした。 プラスチックのバンドで取り付けるんですが、寒さでポキポキ折れてしまうんです。  ステンレス製のホースバンドを使うとか、いろいろ工夫をしました。  春に子連れの母親に付けました。  回収したら5m~10mぐらいしか潜っていませんでした。 (300mぐらい潜る筈だと思っていたが)  親子のアザラシに深度記録計を付けてみました。  親子のデータが一致していました。  母親に後ろ向きにカメラを取り付けたら、一緒に後から泳いでくる赤ちゃんアザラシが撮影できました。  子供に泳ぎを教えるための潜水でした。  予想外の結果でした。  お母さんアザラシは子供を産んだ最初の授乳期間はでぶでぶに太っています。  400kgぐらい。  段々痩せてきて腹が減ってきたら、300m迄潜り始めました。  前向きにカメラを取り付けて、314mのところでいわしのような魚をパクっと食べる瞬間をとらえることが出来ました。  最初は浅いところで魚を捉えるが、あっという間に喰いつくされてしまって、深く潜らないと餌がない状態になるようです。 

国立極地研究所から2004年に東京大学海洋研究所国際沿岸海洋研究センター(岩手県)に移籍しました。  ウミガメと海鳥の研究をはじめました。  ウミガメは産卵は千葉県より南の太平洋側の砂浜に産卵します。   網にたまにウミガメが捕獲されるといことを漁師さんから聞きました。  翌年女性の助手がきて、漁師さんにウミガメが取れたら彼女のところに連絡するようにしたら、毎朝連絡が来るようになりました。  ウミガメをもらい受けて色々な調査をして、放流するときにバイオロギングの装置を付けて放流しました。  詳しい動き方、カメラに映る様子、1年間に及ぶ海洋経路を調べる研究を2005年からずっとやっています。(20年近く)   

どんな餌をどうやって食べているのかが判りました。  産卵期の雌のウミガメは餌を食べていなくて、事前に蓄積した脂肪で代謝を賄っていた。  アカウミガメは嚙む力が非常に強くて二枚貝、アワビなどを食べるのが通説として言われていた。 青年期のウミガメ(甲羅が50~60cm)に装置を取り付けて調査をしたら、ひたすらクラゲを食べていた。  大人になると甲羅が90cmぐらいになります。  

それぞれの動物がどういう経路で回遊しているかが、大分判って来ました。  思っていた以上に広範囲を泳ぎ回っています。  ピンポイントで同じ島に戻ってくることも判りました。 ウミガメ、サメ、ペンギン、アザラシ、クジラに共通な行動が見られました。  同じところでくるくると何十回も回るんです。 (餌取とは違くようだ。)   クジラは上にあがる時にらせん状にくるくる回っていた。   地磁気を精密測定したい人たちは、船、潜水艦などを使って潜水艦などはらせん状にくるくる回りながら、繰り返し測定をするという話を聞いて、それぞれの動物たちが精密な地磁気を測定している行動ではないのかと、今考えています。   犬も糞をする前にくるくる回るんですよね。   糞をしている方向を統計的に調べてみると、東西方向に偏っている。  南北方向に地磁気が走っているが、直交する方向に身体を向ける。  くるくる回って自分が行きたい方向に対して地磁気を使っているのではないかと思っています。  興味深い不思議な行動です。 

子供の頃から動物が好きでした。  小学校3年生から釣りにはまりました。  水産学科が釣りに一番深そうだと判りました。  京都大学農学部水産学科に入学しました。  卒論でウミガメに装置をセットして調査するという事が、自分で描いていた研究に近かったので、そのままこの道に入って行きました。  卒論は、四国の徳島の蒲生田岬の先端にウミガメが上がる浜があり、二頭のウミガメに取りつけましたが、一頭は5日後に網にかかってしまって、もう一頭は帰ってこなくて失敗しました。  そのまま大学院に行きました。  甲羅の4か所に穴をあけて取り付けていましたが、接着剤を利用する痛くない方法にしました。  4頭に取り付けたら4頭とも帰って来ました。  はまってしまって博士課程まで行ってウミガメで学位を取りました。  大学ではひたすら体育系のサッカーで身体を鍛えていました。  フィールドバイオロジーの分野ではこの体力はとてつもなくアドバンテージなるんだと実感しました。  帰って来るウミガメはどこに戻って来るのか判らないので、捜すために砂浜を一晩中合計10kmぐらい歩くんです。  その後南極へと向かいます。

バイオロギングを使うことによって、自分が思っていたよりもはるかに重要なことをデータが教えてくれるという事が良くあります。   意外な発見をするたびに、動物に教えられているような気がしてきます。   いま海洋プラスチックごみは大問題になっています。  カメは海洋プラスチックごみを食べても死んではいません。  日本全国の海岸に死んだカメが打ち上げられてその死因を調べる人たちがいますが、腸にプラスチックごみが詰まって死んでいる事例はほとんどないと言っています。  アカウミガメはプラスチックごみを見分けて食べませんが、アカウミガメは減少してきています。  アカウミガメに対してはプラスチックごみ以外の別の脅威があるという事です。  これは調べなければいけないことだと思っています。  プラスチックごみを食べてしまうアオウミガメは数を増やしています。  動物にとって何が良くて、何が良くないのかは、我々は判っていない。 

画像データは専門的知識が無くても面白いんです。  これを一般の方たちに観てもらうためのデータベースを作って、一般に公開するという事をやっていますが、まだ足りない。  水族館、博物館などにバイオロギングの成果を観てもらいたいので、データを展示するようなことを一生懸命やろうと思っています。