2026年1月17日土曜日

堀内正美(俳優)              ・阪神・淡路大震災 その後を支え続けて

堀内正美(俳優)              ・阪神・淡路大震災 その後を支え続けて 

まもなく阪神淡路大震災から31年、5時46分が発災の時刻です。 阪神淡路大震災の発災の直後から市民をささえる支援活動に奔走し続けた俳優の堀内正美さん(75歳)、震災後俳優を続けながら神戸で被災地を支援する「頑張ろう神戸」の活動を始め,NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」を設立して追悼行事も行い、犠牲者の遺族に寄り添う活動を続けて来ました。  堀内さんにこれまで語ってこなかった震災の時の経験や、当時を振り返って今何を思うのかを聞きました。

僕は東京生まれの東京育ちで、神戸に移住して11年目に阪神淡路大震災と遭遇しました。   いまだに当時の震災のことを語れない人がいます。  連れ合いを、親を、子供を、友人を亡くされた方それぞれに喪失と悲嘆ってそれぞれに違って、一概に何年経ったからもう忘れません?、生きている方が大事だから、みたいな話はなかなか経験できないという事を凄く感じます。   濃厚な日本の文化は関西から始まったんだろうなと思って移り住みました。 神戸は僕としてはぴったりな場所でした。 

六甲の北側に住んでいました。  床が真下からドンと突き上げられました。 身体が浮く感じで、そして床に落ちる感じです。  次の瞬間に地底から地鳴りがゴーッと迫って来て、家がバリバリバリと揺すられました。  横にいる息子に覆いかぶさるしかなかった。  洗面所に行こうと思ったら扉があかないんです。 運悪くモップが斜めになっていてあきませんでした。 (扉の周りには絶対棒は置かないようにして下さい。)  南を見たら煙が立っていました。(火災と思った。) 直ぐに車で飛び出しました。 スーパーの建物が倒れて道路をふさいでいました。 衝撃的でした。  倒壊している家から人を助け出そうとしている人たちを見出しました。 (当時2℃) 僕は車から降りる時に手袋マフラー、防寒着を着こんでいきましたが、 助け出そうとしている人たちの姿はほとんど素足で浴衣とか、ステテコとか、寝ていた状態からの姿で必死になって、助け出そうとしていました。

助けられた人もいましたが、梁が動かせなくてどうしても助け出せない少年がいて、火がどんどん回って来て、母親が泣き叫ぶのを引きはがして、そんな自分の無力さ、助けられなかったことに、目頭から目じり迄ナイヤガラのように涙が出て、そんなな経験は初めてしました。  自分の行為がそれでよかったのか棘のように刺さっています。(一緒に行かせてあげればよかったのかもとか思うとか)  

その場にうずくまっていたら「何ぼーっとしてんだ。 早く来い。」とその時に思い切りひっぱたかれた感覚、でもそこに希望が見えたんです。 自分でやらなければと言う気付きのきっかけになりました。 震災が火曜日で、僕がラジオのパーソナリティーの番組の金曜日でした。 その番組では安否の情報、電話のやりとりなどしていました。 人が足りないと思って木曜日の夕方早めに行きました。 局の人間から連絡が入って、「堀内さん 来ないでくれ。」と言われて、「局は全壊です。」 スタジオは4つあるが3つは潰れて、残った機材を持ち込んで1つはなんとかそこでやっているという事でした。 ただ余震がきていつ潰れるかもわからないから、来ないでくれと言う連絡でした。 でも局に向かいました。  

大丈夫そうだと思って中に入って行ったらぐしゃぐしゃでした。 余震が来ると壁から落ちてきました。  そんな中で手伝いましたが、内心は怖くてしょうがなかったです。 13階建ての2階の部屋でいつ崩れるか判らない状態でした。  トイレに行く振りをしてビルから出ました。  車に乗ってエンジンをかけたら、ラジオに今やっている仲間の声が聞こえるんです。 淡々とした声が聞こえてきていました。  そのまま車で帰る事は出来ましたが、戻りました。

電話を受けると混乱している人なのでなかなか切れない。  「頑張りましょう。」と言うと電話が切れるんです。 (同じ目線での言葉。) それまでは「大丈夫だからね。」と言った上から目線的な言葉だった。   「頑張ろう神戸」を立ち上げる。  神戸は150万人都市ですが、山側には半分近くが住んできまが、道路は壊れていなくて、スーパーとか店は全て開いていまいた。  避難所では冷たいおにぎりを1つを家族4人で分け合って食べている時に、スーパーに食べ物の確保をしています。  僕がポリ容器で水を運んでいたら、「頑張って下さい。」といってその人は車の洗車をしていたんです。 その人たちはいけないのではなくて、何をしていいのか判らないからそうなってしまう。  これを記録に残さないといけない。

東日本大震災の時にも同じようなことを繰り返している。 遠い地方からお湯を運んでいますとか、牛乳を、支援物資を運んでいますというようなことをメディアは発信していた。  失敗の記録をちゃんと伝えていたらそうはならなかったと思います。 お湯だったらすぐ近くから運べるでしょう。  隣町同士が協力する。 都市間協力とか。  それが日本の文化、「困った時にはお互い様」「向こう三軒両隣り」それが壊れてしまったから今みたいな時代になった。 それをもう一回再生するしかない。  広島では原爆のときには地域の協定が出来ていた。  腐るといけないということで焼きおにぎりがうすぐに届いた。 被爆して生き残った人は10日間食べるものに困らなかった。 そういう発想で助け合う仕組みを作らないと同じことを繰りかえす訳です。  

救急バックは被災者にそのバックが提供できれば、少なくともその方は2泊3日分ぐらいの食べ物飲み物を渡せるわけだから、他者の為のバックとして自分が預かっていると考えれば、おたがいに有効活用が出来るのではないか。  手紙、名前、男性、身長○○cmとか書いてあるバックを全国から、それを被災地に届ける。 東本日本大震災の時にはそれを実施しました。 実名付き合いをすると親戚付き合いのようになります。(リンゴ、サンマなどが届いたとか、私に連絡がありました。)  熊本の方が岩手に届けたバックで岩手の方と繋がって、今度は熊本の方が被災したんです。  今度は岩手の方がその方の支援を始めるんです。 支援を必要としてい居る人が何を必要としているかを知ることが大事です。  そのためには個人と個人が繋がることが大事です。 地域のインフラとして支え合う仕組みと言うのを作って行かないと、救える命が救えなくなる。 

喪失するという事は、自然災害だけではなくて、事件、事故、自死もあります。 残された家族の人たちが、涙を流せる場所がないので、プラットホームを作ると言いったら、私たちも行きたいといって、来てくれるようになりました。 今をどうやって生きているのか語り合うような関係が1月16日の夜に繰り広げられるようになりました。  12月31日が大晦日ですが、ここの地域の人たちは1月17日が終わるとやっと新年なんです。 1月16日は大晦日なんです。 そんな場になっています。  場があれば人は集まって来て、そこで何かが始まる。 社会って、困ったこと、苦しい事、しんどい事、困っているんだという事をまずいう事、今の社会は言えなくなってきている。  声を出すことがまず大事だと思います。  人を信じて弱いところを見せる、それしかないいじゃないかなあ。  手を差し伸べてくれる人は必ずいます。