2020年11月30日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】

今森光彦(写真家・切り絵作家)     ・【オーレリアンの丘から四季便り】 

今森さんは滋賀県大津市琵琶湖をのぞむ田園風景の中にアトリエを構えて里山環境をとりもどすために活動されています。  秋のオーレリアンの丘の様子について伺います。

秋は環境がすごく変わる時期です。  目が離せないです。  

蝶々は秋型の装いをして出てくる蝶々もいます。

8月下旬から田んぼが色づき始めて、穂が垂れてきて、9月上旬から中旬にかけて真っ黄色になるんです。   私のイメージはこれが最初の秋です。  土手にキツネノカミソリというオレンジ色の花が咲きます。   そのあとに9月上旬から中旬にかけて真っ赤な彼岸花が咲きます。   アキノタムラソウ(秋の田村草)という淡いピンク色の花、紫っぽいツリガネニンジン(釣鐘人参)の花、秋のリンドウなどかなりいろんな花が咲きます。 秋の花は土手に溶け込んでいるような花が多いです。

稲刈が始まるとにぎやかになります。  1週間もするとがらっと変わります。

棚田のお米は美味しいです。  トラクターが入らないところは手作業になり大変です。   棚田は水もきれいです。   稲木は10mおきに植えていきます。  竹の棒を横たえて藁でくくってそこに稲を干していきます。   稲木の景観が美しいです。  鳥たちの休み場にもなっています。  稲木にはクワガタ、カブトムシ、蝶々なども集まってきます。  今はほとんど稲木が見られなくなりました。

10月になると柿が色ついてきて、甘柿は収穫しますが、渋柿は残っていて沢山実を付け枝が垂れてとても綺麗です。  完熟すると実が落ちてきて蝶々、鳥たちが集まってきます。

土手は1年に何回か焼きますが、草が枯れてくるせいか秋が一番香ばしいいい匂いがします。

録音した秋の虫の声としてアオマツムシ、クツワムシ、コウロギ(カエルの声も入っている)

録音した秋の鳥の声としてカケス。 鹿の勇ましい鳴き声も聞こえます。

イノシシ、キツネ、イタチ、野ウサギも来ます。

雑木林の葉っぱにあたる雨の音、風の音、など聞こうと思って聞かないとなかなか聞こえないですね。

9月には菜の花の種を蒔いて20cm位にになっていて、間引きが必要で今一番それがいそがしい位です。  間引いたものをいろいろ料理して食べます。  菜の花は二種類あって普通の菜の花とカンザキハナナ(寒咲花菜 和製の早咲きの菜の花)で2月に咲きます。   

果樹も植えているので栄養のすき込み、腐葉土、鶏糞などをすき込む作業も冬の前にします。

環境として道と土手がよくなってきました。  来年咲く花が楽しみです。

見過ごしてきたものがいろいろあります、自然は奥深いです、毎日見るというのが僕の目標かもしれません。




2020年11月29日日曜日

大宅邦子(元客室乗務員)        ・定年まで飛び続けた3万750時間

 大宅邦子(元客室乗務員)        ・定年まで飛び続けた3万750時間

早くから優れた仕事ぶりが評価され国際線就航後はファーストクラスのチーフパーサーとして8000人を数える同僚や後輩キャビンアテンダントのあこがれと尊敬を集めてきました。   3万750時間に及ぶ飛行時間を無事に終えてラストフライトから帰ってオフィスには200人を超える同僚や後輩たちが大宅さんを迎えました。  感謝の涙と思い出話が尽きなかったといいます。  45年のキャビンアテンダントの人生にどんなことがあったのか伺いました。

小学生の頃毎週日曜日に「兼高薫 世界の旅」という番組を見ていました。  各地の人、景色、食べ物とかを見て日本とは違うところにはこんな世界があるんだと思って、何時かそういうところに行けるような仕事がしたいと思っていました。

親族が学校の先生が多かったので、学校の先生になる大学に入りました。  外国へのあこがれがあり大学2年の夏休みにヨーロッパへ一ヵ月旅行して20か国回って、やっぱり学校の先生ではなくて海外と関係のある仕事がしたいと思いました.。  秋口にANAの客室乗務員の試験があるという事を知って応募して受け、合格してANAに入社しました。

入社10か月で寿退社する人もいました。 当時客室乗務員の定年退職は30歳でした。

28,9歳の時に、ボーイング767型機 270名ぐらい乗れる新型機を就航するにあたって、知識を代表者がアメリカに行って一般に広めるという仕事があって、行ってみないかと言われました。

定年が37歳、45歳、1985年男女機会均等法ができて60歳になりました。

国際便で最初からチーフパーサーで、自然とファーストクラスを担当するようになりました。

シャンパンをお客さんの前で開けて噴出して、その前のお客さんの背中にいっぱいかけてしまったというような失敗もあり、失敗も結構ありました。

クレームを頂戴してもチャンスになることもあるという事を後輩に話していまして、後輩では手の負えなかったことがあり、クレームを言ってきた人にお茶を出して、飲んでいただいて後輩からもらったクレームについて伺いました。    クレームに対する反省会をして、みんなと共有して自分たちのサービス向上についてきちんと考えますと言って、こちらからの思いも伝えて収まったこともあります。

機内はティーバッグですが、ティーバッグでもおいしいお茶を出したいと考えていて、或るお客さんは食事はいいという事だったので、私がお茶を入れて持っていってもらったところ、大変喜んで、私を呼んでほしいと言われて、伺ったところ、「こういうお茶を飛行機の中でいただいたのは初めてで、食事は同じものでいただかなかったが、この茶いっぱいをいだいたお陰で、ここに乗った価値がありました」と言ってくださって、嬉しかったのと、お茶いっぱいでもおろそかにしてはいけないと思いました。

まず水を紙コップに1/5入れて、ティーバッグを入れて十二分にスプーンで押し出すと、緑色の濃い液体ができるが、それは甘さしか出ていないが、そこにお湯を足して撹拌すると、先に甘味があり苦さが加わっておいしいお茶ができます。

肉もオーブンで焼いて出しますが、焼き方も研究してほぼお客様のお好みの焼き加減をできるようになりました。

「いつも次に使う人のことを考える。」  ギャレー(船潜水艦列車飛行機内で食べ物調理や準備をする場所)はいろんな人が使うので、ちょっとしたことで綺麗になるので、オーブン、電子レンジの隅々まで濡れフキン、乾いたフキンでピカピカにして引き継ぐようにしました。

「素敵を見つけて言葉にする」  自分が眼にしたものが素敵だと発見したら伝えるようにしています。 (お客様、客室乗務員問わず) 

「欲しいものではなく、必要なものを買う」  CAにとっては海外に行くことが日常なので、欲しいと言って買い物をしていると家中ゴミだらけになってしまう事もありますから、必要なときに、必要なものを買うという事を習慣付けないと無駄が多い生活になるのではないかなと思って伝えます。

「経験はかさばらない」  私自身美術館で絵を見るのは好きなのでよく美術館に出掛けました。   心が豊かになった思い出があったので、経験をたくさん買って来ましょうね、という事です。  土産話にもなります。

「好奇心の翼を広げなさい」  兼高薫さんにお会いしたことがあり、80歳を過ぎても目が輝いて素敵な人でした。   アッツ島を通過するかどうか聞いてきて、今日は通らないと伝えたたら、アッツ島の方向を遠くをご覧になって物思いにふけっていて、13,4時間ずーっと窓から見ていて、まだ行ってみたいところがあるんだろうなあと思いました。 兼高さんよりはまだ若いのであちこちいろんなものを見て歩きたいと思ました。

60歳まで勤められるようになって、60歳で辞めたらいろんなところに旅行できるようになるのでやめようかなと思ったが、母から「元気なんでしょう」と言われて、雇用延長もあり、65歳まで勤めることになりました。  

2018年11月20日 ラストフライ ロンドンからの便でした。  いつも通りにしました。

飛行機に「ありがとうございました」と一礼して後にしました。  オフィスに着いたら、200人ぐらい人がいました。  退職したCAとかの方とか吃驚するほどの人達でした。  後輩たちがメッセージカードをアルバムにしてくれたものの厚さが5,6cmぐらいのものが7冊ぐらいありました。

飛行時間は3万750時間29分です。  







2020年11月28日土曜日

覚 和歌子(作詞家・詩人)       ・【私の人生手帖(てちょう)】

 覚 和歌子(作詞家・詩人)       ・【私の人生手帖(てちょう)】

*映画千と千尋の神隠し』の主題歌「いつも何度でも」 作詞:覚 和歌子、作曲:木村弓

大学卒業後、作詞家デビュー、平原綾香さんや、沢田研二さんらに作品を提供、2011年にはいつも何度でも第43回日本レコード大賞金賞受賞しました。  詩人としても詩集「ゼロになるからだ」「はじまりはひとつの言葉」など多くの著作を発表しています。   近年は詩の朗読ライブや、谷川俊太郎さんとの二人の対詩の取り組みなど、言葉と体の関係性に着目して詩作と共に活動を続けていますが、現在の活動のきっかけとなったのは、31歳のころに直面したうつの症状でした。  どのようにしてその時期を乗り切ったのかなど人生の節目について、豊かな言葉がどのように生まれるのか、伺いました。

夫は古典落語家入船亭扇辰で、落語と現代詩の詩作は全然違うフィールドで仕事をしてきましたが、コロナ禍で今までと違ったことを試してみたいと思って、噺家の夫とか弟子たちのことを書いてみたら結構楽しめているんです。

夫は読書が好きで布団の中で本を読んでいたりして、それがワニのような感じで、夫をワニにして書いたら面白いと思って書き始めたら面白くて10編ぐらいになります。

山梨の出身でおてんばでした。 歌を歌う事と文章を書くのが好きでした。  小学校2年の時にブランコに乗っているときに突然詩を作って、母に褒められたことを覚えています。

父と母のなれそめは同じ職場の合唱部でした。 父は小説を書いて母にプロポーズしました。

作詞家としてデビューした時には両親はとっても心配して、その後もずーっと同じように心配していました。

千と千尋の神隠し』主題歌「いつも何度でも」の仕事が来たことを、運という風に言ってしまえば簡単なのですが、私が強い気持ちをもってこの仕事で身を立ててゆくという状態のほうに、この仕事が引き寄せられてきたという風にも言えると思います。

両親はこれで本当に喜んでくれました。

夫の師匠が俳句をやっていてそれに影響されて、夫ももう20年以上句会を主宰しています。

対詩の元々の形は連詩、その源流は連句、連歌で、自由詩という形で連詩ができないかという事をやっていたのが、大岡信さん、谷川俊太郎さんたちの「櫂(かい)」という同人誌のメンバーでした。  数人が数行の詩をリレー形式で書いてゆくものですが、対詩はその二人版で交互に詩を書いてゆくものです。  基本的には現場で一緒に行います。       ライブ対詩、二人がステージの上でパソコンを使って対詩をするわけですが、プロジェクターとつなげて、観客にスクリーンで見てもらいながら推敲を含めて行います。

即興に近い創作現場で、お客さんと作る現場を共有したら、また新しい世界が開けるのではないかと思って始めたのがライブ対詩です。  対応してくれたのは谷川さんだけでした。

中学1年の時に,NHKの「青年の主張」という番組を見ていた時に谷川さんが登場して「新成人に向けて」という自作を朗読されて、それに感動して、私はこういうことをする人になりたいと思ったことを明確に覚えています。

言葉の原型は文字ではなくて、音、声だと思ってる節が私にはあります。

31歳の頃うつのような状況になり、それまでの創作態度が根底から覆ったという感じでした。  うつを経験して気流法という名前の身体技法に出会い、自分の身体と向き合って、自分の身体の実感と言葉をつなげてゆくという構造を発見した時に、そこから書くものが変わりました。  それで詩人としてやっていけるのかなあと思いました。

身体からの実感を言語化してゆくという事です。 繊細なセンサーを働かせることが必要で待っていて受け取る。

詩というものの発祥は古代シャーマンたちが神様とやり取りをする言葉として詩があったという説があって、文字ではなくて音としての言葉が詩ではないかと思います。

私性は言い換えるとエゴとか小我(仏教)だと思いますが、それを消すためには徹底的に見つめて向かい合わないと消えていかないと思います。  自分自身を見つめていって、深いところに降りて行った先は、集合無意識のようなどんなに分かたれた人間同士でも共有できる意識の層にたどり着けるような気がしていて、そこには徹底的に自分を見つめることでしかたどり着けない境地ではないかと思います。

エクササイズとしては、イメージとしては例えば見たくないネガティブな自分がいろいろやってきて、そういった自分についての色んなことを全部花火の玉の中に入れ込んで、打ち上げて夜空にはじけてその光が星々になってゆくような感じです。  イメージトレーニングです。












2020年11月27日金曜日

榮谷明子(ユニセフ職員)        ・希望のラジオをルワンダの親子に

榮谷明子(ユニセフ職員)        ・希望のラジオをルワンダの親子に 

2015年ユニセフ所員として赴任したアフリカ中部のルワンダで小さな子供たちが希望をもって成長できるようにとラジオ番組を立ち上げました。   番組名は「イテテロ」 ルワンダ語で子供を育む場所という意味です。  榮谷さんは2018年にルワンダを離れましたが、番組「イテテロ」は今も続いていて、ルワンダ全国の子供たち、子育て中の親たちに愛される人気番組となっています。   榮谷さんは1978年東京生まれ、現在41歳、東京大学卒業後、外資系の銀行での勤務を経てアメリカに留学、2004年からユニセフで働き始めます。  セルビア、スイス、アメリカ、ルワンダ、そして今はエジプト在住で、数年ごとに赴任する国が変わるユニセフの仕事をしながら結婚し、出産、12歳の男の子のお母さんでもあります。

主人もユニセフで働いています。   この17年間の中で何度も母が現地まで足を運んでサポートしてくれました。

きっかけは高校生の頃に皇后雅子様の外交官としてキャリアを積んでいることに憧れて、国際的に活躍して人々の生活を良くしてゆくような仕事をしたいと思うようになりました。    中学の時に父親の赴任についてオランダのインターナショナルのスクールに通っていましたが、あまりにも英語ができなくて、親に言ってイギリスのサマースクールに入れてもらいました。  そこでは人気があって多国籍の人が入り混じっているところは向いているのかと思いました。   しゃべるのは苦手ですが、人の話を聞くのは得意なほうでした。

ルワンダは温暖で気候がいい国で、雨が多く緑の丘がずーと続いていて美しい風景で、まじめな国民性で日本と似ていると思いました。

ルワンダでは1994年の内戦で多くの人が亡くなり、親を失った人が親になって子育てに苦労していました。  子供の怒り方がわからないとか、いろいろありました。       子供たちを温かい言葉で包んであげたいと思いました。  子守歌、おとぎ話を忘れかけていました。  子育ての文化を家庭に届けないといけないと思いました。  

家族のドラマに力を入れました。  愛情のこもった言葉、優しい言葉とか、リスペクトの言葉とかをどんどん入れ込んでいきました。   親が子供にやさしくして信頼関係を作ったうえで、躾、良いことと悪いことの区別、なんでいけないのかを説明したり、そういうモデルをドラマの中で作りました。

ルワンダでは親による体罰が日常的に行われていました。   会議で課題として取り上げたところ、我々の習慣ですからという事だったが、親にヒアリングをしていったら、多くの親は子供を叩きたくないという事が判り、叩いても子供のためにはならないという事も気付いていました。  私が叩かないと近所の人に駄目な母親だと思われるのではないかと、それで叩いているという話を聴きました。   言葉を通して子供を導いてゆくような躾をドラマを通して教えるようにしました。

当時TVは特権階級のもので、ラジオであれば電池で動くので、全国の人がラジオを聴いているので、ラジオでの番組を作りました。   凄い勢いで人気が広がっていきました。

スタジオ局の人、幼稚園の先生、幼児教育の専門家の人達と一緒に内容を考えて貰ました。   劇団員、障害のある子どもたちの教育にかかわっている人達などにもかかわってもらいました。

内戦の為引き継がれなくなっていた子守歌も復活させました。

シンジュラキボンド?(聞き取れず)という歌はルワンダの子守歌で、伝統楽器のイナンガ(木をくり抜いて作った舟形胴に8弦を張った大型チター。奏者は立ったままチターの片端を斜めに持ち上げ左脇で抱えながら両手で弦を弾く)という楽器の名手が「イテテロ」のために特別に作ってくれた曲です。   優しい曲が広がって親も安心して子どもを育てる事ができたらいいです。

新しいことを始めるときにはみんな不安で、仲間を安心させるためには私が自信をもって笑顔を見せてみんなを励まさなくてはいけなかったのでしんどかったです。  5年間のうちやったと思えた瞬間は多分3回ぐらいでした。   笑顔でリーダーを演じ切りました。

いろんな事が実を結んだ充実した仕事ができましたが、最初の10年間でいろんな国の外国の人の上司と仕事をしましたが、4人からは評価されましたが、2人からはあなたには大きな仕事は無理と言われましたが、反発の思がありましたが、「イテテロ」を成功させたことは自分の実力に自信を持ちました。

2018年ユニセフの東部南部アフリカ地域の若手女性リーダーの一人

に選ばれ、その後ジャイカの専門家としてエジプト日本教育パートナーシップの共同議長というより責任の重い仕事に就く機会を貰いました。

スイスのジュネーブで仕事をしていた時には夫はセルビアでユニセフの仕事をしていましたが、土曜日にセルビアに飛行機で行って、日曜日に結婚式をして、翌日にはジュネーブに戻るというような状態でした。  妊娠7か月の時にセルビアに移りました。  看護師がセルビア語しかできなくて判らないので不安でした。  孤独な時間が長くて2008年5月に子供が4か月になった時に仕事に復帰してホッとしました。

2009年子供が一歳半の時に家族でニューヨークに移って、そこでたくさんのママ友ができて色々参考になりそこで私の育児を大きく変えました。

人生は経験値がものをいうと思うので、子供のやりたいことを見守るようにしています。 子供がどうしても危なそうな地域のほうに行きたがって、道路で寝っ転がって泣き叫んでいて、私はそちらに行かせたくなかったのでずーっと横に座っていましたが、5分ほどして泣き止んで納得したようでした。  それを車の中から黒人の婦人警官が見ていて、「ブラボー」と言って褒めてくれたことがありました、知らない人から褒められてうれしかったです。

今は12歳になりましたが、年齢の割には自分の気持ちをある程度コントロールできるような子になっていると思います。  

素敵な言葉で社会とつながるという事を大切にしています。  良い言葉を使うようにすると頭の中が静かになり、逆に嘘、怒り、嫉妬の言葉は後を引きます。  相手を苦しませるだけではなく自分の頭の中も自由ではなくなってしまう。  良い言葉は軽くて新しく考えることがキラキラしてくる時があります。  愛情の籠った相手を思いやるいい言葉を使って相手を幸せをにしようと、それだけではなくて私とその人との繋がりを作ってくれる。  人のつながりができると自分の小さな悩みが段々気にならなくなってくるという事もあります。   自分のコミュニティーでいい言葉を使っていこうと思っています。

泣きたくなるようなことはしょちゅうありますが、先ずは人生は楽ではないという事を受け入れることだと思います。  人生は楽じゃないからこそいい友達を見つけて、お互いを励ますような言葉で繋がっていると、自分が大変なときに支えになってくれます。

何をしていても世のなかに希望の言葉や温かい言葉を増やせるようにしていきたいと思っています。















2020年11月26日木曜日

山本聡美(早稲田大学教授)       ・【私のアート交遊録】疫病と日本美術

山本聡美(早稲田大学教授)       ・【私のアート交遊録】疫病と日本美術 

人間はどのように疫病と向き合い乗り越えてきたのかを、「病と死」というテーマで、中世の日本美術を研究されています。  

ヨーロッパでは14世紀半ばに起こったペストの大流行が人間の生死、存在を深く掘り下げる文学、美術を生み出し、さらにはルネサンスの時代を切り開いたという風にとらえる事ができます。  同じように日本でも歴史の中で繰り返された疫病の流行が様々な文化創造の原動力であったという側面があります。

疫病と闘うという思想ではなく、目に見えない恐ろしいものと折り合いをつけ共生するという考え方が見えてきます。

祇園祭は平安時代に疫病対策として始まったものですが、疫病をもたらす神々をにぎやかにもてなし楽しませながら、最後には都の外に送り出すという形で祭りは進んでいきます。

8世紀半ばの天然痘、734年11月に遣唐使が帰国、12月には新羅からの使者が来日し大宰府に逗留した。   天平7年と9年に全国で天然痘が流行、都市では人口の3割が没したという試算もあります。

続日本記には筑紫の国(福岡県)から疫病が始まって夏を経て秋に全国に流行したとされています。  大宰府、海外からもたらされた疫病という認識がありました。

835年の疫病に関して鬼の神様がもたらしたものだと書かれてきます。  対処法としては有力な経典(大般若経)を典読しましょうという事で当時の朝廷は対応してゆくわけです。

恐ろしい鬼神たちをなだめてゆく、収めてゆくそういう発想があったのではないでしょうか。

人間の恐れ、祈り、悲しみ、喜びそういったものを古代、中世の日本ではどういう造形として、どのような絵画、彫刻としてあらわされたのか考えてみたいと思ました。

法隆寺の金堂の本尊、釈迦三尊像は推古31年(623年)に完成した日本の仏教美術の出発点ともいうべき仏像です。

聖徳太子の病気平癒を願って企画された仏像と言われます。  621年に聖徳太子の母が亡くなり、翌年正月上宮法王(聖徳太子)と妃の一人の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)が病に倒れたと光背に記されている。  太子と等身大の仏像政策を発願しますが、2月21日に膳部菩岐々美、22日に聖徳太子が亡くなります。  623年3月に釈迦三尊像を完成させました。

祈りの範囲が聖徳太子の冥福から始まって、一族の幸せ、世の人々の安寧を願うという風に祈りの範囲が広がって行く。  困難な疫病に対処すべく人々の祈りが身近なところから世界全体へと広がっていって生み出された造形と考えられるわけです。

平安時代末期12世紀後半に制作された壁画絵、その中に疫病をもたらす鬼を退治する天刑星という良い神様を描いたものがあります。  天刑星が牛頭天王(ごずてんのう)に代表される疫病の鬼たちをお酢に付けて食べてしまうという内容です。  全体としてはコミカルです。   鬼もおかしみのあるように描かれている。  

鬼が登場してくるのは平安時代に地獄絵に多数あります。

天刑星が鬼を食らう姿はゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」に似たような悲しみのあるようなところがあります。  

天刑星の星が出現すると、水害、干ばつ、内乱が起こるとされる怪しい星の神様です。 邪神としても恐れられていましたが、大きな力が使いようによっては人間を守ってくれるという事で平安時代にはよい神様に転じてゆきます。

鎌倉時代になると疫病をもたらす鬼の捉え方がもう少し単純化されます。 13世紀後半に制作された六道絵のうち生老病死の苦しみを主題とする図があります。  鬼が小槌を振り下ろして人間の命を取ろうとしている姿が描かれています。   多面性を持っていた鬼が徐々に恐ろしいものへと意味が収れんしてゆくという側面があると思います。

融通念仏縁起絵巻、平安時代後期の天台僧で融通念仏宗の開祖である良忍の活動と念仏による救済を主題とする絵巻です。   京都清凉寺に伝来している豪華な上下二巻本です。

13世紀半ばに全国規模で起こった疫病が取り上げられています。 念仏を行う名主の夢に鬼の姿をした疫病が見たりが現れ、ここは念仏道場だからお前たちは入るべきではないと伝えると、鬼たちは素直に退散していったという話になっています。

疫病とは距離を取りつつ、人間社会の秩序の中に取り込んでいって、最終的にはおとなしくしていただくというようにというような発想になっています。

平安時代末期、疫病の流行、自然災害、内乱と打ち続く社会不安の中で平清盛が一門を率いて写経をして、厳島神社に収めた平家納経があります。  鮮やかな絵具や金銀箔が惜しみなく用いられています。 鮮やかな美しさに目が奪われます。  なぜここまで美しく豪華なのか。  仏教には作善(良い行いを蓄積してゆくこと)という考え方があります。

写経をする、仏像を作る、仏画を描く、寺院を建立する、法会を行う、などが善い行いとして、主催した人物が仏の世界に連なって行く事ができるという考えです。

平清盛は美麗な法華経の写経という究極の作善を通じて、世を収めようとしたと思います。

古代中世の日本の社会不安というのが、一方では後世に残るような優れた美術を生み出す力を世の中に与えていたという風に考えてみたいのです。

今回の全世界が同時に渦中に飲み込まれた規模の疫病の流行を、これからの美術がどう咀嚼して表現に結び付けていくのか、プロセスを注意深くとらえていきたいと考えています。

アマビエ、早い段階からイラストなどがSNS上で広がりましたが、もともとは幕末に熊本の海上に出現して疫病の流行を予言したという正体不明の妖怪を報じた瓦版に登場する姿です。   今さまざまにアレンジして広まっています。

疫病、自然災害、戦乱などこれらの脅威や不安はこの地球上から完全に撲滅されることはないのかもしれません。  人間は常に恐れと共に生きていかなくてはならないというのが、私たちの存在の大前提にあるような気がします。

古代、中世美術、特に宗教美術をみて来ると人知の及ばないことに対しての恐れの大切さを強く感じます。

私の推薦する一点は、

若山牧水 「白鳥はかなしからずや空の青海のあおにも染まずただよふ」

私の原点はこの歌にあるのかもしれません。  人生とは光と影の同居する時間空間の中で推移してゆくものだと少し理解するようになりました。





 



2020年11月25日水曜日

赤池 円(Webサイト編集長)      ・【心に花を咲かせて】森と人を繋げ、未来を明るくしたい

赤池 円(Webサイト編集長)      ・【心に花を咲かせて】森と人を繋げ、未来を明るくしたい 

このところ森をみなおす動きが高まりつつあるようです。   森には人を癒す力、想像力、思考力をはぐくむ場所、自然の恵みの宝庫、循環型社会へのヒントというように社会的課題を解決する力があるというのです。  その森の魅力をもっと多くの人に知ってもらいたいと、森と人とをつなぐwebサイトの編集長をボランティアで務めているのが赤池さんです。   赤池さんはもともとは森とは無縁のネット社会で仕事をされていたそうですがなぜ森にこだわり、森の効用を伝えようとしているのか、どんな活動をしているのか、伺いました。

Webサイト編集長を12年しています。 最初は日本の森のWebサイトを作りましょうと振ってもらいましたが、その時には森のことを何にもよく知りませんでした。       やっているうちに森の事が好きになり、伝えたいことが増えてきて、3年過ぎて仕事が終わってもそのまま続けたいと思いそのまま続けました。

取材をしているうちに森にいる人たちが素敵だと思いました。

林業の人たちは自分が植えてからそれを刈り取るのが自分が生きている間には無かったりするんです。  そういった時間軸は自分たちにはないと思いました。 憧れました。

森の中に入ってゆくと身体が柔らかくなり、自然と1万3000歩ぐらい普通に歩いていたり、呼吸が深くなり五感が開いてゆくような感じがします。 匂い、湿気、空気とかに包まれたときに都会にいるとは全然違う、自分が溶けてゆくような感じを味わい、開放感と安心感を感じます。

ストレスのある人、精神疾患がある人、生きずらさを感じている人たちを森に連れて行って森のなかでしばらく過ごしてもらう事で自分を取り戻したり、自分に対する自信のなさが何かに変わったりというような事で活動しています。

人間の永い歴史では9割ぐらいは森林で生きてきていて、自然の中に帰るという事はごく自然のことだと思います。

他の生き物と共にいることで自分も解放して、自分も命の中の一つだという感覚が理屈無く感じると思います。

命の再生といったことを、「妄想する森ツアー」といういろいろと想像するツアーをやったりしています。

森林浴の研究の中で森の中に入って3日目から脳が活性化して、クリエーティブになるという研究もあります。  

今までで気付かなかったことに気付けるという事の喜びは経験したら気持ちいいと思います。

12年前は森への関心がそれほどなかったですが、過疎の問題はありその問題の原因は林業の衰退で、林業の衰退する理由は一つには町の人たちが木を使わなくなったという事で、町側の人たちに知ってもらおうということをやっていきたいという事、森の魅力、生き物を知ることの面白さ、そういったことが幸せにつながるというような思いがありました。

森に近づくことが自分たち自身の幸せにつながるんだという事を知らせたいと思いました。

スウェーデンは自然享受権と言って山に入っていって、他人の土地でも木の実とかを取っていいんです。  恵みがあればそこを大切に思うので何か手伝えることはないかという方向になってゆくと思います。

プロの技能を持っている人たちがその技能を生かしてボランティアすることをプロボノと言って、「私の森.jp」は編集、コピーライティング、写真、デザイン、などWebサイトを作るのに必要な技能を持っている人たちが集まって、運営している編集制作活動という感じです。  日本中の情報を調べて判り易い内容で編集してゆくWebマガジンみたいな活動です。

遠野の森は好きでよく通っています。  山裾が長くて広い盆地で護岸していない川が流れていて、こんなきれいなところがあるんだと思いました。  今はその手入れにも加わっています。    いろんな人達との出会いがあり新しいことをやる機会ができたりします。

森林医学、健康という事を切り口にして入ってもらえるのではないかと思っていて、森林医学、森林療法といった一連のぺージを作りたいのと、「森を祝うみんなの夏至祭」という事を5年ぐらやっていて、街の人たちに森の入り口を体験してもらおうと思って、杉の枝打ちしたり、それを天井、床などにセットして清浄な空間になります。 室内が森になります、森の感覚を味わってもらいます。  皆さんが自然に打ち解けていきます。 イベントでもいいという事で応募してウッドデザイン賞をいただきました。

未来が明るくなってほしいという願いと、自分で自分の命を絶ってしまうような社会には不安が沢山あると思うが、自然資産とかかわることで少しでもそれが減ればいいなあという思いがあります。

















2020年11月24日火曜日

石川文洋(写真家)             ・80歳、列島を歩く

石川文洋(写真家)             ・80歳、列島を歩く 

昭和13年沖縄県那覇市生まれ、20代後半にはベトナムに4年余り暮らし報道写真家として戦争の最前戦で撮影を続けました。  カンボジアやアフガニスタンの取材でも知られています。   一昨年の夏80歳を迎えた石川さんは北海道から沖縄まで延べ11か月かけて歩き続けました。   現在横浜市で石川さんが日本各地で見つめた風景、出会った人々の写真を展示しています。  石川さんはなぜ旅を思い立ち何を見つめたのか伺いました。 

日本列島を分けて歩きました。  その場所その場所にいろんな思い出があります。    心に触れたときにシャッターを押していて、全部で3万5000ぐらいシャッターを押していて、一日に150回ぐらいで、150回感動して心に触れているという事です。

65歳の時に宗谷岬から沖縄まで歩いています。  三浦雄一郎さんとは一緒に講演したりしたこともあり、三浦雄一郎さんは80歳の時にエベレストに登って、私は歩いてみようと思って歩くことにしました。  14年前四国巡礼の時に心筋梗塞の発作を起こし、カテーテル手術をしました。   今回7月9日に宗谷岬を出発しましたが、その前に4月、5月に2回またやっていて、担当医は定着するまで1年かかるので無理だと言われましたが、2か月後に私は歩きました。  2か月単位ぐらいで分けて歩いてきました。  荷物は10kgになりました。

北海道では1977年の時に大寒波があり撮影に行きました。  今回も撮影した人達と再会しました。  当時撮った娘さんのご主人、お孫さんとかとも会うことができました。

一日に15kmのペースで歩きました。  東北では東日本大震災の復興の様子などもカメラに収めました。   太平洋側を歩いていろんな人に会う事も出来、一番驚いたのは防潮堤のそそり立つ高さでした。   海が見えなくなってしまってました。

陸前高田の古い呉服店、醸造所と人とを以前撮影しましたが、土地のかさ上げの大工事をしていて前の町

がまったくなくなってしまっていて、以前の人にも会えませんでした。

一番ショックだったのは浪江町では大きな病院を壊していました。  医師もいなくて看護師もいなくて戻ってくる人もいなくて維持できないという事で壊していました。     みんなバラバラになってしまいました。 人がいないと復興にはならない。

歩いている間にいろんな風景があり、1年近く歩いてもちっとも飽きないです。

3万5000枚の中から、蛇、虫、犬、花、出会った人など250枚厳選して横浜で展示会を開いています。

「世界の美女」という写真集も出していて、55か国に行って美女を撮る時に、「笑ってください」といっても自然な笑顔にはならないので阿吽の呼吸でシャッターを押していて、今回も話をして打ち解けてきて表情も柔らかくなり、そういった瞬間にシャッターを押します。

カワウソだと思って撮ったらヌートリアでした。 本来日本にはいないはずの動物でした。

熊本の被災地にも行きました。  以前会った人たちにも会えました。  普段の暮しに戻れない人たちがたくさんいました。

沖縄に着くと、見る山が真っ白になっていて、辺野古を埋めるためにその山から土砂を取っているという事でした。  ゴール地点には友達が15人ぐらい来ていました。

その日に祝賀会があり、そこでの乾杯のビールは一味二味違っていました。 

沖縄の基地は日本の0.6%しかない土地に日本の基地の70%集中していて、歩いていて異様な感じがします。

オスプレーとかガンシップ(機関銃のついてヘリコプター)、戦闘機が飛んでいて本土を歩いていた風景とは全く違う風景が沖縄にはあります。

以前ベトナムに行ったときに撮影した娘さんのその後の家族の写真も撮りたくて、今年ベトナムに行く予定であったが行けなくて、今後行こうと思っています。  

これから四国遍路をもう一度行きたいし、芭蕉のたどった道も歩きたいです。












2020年11月22日日曜日

魚柄仁之助(食生活研究家)       ・【美味しい仕事人】

 魚柄仁之助(食生活研究家)       ・【美味しい仕事人】

魚柄さんは64歳、非常事態に対していざという時の備えは物の備蓄ではなく食べる技術を身に付けておくことが大切だといいます。  魚柄さんは30年にわたり毎日の食事を克明に記録、健康面と経済面から検証し、食生活の改善などをテーマに60冊の著書を発表してます。    身近な食材を無駄なく食べつくす魚柄さんの食生活からは美味しさと豊かさが見えてきます。

何か起きたとき物の備蓄ではなく、乗り切るためのスキル、技術、知恵とかを持っていようと思っています。

非常時のためには何をストックしておくかというと技術と知恵と経験です。   

『うおつか流 台所リストラ術』『ひと月9000円の快適食生活』 1994年に出版。  コロナ禍の中で再び注目を集めている。

こうすればいいという事は一つも書いていません、私はこういう事をしてきた結果,こうなんですよというだけで、9000円にするためにはこうしなくては、というようには書いていません。

危ない食べ方を減らしてゆくしかない。  体にいい食べ物なんて世界中一つもない、食べ方で良くも悪くもなる。     どんなものでも少しずつ食べているのが一番いいと思います。

細かく自分が食べたものに対しては記録しています、そうしないとあれがよかった悪かっかたっと判断できない。  200冊、30年以上ずーと書いています。

人間も社会も変化するので、新しい習慣になることを受け入れることができるかどうか、僕は簡単に変えてしまいます。   酒も今は全然飲んでいません。  20歳と同じ習慣をしていたらおかしいと思います。

妻の母親が94歳で長野で畑を耕していて、1年間に50種類ぐらい作って、食べきれないので妻が背中ににしょってくるわけです。  きゅうりを100本で塩でもんでおけば日持ちします、食べきれないときには炒めたりして熱を加えます。  やってみると技術が付きます。

甘くもない南瓜がありますが、それは糖分が低いという事ででんぷん質はあるんです。  でんぷんは60度ぐらいで糖化作用があり、糖分になる可能性があります。  一旦火を通して、65度ぐらいを保てるようにしておきます。  そうすると糖化作用があります。

残った食パンを干して、パン粉にする。   水分を加えて丸めてみたら、焼いていないハンバーグみたいになり、フライパンで弱火で焼いたらパンになりました。  食パンを4つに切り干すと乾パンになり、汁物を作りそれを入れたら主食になります。  それが非常食になるわけです。

東日本大震災の時に避難所に沢山の食パンが来たが、私の本を読んで余ってしまった食パンを干して、乾パンにしてジュースの中に入れただけでおやつに、豚汁に入れたらお腹が膨らみ、周りの人もやるようになった、というメールが来ました。

60冊以上書いてきましたが、マニュアルを書いてきたのではなくて、生きることはこういう事なんだという事を多くの人に感じてほしい。

今後何が起きるかわからない、避難用の道具ではなく、経験と技術と知恵だと思います。

自分のことは自分でやるという事は出来る限り続けていきたいと思います。

今日という日をどう生きるか、その積み重ねが人生になるわけですから、今日どれだけ溌剌とどれだけ有効にやるのか、それを考えて、今日何をやるか自分で考える、そのスターターになればいいと思います。









2020年11月21日土曜日

2020年11月20日金曜日

坂 茂(建築家)            ・"紙と布"で防ぐ避難所の プライバシーとコロナ感染

坂 茂(建築家)        ・"紙と布"で防ぐ避難所の プライバシーとコロナ感染 

1957年東京生まれ、63歳、紙管(紙製の筒)を使った独自の紙の建築で知られ、地震や豪雨などの被災者の居住空間やプライバシーを確保したり難民に仮設住宅などを提供したりする活動を続けています。   2014年に建築界のノーベル賞といわれるプリッカー賞、2017年にマザー・テレサ社会正義賞を受賞しています。   現在のコロナ禍において建築家が果たせる役割とは何か伺いました。

コロナ禍で災害支援活動がより厳しいというか、より重要な局面になったと思います。

避難所でクラスター感染をどういう風に抑制してゆくのか真剣に考えています。  プライバシーを守るために作ってきた間仕切りが飛沫感染にも有効ではないかと考えて、国立国際医療研究センターの満屋裕明先生に見ていただき、有効だとお墨付きをいただきました。   神奈川県と防災協定をして、間仕切りを備蓄をしてほしいという事で、避難所に移る前に準備ができる体制ができるように神奈川県から始まりました。

紙管と言って再生紙で出来た筒2種類があり,柱に直径10cm,梁に7cmを使い、門型の四角いフレームを2m角で作って、そこに布を安全ピンでとめてカーテンにする、という事で開けたり閉めたりできるし、家族の大きさによってプライベートな空間を自由にできるようになっています。

熊本を中心とした豪雨で避難所ができました。  国が第二次補正予算を作って避難所の整備が入って我々の間仕切りが標準として採用され間仕切りを提供してきました。

各県、市などが備蓄を始めました。  

10年ぐらい経って、我々建築家は社会の役に立っていないなあと気が付き、悩んで、災害で家を失った方々の住環境を考えるのが建築の仕事ではないかと考えました。

地震によって街が崩壊して、街が復興するときに新しい建築の注文が来るので、建築家は地震があると仕事が増えるわけですが、仮設住宅などに何年も住まざるを得ず、劣悪な環境に住まざるを得ない。   阪神大震災の時から見てきて、2004年の中越地震の時から間仕切り作りを始めました。   避難所のプライバシーは人権上最低限必要なことで特に女性には厳しい。  地道にやってきて少しずつ定着してきました。

阪神大震災の時は段ボールを並べて自分のスペースを確保していて、立っていると隣が覗けている状況でした。

ただ間仕切りを提供するだけではなくて、配置計画も指導しています。 空調、看護室、トイレなどとの関係を考慮します。

役所は前例主義で、東北の地震の時に間仕切りを持っていっても、前例がないという事で普及することはなかったです。  30の避難所で断られて、大槌高校の体育館に行ったら、町長、役所の方が亡くなられていて、そこでは高校の物理の先生が指揮をとっていて、「これはいいですね、すぐやりましょう」という事で500世帯を1週間で作って、マスコミでも紹介され、最終的に3か月間で80の避難所を回って50ぐらいのところで2000ユニットを作って回りました。

それがきっかけで防災協定をうちのNPO法人ボランタリー・アーキテクツ・ネットワークと市や県が結んでくれるようになりました。 47の市や県と結んでいます。

2016年の熊本地震の時に、大分県とは防災協定を結んであったので、大分の方と熊本の避難所に行きました。

イタリアの地震でも避難所を管理する人に見せましたが、要らないと言われ、NHKのローマ支局の人が同行していて、その方が仲介するような形になり、市長も呼んでもらって復旧することができました。  役人の反応は世界共通だと思います。  イタリアでは衛生を管理した方が派遣されて、温かい食べ物を支給するシステムができています。

熊本では冷たいものしかなくて、建物は壊れたが生きている厨房の道具を使って、材料、お金を寄付して知り合いの料理研究家の土井善晴さんが温かいお汁のメニューを作ってくれて、それを普及させようとしたら、保健所から許可取れずにできませんでした。

イタリアではボランティアの人を定期的に教育していて、災害があったときには有給で避難所に行って活動してもらうという、教育システムまできちんとできていて、日本にも必要だという事で内閣府にお願いしていますが、まだまだ日本はそういうことが整っていないです。

日本は保健所の問題というのではなく、システム化していないという事に問題があると思います。

普段は仕事をしながら民間の消防団がありましたが、そういったふうなものが日本ではまだ組織的には育っていない状況だと思います。

2014年に建築界のノーベル賞といわれるプリッカー賞をいただきましたが、建築家としての社会貢献が認められていただきましたが、これを続けて行けというふうに受け止めています。

プレハブ住宅は住み心地がよくないのでもっと住み心地のいいものを提供しないと駄目だと思います。  木造の仮設住宅の開発もしています。  一番の目標は仮設住宅をなくすことで、一軒だいたい500~700万円かかり、4,5年使って又壊すわけで壊すにも費用が掛かり、ある意味無駄なことをやっている。

日本も仮設という無駄な過程をなくすことが必要だと思っていて、木造をやりたいというのはパーマネントなものに使えるものを仮設レベルの値段や、スピードで作れるものにしたいと思っているわけです。

コンクリートで作っても設計次第では地震でも崩れるわけです。

神戸の教会だけでなく、ニュージーランドの2011年の地震で被害を受けたクライストチャーチ大聖堂の仮設教会を紙で作りましたが、観光の名所になっていて、あれも残ると思います。

グローバル化してくると日本だけが幸せになるという事はあり得ないわけで、世界中が幸せにならなかったら日本の将来なんてないわけです。  災害支援だけでなくてすべての領域で海外も日本もないと思います。

災害支援は無償でやっているので、設計料はもらえないという違いはありますが、自分にとっての熱意、満足度、遣り甲斐は設計料貰ってやっている仕事も災害支援も全く区別がないということに気が付いたので、違いはないです。

東京の一極集中問題もあり、地方をいかに振興してゆくかという事と同時に、仮設の国会議事堂を日本の地方都市に回していったらどうか、という構想をしています。   もう少し国のシステムを何とか変えられないかと考えています。

自分が住んでいるところの耐震性を確認して手を打つことは個々の方が絶対やらなければいけないことだと思います。  行政の補助も大事だと思います。

TV局とかが寄付を集めて赤十字に寄付しますという事がありますが、各NGOでやっている活動が違うので直接活動に賛同してそこに寄付したほうが、何に使われるかわからない赤十字に寄付するよりいいと思います。

人と会ってコミュニケーションをとるという事はどんな時代にも絶対必要だと思いますので、コロナが収束したら又世界を回りたいと思います。











2020年11月19日木曜日

保科眞智子(茶道家)          ・海を渡った古伊万里の再生にかける

 保科眞智子(茶道家、古伊万里再生プロジェクト代表)  ・海を渡った古伊万里の再生にかける

東京虎ノ門にある美術館で現在「海を渡った古伊万里 ウイーン、ロースドルフ城の悲劇」と題した展覧会が開かれています。  ウイーンの郊外にあるロースドルフ城では代々の城主が日本の古伊万里や中国の景徳鎮、ドイツのマイセンといった陶磁器を多数収集してきました。  第二次世界大戦の末期、城を接収した旧ソビエト軍によってこれらのおおくが破壊され膨大な陶片が75年にわたって保存されてきました。  城主のピアッティ家を招いた茶の湯の席でこの話を聞いた保科さんは2019年有志と古伊万里再生プロジェクトを立ち上げ、学術調査や修復作業の支援にあたってきました。  今回の展覧会ではプロジェクトは特別協力という立場で参加しています。

「海を渡った古伊万里 ウイーン、ロースドルフ城の悲劇」 陶片、修復されたものを並べた展示会です。

5年前にお茶会を開いた時に、お城の城主のご夫妻にお目にかかったのがきっかけでした。

陶片の間に一歩踏み入れたときの衝撃、それとはまたひと味ふた味も違った暖かな感動を覚えました。

お城は1000年も昔に中央ヨーロッパの要塞として役割を担ってきた古城です。 18世紀まではリヒテンシュタイン家の持ち物で19世紀になって、現在の城主のピアッティ家になっています。

東洋の陶磁器が美しく飾ってあったが、旧ソビエト軍によってこれらのおおくが木っ端みじんに破壊されてしまいました。  城主は陶片の間に並べて大切に保管されてきました。 戦争遺産として語り継ぐ語り部として大切にしているとのことでした。

古伊万里とは日本で最初に焼かれた磁器です。  茶の湯では陶器を扱うことが多いです。

陶石を砕いて高温で焼きすめる、古くは中国で青磁、白磁など数千年にわたる高い技術のあるものです。  日本では江戸時代、現在の佐賀県有田町エリアで焼かれた歴史的に骨董的な価値も高い焼き物で、海外輸出用として伊万里港から出荷されたので伊万里と言われたりします。

古伊万里再生プロジェクトはロースドルフ城に所蔵されている約1万点以上の陶片を通して平和につくて考えるきっかけになればと思って立ち上げました。   2019年が日本とオーストリアの友好150周年という事でした。

最初茶の湯の友人たちに話をして、7名が参加していただきました。

プロジェクトは①陶片を繋ぐ ②歴史を繋ぐ  ③世界を繋ぐ の3つのテーマがあります。

①陶片を繋ぐ  日本には金つぎをはじめとするつなぎの技術があります。  専門家の先生に意見を伺いました。 

②歴史を繋ぐ  東洋の陶磁器が西洋の文化に与えた影響を私たちや海外の方たちも発見するという事になります。  戦争と平和の近現代史を語り継ぐこと、日本文化を次の世代に伝承してゆくというのもテーマにあげています。

③世界を繋ぐ  英語でお茶を海外の方々に紹介することにライフワークとしてることにもつながりましが、日本文化を世界の方々に積極的に伝えていきたいという願いがあるので、国際的な文化交流の場を作っていきたい。  グローバルな産業振興にもお役に立てればと思っています。

母親がお茶の先生をしていたので、抹茶の味が幼心に残っています。   戦国大名の保科家で受け継いできた品々は無意識のうちに歴史は生きているという事を教えてくれていたんだと思います。   家康公が武将にお茶とお能をたしなむようにという事で保科家でも代々お茶をたしなんでいました。

「英語で茶の湯」という本を出版しました。  簡単な英語で茶の湯の心をどう伝えるか、という事で実体験をもとに書かせていただいています。  日本文化、日本の心の隅々に行きわたっているもてなしに触れていただければと思っています。  お茶の日本語にも出会っていただければと思っています。

茶碗を二回回すという作法はお茶碗の擬人化で、高い技術、誠心誠意込められた努力、焼き物であれば炎という自然の手にゆだねて出来上がる作品、これに対しての最大の敬意として両手で持ち、正面からそのままいただくのはもったいないので軽く二回回して遠慮をする、これが作法の意味になります。

「海を渡った古伊万里 ウイーン、ロースドルフ城の悲劇」と題した展覧会は東京のほか地方巡回展を予定しています。

ヨーロッパでも展開したいとご希望をいただいています。  日本では古いものを大事にする、欠けても金を施したりして、直して価値を足してゆく、そういった文化があると紹介したらまさにピアッティ家が大切にしてきた思いそのものだと言われました。  

世界は今いろんなな意味で分断されて、バラバラになった陶片が人の手によって繋がれる、これが一つの象徴として心が繋ぐ、未来に向けて少しでも明るい次のページをつづろうよ、というこのプロジェクトが国を越えて共感されています。









 



      

2020年11月18日水曜日

山本昌邦(NHKサッカー解説者)     ・【スポーツ明日への伝言】いま、スポーツが果たす役割とは

 山本昌邦(NHKサッカー解説者)     ・【スポーツ明日への伝言】いま、スポーツが果たす役割とは

日本代表のコーチ、監督として特に若い手選手の育成指導に手腕を発揮してこられました。  1996年のアトランタオリンピックで強豪ブラジルに勝ったマイアミの奇跡、2002年日韓ワールドカップではトルシエ監督を支えながらともにコーチとして戦い、2004年のアテネオリンピックでは 日本代表の監督を務めました。  新型コロナウイルスの下、今スポーツが果たす役割とは何か、今指導者に求められるのは何かなどを伺いました。

指導者になると声が通る声になったと思います。   

今は出番がなくて、いずれスポーツは皆の力になれるときが来るというのを待ちながら準備をしているところで、スポーツの良さは人と人が繋がってゆくという事だと思います。

スポーツはクラブとかコミュニティーみたいなものが作られて、コミュニティーが強化されて子供たちの安全、安心にもつながってゆくんだろうなあと思いました。

私は小学校5年生のころにサッカーをやり始めました。  最初フォワード、高校生はディフェンスをやったりしましたが、中盤はやっていなかったです。  中盤は俯瞰してみることが必要です。   負けないためにはゴール前の守備がすごく重要です。

メキシコオリンピックの銅メダルを取った時代からサッカーがブームになっていきました。

1977年のワールドユースの大会の第一回が私たちの年代で、それを目指そうとキャンプも7回ぐらいやりました。  推薦していただいて最大の転換点だったと思います。

大学を出て地元のヤマハ発動機に入社してサッカーを続けることになります。  午前中仕事をして午後から練習をしました。

選手をやっていると、トレーニング、食事などいろいろ疑問点が出てきて、指導者の勉強をしたほうがいいのではないかと思いました。  

25歳から指導者の勉強に参加するようになりました。  1992年からジュビロ磐田を離れて2004年のアテネオリンピックまで日本サッカー協会の仕事を中心にしてきました。

20歳以下のユースのコーチをやらないかと言われてやることになり、準決勝で韓国にやられて世界には出れなくて、その2年後にそのチームがアトランタオリンピックに行くチームになります。

世界のレベルがどういうレベルか分らないらないという事で、川渕三郎さんからいって来いと言われて観てきましたが、こんなに力強くてとんでもない差があることを意識しました。

スピード、身体の動き、ボールにまつわるスピードが全く違って、フィジカル的なスピード、強さも違う、思考の判断のスピードが違うと思いました。  10%スピードを上げるように言い続けました。

1995年ワールドユースに初めて進出するんですが、その時にわたしがコーチで、その時のメンバーが松田直樹(亡くなってしまった)、中田英寿などがいました。

1995年ワールドユースの予選でのカタールでは、時差もあり、気温、湿度も違う、ピッチの芝の質も違う、食事、文化も違う中で、うまいだけでは駄目で、逞しい選手が重要なんだと思いました。  段々コックさんも連れてゆくとか、いろんなサポート体制が改善されました。   

暑さ対策は身体を冷やす、水分補給のタイミングは徹底的に選手に指導しました。 汗腺を出しやすいようにするために1か月前にいったん行って、体を慣らすというような事をしました。

先輩仲間などからすべて学ばしてもらったと思います。  高校1年生の時に監督から大学のトップチームのキャンプに参加できるようにしてあるから一人で行ってもいと言われました。   行ってくると高校3年生が弱く見えるんです。  できないような経験をやった事が自分の成長につながったと思います。  背延びしないと届かない世界を高校3年間学ばせてもらいました。

やらされているという事は苦しくてつらいことになるので、気付かせるためにはどういうことが大事なんだろうという事で、いい質問、いいヒント、見守ることが指導者としてすごく大事だという事があとあと気付いていきました。

指導者は伝える事ではなくて伝わったことの中身にこだわってゆくことが一流の監督だと、あとあと気付きました。

サッカー以外のことも全て理解できないと一流選手にはなっていかないんだなというのは沢山の代表選手を観てきましたが、技術だけではなくて、コミュニケーション、戦術の勉強、勝利のために自分の持っている能力を最大限に出せるという選手たちが代表に辿りついたんだという事は本当に思います。

データは選手に発信機がついていて全部管理されていますが、メンタルな部分、感情のマネージメント、どう束ねて一体化させるかというのがリーダー、監督、指導者に求められていることなんだろうと思います。  目に見えないようなマネージメントをどうするかが最後の頂点に行けるかどうかがチームの力の差なんだろうと思います。

東京オリンピックでは新しく若い選手が出てきているので、期待があります。   

スポーツで学ぶことは人生そのものだと思います。  人の幸せ、惨めな思い、喜び、失望感、こういうことを学ぶのがスポーツのすばらしさだと思うので、勝つことが大切ではなくて、あきらめないことが大切なんだ、勝ちたいと思うことが大切なんだ、大切なのは挑戦し続けることだと常に若い選手に言い続けてきました。  成功よりも成長を求め続けることが人生の成功に近づいていける道だと思います。





2020年11月17日火曜日

松本雅隆(音楽家)           ・個性ある"楽器"で音楽を楽しんで!

 松本雅隆(音楽家)           ・個性ある"楽器"で音楽を楽しんで!

松本さんは福岡県生まれ、67歳、音楽大学入学後、学内にあった図書館や博物館で、中世ルネッサンスの楽譜や楽器と出会いその音色に魅せられました。   1973年音楽仲間と共に中世ルネサンス音楽を演奏する「カテリーナ古楽合奏団」を結成、ライブ活動の中で多くの子供たちの反応の良さに感動した松本さんは1982年に「ロバの音楽座」を結成、古楽器や空想創作器などを使い劇場や学校で音楽を楽しんでもらっています。  又東京立川市の郊外にロバハウスと名付けた稽古場兼内部空間を設け、ここを拠点に「カテリーナ古楽合奏団」と並行して全国で演奏活動を続けています。  「ロバの音楽座」の長年の活動に対して、児童福祉文化賞や、キッズデザイン賞の金賞を贈られています。  又ETVの「おかあさんといっしょ」でも音楽を担当しました。   古楽器との出会いや魅力、子供たちと音楽についての夢を語ってもらいます。

大学に入って1年のころ、図書館にある楽器博物館などに毎日入り浸っていました。  いろんな音楽を毎日聞いていました。  兄がバロック時代のチェンバロを作り始めていて、手伝っていました。  ある日素朴な木の笛に出会い、手にした瞬間にこれを探していたんだという思いがありました。   ルネサンス時代のクルムホルンだという事を知りました。   段々西洋と東洋が混ざり合ったような楽器や音楽のとりこになってしまいました。

*「ショーム吹きの踊り」  

クルムホルンはステッキの持つ処のような形をしていて、ホルンは笛という意味で、クルムというのは曲がったという意味で曲がった笛です。    東方のほうから渡ってきた楽器が段々西洋的に変わってゆくという流れがあります。

*「森の音」 

中世ルネサンス時代、中世は平安時代から鎌倉室町時代、ルネサンスは戦国時代から江戸前期のころです。  中世の古楽器はルネサンスで少なくなっていって、バロックで消えてゆくわけで謎の多い楽器です。

20世紀初頭から古楽器の復興運動がヨーロッパで起きて、作る人とか演奏家も出てきました。   

50年古楽器をいじっていますが、よくよく考えると5年ぐらいのキャリアしかないんじゃないかと思うように寄り道をしながら段々判って来ました。  海外にも行っていろんな人に出会って作り方とかを教わったり、毎年やっています。

トルコとか東方のほうでは民族楽器としてそういった楽器が残っています。 ウードという楽器も民族楽器として残っています。

5人ぐらいのメンバーで中世のバンド「カテリーナ」を作りました。

*CDの「ドウクチア」から「エスタンピー」  演奏:カテリーナ古楽合奏団

「エスタンピー」はイギリスのほうですが、ヨーロッパ中にこういう音楽はあります。

ライブ活動の中で多くの子供たちの反応の良さに感動し1982年「ロバの音楽座」を結成。  

古楽器の演奏を子供たちに届けたいと思いました。

*「ブビビ」のアルバムから「らくがきブビビ」  演奏:ロバの音楽座

これはオリジナルです。

音楽会はライブ感のあるおしゃべりを入れながらその時演奏したい曲を演奏するというスタイルで、ロバの音楽座「森のオト」は中世・ルネサンス時代の古楽器やオリジナル空想楽器により、子ども達のために心温まる「音と遊びの世界」を創造しているグループで活動しています。

車座になって接近してやったりますが、現在はそういうわけにはいきません。

拠点を作りたいと思って、東京立川市の郊外にロバハウスと名付けた稽古場兼内部空間を設け、ここを拠点にカテリーナ古楽合奏団と並行して全国で演奏活動を続けています。

メンバーは一番新人でも30年ぐらいになります。  演奏だけでなくお踊りもやったり歌も歌ったりもします。  いろんな楽器も演奏します。

活動全体に対しての総合的なデザインとして、キッズデザイン賞の金賞をいただきました。

コロナの関係で危機的な状況です。

子ども劇場の主催で工夫しながらコロナ禍での公演を3週間行うことができました。

80,90歳まで続けようとバンドメンバーで話し合っています。






2020年11月16日月曜日

小山豊(津軽三味線奏者)        ・【にっぽんの音】

小山豊(津軽三味線奏者)        ・【にっぽんの音】 

幼少より津軽三味線小山流宗家(祖父)小山貢翁に師事。日本最大流派の1つである小山流の三代目として、国内・海外で演奏活動を行っている。   さまざまなアーティストとの共演や、洋楽器とのライブ活動など民謡を軸に活動。

「さわり」は進化の過程でついてきたもので一の糸(太い糸)の下にあずまざわりと言って、ねじを回す突起がありますが、さわりを付けてゆくと、ビーンと言う効果がつきます。 厚みがつく。   さわりを付けたほうが音が伸びます。  うちの初代が付けたという説もあります。 

500年ぐらいの歴史のあるなかで津軽三味線は一番新しい楽器て150~200年と言われています。 もともとは新潟の瞽女(ごぜ)さん(「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する日本の女性の盲人芸能者)だったりにルーツがあり、津軽の人々が生き抜くために楽器を改良していって奏法も変えていった。   譜面はないです。

伴奏するという事から始まって、津軽民謡では歌手が神様で、歌手がいかに歌いやすくするか、すべて三味線が背負っている。  歌の中に邪魔はできないので、前奏、間奏部分を派手にやっていこうという風になってきて、もともとは伴奏の楽器です。

民謡を主軸にしたアレンジアルバムを夏に出しました。

*「江差三下り(えさしさんさがり)」 アレンジ:松浦 晃久  

江差追分の民謡の元歌と言われています。 北海道江差はニシン漁が栄えたところです。 

歌い手ベースになっていて、チェロとピアノが入っています。 「間」がとっても難しいです。  若い時には間が怖かったです。 同じ曲でも間によって違ってきます。

練習方法をかえたりして余韻の向こう側が聞こえたので、ここを大事にすると間がいい感じになるなあと思いました。

音数におぼれた若い頃もありましたが、どんどん要らない音をなくしてゆくことでスペースを作って行く。

民謡の魅力に気付いたのはつい最近数年です。  民謡は古典ではなく時代時代で変化してゆくべきもの、生活にあってゆくものが僕の中では民謡だと思ったので、そういうもの、今の民謡を表現したいというのが今回のアルバムの発端です。

沖縄の民謡は残っていますね。  民謡は凄く浅いという側面もあり、深いところもあります。

*「津軽サンテリア節」 

キューバで出会った、アフリカ・ナイジェリアの部族の儀式から伝わった、現地の儀式の音楽「サンテリア」と色々な民謡をミックスさせて、曲の前半では海の神様、後半では火の神様のことを唄っている。

日本の音とは、僕の中では生活音、風の音、雨の音、砂利を踏む音、虫の音、そういったものが総合的に表現出来るのが日本の音だと思っています。 

*「時雨」  作曲:小山豊  ピアノ:林正樹

生活に密着していることが民謡の一番大切な部分だと思っているので、三味線がガンガン鳴っているのももちろん否定する訳ではないですが、僕の作りたい民謡は日常に溶け込むようなものです。だからあまり三味線が前に出なくてもいいと思っています。


 

2020年11月15日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

ワグナー作曲 『ワルキューレ』から「ワルキューレの騎行」

勇壮です。 ワルキューレ:馬にまたがって天空を駆け巡る戦いの乙女たちのこと。

アメリカ映画1979年の「地獄の黙示録」、ベトナム戦争の狂気を描いた作品。 その中の場面に使われた曲であります。

今日は映画とオペラと題してクラシックの遺伝子を送ります。

「2001年 宇宙の旅」オープニング 

プッチーニ作曲「ジャンニスキッキ」の「私の愛しいお父さん」 1986年 イギリスの映画 「眺めのいい部屋」オリジナル・サウンドトラック  映画では使用音楽の変遷が、原作同様にヒロイン、ルーシーの心境を表していている。

*プッチーニ作曲のオペラ『つばめ』のアリア「ドレッタの夢」

「ショーシャンクの空に」1994年アメリカ映画 「フィガロの結婚」のアリアが聞こえてくる。  刑務所内の人間関係を通して、冤罪によって投獄された有能な銀行員が、腐敗した刑務所の中でも希望を捨てず生き抜いていくヒューマン・ドラマ。 アンディは送られてきた荷物の中に『フィガロの結婚』のレコードを見つけ、それを勝手に所内放送。  仲間達からレコードを流した理由を尋ねられ、アンディは「音楽と希望は誰にも奪えないものだ」と説明する

*モーツアルト作曲「フィガロの結婚」から「手紙の二重唱」


*マスカーニ作曲 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」から間奏曲。  映画「ゴッドファーザー PART III」  一番最後アル・パチーノが演じるマイケルが自宅の庭でたった一人で椅子から滑り落ちるように亡くなるシーンに使われる「カヴァレリア・ルスティカーナ」から間奏曲。   映画の監督はフランシス・フォード・コッポラ  父親は作曲家でフルートの名奏者

トムクルーズ主演 『ミッション:インポッシブル』 5作目  オーストリアの首相の暗殺未遂事件がテーマになっている。 ウイーン国立歌劇場に行って事件を解決してゆくが、プッチーニ の「トゥーランドット」が上演されている。  「 誰も寝てはならぬ」の時にオーストリアの首相の暗殺未遂事件がある頂点で起こる。                 *プッチーニ 作曲「トゥーランドット」から「 誰も寝てはならぬ」 

「月の輝く夜に」 1987年のアメリカ映画。ニューヨークを舞台にしたイタリア系アメリカ人の人間模様を描いたロマンティック・コメディ。  ロレッタ・カストリーニは37歳、美容院で白髪交じりの髪を染め、シックなドレスと靴に身を包みメトロポリタン・オペラに現れた彼女はまるで別人のようで、ロニーも改めて惚れ惚れと見とれる。 ロニーはロレッタに改めて愛の言葉をおくり、結婚を申し込む。今度はロレッタも快く受け入れた。  「ラ・ボエーム」はプッチーニの作曲した4幕オペラで、最もよく演奏されるイタリアオペラのひとつである。     *プッチーニ 作曲ラ・ボエーム」から「優美な乙女よ」の幕切れのアリア



2020年11月14日土曜日

鵜飼秀徳(僧侶、ジャーナリスト)    ・「お寺が減っていく」

 鵜飼秀徳(僧侶、ジャーナリスト)    ・「お寺が減っていく」

鵜飼さんは5年前、経済誌の記者として全国の集落を回り、檀家の減少と住職の高齢化、後継者不足で存続の危機にある寺の実情を取材、著書「寺院消滅」として発表し、反響を呼びました。   2年前に独立して実家である京都に戻り副住職を務めながら、ジャーナリストとして現代社会と仏教をテーマに取材と発信を続けています。  全国にはおよそ7万7千の寺がありますが、このまま地方から大都市への人口流出が続けば、20年後の2040年には地方にある2万7千もの寺が無くなるという予測があり、鵜飼さんは寺の存在価値が見直されるよう一般社団法人「良いお寺研究会」を立ち上げ様々な活動を続けています。  寺が直面している現状と課題について伺いました。

京都の嵯峨野にある正覚寺という小さな浄土宗のお寺の次男として生まれました。  

大学卒業後記者として新聞社に入り、雑誌社に移り経済の記事を書いていました。

マクロ経済、災害と日本等幅広い範囲を取材して、その一環としてお寺の減少を通して、日本の人口減少社会を見れないかという事で取材を始めました。  大学時代にお寺の修業に行って、友人の大きな寺でも食べていけないというような事で後継者がいないためどんどお寺が減ってきている、と言っていました。  私のお寺では檀家の数が100~120軒で食べてゆくには足りなくて、300軒ぐらいほしいところです。

元総務大臣の増田寛也さんが日本創生会議を立ち上げて、「地方消滅」という衝撃的なレポートを出されました。  人が地方からいなくなればお寺も当然消えてしまいます。   檀家制度があり江戸時代には必ず一つの村に一つのお寺を作って、9万のお寺があったといわれます。  村人は全員その檀家になって、それが引き継がれてきています。

100軒を切ったらお寺の維持が難しくなる。  人口流出が続けば、20年後の2040年には地方にある2万7千もの寺が無くなるという予測が導き出されてきます。

50%の自治体(村、町、市)がなくなって行き、そこにあるお寺も無くなって行く。    宗勢調査、全国のお寺にアンケートを取って後継者がいるかなどを問いかけると、はるかに厳しい数字が出ていて、下手をすると5万を切ってしまう可能性は十分あると思います。

長崎の五島列島の奥島では鯨捕漁のところでは、商業捕鯨から調査捕鯨になり、漁師が貧しくなってお寺に寄付ができなくなり、お寺が消えてゆく、というように第一次産業の衰退とお寺の衰退がリンクしてゆくケースがあります。

福島県会津地方は日本でも屈指の空き寺が多い町です。  会津坂下町、兼務寺院(無人化したお寺は地域の有力なお寺が兼務してゆくという制度がある)が、一つのお寺につき最多で14のお寺を兼務しているケースが会津坂下町であります。  自分のお寺だけでも大変なのにそれは結局無理です。

檀家が増えたにしても維持管理費もかかってしまう。  空き寺になるとお寺に盗難があり、仏像が盗まれて海外のオークションで売られていくのが日本全国で相次いでいます。

お葬式の簡素化が追い打ちをかけているところがあります。  家族葬、直葬(お葬式そのものをしない 東京では急激に増えている)が増えている。 

東京における家族葬と直葬の割合は80%を超えているといわれます。

樹木葬、海洋散骨、小さなお墓、永代供養のビル型など、いろんな種類が増えてきている。直葬にしてしまうとお寺さんとの付き合いはなくなる、セレモニーがなくなってしまうので。   その後の法要もしなくなる。(四十九日、百か日、一周忌とか)   お寺のつきあいで経済が成立していた面があるが、つきあいが無くなり付き合いのその構図が崩れてきている。

ある教団では300万円以下という割合が60%を越えているところもあります。    大方のお寺は食べてゆくにもつらい状況です。  

3月のお彼岸、4月の花祭り、5月のゴールデンウイーク(故郷に戻ってきて法事を行う)、8月のお盆、9月のお彼岸など、コロナ禍のため行事の中止などがあり首都圏地域のお寺は相当厳しかった。 

曹洞宗(日本最大の宗派)がコロナの影響の調査票ではお葬式の通常通りが20%、縮小してやるが75%、やりませんでしたが1%という結果がありました。

法事では通常通りが20%、縮小が34%、法事をしなかったが45%になりました。

寺院収入、例年同時期と比べて減少が80%、減少率も3割以上減少が48%、5割以上減少が23%、9割以上減少が2%になっています。

政府からの給付金は政教分離から宗教法人では出ません。

コロナ禍が長引くとダメージが心配です。 海洋散骨でいいんじゃないかなという風な動きになっていってしまう方向とか、法事もいいのではないかとか、そういった心配もあります。

オンラインでいいのでは、お経もユーチューブでいいんじゃないかとか、そういうふう風潮になってしまうとどうなるのかなという心配はあります。  人がお寺に行かなくなるという心配があります。

2018年「良いお寺研究会」を立ち上げました。  お寺の消滅をどうやったら止められるのか、仏教界と企業とのマッチングする社団法人を立ち上げました。

お寺を使って社員研修(働く意味を見つめなおす、企業倫理とか)、仏教の知恵を使って、何のために働いているのかなどを見つめなおす。

障害者の絵を大徳寺のお寺に展示し、印刷会社が参加してバーチャルで展示会をする、オンラインで個展を開く。(今月から1月10日まで「可能性アートプロジェクト 2020イン大徳寺」で検索できる)

花のお寺のプロジェクトをやっていきたいと思っています。 花が人を集める力を持っている。  お花をたくさんの方が見に来ることで、お寺だけではなく地域全体が再生してきた事例もあります。

建長寺などでは寺ワークと言ってコロナで通勤できない人を対象に静かに作業できる場所を提供する。  空き寺では管理が住職ではなくていいのではないかと思っていて、企業がそこにオフィスを構えてもらって、お寺の維持と賃貸料でお寺の維持をしてもらう。  こういう仕組みも面白いのではないかと思います。   お寺に人が集まってくるような企画が多いです。  お寺は社会全体のものだと思っていて、お寺は門戸が開かれていることが大事だと思います。  お寺も公共財と言えるかもしれません。 学校、交番、病院、郵便局とかと 多分お寺は同じだと思います。 地域の中で活用されて初めてお寺の存在というものが増してゆくと思います。  弱者への寄り添いがお寺にとって大事なテーマだと思います。    企業、行政とのマッチングなどの提案をしていきたいと思っています。  「旦那」の仕組みをもう一度再構築していきたいです。  人口減少なのでどうしても檀家は増えない、お寺が低空飛行続けられるようなものを目指していきたいと思っています。




2020年11月13日金曜日

藤倉大(作曲家)            ・音は常に「今」を反映する

藤倉大(作曲家)             ・音は常に「今」を反映する

1977年大阪生まれ、15歳でイギリスに留学し作曲を学びました。  ロンドンを拠点に世界中のオーケストラや歌劇場から委嘱を受けおおせいな作曲活動を展開しています。  藤倉さん開催選びから作曲までを手掛けた新作オペラ「アルマゲドンの夢」の世界初演を前に伺いました。

(20世紀初頭に書かれたH.G.ウェルズのSF短編『アルマゲドンの夢』 忍び寄る全体主義、そして科学技術の発展がもたらす大量殺戮への不安を鋭くも描いた原作を脚色し、現代に生きる我々のそばにある脅威をスリリングに描き出します。)

新国立劇場で開催される新作オペラ「アルマゲドンの夢」のために帰国。 コロナの為2週間の隔離。  日本には10ヵ月ぶりです。  15年前からリモートでやっることはやっていました。   ロックダウンになっても活動はしていました。

リモート演奏できる作品「Longing from afar ロンギング フロム アファー 遠くからの思い」というのを書いたんです。  5月に発表して山田 和樹さんの東京混声合唱団でやりました。それから今日まで16団体が世界でやって、雅楽でもやりました。  実験でやってみたわけですが、一番最短で再演奏された作品になるわけです。  コロナがなればできなかったことです。

会議アプリを通しているから、趣味で楽器を弾く人達とかが集まって弾くことができるわけです。 

僕のはスマホ用にマスタリングしてあります。 音はちゃんと処理してから出しています。

(マスタリング: 録音による音楽作品制作において、ミキシングして作られた2トラック音源(トラックダウン音源、または2ミックス音源)を、イコライザーコンプレッサー、その他のオーディオ・エフェクト機器を用いて加工し、CDやDVDやBD、インターネット上の投稿サイトといった最終的なメディアに書き出すために、音量や音質音圧を調整すること。最近は映像作品の画質の調整にも用いられる。)

高校からイギリスに入学しましたが、中学に通っていた時から録音が大好きで、何とか多重録音ができないかなという事で、ステレオにカラオケ機能があり、パソコンを利用して、ピアノ協奏曲っぽいものを作っていました。  昔から録音には凄く執着心がありました。

ピアノは5歳から始めました。  父はジャズバーで弾き語りをしていたようで、しゃべりもうまくて人気があったようで、父が家で弾ているのを見て、ピアノをやり始めました。

1980年代ピアノを習っていて、クラシックでも気に入らない小節のところがあり、勝手に書き換えたりしましたが、先生からは怒られたりしていました。  楽譜を変えてしまえばいいと思って、作曲をし始めました。  そうしたら面白くてしょうがなくて、作曲にのめり込みました。

ヤマハの教室に中学からはいって、作曲の先生につきました。  30分の作曲のレッスンで、毎回その週作った作品を聞かせて30分が終わるというような作曲量でした。

ドイツに行けば作曲家になれるのではないかと思いましたが、ドイツ語は駄目なので英語ではイギリスという事で、高校の受験をして、奨学金がもらえる事にもなり、行くことにしました。

高校では寮生活で、高校では音楽に力を入れていて、高校に入った瞬間に校長から呼び出されて、君にはお金を払っているので、君には働いてもらうよ(広告塔)と言われました。

厳しい高校でしたが、僕の場合は校則免除でした。 大学はドイツも考えましたが、イギリスにしました。

若い時には作曲については自分の目指しているクオリティーに達しているかどうか、書いては書き直したりして苦しみました。  執念で絶対作曲で生活してやろうと思っていて、コンテストの賞金で暮らしていましたから。

今は躓いたら放っておいて、違う曲を始めて、こちらが躓いてら元の曲に戻るとかしています。

「アルマゲドンの夢」は3作目のオペラになります。  オーケストラ、合唱、素晴らしいソリストで、この曲は2年前に書かれたものですが、重要なのは今現在を描写しているかのような作品になっています。  独裁者が出てくるが、ジョンソンという名ですが、くしくもイギリスの首相と同一名になっている。  90分の「今」のオペラになっています。















2020年11月12日木曜日

佐藤哲雄(インパール作戦 元分隊長)  ・【戦争・平和インタビュー】「100歳の今、伝えたい "生き抜く尊さ"」(初回:2020/8/14)

佐藤哲雄(インパール作戦 元分隊長)    ・【戦争・平和インタビュー】「100歳の今、伝えたい "生き抜く尊さ"」(初回:2020/8/14)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/08/100.htmlをご覧ください。

 

2020年11月11日水曜日

令丈ヒロ子(児童書作家)         ・【戦争・平和インタビュー】「戦争を知らない私から子どもたちへ」

 令丈ヒロ子(児童書作家)         ・【戦争・平和インタビュー】「戦争を知らない私から子どもたちへ」(初回:2020/8/15)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/08/blog-post_15.htmlをご覧ください。

2020年11月10日火曜日

2020年11月9日月曜日

坂口 剛(車いすテニスプレーヤー坂口竜太郎選手の父)・ュース 【アスリート誕生物語】

 坂口 剛(車いすテニスプレーヤー坂口竜太郎選手の父)・ュース  【アスリート誕生物語】

息子は現在高校2年生。 通信制の高校とインターナショナルのスクールに行っていて平日は忙しい毎日を送っています。   テニスの練習は火、水、金、日、祝日の2~4時間やっていて、月、木はトレーニングをしています。

オリンピックパラリンピックの延期は余りにもかけ離れている遠い世界だと当人は感じています。   国枝選手はあこがれの存在だと思います。  比べてはいけない存在だと思っています。

事故があったその日に救急車で運ばれている途中に一度心臓が止まって、病院についても2度ほど止まって脳に損傷があるといわれて、植物状態ではないかと最初言われて、夜が明けて呼吸できるようになり、頭蓋骨が骨折していたり、チャイルドシートに座っていたのでシートベルトなどで内臓が全部潰れてしまって、体中の骨が折れていて、植物状態から今度は寝たきりになり、意識は戻ったが、会話できないだろうと言われていました。

治療はなく保存療法、とにかく触らないという事だった。  弱って行くわが子を見て、ハイそうですかとはいえなかった。   何日間か眠れなくて、電話回線を使ってインターネットをつないで調べて何かやれることを探していました。

見つけたアメリカのサンデイエゴでやっていた脊髄損傷の方専門のリハリビトレーニング施設では、衝撃的でした。  同じ怪我をしていた人たちがトレーニングして歩けるようになっている状況が見えました。  勇気と希望を貰いました。

トレーニングの映像を先生に見せてチャレンジできないかといってみたが、対応はしてくれず無理を言って2か月で退院しました。  私一人でアメリカのサンデイエゴのプロジェクトウオークに行きました。   あまりにも世界が違い過ぎて、楽しそうなスポーツジムというような印象が強かったです。  事故での損傷状態を説明したら、ちょっと難しいという話でした。   何度も断られたが、ほかに手立てがなかったので、レントゲンと英語で診断書を書いてもらって、行って施設の入り口に朝から晩までひたすら立って「お願いします」と言い続けて、一度連れて来いという事になり、日本に戻って一家4人で行きました。2年間リハビリを行いました。

2008年の北京パラリンピックのニュースで息子(5歳)が車椅子でボールを打っている場面を見ました。  調べてみたら車椅子テニスだという事を知りました。

アメリカでラケットを買ってあげたときには、実は手にもマヒがあり持てませんでした。 買ったラケットは卓球のラケットよりちょっと大きいぐらいのテニスラケットだったので軽くて何とか持てたが、振り回せないし、ラケットが肩よりも上にあがりませんでした。

千葉県の柏市では車椅子テニスをスクールでやっているという事で、家族で見に行きました。  そこに国枝選手がいて声を掛けてくれて、しばらくコートで遊んでくれて、その経験が息子にとって根底にあるよう気がします。  神奈川に住んでいましたが、柏のスクールに行くことにしました。(半年)

その後浦安に引っ越しました。  近所のテニスクラブに入れてくれないかと4,5か所行きましたが駄目で、自分が先生になるしかないと思って、テニスはやったことがなかったが、テニスらしきものを始めました。

偶然息子と同じ年の女の子との出会いがあり、同じような状況の車椅子の子がいるんだという事で救いになりました。  

浦安ジュニア車椅子テニスクラブという名前を付けて3人で始めました。  浦安では障害者でも受け入れるところでした。  寛容な地域でした。

アメリカのデズニーランドにいったときに、うちの子がゴーカートに乗りたいといった時に、何も言わず乗せてくれて、動かないが一生懸命やるうちに数メートル行ってまた停まってしまったが、スタッフが走ってきて、息子の後ろに馬乗りになってアクセルを踏むために手で足を押したんです。  ビリではあったんですが、最後まで走らせてくれました。

帰ってきてから地元の小さな遊園地に連れて行ったら、そこでは何一つ乗せてもらう事はできませんでした。  ひと悶着あったと思いますが、親が争っている、怒っている姿を見て、息子は「デズニーランドでもういいよ」といったんです。

それを言われてから我々親がいろんなことをやっていたことに対して、冷ややかに見ていたのかなと思いました。  俺がそうなんだから駄目なんだという風に、その時私は感じて怒らない様にしているつもりです。

2016年息子(中学1年)は日本ジュニアランキングでトップになりました。     一番は本人の努力だと思います。 他に一つ何かといわれれば運がよかったと思います。

スポーツだけにこだわっているつもりはなくて、何かをやりたいと思う気持ちが大事だと思っていて、親が設定する気持ちはないです。 子供の選択に対して応援をするというのが私たちのスタンスだと思っています。

2017年一般社団法人日本車椅子スポーツ協会を設立。  いろんなスポーツを楽しむ場面や機会が作れればいいと思って立ち上げました。

①車椅子を使って何かのスポーツをする。                      ②車いすに乗った子供たちが遊びや野外活動をする。                 ③講演会、体験会などを行う。

多くの方に現状を知ってもらうという事もあります。

息子を見ても変化は大きいと思います。  何らかのきっかけになってもらえればいいと思います。

障害者のスポーツを裾野を広げるためにはエンターテーメント、環境の二つがあり、私が今やっている活動として裾野を広げるために大事なことだと思っているのは、子供たちが大人になった時に色々な選択肢が持てるような大人になってほしいと思っていて、そのために必要なものは、スポーツや遊びを通して何を得たかという事だと思っています。

スポーツをする、勉強をするというのは子どもに取っては誰しもが与えられた権利だと思っていて、そこにプラスアルファして、地域の為、社会のために何ができるのかというのを、認識しなくても経験しておくという事は、将来障害者スポーツの裾野を広げるために大事なことだと思っています。  具体的には障害のある子供たちがボランティアをすることだと思っています。

車椅子の大会を一つ行いましたが、息子を含めて高校生組はボール拾い、審判をして、試合をするのはクラブにいる小学生、中学生が行います。

体験会、講演会などで積極的に彼らが運営したり、体験会を開催するということが大事だと思います。

将来環境を変えられる人材が育つのではないかと思っています。  現状のアスリートがもっと競技だけではなくて、地域貢献や社会貢献をすべきだと私は思っています。

本人が目指している以上、親としては全力で応援しますが、プロのアスリートになってほしいとか、パラリンピックに出てほしいとは思ってはいないです、ただやるからには精一杯親としては応援します。  それが結果的に本人の夢を叶える結果になるのであれば、それはそれで素晴らしいことなのではないかと思います。

息子に望む一番の親孝行とは、家族を持ってもらう事です。







































































2020年11月8日日曜日

大塚明夫(声優)            ・【時代を創った声】

 大塚明夫(声優)            ・【時代を創った声】

大塚さんは多くのアニメや洋画の吹き替え、ゲームに出演しています。  お父さんは5年前に亡くなられた大塚周夫さんです。   大塚周夫さんの代表作の一つは「ゲゲゲの鬼太郎」の「ねずみ男」です。  幼いころは絶対に役者になりたくないと思っていたという大塚さんに伺いました。

アニメ『ブラック・ジャック』、ゲームメタルギアシリーズの主人公「ソリッドスネーク」役など多くの吹き替えなどを担当。 

うちの父は土日関係なく仕事をしていたので、非常に寂しい思いをしました。  将来大人になったら子供を連れて行こうと思っていました。  

23歳の時に文学座の研究所に行って役者を目指そうと思いました。  勉強はあまり好きではなくて、学校も辞めてしまって、トラックに乗ったりして働いていましたが、歳を取ったらきつくなっていくと思ってそれでは人生が面白くないのではないかと思いました。   どうしたらいいかと思った時に、養成所に行きました。  子どもの時の思いはどっかに行ってしまっていました。

行ってみたらなんと楽しいんだろうと思いました。   生きる道はここしかないと思いました。 1年で卒業ですと言われて、文学座の養成所に井上ひさしさんの娘が同期でいて、小松座が旗揚げするという事で手伝いが必要だという事で、そちらに行き雑用係をしていました。

すこしずつ舞台に出られるようになりました。  その後父親から声優の仕事をしないかと声がかかりました。  なかなか難しいさを知りました。  納谷六朗さんにはいろいろお世話になりました。

舞台は面白くて舞台をやりながら声優もやっていました。   映画「48時間」のTV吹き替え版があり、刑事役のニック・ノルティー を担当しました。   周りは先輩ばかりでした。 

夢中でやっていましたが、なかなかうまくいったのではないかと思ました。 

50歳ぐらいの時に、声優なんだから何も評価されようと焦ることもないんだ、と思ったら芝居するのが楽になりました。  そうすると舞台の自由度も得られるようになって、芝居の面白さに気づきました。   父親(当時80歳)から「楽しく芝居をしてください」という一筆があり、それには感動して泣けました。

自分も同じ道を歩き始めたときに、父親の背中が遠くに見えて、楽をして生きてきた人ではないんだなあという事が判って、そこではライバル心は無かったです。

父親から教わった記憶はないが、よく真似はしていました。

子供のころは「ねずみ男」を観る事は嫌でした。   大人になると180度変わりますしたが。

メタルギアシリーズは小島秀夫監督ですが、よくぞスネークという役に抜擢してくれたものだと思いました。   スネークの場合は膨大なセリフの量なので、声を作ると持たないなと思ってニュトラルにやろうと思ました。  ゲームは膨大なので全体像が見えないのがアニメとは違います。

5年前に、声優を目指す若い人に向けて本を出版する。  帯に書かれている言葉「声優だけはやめておけ」はそんなことは言っていないんですが。   当たり役があるかないかはその人の運という事はあると思います。  生き残ってゆくためには運だけではだめで、技術力みたいなものがないと駄目だと思います。  苦にならない人、楽しめる人でないと身を誤るから気を付けてねという事で、それでもやりたい人は一緒にやりましょう、といったことが書いてあります。

声優を目指す人には楽しくやってください、と言いたいです。

段々残り時間がなくなってきたので、朗読の世界のことをやってみたいという思いはあります。



 

2020年11月7日土曜日

2020年11月6日金曜日

前田はるみ(タンゴ歌手)        ・89歳、歌い続けるタンゴの心

前田はるみ(タンゴ歌手)        ・89歳、歌い続けるタンゴの心 

前田さんは1931年(昭和6年)栃木県足尾町(現・日光市)生まれ、、父親が早世したため4歳の時家族と上京、太平洋戦争末期の1944年一家で群馬県に疎開しました。  すでに歌の道を志していた前田さんは、女学校の通学途中にあった劇場の楽屋に出入りするほどでした。  1949年17歳のころ楽団を頼って上京し、浅草、銀座の小劇場やナイトクラブで歌手や女優として舞台に立ちました。  喜劇俳優の伴淳三郎さん、由利徹さん、八波むと志さんといった人たちと共演したのもこのころです。  前田さんは25歳になったら歌手一本に絞ろうと決意し、1960年にはラテンタンゴ歌手として再デビューしました。   アルゼンチンの女優で国民的なタンゴ歌手ビルヒニア・ルーケとはルーケが亡くなるまで終生の交流がありました。  タンゴ歌手のキャリア60年を越える前田さんはタンゴ歌手としては初めて 文化庁芸術祭優秀賞を受賞しています。 

猫が2匹いて大事な家族です。 隔週でタンゴ教室を開いていますが、今場所が使えません。  足が悪いので歩行器を使っています。   衣装はちゃんと着てやっています。

7人兄弟で下から2番目で、兄が3人、姉が2人、下に妹がいます。   男兄弟は全部東京に下宿して学校に行っていました。  4歳で上京して小学校の時に先生が空襲で亡くなって群馬県に疎開、桐生の女学校に行きました。  戦争が終わってホッとしました。

音楽の世界に浸りたくて、学校の途中に映画館があり、そこの楽屋にまで出入りするようになりました。   ある日東京から来た楽団より急病にかかった歌手の代役を頼まれ、ステージデビューしました。  学校卒業して何のつてもないままその楽団を頼って上京しました。   銀座のスターライトというクラブで歌っていたら、声を掛けられてコメディアン・俳優の伴淳三郎さんのところに連れていかれて、伴淳三郎主演の舞台「痴人の愛」のヒロイン役に園はるみの芸名で出ることになりました。

浅草の楽屋に永井荷風先生がいらっしゃってとてもかわいがっていただきました。    先生が「お前は浅草の人間ではない、丸の内に行きなさい、僕が紹介してあげる」とおっしゃって、岡田先生を紹介していただき行きました。  高橋忠雄先生のお陰でタンゴにめざめました。   25歳になった歌だけでやろうと自分で決めていました。

最初はラテンですね、淡谷のり子さんなどの歌も歌っていました。   中西さんからタンゴが廃れてしまうという事で、タンゴをやってくれと言われてタンゴに絞りました。 人脈に助けられてきました。

アルゼンチンタンゴではスペイン語で歌わなくてはいけないので先生につきました。   

*「ジーラ・ジーラ」  歌:前田はるみ

アルゼンチンの女優で国民的なタンゴ歌手、ビルヒニア・ルーケさんが私の歌を聴いて、『なんて力強い!』と褒めていただきました。

ビルヒニア・ルーケさんの「メルセ寺院の鐘」という歌を聴いて本当に歌に魅せられました。  それから彼女のレコードをいっぱい買いました。    ルーケさんからは本当によくしていただきました。

「ジーラ・ジーラ」の演奏、オマール・バレンテと彼の劇団で、オマール・バレンテさんも忘れられない人です。  日本でも何回か演奏しました。  バレンテさんとのツアーがありました。   レコーディングもアルゼンチンでやったりしました。

藤沢嵐子さん、宝とも子さんからもいろいろ教えていただきました。

夫の永田文夫は宝とも子さんから紹介されて、彼が新人をレコーディングさせていて、私にレコーディングしませんかと言ってきて、その時には35歳で若くないしほかの人にしてくださいと言ったんですが、それからの知り合いです、師匠でもありました。

夫が2016年に亡くなり残されたレコード、CD、資料は膨大にあります。 LPだけで5万枚ありました。  

自分は典型的な『アプレゲール』(無軌道な若者)でしたね。  

「私は才能がないので努力をするしかなかったです」と言ったら、ホセ・コランジェロがそれが才能だよと言ってくれました。   私が毎日発声練習するのを、夫はいつも喜んでくれてましたし、他人に自慢していました。

タンゴ歌手ビルヒニア・ルーケさんが私のCDに乗せた言葉があります。  「彼女(前田はるみ)は一体どのようにしてなぜ、自分を表現するためにこんなにも違う言葉とリズムを選んだのだろうか。  この不思議な現象を解明できるのはただ一つ、彼女も又タンゴを感じタンゴを愛すると言う私(ビルヒニア・ルーケ)と同じ能力を身に付けているという事だけ。」 


2020年11月5日木曜日

井筒和幸(映画監督)          ・寄る辺なき世界を生き抜け

 井筒和幸(映画監督)          ・寄る辺なき世界を生き抜け

井筒監督8年ぶりの新作「無頼」が12月に公開されます。  荒くれた抒情と差別されたものへの優しいまなざし、アクションのみならず笑いと涙で重いテーマもエンターテイメントとして仕上げる職人技の持ち主です。  映画好きだった少年時代からその起伏にとんだ映画人生をたどって映画と若者たちへの思いを語ってもらいます。

僕らの世代は仁侠映画と言われる手のものを浴びるように見て、麻疹に掛かったように感じるものが多くて、いわゆるやくざ者はジャンルとしてあったが撮らなかったが、「無頼」は二代目はクリスチャン』、ゲロッパ! GET UP!』といったものの僕にとっての集大成というか、延長上のものですね。

「仁義なき戦い」のシリーズの中にあるいろんな有名なセリフが毎日のように浮かんでくるような映画人生でした。   「ゴットファーザー」は凄く感染された時代ですね。

フランシス・フォード・コッポラ監督はこの映画はマフィア映画と言われているけれども実は資本主義についての映画なんだといいました。  僕も戦後の資本主義を描こうと頭にこびりついてからじーと時間が経っていて、テーマの奥底にはそれがあるというか、最低辺の人間から見た欲望と共にある資本主義を彼らが体現してゆくという、時代を振り返れば政治家、庶民、学者も資本主義の中で金儲けとは何ぞやという事で生きてきたわけですから、同じことをしてきたわけで、アウトローたちからの目線で描けばどうなのかなという事はコッポラ監督から教わったことです。

父親によく映画に連れて行ってもらったのが最初ですね。  小学校6年生のころ陸軍の残虐な映画だとかいきなり連れていかれとても怖かったです。  中学では一人でもみるようになりました。  「夕日のガンマン」、「卒業」「俺たちに明日はない」「猿の惑星」スティーブ”・マックイーンの映画など見ました。  

奈良県立奈良高等学校では映画研究部に入って、「猿の惑星」など見てショックを受けました。  進学校でしたが、映画ばかり見ていました。   文化祭で一辺倒な学校体制を皮肉れるものは無いかと、8mm映画を作って出そうとしたら、先生から制止されそうになって教室を使ってやったら満杯でした。  賛否両論がありました。
大学には行かずにぶらぶらしていて、バイトをしながら映画を観ていました。
「ゴットファーザー」、「仁義なき戦い」などを見ていました。  監督の舞台挨拶があって、映画って監督が作るものだなと思いました。 
そこからよし自分でも映画監督として映画を作ろうと思いました。
1975年 22歳で映画監督として、『ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々』がデビュー作となりました。
「青春の門」に対して青春はもっと悶々としたものではないかと思って描きました。 三上寛さんを主演に選びました。
東京の週刊誌が取り上げてくれて、次もやろうと思いました。

山本晋也監督についてレンズの選び方から、アップショット、ロングショット、ミドルショットとかいろいろ基本的なことを習いました。
ガキ帝国昭和40年代前半の大阪を舞台にした不良少年たちを描いた作品です。      リュウ:島田紳助 で典型的な暴れん坊の役でした。
みゆきは、原作があだち充さんによる日本漫画です。 
考えがまとまらない日々が続いて、女子医大に行ったら精神病だと言われてしまいました。
プロデューサーに見せたら及第点だと言われてスーッと病が飛んで行きました。
晴れ、ときどき殺人岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS』のど自慢ビッグ・ショー! ハワイに唄えば』という風に幅を広げてゆく。

ゲロッパ! GET UP!』パッチギ!』(「パッチギ」は朝鮮語(韓国語)で「突き破る、乗り越える」ならびに「頭突き」の意。)・・・京都における日本人の少年と在日コリアンの少女との間に芽生える恋を中心とした青春映画。   
パッチギ!』はキネマ旬報ベストテン1位、毎日映画コンクール最優秀作品賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。

映画製作はコロナ禍で春ごろにはやろうと思って準備しているところです。

いじめなんて嫌な世界ですね、昔はいじめなんてそんなになかったですね。
自分しか見なくなり、違和感のある者がいると排除するような動きになると思う。
人間はいじめに遇うという事を、そうではなかったようなのに思い出してしまったような気がします。  豊かな社会になったといわれているが、実はこんな不幸な社会はないと思います。
いい先輩を探して持って、いい芸術に触れてほしい。  
それが自分よがりにならないことだと思います。
自分はしょせん孤独なんだという事を噛みしめて、もっともっと他者と接してゆくことだと思います。








2020年11月4日水曜日

塚谷裕一(東京大学大学院教授)     ・"スキマ植物"によせるまなざし

 塚谷裕一(東京大学大学院教授)     ・"スキマ植物"によせるまなざし

塚谷さんは1964年(昭和39年)神奈川県鎌倉市生まれ。  高校生のころから将来は生物学者になるだろうといわれるほど動植物に強い関心を持ち,東大で植物の遺伝学を専攻し、植物学者になりました。  先進的な研究業績を残す一方で専門に閉じこもることを好まず、東南アジアの熱帯雨林を歩いて新種の植物を見つけたり,NHKラジオでは子供科学電話相談に出演して植物をわかりやすく解説するなど幅広い活動をしています。   好奇心旺盛な塚谷さんは6年前に「スキマの植物図鑑」という本を出版しました。  本には春のすみれ、夏の待宵草、秋の狗尾草(えのころぐさ)など全国各地の石垣や道路の隙間に生える110種余りの植物が掲載されています。   そして隙間は植物にとって楽園であるとお話になっています。  

NHKラジオの子供科学電話相談では絵とか写真が使えないので言葉で伝えなくてはいけないということが難しいです。

2014年に「スキマの植物図鑑」という本を出版。   反響がいろいろありました。      道端の足元だけではなくて膝ぐらいの高さに生えているものもあります。  

2005年アスファルトの隙間から出た「ど根性大根」が世間を騒がしたことがありましが、その後いろいろの隙間から生えているという話が出てきて、実例を写真で集めてみようというのがきっかけです。   今まで見たことのない種類が見つかります。  どこでも見られそうなものを100種類ぐらい集めてみたのが最初のきっかけでした。  まだまだ発見があります。

植物が元気に楽しく暮らすというのはどういう事かなあと思うのは思います。

動物、人間は移動することができますが、植物は寒いと思ってもどうにもできないわけです。

与えられた環境で何とか自分でなんとかしなければいけない。   隙間は植物にとっては楽園です。   熱帯雨林とか鬱蒼と茂っているところは植物にとってはむしろ苛酷です、周りに競争相手がいっぱいです。  光がたっぷり当たらないといけないので、密になるとどうしても日陰になってしまう。  植物がいっぱい生えていて楽園に見えるところは実は苛酷な競争社会なんです。

隙間に一個ポンと入れば後は自分の天下なんです。  周りに競争相手が入ってこない。    犬の散歩でおしっこなども入ってきて肥料も入ってきて、植物としてはなかなか得難いところです。

種が細かくて簡単に雨水で流れていくものだと雨に乗っかって流れて隙間に住み着く。  もっと積極的な移動手段を持っているものがあり、種の先に半透明な臍があり、蟻にあげるつもりのお弁当(脂肪分が溜めてある)があります。  蟻はそういったスミレなどの種を見つけると巣にもっていきます。 お弁当は食べて種はいらないのでその辺に捨てるので隙間に入る。  植物はいろんなものを利用して遠くへ移動します。

東大では和名:シロイヌナズナ(ナズナに似ているが一回り、二回り小さな植物)の研究もしていました。   植物の形というものはどうやってできるんだろうという事を調べていて、持っている遺伝子が配列としてわかっていて、遺伝子をいじって試すことが簡単に出来るので調べています。  いろんな仕組みの基本的なところはシロイヌナズナで理解していて、ほかの植物はどうなんだろうという形になっています。

インドネシアなどの熱帯雨林で色々植物を見つけに行っています。  東南アジアの熱帯雨林は5年とか、7年とかの周期で森中の木が花を咲かせる年があり、種類を問わない。  蜜がいっぱいあるので蜂が沢山繁殖するが、塩は無くて人間が汗をかきながら歩いていると塩を取ろうとして刺すわけです。  

腐生植物が沢山いて新種が沢山見つかっています。  腐生植物は緑の葉っぱを持たない代わりに根っこに特殊な能力があって、カビ、キノコがちょうどいいエサがあると思って入ってくるのを返り討ちにして自分の栄養にしてしまう。  形も姿も凄く変わっているので面白いです。

蟻と協定を結んでいる植物がいて、蟻に自分の身体の一部を巣として提供して、その代わりに蟻に住んでもらって用心棒になってもらう。  蟻はいろんなところからエサを持ってきて糞をします。   蟻から栄養を提供してもらう蟻植物がいます。

サイエンスは第一発見者以外は認められないのが基本的にありますが、この人のカラーだねという特色が出せないといけないのではないかと思います。

夏目漱石の『それから』に出てくる白百合が白くないことを指摘したエッセイ「漱石の白くない白百合」を書く。   ヤマユリだと思われるが、純白の百合と呼んでしまうといろいろと違ってしまう。  なんでヤマユリを白百合と読んでいるのかという事を書いたのが発端になっています。   同時代の日本の小説家の作品、短歌などに白百合が沢山出てきます。  いくつかは白百合を意味していることはあるが、どうしてもヤマユリというケースもたくさんあります。   あの頃ヤマユリに対して白百合という事で或るものを託した時期があったようだという事がわかってきて、面白い文化的なところがあるなとずーと思っているわけです。

明治、大正期の小説にはいろんな植物が出てきます。  泉鏡花に「黒百合」という小説があります。   読んでみると正確な情報を持っていたことが判りました。

高校時代は図書館の貸出量は1,2位を争うほど読書家でした。  一日一冊は確実に読んでいました。  最近は激減しています。  

観葉植物は暗いところでも元気に暮らせるように進化してきた。  

水陸両用の植物は水の中に沈んでも丈夫なように、水の中用の細いはっ葉を作る、表に出てきて空気に触れるようになったら、がっちりした形に変わって丸いはっ葉を作るという切り替えができる。   与えられた環境を最大限うまく生かす植物の生き方の極端なケースだと思います。

挿し木、接ぎ木で植物は増えることもできる。 

植物の生き方は僕らの考えもつかない生き方をしている、与えられた環境で生きていこうとしている。   人間の生き方は違ってもっと小さい、植物のあそこまで拡張して同じ仲間として考えると、人間同士のいさかいは些細なものに見えないかなという気がします。













2020年11月3日火曜日

深谷かほる(漫画家)          ・涙したい現実に寄り添いたい

 深谷かほる(漫画家)          ・涙したい現実に寄り添いたい

福島県出身の深谷さんは2017年、「夜廻り猫」で第21回手塚治虫文化賞短編賞を受賞しました。この漫画は遠藤平蔵という猫が「泣く子はいねえか、泣いている子はいねいか。」とつぶやきながら夜の街を見回り涙の匂いをかぎ取って厳しい現実を生きる人たちに寄り添い話を聞くという八コマ漫画です。   どこにでもある現実の一場面が描かれ、猫の平蔵は生きにくい世間に飲まれ心の中で涙しながら懸命に生きる人々の涙の目撃者になり共感者となります。  野良で生きる平蔵も日々空腹を抱え厳しい現実を仲間と生きています。  深谷さんは当時病気の息子を元気付けようとこの漫画を描きはじめました。  それをツイッターで公開したところ「わかる」、「共感する」、「癒される」と評判になり、そうした声に押されて本として出版されました。  深谷さんが夜廻り猫」の漫画に込めた思いと、ネット公開で発見したこと伺いました。

或る八コマ漫画

結婚式場でウエディングドレスを着た娘さんが両親への感謝の思いを読み上げています。 両親と血の繋がっていない。  両親は赤の他人で親子だと笑って話す。 娘からだから私は賢治さんとも家族になれると思います。 娘は「お父さんお母さんありがとう、大好きだよ。」という。  両親は涙でウルウルしている。 最後のカットでウルウル涙むぐ両親の前で平蔵さんがチュッシュペーパーを差し出す。 

家族はそもそも他人が集まってできるものだと思っていて、親子の血のつながりが無くても仲良く暮らして笑顔で赤の他人だよといっていれば子供は赤の他人というのが仲いい家族のころなんだと信じるものだと、私は信じています。

平蔵はどてらを着たおやじ猫、「泣く子はいねえか、泣いている子はいねいか。」は秋田のなまはげの言葉。

夜廻り猫」の場合は心の中で泣いている人間を探して話を聞かせてくださいといっていくために小声で歌っています。

5年前息子が入院して、慰めたいと思って、可愛くない猫の四コマ漫画を描いてみたのが第一話でした。   どこまで擬人化するかが難しいところがあります。  

息子は「まあまあいいんじゃない、ツイッターにあげてみたら」と言われました。

ツイッターにあげてみましたら、「いいんじゃない」と反応があり驚きました。 読んだ方が広げていってくれました。

読む方は年代は結構バラバラです。

第13話

夜の公園であからさまに泣いている声を聴く。  子供が夜泣きでというが、「泣いているのはママさんだ、心は号泣しておろう」と平蔵は言う。  夫は「俺は仕事なんだ」と怒鳴り子育てには協力しない、離婚を考える。  夫が迎えに来て「ごめん」と謝る。  最後のカット、平蔵は「うっかりゆるすな、罰金でも決めなされ」、とつぶやいている。

これをツイッターにあげたら多くの反響がありました。 子育て中の若い夫婦の人たちには睡眠時間を考えてほしいと思います。    問題そのものと、孤独と二つあると思います。

原発事故があり私は福島出身なので実家も知人たちもみんな被災したので、つらい時期でした。

息子の病気の原因はストレスで、私がいけないと反省しました。

「誰も見ていなくても猫は見ている」、とあとがきに書いています。

68話では生まれたばかりの子猫を拾って、片目を失ってしまっていて、喉が渇いているのに対して、川に飛び込んできて水を与え、「生まれた祝いです」といって、それからはこの子猫(十郎)との生活が始まる。

生まれてきたものに対しては「よく来たね」という気持ちはあります。  生まれた人が何かの形でこの世界から歓迎されてほしいと思います。 

息子の入院先で20歳代の人がいましたが、手術して、翌日はよろよろ歩いていたが、1週間ぐらいで普通の人のように退院していきましたが、町の中で歩いている人たちも何割かはそういった体なり心なりの問題をかかけながらも普通そうにしているところが頑張りだと思って、頑張りの部分をわかる夜廻り猫」がいるといいと思いました。 









2020年11月2日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】高校教諭・歌人 千葉聡

 穂村弘(歌人)           ・【ほむほむのふむふむ】高校教諭・歌人 千葉聡

文庫本ができました。 「短歌ください 明日でイエスは2010才篇」というものです。    10年前のころの作品が中心で、解説を書いている寺井 龍哉さんはそのころまだ投稿する立場でした。(当時17歳)

高校教諭・歌人 千葉聡さん、1968年神奈川県生まれ、東京学芸大学卒業後シンガポール日本人学校で教員となりそのころから短歌の投稿を始めました。  帰国後は國學院大學大学院に進学1998年に短歌研究新人賞を受賞。  現在は横浜市立桜ケ丘高等学校で教員をしながら作家活動も続けています。   最新刊は「はじめて出会う短歌百」、これまでにも教員生活を描いたエッセーや小説、「今日の放課後、短歌部へ」「短歌は最強アイテム」などがあります。

千葉さんは「かばん」という同人誌に所属していて昔からの友達です。

「はじめて出会う短歌百」について伺いたいと思います。

千葉さんとは1997年に初めて出会いました。  子供向けの短歌を出したいという事で大人の雑誌の付録として出して、それが何冊か集まり、「はじめて出会う短歌百」にまとめました。

編集協力として 佐藤 弓生さん、寺井 龍哉さんに参加してもらっています。

「母の子は母が想うより母想う線路伝いに咲く菜の花も」     カン・ハンナ    日本で活動する韓国出身のタレント歌人。

「いそいそとネットを張りて友を待つ豊かに寂し秋のコートは」   岩田正

テニスをするときに友達を待っていて、何となく寂しいがこれから友達が来るからという事で豊かな感じもある微妙な心を歌ったのかなと思いました。  豊かに寂しというところが魅力的ですね。

「あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ」  閑吟集より

好きな人が隣にいて話しかけたくて、でもいい会話ができそうにもなくて、空を行く雲のありのままの話をしている。   作者不明、室町時代の作品。 見たことを詠むという事は歌の基本かと思います。

「はじめて出会う短歌百」から穂村さんからの紹介。

「幼稚園のゴリラ先生とすれ違うもうゴリラではなくなっていた」 相原かろ(「浜竹」という歌集から)

卒園して数年してから道角かどこかで偶然すれ違って、ゴリラ先生だと思ったがあんまりゴリラっぽくなくなっていた、というところです。  相手が変わったのか自分が変わったのか。

「夏木立ひかりちらしてかがやける青葉の中にわが 青葉あり」  荻原裕幸(第一歌集「青年霊歌」より)

「わが青葉あり」と自分に向かって輝く青葉がある、これが若さの期待値、夢、プライドのようなものが「わが青葉あり」に含まれている。

*紀貫之が書いた古今和歌集の序文、「仮名序」を歌う。  千葉聡

「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。」

「修学旅行で眼鏡をはずした中村が美少女でしたそれでそれだけ」 笹 公人(「念力図鑑」より)

眼鏡をはずしたところを中村が美少女だった、この歌の面白いのは「それでそれだけ」というところで、きっかけになってドラマが始まらない、逆に味わいがある。

「かへりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき」   大松達知

デートをして、別れるときに一人でラーメンを食べる楽しみがあるという事を再確認する細やかなこと。

「この夜がこの世の中にあることをわたしに知らせるケトルが鳴るよ」 佐藤りえ (「フランジャイル」より)

ぼんやりしていたら、ケトルが鳴って我に返った、何か自分が別の世界に心が行っていて、ケトルが鳴ることで自分をよみがえらせる。

「死にし子のポケットにある黒砂糖けふの三時のおやつなりしを 」  桃原邑子(「沖縄」歌集より)

桃原さんの長男のことを詠った歌。  凄く悲しい。おやつを食べる前に亡くなってしまった。  その後すべてを絶たれてしまう。

「好きだった雨雨だったあの頃の日々あの頃の日々だった君」    桝野浩一

しりとりみたいだが、そのころの思い出として胸に迫ってくるような重いようだけれども少し甘いような青春時代の歌と思いました。  技術的な魅力のある歌です。 

*短歌のかな、漢字など違っている可能性もあります。








2020年11月1日日曜日

李 鐘根(在日韓国人被爆者)      ・被爆と差別、二重の苦しみを越えて

 李 鐘根(在日韓国人被爆者)      ・被爆と差別、二重の苦しみを越えて

広島市内に住む在日韓国人で被爆者の李 鐘根さん(92歳)、子供のころから差別に苦しみ16歳のときには爆心地から1,8kmのところで被爆しました。  原爆で姉を失い、ご自身も全身にひどいやけどを負って生死をさまよいました。   しかし、近所に住む日本人老夫婦に命を救われ差別を越えて人を思いやる大切さを痛感したといいます。     広島に原爆が投下されてから75年、李さんは92歳になった今でも原爆の恐ろしさと共に差別をなくして、互いを理解しあう大切さを 子供たちに伝えています。

75年は長いですが、朝鮮人が約2万人亡くなったと後で聞いて凄いなあと思いました。

1920年ぐらいに父は島根県匹見に来たようです。 どうしてここに来たのかは一切聞いていません。   戦後一度だけ父の故郷に行った事はありますが、大変貧しい村でした。

父が日本に来て5年後に母と姉を呼んで、私は1928年(昭和3年)匹見で生まれました。  広島には小学校6年生の時に引っ越してきました。  朝鮮人朝鮮人と言っていじめられました。

弁当を持っていきますが、判らないようにキムチを洗って入れてくれるのですが、冬弁当箱を温めるんですが、先生が臭いと言って窓の外に放り投げたりしました。   6年生の時に学校から帰る途中に近所のおじさんがお前立ってろと言って、私に小便をかけるんです。   父に話して文句を言ってくれるのかと思ったが父はそうはしませんでした。

日本名で江川と名乗っていましたが、母は民族衣装のチマチョゴリを着ていたので、すぐに朝鮮人だとはわかりました。  脱いでほしいとは何べんも言いましたが聞かなかったです。父は普通の着物を着ていたが、言葉の発音が違うのですぐにわかってしまいます。

尋常高等小学校を14歳で卒業して、鉄道局に勤めました。  鉄道には憧れていました。 2年後、16歳の時に朝出掛けて荒神橋を渡たったときに原爆に遇いました。

黄色味がかったオレンジ色が一面に目の前に広がりました。  家が陽炎のように浮いて見えました。  すぐに伏せて2,3分後眼を開けてみたが、真っ暗で何にも見えなくて、段々明るくなるのを待って立ち上がりましたが、全部家が倒れていて、焼け野原になってしまいました。   「お前顔が赤いぞ「」と言われて顔に手を当てたら痛かった。  両手、首から上、足が焼かれてしまっていました。   

姉は仕事先で亡くなりました。  私は機関区に行きましたが、生きていたかと言われ、やけどには油がいいと言って、機関車の工業用のオイルを塗ってくれたが、凄く痛かったです。

練兵場にやけどをした人々が水を呉れと言って続々と来ましたが、爆心地に近い人達でした。

夕方4時ごろに機関区から帰りましたが、橋が無くて渡れる橋を見つけて渡ろうとしたら、やけどをして真っ赤になった人たちが群がって座って、「助けてください、水をください」、と言って7本の橋を渡るたびに、焼けただれた人がたくさんいました。地獄だと思いました。

夜11時ごろ家に帰ったが、両親はいなくて弟が私を探しに行ったというんです。  翌日の夕方に帰ってきました。  母は私を抱きしめてしばらくずーっと泣いていました。

翌日鉄道病院の分院があるという事を聞いて、行ってアカチンを塗ってもらって、その瓶を持ち帰りました。  後ろから母に塗ってもらうが、そのやけどを見て母が泣くんです。

首の後ろが腐ってきて、膿が出てきて臭くて、蠅がたかってきて卵を産んで、ウジ虫が湧いてきて、母が取るたびに泣くんです。 大人になってこんな顔ではだれも雇ってくれないだろうし、韓国語で死んでくれと言っていました。

或る時に日本の老夫婦がいて、いろいろ聞いていたようで、湯飲みの植物性の貴重だった油を持ってきてくれて、大事にやけどの部分に付けて、1か月したら、よく成ってきてその後も持ってきてくれてこの油で完治しました。  この油がなかったなら私は今はいないと思います。 この老夫婦は全く知らない人です。 朝鮮人だとは判っていたと思います。

韓国に帰りたいという気持ちはなかったです。  母がお前の故郷を見るようにという事で30歳ぐらいの時に一度韓国の故郷に行った事っがあります。   親戚などに原爆のことを話しましたが、従兄弟が「日本に原爆が落ちてよかったよ」と言いました。 「何を言ってるんだ。 あそこで朝鮮人が亡くなったのは2万人ぐらいいるんだよ。何言ってるんだ」と言ったら、「おじさん原爆が無かったら、私たちはまだ苦労してるよ。 原爆が落ちたから私たちは解放されたじゃないか。」と言いました。  「ああそうか35年間苦しんだのは、あれで解放されたんだ。」という事を感じました。  考え方が違いましたが、理解することはできました。  しかし、原爆は決して許せないと思いました。

無差別にたった一発の科学兵器で子供だろうが、女性であろうが殺してしまう悲惨な兵器に対しては私は許せないです。

朝の閃光の恐ろしさ、練兵場での光景、私のウジが湧く状態、在日という影が付きまとうんで、被爆体験は話することすら知らなかったですね。   この話を外国人の私が話をしなければならないという事を勿論、過去いません。 人間同士の差別も有ってはいけないと思います。  戦争のない世界、戦争のない意識が大事だと思います。  戦争したらいけないです。  植物性の貴重だった油を持ってきてくれて、面倒を見てくれたあの老夫婦みたいな人のように世界に志を持った人が一人でも多くいてほしいと思いますし、そう無くてはならないと思います。