2025年3月30日日曜日

中村結美(放送作家)        ・名わき役の最後を撮る

中村結美(放送作家)        ・名わき役の最後を撮る

中村さんのお父さん俳優の織本順吉さんの晩年にカメラを向けたドキュメンタリー映画「後ろから撮るな」が完成して先日封切されました。  織本さんはNHKの朝ドラや大河ドラマの出演のほか、およそ2000本の映画やドラマなどで名わき役として鳴らしました。 2017年に90歳で民放のドラマ「安らぎの里」が遺作となり、2019年3月に亡くなりました。 

「後ろから撮るな」の反応は、男性、特に年配の方は、自分自身に当てはまる様で身に詰まされるという反応が多いです。 女性は介護する立場から、同じようなことを思いましたと言う様な反応がありました。  父は90歳までドラマに出続けました。  父が認知症の症状が出始めてその証拠を撮ることで始めたと言った感じです。  撮っているうちのいろいろ面白いことが有ったりしました。  それが発展して映画となりました。 

織本さんは電気会社に勤務した後、1949年に新協劇団に入団。 朝ドラの澪つくし』をキャスティングしたことが全国に知られるようになった。  母の実家が神戸で、両親の介護が必要になり、父を東京に残して私が4歳妹が1歳の時に母と一緒に神戸に移り、父とは別居生活になりました。  父が来るのは年末年始と京都で撮影がある時ぐらいでした。  過剰に父親であろうとするワンマンなふるまいをしていました。  テレビは子供の頃から作り手として見るようなことを父から言われていました。  家族が家族になるための練習期間のようなものをせずに、また家族をやらなければならなくなりました。 しっくりこない状況はありました。   現実の父親役だけはうまく演じられませんでした。 

父は5歳で母親をなくして、15歳で父親を亡くして、その後継母と過ごしています。   晩年は癇癪を起すことが増えていきました。  筋が通らないことでも怒り出したりしました。   私は家の中の本当の父の姿を記録したいと思って撮影を始めました。  そこが意外と伝わらないのは残念です。  世間からはあんなに穏やかで優しそうで、その方がご主人でいいですねと、母はずっと言われていました。  母からは愚痴を言われる役を私はやっていました。  

私は1960年東京生まれです。  神戸育ちで、脚本家、放送作家、テレビディレクター。  高校卒業後銀行員になりました。  文章を書くことは好きで、高校では兵庫県の作文で1位になりました。  勤めの傍らシナリオを書いたりしていました。  「初めてのお使い」「ムツゴロウと愉快な仲間たち」「花よりだんご」、NHKの番組などいろいろ手掛けました。   東監督と会う機会があり、父の気持ちが判ったようなところもあって、銀行員と言う普通の生活ではなくて、ものを作る人になりたいと思い銀行を辞めました。  

「後ろから撮るな」  父は多分私がカメラを向けても、自分自身はどうにでも演じてやるわいと、どうにでもコントロール出来ると思っていたと思います。  しかし或る時に、自信が亡くなったのかなあと思いました。  それで自分の神経の行き届いてない後姿を撮るなという事だったのではなかったのかと思います。  どうしても後姿を撮りたかったです。  1月に病院に入って、3月頃には飲み込む力も弱っていました。  水も飲めなくて点滴だけで栄養を摂っていました。   撮った映像を父に見せましたが、その瞬間だけはしっかりしていました。  感想を言ってくれました。   

「どんなにうれしかったか、本人にしかわからない。  こんな幸せなドキュメントは考えられない。」 「こんな映画が出来たのはお前だから出来た。  こんな幸せな役者はいないよ。」と言っていました。  かっこいいドキュメントではないと判ってもらえると思います。    舞台の上で死ねたら本望とよく言いますが、死の間際まで中々撮ろうと思っても撮れるものではなくて、たまたま父と娘という事で、ぎりぎりまでカメラを向けられました。 それが役者として嬉しかったという思いを言ってくれたのかなと思います。  よっ 名演技!織本順吉と言いたくなるような顔でもあったなと思いました。  父も逃げずにいろいろな顔を見せてくれました。 




 














2025年3月28日金曜日

木村肇二郎(眼科クリニック院長)     ・いわきの浜で 患者とともに

木村肇二郎(眼科クリニック院長)     ・いわきの浜で 患者とともに 

木村さんは昭和15年生まれの85歳。 慶応大学の医学部を卒業した後、大学病院の勤務を経てふるさといわきに戻りました。 祖父の代から続く医師の家系で、患者の話を丁寧に聞く姿勢はちちから学んだと言います。 木村さんはかねてから治療が難しい視覚障害に人達の暮らしのサポートを続けてきましたが、さらなる活動の拠点として、4年前東日本大震災で大きな被害を受けたいわきの浜に「兎渡路(とどろ)の家」という研修施設を開きました。  ヨガ教室や音楽会、触る彫刻展など多彩な催しが行われ、今では障害の有無にかかわらず様々な人たちが訪れる交流の場となっています。 

屋上からは海が一望出来て、建物は木のぬくもりがあり正面は大きな窓になっていて、外の景色はほとんど見渡せます。  天井も高くて圧迫感はないです。  福島県から建築文化賞も頂きました。  一部2階建てのバリアーフリーになっています。 視覚障害の方への様々な工夫がしてあります。  ここは兎渡路という地名です。 地名の由来はよくわからないです。  一時入院した国立病院が道路を挟んで反対側にありました。 命を助けてもらったという事でここを選びました。  国立病院は震災で内陸に移ってしまいました。 いわき全体では450人ぐらいが亡くなり、ここは80名ぐらいが亡くなっています。  10mぐらいの堤防が出来て海が見えなくなり景色が変ってしまいました。    

昭和15年生1月1日生まれです。 父が大阪に勤務している時に大阪で生まれました。  実家に疎開していわきで終戦を迎えました。  小さいころはよくいたずらをしていました。  5人兄弟です。  喉に腫瘍が出来て息が出来なくなってきました。  父の知り合いの東京の病院で手術をして取り切れないので放射線治療をしました。 合併症が起きて顎の上の骨に穴が開いてしまいました。 鼻と口が繋がってしまって、今でも繋がっています。 歯も無くなり入れ顎を作ってはめ込んで今も生活をしています。(中学時代から)  毎食後入れ顎を外して綺麗に掃除をして又取り付けることをしています。 

中学生の時に白内障の手術をするから見にに来ないかと言われましたが、医師になれとか言われなかったです。 でも眼科がいいかなと思いました。  父は非常に優しくておとなしくてよく説明していました。  よく話を聞いて説明するという事は父親から受けついでいると思います。 慶応大学病院に務めたのは32年間です。 大学では学生セツルメント活動と馬術を選びました。  セツルメント活動は街の中に入って行って、定住して街の人と一緒にいろんなサポートをします。  慶応大学病院の反対側にある若葉町の街で、子供たちの勉強と診療所での診療(先生たちの手伝い)を毎週一回土曜日にやりました。 

その流れもあり「兎渡路(とどろ)の家」という研修施設を開きました。  サポートするためのシステムを作って、その一つとしてこの建物もあります。  目が見えなくなってしまった方へは福祉の制度の説明したり、目の見えない人用のパソコンを教えたりして情報を入るように指導します。  東京旅行するとか、美味しいものを食べに行ったり、映画を観る(説明付き)、音楽、そういったことも行っています。  診察室の枠を踏み出してサポートする、という事をやっています。(セツルメント活動の延長)  年に2回はバス旅行をし、楽しんでもらって、いろいろな話を聞くというのは、眼科医としても非常に役に立ちます。    85歳になっても元気でやってますが、妻が副院長で同士といた感じで感謝しています。 100歳を目指して同じ活動を継続していきたい。 



 


















2025年3月26日水曜日

佐々木吉和(NPO法人 理事長)       ・〔心に花を咲かせて〕 花と緑と人で地域は輝く

 佐々木吉和(NPO法人 理事長)     ・〔心に花を咲かせて〕 花と緑と人で地域は輝く

秋田県で活動するNPO法人「グリーンサムクラブ」はゴミだらけの海岸部の清掃から始まった活動なんだそうです。  いまでは花植えや子供キャンプなどなど様々な活動をされています。  その理事長の佐々木吉和さんは当時造園会社の社長で、そもそも社員と共に地域のために貢献するのは当然という考えから活動が始まって、いつの間にか活動が広がってきたという事です。 

会社が当然、困ったこととか大きなトラブルがあった時などには、進んで助けに行ったりとか当たり前にやっているんです。 造園業をやっていますが、造園とは関係ない事でも助けに行ってしまいます。 社員が全部やるわけです。  そういった会社ならば入ろうという事で社員になった人もいます。  社会貢献活動を始めたのは1995年7月です。 300人ほど集まってゴミの除去をしましたが、一日で終わると思ったら1週間かかりました。 日本海側の秋田港から約17kmぐらいで幅が500mぐらいです。 私は40歳ぐらいからゴミ拾いを駅までの400mぐらいをやっていました。  「ご苦労さん」と声を掛けてもらうと嬉しんです。  海岸に行ったら、会社の納品書が何か所からか発見されたんです。 これはまずいと思いました。 沢山の不法投棄がありました。  綺麗にしたら不法投棄がなくなりました。  

13年ぐらいやっていたら、秋田県農林事務所の林務課?の課長が私たちが主導的にやりたいと申し入れがありました。  「夕日の松原」と言う名前になり綺麗になりました。   声を掛けたら関連会社なども含めて300人ほどが集まりました。  今では800人ほどになりました。  今は活動は県の方でお金を出してくれるようになりました。  

「グリーンサムクラブ」を発足させました。  「グリーンサムガーデン」もあり、公園的なものを作りました。  企業の利益とは全く関係ない活動です。  「グリーンサムガーデン」で12月23日にシェフ&主婦のコラボレーションでお祭りみたいなことをやりました。  「グリーンサムガーデン」の隣接地の水田で田植えから収穫、餅つきまでやりました。  子供たちは喜んでいました。  幼稚園の子等もやるようになりました。 2002年には沿道緑化の活動が始まりました。  有償ボランティアで行いました。 お金は私どもの方で用意します。 何もかもボランティアでと言うのは難しいです。 

パークエンジェルスによる地域見守り隊。 小学生が学校に通うための安全を見守ります。 社員がやっています。  2012年にNPO法人の認可を受けました。  通常300~500人程度です。 私がご案内で来ているのは2000人ぐらいはいます。  文化交流もやるようになりました。  彫刻とか。  いろいろな活動が広がってきています。 秋田は土地が広いので、荒れた土地などは使ってほしいと言われたりもします。  活動してきてここだけは上手くいかなかったという様なことはなかったです。  無理してやらなくてもいい。 支援してくれる人たちも出てきます。  東京、福岡から来て、ワイン作りとか、こちらでやりたいことをしたいという事で定住しています。  決してあきらめないことで、自分が信じる道をやっていると、必ず助け船が出てきます。 友人、知人のお陰です。 海水浴場がありますが、今はすたれていますが、ここを何とか再生させたいです。 何年かかるかわかりませんが、来年から始めます。










2025年3月22日土曜日

山極壽一(霊長類学者 人類学者)     ・「過疎」を強みに地域力復活!

山極壽一(霊長類学者 人類学者)     ・「過疎」を強みに地域力復活!

山際さんは現在73歳。 ゴリラ研究の第一人者として知られ、アフリカでゴリラの暮らしを体験しながら、これまで40年余りに渡って家族の起源や人の社会の成り立ちを探って来ました。  2021年からは京都にある総合地球環境学研究所所長を務めてます。 今特に関心を寄せているのが、人口が減って活力が失った地方の復活です。 その手掛かりを探ろうと過疎地を巡りその土地の自然や文化を生かした教育プロジェクトを熱心に視察しています。   若者たちに土地の魅力を伝え知恵をつけるのは、地元に住む高齢者たちだと語る山際さんに活力ある地域社会を取り戻すためのヒントを伺いました。

4年かけて色々なところに行きました。 一番印象に残っているのが鹿児島市と霧島市との間に姶良(あいら)と言う場所があって、山奥に新留(にいどめ)小学校と言う廃校があり、改築して新たに小学校を立ち上げようというプロジェクトがあります。 川理沙さんとその娘さんの瑞樹さんという人と、秋田からきているさんの3人が発起人となってやっているところです。 全国から企業家とかデザイナーとか建築家とか集まって、どういう素敵な小学校にしようとするのか、どういう企画をしようか話し合っています。 会合に呼ばれて行きました。  「普通の小学校プロジェクト」と言います。 普通と言うのは土地土地によって違います。  薩摩の地鶏を2羽、羽根をむしったりして、さつま揚げの煮込みを作って、皆で食べるという事をしました。  大きなカツオをみんなでさばいて、カツオのたたきを作って、味噌つくりも一緒にしました。  自分たちで作った地元のものを美味しく食べましょうと言うのが狙いです。  知り合いで、皆が食材を集めてくれるわけです。 

買ってきて食べるというのでは、自然災害があった時など自力で生活が出来なくなってしまう。  古河さんは子供たちの食や安全や遊び、学びについてこれまで長い経験のある人です。  高校生の意見を反映させながら、普通とは何かと言う事を考えて、そのコンセプトは昭和の小学校に近いものです。  自然の中で自由に考え、好奇心を燃やして、一緒に食べ、学び、と言った日々を送らせたいというのが「普通の小学校プロジェクト」です。 結果的に子供たちが生きる力を育てることになる。  来年4月に開校予定です。 地元を対象にした小学校ではなくて、全国からやって来る小学生を対象としています。 地元のおじいちゃんおばあちゃんが子供たちと一緒に遊んだり学んだり、食事を作ったりしていこう言う話です。 親もやって来る。 宿舎もあり、人が集まればいろんな産業が勃興してゆくので、地域おこしにもなる。 

島根県の島に海士(あま)町ところがあります。 そこでベンチャーをやっている安部?さんと言う人がいます。  ここに高校を作りました。 ここに全国から高校生が集まってきて、自由な学びの場を楽しんでいます。  午後には海に飛び込んだり、畑仕事を手伝ったりしています。  おじいちゃん、おばちゃんたちが伝統的なお祭りのやり方を指導して、御輿を担いだりしています。  都会の若者たちが来て満足できるような素敵なホテルを海辺に作っています。  その高校は日本で有名になりました。 

「過疎は強みだ」と自覚したほうがいいです。 ゼロから始められる。 過疎だから自分のアイディアがそのまま生きる。  地域は自立しないといけない。  江戸時代は日本国内だけで自足していた。  都会に人口を集めてしまった結果、地域が疲弊してしまった。  江戸時代は藩ごとに自立していたが、明治維新以来地域のことに目を向けなくなった。  地域が自立できなくなった。  地方に仕事がないというが、僕は逆だと思う。 人が集まれば仕事が出来る。  教育は人を集める大きな糸口になる。 そうするとホテル、喫茶店などもできる。

岡山県に西粟倉村と言うところがあり、京都大学の農学部部出身の牧大介さんと言う人がベンチャーをやっています。 林業で栄えた村ですが廃れてしまった。  木材として利用するだけではなきうて、木っ端を肥料にしたり、ウナギの養殖に使ったりして、漁業と林業をリンクさせて総合的な村おこしを始めた。  森の学校も作った。  木工所が残っていて、指導者は80歳を越えたおじいさんで、労働者はほとんどが若い女性なんです。 木工品を売るのには若い女性のアイディアが生きてくる。 すでにある施設を使って新しいことをやる。  役場だけは新設で世界的に有名なデザイナーのもので、全国から見学にやって来る。   各地とネットワークでつながることによって、発展する。  地元の人が新しいことを受け入れないと起こらない。 慎重な議論が必要。 若い人のアイディアと高齢者の知恵が合わさって新しい発想が出来るようになったらしめたものです。  

一番重要なのは危機を察する心、感覚を持っているという事です。 今、大人も子供も知識ばっかり寄せ集めて生きてる。  そこに知恵を働かせて生きていない。  都会では年配と若者の出会う機会がなくなってしまっている。 試す自然が遠ざかってしまっている。   年配の人の知恵を生かせる機会がない。  自分のやれることを失わない事。 ものつくりを通して子供たちと触れ合う。  老いたことによって違った魅力や力が出てくる。    自分でやらずに他人にやってもらう。  自分が発想したことを自分でやらずに、あたかも他人が発想したかのようにして、やったかのような知恵が必要です。 それで若い人の手柄にしないといいけない。  知恵の部分は衰えないので、そこを上手く使う事は必要です。  










  









2025年3月15日土曜日

上村淳之(日本画家)           ・平成の四神 (シジン)を描く(初回:2010/4/10)

上村淳之(日本画家)       ・平成の四神 (シジン)を描く(初回:2010/4/10) 

去年の11月に91歳で亡くなった日本画家上村淳之さんの再放送です。 藤原京から奈良に都が移ったのが710年でそれからちょうど1300年の2010年4月都の中心平城宮跡に奈良時代に重要な儀式が行われた大極殿が復元されました。 出来るだけ当時の技法を使って建てられた嵩29mの大きな建物でその内側の壁に方角の守り神朱雀、玄武、青龍、白虎の四つの神、四神の絵が描かれました。  絵筆をとったのが奈良市在住の日本画家で花鳥画で有名な上村淳之さんでした。  上村淳之さんの祖母は女性で初めて文化勲章を受章したに日本画家で美人画で知られる上村松園、父は花鳥画で有名な上村 松篁(うえむら しょうこう)さんで、やはり文化勲章受章者でした。 四神と言うと奈良県明日香村のキトラ古墳の壁画で有名ですが、上村淳之さんは平成の四神にどんな思いを込めたのか伺いました。 上村淳之さん76歳の時の再放送。 

高さ29m、幅53m、奥行き29mの空間。 屋根の瓦が10万枚ぐらいある。 柱が朱で鮮やか。 下から6mのところが下場になります。 その上が上壁で寸法が1m30cmあります。  四神と周りに十二支と雲が描かれている。  ここは初めて日本の国の形が出来た、そこでの祭りごとをした場所と言うイメージを持ちましたので、神様がおおらかに優しく見つめておられるという風なイメージを持ちました。  キトラ古墳は渡来人の仕事であって日本人の仕事ではないと思っていました。  記録もないので私なりの流儀でやらせてもらいたいと文化庁にお願いしました。  最初は原画を私が描いて職人さんが描くという計画でしたが、自分で描きたいと言いました。  壁に描くことは初めてでした。 描く広さは畳1枚半ぐらいで四方にあります。  

文化庁から話があったのは3年前ぐらいです。  壁があまりつるつるに仕上がっていたので塗り替えてもらいました。 四神にイメージは自分なりに工夫をしました。  南の神朱雀は目と腹の部分が赤いです。 頭の部分が山吹色で黒い筋が入っています。 羽根は表は赤くて裏はグレーです。 尾は長くて気高い感じがします。 対に描いていてポーズが違います。 片方は羽根をあげていてもう一方は下げている。 東の神青龍ですが狼が遠吠えをしているような感じ。 口がワニのような感じ。 キトラ古墳の青龍とは全く違います。 キトラ古墳にはみんな羽根が付いていますがついていません。  キトラ古墳の四神は顔が険しい表情ですが、穏やかな表情に描きたいと思いました。  北の神玄武、黄土系の色です。  亀と蛇で、亀が振り向く様に見上げて、蛇と目を合わせている。 構図はキトラ古墳と同じですがユーモラスに優しい顔に描かれている。 西の神白虎、墨絵のよんな感じ。 キトラ古墳は爪を立てて襲い掛かって来るような感じですが、襲い掛かってくるような感じではないです。 四神すべてが穏やかな感じです。 

四神を描くことで3度目の壁に突き当たりました。 最初に突き当たったのが余白の部分です。(40年近く前)  ヨーロッパでは鳥とか花が主役を演じている絵はないんですね。 花鳥画の鳥や花は作家の化身であります。 化身が語り掛けて行かなければいけない。  西洋では生態画になってしまう。 観察的に見てしまう。  感性の違いだと思います。  絵と言うのは夢想した世界を具現化するものであるんだと,そのものを描くことではないんだと教えていただきました。  夢想した世界なのできちんと余白が入り込める、象徴化された空間として、大切な画面として登場してくるわけです。  余白については先生は一切言わないで自分で見つけろと言われました。  或る時に3羽の鳥を描いて、後ろは霞がかかっていてその状況を描きました。  それはひょっとしたらよかったのかなと思いました。  余白は日本画の特徴です。 

2番目の壁は絵が描けなくなることがありました。  或る人から仏御前の絵をみせてもらっていいなあと思って、この仏御前とシギ(鳥)を入れ替えたらいいのではと思いました。 「月に渡る」という題で一気に描くことが出来ました。 

3番目は四神の時ですが、余白の部分に一切手を加えないという事です。  四季花鳥図をと言うものを作りましたが、同じ画面で冬から始まり春、夏、秋になるというものです。 季節の移り変わりを余白の部分に手を加えないでやりました。  それでやれると思ったので、また一つ壁が取れたかなあと思いました。  父は壁は3度経験したら、絵描きになって良いと、ちらっといったことがあります。  花鳥画は神が宿っている世界でないといけないと思います。  




















2025年3月12日水曜日

倉科由加子(障害者支援施設 施設長)    ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く  千代子さんと私

 倉科由加子(障害者支援施設 施設長)  ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く  千代子さんと私

「千代子さんと私」は第59回NHK障害福祉賞 最優秀受賞作品。 NHK障害福祉賞は障害の有る人自身の体験記録ですとか、福祉の分野での優れた実践記録に贈られるものです。 倉科さんは愛知県住在の61歳。  働き始めた入所施設で重度の障害がありストレッチャーで生活する千代子さんに出会って、その暮らしを最後まで支えました。  苦難を受け入れて多くの人に慕われた彼女のようになれたら、という思いを「千代子さんと私」と言うタイトルで綴りました。

書き出しし部分 出会い

「坊主頭のその人は満面のほほえみで私を迎えてくれた。 障害の有る方=車椅子に乗っている方で、という認識しかなかった私にとってその人との出会いは、当初衝撃的だった。   ストレッチャー型の車椅子にうつぶせに寝た姿勢からグイっと顔を持ち上げ汗だくの笑顔から自己紹介をしてくれるのだが、言語障害もあり語尾が聞き取れない。 よくよく周囲のやりとりを聞いているうち、その人はみんなから千代ちゃんと呼ばれていることがわかった。 それが千代子さんと私の出会いである。」 

ストレッチャー型の車椅子にうつぶせに寝た姿勢から、この人一体どうやってご飯を食べるんだろう、どうやっておトイレに行くんだろうと、いろんな疑問がぐるぐると湧いてきてしまいました。  ニコニコ笑っているという姿にも衝撃を受けました。 長いベッドのような車椅子にうつぶせの姿勢になって、顔は、話をする時には首を持ち上げてお話をするので大変力の要ることだったろうと思います。 出会った時は千代子さんは30代でした。(1985年) 

テレビで障害者施設の番組を見て、何となく障害の施設の役に立ちたいと思いました。  福祉大学に進んでこの施設を選んで千代子さんと出会いました。  当時は50人が暮らしていました。 重度の障害の有る方たちが沢山いました。  目が見えない、足が動かない、言葉が話せない、と言った人たちが元気に暮らしているところに飛び込みました。  「住人さん」という呼び方をしていました。

私が入る数年前から千代子さんは入所していました。 お母さんと一緒に名古屋で暮らしていたそうです。 脳性まひの障害をかかえて生まれた千代子さんを乳母車に乗せて、いろいろなところに連れていかれたと聞いています。  高齢になりお母さんが入院して、こちらの施設に入所したという事です。  千代子さんの短歌の中にお母さんのことが良く登場していました。 

「春色の母の形見の服を着るもったいないと母は着ぬまま」   千代子

「思い出す私の好きなイチジクを貧しい中にも買いくれし母」 千代子

愛情深く育てられて来たから、千代子さんの優しさが千代子さんの中に育ったのかなあと思います。 

千代子さんは石原裕次郎さん、里見浩太朗さんとかが好きだったので御園座に出掛けたり、細川たかしさんとか演歌のコンサートに一緒に行ったりしました。 大好きな寿司を食べに行ったり外出が好きな方でした。  親指にみたない鮒に餌をやって30cmぐらいまで水槽で育てて、愛ちゃんという名前を付けて愛情を注いで、なんにでも愛情を注いでしまうという方だったと思います。 誰かに対しても怒るという事のない方で、怒る時は中日ドラゴンズが負けた時ぐらいです。 

千代子さんは聖人君子の様に思えてしまうかもしれませんが、あわてんぼうで、お節介で、おっちょこちょいで、出たがりで、どこにでもいる明るい一人の女性だったと思っています。  古い写真を見ると何でも真剣に一生懸命思い切り楽しんでいる、そんな時間を共有させてもらって幸せだったなあと思います。 

「この年で恋をしている恥ずかしいでも恋しているよんじゅうごさい」   千代子         私が聞き取ってノートに書いて、短歌の会に参加することにしました。               ストレッチャー型のトイレで1時間ぐらい一人になった時に作っていたようです。            

「あの人はいきなに住む王子様私は恋の歌作る姫」       千代子                あの人と言うのはショートステイしていた方で、月に一回こちらに泊るという利用の仕方をしていました。  会えない時には電話をしてお付き合いしていました。 あの人と言う方は昨年末に亡くなられました。  

お風呂、トイレなどの手助けをすること自体は大変という事は思わなかったです。      

倉科さんの手記より心境の変化も見られる。

「走り出したばかりの私にとっては、大変が楽しいを上回るものだったが、春夏秋冬24時間365日終わりがない繰り返しの中で、数年が経った頃にはこの仕事への遣り甲斐に迷いが生じる様にもなっていた。」 

今思うと、身体的疲労が蓄積されていたのかなあと思います。  住人さんたちの暮らしを支えるのが私たちの仕事なので、私だからできる仕事もあると思ったことも、自分がここにいる意味みたいなものを見つけたことになると思います。 時々落ち込んだり、やったみたいなことがあったり、やってきて気が付いたら今です。  40年近くやってきましたが、若い頃には旅立ちに立ち会わせて頂いた時には、ただただお別れするの悲しかったですが、自分が歳を重ねてきて、人生みたいなことを考えてきた時に、人が生きてきて亡くなるところを住人さんが身をもって教えてくれる、その時頂く感動は忘れられない。  そういった事が私がここに居続けている一つの理由なのかもしれません。 

千代子さんが昨日までは元気に過ごしていましたが、その日の朝、声を掛けてもぼんやりした答えしかかえってこなかった。  車に乗せて病院に行きました。  入院することになりました。  呼吸機能の限界を迎えた様でした。 頑張って生きてきたのでいい最後だったのかなと思います。 

グループホームが出来ると言うと、千代子さんは手をあげました。(60歳)  グループホームと施設との往来の生活になりましたが、買い物をしたり、子供たちと仲良くなってクリスマスにプレゼントをあげたり、暮らしの幅を広げて元気に過ごしていました。  ホームと施設について点数を聞くと100点だと言ってくれました。  お母さんと暮らしていた大変な時期について点数を聞いてみたら、ちょっと間をおいてやはり100点と言いました。  千代子さんからはこの100点話は、人としてこうやって生きて行きなさいよと、教えてもらった一つだと思います。 

「新人職員だったころ、どうしても星が観たいと言われて、こっそり外につれ出した夜勤の思い出を語る人、外出先で約束したビールの本数なんか無視して思いきり飲んでいい気分だった千代子さんの思い出を語る人、皆が自分と千代子さんの温かい思い出やエピソードを持ていて、その場所が温かい笑いに包まれた。  生前の千代子さんを知らない葬儀会場の方も、「この方は凄い方ですねえ。 この方の財産は人なんですね。」と言われた。 私もこういう生き方をしたいと改めて思った。」

お別れの場面に駆けつけたくなる人だったという事をお知らせで聞くのではなく、その場所にお別れに来る人がいろいろなエピソードをもって、そこに駆けつけて下さることの凄さですね。  

「私は千代子さんが挑戦だと言って地域移行したのと同じ年齢になった。 障害がある人の役に立ちたいという最初の夢は千代子さんとの出会いによって、修正された。」

弱い人を助けたり、私が何かを与えたりする一方向の思い上がりに近い方だったことが、千代子さんやほかの住人さんたちとの出会いによって、早々に気付かされました。  自分が持てる力を最大限に活用して人生を謳歌する千代子さんたちは、全然弱くないと思います。  お互いの力が重なってこそ生み出されるものがあるという事も千代子さんたちから頂いたことです。 

















2025年3月8日土曜日

吉田玉男(人形浄瑠璃文楽 人形遣い)    ・人ありて、街は生き アンコール 師から受け継いだ芸、次世代へ(初回2024/1/6)

 吉田玉男(人形浄瑠璃文楽 人形遣い)    ・人ありて、街は生き アンコール  師から受け継いだ芸、次世代へ(初回2024/1/6)

2023年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された人形遣いの2代目の吉田玉男さん。 玉男さんは武将や町人などの男役、立ち役の第一人者として文楽を牽引する人形遣いです。   半世紀余りの間人形一筋に歩んできた玉男さんの芸の世界のお話を伺います。

入門してからはほとんど立ち役をやって来ましした。 「奥州安達原」で最初は公家のいでたちで後半は猛々しい侍の姿で迫力のある武将の役。  人形が大きい。 10kg近くあります。最後の15分ぐらいは動き詰めです。   複雑な人間模様でややこしいです。  「曽根崎心中」などでは弱弱しい町人もあり、優男の難しい所もあります。  文七のかしらを持ってきましたが、眉毛が上下に、目が左右に動くようになっていていろいろ表情が変わります。   3人使いでおこなっていて、入門当初は足遣いから始ります。(約10年間)  女方には足はないんです。(昔は女性は足を見せないように歩いた。)  真ん中にいるのが足遣い、右側(お客側から見て)が左遣い、3人で毎回やっています。 

中学校2年の時に人形遣いの吉田玉昇さんに勧誘され、手伝いをするようになって文楽に興味を持つようになる。  高校にはいかずに初代吉田玉男に弟子入りしました。(昭和43年)  昭和44年に初めての役に付きました。  『吉田玉女』(よしだ・たまめ)を名乗りました。  足遣いは10年ぐらいやりました。(左遣いなども覚えるが)  次に左遣いで左手を動かします。 右手でもって左手は空くので、小道具、扇子などを懐から出したりします。  足遣いの時にも子供の人形を使わせてもらって、主遣いもさせていただきました。  主遣いが一番楽しいです。  千秋楽の次の日から4日間は勉強会と言う形で主遣いをやらせてもらいました。   

役柄の心情,性根は台本をよく読まないと駄目ですね。  弟子は先代に似せないといけないですね。  先代とは35年ぐらい一緒にいました。  3人で扱うようになったから300年近くなります。  3人を合すというのは主遣いの呼吸で手も足も出るという事です。 主遣いからサインが出ます。  先代の感じを入れて僕の感じも入れる様には心がけています。  後継者のことが問題になっています。 足遣いも間が8年近く空いています。 自分の芸、後進の指導も行わなければいけないし、新しい人にも来ていただかなかればいけないと思っています。  





  

2025年3月6日木曜日

尾畠春夫(ボランティア)         ・ボランティアが、生きる証し

 尾畠春夫(ボランティア)         ・ボランティアが、生きる証し

尾畠春夫さんは85歳。 大分県出身で7人兄弟の4番目として育ち、小学校5年生の時に県内の農家に奉公にでて、中学まで厳しい環境で育ちました。  中学卒業後別府、山口、神戸の鮮魚店で修業を行い、東京でのとび職の経験を経て、28歳の時に故郷大分に戻り自分の鮮魚店を開業します。  65歳で切り盛りし引退、そこから尾畑さんの本格的なボランティア活動が始まります。 山口県の山中で2歳児を発見して全国的に注目され、東日本大震災の時は500日間を車中泊で過ごし写真や遺品などを捜して綺麗にして遺族に渡す「思い出探し隊」の隊長として活躍しました。  その後も熊本地震や九州北部豪雨などの際にいち早く災害現場に駆けつけました。  移動の際の車のガソリン代も自己負担し、対価を求めないのが真のボランティアであるとして、お礼は一切受けとらず被災者の支援にあたっています。 ボランティアを通して活動する喜びや遣り甲斐について伺いました。

去年は能登半島地震に行きました。  今は別府湾のペットボトルなど人工物の回収をしています。 海の魚が喜んでくれるのかなあと思ってやっています。 今でも4トン車に山盛り一杯になっています。  50歳から故郷の豊後富士でボランティアを始めています。  35年ぐらいになります。  登山道の整備、人命に関わることなど。  65歳からは一般の災害ボランティアを始めました。  東日本大震災の17日後に行き約500日ボランティアしました。  大変だなあと思ったことは一切ないです。 

昭和14年大分県国東半島で生まれる。 母親が41歳で亡くなる。  小学校5年生で農家に奉公に出される。(一番ご飯を食べるため)  朝昼晩茶碗に一杯のご飯と味噌汁一杯、沢庵2切だけだった。  お腹がすき過ぎて馬、牛の餌(麦、豆)を炊きだして食べました。 姉から魚屋になることを薦められて、中学卒業後、魚屋で3年間働くことにしました。 その後下関の魚屋で3年、神戸で4年。 その後とび職として東京で働きました。  とび職の仕事がその後のボランティア活動の役に立ちました。  ボランティアをしてあげるなんて思った事は無く、させてもらっていると思っています。  自分に正直にやっているだけです。 

東日本大震災の時は「思い出探し隊」の隊長として活動しました。  写真がメインでした。 お金に関してはたとえ1円でも二人以上で処理するようにしました。  写真を洗って乾燥して、展示して自由に持って帰れるようにしました。  涙を流しながら「ありがとう」と言われると身体が震えます。 二度と日本では起こって欲しくないと思いました。  車中泊は過酷なんてことは承知の上です。  川の水を汲んできてラーメン作ったり、飲んだりして、ご飯も携帯用のご飯に水をかけて紫蘇をかけて食べていました。  どうしても食べて欲しいと、差し入れを頂いて号泣しました。  

ペットボトルの回収は危険が伴います。  ボランティアは自己責任だと、基本中の基本だと思っています。  今まで受けた恩が山ほどあるので、止めようと思ったことは一回もないです。  この世に生まれ出たものにはなんでも命があります、針一本でも。

鹿児島から宗谷岬まで日本縦断しましたが、徒歩で330km歩きました。 92日間かかりました。 「掛けた情けは水に流せ、受けた恩は身に刻め」と言う言葉が有ります。 私は常にそれを心に刻んでいて、恩に着せることは絶対駄目だと思っています。  一つだけ貰いたいものがあると冗談で言うんです。 1+1はと聞くんです。 「にー」と答えが来ます。 「お礼の分を頂きました。」といいます。  「にー」と答えてくれた、この笑顔を貰いました。 

これからボランティアをやる人へは「自分の身は自分で守る。」という事です。(自己責任)  そして見返りは求めないことです。  今は右の耳が聞こえない、右の眼が見えない状況です。  来年は夜間中学に行って学びたいという思いがありますが、災害地に行くのが一番で勉強は二番ですね。  「生かすも言葉、殺すも言葉」です。 言葉には気を付けないといけない。  「夢は大きく借金は小さく」



























2025年3月5日水曜日

奥野修司(ノンフィクション作家)     ・認知症になっても気にならない社会を

奥野修司(ノンフィクション作家)     ・認知症になっても気にならない社会を 

奥野修司さんは1948年大阪府生まれ。 立命館大学経済学部卒業、週刊誌の記者として活動後、1994年「小沢一郎覇者の履歴書」でノンフィクション作家としてデビュー、その翌年に「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」で注目されます。 その後2005年「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で第37回大宅壮一ノンフィクション賞第27回講談社ノンフィクション、を受賞されました。  社会問題や医療をテーマにした著作を多数出しています。 認知症の取材に長年取り組み、去年10月に「認知症は病気ではない」を出しました。 

「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で12年、「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」で25年、と長期間取材を行った作品が多い。 「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」の取材ではなかなか取材には応じてくれなかった。 毎年2回ぐらい沖縄にいって話を聞いて、その子供が成人して本土に出てくるまではずっと通っていました。  本にするつもりはなく記録していました。 80年代の末にC型肝炎だという事が判って、医者から後10年だねと言われました。 それで形にしておこうかなと思ったのが「ナツコ 沖縄密貿易の女王」でした。 当時終戦から2,3年の間は全く資料がありませんでした。 資料はアメリカでしかなかった。 ナツコと言う人がいて、当時のおじいちゃん、おばあちゃんはみんな知っていました。   でもしゃべってはくれなかった。  微妙なテーマだと思いました。  ナツコの家族を捜すように言われて、そこから紹介して貰いました。 

ノンフィクションを書こうとは思っていませんでした。  「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」は大宅賞の候補になりましたが、ノンフィクションじゃあないと言われました。  ナツコなどは取材すればするほど面白いですね。  全部知りたいという思いがあるんですね。  家族をノンフィクションで描くという事はなかった。  信頼して本当のことをしゃべってもらうことが重要になって来ます。  そのためには時間がかかります。  沖縄の男性は特にしゃべらない。  取材が勝負ですね。 

去年10月に「認知症は病気ではない」を出しました。  取材のきっかけになったのは兄が認知症になったことです。  2013年に亡くなる。  丹野さんの取材後、若年性認知症の人を15年ぐらいインタビューしました。  若年性認知症の人は全国に3万5000にぐらいしかいないです。  高齢者の認知症は数百万人です。 出雲市にあった「小山のおうち」というところを知って、そこから高齢者の認知症について話を聞きました。  要介護4,5ぐらいでした。  直ぐ忘れるので、話が2分ぐらいしか持ちませんでした。  敬子さんと言う人を手を繋いであちこちいって帰ってきて、おやつの時間になったときに敬子さんが「今日は楽しかったねえ」と言ったんです。  その人は1分ぐらいしか記憶の持たない人でしたが、3,4時間前のことをしゃべったんです。  感情は僕らと同じように覚えているんです。   嫌なことを言うと怒られたというんです。  嫌なことはそれが重なって記憶に残るんです。  何か魂胆があるのではないかと考えたりするんです。   

家族が認知症の人がどう思って売るのか、知ることが難しい。  介護士とか慣れている人に聞いて欲しいと頼んだ方がいいですね。  重度の認知症になって来ると、話を聞こうという事は無くなって来る。  認知症の心のうちは孤独と不安ですね。  孤独はもう話し掛けてもしょうがないという、社会的孤独ですね。   家族だけが接触する対象ですが、家族が話かけないと孤独感を味わう事になる。  記憶がどんどん衰えていくことは自分でわかっています。  記憶が消えてゆくと自分が消えてゆくような不安を感じる。 家族と認知症の人との関係性の問題です。 家族から変わるしかない。  ちゃんと聞いてあげる。  一人暮らしの方が元気な人が多いです。(元々一人なので人間関係がもつれることがない) 

料理を作ることは難しい。  どう作るか、計画を立てて、手順があって、同時に複数の作業をしないといけない。  女性は料理が出来なくなってショックを受ける人が多い。  認知症の人に言われましたが、「常にメモを持っていろ。」といわれました。 

毎日3,4km走ったり歩いたりしています。  歩けなくなるとまずいです。  健康を保つのには食事と運動だと言わわれ、実行しています。  今日本の農業は大転換しています。  今の米騒動もその一環なんです。 それを系統だてて説明していない。  人物を描きたいと思っています。 日劇のダンシングチームの一人を捉えて、戦前の生活を描きたいと思っています。 







 






2025年3月4日火曜日

米田穣(東京大学総合研究博物館 教授)   ・人類学と考古学 その境を越えて“科学”する

 米田穣(東京大学総合研究博物館 教授)   ・人類学と考古学 その境を越えて“科学”する

米田穣さんは現在55歳。 東京大学総合研究博物館 教授で人類学者ですが、科学的な手法を開拓し考古学の分野でも多くの業績を上げています。 米田さんは考古学者と共同で発掘調査にも加わり、同位体分析と言う科学的な手法を用い、人骨のほか縄文土器に付いたおこげからその年代を正確に測定し、食事内容やと調理法、更には暮らし方などもあきらかにしまた。   こうした業績が認められ2019年には著名な考古学者濱田青陵の名を冠した賞を受賞しました。 人類学や考古学のジャンルを越えて新たに考古科学の世界を切り開こうという米田さんに考古学者との共同作業から得たもの、今後の夢などを語ってもらいます。

私が中学生の時に理科を担当して下さった先生が、大学で霊長類の研究をしていました。  聞いて霊長類の研究は面白いと思いました。 霊長類の研究は京都大学が長い歴史を持っています。  東京大学では生物学科に人類学という専門分野が入っています。  人類学の中に霊長類学があります。  ネアンデルタール人の研究をしている先生がいて、発掘調査に参加してほしいとお願いしました。  

我々の祖先はアフリカで誕生しました。 およそ700万年前ぐらいにアフリカから人類の化石が見つかっています。  人類の生物学的定義は直立して二足歩行をするというのが大きな特徴となっています。  東アフリカでは山脈が形成されたことによって乾燥した草原が広がって行きました。 二足歩行の進化と言うのは、草原と言う新しい環境が現れたことと関係するのではないかと長らくかんがえられてきました。  2000年頃にエチオピアで発見されたアルディピテクスという非常に古い化石が報告されました。 二足歩行していたことが判っています。 面白いのは一緒に発掘された動物の化石はほとんど森に棲んでいる動物だったという事です。 草原ではなく森が多く残っている段階で祖先は二足歩行を始めたという事が新たに判りました。  

二足歩行を始めた時と消化器官などが進化したタイミングは、おそらく数百万年ずれていて、二足歩行とは直接関係ないという事が判っています。 でも新たなサバンナ環境になれるという事は大きな変化でした。  動物の死体を食べることは人類の祖先(猿人、原人)は始めたと考えられます。  草食ではあったが200万年ぐらいあとからサバンナという環境で動物の肉も食べるようになった。 魚などを食べるようになったのはもっと新しくて10万年前とか、数万年前のホモサピエンスになって、本格的に食べるようになったと考えられています。  環境に合わせていろんなものを食べることが出来たという特徴があります。 

私は生物としての人がどのような環境に適応するかと言うのを、主に縄文時代の骨を使った研究を行ってきました。  考古学者に誘われて一緒に研究を知るようになりました。   縄文土器は縄文時代の遺跡からは必ず出土すると言ってもいいくらい広く用いられてきた土器です。  土器のおこげも材料の特徴が、同位体という分析法を応用してみると、元の材料を或る程度推測することができる。  食べ物の傾向がおこげで知ることが出来ます。 人骨は賛成の土壌に埋められてしまうと溶けてしまうので見つかる先が限られてしまう。  おこげだと広い範囲で分析が可能となる。  

精製土器、粗製土器とに大きく分かれます。 精製土器はお祭りなどのために特別に作った土器と考えられてきました。 粗製土器は調理する目的によって精製土器とは使い分けてきたと思われる。  粗製土器は肉を調理する場合に用いられていたが、植物だけを加熱するという事にも用いられています。  精製土器は肉と植物を併せて調理するという目的に使われていた。  用途によって使い分けられていることを知ることができました。  ドングリのあく抜きなどにも粗製土器が使われていたことが確認できています。 

縄文時代にどんな調理法があったのかという事はほとんど研究されていない。 北海道と沖縄は魚類を沢山食べる。  本州周辺では陸の食べ物と海、湖の食べ物を組み合わせるといったことが特徴になっています。  意外と地域差はなかったです。(沿岸と内陸、東北と関東とか) 遺跡ごとに違う事が判りました。  遺跡周辺でとれるものを最大限に活用するのが縄文時代の特徴になります。  

縄文時代は植物を栽培する農法、動物を飼いならす牧畜はほとんどないという風に考えられています。 大きな豆などが見つかることがありますが、もしかすると縄文人が育てていたのではないかと考える研究者もいます。 弥生時代には畠の跡が見つかったり、専用の農工具が見つかったりしています。  縄文時代の後期には雑穀も見つかっています。  渡来人がもたらした雑穀を栽培していたのではないかと言う証拠を見つけることができました。 長野県の人骨から確認できました。(人骨に残されている炭素の同位体から、雑穀を食べていたことが判明) 雑穀を主食としてはしていなくて1割程度。  農耕へは連続的なものであったように思います。  

福井県三方湖の鳥浜貝塚は栗林が近くにあって、湖には沢山の魚介類がいる。  青森県の三内丸山遺跡は昔は海に近かったと言われている。  栗林は重要な資源だったと思います。  栗林が長く維持できるように管理していたものと思われます。 

濱田青陵の名を冠した賞を受賞しました。   考古学では分析的な手法を応用する手法が広がってきています。  遺物を次の世代に残す保存科学も重要ですが、分析によって得られた知識を、過去に暮らしていた人たちの生活、社会を理解するために利用する視点は、弱かったと思います。 考古学者の情報と分析して得られる情報の価値は同じだと思うので、両者を組み合わせてより過去のことを理解する科学的研究が出来るのではないかと思います。 科学的手法を考古学に生かす考古科学を展開できればなあと思っています。 自然と調和した暮らし方の考え方自体は、もしかすると争いが少なかった背景にあるのかもしれません。





































2025年3月1日土曜日

中村宣郎(義肢装具メーカー)       ・人も街も輝かせたい

 中村宣郎(義肢装具メーカー)       ・人も街も輝かせたい

 中村宣郎さんの会社は山間にありながら高い技術力で世界に知られるとともに、古民家の再生など地元の街つくりにも深くかかわり、石見銀山の世界遺産登録に貢献しました。 病気やけがで身体の機能を失った人たちにどう向きあっているのか、そして故郷街つくりへの思いを伺いました。 

義肢と言うと義足義手のことになります。  装具は骨折,じん帯?損傷の為に用いられる装具になります。  サポーター、コルセットなどもそうです。  オーダーメイドで作るものと既製品と両方あります。  技師装具国家資格があります。  1年目に糖尿病で片足切断をした広島の方がいました。(80代)   納品の際に四苦八苦しました。  患者さんからも「自分も努力する。」という言葉をかけていただきました。 歩けるようになって頂けました。  

中村ブレイス(株)は島根県大田市大森町(人口約400人)石見銀山のふもとの山間にあります。  父であり現会長の中村敏郎?が生まれ育った町でスタートしました。  シリコンゴムを使って靴の中敷きを作って、膝の治療用とか偏平足の治療用で製品化して、徐々に認められていきました。  機能的な製品作りがメインでしたが、アメリカでは人工乳房を提供していて、日本でも提供できないかという事がスタートになりました。 芸術の概念を取り入れながら進化していきました。  女性の手などは材料を変えて爪の部分にはマニュキアが塗れるような工夫もしています。  

アスリートへの支援、元パラリンピック水泳一ノ瀬メイ選手、車椅子テニスの三木拓也選手などに協力しました。  三木拓也選手はパリパラリンピックのダブルスで銀メダルを獲得しました。  サポーター、靴の中敷きなどを提供してきました。 中敷きも1,2㎜の感覚の違いを指摘されました。 要望を受け入れて作り込んで行きました。  助けるというのではなく、支えるという気持ちをもって対応しています。 

65軒の古民家を再生してきました。  街は文化的な側面が大きいと思います。  2024年3月までの12年間に転入、転出の差し引いた数が47世帯になります。 出生数が50人になります。  年間出生数が4,2人という事になります。(人口約400人)  父の思いが実を結んだのが、2007年の石見銀山の世界遺産登録でした。 鉱山の跡だけではなくて街並みを含めてその価値が認められて世界遺産になりました。  大逆転の決定だったのでお祝いの為のくす玉とか提灯などはほとんど用意していませんでした。     

一時期オーバーツーリズムがありましたが、住民同士が決めた大森町住民憲章があります。 「この町には暮らしがあります。 私たちの暮らしがあるからこそ、世界に誇れる良い町なのです。」  今は落ちついてきました。  町内に住んでいる住民と新たに来る人たちとの価値観の共有、すり合わせをすることが重要になって来ると思います。  今後もいいものつくりをしていくことで新たな若い人たちに来てもらうための最低限必要なことだと思います。  魅力を発信していきたい。