2023年3月31日金曜日

高田都耶子(エッセイスト)       ・父の教えを語り継ぐ

 高田都耶子(エッセイスト)       ・父の教えを語り継ぐ

途中からの放送になっています。

立派な彫刻で苦行の釈迦像というのを、先日法要したけれどガラスケースに入っていて、ガラス越しの法要だったのを、次回来る時にはそのガラスを外してもらいたいと言ったら、わかったということで、数年後行ったた時にはガラスを外してくれていました。   父がなぜそんなに親切にしてくれるのかと、私は仏教徒であなたはイスラム教徒、で異教徒ではないかと言いました。   我々にとってメッカは特別な聖地であって、メッカに巡礼に行った時にメッカの人たちの親切にしてもらうととてもうれしい。   仏教徒のあなた方にとってこのガンダーラは我々のメッカではないでしょうかと、だからメッカで受けた温かさをあなた方に振り分けたいと思っています、とこういう答えだったそうです。  そういったことを父は本に書いています。

宗教の違いを越えて、相手のことを認める、違いをお互いが尊重する、という事が第一歩だと思います。

1990年2月  高田好胤さんは数えで66歳、その時の話からです。

「涅槃経の中にこういう言葉があることを申し上げておきます。   弟子たちよ、これまでお前たちのために説いた私の教えの要は心を納めることです。   欲を押さえて己に勝つ事に勤め、身を正しく、心を正しく、言葉を誠あるものにしなければならない。    貪ることを止め、怒りを無くし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。 お釈迦様が最後に仏になった教えは全てのものは移り変わってやみません、諸行は無常である。   だから怠ることなく精進、努力に励んでほしい。    諸行無常とは盛んなるものが衰える、これが諸行無常のみならず、今は衰える状態であっても一生懸命に努力すれば、諸行無常の世のなかであれば、ぐんぐん成長してゆく、これが諸行無常です。  

生まれた赤ちゃんが歩き出して走り出して、成長してゆく、それも諸行無常です。   世の中は娘が嫁と花咲いて、かかとしぼんで婆と散り行く。   盛んに成長してゆくのも諸行無常、衰えてゆくのも諸行無常、含めて諸行無常です。   だから努力してくれよと、今成功しているから努力を怠れば、今の自分の成功を失う事になる。   すべてのことは移り変わってやまない。    一生懸命努力してくれ、怠る事のないように。  皆の衆や悲しんでくれることがないんだと、ここに四大仏跡、仏陀が私が悟りを開いたところ、私が初めて法を説いたところ、今私が涅槃に入るこのクシナガラ(佛陀の入滅の地)、そして私の生まれたカピラーバスウ、この4つの地に立ち、4つの場において、私を思い出してくれるその人の心の中に、私の教えはいついつまでも生き続けます。  

これがお釈迦様の最後のお諭しであります。  それが私どもが仏跡巡拝にあがらしていただくことに繋がってまいります。  常に無常を忘れてはならない。  もし心が邪悪に惹かれ欲にとらわれようとするならば、これを教えねばなりません、押さえねばなりません。  足るを知る、これが涅槃の生活だと言われます。   心に従わず心の主となれ、心は人を仏にし、又畜生にする。  迷って鬼となり、悟って仏となる。  弟子たちよ、この教えの元に相和し、相敬い、これが和敬であります。   争いを起こすことなく、水と土の様に和合せよ、水と油の様にはじけ合わない。     この教えの様に行わないものは私に会っていながら、私に会わず、私と一緒にいながら遠く離れている人である。     この教えの通りを行うものは、たとえ私から遠くに離れていても私と共にある人でございます、とお釈迦様の教えでございます。」

父は求めれば求める程菩提への道は遠くなる、されどこの道を行くとか、永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩というとか、それはお頼まれして書いていましたが、自分への叱咤激励だったと思います。  父の法話というのは普遍的ですし、きっとどなたかのお役に立つであろうと、これは自信があります。  父や橋本 凝胤のことを語り継いでゆくことが私にできる事かなと思います。






















2023年3月30日木曜日

鬼嶋正之(加治川を愛する会会長)    ・世界一の桜を再び

鬼嶋正之(加治川を愛する会会長)    ・世界一の桜を再び 

新潟県新発田市を流れる加治川沿いにはかつて6000本の桜が連なり世界一とも評されました。   しかし太平洋戦争や、度重なる水害を経て桜の木が激減し、景色が一変しました。 その後桜並木を取り戻したいという機運が高まり、当時合併前の紫雲寺町の町長だった鬼嶋さんは桜並木の復元活動を始めました。   一方で新発田市出身の作詞家たかたかしさんらが「加治川を愛する会」を立ち上げ、毎年桜の植樹を続けてきました。   現在会員は250名ほどで、今年25年目を迎えました。   故郷が誇る桜並木を次世代につなげようと取り組む鬼嶋さんに伺いました。

最初行政が加治川の沿岸の新発田、紫雲寺加治川などの市町村が提唱して、提桜復元促進協議会を作ってスタートしました。  他にもいろんなかたがたの思いがあり、今日に至っています。    昔は堤の上に植えることが許されていましたが、水害後堤を補強するなかで植えることが許されて、今植え始めて2130本ぐらいまで来ました。    雪をかぶった山脈が見え、菜の花も見えてコントラストがきれいです。   まさに絶景です。   4月の中旬ぐらいが見頃です。   

明治43年に日本海へ直接水を流すという大工事が認められて大正3年に完成しました。(110年ぐらい前)  それに併せて桜の木を植えようという運動が広がって、可成り短時間に6000本が植えられました。   東洋一、世界一と称されるようになり自慢の種だったと思います。   当時は大変な賑わいでした。  昭和19年ぐらいには物資がなくなって、ご飯を炊く燃料にも事欠く、農作業の杭が確保できないとかあり、桜を切ってその材料にしようという議論が起こったようです。   中心部は切らないで、上流、下流は1本ずつ間を開けて切ることになりました。   1500本切ったと記録されています。

昭和41年、42年続けて堤が壊れて、両岸に大変な水害が起きました。   川幅を広げる、河床を深くする、上流にダムを作るなどの治水対策をすることになり、今まで堤にあった桜を全部(4500本)切るという事になって、昭和46年工事に関わった人たちは涙を流しながら切ったという事です。  


何とか復元したいという思いが募っていました。  加治川の災害は人災であったと国、県が訴えられました。    加治川にもう一度桜並木を作るという事に対しては県や、国も気持ち的にはOKを出したいという気持ちはあったと思いますが。又訴えられたりしたら大変だという思いもあり、どういった形での許可となるか、模索の期間だったのかもしれません。  潤い、安らぎといった価値観も大事にしなければ、といった世の中の空気の変化も幸いして、水と親しむ、といった雰囲気などが国、県の背中を押したという事があったと思います。 4つの市町村が要請活動をして、堤を補強してそこに植えなさいという事で許可されました。  民間サイドからの働き掛けもあり今日に至りました。   2130本まで来ましたが、河川管理方針に従ってやっていこうとすると、容易でないところがあります。 今の経済情勢等々あって頭打ちになってきています。  副提が作りにくい状況下になっています。   

「日本桜の会」というのがあって、当時、美智子皇太子妃が名誉総裁をお勤めでした。  申請していましたが、昭和59年に1000本寄付しますという連絡を受け大変嬉しく思いました。  それがきっかけになりました。   加治川提桜復元促進協議会を作って新発田市長が会長で私が副会長でやってきました。  関心を持ち始めた方々がいて、「加治川を愛する会」の提唱者のたかたかし先生も加わりました。  子供達を巻き込んだ展開が心強かったです。  年ごとに順番に学校からバスで迎えて、堤を歩いて、植樹をするという地道に行ってきました。 会長を引き受けて今日に至っています。  肥料を上げたり、草刈り、害虫対策とか、子供達への思いという事で、子供達の心のなかに桜を植えようとか、役割分担をしながら活動しています。   

会の幹事でもある足立勝則?さんが写真を撮っていて、中学校の全卒業生に故郷を離れても桜を忘れないで、活躍してほしいという事で、先生、親に感謝の気持ちを伝えて欲しいという事で絵葉書を送らせてもらっています。   イベントも行っており、今年は4月5日から16日まで「加治川桜祭り」を行います。  16日には桜堤ウオークを自由参加で実施します。   「クリーン&ウオーク」という事でゴミを拾う運動と兼ねてやった時代もありましたが、そのお陰で川沿いがきれいになりました。   思い持ち続けるという事が大事だと思います。   故郷を自慢できる、そういう環境を充実させて、誇りにしてもらえればいいなあと思います。   

















 








 


















2023年3月29日水曜日

内倉真裕美(ガーデンライフ・アドバイザー)・〔心に花を咲かせて〕 注目の花の街は主婦の夢から始まった

 内倉真裕美(ガーデンライフ・アドバイザー)・〔心に花を咲かせて〕  注目の花の街は主婦の夢から始まった

北海道恵庭市恵み野地区は花の町として全国的に知られているところです。  とても小さな町でありながら去年はその恵み野地区を中心に全国都市緑化フェア―が開催され、多くの市民ボランティアが参加しました。  その花いっぱいな町はよくある新興住宅地だったところに移り住んだ一人の主婦の夢から始まったと言う事です。   ゼロからスタートしたという花いっぱいの町づくり、どうやって実現したんでしょうか。  畑がないと困るからとお嬢さんに言われて、今はガーデンライフ・アドバイザーを名乗っている内倉真裕美さんに伺いました。

恵庭市恵み野地区は元々は畑だったところです。   新興住宅街が出来上がって、1988年に移り住みました。(35年前)  2歳、2年生、4年生の3人の子供がいました。   学校に行くとここは何にもないところだというんです。   子供が誇れるような街を作りたいと思いました。   恵庭市は「恵まれた庭」と書き、札幌の大通り花壇に植えている花の約70%は日本産の花だと言われています。  ここは花の生産者も多かった。 恵み野はガーデンシティーじゃないかと、街つくりをするなら花だと言ってくれたそうです。  市制施行40周年を記念するイベントを考えたそうですが、花と暮らしたいという事が開催されたようです。  ガーデンシティーと呼ばれる花の町のクライストチャーチに行こうという話が持ち上がり、市の職員らを含めて13人が行きました。(私は入っていません)   スライド写真を見せてもらって、恵み野を花の町にしたいと思いました。   

クライストチャーチではガーデンコンテストを60年続けてやっているとのことでした。  それでは続ければできると思いました。   20,30年やったらで来るのではないかと思いました。     ガーデンコンテストを開催するにあたって、クライストチャーチに行った人たちに審査員になってほしい事とスポンサーになってほしいことを頼みました。   費用は5,6万円ぐらいかなあと言いました。  審査員が2万円ずつ出し合ってくれて、新聞、チラシ、広報に載せて募集をして、10数軒が応募してくれました。  2回目もあまり変わらず、審査方法等やり方を変えることにしました。  自分の足で見てきて、写真を撮って、勝手に審査して、勝手に当選しましたという、そういうやり方に変えました。 審査員を一緒に連れて行って庭の外から審査することにしました。   段々花で飾りつけをする家が増えてゆきました。   

全国花の街作りコンクールがあるから応募しませんかという話が持ち上がりました。    30人ぐらいに人たちの会員になってもらって応募しました。(スタートして4,5年後)   「花作り愛好会」という組織を作って応募しましたら、その年に建設大臣賞を頂きました。   受賞した事によって取材とかいろいろ入って来ました。  全国紙の女性誌ですが、16ページの特集を組んでくれました。   旅行会社が恵み野を入れたいという話が持ち上がります。  市に相談にいったが、市では対応してくれませんでした。  「花作り愛好会」のなかで話あったら、庭を作っている人たちが総抜けしてしまいました。  

すそ野を広げるために、翌年から図書館でガーデニング講座を月2回開催しました。    毎回人がたくさん集まりました。  新しく会員になって、花の街作りにも参加してくれるようになりました。    造園家、花苗を作っている人、研究所の方などの専門家に講師になっていただきました。(無料)   花の街づくりが前進していきました。      商店街のガーデンコンテストも行いました。  商店街の草だらけの花壇も恥ずかしいという事で花を植えたり、協力依頼をしました。  70%以上が賛成してくれました。   反対したところも自分で植えたりしてくれて大成功でした。   北海道ではテレビ、新聞などで紹介されるようになりました。  恵み野に学べという事で視察も多くなりました。商店街がきれいになったのは7年後のことでした。  

恵み野には4つの町内会があり、商店会、学校、花の会とかの団体で組織を作って、恵庭市に要望書を提出して、花の部署を作ってほしいとお願いしました。  建設部のなかに花と緑の課という課を作って、プランを推進してゆく部署が出来上がりました。    助成金、1/2助成を受けられるようになりました。   旅行会社が主催して多くの人が来るようになって、庭に入ってくるというトラブルも出てくるようになりました。  北海道全域のオープンガーデンの組織を作る事にしました。  北海道全域に分散するような形になりました。(10年後)    オープンガーデンが軌道に乗ったころに、北海道を庭園の島にしようという動きが出てきました。   「ガーデンアイランド北海道2008」という2008年を目標にして2004年からみんなで手作りでやって行こうという事で、動きだしました。  

「ガーデンアイランド北海道2008」(GIH)では個人の庭のほかに、公共の庭、公園も含んで、大きな施設のガーデンもいくつかできてきて、紹介する冊子も作っています。 旅行会社も花をめぐるツアーも企画してくれるようになりました。   

色々な団体、組織とかの肩書が24ありますが、大まかには10ぐらいです。 専業主婦なので空きの時間負荷をかけることはできます。  ブレインとか様々にいます。     うまくいくコツは、夢を語る、こんな街になったらいいよね、と話すことですかね。    若い人たちも戻ってきて、商店街も若返って月に一度ぐらいはイベントを開いています。 

 



























  











 











2023年3月28日火曜日

大木トオル(音楽家・国際セラピードッグ協会創始者)・犬に助けられた私の人生

大木トオル(音楽家・国際セラピードッグ協会創始者)・犬に助けられた私の人生 

大木さんは東京都日本橋人形町生まれの75歳。  4歳で吃音症になって学校でいじめに遭い、犬が唯一の友達でした。  12歳で父が事業に失敗して一家離散となり、犬を連れてゆくことが出来ず、そのことがずっと心に残っていたと言います。   しゃべると言葉が詰まるのですが、歌ならばすんなりと歌えたことから、歌が心の支えになり10代後半には歌で稼ぐようになります。   30代でアメリカでセラピードッグを知り、それをライフワークにしようと捨てられていた雑種犬チロリをセラピードッグの先駆けとして育て上げました。 

 私が45年前アメリカに行った時に、セラピードッグは70年以上の歴史があるんですね。 人間の心や心身のケアする、病気を助ける、リハビリを促進する、そういう役目を持った犬たちです。   高齢者の認知症の問題があり、日本では年間に1万人以上を担当しています。 その中の70%が認知症で、その認知症の緩和です。   それをセラピードッグと共にやってゆきます。   脳梗塞とかの病気をしますと、後遺症が出るので、後遺症のリハビリを促進するために一緒に歩行したり、しゃべったり、手を動かしたりという事を一緒にセラピードッグがやります。   がんの延命、子供たちの教育現場にも入って行きます。   障害者の施設などにも行きます。    失語症の人も犬の名前を呼ぶことによって段々会話を引き出してゆく。  一時期コロナで出来なかったのですが、再開しました。

カリキュラムがあって2年以上かけて学びます。   歩く速度、車椅子の誘導の仕方、障害物のよけ方、杖を付く人に合わせて誘導して行く、そういったことを覚えます。  45協会あります。    チロリはセラピードッグ第一号ですが、最初杖を見て逃げだしました。   恐怖心を直していきました。    セラピードッグの共通点は全員が捨てられてガス室に入って殺される寸前という事が共通点なんです。   酷くいじめられてきたような生き方をしてきたわけです。    人間不信、恐怖心もあります。  最初の半年は一緒に暮らして安心感を覚える。  それからトレーニングに入って行きます。     究極に追い込まれたこの子たちが全力の力を出している姿は、やっぱりあの子たちは痛みを知っているんです。   それを乗り越えると高齢者、障害者の痛みがわかるわけです。  それを自分が助けようと夢中になって来る。  人間に対する忠誠心、愛情の深さだと思っています。   同じ哺乳類でこれだけ寄り添っているのはいないです。   

4歳で吃音障害が発覚しました。  「あいうえお」が言えなくて、お母さんと言えない子供でした。   言葉への恐怖が凄かったです。   愛犬がいて待っていてくれて一番の友達でした。  犬が救ってくれて、これが原点です。   名前を呼んで、その繰り返しでした。  愛犬が居れば生きてゆけました。  10代で吃音を克服できたきっかけは、ラジオのFMから聞こえていたアメリカの音楽でした。   英語の言葉をメロディーに合わせて歌うとつっかえないんです。    祖父がでかい声で歌えと言って、そのうちにステレオを買って来てくれて、アメリカの音楽に合わせて声を出しました。    英語の単語も覚えて行きました。  犬とブルースという音楽が今日まで生きさせてくれました。  

父親は日本橋で建築業をやっていました。  倒産して、家と土地全部取られてしまいました。  夜逃げしました。(12歳)  愛犬が居ましたが駄目だと言われてしまいました。   いい人にもらえるからと言われましたが、当時は厳しい時代だったので、後から思うと捨てられたんだろうと思いました。   そのことが犬の教室に繋がるし、後歌が間違いなく救ってくれました。    16,7歳から歳を誤魔化してバイトで夜歌うようになりました。   お金を稼いで、食べるもの、学費を稼いで高校を出ました。  その後10年ぐらいはプロとして歌っていました。   睡眠不足、余り食べないとか重なって栄養失調になり、結核になり、2年半隔離入院となりました。   たくさん食べ、薬を飲んで直していきました。  親も亡くなりました。   医者からは歌う事は辞めた方がいいと言われましたが、しかし歌うという事はあきらめたくなかった。    どうしたらいいか、取り合えずアメリカに行こうと思いました。(1970年代後半)  

肌の色の差の経験をしました。(黒人社会を経験)  或る黒人の女性から歌に関することをいろいろ諭されました。  自分たちは苦しみとかいろいろ戦ってきた、貴方もこっち側の人間だからこの国で悔しさ、悲しさ、苦しさを一杯経験するはずだから、それを歌に託せと言われました。   うまく歌おうと思わないで魂を込めろと言われました。    徐々に歌えるのかなあと思ってきました。   最初に歌って5ドルで投げ渡されました。   取れなくて落としてしまいましたが、普通なら怒りますが、拾って「ありがとう」と言う言葉が言えたんです。   私の歌がドルになったと思いました。  トオル・オオキ・ブルースバンドを結成することになります。  全員黒人のメンバーでした。   ニューヨークへ行けば殺されるかもしれないと言われましたが、ニューヨークに行きました。    ミスターイエローブルースと言われました。  最初違和感がありましたが、慣れて行きました。

*「エブリナイトウーマン」  作曲:大木トオル(結核病棟で作曲)

1979年日本に戻って来て日本公演を行いました。   でも早くアメリカに帰るという気持ちの方が強かったです。   厳しいところにいないと駄目になってしまうのでは、という思いがありました。    アメリカでは社会に貢献できるライフワークを求めていて、自分ではライフワークを何も持っていませんでした。   セラピードッグの施設を見学に行きました。   セラピードッグに衝撃を受けました。    恩返しという意味もあり、動物愛護の世界に入ることを決めました。    貴方の国では犬、猫をガスで殺している(当時50~100万頭)、と言われました。   経済大国の日本が今もこんなことをしている。  それを無くさない限り私たちは認めないと言われました。  何故あなたは戦わないのだと言われました。  日本公演の度に保健所に行き殺処分所を見たいと思いましたが、見せてくれませんでした。  悲鳴だけが聞こえてきました。   自分を救ってくれた犬が捨てられてこのようにして殺されることを思うと、戦うという気持ちが出てきました。    直ぐに30歳ちょっとで活動を開始しました。  

ペット産業とかいろいろあり年間1兆5000億円以上の売り上げがあって、衝動買いがあったりして、捨てる、いじめる、虐待、そして最後は国が殺すという事がまかり通ってきたわけけです。   これを変えるということは至難の業です。     千葉県の結核病棟のすぐ近くにチロリちゃんが捨てられていました。     そして殺処分という事に深く入って行きました。    一緒に育てて、これがきっかけで日本のセラピードッグの第一号になるわけです。   全国から引き取るようになりました。    雑種という事で、セラピードッグに成れるか、という不安もありました。  この子たちが人を助けるというセラピードッグになってくれました。   政治の世界でも法案が出来てきて、変わってきました。  殺処分場から何百頭救ってきましたが、救えなかった方が何倍も多いんです。  悲願は日本からの殺処分ゼロ、日本という国が早く世界の動物愛護国の仲間入りを願っています。




2023年3月27日月曜日

2023年3月26日日曜日

石井哲代                ・102歳、さびない鍬でありたい

 石井哲代                ・102歳、さびない鍬でありたい

石井さんは広島県尾道市に住んでいて、102歳。  今も一人暮らしで、愛用の鍬を持ち畑仕事をして野菜や花を育てています。  石井さんが若いころから大事にしている言葉は「さびない鍬でありたい」。  30年以上毎日日記をつけていて、その日記をもとに記者が取材をしてまとめた本「102歳、一人暮らし」が今年出版されました。    どんな日常を過ごしているのか、伺いました。

83歳から20年一人暮らしできました。  3年連動した日記でもう30年になります。  ①健康、長生きの秘訣が8つあります。   ②私らしく生きる五か条。  ③生き方上手になる五つの心得。  

2021年3月2日の日記(3行日記)                                迫川さんの日(迫川さんがお手伝いに週に一回来てくれる日)   掃除の後、大正琴をする。   (昭和18年から大正琴を始めている。 今も続けている。  春こうろうのとか、知床岬にとか・・・・)   午後は畑にも出られず。  雨も降る。  雨だから来る人もナイチンゲール。(訪問する人もいない。) 一日も暮れました。

常に畑は私が磨くところです。  今朝は6時半には起きました。  デーサービスに行って帰ってきました。  

8つの健康、長生きの秘訣  ①動く(身体を動かすことは心がけています。  井戸水なので汲んで顔を洗ったりします。)  ②入り子の味噌汁を飲む。(入り子は煮干しのこと。 出汁にして食べます。 カルシュウムもある。  朝ご飯はご飯に味噌汁 昔は味噌も醤油も作りました。  おやつも食べます。 一人で食べる時にも「頂きます」、「ご馳走様でした」と言って食べます。) ④?(③は?)畑仕事をする。(新年になったら「鍬さん、畑さん宜しくお願いします。」と挨拶をします。  ⑤生ごみは土に返す。(無駄を作らない。) ⑥脳トレに励む(漢字の書き取りをする。)  ⑦声を出す。(20年前に亡くなった夫(良英)の写真と会話をする。    夫も小学校の先生で同僚で恋愛結婚でした。   仏壇では、お経は大きな声であげるようにしています。  夫は酒が好きで盃にお酒を毎晩お供えしています。  それを後でいただきます。)  ⑧柔軟体操をする。(足を延ばして頭が足につきます。  立った状態で手が地面につきます。  寝る前にやります。)

3年日記をつけていて、去年は何をしたかなどが直ぐ判るので便利です。  3~4行程度です。  毎日よく食べよく寝てよくしゃべる。  地域に仲良しクラブを作りました。  大正琴、歌ったりなどします。   依頼され100歳の講演会をあり、歌(瀬戸の花嫁)から始まります。 柔軟体操もします。(吃驚します。)

上手に齢をとる極意。 ①嘆くより忙しく動く。   ②苦労のない人生はつまらない。 ③先の愉しみが張り合いになる。 ④機嫌良くは自分次第。(有難い人生にもなるし、つまらない人生にもなる。)   

私らしく生きる五か条。  ①自分を丸ごと好きになる。  ②自分のテンポを守る。   ③一人時間も大切。  ④口癖は上等上等。  ⑤何気ないことを愛おしむ。 

生き方上手になる五つの心得。  ①物事は表裏一体、裏と表がある、その場合は良い方に考える。  ②喜びの表現は大きく。   ③人を良く見て知ろうとする。  ④マイナス感情は笑いに変換。  ⑤手本になる先輩を見つける。

「歎異抄」を読んでいます。  人間修行の一つです。  一生懸命楽しむ。 自分だけ楽しむのではなくて、自分を通して人との楽しみ方も考えないといけない。           2023年の抱負で書道で字を書いています。   「無事」と書いています。     又とない人生なので、一瞬一瞬を愛おしんで大事に生きる。

    

 












































   

2023年3月25日土曜日

角田雄二(実業家)            ・〔私の人生手帖〕

 角田雄二(実業家)            ・〔私の人生手帖〕

角田さんはスターバックス コーヒー ジャパンを創業者で、1941年神奈川県生まれ、大学卒業後目指していた建築家を交通事故のため断念、その後日本料理店の経営に手腕を発揮して、40歳でアメリカに渡って、行列ができる程のレストランなどを成功させました。     1995年アメリカで広がり始めていた新しいスタイルのコーヒーチェーン店にいち早く注目して、シアトルの本社と交渉し、弟の鈴木陸三さんと共に日本での事業をスタートさせました。   この3月の店舗数は1800店を越える一大コーヒーチェーン店になりましたが、どんな困難があって、どんな信念で乗り越えてきたのか、ビジネスに賭けた人生と共に、事業に対する嗅覚などについても伺います。

コーヒーは高校、大学のころから砂糖を入れないのが流行りだと思って、苦くて、そんなコーヒーでした。  アメリカに行って多く飲むようになりました。  コーヒーの淹れ方はフレンチプレス(ティーポットのような形状した抽出容器)です。  沸騰したものに4分間待って、めんどくさくなくて非常にいいですね。   コーヒーと共に朝ご飯を大切にしています。   

生まれは神奈川県の逗子でした。  5歳の時に終戦が来て、当時は食べ物はなかったです。   家では酒とか、炭、餅などもついてお客さんに配達していました。  早い時点で父親がスーパーマーケットを手がけました。    経営工学部の中の建築、機械そういう系統の大学でした。  就職して8mぐらいのところから転落しました。  1か月ぐらい気が付かなくて、足首を骨折してしまっていました。   その事故の影響により会社を辞めることになりました。   結婚して300年以上続いている日本料理旅館で、冬場はお客さんが来なくて1年の1/3は暇な状況でした。   何とかしようという事で父親がいろいろアイディアを出してくれて、大きく変化して軌道に乗りました。  

40歳でアメリカに渡ることになります。   日本料理を持って行けば戦えるのではないかと思いました。   実の弟が輸入雑貨の会社をやっていました。  やることがいろいろ違うので、1年間は行って調査をしました。  10軒に料理を持ち運びました。   顧客リストを1000軒作って、マーケティングをしました。  順調に行きました。   1992年にレストランを作りました。   スターバックス のコーヒー店の1号店がオープンしました。  入ってみて椅子席がいくつかあり、テイクアウトもありました。    何を頼んでいいかわからなかった。  紙コップが素敵でコーヒーも美味かった。    店員の笑顔も良かったです。    

シアトルの会長のところにそういった感じたことを手紙にしたためて出しました。    食べ物については一回考えてみないか、と言うようなことも書きました。        手紙のことを忘れていたら電話がかかって来て、一回こちらに来ないかという事でした。    弟も会社が拡大していて、これと組むといいかも知れないと思いました。        フランスにいた弟に話をして、シアトルに来てくれてそれから話が始まりました。    1995年に全く対等の事業(資本、権限など)としてスタートしました。       契約が1995年、1号店が1996年に出来ました。  1店舗作るのに何千万円とかかる。    上場する前から1年で100軒、2年連続して立ち上げました。上場して赤字になって叩かれたこともあります。   出店の数、パッケージのクオリティーの問題もありました。  食べ物については永遠の戦いがあります。   

広告会社にお金を一切かけないという事にしています。  マーケティングは命だと思っています。  ブランドを作り上げるには店舗、人にお金をかける。 それと新しい商品を必ず開発する。   コーヒーを安く作ってくれる人たちに対して、土壌から何からお金を投資して、いい商品を生み出せる環境を作る、そこのフィードバック、マーケティングがあります。   日本に展開する店舗の数は、最初の思いは50~100店舗と思っていました。   300軒出した頃に第一次の危機がありました。   物流から人の成長からバランスよくついてこない。  作り方もいい加減になってしまう。   どこに店を出したらいいかという事も甘くなる。   乗り切るには、初心に戻るという事だけでした。

お店のブランドを作るのは店舗だと言っています。  サポートするのは会社で、お客様、従業員が喜ぶためには何をするか、こちらには関係ないという、明確な目的を持っていて、この人たちを活躍させる活かし方が話にならないほど素晴らしいものを持っていました。   1軒がいかにお客様に喜んで貰えるか、働いている人がいかに生き生きしているか。  店を作りながらのマーケティング、そしてその先を提案する。  失敗したり上手くいったりの連続で過ごしてきました。  しつこくやってきたのが良かったのかもしれません。

















































































2023年3月24日金曜日

田丸雅智(ショートショート作家)    ・理系の道から創作の道へ 

 田丸雅智(ショートショート作家)    ・理系の道から創作の道へ ~ショートショート作家のこれまでと、これから~

田丸さんは1987年生まれ、愛媛県松山市出身。   2011年に作家デビュー、2012年には出版社主催のショートショートコンテストで「海酒」が最優秀賞を受賞しました。   「海酒」は又吉直樹さん主演で短編映画化され、カンヌ映画祭などで上映されました。    又田丸さんは全国各地でショートショートの書き方講座を開催するなど、ショートショートの普及活動にも努めています。   「理系の道から創作の道へ ~ショートショート作家のこれまでと、これから~」です。

高校までは松山市で過ごしていました。  松山東高校をでて、東京大学工学部、大学院へいって、理系の道を来ています。    今はショートショート作家として活動しています。  ショートショートとは何かという事ですが、短くて不思議なお話だと思ってもらえばいいと思います。    

「発電生物」

電気うなぎの原理を発展させて自分で発電できる電気タコが開発された。 よく電源コードが沢山差し込まれていることをタコ足配線と呼ぶが、この電気タコの場合は本当のタコの足を使った配線で、8本足から電気が取れる。  但し一度にたくさんの電気を使うと熱くなりゆでダコになってしまう。  といったような内容です。

小学生のころは国語、作文は本当に苦手で、本が読めなかった。  せっかちで本を開いても早く次が知りたい、という事で眺め読み、飛ばし読みをしてしまって、筋もよくわからず面白くないなあと思いました。   その前は母、祖母が沢山の絵本を読み聞かせをしていました。  小学校高学年の頃に母がこれなら読めるだろうという事で、ショートショートの本を渡してくれました。  めちゃめちゃ面白くて衝撃を受けて、中学、高校と読書に目覚めていきました。  そのうち書くことも得意になって行きました。    初めてショートショートの小説を書いたのは、高校2年生の時でした。   友人に見せたら面白いと言ってくれました。   ショートショートの小説自分で書いてもいいんだという事に初めて気が付きました。   大学で趣味としてやっていた中で、やがては本格的になってゆくわけですが、後ほど話します。    

「海酒」という一作があります。  海に落ちているすりガラスのかけらを漬け込んでお酒を造るという、そのお酒がある不思議な力があって、その海酒を飲むと、海の記憶が閉じ込められていて、海の記憶が頭のなかによみがえってくる、流れ込んでくるというそんな不思議なお酒です。  それを出してくれるバーと海の町出身の主人公がたまたま出会って、という一作になっています。   三津浜があり自分の町を閉じ込めたかったという思いの一作です。

「大根侍」というのがありまして、大根でものが本当に切れてまうという、架空の話ですが、大根の刀を扱う侍がいて、もめごとになって、大根でポストを切ってしまって、中から手紙などが出てきてしまって、本当に切れたというギャグみたいな展開ですが。

「桜蝶」 中学校1年生の教科書に載せてもらっています。  600文字ぐらい。(発電生物の2倍ぐらい)  桜の開花に先立って南から北に桜の形をした蝶々がどんどん北上してゆき、桜が咲き始める。  

ショートショートの普及活動をしています。    執筆活動は6,7割で、残りの時間を普及活動を行っています。   ショートショートの書き方講座をやっています。  90分のなかで、アイディア発想してもらって作品を完成させて発表までやってしまうというスタイルです。   小学1年生ぐらいから大学生とかの学生系、一般系、老人ホームなどでもやらせてもらってきました。   少年院、企業でもやりました。   2万人以上が参加しています。   

ステップ1:まず不思議な言葉を作る。  まず名詞を4つぐらい書く。  そのなから1つを選んで思いつくことを考える。  例えば「太陽」  発電に使える、ポカポカする、皆既日食、とか連想する。  頭とおしりに2種類の言葉を持ってきます。   頭には太陽から思いついた言葉、おしりに持ってくるのは、最初に出した太陽以外の名詞、タコ、傘、ソファー、 発電に使えるタコ、ポカポカする傘、皆既日食ソファーとかを作ります。   

ステップ2:それはどんなものなのかを考える。   発電に使えるタコならば、電気ウナギは聞いたことがあるという事で、電気ウナギを発展させて作ったのがこのタコではないかと考える。  メリットは何かないかを考える。  水槽で飼っていれば電気を取り放題になるのではないかとか、8本のたこ足配線になるのではとかを考える。  デメリットも考える。   無茶苦茶な使い方をすると熱くなってゆでダコになって死ぬんじゃなか、といったことを考える。  想像を広げる。

ステップ3:今出た要素を纏めてお話を作る。  「発電生物」は実際にこの方法で作った作品です。  

ショートショートの講座で大事にしているのは、楽しむという事です。   想像力はネガティブな反応に触れると委縮してしまいます。   ショートショートのすそ野を広げたいと思って普及活動をしています。  趣味としての創作活動をもっと定着させたいと思っています。   僕は俳句に影響を受けていると思います。(松山市出身)   ショートショートをやることによって文章力、発想力、論理的思考力を磨くことにもつながる。   発想力を養う事は、企業では新しい商品、サービスとかにもつながります。  講座を受けた方は、書くことをしたり、読むことに興味を持って本を読む方が増えたりしています。

少年院では書くことが苦手な人が多いんですが、日記を書いてもらっていて、発散に繋がる、心の状態を言葉にするという事を日頃からやっていますが、そこに僕のお話を考えてみましょうというという事で、気持ち、考えを言葉にする、ストレスの発散することに繋がって居たりします。    文章を完成することで新たな方面への挑戦への糸口になるのではないかと思います。   更生に役立てればという思いでやっています。

祖父が大工、他に造船業の人もいて、物つくりの中で育って、理系の道に進みました。  高校では440人ぐらいの中で100番ぐらいでした。  悔しくて一生懸命勉強しました。   自分で足りないものは何かという事を考えました。  いろいろ考えてやったら150番に落ちました。  でもこれしきないと思って続けて居たら徐々に上がりだして、東京大学に行くことが出来ました。    大学時代は環境エネルギー系の研究をしました。   空想の世界なら自由だという事で、ショートショートは自分に一番合っていると思いました。   プロの小説家になるためには、どうしたらいいかという事を、高校の勉強と同様のことをしました。   自分に足りないものは何かを考え、それを実行して結果を見ながらサイクルとしてもう一回何が足りないのか、という事を意識的にやりました。  海外旅行、美術館、本、料理とかいろいろ意識的にやりました。   人生生きてゆく基礎は勉強からも学べるのではないかなあと僕は凄く思っています。   

ショートショートは売れないと出版業者からは言われて居ました。  最初は絶望しましたが、やり続けることが出来て、ある作家さんから出版社を紹介していただき、一冊目の本を出して、今日に至るようになりました。 「情熱と実行」という事を大事にしています。  それを続けていることで幸運も舞い込むかもしれません。  執筆を基本としながら、ショートショートのすそ野を広げていきたいと思います。  書き方講座を海外でもやっていきたいです。    もっともっと空想で世界を彩ることにしてゆきたいです。


































































 


2023年3月22日水曜日

池井優(慶應義塾大学名誉教授)       ・〔スポーツ明日への伝言〕 野球に魅せられて

池井優(慶應義塾大学名誉教授・日米野球交流史研究家)   ・〔スポーツ明日への伝言〕  野球に魅せられて 

長年日本とアメリカの野球交流史の取材や研究を続け、東京六大学野球、プロ野球、アメリカ大リーグなど野球の魅力を伝える多くの著作を書き、NHKの大リーグ中継の解説もしてきました。  今年1月88歳の池井優さんに伺いました。

古関 裕而さんの野球殿堂入りが決まりました。  日本には戦前戦後にかけて多くの作曲をした3大作曲家がいて、古賀政男、服部良一、古関 裕而。  古賀さん、服部さんは国民栄誉賞を貰っているのに、古関さんだけは遺族が辞退された。   古関さんは夏の甲子園に流れている高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、早稲田大学の「紺碧の空」、ハンシンタイガースの「六甲おろし」など名応援歌をたくさん作っている。  東京五輪の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、音楽を通じて野球を初めスポーツを盛り上げた。   

野球の殿堂に入れたらいいんじゃないかと言ったら、そんなこと考えたことなかったという事でした。  福島県の関連の団体などが「実現する会」を作ったんです。  最初の選考の年は2票しか入りませんでした。  14人の投票で11票入らないと駄目です。  翌年4票、次の年が10票で駄目、今年決まりました。   福島は大騒ぎした。  NHKの朝ドラの「エール」も追い風になりました。  

藤山一郎さんについて「藤山一郎とその時代」も書きました。   流行歌手と思っている方がほとんどだと思いますが、最初はクラシックの歌手を目指していました。  東京芸術学校(芸大)在学中に家が倒産するかもしれないという事で、アルバイトをしなければいけないという事で、藤山一郎という芸名で「酒は涙か溜息か」を歌ったら大ヒットしてしまった。  呼び出されてあわや退学というところでしたが、普段の態度が真面目で、家の家計を助ける為だったという事で、停学2か月(冬休み含め)となった。  インドネシアで捕虜になった時に捕虜収容所の人たちをアコーディオンで慰めたとか、日本歌手協会の会長として社団法人化に努力したり、作曲もしています。   「ラジオ体操」は藤山さんの作曲です。  

野球と出会ったのは戦後すぐです。    アメリカの占領政策の立案者が考えたのは、日本の占領をスムースにするためには天皇と野球を利用することだという事で、天皇は全国を巡行して歩かれる、NHKが六大学野球、プロ野球の中継放送、野球映画の上映をする、という事で広げていった。   当時の川柳に「六三制野球ばかりがうまくなり」というのがありました。   

ゲーリークーパー主演の「打撃王」という映画でルー・ゲーリックという2130試合連続出場という、ベーブルースと組んで3,4番を打っていた。 筋萎縮性側索硬化症に罹ってしまう。  ゲーリークーパーは右利き、ルー・ゲーリックは左利きという事で苦労してなんとか映画を作った。   その映画を観て野球への夢が膨らみました。夢かなって、1964年ヤンキースタジアムに行って外野席で観ることが出来ました。  大リーグのことについていろいろ関心を持っていきました。    NHKが大リーグの放送をするようになって解説を依頼され解説したりしました。

大リーグの取材をしに行きましたが、日本からこんなことに取材をしに来てくれたのかと感激されました。   シアトル・マリリナーズにマイク・ケキッチ選手がいますが、一時期日本で投げて、大リーグにカムバックしたという選手がいて、会わせて欲しいと申し込みました。   試合開始2時間前に来てほしいという事で行ったが、30分経っても来なくて電話してもらったら忘れていたようです。   お詫びのしるしとして始球式をやらせるという事でこちらから頼みもしないのに向こうから言ってきて、大リーグの始球式をやったのは私ぐらいでしょうかね。   当時はスタンドから投げる方式で投げる前に簡単な経歴を紹介してくれました。   そのボールを貰いました。  

現地の少年野球に参加したことがありました。  こんなに楽しかったことはないです。  教え方が決定的に違うのは、子供たちを楽しませる、喜ばせるためにはどうすればいいかという事を考えています。  硬球だと怖いので、怖がらなくなるような工夫をいろいろしています。   コーチたちは、こんなに楽しいベースボールは明日もやりたい、5年後、10年後もやりたい気持ちにさせることだというんです。  一生野球を愛してゆく土壌が出来るんですね。

日本で活躍した外国人選手のその後がどうなっているのか、或る雑誌社から頼まれました。 バッキー・ハリス  日本に来た外人選手第1号です。  1934年にベーブルースが来て、当時日本でもプロ野球(職業野球)が出来る。  1936年から日本職業野球連盟が出来るが選手が足りないために、ハリスに声をかけてきてもらって名古屋軍というチームに入りました。    一生懸命読み書きをしました。  書くことまで勉強したのはこの人だけだと思います。  結婚して子供が生まれて帰る事になり、球団代表に言いたいことを英語で言ってカタカナで書いてもらって、そのあいさつ文が凄いんです。  「職業野球は皆様のお引き立てがなければ立ち行きません。  今後ともごひいきに願います。  皆様のご壮健をお祈りいたします。   さようなら」  横浜港からの出航の際に、何個かの50銭銀貨に紙で包んで見送りの人たちに投げて、その紙には「カナシクテ カナシクテ サヨナラガイエマセン」と書いてありました。  

アメリカに帰って後、日本との戦争が勃発して、通訳として日本語をもう一度勉強し直して、レイテ島の捕虜収容所に送られました。    その中に阪急の補欠キャッチャーの人でハリスのことを覚えていた人がいて、その後捕虜の態度が一変したという事でした。  戦争が終わり、ライバルだった水原茂さんなどが、ハリスさんを呼ぼうという事になり、再度日本に来ました。   後楽園球場が一杯になって、ハリス歓迎の夕べをやり皆さん大喜びでした。

南海ホークス(現在のソフトバンクホークス)に来たジョー・スタンカ、思い出が2つあります。  1961年の対巨人戦運命の一球、この1球で勝利という時に、1ストライク2ボールからボールと判定されてその後さよならヒットを打たれて負けます。 キャッチャーの野村と共にボール判定に対して猛抗議するが、成らず。  スタンカの家には「円城寺あれがボールか秋の空」 詠み人知らず という色紙が飾ってあります。  

1964年の阪神対南海の日本シリーズです。  阪神は村山、バッキーの二枚看板、南海はスタンカしかいない。   阪神3勝、南海2勝でスタンカが完投して勝って3勝3敗となる。 スタンカに連投を要請、6回ぐらいを交代という考えでいた。   結局完投してシャットアウト。  帰国後、鶴岡監督の声がかりで、お金を集めて家族を日本に呼んで、スタンカを囲む夕べを行いました。  

阪神のジーン・バッキー、親しめる人柄で、彼は日本で育った外国人選手だと思います。  ルイジアナ州に大きな牧場を持っています。   夫婦で日本時代のことを沢山語ってくれました。  

日本の野球は非常にすそ野が広いです。   メディアも広げていった。  戦争で野球が厳しい状況に置かれたが、野球の単語を日本語にして、繋いでいった。  村上雅則が大リーグに行き、それから30年経ってから野茂が行きます。  その後イチローが行って、ホームラン全盛時代だったのが、考える野球が復活して、大谷翔平というベーブルース以来の二刀流という事で、日米野球150年の中で野球の神様が与えてくれたソーシャルプレゼントではないかと言う気がします。  

「学問と野球に魅せられた人生」昨年出版。   楽しく生きるためにはどうしたらいいか、4つの核を実行しています。  ①ものを書く。  ②汗をかく  ③恥をかく(恥をかきながら学んで行く、知らないことは調べる)   ④未来を描く(過去の経験、歴史から未来を考えてゆく)

電車のなかではスマホを見る人がほとんどで、川柳で「絶滅危惧種電車の中の読書人」とか詠んで毎日が楽しいです。

































































  




























  

2023年3月21日火曜日

飯間浩明(日本語学者・辞書編さん者)   ・"時代を映す鏡"を編む

 飯間浩明(日本語学者・辞書編さん者)   ・"時代を映す鏡"を編む

小型で手軽に引け、柔軟なスタンスで現代語にも強いと人気の辞書の編纂者飯間浩明さん(55歳)、は言葉の価値基準は正しいか間違いかではなく、その言葉が相手に届くかどうかが大切だと言います。  毎日のように新しい言葉が次々と生まれ、言葉の意味も変化する中で膨大な言葉の海から新たな言葉を見出しては記録し、厳選した新語に的確かつ端的な説明を付けて辞書の改定作業に取り組む言葉ハンターの飯間さんに辞書作りに賭ける情熱を伺いました。

丁度最新版の辞書が出来まして、ほっと一息ついた状況ですが、次の版に向かって仕事が始まっています。  現代は言葉のサイクルが早くなってきています。  版のサイクルも10年というと遅い感じです。  今回は8年かかりましたが、出来ればもっと早く次の改訂版を出したいと思っています。   最近は命を削っているのではないかというような感想を抱きます。   祖父が持っていた大きな辞書がありありました。(全20巻の国語辞典)   小学校高学年になると、ちょっと使ってみようと思って検索しました。  大学に入った時には全20巻の国語辞典を東京に持ってゆきました。  出版社によって辞書の特徴が違って、辞書を集めるようになりました。   

好きな辞書に見坊豪紀さんの小型の辞書がありました。   自分の集めた言葉を原文のまま紹介していて、70年代に「宅浪」という言葉が一般化しました。   自分のうちで浪人している。 NHKFM、1975年と記録されている。  そういった言葉を集めて一冊の本にしています。   大学時代は万葉集とか古典の勉強をしていました。     卒業論文は万葉集の言葉についてでした。   大学院では源氏物語の言葉について勉強していました。  見坊先生の本を読んで現代の言葉も面白いと思うようになりました。    先生と共に類語辞典のお手伝いをすることになり、辞書出版社とのお付き合いをするようになりました。     見坊先生の改訂版を作るので私にも手伝ってもらえないかと、出版社からの依頼がありました。   手伝いではなく、実際には編集委員でした。       

見坊先生の辞書は判りやすい事、現代的な事、引きやすい事をモットーにしていた辞書でした。     例えば「苺」、植物学的に書くと難しくなる。   でも、「赤い小型の果物、柔らかくて表面にぶつぶつがある。   すっぱくて甘くミルクの味と合う。」 となっています。   現代的な表現もあり、「来れる」は「来れるの形は明治時代から例がある。   本来俗用だが、か行変格活用の動詞に特有のかの系と見ることもできる。」

「ずるい」 これは褒め言葉になっている。   「俗語として素晴らしすぎて悔しくなることが「あざとい」という。」  例として、「歌い方が可愛くてずるい。」  あまりにもかわいらしくてほかの人に出せない魅力を出している、あれはずるいよ、という事になる。  2010年台からの用法。

「やばい」 いい意味で使われるようになってきた。  やばいをさかのぼってゆくと1070年代にミュージシャンが使っている例がありました。  あいつの音楽やばいね、というのが一般に使われるようになってきた。  わざとマイナスのイメージを使う。  「「夢中になりそうで危ない。」 ということを「やばい」という言葉に込めている」と解説しました。   政治家が「1ミリもやましいことはありません。」と言いましたが、1ミリはそういう風にも使うのか。  微塵も、ミリも否定的に使われる。  

「愛」は「男女の間で好きで大切に思う気持ち」と書いていましたが、ここ10年ぐらいでは恋愛は男女の間だけではないだろうという理解が一般に進んできた。  最新版では「恋を感じた相手を特別で大切な人だと思う気持ち」としています。   「恋」も最新版では「人を好きになって会いたい、いつまでもそばにいたいと思う満たされない気持ちを持つ事」と説明しています。

1960年に初版が出ました。  その時の「女」の説明では、「人の家で優しくて子供を産み育てる人」でしたが、最新版では「人間のうち、子を産む為の器官をもって生まれた人の性別、生まれた時の身体的特徴と関係なく自分はこの性別だと感じている人も含む。」と言う風に解説しています。   「男」は初版では「人のうちで力が強く主として外で働く人」となっていますが、「人間のうち、子種を作る為の器官をもって生まれた人の性別、生まれた時の身体的特徴と関係なく自分はこの性別だと感じている人も含む。」と書いています。   

常日頃から言葉をハンティングすることが必要です。   ストックしておくと1年間に何千語かになります。    次の改訂版を出す時には1万ぐらいの言葉が集まります。  選り分けて新しい版に載せるるかどうか決めます。    コンビニに入ろうという事を「ビニろう」と言っていました。  リスキリングというような言葉も耳にします。   次の改訂版には載せるようになるかもしれません。

小型版の辞書は6~9万語です。  私たちの辞書は8万語です。   最新版にいれた言葉が3500です。  消す方の言葉は難しくて見えにくい。  1100ぐらいを削りました。  「インフルエンサー、エコバッグ、秒で(直ぐに)、リアタイ(リアルタイム)、ソーシャルデイスタンス、黙食、密(人が混んでいる状態)、・・・」などが新たに載っています。    消えた言葉としては、「スッチー(客室乗務員 女性のみ)、テレカ (テレホンカード)、ペレストロイカ、・・・」などです。

方言、一時期絶滅な危機にあった。  「うざい」は元々は東京多摩地区の方言でした。  福岡地方では細い道をすれ違う時に「離合」と言います。  離合集散という熟語がありますが、「離合」は方言なんです。   自分が言葉のことをもっと理解したいと思っているので、書いていると思います。   辞書は自分の疑問を解消てくれる本です。  言葉の価値基準は正しいか間違いかではなく、その言葉が相手に届くかどうかが大切だと思います。










 
























 




















  

2023年3月20日月曜日

花柳寿楽(日本舞踊家)         ・〔にっぽんの音〕

 花柳寿楽(日本舞踊家)         ・〔にっぽんの音〕 

案内役 能楽師狂言方 大藏基誠

1967年東京都生まれ、祖父は2代目花柳壽楽、父は二代目花柳錦之輔。  日本舞踊家の家に生まれる。   幼少期より祖父の手ほどきを受ける。  大学卒業後3代目花柳錦之輔を襲名し、本格的に日本舞踊家の道を歩み始める。  2009年に三代目花柳寿楽を襲名、舞踊家としての活動のほかにも、歌舞伎公演、宝塚歌劇団、NHK大河ドラマ「どうする家康」、「大奥」などの振り付け、所作指導にも携わっている。  

日本舞踊とは一言で言うのは難しいが、言葉としては新しいものです。  舞いと踊りがあり、能舞いとは言うが能踊りとは言わない。  舞いは水平運動、踊りは縦運動が合わさったものが舞踊で水平、らせん運動もあるし、上下の運動があるのが舞踊という形で、それに日本独特にのこっているものが日本舞踊です。  歌舞伎が或る程度進んでいった時に、歌舞伎の中のエッセンスなり技術みたいなものを、少し踊りだけの要素を取り出して、そこから派生していったもの全体を日本舞踊という形なのかな。  

能の舞の部分だけ取り出したのを「仕舞」、狂言の舞の部分だけ取り出したものを「小舞」と言います。  歌舞伎の踊りの部分だけを取り出したのが「日本舞踊」という風なのが近いと思います。  日本舞踊は歌舞伎舞踊と言われている。  かつらをかぶり衣装を着けての踊りは歌舞伎舞踊(日本舞踊に含まれるが)、紋付袴で踊るもの(衣装は付けない)シンプルなものを素踊りといって、そういったものを多くやっているのが日本舞踊。  日本舞踊は多様性が強くて、クラシックの曲で踊ることもやります。

*清元の「保名(やすな)」という曲                       「安部保名」という人が恋人の死を悲しんで狂乱してしまう。  亡き恋人の小袖を持って登場し、それに語りかけたり、子供のように蝶を追ったりする描写がある。     「安部保名」は、陰陽師と指定有名な安倍晴明の、伝説上の父とされる人物。     30代に一度衣装を着けて踊って50代でも一度やってみたいと思って去年素踊りを行いました。

舞台は夢の空間、非現実の空間であっていいと思います。  日本舞踊はのその中に浸ってもらう、そしてなんでもいいんですが、何かを感じてろらう事が出来たらいいなあと思っています。   何かしら心が動いてもらいたい。  少しだけ勉強してもらうと日本舞踊は世界が広がっている、又女性が女性として踊る魅力、歌舞伎とは違う舞踊家の踊り方とかが見えたりすると日本舞踊はまだまだ可能性があると思います。

5歳が初舞台になっています。  4歳ぐらいから稽古をしました。  出だしは褒められましたが、初舞台の稽古の段になると厳しく稽古をさせられました。  大学卒業後3代目花柳錦之輔を襲名。(1990年 23歳)   21歳の時に父が亡くなり、錦之輔、の名前が空白になりました。   弟は花柳典幸です。  どこかで向かないのではないかという思いはありました。(18歳ごろから)  自分で工夫するという考えや愉しみはあんまりなくて、言われたことを一生懸命やる。  後から思うと、言われたことを一生懸命やるという事は、それ以上にはならない。  今の子育て問題にも通じるところはあると思います。  自分の父親の背中をどういう風に自分は見ていたのか、自分の息子がどういう風に自分の背中を見ているのか、背中すら見ていてくれていないのか、親父の背中ってどういうものか、響いた時がありました。  

日本の音とは、太鼓です。  なんかワクワクする。 

人が求めるものを選ぶべきなのか、自分がやりたいものをやるべきなのか、イメージを壊したいのが半分、イメージを守り続けたいのが半分というのが今の自分なんです。      経験しないとわからないこともあるので冒険してもいいのかなあとも思います。(若いころとは違う冒険)    








 




















2023年3月19日日曜日

青山志穂(ソルトコーディネーター)   ・〔美味しい仕事人〕 塩の魅力を伝えたい

青山志穂(ソルトコーディネーター)   ・〔美味しい仕事人〕 塩の魅力を伝えたい 

かつては日本は専売制度のもとにあった塩も2002年には完全自由化されて、現在ではおよそ4000種類を超える塩を手にいれることが出来ます。   その塩にはそれぞれ個性があって、塩の使い方次第で様々な料理をより楽しむことが出来ます。  塩に関する知識や魅力を多くの人に伝えたいと活動している人がいます。  ソルトコーディネーターの青山志穂さん(39歳)です。  青山さんは塩の基礎知識や使い方を広めると同時に塩のプロを育成するため全国を飛び回っています。  塩の魅力と楽しみ方について伺いました。

輸入したものを含めると塩の種類は4000以上あります。  専売制度の一番最初の導入は1905年だったんですが、1997年に専売制度が一回終焉して、規制緩和されて緩やかに輸入が開始して、2002年には完全自由化されました。  7000年の歴史があるスペインのアニャナ塩田があります。  歴史、経済がかかわっています。  昔は金と同じ価値で取引されていたとか、塩を白い金プラチナと表現していたというような文献もあります。   インドネシアのバリ島などでは中が空洞のピラミッド型の形をしたピラミッドソルトが生産されていたりします。  ピンク色の岩塩がありますが、実はいろいろな色があり、イランでとれる岩塩は宝石のように青色でカリウムが多く含まれています。     

日本国内では私が把握しているだけで600か所ぐらいで塩が作られています。  日本ではほぼ海水から作ります。     海水を煮詰めてゆくときに薪とかエネルギーを使うので、温かいところが多いです。   高知県などでは天日塩と言って太陽と風の力だけで塩作りが盛んだったりします。  エリア、エリアで特徴があったりします。  

塩の味もしょっぱさの中に甘味があったり、うま味、酸味,苦味、雑味があったりします。 カルシュウムが多いとちょっとほのかな甘味を感じます。   ホタテの貝柱っぽいうま味があるとか、昆布だしっぽいとか、鰹出汁っぽいとか、ニュアンスではあります。    海水に地球上の元素が入っているので、それが何らかの形で結晶になったもの物が塩なんで、ミネラルの塊が塩です。  細胞が元気に働くためにはミネラルが欠かせません。  生命維持に欠かせない特徴のある調味料です。  

ソルトコーディネーター自体は一般社団法人にしました。  塩の種類は爆発的に増えましたが、情報が一緒に出てこなかった。   小規模事業者が多という特徴もあっていまだに情報発信が得意ではないです。   情報を伝える役割が必要だと思ってソルトコーディネーターという事で始めました。   生産者と消費者の架け橋として食産業の活性化、業界の活性化にもつながると思います。   北限は礼文島でも塩作りは行われています。  そこの塩は柔らかくて口に入れるとスルーっと溶けてほのかに上品な感じがします。    与那国島で作られてる塩は直径が7mmぐらいのコロコロしたものですが、本当にうま味が強くて、つまみとしてかじりながら一杯行けるというぐらい濃厚なうま味のある塩です。  日本は湿気が多かったり台風が来たりして、天日塩は難しいのですが、天日塩が盛んなのは高知県です。   農業ハウスみたいなものを建てて、その中に小さな箱を一杯並べて、そこに塩田を再現するというやり方です。   高知では若手が多いです。  後輩に技術を惜しみなく与えて、育ってきています。

石川県では揚げ浜式塩田という江戸時代から続く伝統的な塩田が一枚珠洲市に残っていて、最近では8社ぐらい珠洲市の中に揚げ浜式製塩所があります。(屋外式)            揚げ浜式塩田で作られた塩は上質な発酵バターのアサージ見たいなこってりした感じがあります。  しっかりしたうま味と甘味があってそこに塩味があって、私としてはバターっぽいイメージです。   ソルトコーディネーターとして来る方は食に関する人が多くて、塩の重要性に気づいて勉強しようという事で、受けに来られる方が多いです。  

活動は沖縄と北海道の2拠点になります。   大学卒業後大手食品メーカーに就職しました。  最初は営業でしたが、その後商品開発の部署に移動して、トマトに関する食品の開発をしていました。   母が料理が好きで、小さいころから世界各地の料理が食卓に上がって来ました。  会社で頑張り過ぎて身体を壊してしまって、暖かいところでのんびり暮らそうと思って、退職して沖縄に移住しました。 体調がよくなって塩の専門店事業をやっている会社に出会ってそこで働き始めました。   塩の奥深さを知りました。   世界各国の塩を360種類ぐらい扱っていました。  その会社に勤め始めたのは2008年からです。  日本で初めての塩専門店でした。  2012年に日本ソルトコーディネーター協会を発足しました。  積極的に塩の事をしゃべってくれる仲間を増やそうと思って、塩の知識を啓蒙する活動をしています。  今は300人程度です。  

塩分の必要量はそれぞれ違います。  同じ人でも運動量などによっても日々変わります。 適塩量を摂る。  塩の楽しみ方としてはしょっぱめなのかまろやかさなのか、粒の大きい食感のあるタイプかそうでないのか、で分けられる。  粒が大きくて味が強い塩は牛肉とかマグロにかけていただくと凄く合います。  魚の白身などにはまろやかさのあるもので粒の大きい塩は合いやすいです。    野菜は繊細な味わいが多いので塩もしょっぱさが柔らかい塩で粒が小さいもの合いやすい。  揚げ物はすぐ溶けるような粒の小さいものでしょっぱさが強いものが合います。   バランスのいい真ん中のものをものを持っていると便利です。  薄めに作っておいてそれぞれの適量をかけるというのがいいですね。   すこしづつ加えてゆくのがいいです。  納豆を塩で食べるのもいいです。 納豆の豆の持っている感じ、うま味みたいなものがダイレクトに来ます。  フルーツと塩も相性がいいです。  硬めの桃をスライスして塩とオリ-ブオイルをかけて食べると凄くおいしいです。   マッサージソルトなどでは余分な角質を取ってくれたりします。  湯船にいれると発汗作用を促してくれます。  塩シャンプーでは頭皮の汚れが良く取れます。   塩は浸透脱水作用があります。  
































































2023年3月18日土曜日

従野孝司(元・レーシングドライバー)  ・六甲山から始まった「ル・マン」制覇への道

従野孝司(元・レーシングドライバー)  ・六甲山から始まった「ル・マン」制覇への道 

毎年6月にフランスで行われ、その名の通り丸一日を走りぬく人にも車にも過酷な耐久レースです。   第1回大会がちょど100年前、大正12年という歴史あるレースで、いまから32年前1991年日本車が初優勝を遂げました。  ドライバー3人は全員外国人でしたが、優勝車両マツダ787Bの開発に携わったのが、神戸市出身のドライバー従野孝司さんです。    現在は広島にお住いの72歳、10歳年上で兄で2016年に亡くなったマツダのワークスドライバー片山義美さんと共にロータリーブラザーズと呼ばれ、自身もルマン24時間レースに1982年から出場しながらマシーンを開発、栄光を手繰り寄せました。    その道のりや優勝マシーンと六甲山との意外な縁などを語っていただきました。  

小学校のころは神戸市加納町に住んでいました。  家にマシーンがありました。    それを有効に使って、兄が偉大なものを僕に与えてくれました。   兄はスズキの2輪だけではなくて4輪のロータリーのマツダと契約ドライバーになっていました。      練習車があっていい環境を与えてくれたのは事実ですね。   兄の主宰した神戸木の実レーシングに所属し、カワサキのワークスライダーとして活躍しました。   モトクロスの場合は市販車に近いものなので、ロードレースよりもモトクロスの方が入り易かったです。  その後4輪に転向してゆくわけですが。   或る日兄から4輪も練習するように言われました。   通勤で360ccの軽四輪で通って六甲を通っていました。  ブレーキングは大事なテックニックだという事を思いました。  

マツダ787Bがル・マンで優勝した一つに役に立ったのは、ブレーキのテクニックが近未来のブレーキシステムにぴったり合っていて、そのアイディアをル・マンに使おうではないかという事で、すんなりテストできたという事が吃驚しました。  

コーナリングを速く走ることは難しいです。  2分40秒というタイムが一つの壁になっていて、リアウイングを付けることによって2分35秒ぐらいになりました。   フロントにもつけてみようと思ってつけてみたら、更に2秒タイムが良くなりました。  兄がトライしてみたら2分32秒までになっていました。 

グランドチャンピオンシリーズに参戦しはじめたころは、主力のエンジンは西ドイツ製のBMWというエンジンで、それにたいしてロータリーエンジンを対抗しようとしていました。性能的にはほぼ同じでしたが、剛性という面ではちょっと不利でした。  ロータリーエンジンは130mm軸が高いんです。   レーシングカーにする場合、速く走るのにはよくないんです。   メーカーに要望して100mm下げることによって、シャーシ性能が上がりました。   オイルパンはエンジンの一番下にあって、潤滑油を貯めておく盥のようなもので、それが要らないドライ散布方式に変えることで、一気に100mm下げることが出来ました。  それにより性能が向上して優勝することに成りました。  1977年初優勝、78年、79年と3年連続優勝しました。 

ル・マンはガソリンを2550Lに決めてから各メーカーが力を入れ始めました。  6kmの直線コースがあり走ってみると怖いです。  かまぼこ状の一般道路なので走ると車が蛇行するんです。  2分で速度が飽和して350kmぐらいになります。 

ロータリーエンジンというのは、繭のような形をした燃焼室の中でおむすびのような形をしたローターが回転するという事で、往復運動する一般的なレシプロエンジンとはかなり違う。  2ローターで始まって1986年には3ローター88年には4ローターになって行って、91年にル・マンで優勝を迎える。  1ローターで150馬力で4ローターだと600馬力という事ですが、90年ぐらいから25馬力向上することが出来て、4ローターで700馬力になりました。  量産グループの若い開発メンバーがアイディアを出してきました。   3プラグの採用もあり燃費も向上して、燃費、性能が向上しました。  

優勝した1991年のマツダ787Bマシーンには、ブレーキを改良しました。  数年前からF1などではカーボンブレーキが主流になっていて、ル・マンに使えないかと思って、1時間テストをやって使うかどうか決めることになりました。   このブレーキは緩く踏むとブレーキの表面を研磨するみたいな感じになり、ブレーキが利かない。  踏むか、離すかの使い方をしないといけない。  六甲山でのブレーキの方法が役立ちました。 燃費も良くなってくる。  使う事に直ぐ決定する。  新しいことを取り入れるチャレンジは大事だと思いました。  


























 










  

















2023年3月17日金曜日

伊藤清子(看護師・認定NPO法人理事)  ・生きる力を支えることができれば

 伊藤清子(看護師・認定NPO法人理事)  ・生きる力を支えることができれば

こどもホスピスはイギリス発祥の文化で、病院ではなく重い病気と共にある子供や家族がゆったりと過ごせるお家です。 横浜こどもホスピスは一昨年2021年11月日本で2か所目のコミュニティー型こどもホスピスとして誕生し、昨年の7月からは宿泊もできるようになりました。   伊藤さんは4年前に神奈川県立がんセンターの副院長を退き、こどもホスピスで本来の看護の意味や、医療の在り方を問い直しています。 

神奈川県立がんセンターを定年退職をしまして、このホスピスに勤務しました。  その前は子供専門病院に勤めたり、循環器専門病院に勤めたり、41年間の看護師生活をしてきました。   最初に勤めたこども医療センターでは、子供が好きで看護師になったので、選んだのがこども医療センターでした。   最初手術室に配置されてその後、乳児の外科病棟、幼児内科病棟で25年ほど勤めました。   その中の10年ぐらいは小児がんや難病と闘う幼児内科病棟で看護師をしていました。   生まれたばかりのこどもが大きな病気を持っていて、直ぐ手術をしなければいけない沢山の子供達がいました。  手術前、手術後のことも経験しました。  医師は医学の知識を持って薬を出したり、治療の方法を考えます。    看護師はそのお子さんに合った方法で薬を飲ませたりという事で、そのお子さんのことが判らなければ実は看護できないんです。   看護師の立場も大きいものだと思っています。  体調などによって薬が上手く飲めないような時に、どうやったらうまく飲むことができるか、そのお子さんにとってうまく飲める方法を探すことが大切かなあと思っています。  

子供達とは本当によく話していました。   30年前の幼児内科病棟ではお休みの時に、絵本を館内放送で読んで、一人一人お休みなさいと言って照明スイッチを切るという事もしていました。   「死ぬってどんなこと」と聞かれることもありました。  或る重い病気の女の子が「闘病記」の亡くなる場面を繰り返し読んで欲しいと言ってきて、読んであげている時に声が震えたり泣きそうになった時に「死ぬってどんなこと」と聞いてきました。  「亡くなることは悲しいね」と話して、その子が言ったことが「私もわからない」という風に言いました。   大人が考える死と子供が考える死は違っていたんだと思います。   その子は死に関することをいつも考えていたと思います。 

治療法のないお子さんが生まれてきて、そばで見ているしかないという経験もしました。  治療が出来ない病気がこんなにあるんだなという事を新生児乳児病棟で感じました。    重い病気の子たちはみんな明るくて笑顔が疲れを忘れさせてくれるんです。   ティッシュでケーキを作るとか、今あるもので楽しいことを見つけながら、そこで笑顔になったり、いたずらしたりする子供の姿は凄いなあと思います。   大人はそれまでの経験から絶望してしまう事があるが、子供たちはそれがなかったり少なかったりで、生きる力が溢れている子供たちを閉ざしたくないという部分は凄く思っていました。

定年退職をした時には仕事はもうやめようと思っていました。  先のことを考えるなかで、41年間看護師を務められたのは、子供たちと出会ったことが原点だと思いました。 唯一やりたかったのは子供たちに恩返しをしたかったんです。   横浜こどもホスピスに力を貸してほしいと言われた時に、渡された本があってその本を読んで、もし私がなにかできるんだったら という事で受けました。   治療法がなくなった時に医療は無力、でも看護は何かできるはずだと思いました。   病院は治療が優先で、楽しく遊ぶという事にはなかなかいかない。   子供達と一緒に遊べる、自分も楽しめる看護師でありたいと思っていました。   

横浜こどもホスピス「うみとそらのおうち」は子供が病気をしても遊べる場所、家族もゆったりできる場所にしたいと思っています。   重い病気を対象にしているので、担当の医師の意見も必要になります。  入ってくると走り回ったり、目がキラキラしています。 両親もホッとするような感じです。   医療施設でも福祉施設でもありません。  医師はいなくて保育士と看護師です。   このような施設は日本では大阪と横浜が2軒目です。   小児の緩和ケアはまだまだ進んでいません。  これからは増えてゆくと思っています。   

看護の仕事は診療の補助と療養上の世話が法律で定められている仕事です。  医療が進んでも最終的には人間の生きる力が強くならなければ、病気が治ることは難しいなあと思います。   生命力を削らないような、高めるようなケアが大事だと思います。  スタートして1年ちょっとで、手探りの中、利用するお子さん、家族の方から教えてもらう事が最初の目標でした。  当たり前にやること、日常の生活が凄く大切だと教えられたような気がします。   一人一人、家族ごとに違うので、どれくらい近づけられるか、一緒にいさせてもらえるかが、一番大事な課題になると思います。  スタッフの価値観も違うので、ご家族も一緒に入りながらディスカッションして考えるホスピスだったらいいなあと思います。  オンラインですが、小児緩和ケアのネットワークカンファレンスというのをこどもホスピスでは開いていて、参加者はナース、医師などがどんな小児緩和ケアが出来るのか、話しあっています。  いろんな人とつながることが凄く大切かなあと思います。































































2023年3月16日木曜日

吉田紗栄子(一級建築士)        ・〔わたし終いの極意〕 人生100年時代 "自立期"にしておくこと

 吉田紗栄子(一級建築士) ・〔わたし終いの極意〕  人生100年時代 "自立期"にしておくこと

吉田さんは現在79歳、半世紀以上に渡って高齢者や障害がある人たちが暮らしやすい建築やイノベーション(革新的なモノ・サービス・システム・ビジネスモデル・組織などによって、従来の常識が覆されるような新たな価値を生み出し、社会全体に大きな革新や変革をもたらすこと)に取り組んできました。   個人の住宅から福祉施設まで手掛けた数は100を越えます。  そのきっかけは1964年の東京オリンピック、パラリンピックに通訳として参加したことだと言います。  人生100年時代、住まいも終いも、元気で自立しているうちに準備をすべきだと吉田さんは言います。   どんなことから始まればいいのでしょうか。  

高齢者や障害がある人たちに特化した建築という意味ではなく、高齢者や障害がある人たちに歩み寄って、その方が出来る限り自立する工夫をやっています。   ケアリングデザインと呼んでいますが、美しさ、居心地の良さと機能性です。   バリアフリーは手すり、段差解消とかになってしまいますが、もともとはどういう障害があっても暮らしの場を作ってゆくという大きな概念でしたが、いつの間にか狭まってきてしまいました。   ストレスフリーと呼んでいますが、小さなストレスでも一つ一つ解消してゆくのが、居心地の良さに繋がってゆくのではないかと考えています。    バリアーフリーからストレスフリーへと、と言っています。

東京オリンピックでは通訳を募集して、試験を受けて受かりました。  私は会場係として駒澤の競技場に関わりました。   パラリンピックもあり私たちは赤十字の語学奉仕団体の募集であって、英語と、障害に関する知識などの研修がありました。  当時20歳でした。(大学3年生)    オリンピックの選手とはかかわりはありませんでした。   パラリンピックでは通訳というよりはお世話係というようなイメージでした。  私はイタリア語もできたのでイタリアの選手団に対して配属されました。  自衛隊の方がきて、階段をスロープにするとか、トイレの扉をとってカーテンにするとか、手すりを付けるとか、徹夜で作業していました。   その作業を見ていて、障害のある方に対してはこういうことを考えなければいけないのかと思いました。  別にテーマがあったんですが、変えて、卒業論文は「車椅子のための住宅」という事で、書きました。  

障害がある、高齢というのは条件の一つに過ぎないと思っています。  小学校5,6年生からこの大学に行きたいという思いはありましたが、はっきりとは高校3年生の時に父の勤務地のイタリアに行った時の1000年も昔に作ったローマ水道橋が今でも使われているのを見て、やっぱり建築って凄いと思って、建築の道を進もうと思いました。  

東京オリンピックの時の人から10年後ぐらいに、パラリンピックの選手の方から設計依頼がありました。  15 坪という制限があり大変苦労しました。  それに入る車椅子の住宅というのがどうしてもうまくいきませんでした。  その人の家を新築3回、リフォーム2回行いました。  条件が車椅子で何でもできるという事でした。  ポジティブな感情を住まいで持てれば、健康にも凄く繋がってくるわけです。  

65歳前にはこれから自分がどういう暮らしをしていきたいか、真剣に考えてゆくべきだと思っています。  リフォームも70,80歳になってしまうとなかなか難しい。     家は何といっても安全、安心が大事です。  階段は危険なところなのでちょっとした工夫とかで安全な方向に変えられます。  リフォームの一番のポイントは昼間の生活と夜寝るところと、水回り(風呂、トイレなど)が同じフロアーにあるという事が凄く大事です。  家具のレイアウトも考えた方がいいです。  ドアーから引き戸にすることでも安全性が確保できます。  建物を違うところに立てるのも、地域が便利であるかどうか、坂、階段があるかどうか、歳を取ってからでは厳しい。  買い物などを含め、立地条件をちゃんと考えるべきです。  

75歳になって考えたことは、85歳までは今の生活を続けられるようにしたいと思っていますが、どうなるかわからないので、2種類考えておかなければいけないんじゃないかと思っています。   85歳とか元気なうちに逝かれるのか、90,100歳まで生きられるのか、自分の家に住み続けるならば、リフォームして快適に過ごそうとするのか、施設に入るようにするのか、80歳になって考えるのではちょっと遅いと思います。  自立期にいろいろ考えておかないと、結局誰かに迷惑をかけることになるので、高齢になると基地は自宅なので、そこが大事です。   

パラリンピックを創設したグッドマン博士が若い障害のある方たちに向かって言った言葉が、「失ったものを数えるんじゃない、残されたものを最大限に生かせ」と言っています。高齢になると、体力的にも失うし、いろいろなくなる方を考えがちですが、残されたものも沢山ある筈で、そういったものをできる限り生かして、人生50年から100年の時代になって、残された時間をどうやって楽しくしてゆくのか、この言葉に問われていると思います。   この言葉こそ今生きているのかなと思います。   東京オリンピックの語学奉仕団のリーダーだった橋本裕子さんが「奉仕は人生の家賃である」と言って、自分が持っているものを家賃として社会に還元してゆくという考えは、今こそ大事なんではないかと思います。  



























 

 


































2023年3月15日水曜日

水谷嘉弘(一般社団法人代表理事)    ・「ビジネス発・アート着」の道を歩んで

水谷嘉弘(一般社団法人代表理事)    ・「ビジネス発・アート着」の道を歩んで 

水谷さんは1952年東京都生まれ、慶応大学、東京芸術大学にダブル在籍したという経歴の持ち主です。   慶応大学は卒業、東京芸術大学は中退という形で社会人生活をスタートさせています。  銀行員として27年、事業会社社員として13年、併せて40年間のビジネスマン生活を送り、リタイアした後は美術の世界に向かいました。  放送大学教養学部に編入学して卒業、更に国家資格の博物館学芸員の資格も取りました。  こうしたことを土台にして、戦前パリで活躍しながらも夭逝した画家、板倉鼎を検証する事業など、アートの分野でも活動しています。   

板倉鼎はエコール・ド・パリの時代の洋画家なんです。  東京美術学校を出てすぐに新婚の奥さん須美子と二人でパリに留学して、東京美術学校で習った描き方を変えて、非常に明るい色調でモダンでおしゃれな絵を描いたんですが、病気にかかって28歳で亡くなってしまった。  3年余りの画業が残っている。(1920年代)   私は松戸市に住んでいますが、板倉鼎は松戸市の出身です。   遺族が板倉鼎の作品を沢山持っていて、松戸市の教育委員会に寄贈して、田中紀子?さんという方が学芸員をやっていて板倉の研究をしていて、新聞記事に出して、6年前に目黒区美術館で展覧会をやってそれを観に行って初めて知りました。  その2,3年後に「藤田、板倉展」が行われました。  藤田嗣治とはパリで板倉鼎は会っています。  一般社団法人「板倉鼎・須美子の画業を伝える会」というものを作りました。  

慶応大学の1年生の時に東京芸術術大学にも芸術学科という勉強する科があることを知って、東京芸術術大学を受験しました。   慶応大学に5年、東京芸術術大学5年行きまいたが、そのうち4年がダブっていることでした。  協和銀行本店にって面接を受けて、入る事になりました。   先生と相談して中退という形になりました。  

当時通産省で貿易研修センターという国際経済人を養成するところがあり、そこに約1年行きました。  短期留学があり、1984年ニューヨーク発令が最初で、シンガポール、香港、東京など5大センターを経験しました。   プラザ合意がありましたが、当時は日本の進出ラッシュ時代でした。  1987年10月にブラックマンデーがあり、株式が暴落しました。    アジア経済危機にも遭遇しました。  1987年7月2日にタイバーツが大きく下落して、それをトリガーいしてアジア経済危機が起きました。  1998年に日本に帰ってっ来て国際部長になり、西暦2000年問題があり、1999年12月31日に本店に幹部が泊まり込んで、シドニーが日付変更の最初で、私がシドニー支店の店長と衛星電話でつないで、生で中継をすることになりました。  結果は何も起こりませんでした。 協和銀行はあさひ銀行に変って、銀行にはバブルのころの不良債権がずーっと残っていて、不況が続いて業績が良くなかった。   オーバーバンキングの方針に則ったことをしていましたが、いろいろ大変でした。  銀行員として27年、事業会社社員として13年、併せて40年間のビジネスマン生活を送りました。  12年海外に駐在した経験があるので、満足感がありました。  銀行の国際部門がなくなったというようなことは達成感がなかった。 

フィラデルフィアはシュール(非日常的・超現実な表現や発想」のこと)の名作が沢山あり、好きになってしまいました。   版画のオークションに行って手に入れました。  2016年にフルリタイアして、 母校の戸山高校に授業を頼まれて講演を行いました。  好きな事とやりたい事二つをやってきた事、やりたい事はインターナショナルな仕事で、好きな事は美術です。  仕事は放電だったけれども、美術は充電になりました。  これが長く持ち続けられた要因だったと思います。   

オンデマンドで単位が取れる放送大学に入りました。  芸大の成績証明を認定してもらって3年生に編入学し卒業できました。(人文学系)   博物館学芸員という資格があり、早稲田大学に1年間の学芸員講座があり、単位を取りました。   博物館実習が大変でした。  小さいころから美術は好きでした。  「近代日本洋画こぼれ話」という美術エッセーの本を書きました。   板倉鼎を検証するには同時代の日本、西洋の画家を調べなければいけないので、勉強になりました。   

JSSC(日本サッカーサポーターズクラブ)の名刺もあります。  中学から社会人の時もサッカーでプレイしました。  JSSCはブラインドサッカーとかいろいろなサッカー団体に助成金を渡している団体です。  評議員をしています。 芸大サッカー部で私がキャプテンをやった前任者が工芸の室瀬和美さんで、蒔絵重要無形文化財保持者(人間国宝)です。  後輩のキャプテンでは日本画家で筑波大学の副学長をやった太田圭さん、現在芸大の学長をやっている日比野克彦さんです。   人の縁を大事にしてきてよかったと思います。



































  



















2023年3月14日火曜日

土田雅人(日本ラグビー協会会長)    ・ラグビーW杯まで半年 日本代表の現在地

 土田雅人(日本ラグビー協会会長)    ・ラグビーW杯まで半年 日本代表の現在地

土田さんは秋田県出身の60歳。   高校でラグビーを始め、秋田工業高等学校から同志社大学に進み、ミスターラグビーと言われた平尾誠二さんらと大学選手権3連覇を成し遂げました。  その後社会人のサントリーに進み、監督として日本選手権に優勝を飾るなど、名将としても知られました。   現在はサントリーホールディングスの常務執行役員を務める一方で、日本ラグビー協会では理事を経て去年6月に会長に就任し、日本ラグビー界のかじ取りを任されました。  会長としての思いや、ワールドカップを前に現在の日本代表の戦力について、それに高校時代からお互いを高め合い、7年前に亡くなった親友平尾誠二さんへの思いを伺いました。

2019年の世界大会は盛り上がりました。  日本のおもてなしが素晴らしかったという事と、日本がベスト8になったことは皆さんから言われることです。  今まではラグビー協会の会長は森総理とか、各企業の社長とかで、70代ぐらいが多かったですが、59歳で話があった時には仕事と両立だったので、迷いましたが、もう一回ワールドカップを持ってきたいという思いが協会内にありましたので、実現するために引き受けました。  忙しいですが楽しくやっています。   2015年には理事をやりましたが、平尾がやるので一緒にやってくれと言われて、その時にはサントリーフーズの社長をやっていたので、無理ですと言ったんですが、平尾が支えて欲しいという事もありやることになりました。

平尾は2016年に亡くなりました。 2015年のワールドカップで病気が発症して、彼と共に、病気とたったかったような形になりました。  彼の思いを実現してゆくことが私の仕事の一つかなと思っています。  3つ思いがあって、①もう一回ワールドカップを日本に持ってくる。 ②ベスト4,優勝を目指す。(現在世界10位)   ③育成(高校では少ない)   この3つを実現したいと思っています。  

今年9月からフランスでワールドカップが始まる。  いいチームになって来ました。   フランス、イングランドの強いチームと戦って負けはしましたが、良い戦いはしました。 スクラムとか、ラインアウトとかセットペースが安定すれば、力を出し切れればいい試合が出来ると思います。   セットプレイからのサインプレイだとかトニー・ブラウンコーチがいろいろ作戦を練ったり、スクラムとか、ラインアウトとか、キックオフなどが安定すれば本当にいいゲームができます。   スクラムとか、ラインアウトとかで負けると点差が開けられてしまうので、ジェイミー・ジョセフ監督もチームスタッフも判っているので、如何に9月の試合までに仕上げてゆくのか、という事だと思います。  

2015年、2019年に比べて新しい選手も出てきて、ベテランの選手と混ざり合ったいいチームと期待しています。   今回はチリ、イングランド、サモア、アルゼンチンと予選で戦ってゆく。  イングランド、アルゼンチンは安定したチームです。 チリ、サモアも力を入れていて、どの試合も難しいと思っていますが、初戦のチリとの試合で乗って行けるかどうか、ポイントになると思います。  どのチームも力は接近してきています。   イングランドは層の厚さとか世界一、二位といったところだと思います。   イングランド戦でスクラムが止まったらおかしいぞと思って、又セットプレイが崩れなければ互角に戦えると思っています。   アルゼンチンはヨーロッパで戦っている選手が多いです。  フォワードは力があります。リズムを崩しながらやればしっかり戦えると思います。     

スケジュールは1週間ずつあいて、休息は取れると思います。   2019年の日本でのワールドカップが決まって、その後強いチームと試合が出来るようになって、これが財産だと思います。  フランスとは去年3試合をすることが出来ました。  マコーミック

1998年には、マコーミック外国人初の日本代表主将に選ばれ、ミーティングですべて日本語で日本人以上に日本語を使いながら「もっと強くなれ、もっとこういう風にしよう」言うんです。  彼らは日本代表になりたくて、日本に来て国にも帰らず、決められたルールのなかで、頑張って来ました。  ラグビーはグローバル化の先端を行っていると思います。 チームバランスはいいと思います。  

2019年に世界中のラグビーのメンバー、ファンの人が来て日本の良さが判って来て、家族が判って来て、日本に来たいという選手が増えてきました。  リーグ1を作ってレベルも高くなりました。   リーチマイケルの様に高校から日本に来てプレイする、フィージー、トンガ、サモア、ニュージーランドとかの親が日本に行けという事で、好循環が回っている。

中学では野球をやっていましたが、スポーツで日本一に成れるものはないかと思った時に、能代工業高校のバスケットか、秋田工業高校のラグビーが日本一をとっていました。   秋田工業高校へ行くことにしました。    花園で準々決勝で平尾選手と当たり凄いプレイヤーだと思いました。   常に立体的に冷静に見る選手でした。  平尾と共に同志社大学に行くことになりました。   たまたま彼の息子と娘はサントリーに入りました。  神戸製鋼(平尾)とサントリー(土田)との決勝の試合がありましたが、キャプテン同士でメンバーどうするという話をしたこともあります。 (神戸製鋼2連覇の時)  現役時代は神戸製鋼には勝てませんでしたが、神戸製鋼が8連覇なるかどうかの時に、サントリーの監督として対戦して勝つことが出来ました。(平尾は現役でした。)  

平尾とはラグビー、仕事などを通して長く付き合ってきましたが、癌が見つかり余命3か月と言われてしまいました。  彼とはなんでも相談し合ってきました。  彼が元気であれば彼が会長をやって僕が支えていたんだろうなと思います。  2016年10月20日に亡くなりました。  

ラグビーでいろいろな国に行けたし、いろいろな人々にも会えたし、平尾にも会えたし、そういう意味では恩返しとして会長になりました。  協会のメンバーには優勝を目指すんだから日本一の協会に成ろうと、職員に話しています。  世界一の協会になって世界一のチームを作っても一度ワールドカップを迎えてみたいです。  2031年はアメリカが決まっている。  今後は私の努力だと思っているので頑張ります。



























































2023年3月13日月曜日

江戸家小猫(芸人)           ・〔師匠を語る〕 四代目江戸家猫八

 江戸家小猫(芸人)           ・〔師匠を語る〕  四代目江戸家猫八

師匠でもあり、父親でもある 四代目江戸家猫八さんについて伺いました。

まもなく五代目江戸屋猫八を襲名します。  父親でもある 四代目江戸家猫八さんは2016年3月21日に66歳で亡くなりました。  

四代目江戸家猫八さんはNHK「お笑い三人組」で人気を博した三代目江戸屋猫八さんの長男として1949年東京で生まれました。  初代江戸屋猫八さんとも、祖父と孫という関係です。   高校卒業後三代目に入門して江戸屋子猫を名乗った先代は、動物の物まねで知られただけではなく、テレビドラマやバラエティー番組の司会などでも活躍しました。  2004年には文化庁芸術賞優秀賞を受賞、2009年父親の跡を継いで 四代目江戸家猫八を襲名します。  国内だけではなく海外の鳥の鳴き声の研究を続けるなど、芸熱心で知られた方でしたが、2016年3月21日に進行性胃がんのため66歳で亡くなりました。

父は「他にやりたいことがあるならそっちの道に行くように」、とよく言っていました。   つがなくてもいいが、ウグイスだけは鳴いて欲しいと言っていました。  周りの方から「僕も大きくなったらお父さんの跡をつぐのよね。」と言われ続けて育ちましたので、何となく自分もいずれ跡を継ぐ、更に父の仕事舞台をみていると、割れんばかりの拍手、会場がどよめくような笑いが起きる、父は凄いことをしているという感覚もありましたので、憧れを含めて小さいころから気持ちは固まっていました。   

父の稽古は全く見ていないですね。  私も両親の前でとか、人前で練習することはないですね。  「自分で自分らしいネタを作りなさい」と、父から言われました。  ネタが通じるかどうかはお客様にしかわからない、舞台で学べという教えでした。   カラオケでいろいろな鳴き声を練習しました。    鶯が一番難しいです。  手をグーにして親指と小指を立てて、小指だけ関節のあるところを曲げるとカタカナのコの字型が出来る。 コの字の隙間を笛にしています。  小指を口にくわえて隙間だけから抜いて行くと、独特な大きな音が出る。  子供のころから真似たりしましたが、音が出ず、そのうちちょっとずつ土台が出来てきました。  ちゃんと練習し始めたのが高校に入って、自分の将来を意識し始めた時に一寸音が出るようになりました。   最終的には10吸い込んだ息が10音になる。  最終的には人前でやるのが一番高いハードルで、緊張すると口がこわばったり、小指の曲がり方がいつもとちょっと違うとか、くわえ方がちょっと違うと音が出なくなる。  

子供のころお風呂に入っている時に、私の指を父がくわえて音を出してくれことが、強烈なインパクトになりました。 自分の指でも音が出る、と思いました。  

高校3年の秋の時に、ネフローゼ症候群という腎臓の病気になり、ステロイドの薬の副作用で身体をいじめられて、延べ12年間、30歳ぐらいまで再発しやすい状態で無理が出来なくて、32歳の時に父が江戸屋猫八を襲名した年に、入門することが出来ました。    中学、高校時代は性格が真面目なもので、寄席の仕事が合わないのでないかという思いもありました。  病気になった時には跡は継げないかもしれないと思いました。           

「お金、生活を含めて俺が働ける以上は何も心配しなくていいから、闘病に向き合って頑張れ。」と、言ってくれたのが一番嬉しかったです。  凄く感謝しています。      父が秋に襲名しましたが、その年の春に山に行ってバードウオッチングをして、ウグイスの声を聞いてもらいました。   父がアドバイスをしてくれて、それ自分なりに理解してもう一度鳴いてみました。   すぐ理解したことに対して、これはものになりそうだと感じたそうです。  一緒に温泉に入りながら「舞台を一緒にやってみないか」と急に言ってくれました。   このことが背中を押してもらえました。

2009年父が江戸屋猫八を襲名。 襲名披露の公演の時に10か所ぐらい共演することができました。   コンプレックスと思っていた性格がお客さんから、面白いと言われ、舞台が楽しくなりました。    2011年江戸屋子猫を襲名。  父からは「楽屋に来た時に、どこにいたら邪魔にならないか、それだけ考えなさい」と言われました。  1年半後に或る日突然「ウンその動きでいい」と言われました。  舞台上での空気を察するときの感覚に非常によく似ているんです。  落語協会の理事の師匠方から、もうそろそろ子猫さん一人で高座を務めた方がいいのではないかと声が掛かりました。  父も凄く嬉しかったと思います。  

2016年3月21日に父は66歳で亡くなりました。   西表島のヤマネコマラソンというイベントがあり、父が長い20kmに挑戦するという事で練習に励んでいましたが、何となく細くなっていった感じがしました。  2016年正月に咳が続いていたので、病院で診てもらうことになり、そこで胃がんが見つかりました。   転移が見られるステージ4で、手術をしても助からないという事でした。  余命の宣告をされてしまいました。 父は、「抗癌剤などの治療はせずに仕事を全うしたい」と言いました。  共演という形で高座を務め、父は何かを伝えたい、私は何かを受け取ろうと、言う数回の舞台はいい勉強になりました。   

2023年3月21日江戸屋猫八を襲名することになりました。   「必ず周りの人が見ているよ。  何か大きな動きがある時は、周りの動きがあるから。」という師匠の教えがあって、ふっとそれが頭に浮かびました。  70歳まで猫八で居たかったと母に漏らしていたので、父には70歳まではいてもらおうと思いました。(2020年)  立て続けに大きな賞をもらったし、七回忌も近いし、そろそろ猫八を考えてもいいんじゃない、という声が周りから上がり始めました。  襲名はそういった流れでした。

四代目江戸家猫八への手紙

「・・・お父さんは子猫さんのことをよく褒めていたよ、という事を聞きました。・・・その優しさを親バカにしないためには、自分が努力をして褒めてくれた通りの良い芸をすればいい、試練を貰った気持ちで日々臨んできました。   まだまだ未熟、生涯未熟と思いますが、そのお陰で今の自分があります。 ・・・いよいよ五代目猫八を襲名することになりました。 ・・・ 父さんが大切にしていたことは全て受け取ったつもりです。・・・ 五代目猫八はなかなかいいねと、天国に届けられるよう頑張ります。」






































 










 

2023年3月12日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕 

*交響曲第9番ホ短調「新世界から」の第4楽章 作曲:ドヴォルザーク          

赴任先のニューヨークで 故郷を思って書いたのが、「新世界から」、 1893年 ドヴォルザークが52歳の時にニューヨークのカーネギーホールで初演され大成功を収める。    出だしの部分をドヴォルザークは蒸気機関車の発車の音からヒントを得たのではないかと言われている。  鉄道マニアだった。  今日のクラシックの遺伝子は乗り物をテーマに行います。

ハイドン、モーツアルト、ヴェートーベンの時代は鉄道はなく馬車、船でした。   ハイドン、モーツアルト、メンデルスゾーンもヨーロッパから船でイギリスに渡っています。   19世紀半ば以降、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザークが活躍するころは蒸気機関車の時代がやって来ます。  船も大型になり大西洋路線が注目を集めるようになる。万国博覧会が開催されヨーロッパとアメリカの文化が行き来して、アジアの文化がヨーロッパに紹介される。  音楽もそうした動きと無縁ではないです。  

*交響曲第9番ホ短調「新世界から」の第1楽章   作曲:ドヴォルザーク 

ホルンの音からのイメージは汽船が旅立つときの汽笛のように聞こえる。  ドヴォルザークがチェコからアメリカに、これから新世界に行くぞという思いの音なのか、アメリカについて、ヨーロッパ汽船を見て故郷に帰れるのかなあという思いなのかはわかりません。

*「コペンハーゲン蒸気機関車のギャロップ」  作曲:ハンス・クリスチャン・ロンビ    列車が駅から走り出して次の駅に停車するまでを忠実に音楽的に再現している。

*「観光列車」 作曲:ヨハンシュトラウス                       1864年宮廷舞踏会場 産業協会舞踏会のために作曲された。  鉄道関係者が集った舞踏会。   

*「パシフィック231」  作曲:アルテュール・オネゲル                      231は19世紀フランス国鉄の蒸気機関車の車軸の配列の事です。  前輪が2軸、動輪が3軸、後輪が1軸。  オネゲルは蒸気機関車が大好きだった。


ピアノ協奏曲第5番「エジプト風」 第3楽章  作曲:カミーユ・サン=サーンス            ナイル川を下る蒸気船のエンジン音を表わすのではないかと言われるフレーズがある。 

*「パリのアメリカ人」 作曲:ジョージ・ガーシュウィン                     パリの目抜き通りの賑わい、自動車クラクションの利用に認められるように現代の都会の生活や喧騒が、ウィットを交えて楽しく描き出されている。  本作のニューヨーク初演のために、ガーシュウィンはパリのタクシー用のクラクションをアメリカ合衆国に持ち帰った。

*映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』から 「オートバイとオーケストラのスケルツォ」   作曲:ジョン・ウイリアムズ