2025年10月16日木曜日

柳澤秀夫(元NHK解説委員)       ・現場主義の私が見る、これからの日本

柳澤秀夫(元NHK解説委員)       ・現場主義の私が見る、これからの日本

柳澤さんはジャーナリストとして世界各国の紛争地や沖縄、東日本大震災と言った現場を取材し伝え続けてきました。  NHK退職後はNHK、民放を問わずその経験をもとに今の時代をどう見るか、何を大事にしなければならないのか、発信を続けています。

 1991年の湾岸戦争の時に、トマホークが突っ切て行くのを指さしながら「トマホークだ。」と叫んで放送をしたことを思い出しました。  やっている時には無我夢中でした。  イラク戦争の開戦の時には石澤さんと台本もなしに、エンドレスでやることが当たり前でした。(いろんなことが起きた。)  生放送なので緊張感が忘れられないです。 

NHKでの経歴、初任地が横浜でした。  そこで人との信頼関係を作るにはどういうことなのかなと言う事を育ててもらったと思います。  二局目が希望通りの沖縄でした。 沖縄では5年いました。  1984年報道局外信部(現在の報道局国際部)に配属。 その後海外、バンコク、マニラ、カイロに赴任、カンボジア内戦、湾岸戦争などを取材しました。 2001年9・11アメリカ同時多発テロ、2003年イラク戦争など中東情勢の番組にも出演、「あさイチ」のレギュラー司会を担当、解説委員長も務める。 

記者は元々黒子の仕事だと思っていました。 「ニュースウオッチ9」が始まる時には、一旦お断りしました。(スタジオに入ったら記者ではなくなると思いました。)  上司から「やらないで後悔か、やって後悔するか。」と言われてどうせ後悔するならば、やって後悔しようと思いました。  情報番組と言う、自分の知らない世界に飛びこんでみるのも取材の一つかなと思って「あさイチ」で始めました。  湾岸戦争を自分の目で確かめたかった。  ひょっとしたら自分の命を落とすかもしれないという思いはありました。 何故戦場に記者が必要なのかと問われて、「戦争を止める力だと信じている。」と答えました。  戦争を始めた側は自分の都合のいい情報しか流さない。  大衆を騙してゆく。 それだと戦争は止まらない。  行ってそこで何が起きているのかを伝えなえなければいけない。  そこで一番つらい立場の人は弱い人たちです。  トマホークでピンポイントで攻撃するから、周辺の人たちには被害は限定的といいますが、実際の戦場を観たらそういうものではないです。 

今の戦争は兵隊が血を流すことなく、自分たちに被害を被ることなく無人の兵器で攻撃することになると、戦争のハードルがドーンと下がってしまう。  戦争に歯止めがかからない時代になって来ている。  ウクライナ侵攻では双方で無人機を使っているので、停戦の見通しがつかないという現実も、そういったところに一つの原因があるのかもしれません。 今の時代に主権国家が主権国家を攻撃を仕掛けて侵略するなんて、想像していませんでした。   日本でも備えは必要かもしれないが、もっと大切なのはそういった危機的状況にならないようにするための努力が大切だと思います。 (外交)  敵であろうと見方であろうと基本は対話です。  

通信が発達した現在は、さも対話をしてい居るかのような空間に自分をおいて、錯覚を起こしてしまう。  努力を惜しんでしまうと大切なものを失うと言う気がします。  コミュニケーションの基本はフェース ツー フェース だと思います。 

出身は福島県会津若松市で、小さいころから天体望遠鏡とアマチュア無線に夢中でした。  戊辰戦争で先祖が辛い思いをしたことがありますが、戦争を繰り返さないためにはどうしたらいいかという事を小さいころから教えてもらってきたような気がします。 これまでやってきた記者の部分と通じるところがあります。  歴史を振り返るといつの時代も戦争があり、繰り返されてきている。  ギリシャの哲学者で「戦争が終わったと言えるのは誰なんだろう。」という命題を掲げています。  それは「負けた人、戦争で死んだ人」だそうです。  これほど皮肉な言葉はないです。  戦争は死なないと終わらないのかと言う事。 でもそうさせないためにはどうするかと言う事をこだわり続けないといけないと思います。 

の掟」(ならぬことはならぬです) ((じゅう)は、会津藩における藩士の子弟を教育する組織。)  知らないうちに自分の故郷の道徳訓みたいなものが沁みついてしまっているのかもしれません。  

「夢を持ち続けて諦めずに前に一歩踏み出す。」それしかない様な気がします。 何年か前に「記者失格」と言う本を出しました。  伝えるという仕事にどこまで真剣に自分が向き合っているのか、ひょっとすると自分の自己満足、好奇心を満たすためにこの仕事をしてきたのかなと、自問することがあります。  自分が何か観たり知ったりしたら、観たり知ったことに責任が必ず生じると思います。  それが結局伝えるという事なのかもしれません。 

「記者失格」の「はじめに」の中で「・・・自らの不甲斐なさを意識しながら私は記者と名乗って良いのか、記者としてその名に恥じない生き方をしてきたのか、そんな自問自答をまとめたのがこの本である。 ・・・自分を裸にしてその自分と真正面から向き合う事がいかに厄介な事なのか、そんなことも思い知らされた。」  すべからく思いあがっては駄目だなと思います。  どんなことがあっても自分の謙虚な気持ちを忘れると、これから先のことが見えなくなるし、自分が見えなくなるだけではなくて、周りが見えなくなる。  離れたところから自分を見る目を持っていないと、取り返しのつかない、とんでもない間違いを起こすような道に入って行ってしまうのではないかと思います。 

時代と共に伝える手段は変わってきたと思います。  しかし共通しているのは伝るという事だと思います。  人と人との間でコミュニケーションをもって伝えてゆく事だと思います。 何を誰に伝えるのか、だれのためのものなのか、絶えず反芻しながら考え続けて行かなければいけない事だと思います。  大病をして、死の宣告に近いようなものをされると、健康があって全てなんだなと思います。 食生活も変わったし、自分の人生観も変わったし、毎日自分の家で三度三度食べられる有難さなど、実感するようになりました。  地域の健康診断で、実年齢は72歳でしたが、46歳でした。  過信してはいけないので、日々謙虚に生きたいと思っています。  

















2025年10月15日水曜日

柳原陽一郎(シンガーソングライター)   ・「さよなら人類」から35年、 ソロになって30年

柳原陽一郎(シンガーソングライター)   ・「さよなら人類」から35年、 ソロになって30年 

柳原陽一郎さんは1962年福岡県生まれ。 中学3年の時にギターを始め、大学生の時にバンド活動を始めました。  1984年ライブハウスで歌っていた時に、よく一緒になった石川浩司さん知久寿焼さんと共に、バンド名「たま」を結成、1989年テレビのバンドコンテストで優勝して、1990年5月に柳原さんが作詞作曲をした「さよなら人類」でメジャーデビューとなりました。 大ヒットして紅白歌合戦にも出場しました。 1995年たま」を卒業してソロで活動することになります。 ギター、ピアノの弾き語りによるソロライブや様々なジャンルのミュージシャンとセッションするなど、現在も精力的に活動して、今年ソロ活動30周年を迎えました。 

「さよなら人類」  作詞、作曲 柳原陽一郎

たま」は4人のメンバーがいて、それぞれ一人でも歌えるようなバンドです。(それぞれがシンガーソングライターでした。)   

もともと日本の歌謡曲が好きでした。  1975年中学1年の時にステレオが家に来ました。  エルトン・ジョンのレコードを購入しましたが何がいいのかよくわからなかった。  次にビートルズを聞いて、 次にクイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」が出て来てロックにはまっていきました。  中学3年の時にギターを始めました。 高校1年の時には曲も作るようになりました。  学校の成績もどんどん落ちて来て、世の中を斜めから見るような性格が形成され行きました。(高校時代)  大学の時、21歳のころたま」のメンバーと知り合い、 バンドを結成しました。  自分のペースでやりたいという思いはありました。   1989年にTBS系音楽番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に出場し、3代目グランドイカ天キングとなった。   

1990年5月5日、シングル『さよなら人類/らんちう』で、「たま」としてメジャーデビューしました。  同曲で同年末のNHK紅白歌合戦初出場しました。  この路線で進むのがきつくなりました。  たま」は5年で卒業し、ソロ活動に移っていきました。  

ソロになった自分が確立出来ていなかった。  あるスタッフの方から「一人で出来る様にならないと駄目だよ。」と言われました。 それから30年になりました。 しょうがない曲をいっぱい書きました。  抜け出すのに5年ぐらいかかりました。   創作J活動とライブを一緒にやるという事は結構大変でした。  自分に等身大の、人の根源的な悩みや喜びをちょっと書けるようになってから、逆に楽しくなって来ました。(それまでは楽しいと思った事は無かった。)  面白くなったのはつい最近でしょうか。  今後歳を取って、もっと声が出なくなってくると、それって自分の歌にはプラスになるような気がします。 
















2025年10月14日火曜日

楠木新(作家)              ・70歳からの生き方のヒント

 楠木新(作家)              ・70歳からの生き方のヒント

人生100年時代、定年退職後仕事を続ける方もいれば、のんびり過ごしたい方、趣味や習い事などに熱中している方もいると思います。 しかし70歳を過ぎると体力的にも精神的にも衰えを感じることが多くなると言います。 そんな70歳以降の生き方や生き生きと暮らすヒントについてお伝えします。

「定年後」の本を執筆していましたが、50代後半から60代前半に会社を辞めた後の取材をしてきましたが、私が今年71歳になり、生き方を変えてゆく必要があるんだなと言うことを、いろんな場面で感じました。  これからの参考にしたいという事を含めて、お話を聞いてきました。  2017年「定年後」ベストセラーになりました。 (執筆が60歳前後)  2013年に60歳で辞めるのか、65歳まで務めるのか、大きな議論になりました。 取材をして面白くてやめられなくなりました。  阪神淡路大震災とかがあり、いろいろ悩んで47歳の時うつ状態で休職しました。  復帰はしましたが、40代半ばから50代の人で、60歳の定年を迎えるにあたってに定年状態に陥る人がいました。 「心の定年」と名付けました。 人生が凄く長くなったという事で、60歳前後で私自身がこの先どうしていったらいいか感じ始めました。  60歳前後の人に取材して出したのが「定年後」と言う本でした。

60代の取材の時には現役の雰囲気が残っていましたが、70歳ぐらいの人はその雰囲気が消えていました。  その人たちが仕事の話はもうしなくなって、テレビ番組か、健康の話などでした。  70歳を越えると、個人として、地域のこと、活動範囲も狭くなってくるのでその中でどう楽しんでやれるかと、いう風に変わって来ます。  70代になって来ると①死について語るようになる。 ②小さい子がかわいくて仕方がなくなる。(男性に多い。)   ③考え方、体力のバラツキが大きい。   今持っているもの、あるものをどうやって大切にしていくかがポイントなのかなと思います。 

①本当の寿命、②健康寿命、③資産寿命、④労働寿命(雇用されるのではなく何らかの仕事ができる。)この4つが大事だと思ってきました。  でも70代の人に聞くと、人間関係寿命(人との関係、人とのつながりを持っておくこと。)が凄く大事だなあと思っています。   ある80代の人から「人とのつながりが無くなって行くことが老いる事です。」と言われた時に 、大事なんだなあと感じました。  家族のことで言うと配偶者との関係が大事だと言われます。 (急に良くしようと思っても難しい。 忌憚なくコミュニケーションが出来る夫婦がいい。)  SNSで月に決まった時間に家族、子供家族が一緒にズームで話をするという事もいいことだと思います。  

人との関係を増やしてゆくのに、5つぐらいのバージョンがあります。  ①仕事をする。(人の関係は必ずついてくる。) ②趣味(他の人とつながっていけるような趣味がよりよい。)    ③ボランティア、地域活動(多種多様のものがある。 地区町村のホームページなど参考になる。)  ④学び(書道、卓球・・・ クラブ活動) ⑤少しでも自分の好きなことが有ったら自分の足で動いてみる。   顔つき、雰囲気が重要かなと思います。(プラカードみたいなものです。 柔和な顔つき、雰囲気 笑顔)  物事には光と影の部分があるが、良いところをきちんとみられるという事が大事です。  同じ状況でも、本人のスタイルによって受けとり方も違うのではないか。(良いと思うか、悪く思うか。)

「毎日良かったことを必ず書いてゆく。」  それを続けることが大事。  そこから自分の興味あることを捜すという事もあるかもしれない。  いい面を観れるようになる。 今持っている「もの」、「こと」を大切にする、という事に繋がってゆく。  失ってゆく中でどう楽しんで過ごしてゆくか。  最後、自分との人間関係が良くなる。  最後は一人になる可能性があるので、その時の人間関係は自分だと思います。 






































 


2025年10月13日月曜日

芹洋子(歌手)              ・〔師匠を語る〕 ジャズ歌手 マーサ三宅を語る

芹洋子(歌手)              ・〔師匠を語る〕 ジャズ歌手 マーサ三宅を語る 

ホームソングのシンガーとして知られる芹洋子さんは、日本を代表するジャズシンガーのマーサ三宅さんにレッスンを受けていました。 マーサ三宅さんと芹洋子さん、どんなレッスンでどんなドラマがあったのでしょうか。

マーサ三宅さんは今年の5月に92歳で亡くなりました。  マーサ三宅さんは1933年中国東北部満洲国四平街(後の吉林省四平市)で生まれました。 父を早くに亡くしたマーサさんは終戦の翌年、母と二人で日本へ引き揚げ中学校に入学、卒業後日本音楽学校で音楽の基礎を学びながら、夜はアルバイトと言う生活を続けます。  昭和28年に音楽学校を出たあとは当時人気だったクラリネット奏者でジャズシンガーのレイモンド・コンデが主催するゲイ・セプテットの専属歌手となりました。  

独立したのちはテレビ、ラジオのステージでジャズを歌い続け、スイングジャーナル誌の女性ボーカル部門トップの座を保持し続けました。東京中野にマーサ三宅ボーカルハウスを開校したのは、昭和48年、芹洋子さんはじめ大橋純子さん、今陽子さんなど多くのスターを輩出しました。  1993年には歌手生活40周年記念リサイタルマイライフを開催し、文化庁芸術祭賞を受賞、2000年春の紫綬褒章に続き、2006年春には旭日小綬章を受章しました。 今年の5月に92歳で亡くなりましたが、生前にこう話しています。  「私にとってジャズとは人生でした。  だから夫でもなければ恋人でも親子でもない自分の人生ね。  息絶えるまで歌い続けたい。 」

私は歌が好きで、のど自慢番組とか受けて好成績でした。  1970年からNHKテレビ歌はともだち』に出て、3年間歌ったり司会をしたりしました。  母はがんで、受かったという事を聞いて亡くなりました。  コマーシャルソングの仕事をすることになり、今迄に700曲ぐらい歌ってきました。  商品名をはっきり言わなければいけないので、そういった癖がついてしまって、棒読みみたいな感じになってしまいました。 レッスンをすることになり、1972年にマーサさんのところに行きました。  「自分のありのままの姿を歌にしたらいいからね。」と言われました。  私の歌を聞いて学びなさいと言う感じでした。 ワイドにものが見れるようになりました。(音楽だけではなくて人間性の面でも学ぶことが出来た。)  歌うのではなく語る感じ。  歌う事よりも雰囲気、ムードを大事のしなさいと言われました。(今迄とは全く違った感じでした。) 褒められたことはたくさんあり、叱られたことはなかったです。  段々と自信もついていきました。 先生のステージを見るとレッスンと時とが全く違う先生がいました。  

1974年『愛の国から幸福へ』がヒット、以降『四季の歌』がミリオンセラーを記録、1978年の「第29回NHK紅白歌合戦」(歌は「坊がつる讃歌」)にも出場しました。 『愛の国から幸福へ』がヒットした時にはいろんな結婚式場に行きました。 四季の歌』では中国の愛唱歌になり北京に行って19回やって来ました。  (1992年交通事故により外傷性クモ膜下出血となり、意識は回復したものの逆行性健忘を生じ自身が歌手であったことや持ち歌すべての記憶を失う。しかし懸命のリハビリによって歌手として復帰。)  2000年にラジオ深夜便の10周年記念のイメージソング「夢」を歌いました。 

継続する事は難しいと思いますが、マーサさんは一途に継続してきたことに対して、尊敬をしています。  自分の道を究めるためには、周りの人の協力が必要だと思います。  マーサさんの周りの方々も凄かたっと思います。  その人の人生を変える言葉と言うものはあるんじゃないかと思います。  

マーサ三宅さんへの手紙

「・・・1972年初めてのレッスン、あの時私はとても緊張していました。・・・先生の甘い歌声にその時妙な安ど感を覚えました。 歌う事って、吐く息と吸う息、それに加えて止める息も大切で、その止た息の中に人間性が生きてくるのだと、それからのレッスンで私は学びました。  優しい心そして絹のような柔らかな歌声、マーサ先生にいつも尊敬の念を抱いていました。  今でも私はマーサ三宅さんの大ファンの一人です。 又私のそばで歌って下さい。」













2025年10月12日日曜日

宮川一朗太(俳優)            ・元妻を自宅で看取って

 宮川一朗太(俳優)            ・元妻を自宅で看取って

来年3月に還暦を迎える宮川さんは、高校生の時に森田芳光監督松田優作主演の映画「家族ゲーム」でデビュー、NHKでも多くのドラマに出演していますが、大河ドラマは「光る君へ」が初出演となりました。  私生活では30代で離婚、男手ひとつで子供2人を育てました。 この5月には2年ほど前に末期がんの元妻を看取っていたことをテレビ番組で公表し、反響を呼びました。 

「光る君へ」では藤原顕光役に出演。 40年近く俳優をやって来て、決まった時には光栄でした。 1話から48話(最終話)迄全部出ることになりました。(最後は77歳) 平安時代の作法が大変でした。  階段の乗り降りも常に左足からとか、胡坐をかくにも左足が表と言う感じです。  俳優になるきっかけは女の子にもてたかったからです。(中学2年) 高校1年の時に養成所に入って、1年後に受けたオーディションが「家族ゲーム」でした。 やる気のない状態でしたが、面接ではそれがかえって良かったようでした。 (主人公のイメージに合っていた。) でも主人公は松田優作さんでした。  部分的に取っていたものを試写室で観ましたが、なんて下手なんだろうと思いました。  落ち込んでいたら、優作さんが「それでいいんだよ。 天狗になるよりましじゃないか。」と言われて、いまだにその言葉を支えにやっています。

仕事がない時に、いかに自分に対して努力するか、という事を大事にするようになってきました。  歳を取るほど好奇心の塊になって来て、いろんなことをやってみたいです。  演劇塾「いち塾」を今やっています。  いくつになっても夢を追いかけることが出来ると言ったら、50代過ぎの方が結構入って頂きました。  

23歳で結婚、娘2人が誕生しました。  30代で離婚しました。  俳優と育児は大変でした。  地方ロケの時には、元妻の両親が近くにいたのでお願いしました。  成人するまでは子供たちから離婚したことは発表しないでほしいと言われました。 (7年ぐらい) 困っていることを打ちあける番組があり、子供達に相談してそこで公表しました。  この5月には2年ほど前に末期がんの元妻を看取っていたことをテレビ番組で公表し、反響を呼びました。   ステージ4で病院での治療もしたくないし、南の島の家にも帰りたくないし、娘たちも引き取りたいという事だったが、娘の家も遠いいので、病院から一番近いのがうちでした。  3月に家に来ることになったが、8月に次女に子供が生まれることがわかっていました。(初孫)   元妻を面倒見るという事に対しては凄く葛藤がありました。  元妻がやってきた日に長女が買い物に出かけるんで、見ててくれるように言われました。  観に行ったら上半身起こしていましたが、慌てて寝かしつけました。  翌朝長女が「もうだめかもしれない。」と言ってきました。  次女にも連絡をして、間に合うかどうかわからなかった。 介護の方が「今、脳が休もうとしています。」と言いました。  呼吸が止まってしまうと思えた瞬間、大きく息を吸ったんです。  それが最後の呼吸でした。 

東京で治療をするようになったのは、その半年ぐらい前でした。 何回かお見舞いに行き、会話をしていました。 そのうちに会話も出来ないような状態になりました。 旅立ってから、長女が遺品を整理していたら携帯でメッセージを送ろうとしていた未送信があるという事でした。  「見舞いに来てくれてありがとう。 とっても嬉しかった。」と有りました。  

これから60と言う新しいステージに入ってゆく訳ですが、これは新しいチャンスだと思っていますし、60,70代で物凄く活躍されている先輩が大勢いますので、私もその仲間に入らせていただくという感覚です。  























2025年10月11日土曜日

2025年10月10日金曜日

美谷島邦子(8・12連絡会 事務局長)    ・〔人生のみちしるべ 〕 ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から40年(初回:2021/11/12)

美谷島邦子(8・12連絡会 事務局長)    ・〔人生のみちしるべ 〕 ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から40年 (初回:2021/11/12)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/11/812-36.htmlをご覧ください。

2025年10月7日火曜日

柴崎春通(画家)            ・絵を描くことは人生の喜び

 柴崎春通(画家)            ・絵を描くことは人生の喜び

 柴崎春通さんは1947年千葉県生まれ。(78歳)  絵画講師歴はおよそ50年になります。今年4月Eテレで放送した番組3か月でマスターするシリーズでは講師として出演しました。 70歳からはYouTubeで絵の描き方などを動画配信し、現在島崎さんのYouTubeチャンネルを登録している人は国内外で200万人を超え、人気YouTuberとしても活躍しています。 大人にこそ絵を描いて欲しい、絵を描くことは自分と向き合う事になると語る柴崎さんのこれまでの歩みや活動を続ける思いについて伺いました。

モチーフは世界中歩き回って、ひとりでに集まってきたようなものです。  70歳からはYouTubeを始めました。  個展には若い人が多いですね。  50代のころから銀座で個展をやっていましたが、違う切り口でやってみたいと思っていました。 息子が「YouTubeでやってみない。」と言ってんです。 それで始めました。 ある時アメリカのCNNテレビに取り上げられました。 日本でも話題になって、フォロワーが段々と増えていきました。 

戦前は貧しい農家でした。 農地解放でようやく生活がそこそこできるようになって、私が生まれた時には自分のところでお米を作っていました。  昭和30年ごろになると日本は景気が上向いてきました。  一人で何かをしているのが好きな子でした。  ものを作ったり絵を描くことが好きでした。  本も好きで図書室で片っ端から読んでいました。  画集を観て驚きました。  農業は親を楽にさせるためにずっと高校までやっていました。  県庁を受けて受かったが、何んとなく嫌で行きませんでした。  友人が東京の専門学校に行くと言うので、自分も行きたいと思って絵を勉強に行くということを口実にしました。  親も賛成してくれました。  阿佐ヶ谷美術学園(現・阿佐ヶ谷美術専門学校)に行ってみたら,みんな絵が上手くて、ガックリしました。  上手い人の絵を描くのをひたすら見るようにしました。 アルバイトはビル掃除をしていました。 

東京藝術大学を受験する。1次試験のデッサンに合格し、2次試験の油絵まで進んだ。 納得のいく課題提出に至らなかった。そのため合格発表日に確認しに行くことなく進学を断念した。 和光大学に開設間もない人文学部芸術学科があることを知り、1967年に入学しました。 就職のことは何も考えて居なくて、荻太郎先生にに呼ばれ、絵画通信教育講座である講談社フェーマススクールズを紹介されました。  アシスタントとして就職、そのうちにほかの先生と同じ仕事をやってみないかと言われ講師に昇格しました。  仕事もどんどん増えていきました。契約状態も良くなってきて、遣り甲斐を持てるようになりました。(40代)  

でもこのまんまでは面白くないと思て、2001年に文化庁派遣芸術家在外研究員としてアメリカに渡りました。  東南アジアに行って道端で絵を描くことなどを繰り返していました。  絵を描いていると危険なところでも、危険な目に遭う事は無いです。  相手も警戒しない。  

親が農業をやっている間は、農繁期には会社で仕事をしていても、土日は農業の手伝いをしていましたが、親が歳をとって農業をできなくなってからは、時間も出来て個展をするようになりました。(50代前後)  頑張りすぎて心臓の病気になってしまいました。 入院して何回か手術をしました。(入退院を繰り返す。)  人間は死ぬんだなと思いました。  改めて自分を見直すきっかけになりました。  絵を描いていると、今の自分に正直になれる。 絵を描くという事は人間の五感を使ってする作業の、自分を一番正しく表に出せる原点だと思います。  皆さんたちの生活の中にも浸透できるようにして行ったらいいんじゃないかと思います。  

モットーにしている言葉は「我は一人」、生まれた時から死ぬまで、よくよく見ると自分一人なので、だからこそ自分に正直に生きる。 だからあまり色々なものはいらないという事ですね。  固執しないで、どんどん捨ててゆく。 捨てることによって新しいものがキャッチできるような気がします。  人並みに、とつい乗っかりたくなるが、「我は一人」なんですよ。  判断するにも、何をするにも、ここが大事かと思います。  一人一人だからこそ、認め合えるんです。  大人だからからこそ、絵を始めた方がいいと思います。 達成感を味わってみる。






















 


2025年10月6日月曜日

舘野泉(ピアニスト)          ・88歳 “左手のピアニスト” が奏でる世界

舘野泉(ピアニスト)          ・88歳 “左手のピアニスト” が奏でる世界

 現在88歳の舘野泉さんは、65歳の時リサイタル中に脳溢血で倒れ、右半身の自由を失いました。 その後2年ほどのリハビリ生活を経て、左手のピアニストとして活動を再開、今年演奏活動65周年を迎えました。  舘野さんは1936年東京生まれ、東京芸術大学を首席で卒業後、ピアニストとしてデビュー日本とヘルシンキを拠点に世界各地で演奏活動を行ってきました。 左手のピアニストとして活動を再開した舘野さんは、現在年間30回にのぼる演奏会を開き人々に深い感動を届けています。 

*「赤とんぼ」  ピアノ演奏:舘野泉

左手で弾いているという感覚は全然ないです。  右手は全然使えないです。  弾くのは身体全身で、特別なことだと思った事は無いです。  右の方を弾く時には身体をよじらないといけないので身体の負担は非常に多いです。  右手が使えなくなって25年経ちますが、その時には左手で演奏する曲が少なくて、自分で演奏活動をしてゆくのにたりないので、いろんな作曲家に頼んで曲を作ってもらいました。  一番最初に書いていただいたのが間宮芳生さんです。  間宮さんとは40年以上のお付き合いです。  最初の作品は大変だったらしいです。 二か月後に弾きやすいように修正した作品を作って頂きましたが、やはりオリジナルの方がいいのでそれにしました。  今では世界の作曲家(10ケ国余り)から書いていただいています。  作曲家にとっては自由な発想だ書けるので、喜んで作曲してもらっています。

右手が利かなくなってから再び鍵盤に向かうまで2年掛かりました。  でもピアノを弾くことは何もしていませんでした。  1年を過ぎた頃、小山 実稚恵さんがアンコールで「左手のためのノックターン」を弾いてくれて、僕の方を観たんです。 (こういうのもありますよというサインだった。)  でも僕は機が熟していなかった。(2年間)  左手で弾くいう事は、前と変わらない音楽をやって行けるという事に歓びを感じました。  落ち込んだ事は無いです。(瞬間的にはあったが。)   神様が「左手だけでよく頑張ったから、右手も返してあげる。」、と言っても「結構です、でも僕は左手だけで満足です。」と言います。

「赤とんぼ」は梶谷修さんが編曲したもので、1本の手で旋律が同時に3本重なっていて、両手のピアニストに弾けと言われても出来ないです。 一日にピアノに向かう時間は平均すると2時間ぐらいです。  新しい作品に向かう時には4時間ぐらいです。  ピアノを弾いている時にはおれは生きているんだという思いがあります。 

ピアノを始めたのは5歳の時です。(太平洋戦争が始まった年) 舘野弘チェリスト。母舘野光(小野光)はピアニストでした。  母は本当は絵描きになりたかったそうです。 祖父がピアノを買ってくれてピアノをやるようになったようです。 私は実際には5歳よりも前からやっていたようです。  自由が丘に住んでいましたが、東京大空襲があって上野毛に疎開しましたが、また大空襲があって焼夷弾で家が焼けてしまってピアノも焼けてしまいました。 ピアノよりも宮沢賢治の「風の又三郎」、「西遊記」が焼けてしまった方が悔しかった。 戦災を避けて栃木県小山市間中に一家で疎開しました。  音楽なんてないとんでもない生活ですが、自然のなかにすっかり入ってしまいました。  

最近の若い人のピアノを聞くと技術の進歩が凄いです。  ただいろんなことをやっているんだけれど、一つ型を破って出てくる、それが欲しいなあと思います。  小さくまとまっていて、隙が無い。  自分が好きなことをずーっと変わりなく持ち続けてやってきたことは、本当に幸せだと思っています。  引退なんてことはしないで、最後まで弾いて「さようなら」と言えたら幸せだと思います。



























2025年10月5日日曜日

石丸謙二郎(俳優)            ・中高年こそ人生を楽しもう

石丸謙二郎(俳優)            ・中高年こそ人生を楽しもう 

NHK第一放送のラジオの「石丸謙二郎のやまカフェ」では山の情報や魅力を伝えています。 この番組の司会を務める石丸謙二郎さんは、登山を楽しみながらスキーやピアノなど多くの趣味を楽しんでいます。 石丸さんの山への思い、年齢を重ねてこその人生の楽しみ方を伺いました。

「石丸謙二郎のやまカフェ」は今年で8年になります。 でもまだしゃべり足りない。 いまは山に登らない人でも聞いてもらっています。  去年マッターホルンに登頂しました。  65歳になった時に登ってもいいんだという思いが湧きました。  準備をして飛行機を予約をしたりして、行こうと思ったらコロナになってしまった。  全部キャンセルして、5年後70歳になる時に、再度行こうと思って準備をしました。  マッターホルン(4478m)は一日で日帰りをしなければならないので、若くないと出来ない。  息が上がっても休みなしです。ヘルンリ小屋が3260mのところにあって、そこで一泊して朝の4時過ぎに、いきなりロープでクライミングをして登るようなことから始まります。  

頂上までの標高差が1300mの半分の時点で2時間半を切らないと、そこで降ろされてしまう。 5時間で登って5時間で降りてこないといけない。  ようやく中間地点に行って休めるかと思ったらどんどん先に行きます。 なんとか頂上までたどり着けました。  高度順化するために何回も富士山に登り中途から2往復しました。  最初のうちは苦しかったが、段々慣れてくると呼吸法も覚えました。  マッターホルンの頂上は畳一畳ぐらいで、写真を撮って、宇宙に自分の首がズボっと抜けたような感じがしましました。 降りようとしたら上がってくる人がいて、すれ違いざまは物凄く気を使いました。  頂上にいられたのは1,2分でした。  降りる時が怖くて一番傾斜の強いところは80度ぐらいあります。  本来は降りて来てリフトで下るんですが、止ってしまっていて、それを見越して自転車を用意しておいて、夕陽を見ながら自転車で下って来ました。 ホテルに着いたのは夜の9時でした。 

大学のころは毎週のように山に登っていました。  それから40年ぐらいになります。   僕は石橋を思いっきり叩いて渡る人ですね。  60歳からスキーを始めました。  70歳になってからスノーボードを始めました。 (今年始めて10回以上行っています。)  ウインドサーフィンは37歳から始めました。  47歳からフリークライミング、65歳から絵(墨絵)を描き始め展覧会もやりました。  同じ時期にピアノも始めました。 街角ピアノがあるので行った時に弾くようにして、60か所で弾きました。 ピアノを弾くと自分の身体に返って来ます、それには吃驚しました。 又ピアノって一台一台違う事にも吃驚しました。   高いピアノを弾くことができる機会がありましたが、その時には4時間弾いていました。

歳を取って来ると時間が出来るので、トライできると思います。  ピアノも一曲しか弾けなかったのですが、2曲目、3曲目を挑戦しています。  出来ると思ているが手を出さないのが二つあって、そば打ちと陶器作りです。  はまったら大変なことになると思っています。  舞台、芝居だけだとストレスが溜まってしまうので、僕の中ではバランスがとれています。 遊びは真剣にやるから、遊びをする時には全部忘れる。  歳を重ねると山に対しては畏敬の念を抱く様になります。 (特に富士山など)  やりたいと思う事が有ったらとりあえずやってみる。  駄目ならやめればいい。  今が一番若いから、富士山を逆にしたように、これから末広がりでいろんなことが出来ると思う。




















2025年10月4日土曜日

吉田憲司(国立民族学博物館 前館長)    ・世界の人びとの暮らしと文化をつなぐ ~“みんぱく”創設50周年

 吉田憲司(国立民族学博物館 前館長) ・世界の人びとの暮らしと文化をつなぐ ~“みんぱく”創設50周年

国立民族学博物館は去年創立50周年を迎えました。 文化人類学、民俗学とその関連分野で大学との共同利用機関として1974年に創設されました。  所蔵する研究者は世界各地でフィールドワークを続けていて、世界の人々の暮らしや文化を調査研究して半世紀に渡って、その成果を発信してきました。 アフリカの仮面やアマゾンの生き物文化など博物館で紹介されるさまざまな展示は世界を知る入口になっています。 民博の成り立ちや役割など国立民族学博物館の前館長の吉田憲司さんに伺いました。

国際的に見てもユニークな研究機関であって、博物館を用いる大学院教育も準備している研究機関です。 現在大学の研究者は専任で54名います。  それぞれが世界各地でフィールドワークに従事している。  展示、コレクションの世界では・・?をカバーしている点では世界唯一の存在ことになります。  50年間で世界各地から収集してきた標本資料は34万6000点を越えました。  20世紀後半以降に築かれた民族誌(民族の生活様具に関する)としては世界最大の規模のものです。  世界最大の民俗学博物館になっています。

国立大学設置法の改正法で、民博を作るという法律が国会を通て施行された日が1974年6月7日でそれが創設の日になります。  準備室が出来て万博の敷地内に博物館の建物を建てました。 公開したのが1977年です。(開館記念日)  創設室の中心になったのが、文化人類学者の梅棹 忠夫さんです。  民博を世界第一級の博物館に、研究自体も常に先端であれ、といつも研究者に叱咤激励していました。  又フィ-ルドワークを大切にする一方で、いろんな文化、文芸を俯瞰する見方を常に持っておけと、言っていました。

太陽の塔の地下に世界中のいろんな民族が生み出した生活用具約2500点が展示されました。  そこで岡本は人間存在の多様さ、共に生きている共感を謳いあげようと述べている。基本的な考え方、態度を今も我々は継承していて、重要な言葉だと思っています。  万博から民博へと言う大きな繋がりがあると思います。 

アフリカの仮面研究の大一人者、『仮面の森:アフリカ、チャワ社会における仮面結社、憑霊、邪術』などの著書があります。(吉田憲司) 私が大学に入ったのは1975年(民博創設の翌年)  探検部に入って人類学の真似事のフィールドワークを国内で始めました。 梅棹 忠夫さんが探検部の顧問でした。  チャワで2年間フィールドワークをして、その後民博に移ったのが1988年です。  はじめての展示を私が担当しました。  仮面の文化をアフリカ、そして世界に広げていきました。  仮面結社、仮面を被れるのが特定の人間に限られ、多くの場合は男性だけで構成される。  チャワでは13,4歳になると仮面をかぶって舞踊を行うグループに参加するようになる。(「成人儀礼も兼ねている。)  一定の試練を与えて、チャワではむち打ちで、子供の魂を追い出して、大人の魂を吹き込む。 見聞きする事はメンバー以外には秘密にする、そういった秘密結社です。  結婚して妻と一緒に現地に行って1年間は何も教えてもらえませんでした。  その後現地の子供と一緒に儀礼をうけてメンバーになることが出来ました。  その後はほぼ毎年チャワに行っています。(フィールドワーク)  1年経っても何も教えてもらえなかった時には追い詰められた感じがしました。 妻も女性の結社に入ることが出来て、女性の儀礼のことは妻が調べてくれました。 女性は誕生、出産に関する事、男性は死、葬儀に関する事を秘密にしている。 二つが一セットになっていることが判りました。 (生命の循環)    

仮面は現地で作ったものを元にして、帰ってから日本で作ってそれを展示しています。 女性が成人儀礼の時に動物の粘土像を作るんですが、長老のおばあちゃんに作ってもらったものの福祉を日本で作って、チャワに関しては一つのコーナーを作りました。 仮面儀礼の重要な儀式は基本的には夜おこなわれます。 衣装は黒い布で現場を再現するようにしました。 現場の再現にはこだわりました。  

人類学は基本的には現在学です。 現地の人に来てもらって、民博の所蔵品を観てもらってコメントをデータベースに入れてゆく。  一つ一つの物に対する記憶、知識、経験とか語ってもらって文字或いは映像にしてデータベースに取り込んで行く。 世界のいろんな地域をカバーしてゆく、データベース作りを続けています。  人類の貯蔵庫、そして現地の人も使って自分たちの新しい次の時代を作ってゆく作業の素材を集めてている場所になってきています。異文化の理解が時間的にも深くなる、そう言う効果があります。  

万博では命と言うものをもう一度見直して、未来に向けた命の在り方を一緒に考えるような、構想するような、そういう場にできないだろうか、あるいはそういう場にしないともったいないと思っています。  人間中心的な生命観を脱して、すべての生命圏全体を包含するような生態系と言うものを全部視野に納めるような、そういう命についての見方、生命観を世界で共有できる貴重な機会になるのではないかと思います。 最大のレガシーになるのではないかと言う気がします。 









































2025年10月3日金曜日

吉屋敬(画家・作家)           ・ゴッホの祈りを見つめ続けて

 吉屋敬(画家・作家)           ・ゴッホの祈りを見つめ続けて

今年はゴッホイヤーとも言われるほど多くの作品が全国各地を巡回します。  現在上野にある東京都美術館ではゴッホ展「家族がつないだ画家の夢」が開かれています。  肖像画、風景画、書簡などが展示されて多くのゴッホファンでにぎわっています。  長年ゴッホの研究を続けてきた画家で作家の吉屋敬さん(80歳)のお話です。  吉屋さんは小学4年生の時にゴッホの絵を見て感銘を受け、画家を志すようになりました。 一方で吉屋さんの叔母は大正から昭和にかけて活躍した小説家の吉屋信子で、幼いころから信子のような自立した女性像を目指して、文学少女として成長しました。  絵画制作と文筆活動を並行しながら大学在学中に、ゴッホの故郷であるオランダに留学、そこからゴッホの足跡をたどる取材を続け、ゴッホにまつわる本の出版や講演などに携わって来ました。  今年1月にはゴッホの精神と生きざまに焦点を当てた著書「ゴッホ 麦畑の秘密」を刊行し、絵を描くことで人々の幸せを祈ってきた新たなゴッホ像を打ち出しました。 

今年は大きなゴッホ展が二つ来ます。  東京都美術館ではゴッホ展「家族がつないだ画家の夢」が開催され、ファン・ゴッホ美術館から30点が来ています。  もう一つは神戸で9月20日から始まります。  その後2月から福島の県立美術館に移ります。  神戸、福島は大震災で被害を被ったところで、慰霊を込めて凄い量の作品が巡回します。 

家の近くの絵画教室に通っていました。  小学4年生の時に先生からゴッホの絵の本を見せてもらって、吃驚しました。  それから絵を描いてみたいと思うようになりました。  中学の頃に国語の先生が作文を凄く褒めてくれて作文を一生懸命に書く様になりました。  高校で卒業するときには絵か、文学に進むか迷っていました。 絵の方の文化学院に行きました。 オランダへの伝手があってオランダに行くことになりました。(絵画留学)  父の3つしたが吉屋信子でした。  父は信子の自立する生き方に共感していて、留学には賛成しました。 学長の方と面接をして、いつでも入りなさいという事になりました。   色彩学とかいろいろ理論があってそれにはついていけませんでした。 別の学校を紹介して貰いました。 (国際色豊かな学校で共通語が英語だった。)  居心地が良くてその学校に7年いました。 

女王の肖像画を描く25人の中に選ばれて、私以外は全部オランダ人でした。  行ったら女王が私に微笑みかけて腕を取って宮殿内を全部案内してくれました。  その絵の展覧会があって、その後絵の活動が始まりました。  日本に帰って来て展覧会もするようになりました。  30年経った時に、私にしか出来ないゴッホを何とか作り出そうと思いました。 (50歳) 一生懸命にゴッホの足跡をたどるようになりました。   隔月の雑誌にゴッホの紀行文を書くことになり、5年ほど書きました。  とんでもない僻地まで行ってゴッホの足跡をたどりました。  2000枚ぐらいになり、日本に帰ってきた時に、「青空の憂鬱」(2005年)を出版しました。 (2000枚を250枚ぐらいに縮める。)  

それからも20年ぐらいゴッホの取材を続けていました。  ゴッホが絵描きになって、ハーグで暮らしていたころ、娼婦を囲って家族のまねごとをしていたんですが、弟のテオとかに顰蹙を買って、彼女を捨ててドレンテと言うところに行きます。(僻地)  彼が滞在していた宿屋が残っていましたが、そこが壊されるという事が新聞に載っていました。(1990年ごろ)  これは大変だと思って、300km離れていましたが、3,4回行きました。 保存協会が出来て保存することになり、保存の状態を事細かに取材する事が出来ました。  

今年1月にはゴッホの精神と生きざまに焦点を当てた著書「ゴッホ 麦畑の秘密」を刊行しました。  絵描きにとって何が幸せかと言うと、自分の描いた絵が後世にまで評価され、大きな影響を人々に与えるという事だと思います。  その意味ではゴッホほど幸せな画家はいなかった、という事を言いたかった。  絵を描いた期間は10年でしたが、経済的に飢えさせないようにテオと言う弟がいたんです。  お金だけではなくて、ゴッホの絵が必ず後世に残る絵だという事をテオは認めていました。  ゴッホが悲劇の画家だという事は辞めて欲しいと思います。  

人間ゴッホを書きたかった。  ゴッホは若い頃から、貧しい人、虐げられた人、そういった人たちをどうやって救うか、それだけです。  彼は牧師になろうと思って失敗した人です。 宗教はまやかしであるという事にある時悟ったわけです。  自分は何をしたら人を救う、幸せにすることが出来るか、それが彼の一生の課題になりました。  そのために苦しんだんです。  最後に行きついたのは「それでも神はいる。」と言うんです。  「自然の中から神が語りかけてくる。」と言っている。 牧師が言っている神とゴッホが言っている神とは違うものだと思います。  彼の絵に自然に表れている。  何かを通して一緒にいる人たちを幸せにする(大げさかもしれないが)、彼の思想が残っている、大したものです。  ゴッホは自分の絵を通して何を伝えたかったのか、これだと思います。  ゴッホに出会えたことは、運命的でもありラッキーだと思います。  彼は「人々への愛」、と言うことを凄く言っています。 人の役に立つという事を一つの自分の思想としているわけです。






















2025年10月1日水曜日

直川礼緒(民族音楽・民族楽器研究家)   ・世界の“民族楽器・口琴”に魅せられて

直川礼緒(民族音楽・民族楽器研究家)   ・世界の“民族楽器・口琴”に魅せられて 

口琴、世界に広がる民族楽器です。 アイヌの皆さんはムックリと呼んでいます。 直川礼緒さんは金沢生まれの65歳、民族音楽としての活動はおよそ40年になります。 現在は東京音楽大学付属民族音楽研究所の共同研究員を務めています。  直川さんは早稲田大学在学中に北海道でアイヌの皆さんが演奏するこの口琴に出会い、更に数年後インドネシア、バリ島でヤシで出来た口琴に魅せられ、世界の口琴を訪ね歩く様になりました。 直川さんは1990年に日本口琴協会を設立し、数年に一度開催される国際口琴大会に1991年の第二回から参加してきました。 今年10月24日から26日まで東アジアではじめて阿寒湖アイヌコタンで開催される国際口琴実行委員の一人として準備を進めています。 大会には世界30の国と地域から研究者や演奏者が参加します。 直川さんに民族楽器の魅力など、民族楽器ともに歩んできた自らの人生について話を伺います。

これは15cmの竹のへら状のもので、真ん中に振動弁が切り出されている。 紐が付いていて、ひもを引っ張ると音がでます。  これを口にあてて鳴らします。  人間の口は口の形、口腔の容積、の運動、咽喉鼻腔の開閉、息遣いなどを変化させることによって様々な音色を変化させられる。  

ジャズ研に入っていて、1983年に北海道に行った時にムックリと出会いました。 その後インドネシアに行く機会があり、バリ島での芸術祭に出演することになり、私もにわかメンバーになって参加しました。 そこでもたまたま口琴に出会いました。  ムックリとよく似ていて、材料はヤシの木の枝で出来ていました。   ムックリは自然の音と言った感じですが、バリの場合は一人ではやらない。  二人一組で楽器に男女があり、大き目で音の低いのが女性、小さめで音が高いのが男性です。  二つのリズムを組み合わせて一つのリズムを作る。 そこから口琴にはまりました。  

平安時代は本州にもありました。 鉄で出来ていました。  平安時代のものが4本発掘されています。 (大宮の氷川神社の遺跡から2本、同じ埼玉県の羽生の遺跡から1本、千葉県からも1本) 江戸時代も口琴が大流行して、幕府が禁止したという事もありました。 元々はアジアの楽器です。 一番古いものは紀元前20世紀の中国の陝西省で骨製のムックリとよく似たものが発掘されました。 ウラジオストックでも紀元5世紀ごろの鉄の口琴が出ています。 12,3世紀にヨーロッパに伝わったようです。 ヨーロッパ全域で使われるようになった。  大航海時代にアメリカ、太平洋の島々に行って、広がって行った。 サハ共和国では鉄の口琴が国民楽器になっていて盛んです。 普遍的でありながら、同時に民族の個性が出る、そういったところにも魅力があります。 振動源と枠のたった二つの部品しかないが、いい音を出そうと思うと凄い技が必要です。 

1990年に日本口琴協会を作りました。  情報を集めると同時に発信しようと思いました。  口琴ジャーナルという雑誌を作りました。  100人ぐらいいました。(会員制ではない。)  1984年にアメリカ、フレデリック・クレインと言う研究者の発案で世界口琴大会がおこなわれました。 1991年にサハ共和国(土壌は全て永久凍土で、面積の40%は北極圏に含まれる。)で第二回世界口琴大会を開催。 アイヌの方と3人と私も参加しました。  今年北海道の阿寒湖で第10回世界口琴大会を開催することになりました。  入場料はありません。  演奏者、製作者、研究者も来ます。  大会はヨーロッパがそれまでは多かった。今回はアジアの参加者も多いです。 

口琴は自然の音(風、しずくの音、動物の鳴き声などいろいろ)だけではなく、おしゃべりもできる。  メロディーも演奏できる。  心、感情に強く働きかける楽器だと思います。