2025年12月2日火曜日

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために

赤塚興一(ハンセン病家族訴訟原告団 副団長) ・父を差別したあの日 悲しみの連鎖を断つために 

現在87歳になる赤塚さんはハンセン病家族訴訟原告団 副団長として裁判に関わって来ました。赤塚さんの父親はハンセン病患者でした。  赤塚さんが小学校3年生のころ、父親が島にある国立療養所奄美和光園に強制収容されました。  ハンセン病患者への差別は家族にも向けられ、赤塚さんはいじめに苦しみました。  しかしその怒りをいじめた側ではなく、病に苦しむ父親に向けてしまい、父親が亡くなるまで顧みることはありませんでした。 親を差別してきた自分の人生を反省し、20年ほど前から差別によるハンセン病被害の救済に取り組んでいます。    父親との思い出から自分の人生をどう振り返って行ったのか、伺いました。

昭和13年に生まれて3歳のころ父親の出身地鹿児島県奄美大島に移り住みました。 父親は黒糖を作るためのサトウキビを作りに南の方に行きました。  ポナペ(ミクロネシアの主要な島)でサトウキビを作ったり指導したり、黒糖を作ったりしました。  父は熱帯病にかかったと言う事で帰ってきました。  ハンセン病の患者という事で、島にある国の療養所奄美和光園に強制収容されました。

昭和22年2月に警察官と職員、突然3人が来て連れて行きました。 父は42,3歳でした。  小学校4年生の時に「乞食」と言われました。 ハンセン病の子供も乞食になるという考えを村の人は持っていたかもしれない。  そこで判りました。 父の顔が赤っぽくて薬をつけても治りませんでした。  同級生が8人いましたが遊んではくれなかったです。   同級生の親に往復で顔を殴られて(海軍びんた)、悔しい思いをしました。 母親は咎めにも行かなかった。  指さすと指が腐ろなどとも言われていました。  

私が親替わりをして下の子の面倒を見たりしました。  父が家に来る時には夜来て朝方帰っていきました。  高校時代に親の話になったりすると逃げだしたくなりました。  高校を卒業後工場勤務を転々として、奄美大島に戻って来て県の職員として働き始めました。(25歳)  結婚式の時には父を呼んでいませんでした。  子供が出来て5,6歳ぐらいの時に、父は70代ぐらいで家にたまに抜け出して帰って来ますが、妻は子供のことを心配しました。はやく戻るように言ったんです。(贖罪 罪滅ぼし) 父はその時「まだお前はハンセン病のことを理解していないのか、自分は首でも切って死ぬよ。」と言いました。 初めて私に対して怒りました。  ハンセン病が治ったという事を理解していなかったという事です。 それからは家に来なくなりました。  亡くなるまで親を遠ざけたいという思いはありました。

父は83歳の時家で亡くなりました。 父をさするという事は出来なかったです。 知識が足りなかったという事が反省です。  大変な病気で一生かかっても治らない病気であると言われていた時代がありました。  私は手足が欠けたり鼻がくずれたりした人を見て来てるんです。  でも知らないという事は罪なんです、罪を作っているわけです。  いろいろ勉強してハンセン病の内容も判って来ました。  

腑に落ちないから反省してこの問題に取り組んでいるんです。  隔離という事は自由を奪う事です。 人権の侵害になるわけです。  ですから国と争っているわけです。                2001年にはハンセン病の元患者に対する国の賠償責任が裁判で認められ、2019年にはハンセン病元患者の元家族に対しても認められました。  勝ち取りましたが、申請は全体の3割です。 貰う事によって逆に差別される恐れがある。  離婚の原因にもなる、そういう人たちが多いという事です。  ハンセン病に対する理解が行き詰まっている感じです。   出来るだけ人に話したくないという病気なんですね。  まだ隠し続けたいという思いです。

講演を行っていますが、まずは物事を正しく知る事です。 正しく知らなければ間違った判断がいろいろ出てくると思います。  































 



















2025年12月1日月曜日

小山美砂(ジャーナリスト)         ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

 小山美砂(ジャーナリスト) ・〔人権インタビュー〕 置き去りにされたグローバルヒバクシャ

グローバルヒバクシャと言うのは広島や長崎だけでなく、アメリカや旧ソビエトなどの核実験やウラン採掘など世界各地で放射線の被害を受けた方々のことです。 この問題について取材を続けているのが、広島市在住のジャーナリスト小山美砂さん(30歳)です。  小山さんは 大阪市の出身、毎日新聞社の記者として広島に赴任し、原爆10日後に降った所謂黒い雨の裁判を取材しました。  2023年にフリーの記者に転身し、その年の10月にはこの黒い雨の取材で日本ジャーナリスト会議賞を受賞しました。  その後も小山さんは置き去りにされた核による被害者の取材を進め、去年の9月には旧ソビエト時代に核実験が繰り返されたカザフスタンを訪問し、慢性的な貧血や頭痛に悩まされる現地の被害者の声を聞き集めました。  小山さんにグローバルヒバクシャの歴史と現状を伺い、世界の被爆者の人権について考えます。

今年被爆80年で、核に対する関心とか、過去の戦争を原爆を含めて伝えてゆくという一年であったと思います。  一方で今も光が当たっていないか、置き去りにされている被害に私はどうしても目を向けなければいけないという思いがあったので、今年出した2冊も改めてだしたいという2冊になりました。 

2922年『「黒い雨」訴訟』を出版。  黒い雨は原爆10日後に長崎で降った雨のことを言います。  原爆由来のすすとか灰も含めて放射性降下物を総称して、黒い雨を捉えるという観点で私は取材と発信を続けています。  私が赴任した時には「黒い雨」訴訟の裁判が始まっていました。 高東征二さんと言う方が原告でありながら、黒い雨の被爆者の証言を聞いている人でした。  「黒い雨」は語り継ぐ歴史だと思っていましたが、現在進行形の問題であると実感して、取り組まなければいけない問題だと思いました。  もう一つ隠されてきた被害であるという事を非常にあります。  取材をすることで責任感も生まれてきました。

アメリカでの核実験のテストがあって、それからずーっと核開発が進んできて、新たに被爆者も生み出されてきている。  グローバルヒバクシャは核実験の被害者、ウラン採掘、原発事故、原発労働者、などの放射線の被害を受けた方々の言葉として知られるようになってきています。 核実験は地球上でこれまで2000回以上実施されています。  マーシャル諸島の核実験では1946年から10年間で60回以上も核実験が行われています。 第五福竜丸の事件もありました。(他にもあり)  旧ソ連でも沢山の核実験があり、インド、コンゴなどではウラン採掘が行われて病気を訴えている方がたくさんいます。 

去年カザフスタンに取材に行きました。  450回以上核実験が実施されています。 1949年8月に最初の原爆実験が実施されました。(旧ソ連として初めて成功した場所)    核実験の被害を受けた人は子孫を含めて150万人とも言われています。  他のところと比べ乳がん、肺がんの罹患率が2倍近く増加していた。 心臓に関わる病気も1,3倍とかデータとして出ています。  精神的な病気も倍増したといわれる。  カザフスタンは日本の7倍の面積があります。 国土の大半が草原と砂漠です。 2024年9月1日から11日まで行きました。 3か所に行きました(首都、旧首都、核実験場があったところのセミパラチンスク)  セミパラチンスク核実験場は市の中心から150kmは離れている。  四国ぐらいの面積のところで何回も核実験を繰り返していた。  周辺の住民が影響をうけてしまった 。  最後の実験から30年以上経ってしまっているが、放射線量は下がっていないところもある。 そこらじゅうにクレーターが出来てしまっている。 

 核抑止論は嘘だと思いました。  カザフスタンの場合は軍事機密だったので、なんかおかしいと思いながらも被害を認識することが出来なかった。  真実をそのままにしておいてはいけないという、真実を伝えてゆくこだわりは「黒い雨」と共通していると思います。 取材して60歳まで生きられる人が少ないという事はショックでした。  86歳の女性が核実験のことをよく覚えていました。  爆発があるよ親が村の中にある穴の中に子供たちを隠した言っていました。  上から絨毯をかぶせてしばらくいるように言われたそうです。 好奇心で絨毯をめくってきのこ雲を見たと言っていました。  親は経験的に知って子供たちを守ろうとしたんですね。 

首都でも取材をしましたが、彼女は核実験場のあった市で生まれました。 皮膚がかぶれてしまって辛かったそうです。  佐々木貞子さん(2歳で原爆に会い10歳で白血病で亡くなる。)の名が彼女の口から出てきました。  広島、長崎のことに心を痛めていました。 しかし、実は自分たちも核の被害者であることを後で知ったと言いました。  広島、長崎もセミパラチンスクも同じ核の被害で、だから手を携えて人類の危機ともいえるような状況を乗り越えていかなければならないと言っていました。 自分の視野の狭さを感じました。  核の問題は地球規模で考えないといけないと思いました。 

今年8月6日にカザフスタンの女性(71歳)を招待しました。 17歳の時に母親をがんで亡くして、その後姉二人を病気で失い、弟も失い、自身も肺がんを患って治療中とのことでした。 核実験との結びつきを意識しました。  カザフスタンの被爆者の権利を拡充、反核、核実験の現状を訴える活動をしている方です。 原爆ドーム等見学して、被爆者などとの交流を通して、広島のことを学ぶと共にカザフスタンの核実験についても知らせて頂くという滞在になりました。 彼女は子供たちの絵を60枚お土産にという事で持ってきてくれました。  セミパラチンスクと広島が未来に向かって一緒に歩んでゆくという動きを作りたいと言って、持って来てくれたものです。  

今関心があるのは、繋がる、繋げるという事です。  カザフスタンでは精神的つながりと言うものを強く言われました。  自分一人ではない、一緒に歩んでくれる人がいるという事が彼女を強くもするし、ある意味身体も軽くすると思います。  世界中に仲間がいるという事は背中を押しているんだなと言う様な気がします。  人々がよりよく生きられる世界を目指すためにも、核被害者の声をちゃんと受け取って、苦しんでいる人たちを救済してゆく、そういう社会を目指した方が、絶対みんなが生きやすいので、核なき世界を目指していると同時にもっとみんなが生きやすい社会を作りたいという思いで、活動しています。