2026年2月16日月曜日

常磐津文字兵衛(常磐津節三味線方)     ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

 常磐津文字兵衛(常磐津節三味線方)     ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

常磐津文字兵衛さんは東京都出身64歳。 四代目常磐津文字兵衛の長男として生まれ、1996年に5世 常磐津文字兵衛を襲名。 150年以上続く名跡の継承者として、演奏会、歌舞伎の舞台に立つほか、作曲家としても多くの曲を手がけ、西洋楽器とのコラボレーヨンなども積極的に行っています。  長年母校の東京芸術大学で後進の指導にもあたっています。 

今月は「積恋雪関扉」(つもるこいゆきのせきのと)という歌舞伎の演目に出演しています。    「国宝」でも最初の部分に取り上げられました。  1時間半あります。 短いと6分ぐらいのものもあります。  舞踊劇としては一番長い分類です。

ストーリー的には説明が非常に難しい。 一日がかりで上演した長い歌舞伎の最後の一幕です。  長い部分はいつの間にか上演されなくなってしまった。  最後の部分だけが頻繁に上演されるようになった。  関守:中村勘九郎  小町姫、傾城墨染 実は 小町桜の精:中村七之助 良峯少将宗貞:八代目尾上菊五郎 初演は1784年  関兵衛実は大伴黒主…初代中村仲蔵

立て三味線、バンドマスターのような地位。(コンサートマスターを兼ねるようなもの)   常磐津の編成は三味線3人、大夫が4人で舞台の下手又は上手で演奏する。  舞台上に斜めに座っている。  1時間半ぐらいをずっと座っていて演奏する。 

10歳で三味線始めました。  常磐津と言うのは浄瑠璃を語る、セリフのある音楽。 長唄は唄ものの音楽、竹本は義太夫節の歌舞伎版、関西発祥。  常磐津節は江戸です。 清元も常磐津節から70年後にできますがこれも江戸のものです。 設立は1747年 その前に豊後節が一世を風靡した。 宮古路豊後掾と言う人が一代で大スターになった。  豊後節は心中もの、駆け落ちものが多かったために、心中事件、駆け落ち事件が増え幕府から目を付けられ潰されてしまう。  宮古路豊後掾の弟子たちから常磐津が出来て来る。  その後富本節が出来、そこから清元節が出来る。 常磐津節で使っている三味線は中竿三味線です。 長唄は細竿、竹本、義太夫は太竿。

*「乗合船恵方万歳」 常磐津節の代表的演目   

舞台は初春の隅田川。この演目には、女船頭、白酒売り、太夫、才造、通人、大工、芸者の7人の登場人物。 <七福神>の見立てになる。

鳥の鳴き声、動物の鳴き声、楽器(鼓)などを三味線で表現します。 隅田川の情景なども表現します。 

作曲もしてきました。(200曲近く)  父は400曲ぐらい作っていました。 

2019年からはピアノ、フルート、三味線でトリオを結成、海外でデビューしました。(パリ)  年に1度ぐらいは国内外で演奏しています。  洋楽器と比べて三味線は雑音成分が多い。  

日本の音とは、拍子木の音。 








2026年2月13日金曜日

落合恵子(作家・子どもの本の専門店主宰)  ・「“わたし”を生ききる覚悟~前編」

落合恵子(作家・子どもの本の専門店主宰)  ・人生のみちしるべ「“わたし”を生ききる覚悟~前編」 

落合さんは1945年栃木県宇都宮市出身。(81歳)  明治大学文学部英文学科卒業後、昭和41年に文化放送アナウンサーとして入社、人気アナウンサーとして活躍します。   29歳の時に文化放送を退職し、作家として本格的に執筆するようになります。  現在は子供の本の専門店のほかオーガニックレストランなどを東京と大阪で主宰、小説、エッセイ、絵本の翻訳のほか、フェミニズム、人権、平和、環境など社会的なテーマにも取り組んでいます。 落合さんは去年12月「がんと生き切る 悲観にも楽観にも傾かず」と言う本を出版しました。この本は落合さんが2023年にステージ3Aの肺がんと診断されてからの日々、心境や闘病の記録を綴ったものです。 

昔は夜更かししてお日様が登るころに寝ようかなと言う様な状態でしたが、今は朝5時には起きます。  種を蒔いて芽が出て来るのを何十年とワクワクしています。  「がんと生き切る 悲観にも楽観にも傾かず」を出版。  肺がんを公表しました。  ゲラ刷りを病院のベッドでチェックをしていました。 (旅先でチェックをしているように見せかけるためにメールでやっていました。) 周りに告げなかった最大の理由は一人で考えたかった。 自分で答えを出さないと、結果についても責任を持てないと思いました。 選択するか、選択しないか。 自分の渦に誰も巻き込みたくないという思いもありました。  自身の経過、患者と医師との関係などいろいろ悩みました。  医師になかなか全部相談できない自分、あるいは他の患者さんの様子を眼にしてきました。  

最初のページには23年と25年の2枚の写真があり、23年の方には髪の毛が全くありません。(自撮り)  必ず生えてくるからねという事を知って欲しかった。  元気でありたいけれど元気ではない人もいます。  自分も受け入れ、社会も受け入れる柔らかさを持ちたいと思います。  「辛いよ。」と言えるような人間関係と場所とスペースを作りたい。  夢を持つことは人間を元気にしてくれる。  自分の声をちゃんと聞いてあげるという事は他者の声も聞く事になる。 

「病はすべて身体的にも精神的にも個人差があり、あらゆる人に万能な治療法はないのではないかと考えて来たし、今もそう考えている。 ・・・可能な限りこのかけがえのない体験を重ねようと自分と約束した。 それが自分に対する責任の取り方だと思うから。・・・どんなに抵抗しても私は私から逃げることは出来ないのだから。 だから自分が選ぶ!」 ここから話が始まります。 (「がんと生き切る 悲観にも楽観にも傾かず」の冒頭部分。)

一番最初の一番大きな迷いは、治療を受けるか、受けないか。  がんであることはほんの私の一部でしかない。  自分の気持ちを書いておきたいという思いがあって、文章をスケッチブックに書いていました。 10代になって女性週刊誌に載って原稿料を貰って、こんなに入るんだと嬉しくなりました。  母は結婚しないで大好きな人の子(落合恵子)を出産した。  母を介護するようになって、病院の母のベッドの隣に寝ていたある夜、こっちをすっと見て急にニコッと笑って、「あのね、私あなたのお父さんが大好きだったの。 お休み。」と言って、ちょっと泣けちゃいました。  「貴方の人生だからあなたが決めていきなさい、何してもあなたが責任を取ればいい。」と言われました。 病気になった時に独りで考えたいと思ったのも、母からどこかで受け継いできたものかも知れないですね。  

「言葉って何だと思う。  言葉にならない思いがここにあると指さすのが言葉だ。」    長田弘さんの詩の一節。

昨日書いた言葉が、今日は消す場合もある。 人生はやり直しが出来ないと言いますが、言葉はやり直せる部分もあるし、自分がその言葉を内側に受け入れた時は、それを大事に握って行こうと思います。 「闇の中で座っている人は、自分の夢に灯をともしている。」というドイツの女性の詩人の詩があります。 闇の中に座っていても、明るい光を自分の側から生み出すこともできる。   そんな仕事が出来たらどんなにうれしいか。  言葉に出会う人がもっと増えたら、もっと人は人に優しくなれるかなと思いました。  本の活字が誰の気持ちをノックするのか、それも考えたいという気持ちが凄く強かったです。 

レイプ、セクハラ、など言葉にならないと、その事実はないと同じような扱われ方をする。  セクシャリティーに対する差別、年齢に対する差別、いろんな差別があるという事を見直さなければならない。  時代よりも早く作品が生まれて来ています。  嬉しいのは、当時出会った人たちが今でも元気にしていてくれて、いろんなところで出会います。 

2022年に出版した「わたしたち」 女子校で出会った4人の少女の友情とそれぞれの自立した人生が長きにわたって描かれる。 「大事なのは何になるのかではなくて、私が私になってゆく事。」  人は自分として生まれてきている。  自分はこうでありたい、私はこういう道を生きたいと思っている自分に向かって自分を作って行く、その作ってゆく側の一人が自分なんだ。  人生の岐路に立った時に大事にしているものとは、「私が考え、私が感じ、私が決める事。」  「がんと生き切る。 悲観にも楽観にも傾かず。」 

















2026年2月10日火曜日

長南宰司(元海上保安庁特殊救難隊隊員)   ・「海難救助“最後の砦”~海上保安庁特殊救難隊にかけた人生」

 長南宰司(元海上保安庁特殊救難隊隊員)   ・「海難救助“最後の砦”~海上保安庁特殊救難隊にかけた人生」

海上保安庁特殊救難隊、海難事故が発生すると現場に向かい、時には命がけで救助を行うエキスパート集団です。 「海猿」と言うタイトルで漫画やテレビドラマ、映画のモデルにもなりました。 結成から数々の困難な海難事故で、救助活動を行って来た初代隊員長南宰司さんに、半世紀に及ぶ特殊救難隊の歩みと長南さんの波乱万丈の人生を伺います。

今では年齢70歳を越えて俊敏さは少しなくなってきていますが、身長180cmの大柄で背筋もしっかり伸びていて、色黒の鋭いまなざしは変わっていない印象です。

海上保安庁特殊救難隊は通称「特救隊」とも呼ばれています。  現在隊員は41人、およそ1万5000人いる全国の海上保安官のうち、僅か0,3%という極めて狭き門です。   日々厳しい訓練を行い、卓越した身体能力と潜水技術に加えて、高い精神力と判断力を兼ね備えています。 活動エリアは全国の海です。  活動拠点である東京羽田の特殊救難基地から全国に緊急派遣されて、船が沈没した海に潜ったり、ヘリコプターから難破船に降下したりして、人命救助に当たります。  活動する現場は荒れ狂う海や沈没船の船内など、普通なら近づくことも難しい非常に厳しい環境ばかりです。  危険と隣り合わせながら50年間で殉職者がゼロという驚きの記録もあります。

殉職者がゼロというのは、訓練の賜物と思っています。  訓練も厳しく、素潜りでもブラックアウト(気絶するまで)になるまでやっています。 自分の限界を知るという事です。    1975年に発足、そのきっかけは 前年に東京湾で起きた大型ケミカルタンカー「第十雄洋丸」と貨物船「パシフィック・アレス号」の衝突炎上事故です。 (第十雄洋丸事件) 33人が死亡する大災害でしたが、炎上しながら漂流するタンカーを前に当時の海上保安庁はなすすべがなく、最後は自衛隊の砲撃と爆撃で海に沈めるしかありませんでした。 

私も対応に当たっていました。 「第十雄洋丸」は燃え盛っていて、凄い熱さを感じました。  300m離れても熱さを感じました。  貨物船「パシフィック・アレス号」は衝突した時にナフサを被って、全体が一瞬にして燃えました。  一人だけがコントロールルームの中にいて助かった。 その人以外は焼死です。  どんな手段で助けられるのだろうかと考えました。これをきっかけに特殊救難隊が発足しました。  最初に潜水技術に優れた5人が選ばれました。(事故を体験したのは私だけでした。)   隊長は北岡洋志さんでした。 潜水の教官でした。 「愛を持って仕事をしろ。」と言っていました。

最初は建物の壁、屋上を利用して訓練をしました。  ヘリコプターで行って、海岸に降下するやり方は、特殊救難隊が初めて実現させた手法です。  転覆して逆様になった船に生存している人の救助。(一昨年の11月神戸港沖合での転覆事故の生存者の救出の活動の様子 成功例)  成功した時の喜びはあります。  他の国では転覆するとその時点で諦めて、そういった救助隊は無いです。  北岡さんの「愛」が神戸港沖合での転覆事故での隊長にも引き継がれています。 

伊豆半島の石廊崎沖の漁船の転覆事故、乗組員がゴムボートで脱出、漂流する。 ヘリコプターで救助せよとの連絡が入る。  救助対象は4人で、ヘリコプターの乗せる定員は3人でした。  夕暮れで時間もないなか、決断をしたのは、私がゴムボートに残ることを決断しました。  シュノーケル、フィン、ウエットスーツ等泳げる道具は持参しました。  断崖絶壁に向かう様であれば脱出しようと思っていました。  長距離水泳訓練とか、滝つぼの中に漁網を設置してその中から脱出する訓練とか夜間での訓練とか過酷な条件下で訓練をしています。実際にゴムボートに向かって行ったら3人でした。  一人の人が「助かった。」と泣きついてきました。 (感動しました。)  

私は宮城県塩釜市の寒風沢島の出身で、子供のころは海が遊び場でした。 遊んでいて、大人の人たちに何度も助けてもらいました。  転覆船が沈むとか沈みそうにないという事を直感的に判ります。(子供の頃の経験)  

40年間の保安官の最後の任務地が故郷の宮城県の巡視船「蔵王」の船長でした。  退職を間近に控えて3月11日の東日本大震災が起きました。  いかりを入れてあったので「蔵王」は助かりました。  いかりを入れていなかった船は津波で流されたり座礁したりしました。 「蔵王」に乗り込み捜索をするんですが、悲惨な光景ですが、登って来る全く変わらず太陽は綺麗に輝いているんです。  遺体の捜索が毎日続きました。 「遺体を見つけて、そのご遺族の心も救うんだ。」と、隊員に言いました。  「判りました。」と言って出てゆきました。

当時の隊員は私の退官後も遺体の捜索を続け、心が折れそうになった時に、言葉を思い起こしたそうです。  幹部になった人もいて、その言葉を後輩に伝えているそうです。 

特殊救難隊の創設から半世紀が経ち、第三管区保安本部赤松本部長からのメッセージ、特殊救難隊を指揮する羽田特殊救難隊基地の岡基地長からのメッセージがあります。

「救える命は必ず救う。  どのような状況であっても我々は最後まであきらめないことを誓い、皆さま方からの激励と特殊救難隊の使命と誇りを胸に国民の期待に応えられるよう、これからも前進してまいります。」

「出動記録」 教訓のような資料になっている。 成功例よりも失敗例への向き合い方。

「夢と感動と情熱」という事を隊員には言ってきました。










2026年2月8日日曜日

村上佳菜子(プロフィギュアスケーター)   ・師匠「山田満知子を語る」

村上佳菜子(プロフィギュアスケーター)   ・師匠「山田満知子を語る」 

グランプリファイナルや四大陸選手権、オリンピックでの華麗な演技で多くのファンを魅了した村上さんは数多くの名選手を育てた山田満知子コーチの教え子です。  どんな師弟関係だったんでしょうか。 

2017年4月に引退。 

山田満知子さんは1943年名古屋市生まれ。 父の勧めでスケートを始めたのは小学1年生(7歳)の時、めきめきと頭角を表し、全日本女子ジュニア、インタハイで優勝を重ねます。  地元の金城学院大学家政学部進学後、現役を退きますが愛知県スケート連盟の要請で、コーチとしてリンクに復活、子供たちを指導しました。 世界ではじめてトリプルアクセルに成功した伊藤みどりさんと出会ったのは1974年、当時まだ5歳だった伊藤みどりさんの才能を見抜いた山田コーチは、伊藤みどりさんを自宅に引き取り、二人三脚で練習を重ねた結果、1992年のアルベールビルオリンピックで伊藤選手は銀メダルを獲得、名コーチの山田満知子さんの名前も世界で知られるようになりました。 その後も中野友加里さん、浅田真央さん、宇野昌磨さん、村上佳菜子さんと名だたるスケーターを世に送り出した山田コーチ、およそ65年に及ぶ指導歴で教え子が数百人にのぼります。

私は3歳からスケートを習い始めて、山田コーチから教わったのは自分でも記憶がないです。山田門下生は母親と一緒に育てて行ったと言って過言ではないと思います。  山田コーチはその人を見極めて指導の仕方がそれぞれ違っていました。  リンク以外でも、人としてどうあるべきかと言ったことを教えてもらいました。  先生の家に行くという事はかなり頻繁にありました。 旅行にも一緒にいくこともありました。 ジュニア時代は先生の家から練習に行くことも多かったです。

小学校6年生の頃には3回転アクセルを習得、13歳で競技に本格参戦、2009年15歳の時にジュニアグランプリファイナルで優勝、シニアに転向した2010年から2011年でグランプリシリーズのアメリカ杯で優勝し、グランプリファイナルでは銅メダルを獲得しました。  試合直前に自信が無くて不安だったんですが、「なんで不安なの。 私は自信があるよ。」と言ってくれたんです。  先生が自信があるなら大丈夫だと思って、緊張と不安が飛んでいき、凄くいい演技が出来ました。  

2013年全日本選手権で2位、2014年の年四大陸選手権では金メダル、ソチでオリンピック初出場、12位だった。  オリンピックでは1日30分程度の練習時間しかなくて、1日6時間練習するタイプだったので、身体がうまく作っていけなかった。 でもいい経験でした。  もうそろそろ引退したほうがいいかもしれないと言われましたが、まだやれそうな気がしたので先生に頭を下げて続けることにしました。

シニアでは音楽の選び方は、アメリカにも行っていたので、アメリカの先生が何曲か出してくれたなかから、満知子先生と一緒に選びました。  ソチオリンピックの時には、曲選びは悩みました。  1年間選んだ曲で練習するので大事な事です。  ソチオリンピックの前の全日本選手権で2週間前にショートプログラムの曲を合わなくて変え、振り付けも変えて、2週間で3か月分練習するぐらい練習して、オリンピック参加を勝ち取ることが出来ました。

2018年のピョンチャン(平昌)オリンピックへ出場するモチベ―ションはなかったです。2017年4月に引退発表しました。  第85回全日本フィギュアスケート選手権において8位となって、「スケート人生の全てを出せました」として引退を示唆。 引退の時には先生は「よく頑張った。」と言ってくれました。

今迄生演奏を聞いててこなかったので、なんで聞いてこなかったんだろうと思うぐらい、後悔しました。  音楽会が始まってスケートのファンの方も来てくれます。 相乗効果でクラシック界とフィギュアスケート界が盛り上がって行ってくれればいいと思います。 先生からは「愛されるスケーターになりなさい。」と言われたことが今も心にしまっています。

山田満知子先生への手紙

「・・・本当にたっぷり愛を与えてくれてありがとうございます。 ・・・先生の愛を当たり前のようにとらえていたのかもしれません。・・・少しづつ大人になって時の経過によって、心も体も変化して行く中でどの瞬間を切り取って思い返しても、私のすべてに先生がいてくれています。 ・・・一緒にいてくれたから沢山のことを乗り越えられたと思います。 そんな先生がいてくれたから今の私があると思います。・・・本当に感謝しています、先生。・・・」










2026年2月6日金曜日

岩室純子(DJ)              ・「91歳 DJスミロックの挑戦」

岩室純子(DJ)              ・「91歳 DJスミロックの挑戦」

岩室さんは1935年東京都生まれ。(91歳)  5年前に脳出血を乗り越えて、今なお現役で活躍しています。 DJはラジオなどで音楽を選曲操作する人のことを指しますが、岩室さんは若者が集う音楽イベントで、クラブDJとして活躍しています。  2つの曲を同時に聞き分けて、曲の切れ目がわからないよう専用の機器を使って、早さやリズムを調整して音楽を繋げるスペシャリストです。 DJとしての活動名は「スミロック」、本名純子さんのスミと岩室の岩(ロック)をかけて「スミロック」と名付けています。 77歳から始めたDJ活動の経緯とはどんなことだったのでしょうか。 国際豊かな友人関係、大病を乗り越えた現在の夢などを伺いました。 

食事などで一番若い友達は私の年齢の1/4ぐらいです。 ファンの方です。 最初はイベントの手伝いをしていました。  手伝いもなくなり、イベントを観るようになり、新しい音楽を聴く様になりました。  或る日居候だったアドリアンさん(フランス人 21歳)からDJをやってみないかと誘われました。(60何歳)  フランス人の人とは英語でやり取りしています。  DJの学校に入ることになりました。(77歳)  同時に2曲を聞き分けて、違和感なくつなげることはハードルが高そうですが、 いろいろ簡単になってきているのがあります。  自宅に機械があります。  

DJの面白さは私がかけた曲で踊って頂けることです。  戦争中に蓄音機に座布団をかけて音が漏れないようにしてジャズを聴いて居たりしました。(父と二人で)  父はジャズドラマーでした。  戦争が終わってプロダクションをやっていました。  子供のころはおとなしくていう事を聞くいい子でした。 弟が2人いるので面倒を見ました。  父が1954年に高田馬場で飲食店を始めたことで、働くことになりました。  英語を習ったり他にもいろいろ習ったりして好奇心はありました。  外国の友達もできました。  飲食店の方を66年6か月やりました  DJは終わってからやって来ました。  DJの出番も2時とか、2時半とかで、ラジオ深夜便では店でうろうろしています。  

結婚はしたくなかったが、付き合っている人と後に結婚することになりました。 子供がいなかったので自由に出来ました。 ノリのいい踊りたくなるような曲を主に選曲します。 2021年に病気になって1か月半入院しました。 脳溢血が見つかってすぐ入院して治療して(点滴)、写真では大きな血の塊もありましたが、手足も大丈夫だし脳の働きも弱っていないので、1か月半リハビリして退院出来ました。 (買い物に行って小銭を掴むのにちょっとおかしいので、病院に行きました。)

いくら考えてもなる様にしかならない。  DJの復帰をしました。  病気後、週に2回程度ジャズ喫茶で音楽を聴くのが、私の脳味噌を綺麗にしてくれて良かったです。  オファーが有ったらそつなくやりたいです。  






 

2026年2月5日木曜日

大野裕(国立精神神経医療研究センター顧問) ・「悩みとうまくつき合うヒントとは」

大野裕(精神科医・国立精神神経医療研究センター顧問) ・「悩みとうまくつき合うヒントとは」 

大野さんは1950年生まれ。(76歳) 慶応大学教授、国立精神・神経医療研究センター認知行動療法センター所長などを務め、専門の認知行動についての研究と臨床を続けて、長年取り組んできました。 大野さんはこれまで一貫して、人の心と真摯に向き合い続けてきた精神科医です。 そうした歩みの中で、人間にとって悩むことはとても大切な事、実は私自身もずっと悩み続けてきましたと語っています。  今日は大野さんの半生をたどりながら、悩みとどう向き合えばよいのか、そのヒントを伺います。

或る程度悩みと言うのはブレーキだと思います。 悩んでちょっとブレーキをかけて、周りを見ながら進んで行くというのが必要です。  ブレーキをかけすぎると進めなくなってしまうし、ブレーキを掛けないと突き進んでしまう。  「病気」と言う言葉を使う事が良くないと思います。  うつ病に原因がはっきりしているかと言うとわかってはいない。  生まれてからずーっとその人の人生を追跡してゆくという研究がようやく最近発表されました。 1970年代にニュージーランドのダミーデンで1000人余りの人をずーっと追跡していきました。 45歳までに86%の人が精神疾患と言う状態になった。  20歳ぐらいまでの若い人が多い。 医療機関に行った人はそんなに多くなかった。  

認知行動療法、悩みを解決するように手助けする事です。  悩みを解決するのは自分です。 ぬかるみから抜け出すためにどんな手立てがあるのかと考えれば、抜け出せる手立てが見えてくる。  やれば先に進める。  落ち込むという事は何か大事なものをなくしたとか、失敗したという時に落ち込むわけです。  これはちょっと立ち止まれと言うメッセージです。 さあどうしようかなという考える時間が必要なんです。  ネガティブは次の行動に繋がるきっかけになってくるわけです。 

私は愛媛県の山奥の出身です。 学校に行くのに、松山に出て下宿生活を始めました。  夜になると真っ暗になり涙が出て来て、なんでこういう辛いことをさせるのかと、親にも酷いことを言いました。 勉強もできなくなり、勉強しようとしなくなり、本当に勉強が出来なくりました。(中学)  高校1年の時に落第しました。  二度目なので少し授業がわかるんです。(意外と馬鹿ではないかもしれないと思う。)  そうすると勉強するようになってくる。   親がやる気があるのかといってきた時に、「有る。」と言ったんです、そうしたら親が何も言わなくなってきました。 (それまでは何で勉強しないのかとうるさかった。)  

優しくするとか、支えるという事は、手を出すという事もあるが、遠くから見守る優しさとかいろいろなものがあるんだなと思います。  父親は歯医者をしていて、不器用だったので医者になろうと思いました。  いろいろな大学を受けましたが、全部落ち続けました。 親は何も言わないので自分でやるしかない。  浪人して、予備校に行って仕送りがなくなったら2,3日食べなかったこともあります。  4回目の挑戦で慶應義塾大学医学部に入りました。 

小学校から高等学校までいろいろな人とのつながりの中で生きてきました。  その間周りから助けてもらいました。  人の気持ちを助けることも、人が出来る事なんだと、それが精神医学なんだという事を感じていました。 卒業後5,6年経った時に、コーネル大学の人たちが来て、来ないかと言う話があり行くことにしました。 しかし、言葉が判らない。 いろいろ交流の仕方があるんだという事は学びました。  アーロン・ベックと言う認知行動療法を作った人で、その先生からも学びました。  学会でしゃべっても人気が無く出て行ってしまう人もいて、帰ってから娘の前でも同じようにしゃべって、娘から「お父さん、いい発表ね。」と言われていて、アーロン・ベックさんからはその話を何回も聞かされました。 (繋がり)

アレン・フランシス先生からは、その人に合った治療をした方がいいという事を学びました。精神科鑑別治療学、治療があってその人がいるのではなくて、その人に合わせて治療を考えてゆくという事です。  その為にいろんな治療法を勉強しろという事が、私が習った事です。  非常に臨床的なことを学びました。  受け止める優しさ、自分でやれと言う優しさと、これが必要なんだと思います。  会話で大事なことは共感をして、一緒に現実をみて、それを自分が自分で出来なくさせている、一人の自分がもう一人の自分にどんな声掛けをしているにかと言う事を考える、これを自動思考と言われる認知行動療法の肝心なところで、自分に対する声掛けが極端になってしまうと、辛くなってくる。 

悩みに気付いてデジタルの力を借りながら整理してゆく。  疲れている時には自分の力だけでは難しいので、それをサポートするような仕組みがひとつだと思います。 相槌だけ打ってくれるフローを作って見ました。  東京都のホームページのものを解析してみると、4割近くの人が相槌を使っています。  寄り添って、聞いてもらえることが大事なんです。      自動的に出来る部分と人が介在する部分との組み合わせが上手くできればいいなあと思います。  死にたいと思って考えた人は1~2割はいます。  相談相手がいないというような時に、「宛名のない手紙」と言うものを作りました。  好きなものを好きなように投稿する。  辛い、死にたいという事を投稿する。  投稿することで居場所が出来たという感覚を持つ方が結構います。  そういったことでころで孤立を防げればいいんじゃないかと思います。

一方的に吐き出しているというよりは、書いている人の心の中に、これを読んで欲しいという気持ちがあると思います。  そこに双方向の背景があるのではないかと思います。 私は繋がりに支えられて頑張ってきました。  「遠回りだって僕の道」と書いてあったのを眼にしまた。  写真に撮ってスライドにして使っています。











2026年2月3日火曜日

渡辺俊幸(作曲家・音楽プロデューサー)   ・「新たな音楽の道、オペラに託して」

渡辺俊幸(作曲家・音楽プロデューサー)   ・「新たな音楽の道、オペラに託して」

 渡辺俊幸さん(70歳)は大河ドラマ「利家とまつ」「毛利元就」など多くのドラマ音楽や映画音楽、アニメ音楽などを手掛けてこられましたが、4年前からオペラの作曲に挑戦し始めました。その3回目となるオペラの公演が来月に控えています。  学生の頃にバンドのドラム、キーボード担当してデビューした渡辺さんが、作曲の道に入り今新たな音楽への探求として、オペラに挑戦しようと思ったのは何故か、シンガーソングライターのさだまさしさんとの出会い、そして作曲家である父渡辺宙明さんとの関係などについて伺いました。

今回のオペラは三浦環さんを題材にした作品です。  三浦さんは明治17年生まれで、ヨーロッパ、アメリカ、日本を含めて延べ2000回以上ジャコモ・プッチーニの作曲した「蝶々夫人」の主役を務めて、偉大なる歌手、偉大なるオペラシンガーです。 明治時代に世界で活躍できた超天才だったんだろうなあと思います。  東京音楽大学で助教授迄なって、その後にヨーロッパに渡って、プリマドンナとして活躍した人です。 

渡邊さんは大学に入学と同時にフォークグループ「赤い鳥」のドラマー、キーボード担当としてプロ活動を開始します。 その後さだまさしさんの「グレープ」をサポートしつつ、ソロになったさだまさしさんの専属音楽プロデューサー、編曲家を務めてきました。 1979年にはアメリカに留学し、バークリー音楽大学でクラシック、ジャズの最新の作曲、編曲技法を学びます。 帰国してから様々な音楽の作曲を手掛けるようになります。 

小学校4年生ぐらいからドラマーになりたくてドラムの練習を始めました。  高校生ぐらいから作品の編曲にも興味が出て来ました。  「赤い鳥」に入った時に活動しながら、キーボードを弾きながら編曲したほうが自分にふさわしいのではないかと考えが変わって来ました。演奏の部分は転換していきました。  自分のやりたい音楽はハードなロックよりもおしゃれなハーモニーを使ったポップスをやりたいと言う指向になっていきました。 自然にドラムには興味を持たなくなった。 

「赤い鳥」が解散して、サポートミュージシャンをやろうと思って、バンドを作ってサポートをしていました。 「グレープ」の解散コンサートでご一緒することになりました。 さだまさしさんから解散後に一緒にやらないかと声がかかりました。  彼の才能を考えると、絶対に一人でやった方がいいと薦めました。  ツアーなど4年間彼と一緒にやって来ました。   彼のトークは本当に人を喜ばせたいという思いから来ているんですね。 人を幸せにするという事は何よりも音楽の大切さなんだという事を私自身も考えて生きてきて、実践しているつもりです。 

アメリカで「未知との遭遇」と言う映画を見て、音楽担当のジョン・ウイリアムスに魅了されて、管弦楽のスタイルの音楽を書けるようになりたいと思いました。  これをやるのには独学では難しいと思って、アメリカ留学を決意しました。(24歳) さだまさしさんとの出会いがあって今があると思っています。 バークリー音楽大学に留学しました。

そこにはボストン交響楽団があり、その時の音楽担当が小澤征爾さんでした。  ホテルに着いた日にテレビをつけたら小澤征爾さんが指揮をしていて、イブニングシンフォニーと言う番組でした。 翌日デパートに行ったらある女性が、見知らぬ僕にイブニングシンフォニーを見たかと問い合わせて来て、「昨日の小澤征爾は素晴らしかったですね。」と言うんです。   小澤征爾さんはこちらでも愛されている人なんだと、驚かされました。  クラシック音楽を聴いてみようという思いになりました。 その後小澤征爾さんの指揮によるボストン交響楽団の演奏を生で聞くという体験し、凄く感動をしました。  3年間、ジャズを含めてクラシック、映画のための作曲技法も勉強しました。   

日本に戻って来て、1983年にロボットアニメ「銀河漂流バイファム」をやりました。   初めての体験なので、父に相談しました。  (2022年に92歳で亡くなる。)      父の仕事の内容には余り以前は興味を持っていませんでした。  父のやっていた劇中伴奏音楽をいざやってみると難しいので相談しました。  2018年に公開された劇場版「マジンガーZ / INFINITY」 父が作曲したものを私が編曲しました。  スピード感あふれるものにしたいと思いました。 

*「マジンガーz」 作曲:渡辺宙明

*「マジンガーZ / INFINITY」」  作曲:渡辺宙明 編曲:渡辺俊幸

子供向けの映画の音楽を父が最初に手がけた時には、なんだ子供向けかと思ったそうですが、心血注いで作って偉大さを感じます。  父がやってきた音楽人生は素晴らしかったし、私とは全く違った音楽の世界観でしたが、人の心を打つ作品はどういったものか、考えてきちっと実を結ばせたと思います。 

オペラの作品を書き上げるのには、物凄く重労働で、時間が掛かります。 台本のセリフ全部にメロディーをつけなければいけない。  セリフがおかしくない様なイントネーションになりながら旋律を考えないといけない。  劇中伴奏音楽は監督の要求あって、それに答えようとするものですが、オペラは作曲家のもので、自由に作曲できる。  それが大きい魅力です。











2026年2月2日月曜日

鈴木俊貴(東京大学・動物言語学分野 准教授)・「動物たちも“言語”を使い話す!」

 鈴木俊貴(東京大学先端科学技術研究センター・動物言語学分野 准教授)・「動物たちも“言語”を使い話す!」

鈴木俊貴さん(42歳)は日本における動物言語学のパイオニアです。 高校生の時に野鳥の観察にはまって、大学時代に軽井沢の探鳥林でコガラが、ある特定な鳴き声で餌のあるところに集まっている姿と出会いました。 その後東大大学院に進み、林に巣箱を設置して行動と鳴き声を分析、シジュウカラの鳥もいくつか突き止めました。  さらに鈴木さんはシジュウカラが言葉を繋げて、いわば文章を伝えることも発見、鈴木さんはスウェーデンで開かれた国際行動生態学会で基調講演を行い世界から高い評価を得ました。  鈴木さんは研究の裏話をまとめた「僕には鳥の言葉がわかる」と題した本を執筆、全国の書店員が選ぶ2025年ノンフィクション大賞に選ばれました。  そして今、多くの動物たちが言語を持つ可能性を研究する動言語学を提唱しています。 鈴木さんに鳥の言葉発見の課程と、様々な工夫、そして動物言語学への夢などの話を伺いました。

「僕には鳥の言葉がわかる」の本の最初に企画を頂いたのは2018年5月でした。  実際に書き始めたのは2024年春でした。  2025年1月に出版しました。  小さいころから生き物の観察が大好きでした。  1歳5か月で公園で虫取りをしている写真がありました。  生まれは東京ですが、茨木に引っ越して自然豊かなところで育ったのが、僕にとって大きな経験になりました。  コガネグモ(大型の蜘蛛)の巣にカブトムシが引っかかって食べられてしまったことを観察しました。 図鑑にはカブトムシは森の王者と書いてあったが、喰われていて、図鑑に書き加えたらいいと母から言われました。 以後気付いたことを図鑑に書き込むようになりました。  

鳥の観察をしたくて、小遣いをコツコツ貯めてようやく双眼鏡を買えたのが高校生のころでした。  バードウオッチングにどんどんはまっていきました。  小学生の時には動物学者になりたいと思っていましたが、高校生3年になると大学に行って鳥の研究をやりたいと思いました。  長谷川博先生はアホウドリを絶滅の危機から救った人です。 その先生に憧れて東邦大学理学部生物学科入学しました。  大学3年生時の卒業論文のテーマを探しに軽井沢を訪れ、シジュウカラに出会いました。  どこにでもいる鳥ですが、鳴き声などは誰も研究してこなかった。  

シジュウカラの縄張りを主張する声(春)、餌を見つけた声(周りからシジュウカラが集まって来る)、警戒しろと言う声。 観察すると言葉になっているのではないかと思いました。  シジュウカラ、コガラの種を越えて会話しているのではないかと、観察してそう思いました。  それまでの研究者は人間だけが言葉を持っていると信じて来た。 動物行動学を立ち上げたコンラート・ローレンス『ソロモンの指環 動物行動学入門』の本のなかで、「鳥の鳴き声は遺伝的にプログラムされた感情を表す発声に過ぎない。」と書いている。

シジュウカラが敵を見つけた時に、鷹と蛇では鳴き声が違う。  周りのシジュウカラの行動も鷹の声の時には空を見て、蛇の場合は地面を見る。  感情の表れではなくて言葉になっている。 シジュウカラは言葉を組み合わせて文章迄作ることが出来る。  警戒しろと言う鳴き声と集まれと言う鳴き声の組み合わせた声がある。  シジュウカラに取っては危険な天敵のモズも集まって追い払う事が出来る。  組み合わせを逆にして、「集まれ」「警戒しろ」と聞かせてみると、集まってこない。  語順に従って理解していることが判る。 現在判っている動物の中では、人間以外で唯一、文法を操る力を持っている。  証明するのに時間が掛かりました。  

蛇と言う言葉に気付いたのが2008年でしたが、それがちゃんと蛇と言う概念に繋がる言葉であると結論付けることが出来たのが2018年でした。  鳴き声の組み合わせに気付いたのが2007年でしたが、文法であると結論付けたのが、2020年でした。

蛇、本土テン、カラスなどが天敵ですが、それのはく製とか生きているものを見せて、蛇の時の鳴き声とかを確かめていきます。 どのシジュウカラもそう鳴くのかを調べるためには、沢山のシジュウカラを対象にして鳴き声の解析をする。 蛇に対する警戒の声を聞いた時に、シジュウカラが頭にちゃんと蛇をイメージして、蛇を捜すような行動をしていたのかどうか、それを調べるのが相当大変でした。  

見間違いを使った実験を考えました。  シジュウカラが蛇という言葉をイメージしていれば、蛇に見間違えたりしないだろうか、という実験をしました。  「ジャージャー」と言う蛇の言葉の鳴き声を聞かせながら、木の枝に紐をつけて蛇に似せて動かすと、確認するために近づいてくる。 蛇の動きとは違って大きく動かしたりすると、近づいてこない。  蛇に対して見間違えが起きている。  人間以外で単語の証明が出来た初めてのものです。 今は動物言語学という事で世界に提唱しています。  

世界の方が注目して、2022年には国際行動生態学会で最新の研究成果を発表するんですが、そこでトリ(基調講演)を務めました。  言葉は人間だけという事を覆す研究発表に対して、みんなが声をかけてくれました。 世界中で動物言語学の認識が高まりました。  動物研究者の研究対象の動物についての言葉の研究を始めました。  チンパンジー、ボノボなどは鳴き声を組み合わせて言葉を文章にする力があるのではないかと発表した論文が出て来ています。 

昨年12月にイギリスで国際動物行動研究協会から表彰されました。(年に一人が表彰される。 世界的な大御所が表彰されている。)   日本でも東大でいろいろなテーマをもって進めています。 いま スペイン、スウェーデンに巣箱をかけて、鳴き声を調べていますが、シジュウカラの日本語とスペイン、スウェーデン語が違って、場所が違うと響きが違う。 ひょっとしたら語彙も違うかもしれないので今調べているところです。 天敵が違うので鳴き声も違うのかもしれない。  今興味を持っているのが、どうやって言葉を習得するのかという事です。  場所の違いによる比較もしていきたい。 














2026年2月1日日曜日

ビリー諸川(ロカビリー歌手)        ・ステージ4でも、ロックンロールでネバー・ギブアップ!

ビリー諸川(ロカビリー歌手)  ・ステージ4でも、ロックンロールでネバー・ギブアップ!

 ビリー諸川さんは1957年東京都出身。 高校生の時に出会ったエルヴィス・プレスリーの音楽やファッション、生き方などすべてに衝撃を受け、以来生涯ロカビリー&エルヴィスを座右の銘としています。 

25年毎月一回店に出て歌っています。 ステージ4のがんです。 抗がん剤を13回打っていて、副作用で指先がしびれたり痛くてギターを弾く時に、コードを押さえられなくて、唯一動くのが、左手の人差し指なんです。 

全日本ロカビリー普及委員会会長の肩書になっています。 座右の銘が「生涯ロカビリー&エルビス」  1972年中学3年生の時に、テレビで映画「フロリダ万歳」と言う映画を見て、エルヴィスにすっかりはまってしまいました。   将来エルヴィス・ピレスリーになろうと決めました。  53年間一心不乱にエルヴィス、ロカビリーを追い続けてきました。 

予備校に通っていて目標が定まらない日々を送っていたある日、呆れて見兼ねた兄(東大生だった)からビンタされ、毎年3000人も誕生する東大生と、100年に一人誕生するかしないかのプレスリーのような歌手、どちらに一度きりの人生を賭けるべきなのか、もう一度、その頭で良く考えてみろと問われたことにより目覚め、エルヴィスの道を選ぶこととなった。 翌日からエルヴィスの英語の歌をちゃんと歌うために、アテネ・フランセと言う英会話の学校に行きました。 シャネルズというドゥーワップ・グループのバンドリーダーの吉田憲右と知り合って、人前で歌うきっかけになりました。  カントリー歌手のジミー時田さんの元へ弟子入りに行きました。(1977年10月 エルヴィスは同年8月に亡くなる。)  

50年以上エルヴィスを研究してくると、彼の人間性と誠実さ、純粋さ、人間はこうあるべきだというお手本みたいな、人間性に最終的には惹かれています。  アメリカ南部の素朴な青年のまま、その心を持ったままスーパースターになって行ったところが魅力なんです。   ジミー時田さんのところへカセットテープを持っていったら全部聞き終わらずに、「帰りなさい、他の仕事を捜した方がいい。」と言われました。 反骨精神が湧いてきて、カセットボード、ギターをもってジミー時田さんが行く新宿のウィッシュボンの前で2時間半から3時間前にいってずっと立って待っていました。(毎週)   12月の或る日にカセットテープを聞くこともなく、「負けた。」と言われました。  外弟子として、ウィッシュボンで働けと言われました。 (カントリーの勉強)  1曲だけ歌わせてもらって嬉しかったです。(20歳)

1987年(12年)に音楽評論家の湯川れい子さんに同年制作した自費レコード(当時32万円かかる)をポストに入れておいたら、湯川さんから電話がかかって来て、センセーショナルなことをやりましょうと言われて、私がプロデュースするから、アメリカに行ってエルヴィスがレコーディングしたサンスタジオで、エルヴィスのメンバーと一緒にレコーディングしましょうと言われました。  ジェームス・バートンに自分のロカビリーを作りなさいと、言われました。 テレビ、ラジオなどにも出るようになりました。  

1994年にエルヴィスの夢を見て、その内容が面白くて書いているうちに原稿用が400枚近くになてしまいました。  ぼくはプレスリーが大好き」と言う本を書いた片岡義男と言う作家の家に原稿をポストに突っ込んでしまいました。  1週間後に出版社が決まってしまいました。  去年末に出した本が20冊目になります。 全日本ロカビリー普及委員会は6000人います。(会費などは取っていない)  この方たちが主に買ってくれます。  エルヴィスと長嶋さんに関する本も書きました。  

小学校のPTA会長を5年間務めたあと、2008年から16年まで、保護司を務めました。  2016年秋からは、「ロカビリーキッズツアー」と銘打って、ギター1本で子どもたちの施設を回る活動を始めました。  子供が絵を描いているがよくわからなかった。 爪とかから描き始めて、顔を描いていって褒めてあげる、終わるまで待ってあげる教育という事を学びました。 子供は身体を動かすのが好きで、ロカビリーが役立ったという事を実感しました。 

2025年の1月ぐらいから、大腸がんの前兆のような血便が出るようになりました。  2024年がエルヴィスがデビューして70年でした。  妻と2024年7月にエルヴィスの出身地 テネシー州メンフィスに行こうという事になりました。  結局12人に膨らんでツアーにいきました。  市長さんの前で歌う機会を得ました。  2025年の11月のジャパンフェスティバルで歌ってほしいと言われ、併せて3か所で歌う事になりました。  症状が重くなってきて、或る時に大腸ポリープの話になって、僕も軽い気持ちで血便が出てきたと言ったら、周りから直ぐ医者に行く様に言われました。  肝臓と骨盤に転移していました。  

2週間に一回の頻度で抗癌剤を打つんです。  一般的な副作用はありませんでしたが、しびれ、痛みがいろいろなところに出ました。  腫瘍マーカーの値が入院時は46でしたが、今は13回打ったせいか1.1しかないんです。 次週14回目を打ちます。  体重も落とさないようにしっかり食べています。   アメリカに行って帰ってきた後だったら手遅れだったと思います。 2025年の11月には行きました。  ジャパンフェスティバル、メンフィスのビール?ストリート、パーティー、総領事の前でも歌いました。  私の師は長嶋さんとエルヴィスです。  長嶋さんは脳梗塞で倒れた後、リハビリで皆に元気を与えました。 見習わなければいけないと思いました。

日本の文化の一つとしてロカビリーを残してほしいと、平尾昌晃さんから言われたので是非頑張っていきたいと思います。  ロカビリーは「優しさを持った反骨精神」だと思います。  私の生きざまになりました。  










 

2026年1月31日土曜日

迫田孝也(俳優)              ・出会いからつながった俳優人生

迫田孝也(俳優)              ・出会いからつながった俳優人生 

迫田さんは1977年生まれ。(48歳) 大学卒業後俳優を目指して上京、NHKでは真田丸』をはじめ、西郷どん鎌倉殿の13人』そして現在放送中の『豊臣兄弟』にも出演しています。 西郷どん』では薩摩言葉指導もしました。 他にもドラマ、映画、舞台、バラエティーと本当に幅広く活躍中の迫田さんに、これまでの俳優人生について伺いました。

川内市で生まれましたが、父が高校教師をしており小さい頃は転勤が多かったため田代町から指宿市へ引っ越し、さらに中学校から鹿児島市内へと引越しが多かったです。 中学、高校とバレーボールに情熱を燃やしていました。 高校時代は男子バレーボール部の主将を務めました。 教師をやりたいと思っていて、 広島大学教育学部へ入り、保健体育の教育免許を取得しました。  大学2年の時にバイトで行った奄美大島で、映画撮影に来ていた山田洋次監督の御一行と出会い役者になろうという気持ちが芽生えました。 

大学を出て上京し、或るオーディション情報の月刊誌を読んだら、演出家に観てもらえる無料の訓練のことがありました。  結局その劇団に入ることになりました。  恥ずかしくて人前で演技ができなくて、稽古が終わって夜になると元気が出るタイプでした。  半年間の卒業公演のキャストにも参加できず、見るに見かねた演出家が無理やり出させて、そこそこできたので、或る役を持たされてやって、ようやくスタートラインに立てたと思いました。    30歳になって芽がでなかったら帰って来るように言われましたが、その時にはまだで、親を何とか説得してそれから5年続けました。   三谷さんの作品に感動して上京したという思いもあり、オーディションで三谷さんの目に留まり、役を勝ち取ることが出来ました。

2016年の大河ドラマ『真田丸』への出演が決定し、矢沢三十郎頼幸と言う役にも押しつぶされそうでした。 (39歳)   西郷どん』では薩隅方言の指導役を担当するという事を聞いて、最初戸惑ったが、やって台本の見方も俯瞰して見れるように変わりました。 江藤新平役にもなり、ラッキーでした。 鎌倉殿の13人』にも出演することになりました。 色々民放にも出演することになって行きました。  2020年代に入ってからは実は犯人だったり、視聴者から犯人と疑われる役を多く演じるようになりました。

山田洋次監督のTOKYOタクシーでは山田洋次監督の作品に触れられたような気がします。  蒼井 優という役者はとてつもない才能を持った方で、この人の相手が務まるのかと言うプレッシャー、そして山田洋次監督(94歳)のこんなに妥協のない現場は正直ないです。 普通一回OKになればそのシーンは終わりですが、繋げてみると撮り直しが来るかもわからないという事があるので、その圧迫感みたいなものもあります。  僕の撮影期間は2週間ぐらいでしたが、その後でも話が来るのではないかという思いがあり、1週間ぐらいは気が抜けなかったです。 

2022年(令和4年)2月17日、鹿児島県の広報大使である薩摩大使に任命されました。     2024年(令和6年)2月29日、鹿児島市の「ふるさと大使」に起用されました。

2026年には『豊臣兄弟』では石川数正の役をやります。 











 

2026年1月30日金曜日

入交昭一郎(エンジニア)          ・日本を動かす!~F1から水素エネルギーへ~

入交昭一郎(エンジニア)        ・日本を動かす!~F1から水素エネルギーへ~ 

日本のF1エンジンの開発を手掛けた元ホンダの副社長、今は水素エネルギーの日本での実用化を目指す入交昭一郎さんです。 入交昭一郎さんは神戸の生まれで現在86歳。  東京大学工学部を卒業した後、自動車メーカーホンダに入社、世界最高峰の自動車レースF1で12気筒の強力エンジンを開発、又排気ガス規制の厳しい中で、規制をクリアーする独自の燃焼システムを開発するなど、日本の自動車エンジンの開発の先頭に立ってきました。  又退職後はゲームメーカーの社長を歴任し、今はカーボンゼロの社会を目指して、水素エネルギーの日本での定着を図ろうと水素エネルギー研究会の最高顧問として活躍しています。 又世界的半導体メーカーNVIDIAのジェンスン・フアン社長の窮地を救った事でも注目されています。     エンジンの開発から水素エネルギーへとあくなき挑戦を続ける入交さんに伺いました。

どこへ行くにも車で運転していきます。  年間3万kmぐらい走っています。  トランプさんがあんなのはでっち上げだという事になって、カーボンニュートラルに向けての動きが、中国を除いて世界中がストップしてしまいました。   本来今年あたりは水素エネルギーを社会実装していかなければいけない年ですが、止まってしまいました。 一番大きいのはそこにお金を出さない事ですね。 日本は水素エネルギー開発が遅れていたので、キャッチアップするチャンスだとは思います。  怖いのは中国だけはものすごい勢いでやっています。 相当どころではなく2周ぐらい先を行っています。  水素は基本的に自然エネルギーで発電した電気で水を電気分解して作るわけです。 発電する方が中国が今、太陽光発電にしろ、風力発電にしろ全世界のシェアーの6割ぐらいは中国製です。 次に電気分解する大型の電解槽が必要で、大型はほとんど中国製です。  社会実装と言う意味では中国はずっと先を走っています。 

カーボンニュートラルを実現するためには、電気だけではいかない、内燃機関はずっと必要なわけです。  化石燃料は使えば必ず炭酸ガスを出します。  内燃機関を使う航空機、船、オートバイ、トラック等があり、使っても炭酸ガスが増えない燃料が必要なわけです。    水素を大量に作らなければいけない。 日本で使っているガソリンの10%を水素に置き換えようとすると、1時間でプール一杯の水を電気分解して水素を発生する、そのぐらいの量が必要です。  年間500万トンぐらいが必要で、何兆円と言う投資が必要です。  水素を作るのには基本は電気なので、太陽光発電、風力発電にしろ自然エネルギー発電でやると、1KW/h当たり、かなり先を見通しても10円を切れないんです。  水素をベースにした燃料は1リッター当たり700円ぐらいになってしまう。  

サウジアラビア、チリなどでは1KW/h当たり今現実に3円で売っています。  3円で出来るとその値段はいっぺんに1/3ぐらいになります。 海外で自然エネルギー発電した電力が安いところへ行って、作らざるをざるを得ない。  そうなると1企業のレベルでは出来ない。  広大な土地も必要。  将来的にも友好関係が保てる国で、大プロジェクトを展開しないといけない。  国が間に入らないのなかなか進まない。 しかし今はそういう風潮にはない。   カーボンニュートラルにしようと言う国民の意識もない。  啓蒙活動を3年前からやってます。  欧米では水素を作ってそれをビジネスにしようと本気で考えている会社がいくつか存在しますが、日本では1社もないです。  

カーボンニュートラルの原料は空気と水だけです。  電気は風力と太陽光さえあればいい。  ですから日本のなかで出来るんです。  海外から燃料が入ってこなくても何とかなる。  日本は年間25兆円ぐらい原油を輸入している。  車を作って売っている額にほぼ相当する。  経済安全保障の観点から見ても、絶対日本は自分のところで作れる燃料を持つべきです。  

私は大学で卒業設計にF1の12気筒エンジンの設計をしたんです。  飛行機をやりたかったが、今の日本では作れないと言われて、次に面白いのはレースエンジンかなと思いました。  判らないことはホンダの研究所に行って、入り浸っていました。  入社試験もせずにいつの間にかホンダに入っていました。  配属先がエンジン設計で毎日が楽しくて、そして給料ももらえます。  レースエンジン50ccが当時は2ストロークエンジンでしたが、4ストロークにして勝ちました。  次に125ccの5気筒エンジンを作りました。  250ccで6気筒にしてチャンピオンマシーンなりました。 F1で1966年に1,5リッターから3リッターに変りました。  

知ってはいたが誰も3リッターのエンジンをやっていなかった。 250ccで6気筒のエンジンを終わったばかりだったのでお前がやれという事になりました。  当時F2と言うのがあって、1000ccで4気筒なので、これを3つ並べれば良いなあと思いました。  いろいろ工夫をしながら、やりました。 1965年9月からはじめて、1年間しかないんです。  図面を書いて,試作をして、テストをして翌年のモンツアへ持ってったんです。 徹夜、残業などは当たり前でした。  レイアウトに1ケ月ちょっと、設計図を書くのに1ケ月ちょっと、部品作るのに1ケ月ちょっと、組み立ててテストするのが3ケ月ぐらいでした。 1年でのプロジェクトで、今なら3年ぐらいかかると思います。

仕事は楽しまないといいものは出来ないと思っていて、世の中の情報をどれだけ自分の財産にするか、だと思います。  専門のところだけ勉強しても駄目で、いろんなことが世界中で起きていて、そう言ったものを頭のなかにいれて置くと、突然ある日何かやる時に、これとこれはつながるなという事になるわけです。  新聞、雑誌とか見出しだけでもいいから隅々まで目を通すとか。  経営者クラスの人を呼んで勉強会をしますが、最近はテーマによって専門的な人が来ます。(細分化され過ぎている。)  今の世の中はいろんなものが混ざり合うわけです。  出来るだけ一人の人がいろんなことを勉強できるようなシステムに変えて行かないと危ないなあと思います。  AIだけやっていると偏ってしまう。  深く知らなくてもいいから、自分の中で消化しておかなくてはいけない。  

妻と一時期老人ホームに入って、ネットは見ていたが、新聞などは読んでいなかったが、妻を亡くして家に帰って来て、新聞を又読み始めたら、物凄く1年半の間に欠落していたことに気が付きました。 ネットでは自分の興味のある所しか見ない。  若い人には新聞を取りなさいと言っています、そうしないと自分の好きな情報しか入ってこない。 

NVIDIAのジェンスン・フアン社長の窮地を救ったという事があります。  彼の人柄、彼は絶対嘘をつかない、非常に率直、彼の能力、情熱、彼の持っている望みですね。  彼が32,3歳の時には自分はビル・ゲイツを越えると言ったんです。  当時(30年前)、彼(ビル・ゲイツ)は王様でした。  セガのグラフィックチップの開発に失敗して、辞めると言った時に、何とかもう一回立ち直るには500万ドル必要だと言うので、その額を投資することにしました。    生まれもった性格と言うのは一生懸命努力しても買われないものがあるんです。  どれを抑えてどれを勉強して伸ばすかという事は、後天的なもので出来るわけです。  後その人が持っているエネルギーがあるんです。  エネルギーのある人は、何をやっても夢中になってやってへこたれない。  ジェンスン・フアン社長はこの3つを持ち合わせているので無茶苦茶好きになったわけです。 

彼から昨年末にメッセージが来ました。  ジャストビジネス、ビジネスはビジネスだと言っているのは大きな間違いだ。  ビジネスと言うのは、それをやる人の心であり、思いやりであり、寛容であり、その人の精神である、それがベースでなければいけない。    ジャストビジネス、ビジネスはビジネスだと言う様な事は言うな、と言っています。  そのことは私と仕事をしている間に教わったと言っているんです。  私はそれでやって来ました。   日本の社会そのもの、ビジネスそのものは、最初に数値目標だとか掲げてとにかくやれと、そういう事でスタートしてしまう。人間だから間違いも起こすが、そうするとメタメタ叩く。  寛容さだとか、今は無くなってきている。  私が言ってもなかなか受け入れてくれないかもしれないけど、世界で一番成功しているジェンスン・フアン社長が言えば成功するのではないかと思って、日本中のビジネスをやっている人たちに聞いてもらいたいと思います。   私はそのスタイルでやって来ましたから、日本人の良さはそこにあると思うんです。 人を思いやる心、少々の間違いは人間だから勘弁してあげようよと言う寛容さ、それは日本人の特徴だと思います。

残った時間お前は何をやりたいんだと自分に聞いてみると、「人に喜んでもらいたい。」その答えしかかえってこない。  常に夢を持っていないと生きてゆけない人間だと思っているんです。  夢が時々切れちゃう時があると、自分は死んじゃうなと思うんです。  本当に何をしたいのかと思うと世の中探さなければいけない。  だから情報源を広げろと言っているのはそれなんです。  広げない限り見つからない。  今の夢はカーボンニュートラル燃料で、これを何とかしたい。 









2026年1月29日木曜日

今和泉隆行(空想地図作家)         ・夢は架空の街を駆け巡る

 今和泉隆行(空想地図作家)         ・夢は架空の街を駆け巡る

今和泉隆行さんは実在しない都市の地図を書き続ける空想地図作家です。 7歳の時に空想地図に目覚めたという今和泉さん、空想地図作家として都市や地図に関して、テレビや絵本の中の地図の監修や製作にも携わっています。  民放ドラマでは架空の都市の地図を手掛けるほか、作品は各地の美術館でも展示されてきました。 更にその活動範囲は実際の街つくりや、高校の授業、万博へと広がりを見せています。 4半世紀以上に渡って続く空想地図のナゴムル市(中村市)の地図は今や実在する都市としか思えないクオリティーに達しています。 好きで続けてきたという今和泉さんに空想の町の地図作りに込めた思いを聞きました。

地図の図形と今の場所とを照合できない、と言うのが地図が読めないという事なんですね。   地図を読める人でも方向音痴と言う人はいます。  地図から歴史、街並みだとかを読み解けるという面白さはあります。  一つは道路の模様、真っすぐな道とグネグネの道。 何でグネグネなのか、車が通ることを前提に作られていないので、曲がっていたりします。  近代以降の道だと割と真っすぐつくられている。  道路の曲がり方から地形も見えてきます。   道路の年代と地形が見えてくる。  縦横の組み合わせで、いつ頃どんな理由でこのような道路になったのかとか、道路が狭いと古い建物が多い。  関東大震災で焼けたところは区画整理されて近代的なビルが建っていたりしますが、焼けていないところは古い建物が多いです。 

7歳ぐらいから地図を描いています。  地図を見るのは5歳から好きでした。  父の転勤で引っ越して地図を元にいろいろ捜して頻繁に見ていました。  いけないところだけど、リアルにこういう世界だろうなあと言う地図、が空想都市です。 ナゴムル市(中村市) 小学5年生の時に中村君と言う転校生がきて、お互いに地図を書きました。  読みだけは変えてくれと言われて濁して「ナゴムル市」としました。  書いている楽しみは旅行の下調べと近いと思います。  現実の社会問題を投影して、それを創造しながら書いています。  全国の都市に行けないから書いていましたが、大学2~4年は地図作製は辞めていました。(47都道府県を回る。)  

2015年に友達から美術館に展示してみてはと言われて、その後2017年には宮崎県の都城市美術館の学芸員の方からこれはアートであると言われました。 改めて作家という事を自覚しました。  目標があってそれを叶える手段がある、それがデザインで、アートはその目的がない。  美術館の展示が広がって行きました。

TBSの人気ドラマでも採用されました。 以前からドラマの小道具の空想地図の受注生産はしていました。  老朽化した水道管についてどこが新しい道路でどこが古い道路かAIで検知したいから、予想するのに会議に入って欲しいと言われました。 (予想外の展開)     

外部講師を呼んで探求授業をやるという事で高校に呼ばれました。  人気がありました。   それぞれの意志と感性を磨いていった方がいいと思います。 答えはAIが出してしまうので、答えが無いことに取り組んで行った方がいいと思います。 

関西万博にも参加しました。  実際のパビリオンには行けない方用のバーチャル舞台のところの地図を作りました。  普通の人が出来るいろいろなことに壁があってできませんでした。(スポーツ、ゲーム、漫画など)  膨大な時間があり、架空の地図作りに没頭しました。2巡目の地図に向かうには自分自身をアップデートしないといけないと思いますが、方法が判らなくて、今から受験ですが、大学院を抜けて、現代美術を学んで、研究と製作をしっかりやろうと思っています。  今40歳ですが、新しい自分に変ろうという事です。 年齢を気にしないでインプットしていかないとまずいと思います。 

この数年行ってはいるんですが、海外に行きたいと思っています。  海外の物も書いては見たいと言いう思いもあります。  お薦めの一点は「謎の独立国家ソマリランド」と言う高野秀行さんの本です。 実在します。 無数の武装勢力や海賊が跋扈する「崩壊国家」ソマリア。その中に、独自に武装解除し十数年も平和に暮らしている独立国があるという。 






  





2026年1月28日水曜日

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

 金澤さんはシクラメンの花を八重咲にしたとして知られていますが、拝見すると八重どころか、ぼんぼりのように咲くものが有ったり、しだれて咲くものが有ったり、花形、花色も様々で、シクラメンだけではなくほかの花や果物も品種改良して、多彩な品種を作っているようです。

50年、自分が興味を持ったものについて、 育種したりコレクターして沢山あります。  昔はシクラメンも色も赤くてそんなにはなかったですが、大内さんが海外のパステル系の品種を昭和50年代に導入して、そこから分けてもらって淡い色を選抜育種しました。 シクラメンは自分の花粉で自分の実をつけて花が終わってしまうことがおおくて、花持ち期間を長く持つようにしました。 シクラメンでは八重がないのでトライしてみようと思いました。  花びらがなりつつあることを見逃してしまう。  固執して観察すると、ちょっと違うなと言うのが出てきたりします。  その種を取り、種を蒔き、時間をかけて花びら化して行きました。 

私の先生の岩手の橋本先生が、私と同じことをしていて、完全体がありました。 私の方はまだ未完全体でした。  先生が病気になってそれを譲り受けて、先生のものと私のものを交配して原型が出来ました。 そしてチモにしようかと言う事でチモという名前で世の中に出せるようになりました。(20年掛かる。)  2年に一回しか交配が出来なくて結果が出ない。  八重になるための遺伝子の部分の重複遺伝子があって、ホモ、ヘペロとかありヘペロではいろんなものが出てくるし、ホモならば固まる。 千葉大、メーカーの研究開発に携わっている方との交流からいろいろ勉強しました。  しだれ形のシクラメンも開発しました。  

ラズベリーも商品化できないという事がありました。 いまだに日本の風土に合わないと叫ばれています。  土壌環境ですね。  日本には沢山の土壌微生物がいて、線虫もいてそれがラズベリーへわるさをするようです。  国内に2トン輸入されて、うちでは1トンはんぐらい取っています。  品種改良しないと、と言う大手の輸入メーカーさんがなんとか国産ラズベリーの品種を作ってくれないかと言われて、花以外も面白そうだと思っていました。 試行錯誤をしてやっと増殖率が良くて、成長も良くて、二期なり(6月、10月に成る)を選抜して作り上げて、登録にこぎつけました。  今の土壌環境で生き残ったものだけを交配しました。  

子供のころから花を見る機会があって花が好きでした。 農業高校に行った時に、花を徹底的に作ろうという出会いがありました。  花農家さんの所に実習に行きました。 花をオークションにかけてその日のうちに換金してくるわけです。 そこで花を作っても生活が成り立つかなと思いました。  温室部を作って、 アルバイトをして園芸書を買って読みました。  種も購入して花を咲かせて、オートバイで花を売っていました。  ひょんなことから自分でも種を取って撒く様になりました。  高く売れるような選抜をして、専門にやっている人に聞きに行ったりしました。  オリジナルのものが昭和50年ごろに出来ました。 50年代の後半には市場でも有名になって来ました。  

昭和56年に結婚して、妻に手伝ってもらっているうちに、彼女の知り合いからも手伝ってもらうようになっていきました。  今の主流のメンバーが彼女たちです。  ピンク系を作って今はそれが主流になっています。 1963年に薦められて全国の品評会に出して、大臣賞を初めてもらいました。 その後もいろいろな賞を貰いました。  品評会のポイントがあって、葉が小さく沢山あって、花が丸弁でぴしっと上を向いて咲いている、という一つのベースがあります。  しだれ咲は全く正反対のものなので、支持されません。  賞を取ることが目的ではなくなりました。 いかにして消費者さんの思いに沿えるのか、という事を大事にしています。  時代の流れは大事だと思います。一番大事なのは消費者にがっかりされない事だと思います。  

次の世代に渡していかなければならないという、義務的な部分も持っています。 私の弟子たちが弟子を作るようになってきて非常に嬉しいです。  ここまでくるうちにはいろんな人に助けてもらってきました。  消費者が居ないかぎりは支持されないので、理解者を増やす事ですね。  自分の中の経験を伝えていきながら、花の業界の礎にしてもらえればと思います。地域の為、若い人のための活動をしています。  自分のまわりの環境を良くしていかない限り、自分が住んでいる環境、生活は良くならない。(人間環境を含め)  育種の部分を掘り進めていくのと、「金澤的なビオラ」を見たいと言われていますが、どう言うビオラか私にもわかりません。 











2026年1月27日火曜日

諌山こころ、福井春香            ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く

諌山こころ、福井春香           ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く         姉と私~心にしまっていたこと 諌山こころ (14)伝えられなかった言葉と、伝わった思い

今回は全国から463点の応募がありました。 第60回を記念して4つの特別賞が設けられましたが、今日はそのうち文部科学大臣賞を受賞した諌山こころさん、ハートネット賞を受賞した福井春香さんへのインタビューです。 諌山こころさんは中学2年生、障害のある姉との日々を姉と私~心にしまっていたこと」と題して綴りました。  又大学4年生の福井春香さんは吃音がある中で挑んだ就職活動について「伝えられなかった言葉と、伝わった思い」と題してまとめました。 

諌山こころさん

今中学2年生です。 理科が好きで、国語は苦手です。 NHK障害者福祉賞では障害者本人か、障害者が身近にいる人、という事でこれは私だと思いました。 姉(19歳)が知的障害とテンカンがあります。  身近な人(両親、クラスの友達)には見せたくはなかった。  祖父母には見てもらいました。 

「私には小さい頃の記憶があんまりありません。 もしかしたら私は小さいころからいろいろなことを無意識に我慢して、心の中に仕舞って来たのかもしれません。」          特別な旅行とかは覚えているんですが、日常のことは覚えていないです。   

「姉には日常の中で手のかかることが多く、自然とみんなの意識が姉に向くようになっていました。 私は姉の着替えを手伝ったり、食べるのを見張って居たり、面倒を見るのが当たり前になって行きました。 いつの間にか私のことはちゃんとしているから大丈夫と思われている気がして、親があまり構ってくれなくなりました。」

こころってしっかりしているよねと言われたのが、小学校の中学年から言われ、しっかりしているんだという事に嬉しいという思いはあるが、かまってくれないから寂しくなりました。  期待に答えなければいけないなあとの思いはありました。  姉への思いが揺れ動く中で、心の内を吐き出すことは余りありませんでした。 (親、友人)  祖父母とは年に数回しか会わないので、今回の作品は読みたいという事で、本を渡して家に帰りました。 祖父からラインで、両親は姉の面倒を見ないといけない責任を持った行動だから、そこまで悲しまないでいいと言ったことを長文で伝えてきました。  「責任」と言う言葉に対して新しい発見でした。「義務」」と言う風に思っていました。  寂しいという感情はなくなりました。  

「私はお姉ちゃんと一緒にいることで、他の人とは違う経験を沢山してきました。  これからも姉のことで悩んだり迷ったり泣いたりすると思います。  でもそれと同じぐらい姉からもらう温かさや、笑顔や、気付きもあるんだと思います。」

姉がいて悪いイメージだったけど、最近学校でも医療系の方に行っていて、姉がいたからこそ医療メディカルコースを選んだと思います。 

「完璧じゃなくていい、わからないままでもいい、でも知ろうとする気持ち、寄り添おうとする気持ちをこれからも大切にしていきたい。」

書いただけだと自分は変わらないと思って、最後に自分はこうしていきたいという事を書こうと思った時に最後の言葉を見つけました。 皆にも知ってもらいたいみたいな感じも入っています。

「友達に姉のことを話すのもまだ勇気が要ります。  でもいつか話せる日が来るかもしれない。」

まだ話せない。  親には社会人として家を出てゆくときに渡したいと思っています。    医者を目指していますが、 心のなかも診ていきたいと思います。          

ハートネット賞を受賞した福井春香さん

ハートネット賞は誰もが自分らしく生きられる社会の実現を願い、取材を続けている製作現場から共生社会の実現のヒントがあり、未来を感じさせる作品に贈られるものです。

誰にも伝えずに応募したのですが、家族、それ以外の方々にも読まれてしまうという事に少し不安がありました。  しんどい就職活動でしたが、面接官の人々に救われて、最終的には楽しく就職活動を終えることができ、気持ちの変化などを記録として残しておこうと思った時に、障害福祉賞と言うものを見つけて応募しました。 母親だけには見せています。

吃音を誰かに打ち明けたことはほとんどありません。  難発といって、喉が詰まってしまったような感じで言葉がでなくなってしまう症状が一番多いです。  3歳ごろに母おやがそうおもったようです。  しゃべれない障害だけれども、しゃべれる時もある。 「おはようございます。」と言う一言も言えない場合が沢山ありました。  電話も苦手で、普通に出来ないという事がしんどいと思います。  なかなか分かってもらいにくい。 

就職活動の面接でどうしても言葉がでなくて、面接官に自分の思いを伝えられないことが沢山ありました。  結果として不合格が沢山ありました。 インターネットで吃音があることを面接官に伝えてみたら、面接官の方が寄り添ってくれたと言う記事を見て、自分も伝えたらしゃべり易くなると思いました。  就職活動は大学3年生の12月ぐらいから去年の5月ぐらいです。  伝えることで自分の気持の持ちようが変り楽になりました。  

「多くの企業の方が、想像していた以上に吃音を前向きに受け止めて耳を傾けてくれました。 就職活動で一番印象に残っている言葉があります。」

或る最終面接の採用担当の方の「勉強しました。」と言う言葉でした。 事前に吃音のことを勉強したという事でした。 凄く嬉しかったです。  そこに入社出来ました。 建設業界の事務所です。 

タイトルは「伝えられなかった言葉と、伝わった思い」です。 今回作文を書いて、吃音があったからできた経験とか、出会えた人とかも沢山いるなって思えました。 吃音も悪い事だけではないと言えるかなと思います。  

「吃音の理解が少しでも広がり、すベての人にとって生きやすい社会になることを心から願っています。」

今は社会人になる事の不安しかないですが、沢山のことに挑戦して、成長していきたいと思います。



2026年1月26日月曜日

2026年1月25日日曜日

大川義秋(箏奏者)             ・東日本大震災15年 いのちの大切さを“箏”で奏でる

 大川義秋(箏奏者)         ・東日本大震災15年 いのちの大切さを“箏”で奏でる

大川義秋さんは双葉町出身の30歳。  東日本大震災の時は中学3年生でした。  県外での避難生活で大川さんは琴に出会い惹かれ、プロの道を目指し、現在は文化庁の邦楽普及大使を務めています。 震災をテーマにしたオリジナルの曲や国内外の演奏会で、東日本大震災の経験を語り、命の大切さを語る大川さんにお話を伺いました。

東日本大震災から15年、そのなかでは沢山の出会いがあり、避難をした時のことを思い出すこともあれば、そこでの助けてくれた出会い、感謝を思い出すこともあり、琴を始めた瞬間の記憶もあります。  2011年3月11日午後2時46分、卒業式の日でした。 12時に終わって家に帰って進学のことなど話していた時に、被災しました。  長く揺れて怖かったです。  地面が割れてゆく音、家の家具が全部倒れて、食器など中身が自分の方に降りかかって来たり、窓が割れる音など今でも覚えています。  原発事故については、正直何があったのか判らなかったです。  卒業した中学校に避難しましたが、5000人近くの人が避難していたので、校舎の中は埋まってしまっていて、グラウンドに車を止めて過ごしていました。

翌朝、防具服を着た人が入って来て、1,2分後には警報が鳴って(放射能の情報がないまま)「遠くに避難してください。」と言われて車で避難しました。  埼玉に家族と避難して、そこで琴との出会いがありました。  避難者は汚いという風に思われるのが怖くて、部員ゼロのクラブを捜しました。  琴などの邦楽部が部員ゼロでした。 琴をやりたいとも思っていませんでした。  ピアノ、ドラムはやっていて、明るい楽器はやっていましたが、繊細な音色は触れたこともありませんでした。  悲しげな音色の琴にどんどんはまっていきました。   音色で会話出来ていて、支え合いながら寂しさを共有していた、そんな琴に出会ったのが人生のなかの財産だと思います。(僕が入らなければ琴は捨てられる運命にあった。)

*「レモンアカシヤ」 作曲、演奏:大川義秋  双葉町を想って作った曲

ベーシックな13弦だけではなくて、25弦、17弦、がありますが、僕は27弦と言うオリジナルを作ってもらいました。  人前に出てやることが苦手でしたが、中学に入って吹奏楽にはいって一つうえの先輩が凄く明るい人で、音楽を通していろいろ楽しく過ごすことが出来ました。 その先輩が津波で亡くなってしまいました。  音楽の楽しさを教えてくれたその人のことを思って作りました。 今では自然が豊かだった双葉町は大切な作曲をする時に大切な要素が詰まった街だと思っています。 

東京都内のデザイン系の大学に進んで、教えてもらう伝手が無く、一人で琴を続けました。  琴は自分自身で思っていることを表せる大切なものになってゆくのではないかと思いました。  現在は文化庁の邦楽普及大使を務めています。  昨年は16ヶ国で琴の演奏をしました。   震災に関するやり取り、命の大切さについても話してきました。    

*「ソラシドレ」  作曲、演奏:大川義秋  広島、長崎原爆を忘れないために。          2020年の8月頃に作りました。  災害を語り継いでゆく大切さに気が付きました。(コロナ禍)  どんなコンサートでも命を大切にするという思いで、セットリストを組んでいて、辛い事を乗り越えた事、震災のことを触れながら、構成して演奏しています。  家族が支えてくれたというメッセージは必ず話すようにしています。  この15年の間の思い出が沢山増えたなと思っています。  2年前に双葉町で演奏した後に、50人ぐらいで街歩きをしました。  街は新しい住宅が出来たりさら地になって居たり、景色は変わっていますが、 お祭りが再開したり前に進んでいるなと感じます。 

*「虹」  作曲、演奏:大川義秋  どこかで繋がっているなと言う思いをテーマに作りました。





















2026年1月24日土曜日

渡辺謙(俳優)           ・〔私の人生手帖〕

渡辺謙(俳優)                             ・〔私の人生手帖〕

 渡辺謙さんは1959年生まれ、新潟県出身。 デビュー以来大河ドラマ「独眼竜正宗」の主演など国内外で活躍を続け、去年は大河ドラマ「べらぼう」の田沼意次役、社会現象となりました映画「国宝」では主人公の第二の父ともいえる重要な役柄を演じ注目を集めました。 一方ハリウッド映画「ラストサムライ」ではアカデミー賞助演男優賞にノミネートされるなど、世界的に知名度の高い俳優として知られます。  今年もこの1月からは、BSのプレミアムドラマ「京都人の密かな愉しみ」、2月末の痛快時代劇映画では物語の鍵を握る役どころを演じるなど、話題作への出演が相次ぎます。  渡辺さんが俳優としての人生や、多彩な役柄を演じきるうえで大切にしている事、一方で命を向き合った日々の困惑や乗り越えたキーポイントなど俳優人生を丁寧に話してくださっています。

寝が浅くなっているせいか、リアルな夢を沢山見ます。 起きて落語を聞きます。  仕事が無い時には9時には寝ます。  「京都人の密かな愉しみ」シリーズとしては3シリーズ目になります。 僕は今回からの参加です。  今回は継承と言う事をテーマにしていて、300~500年続く老舗があります。  継承してきた人は一体何を背負い何を捨ててきたのか、どう生きて来て伝統を受け継いできたのか、店独特の伝承の仕方に対する時間の流れみたいなものが、日本の中でも独特の時間の流れがあるんじゃないかなと言う気がします。 

映画「国宝」では精神世界では近しいものはありました。  凄く挫折したこともあるし、大病した時もあるので、自分が描いた通りにはなない、でもその中で水かきは水面下であがき続けてきたみたいなことは今までもありましたから、舞台上のすばらしさはあるんですが、彼らがどうやって生きてどうやってその芸に向き合って来たかという事が一番のテーマだったので、自分が今迄いろんな役をやらしてもらったので、時間軸が上手くはまっていけてたらよかったと思っています.

テレビとか、映画の仕事をやってはいましたが、自分のなかで確信的な、こういう風にお芝居に向き合ったら自分の俳優としての立脚点が出来るんだというのがなかなか見出せませんでした。  タンポポ』、『海と毒薬』などにやらしていただいたんですが、舞台でやった「ピサロ」で、自分で立っている実感がつかめないんだったら、辞めてもいいかなと思うぐらい、自分の中で揺らいでいました。 そこで覚悟がようやく固まって、その舞台をやったので、俳優として役と向き合うという事はこういう事なのかと言うのを非常に強く体感したのはそこからですかね。  

僕たちは何のために演じるという事を選んでいるのかという事を、なかなかわからない。  本質的に人間として、何をもとめて演劇、俳優になろうとしたのか、という事で言うと自由になりたいんですよね。  世の中のしがらみ、社会のしがらみ、年齢のしがらみ、いろんなしがらみから自由になるために、その役を借りてその舞台の世界観の中で、日常ではできないことを舞台上ではできるわけです。  自分の心とか精神を自由にするためにこういう仕事を選んでいるんだという事を眼の前で体験してくれたんです。 稽古の時に如何に自由になるか、如何に自由な発想でそのシーンを積み上げていくかという事を、稽古でやってくれたんです。  僕の演劇観にも凄く影響を与えてくれました。  表現の自由を僕らに伝えてくれました。 

劇団の養成所に入った時に、志が無いような状態でお芝居をはじめたところがありました。   音楽をやりたかったが、才能はないし、大学に入って4年間過ごしても何か得るものがあるのか、と言った中から劇団の養成所に入りました。  周りには志の高い青年がたくさんいました。  取り残されると思って必死でついていきました。  与えられた役を必死でこなしていきました。  大河ドラマが終わって2年目に病気をしてしまいました。 その時に後ろを振りかえる余裕が出来ました。(今考えるとよかったと思う。)   復帰した時に、僕の後ろには沢山の人がいたんだなという事を感じさせられました。  

「天と地と」でカナダに乗り込んだんですが、そこで白血病が見つかり、1年近く療養して復帰しました。  まずは強い体に生んでくれた母親には感謝しました。(通常強い抗癌剤の使用で内臓がダメージを受けるがそれが無かった。)  生きるためにはどうしたらいいのかなあと言う事があって、先生の処方、対応に対して、上手く患者役をこなしたというような所はありました。 友人が「百連発」というお笑いのギャグのDVDを3,4本送ってくれて、病室で見て、笑っていて助かりました。 キラー細胞が笑い事で活性化されるという事を今では普通に言われているが、30年前にはそういったことは具体的には出ていなかった。  矢張り笑う事は大事です。

乗り越えたつもりが5年目で再発しました。 その時の方がショックでした。  2回目のときには、俳優として戻らないと生きている意味がないかも知れない、と思うぐらい強い意志を持って治療し始めました。  復帰後もなかなか大きな仕事は回って来ませんでした。   40歳になって脇役を2年ほどしてから、「ラストサムライ」の話が来ました。 全部英語だし、ミュージカルをやったことがないのによくやったという感じでした。  知らないからできたんだと思います。 そこでの経験は一回ガラガラと崩しておかないと、次の世界にはいかない様な気して、40~50代はやったことは過去のことという思いでした。

激しく波打つものよりも、穏やかに染み入って行くようなドラマの方が僕は今好きです。    好奇心はその時々で変わって行っていいものですね。  自分が表現したことが、こういう風に届いて欲しいとあまり思った事は無いです。  作品を選ぶときには僕が面白がれる事、興味がある事に針が振れないと、凄く仕事っぽくなってしまう。  自由になりたいと思い続けているのかもしれません。  スケジュールを聞いたり現場に行くことは仕事だと思っています。  メイクして衣装を着て、ある役を背負って現場に入ると、そこからは一切仕事だとは思わない。  身体、心を通してきっと何かを吐き出しているんです。

最終的には自分の身体と声しか使わないので、稽古とかいろいろな時間の中、ストーリーと頭に中でグルグル回っている時があり、それはある意味大事な時間です。  身体を貸している感じです。(終わったら自分に戻してほしい。)  セリフは、目から耳から入れないと反芻できない。  相手のセリフも全部手書きます。  震災以降宮城県でカフェをやっていますが、一日5分でもいいから、あなた方のことは忘れません、という思いでA4の紙に筆ペンで、その日の思いを書いてファックスで送っていました。(13年間やっていました。)    継承のことを考えています。  折々で大きな作品に出会っているので、相当恵まれているとは思います。   2月末の痛快時代劇映画では物語の鍵を握る役どころを演じます。












2026年1月23日金曜日

馬田草織(文筆家・ポルトガル料理研究家)  ・“ご機嫌”な日々を重ねて人生を楽しむ

馬田草織(文筆家・ポルトガル料理研究家)  ・“ご機嫌”な日々を重ねて人生を楽しむ

馬田さんは1970年生まれ、東京都出身。 大学を卒業後出版社で10年ほど勤務し、35歳の時に独立しました。  その後はポルトガル料理への取材を深め、食や料理を中心に様々な記事や書籍を制作しています。  馬田さんの人生で大きな転機になったのは、38歳の時に長女を出産したことだと言います。  ご自身のキャリアや孤独な子育て、娘の思春期など様々な悩みと向き合う日々で、大切にしてきたのは母と娘で囲む夕飯のひと時でした。   些細なことを面白がって自分を楽しませる、そんな視点を大切に毎日を過ごす馬田さんに伺いました。

雑誌の記事や自分の書籍を書くことをメインにやって来ました。  ポルトガル料理研究家と名乗って教室を自宅で開催したり、いろいろなところに行って開催することも10年以上やっています。  SNSで興味を持った方が来たり、いろいろです。 20代から70代後半まで幅広いです。  今、娘は高校2年生(16歳)ですが、保育園に通わせていましたが、そこでの知り合いから料理教室をやったらどうかと薦められて始めました。 

大学の卒業旅行で、イタリア、スペイン、ポルトガルに行きました。 ポルトガルではパン、チーズ、ワインなど素朴で安く美味しくて、暮らしやすそうだと思いました。 主な食材は干しタラで身が大きい。  ポルトガルでは日常の食にしていて、沢山のレシピがあります。  魚の塩焼き、いわしの塩焼きなどもよく食べています。 赤ワインで楽しんでいます。 和食と似ているところがあります。 

小さいころは引っ越しが多かったので、社交的にならざるを得なかったという感じです。   食べることは昔からすきでした。(父も同様)  料理する事にも興味を持って自分でもやったりしました。   中学では家族のご飯を時々作っていました。  ポルトガル料理との出会いは22歳ぐらいでした。  35歳の時に本格枝的に取材をして、有名なマリア・デ・ルルデス・モデストさんの料理の本に出合いました。  20年間に渡ってポルトガル全土を回って郷土料理をピックアップした中から絞られた800~1000ぐらいのレシピです。  10日間取材旅行をして、私の口に合いました。  その後1か月間ぐらい取材旅行に行きまました。  そのころパートナーもめちゃくちゃ忙しくて、いつも夜中に帰って来る状態でした。

悩み事をポルトガルの取材した人に打ち明けると、子供を持ちたいのであれば持った方がいいと言われました。  子供を持つとまた人生に違った視点を持てるから豊かになると言われました。  夫と話し合いを重ねて38歳の時に長女を出産しました。  考え方の何もかも変わりました。  子育てをしながら仕事をする大変さも知りました。  仕事だけだった自分の時間が半年間ぐらいは仕事の時間はほぼゼロになってしまいました。  1年間は保育園にも入れられませんでした。  寝ないタイプだったので、泣いてしまって、睡眠時間がなかなか取れませんでした。  

小児科医・松田道雄さんの平凡「育児の百科」と言う本があり、具体的なアドバイスもありますが、心のアドバイスも沢山あり、それに支えられました。   最後にダンテの言葉を引用して、「汝は汝の道を進め。 そして人々をして語るに任せよ。」 と書いてあり、この言葉がずっとわたしを支えてくれました。( 他人というものは無責任にあれこれと口を出すものなのであり、それを参考にするのは良いのだが、あまり気にしすぎると正しい選択や判断ができなくなるということである。) 何をしてあげるという事ではなく、楽しく一緒にいることが大事なんだという風に、考え方が定まって、自分が楽しくいることで子供も楽しくなるという事を大事にしていこうと思いました。 娘が10か月の時に、別れて一人で育てて行った方が、私が楽しく生きることを大前提にしたら別れた方がいいと決断しました。 

2024年娘が中学3年生の時に「塾前じゃないごはん」を出版。  塾へ行く前にご飯を食べさせるという生活ルーティーンが生まれます。  塾前ではないご飯、ゆっくり食べられる。  娘とのエピソードも盛り込みました。   親が出来事は見守るしか出来ない。 見守るという時には余計なことは言わない。  














 

2026年1月22日木曜日

土屋礼央(音楽家・ラジオパーソナリティー) ・肩のチカラが抜けたとき…

土屋礼央(音楽家・ラジオパーソナリティー) ・肩のチカラが抜けたとき…

 土屋礼央さんはミュージシャンであるかたわら、鉄道、野球、サッカー、F1など様々な趣味を持ったマルチタレントとしてテレビで活躍しています。 「肩のチカラが抜けたとき」と題して、順風満帆の芸能生活で突然であった転機と、そこにどう向き合ったかという体験をお話しいただきました。 

1976年東京都国分寺市生まれ。  中学2年の時にミュージシャンになりたいと親に宣言していました。  子供のころに合唱を経験しました。 幼稚園の時に「コダーイ・メソッド」という最初の音だしぐらいはピアノを使うが、ピアノを使わないで、周りの声や自分の声で気持ちいい音を探ってゆく、耳の力を育てたいという教育を受けました。  自分のメロディーに変えたりして、オリジナルソングは楽しいと思っていました。  高校では自分に合った音楽のクラブはなかったので、卓球部に入りました。  進学校でしたがミュージシャンになりたいと言って、家で曲を作っていました。  

早稲田大学のバンドサークルが早稲田大学にオープンカレッジがあって、高校卒業後もぐりこんでいました。 夜な夜な曲を作っていくという事が数年続きました。  一緒にやろうという女の子たちがいて、合宿でそこではじめて人前でオリジナルを歌いました。  こんな演奏では人に届かないと人に擦り付けてと言ったことを繰り返していました。  4年目に良かったと言われれのが、「ラブラブなカップリフリでチュー」でした。  その後「ズボンドズボン」の一員になりました。 「RAG FAIR」に卓球部の後輩が入って、彼から声がかかって参加しました。  RAG FAIR」が北上のイベントで、お金を貰うイベントで、ミュージシャンを目指している身として、重要な経験だと思って参加しました。 アカペラがダサいと思うようになったことを箇条書き出してみました。 それを解消するようなやり方をすれば、元に戻れるのではないかと思いました。  お客さんに向けてのエンタメアカペラをやろうと提案して、やり始めました。  

2002年に第53回紅白歌合戦に、RAG FAIR」で出場しました。(デビューして1年)   自分で作ったものが、 「ラブラブなカップリフリでチュー」で行きたいと言っているレコードメーカーの社長がいるという事は、自分で作ったものが生活をしてビジネスしたいと言ってくれていることが非常に感動しました。  浮かれると言いうよりも、大変なことになったという事がデビューが決まってからです。   デビュー日のライブのパフォーマンスがありましたが、地上波のゴールデンタイムの生中継の放送でした。  紅白歌合戦が決まって事務所は本当に喜んでいました。  僕は最初のうちはいい加減にしてくれとしか思わなかった。 (また忙しくなる。 曲も作れていない。)  後で聞いた話だと土屋家及び親戚が全員集まって僕の応援をしてくれていたという事を聞いて、ほんとうに出てよかったと後悔の思いが多いぐらいです。 

深夜放送のDJの話がありました。 アカペラを褒められるたびに自分を否定され続けられるようになっていました。  土屋礼央で仕事をしたいと言ってくれる人への嬉しさ、喜びがあり、これは全力で挑もうと思って快諾しました。  あれがあったから今のラジオ人生があります。  その間も「ズボンドズボン」、RAG FAIR」、音楽もやっていました。 DJをやっていて、質問が有ったら一つぐらいは返せるようにした方がいいと言われて、好奇心が湧いてて、人の3倍生きてみようと思いました。  アンテナを張って学んでいけば、同じ24時間でも72時間分の情報を入れたら、一個一個同じ気持ちでやれるのではないかと思いました。 それからが面白い人生になりました。 

或る時に声が出なくなりました。 (脳のストレスと思われる。)  しゃべりもでなくなる時もありました。  だましだましやっていたが或るライブで声が出なくて、迷惑をかけると思ってライブを止めました。  結婚して子供もいるので、生業としていた歌が歌えなくなりました。  生放送のラジオは声が出たのでそちらに腹をくくれました。  落語を習っているうちに口も滑らかになり、歌も歌えないなら楽しめばいいと思いました。 若者へのアドアイスをしたらいいのかなあと思いました。  そういったことをやっていたら物凄く仕事が増えました。  「肩のチカラを抜く」と言うとらえ方もできるし、自分は成功者だと思って振り返って見ると、結構なアーカイブは残っているし、自信を持ってもいいんじゃないの俺ってと思えたら、これからの人生は楽しいんじゃないかあと思います。  

どこを大事にしたいというところがあれば、何があっても自分の心は折れないような気がします。  若い頃はどんどんとがって、人に迷惑をかけても許されるような年齢の時には、自分の信じたことを徹底してやって、そこで反省して、傷ついて人のために生きようとようになるので、徹底してとがっていいよと、それを守るのが大人の責任だと思っています。
























2026年1月21日水曜日

原辰徳(前読売ジャイアンツ監督)      ・原辰徳が語る~夢の続きのそのまた続き~

 原辰徳(前読売ジャイアンツ監督)      ・原辰徳が語る~夢の続きのそのまた続き~

原さんは1958年生まれ。 1980年代から90年代中盤にかけて、巨人の4番に座り選手として6回のリーグ優勝、3回の日本シリーズに貢献しました。 選手引退後はコーチを経て2002年から2年間、2006年からは10年間、2019年から2023年までの5年間の通算17年間球団歴代最長の長期にわたって、読売ジャイアンツの監督を務め、監督としてリーグ優勝9回、日本シリーズ優勝3回、アジアシリーズの優勝、WBC(ワールドベースボールクラシック)日本代表監督としても 見事優勝を果たしています。 

昨年11月日韓ドリームプレイヤーズゲームが北海道でありました。 両国のレジェンドが集まって交流の試合でした。 その時の日本の監督を担当、相手の監督が、キム・インシュク監督でした。  2009年の時は5試合戦って2勝2敗で決勝戦(世界一を争う)監督です。   40,50歳代の選手が集まっても一生懸命にやりました。  今年3月に第6回WBCがあります。  第2回WBCは星野さんで戦うものと思っていました。 そうしたら私の方に話が来ました。  西武と日本シリーズを戦っている最中なので、終わったらしっかりお話させてくださいと話しました。  受けると言う事でスタートしました。 第1回目は世界一になりました。  二回目もいいメンバーが集まりました。 まずイチローに連絡しました。 

最初イチローを3番にして世界一を取ろうと決断しました。 1番はヤクルトの青木選手、2番西武の中島でスタートしましたが、結果はイチローはあまり良くなかった。  コーチと相談した結果、イチローを1番、青木を3番にしました。  選手と言うのはプライドもあり、強くもあり弱くもあります。  そんななかでお互いが「独り言」という事で、意見交換をしました。  決勝の延長戦で2アウト2塁3塁でイチローの勝ち越し打で勝負が決まりました。  その前に2アウト1塁3塁で1塁走者を走らせました。 それで2,3塁となり相手がどう出るか相手側のベンチの動きを観察しました。  キャッチャーはベンチの方を見ています。   監督とピッチングコーチは話をしていて、何となく決断が出来ていなかったように見えました。  歩かせるのではなく勝負するんだと思いました。 イチローは4つファールが続いて、ボールもあり8球目にセンター前に打つ。   

父はWBCの日本の全試合を見てくれました。 父は優勝の表彰式をみて、感激したんでしょう、私に電話をしてきました。  「お前にもう何も言う事は無い。 本当におめでとう。」と言ってくれました。  私はプロ野球の選手になりたいという思いはありましたが、監督になるという事は全く思っていませんでした。  長嶋さんの元で3年間コーチをして、命を受けて監督になるわけです。   監督は、決断、戦法、戦術、セオリーなど当然勉強するわけです。   

父が監督をしていた高校1年の時の試合で、2アウトの時に9番(鈴木さん)がフォアボールで1塁に出ました。  サインを見ていたら初球に盗塁のサインが出たんです。   鈴木さんは果敢に走って、砂埃の舞った直後、セカンド審判がセーフと言ったんです。  あれ以上の作戦は無いと思いました。  ゲームが終わってうちの父がミーティングをしました。   1点ビハインドの中、ああいったシチュエーションで、あそこで出さないでどこで出す。  日頃からの準備があったからこそ、鈴木にスチールを出した、成功するに決まっているじゃないかといって、僕はそのミーティングのことが残っています。  そこが僕の原点でした。  僕は思い切った戦術、戦法は使いました。  

クライマックスの中日戦ではノーアウト1塁、二塁でセオリーで行くとバントで1アウト2,3塁ですが、1点が取れない場合もあります。 その時に左ピッチャーだったし思い切ってダブルスチールのサインを出しました。 (しびれましたが) 結果ノーアウト2,3塁となり、好転してクライマックスをジャイアンツが勝つことが出来ました。  成功する確率が高いことを思いこまないと駄目ですが、闇雲にと言うのは駄目です。 そのための準備は必要です。   

父はゴルフが好きで一緒に回る時には、ハンディーを2貰っていまいたが、その後はハンディー2をあげていました。  父は78歳で他界しました。  ゴルフを終わって家に帰って来て、心筋梗塞で25日間頑張りましたが、亡くなりました。  父の教えの中にチャレンジャーでなければいけない、という事があります。  三池工業高校の監督をしていた父は東海大第一高校をコテンパンにやっつけました。  東海大第一高校への監督の要請があり、静岡に行くのかと思っていて「都には学校が無いんですか。」と言ったようです。 都で勝負をしたかった。(チャレンジャー)  

心の中に目的、目標を持って、寝て朝起きると差が違います。  ゴルフもシニアーオープンに出たりして、飛距離は260ヤードぐらいは出ます。  若い頃にはジャンボ尾崎さんと廻ったりしましたが飛距離はそん色なかったですね。  ゴルフは我流でやってきましたが、教えてもらうようになって、なるほどなあと思う様になりました。  

WBCが開催されますが、相当打倒ジャパンと言う中で戦わなくてはいけないので、今年又世界一になるというようなことであれば、胸を張れることだと思います。 












2026年1月20日火曜日

いとうまい子(女優・タレント)       ・元アイドルから研究者への道へ

いとうまい子(女優・タレント)       ・元アイドルから研究者への道へ 

いとうまい子さんは1964年愛知県名古屋市生まれ。  1983年に「1億人のクラスメイト」と言うキャッチコピーでアイドル歌手してデビューしました。  ドラマやバラエティーなど数多くのテレビ番組に出演し、ドラマ「不良少女とよばれて」ではヒロイン役を演じ、高視聴率を記録しました。 その後は社会問題にも目を向けようと2010年に45歳で早稲田大学に入学、予防医学、ロボット工学、基礎老科学を専門にするなど、研究者としての道を歩んでいます。  常に新しいことにチャレンジし続けているいとうまい子さんに、人生を前向きに生きる為の秘訣や、その思いについて伺います。

今は研究よりも大学生に教えることの講義のスライドを、来週は何を教えようかとかという事を毎日書いている感じです。  4年生を担当しているので卒業論文についても担当しています。(初年度) 

1983年に歌手としてデビューしました。 ドラマ「不良少女とよばれて」ではヒロイン役を演じ、高視聴率を記録しました。  デビューして5年ぐらいで事務所を辞めました。  青春映画なので安心していいよと言われたら、ある時突然脱ぐこと言われて、実は撮影前から私が脱ぐという事が決まっていたようでした。  仕方なくやりましたが、その後写真集でも脱ぐという事を言われて、飛び出すように事務所を辞めました。  それからは10年ぐらいは親しくしてくれていたスタッフなども見向きもしてくれなくなりました。  仕事はなかったが舞台だけはありました。 30歳過ぎまでは地をはいつくばって生きている感じではありました。 段々周りの人の力添えがあって生きているんだなと感じるようになりました。 

恩返しをしたいと思うようになりました。 大学に入って恩返しできるものを考えてみたいと思って、大学に進もうと思いました。  兄が飼っていたゴールデンレトリバーの「アトム」を一時期預かって飼っていた時期があり、アトムが「生きているだけでいいんだよ。」「そのままでいいんだよ。」って、教えてくれました。  嬉しい時には本当に無邪気に喜び、悲しい時にはしょんぼりするんです。  自分らしく生きて行こうと思いました。 

大学に入る前にある仕事で教授からの話を聞いて、医療の現状において、ちょっとでも自分で予防すれば、医療費もかけずにもっと幸せに健康でいられるのにという事を聞いて、予防の大切さという事が頭に残っていました。  予防医学を学べる大学を捜して、2010年に早稲田大学人間科学部eスクールに入学しました。 (その前の面接では3人の教授から、貴方のような職業の人はすぐ辞めるから入れたくないと同様に言われました。) 学校は27年振りで本当に大変でした。(45歳)  俯瞰して観る自分がいて、そうすると人生楽になります。  予防医学を続けるつもりでしたが、先生が定年退職という事で行く当てがなくて、友達からロボット工学を薦められました。  大学院人間科学研究科修士課程へ進学、そこで作ったのがロコピョン、老人と共に一緒にスクワットするロボットを作りました。

大学4年までではまだ恩返しできるところまでは来ていないと思って、大学院へ進みました。企業の方と一緒に開発したのがロコピョンでした。 ロボット工学は修士課程迄でしたが、博士課程は違う事を始めました。  基礎老化学の講義があって凄く興味がありました。   その教授に相談しら、教授会でOKがでれば引き受けられるという事でした。 その教授会の重鎮の方々が来て、ロボットをやっている人間が生命科学なんて無理だと言われました。  教授たちがいろいろな質問をしてきましたが、基礎老化学の講義を2年間しっかり勉強してきていたので全部答えられました。  OKとなり博士課程は基礎老化学の方に入りました。    

全然知らないことを学びたいという事が根底にあって、誰かが扉を開いてくれてそこに入ってしまうという感じかもしれません。  カロリー制限模倣物の探索と言うのをやっていました。 カロリー制限をするとどんな動物でも、健康寿命が延びるんです。 がん、疾患、糖尿病とかに罹らず健康なまま寿命を迎えるというのが報告されているから、人間でも行けるはずですが、カロリー制限はつらいですね。  赤ワインに含まれるレスベラトロールと言う成分はマウスではカロリー制限模倣物で、それを大量に摂取すると若いまま死を迎えるといういことが発表されて、サプリメントも出ています。  しかし人間には誰も証明されていない。  

日本人が食べる日本ならではの食材にそういった化合物が含まれていたら、いろいろ組み合わせて食べたらカロリー制限していないのに細胞が勝手に勘違いしている物質があるのではと、それを捜して実験をしていました。  博士課程でずっとやっていて、その後研究生になっても探していましたが、去年の3月に期限切れで追い出されて続けられなくて、ある紹介で今は東大の研究室のタンパク質などの構造解析をやっています。

ヒューニング、「ヒューマン(人間)」と「チューニング(調律)」を組み合わせた造語で人が本来持っている能力を最大限に引き出し、最適な状態に調整することを指します。    私がさ迷って這いあがってきた、これが言語化されているという事が判って、こっちの方が大事だという事で、ヒューニングを教えたいと思いました。 目の前のことを一生懸命にやると何かに道が必ず開けます。  しかも「感謝しながら謙虚に」、これに尽きます。 誰も幸せにはしてくれない、幸せは自分が感じるものなんです。  










2026年1月19日月曜日

大藏教義(能楽師狂言方)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠         

大藏教義(能楽師狂言方)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠 

私(大藏基誠)の父の弟(大藏吉次郎)の長男が大藏教義です。(従兄弟)  コロナ前まではNHKの職員の方に狂言を教えに父(大藏吉次郎)は来ていました。 祖父の代からで40年ぐらいになります。 今回101回になります。(9年)  

狂言は基本的には喜劇です。  人間が失敗してしまったり、日常生活の中でしでかしてしまう、慈愛に満ちた笑いで包んでくれるような優しい笑いがテーマです。  いい笑いはお客様が家に帰って布団に入って、思い出してフフッと笑うのがいい笑いなんだよと言っていました。狂言は能と共に室町時代から約700年間受け継がれてきています。  狂言をやっているとお化粧をするのかとか(化粧はしない)、かつらは被るのかと言われます。(ほとんどの場合は現代の普通の髪型のまま演じます。)

言葉が難しいとは言われます。  能の方が難しい言葉使いです。  聞いていれば段々判って来ます。

「名乗り」は必ず、能でも狂言でもあります。 戦の時の「名乗り」から来ているのかもしれない。  舞台は何もないので想像力を使ってみてもらいたい。  狂言に出てくる女性は皆強いですが、根は優しい。    

「髭櫓」のあらすじ

大髭が自慢の男が、大嘗会で犀の鉾を持つ役に選ばれたと言って喜んでいる。だが、新しい装束を仕立てるという話に妻は「うちは貧乏でそんな余裕は無い」と役を断るように迫り、さらに「その髭があるのが悪い」と自慢の髭を剃り落としてしまえと言ったため、怒った男は妻を打擲する。これに対して妻は近所の女たちと示し合わせ、熊手長刀などを持った女たちを引き連れ攻めてくる。男は髭を守るために髭の上に櫓()を組んで立ち向かうが多勢に無勢、ついに巨大な毛抜きで髭を引き抜かれてしまう。

大蔵流では原稿が180曲あります。 能っぽいものもあります。 間(あい)狂言も入れると300曲近くあります。 

「鈍太郎」のあらすじ 

鈍太郎は3年ぶりに都に戻り、下京の本妻と上京の愛人のもとを訪れます。しかし、どちらの女性も鈍太郎を信用せず、戸を開けてくれません。本妻は棒使いの男と、愛人は長刀使いの男と住んでいると嘘をつき、鈍太郎を追い返します。失意の鈍太郎は出家を決意しますが、後に本妻と愛人は鈍太郎が本物だと知り、出家を止めようとします。 最終的に女性たちの手車に乗って囃しながら退場する滑稽な物語です。

狂言でも大蔵流では最高級ランクの「釣狐」、「花子(はなご)」、「狸腹鼓」を私(大藏教義)はやらせてもらいました。  「狸腹鼓では母親の母性を如何にだすかと言うのが難しい。   「狸腹鼓」は、猟師に狸をとることを思いとどまらせようと老尼に化けた古狸が、正体を見破られ、命乞いのために腹鼓を打ってみせるという狂言。数多い狂言の曲のなかで最も重い曲とされる。   


狂言ではオノマトペ(擬声語)を用いる。  障子を閉める音、お寺の鐘の音、犬、鶏の鳴き声とか。  










  

2026年1月18日日曜日

串田綾香(「アール・ブリュット」 アーティスト)・NHK障害福祉賞受賞者に聞く

串田綾香(「アール・ブリュット」 アーティスト)・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 

NHK障害福祉賞は障害のある人自身の貴重な体験記録や、福祉の分野での優れた実践記録に贈られるもので、串田さんんは463点の応募の中から最優秀賞に選ばれました。  奈良県在住の37歳、小さいころから人と会話するのが苦手でした。 周囲に適応するあまり体調を崩し、20歳の時に広汎性発達障害と診断されます。 静養しつつも焦燥感にかられるなか、絵を描くことで自信を取り戻し、再び人や社会とつながるまでの日々を「アール・ブリュット」と題して綴りました。 

受賞については、柳田邦夫先生もおっしゃっていましたが、「アール・ブリュット」というテーマが大きかったのではないかと思います。  「アール・ブリュット」と言うのは、正規の美術教育を受けていない人が、自身の内側から湧き上がる衝動のままに表現したり、美術作品をさすそうです。  私は絵の専門知識はゼロで美術に成績も並み以下でした。 

今迄お世話になった方々への感謝を伝えて、その思いを繋げたいと思って応募しました。 自分の苦しみを見つめて外に発信する事は辛いと思いましたが、伝えたいことが大きかったので覚悟を決めました。 8000文字近いと思います。 

冒頭部分

『普通になりたい。 私は今まだ溜め込んでいた感情をすべて吐露するかのように、嗚咽しながら泣きじゃくった。 「何かあった。」母は優しい声でしかし動じることもなく、私に尋ねた。  クラスの子が私のことを普通じゃないって、仲間はずれにする。  何で私は普通になれないんだろう。 「普通じゃないって個性的という事でしょ。 個性的な人って面白いから私としては少し羨ましいけどな。 でも仲間は外れは辛いね。」 母はいつだって優しい。 私はそんな母が大好きだ。』 

これは小学校低学年の頃です。 自分が属する集団の大多数が普通だと思い込んでいました。 私は会話が苦手で常に緊張して、話せなかった。  クラスの大多数の人について模索する。 ノートにどんな風に過ごしているか、どのように会話しているのか、などをメモして自分なりに整理していました。  答えが見つかるのではないかと思いましたが、間違った答えが見つかりました。 それを模することが社会で生きてゆく中で、正解だと勘違いしてしまいました。 

「高校生になり私が擬態することを覚えた。 そうすると友達のいなかった私の周りに一気に友達が増えた。 しかし、過剰に人に合わせるという事は、本当の自分を殺すという事。   気付くとその反動から心はからからに乾いてゆき、まるで壊れかけの機械のように私の心は空っぽになった。」 この部分です。 

他の人が笑ったら笑ったりとか、気に入られようとしていました。 相手中心で、きっとこうしてほしいんだろうなとか、そういうことを察して自分が動いていました。  自分の身体と心が離れてゆくような感じでした。  高校3年間その状態が続いて、その後は精神疾患でどうにもできなくなって休養した感じです。 クリニックに行って広汎性発達障害と診断されます。(20歳過ぎ)  生まれつきの脳の特性によるもので、コミュニケーションが苦手だったり、得意な事と不得意な事に大きな差が有ったりします。  私の場合は情報処理能力が低くて会話が苦手なんです。 

医師から「今までお疲れ様です。」と言われて、涙が止まらなくなりました。 今迄の辛かったことがバーッと流れ出るような感じでした。  気持ちが少しずつ楽になって行きました。  同級生が就職、結婚などのうわさを聞きましたが、引きこもったままで自分はこのままでいいのかなと思いました。    

一人の或る製作動画を見て、自身の内側にあるものを描き続けたいと思いました。  自分の描きたいものが形になったと思いました。  最初のものは点描画でした。  使っている色は明るいものです。  心の中はまだうつうつとしていましたが、描き出すと明るい色が自然に出てきました。  衝動のままに描く「アール・ブリュット」   私の絵は構図も独特で線にゆがみもあります。  生きる事、命を尊重することの表現が私にとっての「アール・ブリュット」だと思います。  

作家登録をして作品が採用されると、収入を得る事が出来る福祉団体を知る事ができました。登録をしていろいろな企業からオファーがありました。  社会とつながるきっかけになり感謝しています。  その後就職をサポートして頂き、今の基盤ができました。   フルリモート勤務で週4日で仕事をしていて、 大半は絵画制作に宛てています。  会話の苦手な私でもハードルの低いコミュニケーションだと感じています。 

体験記を書くことによって、かなり上質な自己整理になりました。 3日間で書き上げました。 支えられていたばかりだと思っていましたが、私も受賞を受けて私も誰かの役に立ってたらなと思う気持ちが強く芽生えました。 アートを通じたピアサポート同じ体験をした仲間(ピア)が相互に助け合 う(サポート)こと)を始めてみたいと思いました。  3月には講演、ワークショップ、原画展示などをさせていただくことになりました。   会話が苦手なのでその私が考えるコミュニケーションとはと言うところを、絵を通じて伝えていきたいというところのサポートを考えています。 今いる環境が本当にあっているのかと言う問いかけをして欲しい事と、自分を受け入れてくれる、理解してくれる環境が有れば、その人の個性や価値は180度変わりうるという事を伝えたくて、応募しました。   

体験記の結びの部分。

「これからも企画やイベントなど様々な人との出会いを通じ、多くの人と未来と言う大きなキャンバスに、可能性と言う色を塗り続けることで、誰もがそのままの自分で輝ける世界を創造してゆく、私の創作活動はそのためのちいさな一歩だ。」

柳田邦夫氏の選評の一部。

「人は自分の内面を表現できるようになると、人と交わえるようになり、自己肯定感を持てるようになるものです。  これからも自分をいろいろなかたりで表現するように、道を捜してくださいね。」

私は環境に悩んで環境に助けられてきたので、環境の大切さを今後も絵を通じて伝えていきたいと思います。

「声」  岸田さんの詩

曇る小瓶のコルクを外す  そっと広がる星の砂  どれも誰かの宝物

時々混じる水色を  声は風  今日も種をふるわせて






 









  








2026年1月17日土曜日

堀内正美(俳優)              ・阪神・淡路大震災 その後を支え続けて

堀内正美(俳優)              ・阪神・淡路大震災 その後を支え続けて 

まもなく阪神淡路大震災から31年、5時46分が発災の時刻です。 阪神淡路大震災の発災の直後から市民をささえる支援活動に奔走し続けた俳優の堀内正美さん(75歳)、震災後俳優を続けながら神戸で被災地を支援する「頑張ろう神戸」の活動を始め,NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」を設立して追悼行事も行い、犠牲者の遺族に寄り添う活動を続けて来ました。  堀内さんにこれまで語ってこなかった震災の時の経験や、当時を振り返って今何を思うのかを聞きました。

僕は東京生まれの東京育ちで、神戸に移住して11年目に阪神淡路大震災と遭遇しました。   いまだに当時の震災のことを語れない人がいます。  連れ合いを、親を、子供を、友人を亡くされた方それぞれに喪失と悲嘆ってそれぞれに違って、一概に何年経ったからもう忘れません?、生きている方が大事だから、みたいな話はなかなか経験できないという事を凄く感じます。   濃厚な日本の文化は関西から始まったんだろうなと思って移り住みました。 神戸は僕としてはぴったりな場所でした。 

六甲の北側に住んでいました。  床が真下からドンと突き上げられました。 身体が浮く感じで、そして床に落ちる感じです。  次の瞬間に地底から地鳴りがゴーッと迫って来て、家がバリバリバリと揺すられました。  横にいる息子に覆いかぶさるしかなかった。  洗面所に行こうと思ったら扉があかないんです。 運悪くモップが斜めになっていてあきませんでした。 (扉の周りには絶対棒は置かないようにして下さい。)  南を見たら煙が立っていました。(火災と思った。) 直ぐに車で飛び出しました。 スーパーの建物が倒れて道路をふさいでいました。 衝撃的でした。  倒壊している家から人を助け出そうとしている人たちを見出しました。 (当時2℃) 僕は車から降りる時に手袋マフラー、防寒着を着こんでいきましたが、 助け出そうとしている人たちの姿はほとんど素足で浴衣とか、ステテコとか、寝ていた状態からの姿で必死になって、助け出そうとしていました。

助けられた人もいましたが、梁が動かせなくてどうしても助け出せない少年がいて、火がどんどん回って来て、母親が泣き叫ぶのを引きはがして、そんな自分の無力さ、助けられなかったことに、目頭から目じり迄ナイヤガラのように涙が出て、そんなな経験は初めてしました。  自分の行為がそれでよかったのか棘のように刺さっています。(一緒に行かせてあげればよかったのかもとか思うとか)  

その場にうずくまっていたら「何ぼーっとしてんだ。 早く来い。」とその時に思い切りひっぱたかれた感覚、でもそこに希望が見えたんです。 自分でやらなければと言う気付きのきっかけになりました。 震災が火曜日で、僕がラジオのパーソナリティーの番組の金曜日でした。 その番組では安否の情報、電話のやりとりなどしていました。 人が足りないと思って木曜日の夕方早めに行きました。 局の人間から連絡が入って、「堀内さん 来ないでくれ。」と言われて、「局は全壊です。」 スタジオは4つあるが3つは潰れて、残った機材を持ち込んで1つはなんとかそこでやっているという事でした。 ただ余震がきていつ潰れるかもわからないから、来ないでくれと言う連絡でした。 でも局に向かいました。  

大丈夫そうだと思って中に入って行ったらぐしゃぐしゃでした。 余震が来ると壁から落ちてきました。  そんな中で手伝いましたが、内心は怖くてしょうがなかったです。 13階建ての2階の部屋でいつ崩れるか判らない状態でした。  トイレに行く振りをしてビルから出ました。  車に乗ってエンジンをかけたら、ラジオに今やっている仲間の声が聞こえるんです。 淡々とした声が聞こえてきていました。  そのまま車で帰る事は出来ましたが、戻りました。

電話を受けると混乱している人なのでなかなか切れない。  「頑張りましょう。」と言うと電話が切れるんです。 (同じ目線での言葉。) それまでは「大丈夫だからね。」と言った上から目線的な言葉だった。   「頑張ろう神戸」を立ち上げる。  神戸は150万人都市ですが、山側には半分近くが住んできまが、道路は壊れていなくて、スーパーとか店は全て開いていまいた。  避難所では冷たいおにぎりを1つを家族4人で分け合って食べている時に、スーパーに食べ物の確保をしています。  僕がポリ容器で水を運んでいたら、「頑張って下さい。」といってその人は車の洗車をしていたんです。 その人たちはいけないのではなくて、何をしていいのか判らないからそうなってしまう。  これを記録に残さないといけない。

東日本大震災の時にも同じようなことを繰り返している。 遠い地方からお湯を運んでいますとか、牛乳を、支援物資を運んでいますというようなことをメディアは発信していた。  失敗の記録をちゃんと伝えていたらそうはならなかったと思います。 お湯だったらすぐ近くから運べるでしょう。  隣町同士が協力する。 都市間協力とか。  それが日本の文化、「困った時にはお互い様」「向こう三軒両隣り」それが壊れてしまったから今みたいな時代になった。 それをもう一回再生するしかない。  広島では原爆のときには地域の協定が出来ていた。  腐るといけないということで焼きおにぎりがうすぐに届いた。 被爆して生き残った人は10日間食べるものに困らなかった。 そういう発想で助け合う仕組みを作らないと同じことを繰りかえす訳です。  

救急バックは被災者にそのバックが提供できれば、少なくともその方は2泊3日分ぐらいの食べ物飲み物を渡せるわけだから、他者の為のバックとして自分が預かっていると考えれば、おたがいに有効活用が出来るのではないか。  手紙、名前、男性、身長○○cmとか書いてあるバックを全国から、それを被災地に届ける。 東本日本大震災の時にはそれを実施しました。 実名付き合いをすると親戚付き合いのようになります。(リンゴ、サンマなどが届いたとか、私に連絡がありました。)  熊本の方が岩手に届けたバックで岩手の方と繋がって、今度は熊本の方が被災したんです。  今度は岩手の方がその方の支援を始めるんです。 支援を必要としてい居る人が何を必要としているかを知ることが大事です。  そのためには個人と個人が繋がることが大事です。 地域のインフラとして支え合う仕組みと言うのを作って行かないと、救える命が救えなくなる。 

喪失するという事は、自然災害だけではなくて、事件、事故、自死もあります。 残された家族の人たちが、涙を流せる場所がないので、プラットホームを作ると言いったら、私たちも行きたいといって、来てくれるようになりました。 今をどうやって生きているのか語り合うような関係が1月16日の夜に繰り広げられるようになりました。  12月31日が大晦日ですが、ここの地域の人たちは1月17日が終わるとやっと新年なんです。 1月16日は大晦日なんです。 そんな場になっています。  場があれば人は集まって来て、そこで何かが始まる。 社会って、困ったこと、苦しい事、しんどい事、困っているんだという事をまずいう事、今の社会は言えなくなってきている。  声を出すことがまず大事だと思います。  人を信じて弱いところを見せる、それしかないいじゃないかなあ。  手を差し伸べてくれる人は必ずいます。




















2026年1月16日金曜日

むらいさち(写真家)            ・世界中を“ゆるふわ”で撮る

 むらいさち(写真家)            ・世界中を“ゆるふわ”で撮る

千葉県の写真家むらいさちさんは明るく淡いパステル調の作風が特徴です。 陸上だけではなく水中で風景や生き物を撮影する方です。  写真なのにどこかメルヘンチックで絵画のような作風は“ゆるふわ”と呼ばれて、展覧会には毎回多くのファンが訪れます。 去年は念願だった南極での撮影を実現して、今年夏には大規模な写真展を控えています。 むらいさんに“ゆるふわ”写真の魅力や自分のスタイルを確立する迄の歩み、撮影に込める思いなどを伺いました。

沖縄でスキューバダイビングのガイドをしていて、カメラマンになりました。 手元には写真集があります。 全体的にふわっとした感じです。 “ゆるふわ”は自然と定着した感じです。   シャッターを押す時って、心が感動した時なんですね。  綺麗なもの、明るいものを見た時に心が反応します。  試行錯誤する中で作品が出来上がって来ました。  海のなかは明るい青が基調になっています。  見せたいところだけにピントを合わせて、あとはふわっとぼかすようにすると自分の思いも伝えやすいです。  ストロボを使っているので変に影が出ないような撮り方をしています。(黒が好きじゃあないんです。)  絵と思われるような写真を撮っています。  

かき氷とシロップの写真もカラフルです。  下が黒いテーブルですが、鏡みたいに反射してうえがリアルで下が非現実の世界と言う風に対比させることによって、ファンタジーな感じが出せます。  2025年は色々なところで展示会をやらせていただきました。  12月に新宿で南極での写真を展示して、ペンギンに沢山の人が喜んでもらえました。  

沖縄でスキューバダイビングのガイドをしていて、27歳の時にダイビングの雑誌社に入る事になりました。 水中写真はそこから勉強を始めました。  モノクロで撮っていました。   自由に撮りたいという思いがあって独立しました。  当時はリアルに、瞬間を写す、きっちり写す感じでしたが、違う路線で戦おうと思いました。 陸上ではふわっとした写真を撮り始めていたので、水中に取り込めないかなと思いました。  試行錯誤を重ねているうちにデジタル化になって、何枚も撮れるようになって個性が出せるようになりました。 ふわっとした明るい写真を撮るようになりました。  普通に撮ってくれと言う依頼と、ふわっとしたものとが半々になって来て、自分は“ゆるふわ”だけで行こうという時期があり、そちらに舵を振りました。 (40歳ぐらい)  

今や認められて、明るくふわっと撮る人も凄く増えてきました。  世界中の南の方、東南アジア、ハワイ、インド洋とかで海辺が多いです。  カメラを持つとカメラの目になるんで、身の回りのものも撮ったりもします。  日常でもいろいろ刺激があるので楽しいと思います。

子供のころから南極に憧れていました。  「南極物語」の霞の中からタロウとジロウが走ってくるシーンが今でも鮮明に覚えています。  50歳になって今ならいけると思って、行くことになりました。(2年ほどの準備期間)  アルゼンチンの一番南の街から南極へクルーズ船が出ています。 その街まで飛行機で2回乗り継いで2日かけて行き、そこから船で南極にいきました。  20日間のクルーズ船でいろいろな島を回りながら南極まで行きました。 南極ではクリオネにも出会いました。  

サウスジョージア島では一面ペンギンだらけでした。(衝撃を受ける。)  数頭のペンギンが居て、一番前のペンギンが海へ飛び込む瞬間の写真は一番思い入れがあります。  クルーズ船内でのフォトコンテストがあって、この写真を出したら1位になってしまいました。   僕の“ゆるふわ”写真をみてジャパニーズスタイルという名前を付けてくれて本当にうれしいです。  僕の目標は写真で人を幸せにすることなので、この写真を撮たらだれかが笑顔になってくれるのではないかという思いが根底にあって、今一番熱いのが水中写真です。  そこを追求していきたいと言う思いがあります。 水中は毎回環境が変わるので飽きないです。 































2026年1月15日木曜日

徳本修一(農業法人代表)          ・I AM A FARMER

徳本修一(農業法人代表)          ・I AM A FARMER 

徳本さんは50歳、鳥取市で110ヘクタール(東京ドーム24個分)の大規模な面積で米作りを行っています。  田植えを行わず、水を張った田に直接種を蒔く灌水直播や水を張らない田に、種を蒔く乾田直播、ドローンの活用など革新的な技術で低コストの米作りを成功させ、SNSで動画配信しています。 徳本さんは消防士、タレントのマネージャ―、歌手、ITベンチャー役員など遍歴し、2012年に故郷鳥取にUターンして、農業を始めました。

米の出来は全体的には悪くなかったんですが、後半で直接種の物が取れなくなってしまいました。  鳥が田んぼに蒔いた種を食べていくんです。  対策はしてきたんですが、想定していなかったようなことが起きてしまいました。  灌水直播の為の専用の機械はあります。 ドローンで種を蒔くアプローチもしています。  7割が灌水直播で3割が田直播です。 2019年から始めましたが、最初は田植えをしていました。  直蒔きには切り替えたいとは思っていました。  直蒔きの試験は繰り返していました。  倒伏しづらくて収量が多い品種を選ぶようにしています。 「虹のきらめき」、「しきゆたか」など。 「コシヒカリ」などは茎が細くて上に伸びる品種なので倒れやすいです。 110ヘクタールを2人で管理することになりました。 農地は全て借りています。 地権者は約200人です。 出荷先はJAと民間、半々ぐらいです。  

鳥取のJAは生産費払いと言う形で農家さんから米を引き取るというやり方に変えました。 (経費プラス儲け)  鳥取では1ヘクタール未満の耕作者は84%です。  面積が小さくなるほど生産原価は高くなる。  60kgで2万2000円です。  うちでは生産原価は60kgで1万円はきってくるぐらいにきています。  

ドローンで種を蒔く以外に肥料を撒いたり農薬を散布したりしています。 ドローンに衛星のデータを読み込ませて、地力マップ、稲の生育状況などをドローンに読みこませるという様な技術が進んできていて、葉っぱの緑が濃いほど肥料が効いていて、薄いとチッソが不足しているので、濃淡に合わせてドローンが勝手に調整してくれるんです。(必要な場所に必要なだけ肥料を撒く)  10~15%肥料代の節約になります。 トラクターの自動運転システムを使っています。  SNSで動画配信しています。  見る人は農業経営者が一番多いです。 

今年で7年目になります。  消防士を5年間やって、歌手になりたい夢があって東京に来ました。  オーディションをけてそこそこ行きますが、デビューまではたどり着けなかった。 芸能マネージャーをやって、それがデヴィ夫人でした。   海外にもいろんなところへ連れて行って貰えました。 いろいろの人と会う事によって、自分はいかに狭い世界で生きてきたのか、という事を学びました。 日本は本当に恵まれ国だという事も判り、挑戦しないと駄目だと思いました。  又音楽の道に入って行きました。  路上ライブもしましたし、いろいろ売り込みもしました。  いかにして足を止めてもらうかを考えました。 デビューは結果的には出来ませんでした。  結婚することになったので稼がないといけないと思いました。

IT産業で働きたいと思って、六本木の飲む場所でバイトをしながら経営者と仲良くなっていき、ある会社に参画しました。  営業からスタートして、成績がどんどん良くなっていきました。(ストリートライブなどで鍛えたことが幸い。)  最後には取締役になりました。   収入が何十倍にもなり一時家にも帰らずに毎日飲み歩いていました。  二人目の子が出来て、家事もいろいろやって調理の材料がいまいちだと感じて、鳥取の原風景を思い出して、人間の幸せとはああいう事なのではないかと思いました。 子供たちにそういった豊かさを味わってやりたいと思いました。  リーマンショックで会社も非常に大きな打撃も受けました。  これからは農業が重要になるのではないかと思いました。  

農業をやるなら最初から事業でやりたいと思いました。  有機農業は流通の全体の0,4%ぐらいです。   これを10%にしようと、これを大規模化を掲げてスタートしました。   最初はジャガイモなどの野菜の大規模化を始めました。  信じられないぐらいの失敗の連続でした。(3年続く 地域の信頼もなくす。)   全国の優秀な農家さんを渡り歩きました。得たものは農業は科学、と経営だというキーワードでした。   土壌分析をして土作りも科学的視点を持って、野菜に関しても科学的視点から見つめ直して、段々畠の様子が変わって来ました。   収穫量が変って来て、有機農産物も軌道に乗りました。  適時適作、その土地ににあった作物を選ばないと農業は成長していかない。  鳥取のエリアはほとんどが水田です。  水はけが悪い。 野菜の一番の天敵は湿害です。  米作りにシフトしていかなければいけないと思いました。 

2019年に米作りに転換しました。 最初は7ヘクタールからスタートしました。 失敗もありますが野菜より楽で、失敗も投資だと思います。  これからは大規模農業経営が求められて来ます。  リスクが有るが新しい生産性の高い技術を試しながら、水田技術も変化していかなければならない。   田んぼは信頼性がないと貸して頂けないので、野菜で失敗して大変でしたが、地域の方はちゃんと見てくれていると思います。  生産性の高い米作りをやってゆく必要があると思います。  2030年には1000ヘクタールを30人程度を考えています。  水路の管理が大変です。  土砂が溜まったり、イノシシなどが増えて畔を崩して水路が埋まったりします。  田んぼのインフラの維持をどうするかという事が非常に大きな問題としてあります。  少ないマンパワーでも維持できる方向にしていかなければならない。  3枚の田んぼを1枚にまとめ畔を少なくするとか、水路ではパイプラインで地下に埋めるとか、インフラをリフォームしていかないとコメの生産基盤の維持が難しくなっている。

農業は本当に素晴らしい仕事だと思うようになって来て、自分で作詞、作曲をして「I AM A FARMER」という曲を4年前に作りました。

*「I AM A FARMER」  詞、作曲、歌:徳本修一












2026年1月14日水曜日

綿矢りさ(小説家 第130回芥川賞受賞)    ・綿矢りさと語る 宇野千代の“底力”

綿矢りさ(小説家 第130回芥川賞受賞)    ・綿矢りさと語る 宇野千代の“底力”

 今年秋から放送開始予定の連続テレビ小説「ブラッサム」のヒロインのモデルが山口県岩国市出身の作家宇野千代さんです。 1897年生まれで、明治、大正、昭和、平成と98年に渡る生涯を波乱万丈に生き抜いた宇野千代、作家デビューは大正10年、芥川龍之介や菊池寛といった近代日本文学を築いた文豪と重なる時代です。 大ヒット小説で映画化もされた「おはん」を始め、85歳の時に書いた「生きてゆく私」は100万部のベストセラーになりました。  作家だけではなくファッション雑誌の編集やモデルに着物デザイナーとしても活躍しました。  そんな宇野千代の大ファンと言うのが、小説家の綿矢りさんです。  1984年京都府生まれの綿矢さんは、高校2年生で小説家デビュー、大学生で書いた「蹴りたい背中」は第130回芥川賞受賞を史上最年少で受賞、現在にいたるまで精力的に執筆活動を続けています。  宇野千代の生い立ち、考え方、宇野千代を取り巻く男性たちをテーマに話が弾みました。

宇野千代さんが書いている小説やエッセーに共感したというのもありますが、生き方見たいなものが、元気が出る生き方をされていて、若いときよりも歳を取ってきた頃の方が、どんどん明るくなっていって、入院などもあるが強調して書かず、125歳まで生きるというような不滅みたいな精神が好きです。 若い頃は借金、作った会社が倒産、離婚したりいろいろありましたが、テレビに出始めた頃から楽観的にさらに楽しくなっていかれたので、凄いな強いなと思います。  

父親は俊次と言う名前で作り酒屋の次男でお金はいっぱいあった。 放蕩、自由奔放ですさまじいタイプです。  母親のトモさんは2歳ぐらいで亡くなる。  後妻を貰うが若いリュウさんと言う人です。 その間に4男1女が出来て、その長女になる。 背中に弟、妹を背負って生きて来た。 雪の降る日に裸足で行かされたり、虐待のエピソードも残っている。     父親のことを恨むようなことは書いていない。  継母も優しい人だったようで、明るく成長したと思います。  

17歳で小学校の代用教員になるが、若い男性教師と恋に陥る。 免職処分となり相手の男性とも破局。 その後朝鮮京城へ行くがとんぼ返りで舞い戻り、元夫の弟・藤村忠と結婚。    北海道に渡り、書いた懸賞短編小説『脂粉の顔』が一等になる。 尾崎士郎が二等。 受賞のために東京に行くが、尾崎士郎と恋に落ち、北海道には帰らなかった。 1923年(大正12年)5月、尾崎士郎と結婚。 1936年にはファッション雑誌『スタイル』を創刊、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めた。  東郷青児に取材に行くが惚れてしまい、その日から結婚生活が始まる。  着物のデザインも始め、スタイル誌で紹介、販売もした。 人と話す時が一番おちゃらけた様な感じで、エッセイはもう少し真面目で、小説は暗いと言っていいほどの内容になっている。  3層も4層もある方だと思います。

「向こうが追いかけるのが嫌だと思うと、私は追いかけるのを辞めるの。 未練もあるし、追いかけたくても、それが恋愛の武士道やな」とインタビューで語っている。 

北原武夫さん、新聞記者だった北原さんは後に作家になる。 宇野千代が42歳の時に、10歳差で結婚して『スタイル』を創刊。 67歳の時に別れる。 『刺す』は北原さんとの時代のことを書いた小説です。  借金、倒産の苦労話も書いているが、一番の苦労は不倫をされていたという存在に気付きながらも、全然注意できなかったという事で、そのつらさを忘れるためのに新しい雑誌を作ったりするが売れなくて窮地に陥ってゆく。 不倫相手の写真を偶然見つけてしまう。(この部分の表現が面白い。 朗読する。)

「男性的なものを汲み取るという事は、私たちの様に物を書く人間には必要なんす。 ・・・付き合った人からいろんなものを吸い取る。  東郷青児からは色と形の配分、北原武夫からはフランス文学とはどういうものかという事を勉強しました。 ・・・でたらめな女のようにご覧になるでしょうが、ちゃんとでたらめではない自分の好きな、好きだと思う事でなければしなかったんですね。」  或るインタビューから。

1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く書いた。

「・・・幸福のかけらはいくつでもある。 ただそれを見つけ出すことが上手な人と下手な人がある。  幸福とは人が生きてゆく力のもとだと私は思っている。 ・・・幸福も不幸もひょっとしたらその人自身が作るものではないか。 そして人の心にたちまち伝染するものではないのか。 自分にも他人にも幸福だけを伝染させて、生きて行こうと私は思う。幸福はたちまち伝染して次の幸福を生む、自然に生む。 これは誰でも自分の気持ちを自然に考えると思いあたることである。」