2024年11月9日土曜日

2024年11月8日金曜日

齋藤なずな(漫画家)           ・78歳が描く高齢者のリアル

齋藤なずな(漫画家)           ・78歳が描く高齢者のリアル

齋藤さんは1946年静岡県 生まれ78歳。 イラストレーターを経て40歳の時に漫画家としてデビューしました。 途中夫の介護で10年ぐらい創作から離れた時期もあったんですが、その後復帰、76歳で発表した「ぼっち死の館」が今年の手塚治虫文化賞漫画大賞の候補作になるなど、話題を集めています。 「ぼっち死」は一人ぼっちで死んでゆくことです。  斎藤さんが暮らす東京郊外の団地には高齢の単身世帯が多くて、そこで起こるあれこれが漫画の元になっていると言います。 斎藤さん自身の団地での暮らしぶりや、漫画を通して伝えたいことについて伺っていきます。

「クリぼっち」(クリスマスが一人ぼっち)「ぼっち正月」などと言っていました。 そして死もぼっちですね。 単身世帯が多くておばあちゃんが多いです。 病院に運ばれたり、自分で施設に入ったり、本当にぼっち死されたりいろいろあります。 動物の死とか、周りで起きてきたので、死は特別な事ではないですね。  自分にもやがてやってくることですし、周りの人も同じような状況です。 

東京の多摩ニュータウンに住んでいます。 昭和40年代に雑木林を開いて、街を作ったところです。 憧れのところでもありました。  49,50年前に引っ越してきました。  今はシャッター商店街とジジババにが住んでいます。(子供たちは巣立ってゆく)  リフォームして若い人もはいって来てはいます。 

「ぼっち死」は6っつで構成されていますが、一番気持ちが楽しくなるのが、牛の出てくるものです。 「牛のいく」?は主人公が男性で一人で暮らしています。  心がほぐされて高齢の女性と話すようになってゆくというものです。  自分が婆さんなってみると、それぞれ皆さんいろいろあったんだろうなあと言う気がします。 

子供の頃から絵は好きでした。 短大を出て自立しようと思っても何もなくて、働きながら英会話をマスターしようと思って、英会話学校に勤め始めました。 学校で使う教科書の絵を描いていた人の手伝いをしていました。 その人が辞めることになり、後をついで描き始めました。 その後知り合いを介してイラストの仕事が始まりました。 イラストの仕事も少なくなってきて、漫画ならば稼げるのではないかと思いました。 漫画の経験は全然ありませんでした。 1987年、40歳の時に漫画を描く決意をし、『ダリア』で『ビッグコミック』新人賞を受賞することが出来ました。 夫が倒れたり、母親も病院に行ったりで描けない時期がありました。 脳出血で夫は倒れました。 介護が始まりました。 母親も脳溢血で入院しました。  母親は主に弟が面倒見ました。  介護期間は11年でした。   一時期大学に通いながら介護をしていました。  

夫とは籍を入れませんでした。 特に結婚とかにあこがれもなく、結婚しようというような感覚があまりなかったです。 医療費がかかるが、籍をいれていないと医療費控除にならないので、60歳の時に籍を入れることになりました。 夫とは20歳の時からの付き合いでした。  夫は結核になったり病気をしたりして 働かないので、私が働いて無我夢中で生きてきました。 夫は大変だったので、寂しいというよりはよかったと思いました。   最後まで看取ったという納得感はあります。         

一人暮らしの不安は全然ないです。 漫画教室もやっています。 年代層もいろいろなのでたのしいです。  団地内ではお年寄り同士の交流はあります。  友達の家で倒れて5分もしないうちに治ったんですが、病院に行ったら入院してくださいと言われました。 脳梗塞でした。  日常の暮らしのなかでセーフティーネットが出来上がっているという感じです。 市から老人向けのグループを作ったり、自分たち同士でもグループを作っているので、何かやろうとするときにはそこに属せば、いくらでもやることはあります。  飼い猫を通して付き合いが広がります。 ほどほどの距離を取って付き合っています。

生きる上での大切なことは、心を開いて受け入れる、余り頑なに心を閉じない方がいいなと思います。  歳をとった方が気持ちが楽です。  若い人にも伝わることを描いていこうと思っています。  












2024年11月5日火曜日

荒木由美子(タレント)          ・義母の介護を終えて20年

荒木由美子(タレント)          ・義母の介護を終えて20年 

荒木さんは現在64歳、16歳の時にオーディションで審査員特別賞を受賞して、芸能界いりし阿木洋子、宇崎竜童の曲「渚でクロス」でデビューました。 民放のバレーボールのスポーツ根性ドラマ「燃えろアタック」の主役で俳優としても人気者になり、1983年に歌手・タレントの湯原昌幸さんと結婚して芸能界を引退、その後同居の義理の母が認知症を発症し、介護が始まりました。 20年の介護の末、義理の母は87歳で亡くなりました。 その後荒木さんが知らない間に中国で主演ドラマ「燃えろアタック」が大ヒットし、中国に呼ばれるようになり、それが芸能界の復帰のきっかけになりました。 

最近はテレビの司会をやらせて頂いたり、リポーターとしてロケに行ったり、講演会もやらせていただいています。  オーディションでは落ちてしまったと思ってあきらめていたら、審査員特別賞を受賞して出てみませんかと言われて、チャンスだと思って出ることにしました。  「渚でクロス」でデビューました。 

*「渚でクロス」  作詞:阿木燿子 作曲宇崎竜童 歌:荒木由美子

1年間に4枚出してアルバムも作り、忙しかったです。  湯原さんとはしょっちゅう番組でお会いするようになりました。  13歳年上でした。 結婚して芸能界を引退しました。 結婚後2週間目に義母が倒れてしまいました。 翌年に子供を授かりました。(24歳) 義母の介護と子供の世話で同時進行しました。 義母は手術をしてリハビリをして元気になったんですが、家のことは全部私がやるようになったので、やることがなくなってしまって、認知症と診断されてしまいました。 20年の介護で大変でした。 本を出したことで、湯原さんと話をして本当の話をさらけ出して、書くことが出来ました。 今は語ることが楽になりました。 まだらボケで、若い男(実は息子)がいるとか、指輪、アクセサリー、お金が盗られたとか(犯人は私でしかない)、言われてそれがストレスになって、溜まって昌幸さんとけんかになるわけです。 

後援会ではヒントになればいいと思っていて、私のやったことが全部がお手本でもないし、感情も違う、性格も違うので。  円形脱毛症、自立神経失調症とかいろいろありました。 美容院にも行っていられませんでした。 円形脱毛症は3つもありましたが、気が付きませんでした。 酷い時にはペットボトルが持てないほど手が震えていました。(自立神経失調症)  その時には判らないが、感情のコントロールが出来ないことがありました。 今思うと20代、30代をどうやって乗り越えたんだろうと思います。 この家から出ていってら終わりだと思っていました。 離婚しようと思ったことは一回もありませんでした。 

今は認知症に対する見方も変わってきましたし、相談窓口も増えました。 私たちは認知症を隠すかの様に生活をしていました。  義母は本当に私が頼りみたいだったようで、好きだった様です。  最後は急性白血病でした。(クリスマスの日)  食事は喉を通らなくなりましたが、会話は出来たんです。 段々しっかりしてくるんです。  1月9日に亡くなりましたが、段々顔も綺麗になってきて、3日前から綺麗な顔になりました。 8日に病院の部屋から出ようとしたら、何故かふっと振り返ったら、目が合って、先に部屋を出ていた昌幸さんと息子に声を掛けて部屋に戻ってもらいました。  瞬きもしないで私の事を見るので、「なんか言いたいことある?」って聞いたら、「うん」と頷くんです。  点滴をしている手で私のおでこを撫でて、「長い事ありがとうね。」と言ってくれました。昌幸さんも「由美子よかったな。 おふくろがちゃんと挨拶してくれて、本当に良かった。」と言ってくれて、自分も嬉しかったと思います。 

その日家に帰ったら、病院から電話が来てすぐ戻って下さい。」と言われました。 病院に戻ったら、今度は大鼾で寝ているんです。  その後付き添っていて、大鼾のまま亡くなりました。  前の日の挨拶が最後でした。  あの一言でこれまでの苦労が全部吹っ飛びました。   半年後ぐらいにテレビに出ませんかという話があって、こういう話も義母からのご褒美なのかなと思って、それで始まりました。  介護のすべてが終わったのが43歳でした。  介護の話をするのは若いと思っていましたが、若くてもかいごの経験を20年したというのは、これは宝ですよと言われました。 

2004年に復帰しました。  「燃えろアタック」が中国で大人気になり、或る人から中国に招かれてファンの人も空港に来てくれたりして、最高のおもてなしを受けました。 帰りの飛行機のなかで、やってみようかと思う後押しになりました。  日中友好の為には役に立ちたいと思っています。 「燃えろアタック」の負けない精神は、私の中にも根付いていて、介護、仕事など大変でしたが、今となっては全部が無駄ではなかった、財産として私の中にあります。  「介護のミ・カ・タ」「覚悟の介護」など出版