2021年7月31日土曜日

阿川佐和子(エッセイスト・作家)    ・困難な時代を生き抜くヒント

 阿川佐和子(エッセイスト・作家)    ・困難な時代を生き抜くヒント

最後の出演が2016年11月、2017年結婚。  若い時の結婚は大きなエポックとなるが、63歳で結婚すると子供が生まれる可能性は全然ない、介護をする段階もほぼ越えていた、互いに仕事も長年やっていますので、それぞれの仕事のペース、生活のペースがあって一緒に生活、同居するという事で、せめぎあいみたいなことも発しない、それぞれ勝手に生きて居まして、そんなに大きな変化はなかったような気がします。   私は母の介護があったし、万一救急車で運ばれるような場合に、知人になってしまうので、社会の仕組みに対してめんどくさいから籍をいれてしまった方がいろんな意味で楽だし、籍を入れましょうという事になったわけです。

それぞれの価値観の違いはあるので、ぶつかり合いは有ります。  基本的なことがあっていれば小さな喧嘩は有りますが、段々そういう人なんだと認知してゆくわけです。  卵一つとってみても作り方、味付けなど全然違うわけですが、一体どこが気があうのかと思ったが「趣味が倍になるからいいじゃない」と言われて、黒胡椒だけしか知らなかったのが白胡椒も味わう事にもなるし、自分の知らない世界を教えられるという意味では確かに趣味が倍になるとは思いました。  すべて合わせる必要はありませんが。

大学3年生で周りは就職活動を始めて、私の父阿川弘之は小説家という職業だったので、社会の常識からかけ離れた教育をしていた父のもとで育った娘は一体社会の組織に入って何ができるのか、大学に入ったがあまり勉強もしていないし、特技があるわけでもなかったので、どうせ卒業してから3,4年で結婚するだろうと思ったので、ちょっと稼げるぐらいの手仕事をできるようにしようと織物の仕事をしようと思いました。  バイトをしながら織物教室に通って20代が終わりかけた頃に、同時にお見合いもしていていずれ決まるだろうと思っていましたが、育った環境が変わっていたし、お見合いと言えども恋愛して父のような性格ではない穏やかな人と結婚したいというのが夢だったのですが、余りご縁がありませんでした。 

TV局の単発のレポーターの仕事をやらないかという話があり、バイトの一つだと思って一回やったら、2年後にレギュラーの番組のアシスタントをしないかという話があり、安定した収入があると思って、始めたのが深夜の生放送で情報ニュース番組のアシスタントでした。  いつ首になるのか判らないような仕事の連続でした。  雑誌での連載も29年1350回を越えることになりました。  

「アガワ流生きるピント」という人生相談本を刊行、こういった本は初めてです。    例えば私が人に相談するときには、ある程度自分はどうしようと意識下にはあるんですね。   それを確認したくて聞くという事の方が多いんではないかと思います。  心底立ち上がれないほど悩んだときは人にも会いたくなくて、相談しないような気がするわけです。   人に会わないで嘆き悲しんで体力を温存して、冬眠から覚めたように太陽の光に当たった時に、人の元気な姿を見て自分自身も元気が出るというようなストレートに見直すという事は自分ではわからない感じです。  答える側としては多分その人はやりたいことは決まっているんじゃないかとか、意見を一気に取り入れる事とはないだろうなという前提で、視野を広げるためのヒントを与えるというような気持で答えたつもりです。   的確なヒントにはなっていないと思うので「ピント」ぐらいという事です。   

辛さというのは解決しなければいけない問題もあるかもしれないけれど、失恋とか、自分自身の心が傷ついていることを考えると、時間が解決してくれることも多い。   いきずりの5人ぐらいの人に話せばすこしずつ元気になります。   まずは一人では抱え込まないで、少しずつでもいいから発散させることと、体力をつけるために、時間を稼ぐために寝るという事と、なんかの形で笑いに変えられないかということも大事だと思います。   ネットとか、昔に比べて知らない人に出会うチャンスは多いと思います。  

母は性格のいい認知症でした。  根が素直で明るくて、初期の認知症の時にはイライラしていた時期がありましたが、それを過ぎてからは明るかったです。   認知症になってしまった人間に対して、引き戻すのではなくどう理解するかがまず一つの戦いになると思います。   認知症になった人は記憶能力は衰えるが、判断力、視力、聴覚とかがいっぺんに駄目になるわけではない。   現在のやり取りに関しては驚くほどとんちがきいています。  今の母、今の母を連続させて付き合って行こうという事に決めたら、私は楽になりました。  認知症の人を別世界の困った人間と烙印を押すのではなくて、その世界は存在するんだという付き合い方をする方が付き合っている側も楽になります。  泣くだけ泣くとか、誰にも会いたくない時期はあると思うので、自分はポジティブにと思い過ぎないほうがいいような気がします。






2021年7月30日金曜日

中村祥子(バレエダンサー)       ・新しいステージに向かって

 中村祥子(バレエダンサー)       ・新しいステージに向かって

Kバレエに5年間所属していましたが、海外へゲストで出ることを10何年やってきましたが、ゲストで出る事と所属して出ることは違うと感じましたし、日本のお客さんの前で踊りたいという思いがあったので、この5年間はたくさんの作品を躍らせてもらい、お見せ来たのはうれしいと思っています。   芸術監督の熊川哲也さんは最初一緒に踊らさせてもらった時はスタジオでのリハーサルの感じと舞台では何百倍のエネルギーを放出されていて、こちらも力をふり絞らないといけないような、オーラを出すダンサーの人でした。  しっくりくる言葉でアドバイスしてくれて、私にとって大きな経験になり、レベルアップできたところかなあと思います。  とにかくテンポが早いです。 音を大事にされていて、音の意味が身に付いて来たのかなあと思います。   

私は新しい自分を求めて移動してしまうという事があって、自分の可能性を見てみたいという思いもあり、Kバレエから離れてみて新たな自分を捜して、Kバレエの舞台に戻ってこれる時に何か今までにない自分というもので、ディレクターの作品に臨めたらありがたいなあという気持ちをお伝えして、退団という形になりました。   退団して9か月になりますが、フリーダンサーの大変さは実感しました。   でも今までにかかわらなかった人たちとの出会いとか、その人たちからのアドバイス、出会ったことのない作品とか、パートナーだったりとか、いい経験となりました。

コロナ禍で踊る場が失われるという事は、すごく大変なことだし、日々踊っていないと筋肉、体形の維持が難しい。  改めて舞台というものの必要性を痛感しました。   SNSの中で知らなかったダンサー同士が励まし合えたことは良かったなあと思います。  家で自分で出来る身体のケアを地道に出来たことは良かったなあと思います。   筋肉トレーニングとか弱かったところをどう風にすれば強化できるかという事を調べながらやってみて、そういったことは普段はできませんでした。   初心に帰って自分を見直す時間は取れたのかなと思います。

バレエを始めたのは6歳の時でした。   猫背気味だったのでバレエをすることで姿勢がよくなるのではという事で親がバレエ教室を捜して、始めました。  留学することになり、体形から違うんだというショックと、バレエをやるために必要なことを小さいころからやってきているダンサーたちの中に途中から入って行ったので、違いを目の当たりにしてすごいショックでした。   ローザンヌ国際バレエコンクールでスカラシップ賞を受賞していったのに、これからの自分のバレ人生はどうなるのかという感じでした。    言葉ですが、ドイツでしたが、ほかの国の方々も来ていて、母国語でしゃべっていたりしてそれでなんとか通じていたようなところがありました。   

1998年、シュトゥットガルト・バレエ団に研究生としてしてはいたんですが、監督さんのレッスンで靱帯断裂の大怪我をしてしまって、手術後も自分の脚ではないような感覚がありました。   日本へ帰国、同バレエ団の退団とリハビリ生活を余儀なくされる。   母親から「諦めたら先はないよ」と言い続けてくれて、そこで何とか自分を取り戻して、又バレ団に戻りましたが、次の契約は有りませんと言われました。 いろいろな国に行っていろいろな経験をして、シュトゥットガルトの「オネーギン」という作品と「ロミオとジュリエット」の作品を踊らせていただいて、怪我をして以来シュトゥットガルトで踊ったんですが、自分の立場が変わっていて、同じ場所なのに全然見え方が違っていました。   ここに戻ってこれたんだと自分に涙しました。  監督にも褒めていただいて長かったなあという思いがありました。   

或る時ふっと回りの女性が結婚して子供を産んでダンサーとしてやっているのを見て、そこから意識が変わったと思います。  いい出会いがあり結婚、出産をしてとすんなりと進みました。    妊娠して5か月まで舞台に出ましたが、その後出産してやっと踊れるという気持ちがしました。  すぐストレッチを開始して、母親として頑張らなければいけないという事と踊りたいという思いもあり、葛藤と頑張り過ぎもあって、涙した時期もありました。   母、夫など周りに助けてもらいながらレッスンに入りました。  今まで積み上げてきたものがすべて失われたという思いがあり、又涙してしまいました。    自分の身体を取り戻したなあと実感したのは1年後でした。    股関節を痛めてしまったのでそれは今でもあります。   息子はバレエはやらないといっています。  

フリーとなっていろんな人との出会いとか、いろんな作品に挑戦できるのかなあと思っていて、クラシックがベースにありながら、いろんなジャンルを経験してみたいと思うし、あらゆるものに自分をつなげてみたいと思っています。  いろんな方とのコラボレーションもしていて、楽しいです。  ジュエリーのデザインもやってみて、ダイヤモンドの質も素晴らしくて、身に着けていただいたときに思い、勇気だったりいろいろなものを感じる作品になっているんじゃないかと思います。  

今後もダンサーとして幅広くいろんなものにチャレンジしていきたいと思っていて、表現するという事が大好きで、表現の幅もいろんな人との出会い、違ったジャンルをやることで表現の幅が、知らなかった幅というものを見出していけるのかなあと思います。  自分を大きく広げて行けたらいいなあと思っています。






2021年7月29日木曜日

朱戸アオ(漫画家)           ・【私のアート交遊録】限界に向き合う人間の姿を求めて

 朱戸アオ(漫画家)      ・【私のアート交遊録】限界に向き合う人間の姿を求めて

4年前に書いたペストによるパンデミックの恐怖を描いた作品「リウーを待ちながら」が今再び注目されれています。  作品は感染症で封鎖された地方都市を舞台に人々が危機を生き抜く物語です。   この作品には緊急事態宣言による都市封鎖やマスクをつけて間隔をあけて並ぶ人々、濃厚接触など今も尚毎日ニュースで取り上げられる日常がちりばめられています。 朱戸アオさんはこれまで感染症をめぐる医療ミステリー「インハンド」や「メネシスの杖」など医療や科学知識とミステリーサスペンス感が見事に融合した作品を発表しています。  コロナ禍を予見した様な作品はいかにして描かれたのか、その経緯や、作品作りにかける気持ち,朱戸アオさんが漫画家になり、医療漫画を描くにいたった経緯や今後の作品世界について伺いました。

「モーニング」で初めて週刊連載を始めています。  「ダーウィンクラブ」というタイトルで連載しています。  朝5時、6時から仕事を始めて、朝食を作って子供たちを保育園に送り出してから仕事を再開し夕方5時までやります。  子供たちに夕ご飯を食べさせたりして一日が終わり、時間が足りないです。  

「リウーを待ちながら」が単行本で出た時には全く話題に乗りませんでした。  まさかこんなことになるとは思いませんでした。  この作品には緊急事態宣言による都市封鎖やマスクをつけて間隔をあけるなどが取り込まれています。   感染症に関する法律とか読み込んだり取材などもしました。  中世のペストなどでどのような差別とか、虐殺があったが、原因が判っていなくて、病は王様から農民まで全員がかかるという、病が平等だという話は本で何回も出ていました。   そういった思想をもとに漫画を描きました。  現実ではある程度感染経路も判っているし、どの程度防御すればかからないかという事も判っているし、医療のレベルも国によって違うし、全然平等ではなかったなと自分の想定とは違ったなと思います。    疫病とか災害は人間の善悪とは関係なく動くので、本当は世界ってそうなんだと思います。   

「ペスト」を若いころ読んで感動して世界はなんて不条理なんだろうと思って、主人公のリウーが誠実でこういう風に生きて行けばいいんだと思って、医療物を書いてくださいと編集者から言われた時に、ペストをべースにしたパンデミックな話を書きたいなと思いました。「ゴドーを待ちながら」(不条理演劇の代表作として演劇史にその名を残す。)も舞台で見たことがあって、編集者の方が二つを合体させればいいんじゃあないかといわれて「リウーを待ちながら」にしました。

不条理とどう戦うかという事を書きたいと思っていて漫画にしましたが、大きく話題にはなりませんでしたが、コロナ禍が起こってしまって、不条理な世界になってしまった時に多くの方が読んでくださいましたが、追体験をしなくてもいいんじゃないかと思いましたが、俯瞰して見れるという事では安心して見れるのかなあと思いました。

物語で「ペストと闘う唯一の方法は誠実さなんだ」とリウーに言わせているが、誠実さとはこうすれば誠実に生きれるという方法はなくて、場合によってちまちま考えて、駄目だったら違う方法を考えてもごもごするが、その時に一番いい方法を考え行動する。

美大へ行きましたが、友人の医師などから監修を受けています。  ニュートンは万有引力を証明するために微分、積分を道具として思いついたそうですが、それを見て感動しました。   目的とか視野の広さは子供のころ余りもてなかったが、大人になって漫画のためと思いながら勉強して、そうすると知識が増えて行って、漫画のお陰で世界がひろがったなあと思います。   NHKしか見せないような親でしたが、小学校4年生の時に「風の谷のナウシカ」を買ってくれて、面白くて真似をしてストーリーの続きを書いていました。  美大の建築科に入りました。  漫画を書きたいという思いが出てきて、書いて持ち込みなどしました。  大学4年の時に漫画家になりたいと言ったら、何にもやっていないのに何言ってるのと言われ、大学院に進んで読み切りを書きました。  大学院1年生の時にデビューしました。   

子どもを持つことは私にとって素晴らしいことですが、仕事の妨げにはなりますが、その中でいろいろ考えることがあり、次の作品に活かせたらいいなあと思います。

2011年に公開された映画『コンテイジョン』がお薦めの一点です。(アメリカのスリラー映画。高い確率で死をもたらす感染症の脅威とパニックを描く。)






2021年7月28日水曜日

渡辺隆次(画家・エッセイスト)     ・【心に花を咲かせて】自然の居候として生きる

渡辺隆次(画家・エッセイスト)    ・【心に花を咲かせて】自然の居候として生きる 

武蔵野美術大学で西洋絵画を学んだ渡辺隆次さんは、幻想的な半抽象画という独特な画風で知られています。    特に渡辺さんと言えばキノコだよねと言われるほどキノコの絵が知られています。   渡辺さんが収めた山梨県甲府市にあります武田神社菱和殿の天井画にもたくさんの渡辺さんが描いたキノコが描かれています。   作品の多くはアトリエのある八ヶ岳山麓の自然の営みがとても重要なモチーフになっていて、最近ではキノコの胞子をそのまま活用した作品を数多く描いています。  81歳になった今も精力的に制作活動を続けています。  自然から何を得て何を描きたいのか、山での暮らしから生まれる絵を通して何を伝えたいのか、伺いました。

東京生まれですが、山梨県北杜市で活動を続けていて、44年になります。   豊かな自然がここにはあります。   植物、動物、昆虫など大変な数の生き物がいるという事に気づくわけです。   その中に人間としての私が居て、居候させてもらっている、そういった感じです。   八ヶ岳、南アルプスなどを写生する場所でもあります。   何故か恐れ多いという感じがして、私には風景画を描く感じがしません。   東京にいる頃も半抽象画のようなものを描いていました。  形のあるものを手繰り寄せて、自分の感受性と織り交ぜて、現れてくる色や形はどんなものだろうかと、そういう追及の仕方の絵です。   ここにきてキノコの存在に気が付いて、これは一体何物だろうと熱烈な好奇心がわきます。  徹底的に知りたかった。   富士山の北麓にはどのぐらいのキノコがあるのか、世界の菌学会が集まってキノコ狩りをしました。   約500種類ぐらいになりました。  キノコは1万種類ぐらいありますので少なかったです。  シーズンに歩くと数十種類は目にします。  近辺が開発されるようになって、森が壊される前にキノコをスケッチしておかなければと追われるような気分もありました。   

どんなキノコなのか図鑑を買ってきては調べました。  開発され消えてゆく数十年間を目撃してきました。  スケッチした絵をそのまんま絵にしようとは思っていませんでした。キノコが地球上の生物の重要な役割をしているという事に気が付きました。  植物、動物を一方的に人間が消費していると、絶えてしまうわけです。  植物、動物を改めてよみがえらせてくれる力を持っているんだという事に気が付きました。  倒木、落ち葉が消えれゆくが、腐るというところに必ず菌類の存在があるわけです。  有機物を無機物にして又新しい命を生んでくれるわけです。 倒木、落ち葉、死骸など掃除してくれるのが菌類なわけです。   

キノコが出す胞子の文様を使った絵画が最近多いです。   キノコをテーブルにおいて置いたら翌日不思議な文様が出来ていました。  霜降りシメジという種類で胞子が白で、黒いテーブルに幻想的な不思議な文様の、キノコが描いた絵がありました。  それが最初に気づきでした。   画材は絵具ではなく胞子というところまで来てしまいました。  大きな構図だと毎年じわじわと10年ぐらい使って描くものもあります。  ですから思うようなキノコを待っている画用紙がいっぱいあります。   胞子にはいろいろな色の胞子があります。  ピンク色など珍しいものは10年、20年待たないと駄目でしょうね。     

胞子が空気中に漂っていて、地球全体が様々な色の胞子に柔らかく包まれているという幻想を持ちました。   東京タワーが出来た時に高いところに空気中に漂う花粉だとか様々なものを採集する装置があるそうで、7色の胞子に包まれているのではないかという想像を持ったわけです。  それが絵に成ったりしています。  宗教画には光が描かれたり、仏像画には光背があるが、光が柔らかく地上を射しているが、キノコの太陽とか月のような文様を見るとそれに重なりますね。    

胞子紋の周りに何を欲しがっているか、そんなことを考えて自然に広がって行ってしまいます。  日常のスケッチで自然界をため込む作業をしていて、描く時にはふわーっと自由に出てくる、そんな感じです。  

武蔵野美術大学を出てからどの団体にも入らないで来ました。    自分なりに蓄えた自分なりの技法と表現を最後まで持続したいというのが夢です。   先輩にグループでやらないかという事がありグループ展をやって、尊敬していた方が見てくれて、銀座の青木画廊を紹介してくれたのが、個展をするきっかけでした。 (最初の個展は26歳)     

学芸大学に通って学んで、絵画療法という形で指導する為に精神病院に通っていました。  絵を描くことで私自身が癒されます。  描いているうちに徐々に患者さんの顔が変わってきます。  

10代のころは小説に没頭していました。 それがエッセーへの道へと行きました。  私にとっての豊かさとは自然のなかで自分の居場所をちょっと頂いて、そこで深呼吸できるような人生でしょうか。  八ヶ岳にいることがそれにぴったり合います。  私にとって描くといことは、今生きている感謝を祈る姿が絵なんですよ。






2021年7月27日火曜日

俵万智(歌人)             ・歌ありてこそ 俵万智の35年

 俵万智(歌人)             ・歌ありてこそ 俵万智の35年

俵万智さんの第六歌集「未来のサイズ」がこの春第55回迢空賞と第36回詩歌文学館賞のダブル受賞をしました。   俵万智さんさんは大学卒業後の1986年に「8月の朝」で角川短歌賞を受賞し、短歌界にデビュー、翌1987年第一歌集サラダ記念日』はリズミカルで斬新な口語表現の歌でベストセラーとなりました。   生きていることは歌う事という俵さんが日々の暮らしの中での思いを歌に詠み、一人の女性として母となり、仙台、石垣島、九州の宮崎と移り住んできました。   新たに暮らした土地でその土地固有の風土を味わい、そこで暮らす人々との交流を楽しみ、子供の成長、親、兄弟、恋人と様々な人間関係の情感と機微を歌に表現し続けてきました。   第六歌集「未来のサイズ」に収められた418首はそれまでの俵さんの作風とは大きく変わり新たな境地を見せています。  歌と共に自立し、自由に時代を生きる俵さんに歌詠み人生のこれからを聞きます。

第六歌集「未来のサイズ」は自分としても手ごたえのある歌集だったので、ダブル受賞という事で大きな花束を頂いたような感じです。   第一歌集サラダ記念日 タイトルにもなっている「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」 この歌があります。  「「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの」

深刻な感情でも軽く歌わざるを得ない切なさみたいなのが伝わるといいなあと、本人は思っていたんですけれども。  この歌を発表した年の短歌関係の雑誌を開くと、石を投げれば缶酎ハイに当たるだろうというぐらい、取り上げられた歌で私としてもすごく驚いた記憶があります。   サラダがおいしかったというようなささやかなことをキチンキチンと記念日として定着させてくれる、それが自分にとっての短歌だなあと思ったので、タイトルにしたという記憶があります。

言葉は発明はできないが、組み合わせは無限にあります。  組み合わせを工夫してゆくということが言葉の表現をするという事で、サラダも記念日も誰でも知っている単語ですが、それを組み合わせて使う事で新しさが生まれる。  表現の喜びはそういったところにもあるかもしれません。

35年はあっという間でした。  短歌を作る姿勢は作り始めた頃とそんなに変わっていないと思います。  

第六歌集「未来のサイズ」

「ゴミ出しのお陰で曜日の感覚が保たれている今日は火曜日」             今までなにげなくしていたことが、コロナで出来なくなってもゴミは出すことがあって、今日は燃えるゴミの日だから火曜日なんだと、実感を詠んだもので、一方でごみを集めてくださる方は変わらず働いてくださってるんだなあと、その両方を感じて詠んだ歌です。 

「四年ぶりに活躍したるタコ焼き器ステイホームをくるっと丸め」           忘れられていたタコ焼き器が活躍したが、コロナ禍ではいろいろな家庭でこんなことが起こっていたかなと思います。

「第二波の予感の中で暮らせどもサーフボードを持たぬ人類」     

「トランプの絵札のように集まって我ら画面に密を楽しむ」       

人類という言葉を短歌に使ったのは私は初めてで、人類の一員としてコロナに向き合っているという感覚は働いたと思います。  コロナの波に対してなすすべもなく波を待っているしかないという感じ。(ワクチンがなかった当時) 人類がサーフボードを持つのはいつ頃だろうという気持ちで詠みました。  

リアルではないが画面に集まって、画面では密になって楽しんでいるよと、そんな一首です。

ライフスタイルや人生のステージに合わせて住むところを選んできたかなと思います。   基本は自分が住んでいる場所を出発点にするというのが多いです。  宮崎、石垣島で暮らし始めて生まれた歌かなと感じています。   

夕焼けと青空せめぎあう時を「明う(アコー)暗う(クロー)」と呼ぶ島のひと」    自然が大きくて青空の青がまた青い、夕焼けの赤が強烈で、戦っているような時間帯がある。  景色があるから言葉がある、言葉の原点があるというような気がしました。

雨という言葉には日本語にはたくさんある、世界にはそんなにはない。  実際にいろんな表情の雨が日本に降ってるからこそ、細かな表現が生まれたことです。

「制服は未来のサイズ入学のどの子もどの子も未来着ている」             これは息子の中学校の入学式の時の歌です。 中学生はすぐにどんどん大きくなる。   どの子もどの子もぶかぶかの制服を着ている。 この子たちは未来を着ているんだなあと感じました。

「シチューよし、高菜漬けよし、週末は五合の米を炊いて子を待つ」          気合をかけて待つという事で、よしという言葉を入れました。

「日に四度電話をかけてくる日あり息子の声を嗅ぐように聞く」            耳を澄ますようなだけでは足りないような感じ。  

若山牧水は宮崎生まれでして若山牧水が好きですし、第四歌集で若山牧水賞受賞したことなどもあり、宮崎とはいろいろな人とのご縁があり、宮崎に住むようになりました。  子育てを通して生きることをもう一度考え直したり、言葉を見つめ直したりして、第四、第五歌集当たりで出てきまして、地方から日本を見つめる視点も出てきたと思います。

「テンポよく刻むリズムの危うさよナショナリズムやコマーシャリズム」           言葉の力の大きさと怖さを詠んだものです。  

「自己責任 非正規雇用 生産性 寅さんだったら何て言うかな」           寅さんみたいな人が自由に楽しく生き生き生きている社会は或る意味すごく豊かなんじゃないかなあと思います。  リトマス試験紙のように寅さんを捉えた一首です。

「美しい水であれたか茂りゆくこの言の葉のクレソンの味」              子供の言葉がみずみずしく美しく茂るような水であれたかなあという、そんな感慨を詠んだ歌です。  

「生き生きと息子が短歌詠んでおりたとえおかんが俵万智でも」             親が歌人であり、思春期の男子がこんなに楽しそうに短歌を作るもんだなと吃驚して、反発なんかないんだなあと思って作った歌です。  批評を言ってくれたりします。

「シャーペンをくるくる回す子の右手短所の欄のいまだ埋まらず」            息子から「長所の欄がいまだ埋まらず」のほうがいいのではないかと言われて、 思春期らしい葛藤があって面白いとは思いましたが、そのままにしておきました。

「別れ来し男たちとの人生の「もし」どれもよし我がラ・ラ・ランド」            映画を見終わって、「もし」この人と、という事を考えましたが、どれもよさそうな出会いだったのかなと感じ歌に残しておきたかった一首です

自分が生きている時間、出来事、出会ったことなどを味わい直す、見つめ直すという事として歌がある、そんな感じです。

「求めているのは恋人とつげられる深夜番組の心理テストに」             心理テストをやらなくても判っているじゃない、そんな歌です。

短歌は手紙というような感覚でとらえています。 

「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」               子育ての実感です。  子育てに限らず人生もそうかなと思います。  意外と最後という事を気づかずに迎えていると思います。  これが最後かと思うとより大切に生きられるような気もします。  

言葉は使えば使うほど増えてゆくので、年齢を重ねるという事は言葉が増えてゆくことなので、これからの時間もそういう事で楽しめたらいいなあと思います。











2021年7月26日月曜日

2021年7月25日日曜日

岡林信康(シンガーソングライター)    ・23年ぶりのアルバムに込めた思い

 岡林信康(シンガーソングライター)    ・23年ぶりのアルバムに込めた思い

1946年7月22日 滋賀県近江八幡市生まれ、実家は教会、父親は牧師という環境で育ち、同志社大学神学部に在学中に作詞作曲を独学で始めました。   1968年「三谷ブルース」でレコードデビュー、その後「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」など発表した曲が次々とヒットしていきます。   「フォークの神様」として若者たちのカリスマ的な存在になりました。    その後いったん音楽活動から距離を置いた時期を経て再び音楽の世界に戻ってきてからは、演歌、民謡、ポップス、ジャズと縦横無尽に活動してきました。  そんな岡林信康さんにお話しを伺いました。

75歳になりました。  2018年にNHKで「岡林信康50年の軌跡」という特集番組を行う。   エンヤトット」のCDはなかなか売れなくてどうしたものかと思っていましたが、エンヤトット」というのは生で聞くもので手拍子でという、そういうスタイルだという事が判りまいた。  2018年の50周年コンサートの後、終活、自分が亡くなった後を整理しておこうかと思って、そういうことをやりました。(半年間)  その後コンサートを開催しはじめるが、コロナで中止になってしまいました。  去年の6月から9曲を作って、アルバムにできるという事で「復活の朝」というタイトルでアルバムを出しました。  新しい曲を作ったのは10年振りです。   きっかけはコロナ禍で工場が停止したり、自動車が動かなくなって北京の空に青空が戻ってきたという新聞記事を見たのがきっかけでした。  

「復活の朝」            作詞作曲:岡林信康  歌:岡林信康

人の営みがどうであれ、自然は回って動いているという、人間の傲慢さに気づかされたかもしれない。  体験したことしか歌に書けませんから、75歳になれば75歳の僕しか書けないです。  私小説的とか同世代向けにとか、そういった意識は全くないです。  

*「コロナで会えなくなってから」   作詞作曲:岡林信康  歌:岡林信康

当たり前のように約束すればできると思っていたが、いつまでたっても会えない。 当たり前のように出来ているうちは有難みも判らないし、たいしたことではないがそれが出来なくなって、奪われてみると実はこれが一番大事な価値のあることだったんじゃないかと、そういう事に気付かされて行く。  人と人との交わりが最大の喜びであって、人と会ってばかっぱなしをすることがどれだけ素晴らしいことだったのかなあと、コロナによって気づかされたところがあると思います。

1968年に「三谷ブルース」、そのあとに「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」などが世に出てゆく。  

「友よ」は僕にとって重たい曲でずーっと歌っていなくて、「友よ」で言い切れなかったようなことをいつか言いたいという気持ちがずーっとありました。 光と闇を何度も繰り返して行くのが人生じゃないかなあという、「友よ」では夜さえ去って朝が来ればもうすべて解決してずーと光の中を歩んでゆけるような、ちょっとそういうような幻想があるような気がしていたので、朝と夜を何回も繰り返してゆくという事を描きたいなあとずーっと思っていました。  それで今回「友よこの旅を」を作りました。  「友よ」と「友よこの旅を」の二つがセットになって一つの歌になっているんじゃないかなあと思います。

「フォークの神様」と呼ばれた時代も僕だし、ロック、演歌を作ったのも僕だし、それでいいんじゃないかとそんな気持ちです。  「フォークの神様」と呼ばれていた時は檻に閉じ込められたような窮屈な思いはしていました。  「フォークの神様」という事を覆すためにいろいろチャレンジできたので、「フォークの神様」と言われたこともちょっと良かったのかなあという気がしてきて、得したのかなあと感謝しています。

「友よこの旅を」          作詞作曲:岡林信康  歌:岡林信康


2021年7月24日土曜日

中嶋悟(元レーシングドライバー)     ・【私の人生手帖(てちょう)】

中嶋悟(元レーシングドライバー)     ・【私の人生手帖(てちょう)】 

今からちょうど30年前、1991年一人のレーシングドライバーがモータースポーツの最高峰といわれるフォーミュラ1 F1の最終戦をもって引退しました。  中嶋悟さんです。   中嶋さんは1953年愛知県岡崎市に生まれ、1987年 34歳で日本人初のF1フルエントリードライバーとして参戦し、そのたくみなハンドルさばきが定評ありました。  日本でも愛されましたアイルトン・セナジャン・アレジともチームメートになっています。   ドライバー人生は多くの人に支えられたという中嶋さん、とりわけ心に残っているのは本田技研工業の創業者本田宗一郎さんの言葉です。   くしくも本田さんもちょうど30年前亡くなっています。  現在は後進の指導に当たっている中嶋さんに引退前後の心境やF1にかけた熱い思いと共に、走る実験室と言われるF1の実像、魅力なども合わせて伺いました。

車で行けそうな距離はほとんど車で移動しています。  自分のスクールの生徒が参戦するようになって時間がある限り見ています。   辞めてもレース屋です。  

フォーミュラ ワールドチャンピオンシップと言いますが、世界中で一番速い自動車で自信のあるドライバーが世界中から集まって世界中を舞台に戦うというものです。   僕の時代は16か国ぐらいでしたが、今は20か国ぐらいやっています。   毎年やっています。  コースによって最高スピードは変わりますが、直線の長いサーキットであれば320、330kmとか場所によってはもう少し行く場所もあります。  自分の会社で作ったものでしか駄目で、10チームであれば10種類の車両、ほかの会社で作った部品などは使えない。  チームによっては500,600人で構成されます。  

30年前に引退しました。  レーシングドライバーはかなり肉体的なものが必要になります。  車両の進歩と自分の年齢とで段々自分の思うような操作がしづらくなって、引退を考えるようになります。  4Gとか5Gとかになります。  それが前後左右にかかってそのなかで車を操作するわけです。   我々の時代はすべてが手動で厳しい状況に2時間近くさらされるわけです。   自分でしたくてもその操作ができないことが増えてきて、ぼちぼち潮時かなあと思いました。  1991年にはと心の中では決めていました。  

僕は挑戦というよりは冒険しているような感じでした。   見たことがない世界に入っていくので自分の立ち位置がわからない。  人よりうまくハンドルを切れるというのが好きで自分の得意なことなんですね。   雨の時には力が要らないから自分の腕が出せました。  

ゴーカートのレースを高校時代にやって、レースで勝って、そういったことが積み重なって、18歳で普通免許がとれて、普通自動車のレースのほうにステップアップしていきました。   しかしそれなりの活動資金が必要でかなりの借金をしてしまいました。  1976年ごろが潮時かなあと思って居た時に救いの手が来て、1977年にフォーミュラ1300で7戦7勝してしまったりしました。   何らかの報酬を得られるようになりました。  翌年イギリスに行けるようになりました。  そこで見たのがF1ですごいと思いました。   当時は自動車事故も多かったし、国内でのレース、レーサーに対してはあまりいい目では見られてていませんでしたが、イギリのサーキットの雰囲気、皇族のいる場所があったり、ロールスロイスが一杯並んでいたり、若い人からおじいさんまでいたり、ずーっと生中継して居たりしていて、ここに来ないと本物にはなれないと思いました。  

それが転機になりましたが、近そうで遠いんです。  すべてでレベルが違っていました。  ドライバーに必要なものは筋力は有った方がいいが、持久力が必要です。 身体のすべて部分の持久力がないとやれない。    トラックにレーシングカーを乗せて自分で運転してやっていました。   恐怖心はないのかとよく質問されますが、怖かったらやっていないと思います。  レース中に終わったらこんなものが食べたいなあと思ったことなどもありました。   自分には運転することが一番楽しくて、刺激があった。  自動車レースにほれ込んでいけるところまで行ったという感じです。  

今は情報が多すぎるので、我々の時代のように無我夢中になるというのが少ないのではないかという気がします。  すぐに結末が判ってしまうような世の中になってしまったような。   後輩が出てきてくれて、このチャンスを上手く拾ってうまく戦っていいことをやってくれたら、自分もレーシングスクールをやっていてよかったなあと思えるかもしれないですね。   戦っているころは溌剌とした気分でやれたので、ああいうのを味わってほしいなあと思います。  本田宗一郎さんに言われたのは、「自分は自分をしっかりせいよと、自分の思いをしっかり持って、人のせいにしたり人に押し付けたりしないで、自分の中で納得したことをやっていけ」というようなことを言われました。  

ホンダは今年限りで撤退しますが、まあまあ強くなったところで辞めるという事になってしまうが、脱炭素、自動車に対する要求がどんどん変わってゆくので、それに対する技術を傾けなければいけないという事があると思うし、F1、自動車レースでやったことが、技術者が次の車両に力を発揮する時が来たのかなあと思います。  




2021年7月23日金曜日

酒井美紀(女優)             ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】自信がないからこそ挑む

 酒井美紀(女優)     ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】自信がないからこそ挑む

1978年静岡市生まれ、高校入学と同時に歌手デビューします。   18歳の時に主演をしたドラマ「白線流し」は若者たちの恋愛や友情を描かれた青春ドラマの傑作で当時同世代だった若者に絶大な人気を誇りました。  現在は女優だけでなく母親、大学院生、社外取締役などいくつもの顔を持つ酒井さん、実は小さいころから自分に自信がなったといいます。  自信をつけ自分らしく生きるためにどのようなことを考え、決断してきたのか、伺いました。

2020年に不二家ペコちゃん70周年アンバサダーを務めたことがきっかけとなり、2021年3月24日付で同社の社外取締役に就任。   月に一回取締役会があり、前の月の売上げ報告とか、毎月議題があり議論します。    私は役者として観察癖があり、日常的に皆さんがどう暮らしているのだろうかと、いろいろ観察してしまいますので、そういったものが生かしていけるかなと思います。   役者として28年ぐらいやっていますが、国際協力の分野とお芝居があるが、社会問題に対して演劇メソッドを使ってゆくが、いま日本ではいろいろ社会問題があると思うが、日常的な問題を演劇メソッドを使って、解決まではいかないかもしれないが緩和してゆくことがあるのではないかという事で、国際協力の分野とお芝居の分野を合わせてできないかという研究を大学院でしています。

昔から自信のなさが課題で、この歳になっても自信のなさがあるんです。  違うものを始めてそれが自分の背中を押すみたいな風に作ってゆくというか、そういうところは有ります。   前に進んでいるということの実感を持ちたいと思っています。   女優になりたいという思いは子供のころからありましたが、すごく緊張してしまうし、今でも緊張します。   10歳の時に子供ミュージカルというものがあり、オーディションに受かり、緊張しながらも楽しいんです。  自分で出し切った時に拍手を頂いて、とても感動しました。   こういう世界があるんだと思って、お芝居をやって感動を伝えていくという仕事をしたいと、10歳の時に思いました。   両親は大変応援してくれました。  

高校入学と同時に歌手デビューし、映画Love Letterで女優デビュー。  高校時代は静岡から新幹線で仕事に出かけていました。  1996年から『白線流し』が10年に渡ってシリーズ化されて代表作にもなる。  長野の松本が舞台で、高校3年生でスタートして、新宿から特急あずさで行って、帰りは甲府から静岡へというようなパターンで通うとか2パターンがありました。   撮影では冬にはマイナス10℃とかもありました。 

白線流し』が終わって、東京の大学に通うようになり独り暮らしが始まりました。    環境が大きく変わりました。  大学受験では小論文があり先生にお世話になりながら、なんとか時間を割いて勉強しました。  睡眠時間が3時間というような状況でした。  同世代の友達と過ごしたいという思いがあったので、大学生活が出来てよかったと思います。

天然純水派というのが私のキャッチコピーでした。  歳を取ってくると、違和感というか窮屈になってくるというか、感じ始めてそこからはみ出してはいけないのかという思いがあり、段々窮屈になってきました。   回りに相談できないままにいましたが、25歳の時にアメリカに留学することになりましたが、窮屈さとの関係もありました。   語学もやりたいという思いもありました。   準備から全部自分でやりました。   

30歳で結婚しました。  ボランティア活動のなかで知り合い、結婚、2年後に長男を出産しました。   つわりがひどくて仕事をするのが大変でした。   母乳があまり出なくあげられない母親は駄目だなと思ってしまって泣いてしまったりしました。  結婚が天然純水派というイメージを変えてゆくきっかけにはなりました、特に出産した後ですね。  仕事は控えめですが続けていきました。   社会とつながっているというのが大切な時間でした。  子育てを切り替えられてリフレッシュできました。   

本格的に復帰しようとしていた時、当時所属していた事務所の社長さんが急に亡くなってしまって半年後に事務所が破産してしまいました。  路頭に迷うというような状況でした。  新しい事務所に入るが、その後独立し事務所を立ち上げる。(40歳)   今も未来も日常の積み重ねなので、日常を大切にしています。    決断するまでにはいろいろ迷いますが、決断はここだという直感があって、その時にはもう迷わずに行きます。  仕事は苦しいこととかいろいろありますが、これからはそういった中でも楽しみながら仕事をしてきたいです。






2021年7月22日木曜日

皆川典久(東京スリバチ学会会長)    ・谷の都・東京再発見のススメ

皆川典久(東京スリバチ学会会長)    ・谷の都・東京再発見のススメ 

坂の多い東京、全国的にも世界的にも珍しい谷やくぼ地の多い都市で、そんなすり鉢状の地形に魅せられてた皆川典久さんは58歳、東京スリバチ学会なるものを立ち上げて、本業の建設設計の仕事の傍ら休日には、都内の谷やくぼ地を回るフィールドワークを積み重ねてきました。  すり鉢地形を訪ね歩くと江戸時代から現在に至るまでの、その土地の歴史や文化の変遷を伺い知る事ができると参加者も次第に増えて、スリバチ散歩なるものが脚光を浴びるようになりました。    地形ブームの火付け役となった皆川さんは今や全国のスリバチ愛好家の会に招かれたり、NHKのテレビ番組「ブラタモリ」に出演するなど大忙しです。  すり鉢地形から何が見えるのか、スタジオでの架空散歩を交えながら、東京スリバチ学会会長の皆川典久さんに伺いました。

東北大学の建築科を卒業、今は大手建設会社の設計部門で仕事をしています。  群馬県生まれで小さいころ代々木の体育館を見て感動して、建築家を目指しまして、一級建築士として設計の仕事についています。   東京を歩いてみたら坂が多い、坂が向い合っているような場面もありました。   渋谷、四谷、市谷、千駄ヶ谷、谷中、茗荷谷とか東京には谷の付く字が多くて面白いなと思って、東京は谷の都、すり鉢状が多くて、スリバチ学会を2003年に立ち上げました。   学術的なことはなくてとにかくわいわい東京を歩いてみようよという事でスタートしました。   タモリさんは坂道学会でそれに対抗するスリバチ学会があるうという事で番組に呼んでいただいたのが始まりです。

東京は三方向を崖とか丘で囲まれたすり鉢状の場所が多いんです。   水が削った地形には間違いないんですが、もともと湧水があって湧き出る水があって、そういった土地に火山灰が積もった、武蔵野台地は火山灰が10~20mぐらい積もっています、富士山とか箱根の山から積もった関東ローム層があります。  湧水があちこちにあり、火山灰がそこに積もったが、火山灰が流されて、すり鉢状のくぼ地は火山灰が積もらなかった場所として作られたのではないか、と推測しています。   今でも湧水がある場所があります。 四方向囲まれた”一級すり鉢”もあります。    神田川の水源は吉祥寺の井の頭池です。  ここもすり鉢状になっています。   三宝寺池、善福寺池とかあるが、いずれも湧水が作った池です。  それが善福寺川に成ったり、妙正寺川に成ったりします。  NHKのそばの宇田川の源流は代々木上原駅から北へ15分ぐらいのところに小さな湧水池が残っています。  石神井川、目黒川、立会川などもそうです。  

江戸の町割りは土地の高低差を上手く活用しながらつくられている。   高台は武家、大名屋敷、谷間は庶民の住む町、それが引き継がれて高台は病院、学校、軍など大きな敷地を活かして大きな建物が多い。  谷はそのまま継承して現在の町になっています。  

架空散歩、赤坂の薬研坂(薬研のようなすり鉢状) スリバチ学会発祥の地です。  谷底が赤坂の繁華街で大きなため池がありました。  庶民の飲み水を確保するためのため池だった。  今の虎ノ門の交差点の付近にダムを作って飲み水の確保と同時に、江戸城の外堀の一部だった。 (外堀通りと名前が引き継がれている。)   千鳥ヶ淵も江戸時代に作られたダムです。  小石川用水、神田上水(井の頭池が源水)、も飲み水用とした。  足りなくなった多摩川から引っ張ってきて多摩川上水を作った。   飲み水の確保に苦労して作りあげた。  

四谷三丁目の荒木町は四方向囲まれたすり鉢状になっている。  池が残っているが、もともとは大名庭園の池、松平摂津守の屋敷だった。  明治になると風光明媚に憧れて料理屋、芝居小屋、花街として栄える。 現在は個人が立ち上げた飲み屋さんが沢山あります。

大きなくぼ地があるところ、大久保、もともとは大窪村?(大久保村?)と呼ばれていた。  江戸時代には尾張徳川家の下屋敷(別荘)で、池、東海道の宿場町を模した町屋が並んでいたり、箱根の山を模して築山を作って風景に見立てて、築山は今でも残っています。(箱根山)   

渋谷は坂の町ですり鉢状の町です。   迷ったら坂を下ると渋谷駅になります。  二つの川が合流した場所、渋谷川と宇田川です。  ほかに小さな川が一杯あった。  坂を上った町の名前が鉢山町、桜丘町、丸山町、神山町、代官山町、みんな山です。   川の作った谷間が分断して山のような地形を作っている。  谷には神泉、鶯谷、富ヶ谷などがあります。   道玄坂と宮益坂があるが、宮益坂は富士見坂」と呼ばれていたが、御嶽神社があり御岳権現にあやかって「宮益町」と変更されたことから、この坂も「宮益坂」と呼ばれるようになった。   道玄坂は道玄という盗賊の名前で、盗賊が出る坂、渋谷川の西は辺境の地で、盗賊が出るようところだった。   

スリバチ学会は基本自由参加で、申し込み不要、参加費無料、でもフォローはしませんという事です。  5年前には100人ぐらい集まってしまって、自由参加ということにはできなくなってしまいました。

自分たちが望む都市のあるべき姿を地形、水をテーマに考えてみようという事で、東北大学でやらせてもらって、法政大学からも声がかかって非常勤講師として、東京発掘プロジェクトというテーマで、東京の川は蓋をされて見えなくなっている、東京にはたくさんの運河、水路があったが、見えなくなっているので、発掘してもっとわくわくなるような東京を描いてみよういう講座を学生たちと楽しみながらやっています。   そういった取り組みに対して2014年にグッドデザイン賞を受賞しました。

最近は防災的見地で地形の高低差などで注目することが多くなりました。  水には恵みと災いがあるが、両方を知ったうえでうまく付き合うことが 文化文明なのではないかなと思います。 

日本各地でも、東京近辺でもスリバチ学会が立ち上がってきています。 海外でもパリ、ローマなどにもあります。  

「書を捨て谷へ出よう」(寺山修二 「書を捨てよ町に出よう」をもじったものか)ということで家に籠もっていては出会えないことが、街にはころがっているし、いろいいろな発見があるのではないかと思います。




 

2021年7月21日水曜日

川島勝司(アトランタオリンピック野球日本代表監督)・【スポーツ明日への伝言】オリンピックで戦う喜びと重圧

 川島勝司(アトランタオリンピック野球日本代表監督)・【スポーツ明日への伝言】オリンピックで戦う喜びと重圧

今月14日社会人選手権がおこなわれていた京セラドーム大阪で、今年度野球殿入りが決まった1996年のアトランタオリンピックで銀メダルを獲得した野球日本代表監督の川島勝司さんの表彰式が行われました。

野球殿入りの話を聞いた時にはびっくりしました。   

栃木県佐野市出身、今年78歳。 群馬県立桐生高校から中央大学に進む。 卒業後日本楽器(ヤマハ)に入社、監督選手として活躍、監督として史上最多タイの3回の都市対抗野球の優勝を成し遂げる。   1996年日本代表監督として臨んだアトランタオリンピックで銀メダルを獲得、その後もトヨタ自動車の監督、総監督として手腕を振るい、日本野球連盟、全日本アマチュア野球連盟の役員としてもアマチュア野球競技力の向上と指導者の育成にあたってきました。  

小学校4年ぐらいからキャッチボールなど11歳年上の兄の相手をさせられました。   小学5年の時にクラス対抗の野球があり、ピッチャーをやって優勝しました。   学校が終わるとすぐ好きな連中とやって野球にのめりこんでいきました。   決勝の前の練習の時に校長先生と教頭先生が後ろで「この子は小さいが球が速いね」という事を話しているのを聴いて、それが後々までなにかの折のに蘇って、それが野球に対する動機づけみたいになりました。

甲子園でプレイをすることが夢で高校で授業を受けている以外はすべて野球という事でした。 群馬と栃木で一校の出場枠だったので当時は栃木のほうがちょっと力が上でした。   昭和36年北関東大会準決勝で八木沢荘六島野育夫のいた作新学園に敗れる。  その翌年に八木沢荘六をエースとする作新学院が史上初の春夏連覇をするわけです。  中央大学に進んで東都大学野球リーグでは在学中2回優勝する。   ベストナイン(三塁手)2回受賞。     1966年日本楽器(現・ヤマハ)に入社、社会人ベストナイン(三塁手)に選出される。  昭和43年のドラフト会議では近鉄バッファローズから2位指名されるが入らなかった。     チームのキャプテンを任命されて、来年に向けて頑張ろうとしていた時にドラフトでしたのでタイミングがずれたのかと思います。 (プロに行こうかとの迷いもありました。)  

1972年には都市対抗に2年連続4回目の出場を果たす。  1972年、1987年、1990年監督として3回の優勝を果たす。

オリンピックでは各チームのNO1の選手たちの集まりなので、いかに一つのチームに昇華させるかという事が第一の目標だなと、取り組みましたが難しかったです。  キューバを倒さないかぎりは金メダルは取れないということで、いかににキューバを倒すかという事から話を始めました。  キューバに勝つためにはキューバを上回る得点をあげないといけない、ということで強打線のチームを作らなければいけないという事でした。  いい選手はプロに行ってしまうという事もあり難しいところは有りました。  強化選手のなかでアトランタに10人残ってくれればいいなあと思いましたが、6人は残ってくれて彼らが中心になってくれました。    アメリカとの練習試合でエースの杉浦選手が右足内転筋を、抑えの切り札の森選手が故障してしまいました。

決勝トーナメントには4チームが行けるが、1位は多分キューバだろうと、4位になると決勝トーナメントで最初に当たてしまうので避けたかった。  5勝2敗というような線で臨んだが、1勝2敗でアメリカとの対戦となり、先発投手を誰にするか意見が分かれ、私は負けを覚悟しようと腹を決めました。  杉浦をぶつけた時にすべてが終わってしまうかなと思いました。   杉浦を温存して1勝3敗を覚悟しました。 アメリカに5-15で大敗する。  次の試合に杉浦を投入、勝ってそれからは連勝する。   決勝トーナメントでは準決勝で杉浦を投入、アメリカと当たって勝つ。   日本は1勝3敗の時点で後がなくなりチームがまとまり、アメリカは逆に星条旗の重みで力を発揮できなかったのでは。  キューバには残念ながら負けました。   キューバ戦では投手起用には又意見が色々ありました。  奇襲戦法をとることは1年前からスタッフ間では整理できてはいました、アンダースローの木村竜太郎投手をぶつけようとしていました。   以前の試合でアンダースローを試してはいたがキューバには攻略されていた。  奇襲戦法にはならないと思って、5人のピッチャーで戦わざるを得ないだろうと思いました。   杉浦投手は前日のアメリカ戦にも投げていて疲労がたまっていたが、杉浦投手の先発で行こうと決めました。  序盤で6-0と大差をつけられるが、あきらめるという気持ちは微塵もなく、中盤で同点の満塁ホームランが出る。  この瞬間の気持ちは一生忘れられないです。

開催国なので是非金メダルを取ってもらいたいと期待をしていますが、見ている人たちに感激、感動を受けてもらえるような戦い方、勝つ事も大事ですが、取り組む姿勢、戦い方に心を打つようなプレイを稲葉ジャパンにはしてもらいたいです。  結果は後からついてきますから。









2021年7月20日火曜日

青山美智子(作家)           ・書きたい思いを信じ続けて

青山美智子(作家)           ・書きたい思いを信じ続けて

1970年生まれ、愛知県出身。   大学卒業後オーストラリアに渡り、シドニーの日系新聞社で記者として2年間勤務、帰国後雑誌編集者を経て執筆活動に入る。  2017年8月、単行本『木曜日にはココアを』で小説家デビュー。  5冊目となる『お探し物は図書室まで』で第18回2021年度本屋大賞の第2位に選ばれました。  作家になることを目標に試行錯誤を続け、迷う時期も経る中で、自分が書きたいというシンプルな思いを大切にしてきたという青山美智子さんに伺います。

本屋大賞に『お探し物は図書室まで』がノミネートされた時にびっくりしました。  2位もうれしいですが、見つけていただいたという事に感謝の気持ちでいっぱいです。    この本を書き始めたのがちょうどコロナが始まったころで、コロナ自体は出てきませんが、私なりに感じたことは入れ込んでいるつもりです。  5つの短編からなり、20代から60代までの人たちの自分が抱えている問題と向き合いながら、図書室で別の本を勧められてという物語で登場人物がどこかでつながっている。    コロナが起きてそれぞれ全員違う境遇になっているという事があり掬い取って書きたいという部分ではありました。   偶然とか運命とかではなくても、この人とこの人は繋がっていたのと、日常的にすごくあることですし、それぞれの立場で見える景色が違うとか、自分がつながっているつもりはないのに、誰かに影響を与えているとか、私が小説を書く上で一番大切にしたい部分だなと思います。   付録を書きたいなあと思って、編集さんが現物がいいといって、既製品ではいやだなと思って、羊毛フェルトだったらいいと思って決めました。  手芸は全然できないです。

子ども時代は妄想ばかりしている子でした。  椅子としゃべっていたりして、今でも物としゃべったりしています。 中学生のころには話を書いたりしていました。  氷室冴子さんの「シンデレラ迷宮」という本に出合って、読んだらすごくおもしろくて、なんて小説って面白いんだろうと目覚めて、真似して書き始めました。  ずーっと書き続けていて、同人誌にもはいって、小説家になりたいと思って、新人賞の募集があると投稿していました。

ワーキング・ホリデーという制度を知って、働けて学校も行けて語学習得もできて1年間自由にできるという事を知って、大学を卒業してオーストラリアに行きました。    日系の新聞社の記者の募集があり、2年間勤務しました。   東京に行きたいという思いがあり帰国しました。  出版社で雑誌の編集をずーっとやっていました。    出版社も5社ぐらい転々としましたが、結婚してフリーになりました。   小説家になりたいという思いはずーっと持っていました。 いろんなジャンルの小説を書きましたが、どこも引っかからないで、デビューできませんでした。書評では、青山さんの小説は毒がなさすぎるといわれました。   しかし自分はそうではないんじゃないかと思って、ある雑誌に掲載する機会があり自分なりに好きなように書いて、月に一回掲載していたのが、『木曜日にはココアを』の原型です。

14歳で小説家になろうと思って、デビューが47歳で33年間かかっています。   『木曜日にはココアを』は私の夢をかなえてくれた本です。  2020年 第1回宮崎本大賞受賞を頂いています。  投稿していた時代は書くだけでしたが、デビューしてからは一緒に作れる仲間がいるという事で、信頼できる人たちと一緒に本を作ってそれを一緒に読者に届ける事ができるという事はすごく楽しくて幸せだなあと思います。 これがやりたかったんだと思います。  田中達也さんによる表紙がすごく素敵で、本屋さんでも並べでくれて表紙の力も大きかったと思います。  

作風を変えないで、連作短編でいろいろな登場人物が出てきてというスタイルを続けていきたいと思っています。  50歳になって齢を重ねてきたからこそ見えてきたものがあるかなと自負もしています。  私は好きなように書いているので、読まれる方が好きなように受け取っていただけたらいいと思います。  地球には77億人が居て77億個の物語があるわけで、ネタは尽きることはないと思います。









2021年7月19日月曜日

清元國惠太夫(清元 浄瑠璃方)     ・【にっぽんの音】     

 清元國惠太夫(清元 浄瑠璃方)     ・【にっぽんの音】 

東京都出身、40歳、日本舞踊家の父の影響で3歳から日本舞踊を始める。   清本節に入門したのは15歳の時で、清元菊輔さんに師事、20歳の時に國惠太夫という名を許されて以来、清本の太夫として歌舞伎や日本舞踊の公演などで活躍しています。   舞台以外でも清本節の演奏や解説をライブイベントやインターネットで発信するなど、日々その魅力を伝えています。

清本は日本舞踊の演奏をするので、日本舞踊をやるには日本舞踊の曲を知っておかなければならないので、清本節の清元菊輔師匠のところに15歳の時に入門したんですが、清本が面白くなってしまって、この道入っていきました。  清本は三味線を弾く専用の人と、浄瑠璃を語る専用の人が居まして、清元菊輔先生は三味線のプロの方で、三味線弾きになるために習ったんですが、そこで浄瑠璃も学んで、結局日本舞踊から清本に行って、清本の三味線から歌太夫になったという事になります。  

清本は歌舞伎とかで演奏される浄瑠璃のジャンルの一つです。  1814年初代清元延寿太夫という人が江戸で確立したジャンルです。  浄瑠璃は実は仏教用語で薬師如来が住むとされている世界を浄瑠璃と言いまして、正確には東方浄瑠璃浄土といいまして、薬師如来の物語に登場する浄瑠璃姫という方が登場しますが、物語を琵琶の調べに合わせて語った、これが最初の浄瑠璃の始まりと言われています。  段々浄瑠璃を語る行為自体を浄瑠璃と言われるようになりました。   清本は歌舞伎浄瑠璃の一番新しいジャンルに入ります。  初代都太夫一中が京都で一中節というのが出来て、それが江戸に来て歌舞伎と融合して、豊後節というのに派生して、豊後節が派生して常磐津節になって、富本節という節で、富本節が派生して清本節が成立するわけです。 1814年、今から200年前になります。

大蔵基誠:能の世界では、シテ方、ワキ方、狂言方、囃子方の4つのグループで構成されていますが、囃子方には大鼓、小鼓、笛、太鼓、と分かれて行きますが、歌舞伎の構成はどうなっているんでしょうか。

まず、役者さんがいて、我々浄瑠璃は演奏を担当しますが、三味線と歌、あと囃子方の三つがあります。  浄瑠璃の中に清本という流派があります。  

申酉』(さるとり(お祭りとも言います。) 江戸の日枝神のお祭り 「引けや引け引けひく物に取りては」と引き物づくしの踊り、 歌詞に「引く」が入っている。 子日(ねのひ)の小松 小松を引くお祝い事があった。 初回の盃馴染の煙草は遊郭の習わしで遊女を部屋に引かせる、袖,たもとを引く、履物をしまう事を昔は履物を引くといった、実は歌詞に「引く」が入っている。

清元志一朗さんが三味線方

手軽に清本節に触れていただきたいと「清元pocket's」を立ち上げ動画配信しています。 長い曲を5分ぐらいにまとめて気軽に聞いていただきたいと思っています。 期待半分、不安半分という感じでした。

大蔵基誠:僕も動画配信したんですが、やはり生で見てもらいたいという事で抵抗がありましたが、やってみるとやってよかったと思います、生の舞台を見に行きたいという声を頂いたりしました。 

*「玉屋」  当時本当にいた大道芸人で、シャボン玉を吹いて子供たちに見せた。 それが題材になっている。 1832年 江戸 中村座で初演。

「さあさ よったりみたりふいたり評判の玉屋」と冒頭にあるが、数字が隠れている。 (4,3,2,1) ( 呼び込みを兼ねた言葉)

日本の音とは「そばをすする音」です。 日本人に愛されている音ではないかと思います。いろんな方に清本を知っていただいて、楽しんでいただいて生の舞台を気軽に見にきていただきたい。







2021年7月18日日曜日

田中健一郎(老舗ホテル特別料理顧問)  ・【美味しい仕事人】五輪食堂でおもてなし

 田中健一郎(老舗ホテル特別料理顧問)  ・【美味しい仕事人】五輪食堂でおもてなし

東京オリンピックパラリンピックの選手村で提供される食事は選手の体調管理に重要な役割を果たします。  さまざまな競技に出場するそれぞれの選手の異なるニーズにもこたえなければなりません。  今日はそのメニューを決めたアドバイザリー委員会の座長を務めた人、田中健一郎さん(70歳)にお話を伺います。  田中さんは東京の老舗ホテルで総料理長を務め、現在も特別料理顧問として後進の指導に当たっています。  1964年の東京オリンピックでは同じホテルの先輩村上信夫さんが選手村食堂の料理長を務めました。   今回のメニューがどのように決まったのか、また 前回のオリンピックにまつわるエピソードそして田中さんの料理にかけた半生についてお話を聞きました。

今回聖火ランナーに選ばれています。  3年前からメニューを決めるアドバイザリーとしてやってきました。  アドバイザリー委員会を立ち上げる前にいろんな各ジャンル、各分野の日本料理、栄養学の先生、理学博士、現役アスリートの方、などが集まりまして、選手村の食堂をどうするのかと、話がまずありました。  前回に比べて規模が5倍ぐらいになります。  前回は各ホテルの料理長が腕を振るったわけですが、今回は〇〇業者(聞き取れず)にお任せするという事になり、我々からメニューのアドバイスをする必要があるのではないかという事で、立ち上がった委員会です。   一日最大で4万8000食という事になり競技の関係もあり24時間稼働しています。   一番の目的は選手が最高のコンデションで最高の記録を出してもらうための食事でなければいけないという事です。   それと食の安全安心、宗教からの制限、ベジタリアンだとかの食習慣の問題、日本の食の文化の発信もあります。   東日本大震災の復興したんだという部分を知らしめるという目的もあります。   過去オリンピックパラリンピックに参加た方のご意見は非常に参考になりました。

車椅子では視線が大事だという事、スロープを含めて動線の確保など細かい指摘を頂きました。   メインダイニングでは席数が3000~3500名分が一気に収容できます。 カジュアルダイニングのほうは日本の食文化の発信という事を重点的に考えて提供する予定です。  懐石料理とかではなく日本人が古くから親しんできたものを中心にしています。カレー、ラーメン、焼き鳥とか。   80種類の試食会がありました。  

選手がリラックスする環境つくりも大きな問題点としてあります。  ハラル(イスラム法で許された項目)はハラル専用のキッチンで作っています。  アジア、日本、いろいろなグリルのコーナーなどがあります。  バイキング形式ではなくスタッフが提供するシステムになっています。

明治23年当時は東京には宿泊施設がなくて、井上 馨さん渋沢栄一さんなどが発案して出来たホテルです。  1964年の東京オリンピックの時には大先輩の村上信夫さんが選手村食堂の料理長を務めました。  4つ食堂がありました。  資料を集めるのが大変で大使館に出向いて大使の奥様から直接教えてもらったり、商社マンから教えてもらったり相当苦労したそうです。 食材の確保も大変だったようです。  料理人も全国から集めるのも大変だったようです。  食材も冷凍品を使わなければいけないという事で、当時は冷凍品はまずいという事で、4年前から冷凍会社と共同でそれまでマイナス15℃しか下がらなかった冷凍庫をマイナス40℃まで下がる冷凍庫を開発しました。  それで大量に供給できるようになりました。  冷凍品と新鮮な食材との比較の試食会を300人対象に行ったところむしろ冷凍のほうがおいしいのではという評価も頂いたそうです。   大きなホテルの大きな宴会場に対応できるようなシステムが出来上がったのも、64年のオリンピックの発案があったからできるようになりました。

面白い話を一杯村上さんからはうかがっていて、アベベ選手は裸足で走っているのでよっぽど堅いものと思って足の裏を触らせてもらったら、綿のように柔らかかったというような話も聞きました。  

老舗ホテルに入ったのが1969年です。  誰よりも早くホテルに行こうと思って始発電車に乗って6時ごろについて、仕事で使う道具をすべて出して仕事が始まる1時間半前にはスタンバイしていました。  退勤は午後10時、11時ごろです。   この子は明るいとか前向きだなとか、そういうことをわかって貰わないと、なかなか引き立ててくれないです。  先輩から可愛がられるという事もどの世界でも一緒だと思います。

小学校高学年の頃、NHKの「今日の料理」を見てコックさん(村上信夫さんだった)に圧倒されて、フランス料理に進もうと決意しました。  村上さんはハンバーグを家庭に普及した人でもあります。  村上さんはフランス料理のすそ野を広げた第一人者だと思っています。  ホテルの料理人だけで400名います。  フランス料理人とパテシエ、ベーカリー関係です。  村上さんと私は歳が30違いますが、偶然ですが新料理長と私も30違います。

リタイアしたら、子供食堂のおじさんになりたいんです。  環境の厳しい子供においしいものを食べさせるだけ、料理を作って行ければなあと思っています。







 

2021年7月17日土曜日

生島美紀子(神戸女学院大学 非常勤講師) ・いま蘇る、忘れられた作曲家・大澤壽人 後編

 生島美紀子(神戸女学院大学 非常勤講師) ・いま蘇る、忘れられた作曲家・大澤壽人 後編

1936年(昭和11年)30歳になる年に帰国します。  帰国して半年の間で東京と大阪で帰朝演奏会が開かれている。   東京でのプログラムはパリで大成功した演奏会の再演です。  大阪では小協奏曲からスタートしてオーケストラ伴奏による歌曲が並びます。  いずれも新作で英語、フランス語、日本語の3つの言語が用いられました。  アメリカ、フランスで学んできたというその成果を日本で披露するという、成功したんだという意図があったと思います。 

事前の評判は高かったが、厳しい批評に晒される。  とりとめのない作品だとか、いろんなことを書かれる。   日本はドイツ音楽の需要から入ったので、素地が違うというか。  辛口批評の理由としては、①音楽文化の問題、前述のことと、当時はまだ日本はレベルが低くて先生はそこを越えてしまっていて、世界の最先端を目指していて、音楽の作り方が全然違う。 日本の批評家たちは理解できない。 そうすると作品が未熟だからと言われてしまう。 ②もう一つは時代、 日中戦争の前夜という事で、英語、フランス語、日本語を並べるとは何事かというわけです。  

*ピアノ協奏曲3番 (神風協奏曲とも言われている。) 1938年帰国の翌年に制作

ダイナミックで疾走感があり、これが80年以上前に作曲されているとは思えない。   神風協奏曲とも言われているが、1937年 朝日新聞社がイギリスの戴冠式の祝賀の飛行機の飛行をして、これが日本とヨーロッパの最短時間飛行の記録を作った神風号に由来するもの。

1940年には日独伊3国同盟が締結されて戦時色が濃くなってゆく。

1937年 交響曲第3番  31歳の時に発表。 (建国というタイトルがつけられる。)1940年は紀元2600年を迎える年で日本各地で祝賀行事が開催される。 それに先がけて作曲された。  しかしモダンな曲で辛口の批評を浴びるという、繰り返しになってゆく。   「燕に託して母の歌える」という女性の合唱作品があって、日中戦争に息子を送りだした出征兵士の母の歌で、毎年飛来する燕に託して切々と歌う反戦歌なんですが、表立って反戦と言えない時代です。   当時の日本は複雑で生きることが難しい時代だった、そういうところに先生は帰ってこられた。

*「たぬき」  1941年(昭和16年) 「たぬき」という曲を発表している。    サトウハチローさんの詩に基づいています。  演奏会はできないので先生の活躍の場はラジオでした。  オペレッタのような楽しい音楽劇。  

1946年(昭和21年) NHKラジオ歌謡の番組に7年の間に10曲制作。      大阪放送局ではレギュラー番組を持つようになる。  民間放送局ができるとそこの専属指揮者になる。  精力的に活動する原動力は ①終戦と同時に制限がなくなり、押さえていたものが解放されてのびのびと活動ができるようになった。   ②疲弊した世の中に対して、音楽を通じて社会にどう貢献するか、という事につながったと思います。

1950年(昭和25年) NHK大阪放送局で「BKシンフォネット」という番組をスタートさせる。  1951年 「シルバータイム」で プロデュース、構成、指揮も全部担当する。昭和26年朝日放送が開局して局の音楽をどんどん作ってゆく。   昭和27年には「ABCホームソング」という番組が始まり、13か月で49曲作って、楽しい時代の家庭で聞ける歌をどんどん作ってゆく。

*「猫の子あげますいらっしゃい」    作詞:竹中郁 作曲:大澤壽人

忙しい中多ジャンルの芸術家との共同事業を楽しんでいました。  超人的にこなしていました。

昭和28年10月27日 大澤壽人は脳出血で突然倒れて亡くなる。 この日には関学の同窓会に出席する予定だった。   家を出て三宮で突然倒れた。 47歳。

もし大澤壽人があと10年生きていたら、テレビへの時代になってゆくときでもあり、現代の日本の作曲界は発展の方向が違っていただろうと思います。  無念の一言に尽きます。ピアノ協奏曲3番(神風)、交響曲第3番(建国)がリリースされて、芸術祭奨励賞のレコード部門の最優秀賞を受賞して、この作品は凄いけれど書いた人は誰、大澤って知らないというような感じで、これが大澤ブームのきっかけになるわけです。

関西フィルハーモニー管弦楽団で連続して大澤作品が取りあげられ、演奏会も開かれるようになる。 2013年にはピアノ協奏曲1番を80年ぶりに演奏されましたが。いずれも先生ご自身で聞いていらっしゃらない。 2006年 大澤壽人生誕100年という事で遺品が神戸女学院(大澤壽人が教鞭をとった学校)に3万点の資料が保存されることになる。  

  


2021年7月16日金曜日

若宮明彦(詩人・北海道教育大学教授)  ・詩と科学の接点を求めて

 若宮明彦(詩人・北海道教育大学教授)  ・詩と科学の接点を求めて

本名・鈴木明彦。1959年岐阜県瑞浪市生まれ。  信州大学、北海道大学大学院で学び、現在は北海道教育大学札幌校で研究と教育に携わっています。   専門は地質学、古生物学です。    学生時代から詩を書き始め、処女詩集の「掌の中の小石」をはじめ詩集「貝殻幻想」、詩論集「波打ち際の詩想を歩く」などがあります。   若宮さんはまた一般の人向けにビーチコーミング学を勧めています。   海辺の漂着物を採集観察し、科学の視点で海を見直そうというものです。   詩人と地質学者の両面で活動する若宮さんに伺いました。

今は対面授業とオンライン授業が6:4ぐらいの割合です。  昨年詩論集「波打ち際の詩想を歩く」を出版しました。   280ページを超える本になりました。  まとめの詩論集という事でいろいろ取り入れました。   

岐阜県瑞浪市生まれで、6歳ごろ母親の実家で暮らす時期がありました。    祖父は教員をやっていていました。   寂しい思いをした時には石ころが友達になりました。  或る時に祖父から瑪瑙という石をもらいました。  そこから興味がだんだん広がっていきました。   子供向け鉱物図鑑を買ってもらって、いろいろ学びました。   大学は信州大学理学部地質学科に入学、下宿生活をしながら、アルバイト、発掘のお手伝いなどやっていました。    精神的にも落ち込んだ時期がありカウンセラーと話をするなかで、自分の心を振り返ることにもなるから、一日に一行でもいいから日記を書いてみないかと言われました。  2行、3行書くようになってそれが詩らしきものになりました。   

北海道大学大学院理学研究科へ進みました。  処女詩集の「掌の中の小石」を25歳に出しました。  卒業して最初の学校は岩見沢で「文学岩見沢」という歴史のある文芸総合誌があり、そこに投稿させていただきました。   いろんなジャンルがありまして、ジャンルに関わらず一番いいものを奨励賞という事で表彰しますが、2年ぐらいして文学岩見沢奨励賞を頂きました。   伊藤蓮?さんが文学岩見沢の代表でした。  伊藤さんは私が大学院の時に北海道詩人協会の会長をされていました。  励まされて詩作をつづけることができました。  

*詩集 「海のエスキス」から「海の話」  朗読

専門は地質学ですが、古生物学といって化石が対象になっています。  範囲も広がり研究手法もよりダイナミックになりました。   北海道は別のプレートがぶつかってできたところで、地質学的にも非常に重要なところで、私の専門は貝の化石ですが、貝の化石もたくさん出てきますし、アンモナイト、恐竜などの化石も出てきて面白いところだと思います。  日本海、太平洋、オホーツク海の3つに囲まれていて、海流に関連していろんな生物が流れついたり、打ち上げられる。  ここ10年ぐらい奄美のほうの黒潮にも興味を持っています。

ビーチコーミング学の意味、ビーチは海岸でコーミングの「コーム」というのは、髪の毛をとくのに使う櫛、「コーム(comb)」が語源で、櫛のように浜辺に落ちている漂着物を拾い集める知的な遊びのことです。   漂着物学会があり、科学の視点で見てみるとまた違った見方ができる。  海の環境の変化を反映している。  日本は自然海岸が減っています。  津波などを避けるための防潮堤が出来たり、開発により砂浜などが埋め立てられる。  生態系への影響もあります。   

同じ海を見ても、科学の論文では英文で書いて横書きで論理的に考えますが、詩的な観点から見れば、イメージで縦書きで書きますから、全く違ったような捉え方をします。  それが自分には新鮮な感じがします。   

*詩集 「海のエスキス」から「漂流物」  朗読  

湯川秀樹博士のエッセー  「詩と科学は遠いようで近い、近いようで遠い。・・・二つの道は時々思いがけなく交差することさえあるのである。」 








2021年7月15日木曜日

今野敏(小説家)            ・独自の美学を貫いて

 今野敏(小説家)            ・独自の美学を貫いて

今は5,6本の連載のペースでやっています。   専業作家になって40年になり年間5冊平均で本を出してきている。   同じことを淡々と繰り返している感じです。 

1955年生まれ、北海道三笠市出身。  物心ついたころから絵を描いていました。  漫画家になりたかった。  横山光輝さん(伊賀の影丸、鉄人28号)、桑田次郎さん(エイトマン)、石ノ森章太郎さん(親戚でして、サイボーグ009)など夢中になって読んでいました。   絵を描きながらいろいろ物語を作ったり妄想をしていました。   スポーツは得意ではなくインドア派でした。   球技もへたくそでした。  

小説に目覚めたのは中学1年生の時で、「幽霊」という北杜夫さんの単行本を友達から誕生日のプレゼントという事でもらいました。   読んでみるうちにのめりこんで、中学校3年間は北杜夫さんのかため読みでした。    北杜夫さんのようになりたいという思いが芽生えました。   高校時代も本をよく読みました。  日本のSF界がすごく元気だった時代で、眉村 卓さん筒井 康隆さん、 小松左京さん、平井和正さんなどがどんどん出てきました。

大学在学中の1978年に『怪物が街にやってくる』で第4回問題小説新人賞を受賞しデビュー。   ジャズが好きで、山下洋輔トリオの最も好きだったドラマーの森山威男さんが辞めるという事でショックを受けて、すばらしさを何とか伝えたいと思って、森山さんを主人公にした小説を書いてしまいました。   友達から応募したほうがいいといわれて、筒井 康隆さんが選考委員をやっているところに応募しました。   電話で受賞したことを聞きました。   この賞をもらって小説家になっている人はいませんと言われて、大学を出て普通に就職し東芝EMIに入社ました。  3時まで仕事をして家に帰って朝7時ごろまで書いて9時に会社に出勤というようなこともありました。  3年間はやろうという事で3年やって辞めました。  

1981年専業作家になる。  バブル期で書けば本にしてくれるような状況で夢中で書きました。   2,3か月に一冊のペースで続けていました。   親戚の石ノ森章太郎さんから「作品の質というものは量を書かないと上がらないんだ。」と言われて、いまだに座右の銘です。   ジャンルはバラエティーに富んでいるかもしれませんが主人公のタイプはそんなに変わっていないんです。   

2005年 「隠蔽捜査」で2006年に吉川英治文学賞新人賞を受賞、デビュー28年目。 賞には縁がなかったので本当にうれしかったです。  編集者の方から官僚のことを書きましょうといわれて、警察官僚のことを書くことにしました。  2008年「果断 隠蔽捜査2」で第21回山本周五郎賞受賞、第61回日本推理作家協会賞を受賞。  世の中みんなフラストレーションを持っていて、それを突破してくれるのが、主人公の竜崎 伸也という思いがあるのでは。   正論を貫き通す、判断は現場のエキスパートに任せる、責任は自分がとる、主人公竜崎 伸也は組織の一つの理想論だと思います。  警察にはいたことがないので何を類推して書いているかというとサラリーマン時代ですね。   上司と部下の関係はどのような組織でもそんなに違わないと思います。

警察を描くという事はどういう事か考えたことがありますが、武力、強制力を持った公務員、という事は結局武士の話を書いているんだと思います。  正義は立場によっていろいろ変わると思いますが、任侠シリーズに関していうと、反社会的組織の人たちが、正義のわけはないだろうと思いがちですが、彼らも正しいことを言えるんです。   任侠の方に正論を言われると妙に響くだろうと、そういう狙いもあるんです。  

今野敏という作家の役割は ハッピーエンドを書いて、読者が読み終わって元気になったりいい気持ちに成ったりする、というのが役割だと思っています。  或る理想を語ってあげないとそこを目指せないという事もあると思います。   臆面もなく理想を書こうと思っています。

倉島警部補シリーズ、刑事から見た公安は大体悪役なんですね、  何をやっているかわからない。   公安から見た刑事、これは新しい視点で、海外のスパイ行為、諜報戦、警察官というより諜報員と思って読んでいただければいいと思います。  どんな世界でも慣れがあり、慣れてきたころが一番怖いんですね。  そういう時期の倉島も書いて見たかった。  どう立ち直るのか、どう変化してゆくのか読んでいただきたい。   海外の諜報部員たちと公安はどう戦っているのか、これも読んでいただきたいと思っています。

小学校から中学の頃に空手に憧れましたが、道場とかなくて、大学に入って空手愛好会に入って、始めました。  空手は沖縄が発祥なので、沖縄の空手をやりたいと思って、それまでの団体とは別れて独立して、1999年空手道今野塾を主宰、ロシアにも支部が出来ました。  毎年ロシアに行き、小説の中ではロシアとの関連性も出てきています。

自分は職人だと思って行って、こつこつやってきましたが、年齢とともに体力が衰えてきて根気がなくなりました。  前は一日20枚ぐらい書いていましたが、今は10枚ぐらいです。   アイデアはニュース、出来事などを当てはめて、考えています。  大まかな流れだけは考えますが、細かいところは考えないです。   警察小説は侍の物語を書いていると思ってます。   警察小説は家族の問題、事件、上司と部下の関係とかいろんなものが入れられるので、非常に使い勝手のいい器だと思います。









 

2021年7月14日水曜日

食野雅子(翻訳家)           ・"ターシャ・テューダー"に学ぶ生き方と言葉

 食野雅子(翻訳家)           ・"ターシャ・テューダー"に学ぶ生き方と言葉

ターシャ・テューダーと言えばガーデニングの世界では大変知られた方ですが、1915年アメリカボストンで生まれて、絵本作家、挿絵画家、園芸家、そして2008年に亡くなりました。   19世紀の農家に憧れて夫婦で自給自足の生活しながら4人子供を育て、農業に飽きた夫が出て行ってからは絵の仕事で家計を支え、子供の自立を機に56歳からはバーモント州に移り住みました。   翻訳家の食野さんは出版社勤務を経てフリーの翻訳家となり「ターシャ・テューダーの手作りの世界、暖炉の火のそばで」の翻訳をきっかけにターシャ・テューダーとの交流を重ねてきました。   食野さんはブックデザイナーの出原速夫さんと共同で山梨県北杜市でターシャ・テューダーミュージアムジャパンを運営し、食野さんは「ターシャ・テューダー人生の楽しみ方」という本を出版しました。  食野さんにターシャ・テューダーの思い出や本に込めた思いを伺います。

出版社に勤めていて編集長兼社長の秘書をしていまして、翻訳物の出版が多かったので編集部から相談を受けて、子供が生まれて会社を辞める時に編集長から翻訳をやらないかと言われました。   「ターシャ・テューダーの手作りの世界、暖炉の火のそばで」という翻訳を頼まれました。   生き方、考え方に共鳴して、夫が亡くなって4人の子供を育てていたし境遇が似ていたこと、私も手作りが好きでしたので、すっかり気に入ってしまいました。    

ターシャ・テューダーは7歳のときには着せ替え人形を手作りでやったり、いろいろ手作りすることが楽しみでした。   19世紀の農村の暮らしが素敵だと思って仰がれました。ボストンの名家に生まれて、社交界で成功して周りからは望まれたが、ターシャさんはそれに反抗して農業をやりたくて、そういう生活に入りました。  母親は肖像画家でした。 好奇心の強い人で興味があるとやってみてしまう人でした。   

翻訳家が著者とやり取りをすることはなかなかないんですが、ターシャさんに魅せられてしまって、ある時に手紙を書きました。   伺いたいという事を書いたら是非いらっしゃいと返事があり、本を作ってきた仲間を誘って伺いました。   堅苦しいという事が全然ない人でした。  そのときには85歳でした。     庭は自分が楽しむための庭なんですね。    職業としては絵本作家、挿絵画家という事になっています。

庭はいつ行っても綺麗です。  季節ごとに雰囲気が違う。  色合いが違う。  次のことを考えて仕組まれているという事が判りました。   いまだに植物の勉強のためにたくさんの本があります。   1992年写真家のリチャード・W・ブラウンの写真集が世界的に注目を浴びた。    暮らしぶりにびっくりして10年余りにわたって写真を撮ったりして3冊本を出しました。   暮らしの本と、庭の本と、手作りの世界の本です。  

ターシャさんのところへは仲間と毎年行っています。   朝から夕方ぐらいまで1週間ぐらい行っていました。   読者からもいろいろ聞いてほしいという事がありそれに励まされていろいろやっています。   読者からできれば人生をやり直したいという話があり、それを言ってみたら、「人生は誰でもやり直せません。  私もいろいろ失敗したけれど、人生やり直したいとは思いません。 やり直したとしても今より良くなる保証は何もないんですもの。」とおっしゃいました。  

ターシャさんの名言を生活に生かして行ければ人生が明るくなるのではないかと思って、ターシャさんの言葉集を考えました。    暗い気持ちに成ったり、落ち込んだときには、急いで考える事はやめて、振り払って口角を上げてみるとか、好きなものを思いうかべたりすると、いいという事を言っていました。   読者から、ターシャさんの生き方から、今までの人生を区切るよりも、それはそれとして先のことを楽しんで、というメッセージに勇気づけられたという手紙などをたくさんいただきました。  ターシャさんは人生を楽しむ名人だと思います。   「歳を取ってできなくなることは当たり前で、今できる事を楽しんだら」って、プラスアルファのことを言っていただくと確かになあと思います。

ターシャさんは本当に努力家で10冊ぐらいスケッチブックをあちこちに置いておいて、子供の仕草、動物の仕草などを見てサッとスケッチすることをしていたそうです。   実物をよく見なさい、スケッチをたくさんしなさいという事を母親から教わった。  85歳の時もやっているといっていました。  

気に入っている言葉の一つに、「見慣れた空の星でも年に一度しか見られないと思えば、感動するでしょ。」という言葉です。    ブックデザイナーの出原速夫さんと共同で2013年に山梨県北杜市でターシャ・テューダーミュージアムジャパンを立ち上げました。  そこでは虹の向こうに民家などが透けて見えて、それに感動して年に一度しか見られない光景だと思って、ターシャさんの言葉の続きがあって、「なんでもそう思って見てはどうでしょう。」というものです。  なんでもたまたま一回しか見れなかったら得した気分になると思います。 花、鳥とかだけではなく人間関係もそうではないかなと思いました。    ターシャさんの絵も紹介できてうれしいです。

ミュージアでのボランティア活動の中で皆さんのターシャさんからの反応に勇気付けられています。   「ターシャさんは独居老人の鏡だ」と言ってくださった老人男性がいましたが、一人になって残りの人生をどう生きるかのお手本がターシャさんだといっています。




2021年7月13日火曜日

山口恵以子(作家)           ・母を送って 私の新しい人生

 山口恵以子(作家)           ・母を送って 私の新しい人生

社員食堂に勤めていた山口さんは2013年に『月下上海』で松本清張賞を受賞、当時食堂のおばちゃんが受賞したと大きな話題になりました。   今、山口さんは食堂を舞台に「食堂のおばちゃん」シリーズや、「婚活食堂」シリーズなど食を中心にほのぼのとした人の触れ合いを描いています。    そして母の介護をまとめた「おばちゃん介護道」や、2019年に91歳の母を送ったことなどをテーマにした、「いつでも母と」を出版しました。  

始めて書いた小説が2007年『邪剣始末』時代劇の連作単編   無名の新人がデビューしようと思ったら時代小説しかないよと言われて書いてしまいました。   時代劇は難しいです。    脚本をやっていたのでセリフは書けるが、小説は文章なので、文章がなかなか書けないのでものすごく苦労しました。  2013年に『月下上海』を出版、松本清張賞を受賞。   生まれて初めて書いた長編小説でした。   ストーリーは突然頭に浮かんだんですが、舞台が昭和17年なので当時のこととか全然知らないので資料を読んで勉強しました。   資料が向こうから来るような感じで、ついていると確信しました。    賞金は関係者とかで1年で全部飲んでしまいました。  日本酒とスパークリングワインが好きです。   飲む前に書きますが、締め切りにもよりますが一日10枚から30枚ぐらい書く時もあります。   一番早いのはエッセーでお返しのメールで送っています。    脚本の元になるプロットライター(すじ書き)をやっていたので書くことは早いです。    

「食堂のおばちゃん」シリーズや、「婚活食堂」シリーズなどはそれぞれ年に2冊出しています。     社員食堂に勤めていましたが、主任になった時に仕入れから諸々全部携わるようになりました。 食堂経営をしていたようなもので、私には運命の小説だったのかなあと思います。

「おばちゃん介護道」2018年11月に出版、「いつでも母と」2020年3月出版。    亡くなる1年前に母が体調を崩して、身体が弱ってきてしまって、その時初めて死が母の身近にあるという事を実感しました。   それがあったので感謝の気持ちで身の周りの世話をするようになりました。   2014年から食堂を辞めて専業作家になって時間に余裕が出きたのでおおらかな気持ちで対応できました。   母との相性がすごくよかったので普通にしていても仲が良かったです。   要介護2でずっときましたが、その後要介護5になって使えるサービスが色々増えてきました。   いろいろな人たちの介護の輪のなかで母の介護をすることが出来ました。  孤立してしまわないように身近な愚痴を言える友達がいたほうがいいです。   介護はマラソンなので、自分が疲れないように、嫌気がささないように、介護する人が倒れたらおしまいなので、たまに手を抜くとかさぼるとか、自分の楽しみを持つとか、そういう事に罪悪感を感じないでほしい。

1958年6月生まれ、63歳、東京都出身。 父親は理髪用の鋏工場を経営。 祖父が興した会社です。  ビートルズが流行って長髪になり、うちのような鋏は要らないという事になり左前になっていきました。   最盛期は従業員は15,6人はいました。   兄2人の3人兄弟です。 子供のころはお絵描きが好きでした。   段々少女漫画家になりたいと思うようになりました。高校時代は好きな人がいてヘヴィメタ、ロックに夢中になってしまいました。  早稲田大学第二文学部に入り、少女漫画家を目指し、作品を持っていったら、絵が下手でやめた方がいいといわれてしまいました。    母に報告したら、漫画家なんて夢みたいなことを言っていないでちゃんと就職を考えなさいと言われるかと思ったら、「そいつは馬鹿だ、あんたの才能を判っていない」と言われて、親馬鹿を通り越して馬鹿親だなあと思いましたが、物語を書きたいという夢をあきらめずにずーっと生きてこられるることが出来たので、母には感謝しています。

親戚の紹介で宝石と毛皮の輸入販売会社に入社しましたが、3年で倒産してしまいました。   宝石鑑定士の免許も取って別の会社に行きましたが、販売の成績は良くなかったです。   勤めながら脚本の学校に行って、段々2時間ドラマのプロットを書けるようになりました。   手がけた中で一番有名なのが市原悦子さんがやっていた「おばさんデカ」でシリーズのほとんどは私が書いていました。   脚本家を目指していたつもりだったが、35歳ではもうその芽はないと、誤っていた事に気づいて、小説だったら年齢制限はないと思って、、44歳のときに丸の内新聞事業協同組合の社員食堂に勤務し、精神的にも落ち着き小説への道を進むことにしました。 

3時半に起きて家のことなどやって、朝5時ちょっと前に家を出て仕事をしていて、昼には仕事が終わって寝るのは9時でした。   2014年に会社を辞めた時が56歳でしたが、力のある長編を書けるのは70歳までだと思って、あと14年しかないと、ここで全力を出さないと後悔すると思ってやめてしまいました。   今日があるのは8割が母のおかげ、2割は丸の内新聞のおかげだと思います。  

男性の5人に一人、女性の7人に一人は50歳になっても一度も結婚経験がない。    かつてはお見合いがありましたが。    「婚活食堂」を書いたときはそうは思わなかったが、いま何もしないと結婚できない時代に突入してしてしまったとしみじみ思っていて、意識的に働きかけをしないと、なかなか難しいなと思います。

文芸春秋で「幽霊食堂」を書かせて頂くことになり、秋には文庫で発売になるのではないかと思います。  食堂とは違う話も書きたいと思っています。  

 










2021年7月12日月曜日

川内美加(マラソンランナー川内優輝選手の母)・【アスリート誕生物語】

 川内美加(マラソンランナー川内優輝選手の母)・【アスリート誕生物語】

2時間ちょっとのレースの間、最後まで走れるのかなといつも心配でいっぱいです。   2018年4月のボストンマラソンで日本人として31年ぶりに優勝して、2019年4月にプロに転向。 以前から走ることにだけ仕事にできたらどんなにいいだろうなあという事は言っていました。  それを後押しするものを本人は欲しかったと思います。  それがボストンの優勝だったように思います。   ほぼ同時に結婚もしましたが、直前まで何も話さずに来ました。  パートナーもランナーです。    今年の2月の琵琶湖毎日マラソン、2013年のソウル国際マラソンで出した自己最高記録を大幅に更新する2時間7分27秒、30代で7分台をマーク。

買い物に行ったスーパーにちびっこ健康マラソン大会の選手募集という張り紙を見て、親が勝手に応募してしまいました。(小学校1年生)   距離は1500mでした。  100人ぐらいの参加者がいましたが、5位に入りました。   優輝が長男で次男が芳輝、三男が光輝です。   小さいころはなかなか言葉が出なかったんですが、話し出したらよくしゃべって、結構興味のあることにはとことんのめりこむタイプでした。   決めたことは最後までやり通すことはありました。    スポーツはやってほしいと思って居ました。     夫はボクシング、私は高校までり陸上の中距離走をやっていました。  

幼稚園の頃は幼稚園ではスポーツに力をいれていてサッカー、体操、水泳、スケート、スキーなどやっていました。   マラソンは最初に5位になり、翌年は2位でした。 3年目は4位でした。  練習を日課にしました。  1秒でもいいから前のタイムより良くなるようにと激励しました。   目標に達しない時にはもう一周走るとか罰ゲームをしました。   そのタイムがあまり遅いとさらに走らせるとかしました。  1秒でも更新した時にはご褒美として、飲みたいものとか食べたいものをあげました。   旅行が大好きでした。  大会後には観光に行ったり、温泉に入ったりして大変喜んでいました。       

最後まで全力を尽くして走ることは当時からありました。   つらそうな表情も昔からありました。   中学では陸上部に入り、学校の先生にお任せしようと思って応援のほうに回りました。   負けず嫌いなところがあるので、勉強のほうも頑張っていたと思います。    得意な科目は社会で、地理とか歴史でした。  勉強で学年で10番以内を目指していて入っていたようです。    埼玉県立春日部東高校に進学。  駅伝にシフトする。   怪我が多くて、大会に出場出来ないことも結構ありました。  足の怪我が多くて練習のし過ぎという事もあったと思います。   少し良くなると又練習をして又怪我をするとか苦しい時だったと思います。   

大学は学習院、箱根駅伝の強豪校ではなくて、楽しく走れたらいいなあと気持ちを変えたようです。  箱根駅伝の強豪校に行ってほしいと思っていたのでちょっとショックでした。優輝が高校3年生の終わりごろに、夫が心筋梗塞で亡くなりました。  息子にとっては一番の理解者だったと思います。  学年選抜で2年と4年の時に箱根駅伝で6区を走りました。  夫に見せてあげられなかったことが心残りですね。

埼玉県庁の職員になる。  監督、コーチもいないし、いろんな遠征先の手配などすべてをやっていたのですが、事務職採用だったので、そんなに苦にはならなかったようです。  大会前日には勝負食としてカレーを晩に2,3杯食べます。  朝は国内ではご飯でしたが、海外ではご飯は難しいので、朝はパンに切り替えていきました。     定時制の高校の事務を10年間やってきました。   午前中練習時間に当てて、午後から出勤して、帰りは10時過ぎになります。  その生活を繰り返してきました。 練習を休むことはなかったです。   睡眠は7時間半を必ず取っていました。  

2011年東京マラソンで日本人でトップの3位、世界選手権では団体で銀メダル。    2014年アジア大会銅メダル、2017年ロンドン世界陸上大会9位、2018年ボストンマラソンで優勝、今年の2月の琵琶湖毎日マラソンでは33歳で自己ベストを更新、フルマラソン2時間20分以内で完走したレースが100回を越えて、ギネス世界記録に認定。  少しずつ努力すれば、達成できる目標を積み重ねていったことが、こういった結果を残せたと思っています。







  









2021年7月11日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

*「交響曲7番 第一楽章」 作曲:ベートーヴェン 

昨年 ベートーヴェン の生誕 250年  

クラシック音楽が文学、小説、漫画の中で、どんな風に使われて、どんな曲がどんな場面で彩どったかという事を、文学、小説、漫画の視点でどんなクラシックが使われたのかを見て行きたい。  

のだめカンタービレ』 2000年代の初めに二ノ宮知子さんが連載を始めて、テレビドラマ、アニメ、映画、韓国でもドラマ化されるなど大変な人気になった、クラシックラブコメディー。

野田恵(通称・のだめ)とピアノ科に在籍しながらも指揮者を目指すエリート音大学生千秋真一、この二人の関係を軸に様々なクラシックの場面が描かれていく。  

のだめカンタービレ』の凄いところは、ただ名曲のクラシックをいれていったというのではなく、曲がマニアックですね。  知られていなかった曲を一躍人気を得る、そんな現象も起こした。 

*ピアノソナタ第8番 『悲槍」第二楽章  作曲:ベートーヴェン              野田恵と千秋真一が出会った時の音楽。

ピアノソナタ第8番 『悲槍」第三楽章  作曲:ベートーヴェン           全然第二楽章と第三楽章が違う。 

「ピアノの森」 1998年より『ヤングマガジンアッパーズ』9号にて連載開始。一色まことさんが描いた。  NHHKが2018年、19年にテレビアニメとして放送したばかり。 有名な作品が効果的に使われていました。

ピアノソナタ第14番 『月光』第一楽章  作曲:ベートーヴェン

主人公の一之瀬海(カイ)は、「森の端」に捨てられたピアノをおもちゃ代わりにして育ってきた。  知らない間にピアノの才能が身に付いてゆく。  カイが通う小学校に転校生として、世界的なピアニストの父親をもつ雨宮修平がやってくる。 二人三脚でショパンコンクールを目指してゆくという話です。

ピアノソナタ第14番 『月光』第三楽章  作曲:ベートーヴェン           全然第二楽章と第三楽章が違う。

*「エリーゼのために」          作曲:ベートーヴェン  

宮沢賢治  チェロを弾き作曲もした音楽家でもあった。 「セロ弾きのゴーシュ」はクラシックの音楽を取り入れた日本の小説の先駆だと思います。  「第六交響曲」これが判らない。 「田園」のことだろうといわれている。   シューマンの「トロイメライ」

*「トロイメライ」            作曲:シューマン

「蜜蜂と遠雷」 恩田陸長編小説、2017年(平成29年)、第156回直木三十五賞、第14回本屋大賞を受賞する。  コンクールに向けてベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーのピアノ協奏曲のほかにも20世紀のピアノ協奏曲の名曲が描かれている。   映画化など上演されたりしている。

*ピアノ協奏曲第3番 第三楽章      作曲:プロコフィエフ

『ジュ・トゥ・ヴー』(あなたが欲しい) 作曲:エリック・サティ 





 

2021年7月10日土曜日

2021年7月9日金曜日

2021年7月8日木曜日

佐野末四郎(船大工)           ・船大工の魂 木の自転車に込めて

佐野末四郎(船大工)           ・船大工の魂 木の自転車に込めて 

佐野さんが作る自転車はレースに選手が乗って出場した事もある木製の ロードバイクです。   その性能とデザイン性が評価され海外の博物館などでも展示されたことがあります。   佐野さんは2019年に長野県軽井沢町に工房を移して制作に励んでいますが、もともとは材木の町として知られる東京江東区で江戸時代から続く船大工の家に生まれ、父や祖父の背中を見て育ちました。   木の自転車には伝統の技を駆使して制作していると話す佐野さんにどのような技術で作っているのか、なぜ木の自転車を作ることになったのか伺いました。

チェーン、ギア回り以外は全部木です。   車輪のリングを木でつくるというのは非常に珍しいです。  フロントの車輪はフォークが4つしかなくて、リングそのものが真円が出来ていないと作れないです。   それができるというのが珍しいようです。  以前にイギリスのビクトリア博物館から貸し出し依頼がありましたが、リングを作る機械があるのではないかと言っていました。   木はマホガニーという木です。  日本の木は伸縮できるようにできていますのでリングは作れないので、マホガニーを使っています。  強度を出せるという事もあります。   木を薄く削って、ハンドルなどはそれを23枚貼ってあります。  単体の丸棒と薄く削って張り合わせたのでは、強度は3倍ぐらいになります。  木の種類にもよりますが、マホガニーは接着剤が片側から片側に抜けてゆきます。  ですからマホガニーがなくなったら廃業ですね。

一見重そうですが、最新の自転車は8.3kgです。  一般のママチャリは20kgあります。  ロードレース用の鉄合金で出来ているものは10kgあります。   フレームがしなってスピードを出してゆく自転車なのでたまに軋み音が出ます。  引き渡しまで3か月かかります。   2か月半で出来ますが、残りはテスト運転します。  10kmから始めて50kmを何本かやって、200~250kmでテストを終えて、それで全部ばらばらに解体します。  各部品に異常がないかどうか確認します。  そして塗装をもう一回やり直して、タイヤも新しタイヤに変えます。   それで3か月かかります。   買った方はほかの自転車とは全然違うといいます。  身体が楽で疲れない、振動がなく速い。  

代々船を作る船大工の家に生まれました。  今はプラスチック、鉄ですが、昔は全部木で作っていました。  薄く削って貼り合わせる船の肋骨部分を作る技術がそのままフレームを作る技術になっています。    舵をとるときにラットという大きなハンドルがありますが、ハンドルの外側に木のリングを巻きますが、その輪っかを作る技術が車輪を作る技術にも使われます。  ヨットを作る技術がそのまんま繋がります。

かんなで木を薄く削る技術も必要です。  かんなは刃も大事ですが、台が大事です。  樫の木を買ってきて台を自分で作ります。   木によって刃を差し込む台の角度が違います。   マホガニーは逆目が多いので台を上手に調整してやらないと7.5/100というのは切れないです。

祖父が職人芸は中学までに身に付けないといけない、そのあと勉強して頭を使わないと船を作るのには駄目だといわれていて、私は中学校の時に初めて船を作りました。  今も軽井沢にありそれまでは乗っていました。   自宅と造船所が一緒だったので、早く祖父、父親のようになりたいと思って居ました。   中学で作りはじめて高校3年の時に進水式でした。  アメリカの雑誌社に写真を送ったら、半年後に本に載ってそれから造船所の運命がガラッと変わりました。   浮かべた時には本当にうれしかったです。  その船で伊豆諸島などにも釣りに行きました。   父から言われて報道関係の女性を乗せて回ってお台場で船の中で料理してという事もやりましたが、それがのちの妻です。  いろんな思い出のある船で人に渡すことはできません。  

工学院大学造船科を卒業、海外へ渡ってオランダの王立造船所に就職、ヨットメーカーとしては最高峰の造船所で、腕を磨きました。  道具を見ただけで日本はこんなに程度が低いのかと笑われてしまいました。   むくの木しか扱っていなかったので、貼る技術も覚えて半年後にはそこの職人の一番上の位まで上り詰めました。  基本の技術は日本のほうがはるかに高いが、見た目は追いつかない。  むくでもって綺麗なものが作れるように努力しました。

今も職人として大切にしていることは、「お天道様に恥じないようにものつくりをする」、それしかないです。  見えるところも見えないところも手を抜かない。  

2002年にドイツで6.5mでジーゼルエンジンが入って690kgという驚異的に軽いモーターボートが出来て、ドイツに自分の船を飾らしてもらったが、あまりに綺麗で置物ですかと言われてしまった。   この技術で何ができるのかを考えて、車など考えたが車検が必要で、ロードレーサーだったらいいと思って、軽いリミットが7.2kgなのでそれを目指そうと思いました。   船の技術がいかにすごいかを証明するために木の自転車を作ったので売ることは考えていませんでした。  軽井沢のほうに来て新たなお客様が出てきているので乗ってくれると楽しいと思います。  







 

2021年7月7日水曜日

外山喜雄(ジャズトランぺッター)     ・すべてサッチモが教えてくれた 

外山喜雄(ジャズトランぺッター)     ・すべてサッチモが教えてくれた 

今年はサッチモの愛称で知られた アメリカの歌手でジャズミュージシャンのルイ・アームストロングさんの生誕120年で、亡くなられてから50年という節目の年です。    ルイ・アームストロングに憧れて夫婦でジャズの故郷ニューオリンズへトランペットの武者修行に出かけ現在日本ルイ・アームストロング協会の会長を務める外山喜雄さんに伺いました。

ニューオリンズに5年間行ったときに、声を真似て歌っていた人がいて、私も真似てやっているうちに段々似てきました。  ニューオリンズでは真似をやっている人が多いですね。   ほとんどコロナで今は全滅ですね、たまにコンサートをやらせてもらう事もありますが。サッチモは生まれたのが1901年で、ここで本格的な解説書をまとめることが出来ました。 

九州の筑後市に父が工場長で行っていて、東京から新入社員が転勤してきて、寮に行くルイ・アームアームストロングにもしびれましたが、「あさなゆうなに」、「アベマリア」といったムード的な音楽が好きでした。(小学校6年から中学生1年の頃)  映画でトランペットを吹くシーンがあり、それに憧れて買ってもらって自己流で始めました。    東京に戻って、高校の時には映画などでジャズ文化がどんどん入ってきました。   高校ではブラスバンドがあり名トランペッターが居まして、その人からジャズを教えてもらったりしました。  1963年に早稲田大学に行って、ニューオルリンズジャズカラーがあり、ニューオルリンズ、サッチモなど演奏していて、そこに入れてもらって、同時にジャズの巨人、ルイ・アームストロングは2回目ですが、ジョージ・ルイスのバンド、カウント・ベイシー、ライオネル・ハンプトン、デューク・エリントンなどが初来日してすごい時代でした。

ジョージ・ルイスのバンドが来た時にはくっついていました。  ルイ・アームストロングが京都に来た時には楽屋に押しかけました。  近くにトランペットがあったので思わず吹いてしまいました。  

妻とはバンド仲間ですが、卒業して直ぐ結婚しました。    就職しましたが、又ニューオリンズからグループが来て、又のめりこんでしまってニューオリンズへの憧れがすごく頭で中に大きくなってしまって、行くことに決意しました。   ブラジル丸という移民船がありましたがそれでも片道10万円ぐらいかかりました。   ジョージ・ルイスのバンドのマネージャーとは知り合いになっていたので、彼を頼りに行きました。  若かったせいもありすぐに溶け込んでいきました。   ジャズホールで毎日聞いていました。  バンドに加えってもらって一緒に演奏をしたりしました。   妻はピアノでしたがバンジョーも習って、ほかに2,3人とで組んでやっていました。  

ニューオリンズはロマンがあり、神話みたいに素敵で、ルイ・アームストロングの育ち自体が、スラムに育って、ジャズの言葉があるとしたら、ジャズ語を作ったのはルイ・アームストロングですね。  人種差別も乗り越えていつもニコニコ笑って、彼の持っているやさしさ、仕草などすべて好きですね。   彼は教会で歌い出して、子供で4人組のボーカルを作って、流して歩いていました。   大みそかに周りでおもちゃのピストルで撃っていたのを、父親の本物のピストル持ち出して撃ったら警察が居て少年院送りになってしまった。  そこではじめってコルネットという楽器を本格的に吹くようになるんです。  それが彼の生活をすっかり変える事になるんです。  

スキャットはジャズで使われる歌唱法で、意味のない音(例えば「ダバダバ」「ドゥビドゥビ」「パヤパヤ」といったような)をメロディーにあわせて即興的(アドリブ)に歌うことで、1926年2月26日のこと、収録中に歌詞を忘れてしまい、適当な言葉で歌ったNGテイクがスタッフに受けて、そのまま使用されたのがこの歌唱法の起こりだという。

1994年にルイ・アームストロングファンデーションがニューオリンズにあり、その日本支部をやらないかとう話があり、日本ルイ・アームストロング協会が発足しました。  今年の7月で28年目になります。   日本人留学生がニューオリンズの隣町で射殺された事件があり、アメリカは今でも銃の問題が大変で「銃に変えて楽器を」というスローガンで、ニューオリンズは楽器がなくて、日本では使われなくなった楽器を寄付してもらうという事で協賛してもらう方がおおくて今まで続いています。  850本ほど楽器を送りました。  ハリケーン「カトリーヌ」がありましたが、その時にも楽器以外にも1300万円ぐらい送りました。  東日本大震災があったときに、私たちもびっくりしましたが、3月26日に楽器を無くした子供たちが居たらという話があり、仙台の気仙沼の子供たちが被災者支援緒コンサートに出たいが楽器がないという事でした。  100万円の寄付があり楽器を購入して、震災から1か月で楽器が届きました。  4月24日のコンサートには演奏できました。  

送ってくれたスラムの学校の生徒たちと送られた生徒たちを合わしてあげたいと思ったら、相互訪問が実現しちゃったんです。

ニューオリンズとルイ・アームストロングが何に一番貢献したかというと、スイングすることだと思います。  スイングで日本を明るくしようと思います。

ルイ・アームストロングは1971年7月6日にニューヨークで亡くなり、地元の若者たちは横断幕を掲げて、「サッチモのスピリッツは永遠に」という言葉が忘れられなくて、本の副タイトルにも掲げています。   








2021年7月6日火曜日

元ちとせ(シンガー)           ・デビュー20周年に向けてのコトノハ

 元ちとせ(シンガー)           ・デビュー20周年に向けてのコトノハ

楽しくて歌ってきた20年で、ライブでインディーズ版の曲をやってみたりしてきましたが、そのきっかけに、自分を振り返られることが、今すごく楽しいなと思っています。    インディーズの時代は島唄以外の音楽にすごく触れた時間でしたし、レコーディングも初めての作業だったりとか、なんでも初めてでした。

*ワダツミの木   作詞・作曲・編曲:上田現   歌:元ちとせ

発売から約2ヵ月後の4月22日付で同チャート1位を獲得。  生まれ故郷の奄美大島があまりにも知られていなかったことにショックを受けました。   若い子が島唄をうたっているというのが珍しがられました。   最初三味線を習おうと思ったが、楽譜のない音楽なので、島唄を覚えていかないと聞こえてゆく歌が増えて行かないんです。  母が機織りで大島紬を織っているときに、竹下和平さん、大島ひろみさんのレコードをずーっとかけていました。  その音楽がずーっと私の中にあり、かっこいいと思って居ました。    三味線は小学校5年生の時に町の三味線教室に習いに行き始めました。   声が変わっているので別の日に歌を習いに来ないかと言われました。   母から大会に出なさいと言われ、集中的に練習をして、中学1年生で初大会に出ました。   中学2年の県大会の控室での練習でどうにか裏声が出るようになり、大会で優勝することが出来ました。   

高校生の時に奄美民謡大賞青年の部新人賞を受賞。  母が褒めてくれたのはこの時だけでした。  母は厳しかったです。  姉が美容師をやっていたので手伝っているうちに美容師をやりたいと思うようになって関西に出ました。  優勝したことでスカウトがきましたが、 一社だけがわざわざ8時間ぐらいかけて東京からスカウトに来てくれて、名刺を置いていきました。  美容室で仕事をしているうちに体調を崩してしまって、帰ろうと思って荷作りをしていた時に頂いた名刺が落ちてきました。   会った時から2年たっていましたが、電話をしたらその人が出て、音楽をやりたいと言ったらすぐ東京にくるようにと言われました。  それが縁ですね。

上京してアルバイトをしながら、スタジオに行っていろんな歌を歌わせてもらっていましたが、最初こぶしを控えるような歌い方をしていましたが、或る曲を歌っているうちにこぶしを入れなければならないようなテンポだったので、こぶしを入れて歌ったら何となくすっきりしてこれが自分の歌い方なんだなあと思いました。  スタッフもこの方が面白いという事で、カバーアルバムの元ちとせの青版と言われるインディーズ版を作って、それと並行してオリジナルの「コトノハ」というインディーズ版も作って、その時初めて上田現さん(「ワダツミの木」を作詞、作曲した人)にあって、歌の新しい世界を広げてもらいました。

「コトノハ」   作詞:元ちとせ&HUSSY_R、作曲:間宮工  歌:元ちとせ

三味線を弾いて太鼓をたたいてお囃子があって歌があるというスタイルでずーとやってきてきましたが、新しい音楽に触れてみたり、新しい音楽を感じている人との出会いで、島唄の可能性を広げてもらっているので、いろんな形で島唄の入り口が増えてゆくのはいいなあと思います。  これからも届けて行きたいと思っています。  音楽で平和であることのありがたさを教えてもらって来たので、小さな幸せがどんなに大切かというものを歌で沢山の人に届けて行けたらいいなあと思っていますし、20周年という事にあまり力を入れずに、自分のスタイルを見失わないように、出会いに感謝して歌い続けていきたいと思っています。








2021年7月5日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】(初回:2021/4/5)

 穂村弘(歌人)         ・【ほむほむのふむふむ】再構成(初回:2021/4/5)

ゲスト 吉澤嘉代子(シンガーソングライター)  

本がその後一冊出ています。 「短歌遠足帖」と言います。  東直子・穂村弘共著 [ゲスト]岡井隆さん・朝吹真理子さん・藤田貴大さん・萩尾望都さん・川島明さんに来ていただいて毎回違うところに、東京タワー、動物園、競馬場とかに行って短歌を作ってみんなで短歌を見ながら話をするという本が出たのと、自費出版した「シンジケート」という歌集があるんですが、その新装版を今作っています。 

吉澤さんとは世代が違っていて親子ほどの年齢差です。 歌人からすると音楽はあこがれのジャンルです。  吉澤さんは1990年埼玉県生まれ、16歳から作詞作曲を始めて、2010年、ヤマハ主催のコンテストでグランプリと、オーディエンス賞を受賞。   インディーズ デビューを経て2014年メジャーデビュー、最新作の「赤星青星」を含めて、5枚のアルバムを発表しています。

*「ルシファー」  作詞:穂村弘、吉澤嘉代子 

穂村:詩を二人で書くというのは吃驚で、どうして一緒にと思われたんですか。

吉澤:中学生の頃に穂村さんを見つけて、言葉の素敵さを感じて、「赤星青星」は恋人をテーマに作ったアルバムでしたが、ときめきみたいなものから始めたかったので、ぜひこのほど穂村さんと一緒にという事で作詞をしていただきました。 

ルシファー:明けの明星を指すラテン語であり、光をもたらす者という意味をもつ悪魔堕天使の名。

吉澤:タイトルは朝4時ごろにコンビニに行ったら、帰りに東の空にひとつ星が輝いていてSNSに投稿したら、ルシファーみたいですねと返信があり、ときめき始めました。

穂村:詩の共作は連歌のようになるんだと思って、すごく新鮮でした。  吉澤さんは常に頭の中に曲が流れていて、それに言葉がパラレルに存在している、ジャンルの違いをすごく感じました。

吉澤:母音、子音の響きの違いがあって、いろんな方向から糸が絡まっている感じがして難しいです。

穂村:今回初めて曲を意識しましたが、やっぱり歌うと違うんだという事に気が付きました。

吉澤嘉代子さんが選んだ短歌

「したあとの朝日はだるい自転車に撤去予告の赤紙が揺れ」    岡崎裕美子              吉澤:穂村さんが紹介した本のなかで、この歌を16歳ころ読んで、よく判らなかったが、朝帰りの感覚が刷り込まれたというか、大人になって朝帰りをテーマに「残っている」という曲を書きました。  その時にこの歌を思い出して書きました。

「愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人」    俵万智        吉澤:「ゼリーの恋人」という曲を書いている時にこの歌を思い出しました。  何時までも愛の結晶にはならなくて、そのままお別れを選ぶという恋人たちの歌で、答えとしてこの歌が浮かんだというか、誰とも共有できなかった感覚みたいな。  

「ダナイード、とわたしは世界に呼びかけて八月きみの汗に触れたり」      大森静       吉澤:ダナイードはギリシャ神話に登場する王様の50人の娘たちをダナイードといっていて、娘たちが結婚させてあげるという事で、夜に夫たちを短剣で殺すという話があるというのを見て、不穏な感じをダナイードという壮大な物語のワードを入れることによって、凄く膨らむというか面白いと思いました。

「液晶に指すべらせてふるさとに雨を降らせる気象予報士」          木下 龍也     吉澤:ユーモアと哀愁みたいなものを感じました。 

穂村:特殊能力を持ってるかのように読めますね。  

「顔で壊した蜘蛛の巣を食べながら光る渚へ降りて行く朝」       穂村弘       吉澤:映画のワンシーンのような美しい光が浮かんできます。  野性味を感じます。        穂村:蜘蛛の巣を顔で感知知してしまう事があるが、実際は手で取ったりするんだろうけど、蜘蛛の巣をペッペッと汚い感じから、海に降りて行くギャップというんでしょうか。

吉澤:子供のころから本が好きでした。   友達に見まもられながら地元の駅で歌っていたりしました。(19,20歳ごろ)   毎週行っているうちに常連さんが増えてきました。  

*「鬼」   作詞:吉澤嘉代子 作曲:吉澤嘉代子 歌:吉澤嘉代子              吉澤:嫉妬という感情は重要なモチーフになると思って、嫉妬を可愛く仕上げられないかなと思って努力した曲です。 

穂村:吉澤さんはシリアスな曲がある一方で、コミカルな、キュートな方向性もすごくありますが、そういう要素は本人の中にあるんですか。

吉澤:穂村さんの中にあるおかしみ見たいなものがたまらなく好きで、わからないけど穂村さんで育ちました。  6月20日に東京日比谷音楽堂で野外ライブがあります。