2026年5月31日日曜日

上の助空五郎(ヴォードヴィリアン)     ・「ヴォードヴィルで、花形演芸大賞受賞!」

上の助空五郎(ヴォードヴィリアン・シンガーソングライター)・「ヴォードヴィルで、花形演芸大賞受賞!」 

上の助空五郎さんは1978年岐阜県の出身です。上の助空五郎さんは幼少期から民謡、和太鼓、ピアノなどを親しみ、中学卒業後はオーストラリアの高校へ留学。 帰国後に様々な修行しながらヴォードヴィリアンとして活躍しています。

令和7年度国立演芸場主催の花形演芸大賞受賞。 令和5年度に銀賞、令和6年度に金賞、7年度は大賞。 まずは家族に報告しました。 ヴォードヴィリアンで受賞は初めてです。 上の助空五郎独演会、約1時間20分でタップ、歌、ギター、パントマイム、寸劇などたっぷりです。(休憩なし) ヴォードヴィルとは簡単に言うと、音楽と笑いの演芸です。もともとはフランス語でフランスの街中のテント小屋みたいなところで始まって、舞台に上がる人をヴォードヴィリアンと呼ばれていました。 

東京に上京後、総合創作、芸術家、だるま森の音楽サーカス団「ロマロマ」に入りました。 そこからだんだんいろいろな芸を覚えたくて、パントマイムの劇団に入ったり、大道芸のほうに行ったり、音楽活動でバンドをやったり、いろんなことをやっているうちに、ある人からやっているのはヴォードヴィルですねと言われました。 そこからヴォードヴィリアンと名乗り始めました。(22歳)  その前オーストラリアの学校に留学していました。(15歳から5年ほど)

飛騨高山は山深いところなので、宴会をするぐらいしか楽しみがなくて、家では子供たちはその場でいろいろな芸をやるようなしきたりがありました。  演芸関係の事をいっぱいしていました。 僕は民謡、太鼓、日本舞踊をやっていました。 

留学先のメルボルンと言う街を歩いていたら、おじさんがサックスを吹きながらタップダンスをとっていました。 それを見て衝撃を受けました。 高校ではジャズをやってました。 一人立ちをしたのは2006年か7年です。(30歳手前)

寄席の中で、落語と落語の間に、音楽などそれほど集中して聞かなくてもいい時間、それが色ものの役割という様になってます。  私としては、徐々に肩の抜けた芸になっていきました。 20分位の一人芝居がありましたが、実体験を話をしています。 チャップリンとかバスター・キートンを見ていて、あの感じが好きでした。 母親からテレビを見るのを禁止された時代がありましたけれども、それでも唯一見て良かったのはチャップリンとかバスター・キートンの喜劇でした。   レンタルで借りてきて見ていました。(小学生4年から6年ごろ)  それが今の芸に生きていると言うところはあります。

日本人では、マルセ太郎(映画の一人語り)、エノケン、寅さんとか雰囲気のある人が好きです。   稽古はウクレレとかタップダンスとか毎日やってます。 口で音を出す、トロンボーンとかトランペット、サックスなど自分でアレンジしてやっています。 人がやっていない芸をやってみたいといつも考えています。 力を抜いても気は抜かないようにしてやっています。 お客さんを飽きさせないと言うことも大事です。 ヴォードヴィルと言うものをもう少し知名度を上げたいと思います。 ヴォードヴィルは街の声と言う意味合いもありまして、昔のヴォードヴィリアンは、街の声を拾ってそれをネタにのネタにしていました。それが風刺になりました。 世界一しゃれた風刺芸をやりたいと思ってます。







2026年5月30日土曜日

栗原はるみ(料理家)            ・「福島で出会った人と食材」

栗原はるみ(料理家)            ・「福島で出会った人と食材」 

1947年生まれ、静岡県下田市出身。 1973年テレビキャスターの栗原玲児さんと結婚、2人のお子さんがいます。 家族のために作る自由な発想の料理が評判となり料理家になりました。 1992年に料理本「ごちそうさまがききたくて」、「家族の好きないつものご飯」?がミリオンセラーになりました。 以降アイデアあふれる料理を紹介し続け、料理家しての著書発行数3200万部を超える記録を持っています。2005年には料理本のアカデミー賞とも言われる。第10回グルマン世界料理本大賞を日本人で初めて受賞しました。 世界76カ国から応募された5000冊の料理書の中から1等賞になったということです。 NHKの番組にも出演されていて、1990年から「今日の料理」で講師を務めています。  「プロフェッショナル仕事の流儀」にも出演、「NHKスペシャル」にも出演しました。

ラジオ深夜便にも出演しました。 11時から1時までの番組なので家に帰ると目が冴え切ってしまって寝るのが3時位になってしまいます。  朝5時起きなので2時間位し眠れません。 1 年でやめました。  佐野元春さんの曲を結構選曲していました。 夫が亡くなって泣いてた日々でした。 私は26歳で結婚しましたが、夫は専業主婦でなくていいから、好きなことをやったほうがいいと言われて、料理を選ぶことになりました。 「夕食ばんざい」と言う番組はありましたが、その料理の裏方をやってほしいと言われて、それが私を変えた番組になりました。

1992年に出した「ごちそうさまがききたくて」がいまだに売れ続けています。  あのレシピは私が結婚してから家族に作ったものばっかりです。 私はおいしいと思った料理は、何度も試作します。  調味料は数字でしか現わされません。   人気レシピベストテンの1位「豚肉とレンコンの炒め煮」を作ってみました。(アナウンサー) ミリンが1、醤油が3、砂糖が2、レンコンが3センチの厚さです。色が透き通るまで炒めないといけない。 35分かかりました。 

夫は亡くなって悲しんでいるのを息子が見て、やりたいことがあるんだったら100書いてくれと言われて、それに全部付き合うからと言われました。 それがきっかけとなりました。(8年前) 手が届きそうなことだったり、夢はちょっといいかもしれないです。  アニエス・ベーの船に乗って食事を作ってみたいと言うのが1つありました。 彼女は温暖化をすごく心配して、すごいお金を出して世界の科学者を乗せる探査船をつくりました。 探査船に乗っている科学者の方に、1ヵ月間食事を振る舞うと言うのは夢でした。 8年ぶりに日本に来るからと言うことできませんかとなりました食べてもらってすごく喜んでもらえました。

今は80位あります。リストから消えたのはあります。 行きつけの食べるところを行く前に、おしゃれなバーに立ち寄って、そこでは夫婦で普段の会話ではないような会話ができるのでオススメです。 ギターも習ってます。 練習しかないです。  3、4 年位やってます。 1回決めたら止められない性格です。 SNSの発信も7年以上1日も休まずやってます。 

福島に来るようになって8年になります。 100の中の1つに福島の人と仲良くなりたいと言うものがあります。 日本酒を作ったり、ワインも作ったりして、ワインのラベルは私がデザインしました。 福島は私の夢を叶えてくれます。 家へ迎える側の人になってほしいと思います。 そうすると、家の片付けをするし、花も飾って料理もうまくなろうとするのでいいです。 家は70%位のキレさがオススメです。 玲児さんは、癌になって亡くなってしまいましたが、その生きたい時間の分を私にくれたのかなと思って、無駄な時間はないなと思ってます。  今88書いていて、そのうちの半分ぐらいは実現させています。







2026年5月29日金曜日

ダイアモンド☆ユカイ(ミュージシャン)   ・ことばの贈りもの「ユカイ流子育てを聞いてくれ」

ダイアモンド☆ユカイ(ミュージシャン)   ・ことばの贈りもの「ユカイ流子育てを聞いてくれ」 

ユカイさんのグループ「RED WARRIORS」は去年結成40年、今年デビュー40年です。  今ユカイさんは3人のお子さんのパパです。 2010年に不妊治療を経て長女を、2011年には双子の男の子を預かりました。 長女が小学6年生の時にアーティスティックスイミングを本格的にやりたいと、大阪へ妻と一緒に行き、ユカイさんと双子の男たちがさいたま市で暮らすと言う別居の生活となりました。 今はそれぞれの場所で子育てをしています。 今日はダイアモンド☆ユカイさんに子育ての話を中心に伺います。

気がついたら40周年になっていました。 時代に逆らって自分たちの好きなロックをやっていました。 1番ビリを走っていたと思ってましたが、気がついたら先頭を走っていました。 いい気になっていて、デビューして3年で解散してしまいました。 8年後に再結成しました。 みんな埼玉出身でした個性がバラバラです。   素晴らしい出会いだったと思います。 映画にも出ていますNHKラジオの「すっぴん」と言う番組のキャスターとして、2012年から2020年までやりました。    言葉の使い方を教えていただき勉強になりました。

男性不妊で子供を授かりました。(40歳過ぎ) 何度か失敗し諦めてました。   知らない人がいっぱいいるんでないかと思って2011年に本を出すことにしました。「種なし」 無知でしたが、不妊は男性の原因が48%あると言うことがわかりました。 世の中に広めなければいけないと思いました。 子供が授かってやってあげることの喜びを初めて知りました。

長女は新菜(にいな)2012年生まれ、17歳アーティスティックスイミングの選手として活躍しています。 母と一緒に大阪にいます。(三村アースティングクラブ)  オリンピックを目指して頑張っています。  今できることをやれると言う事は素晴らしいことだとは思っています。 息子は2人の子がいます。(15歳)  身長は私よりでかいです。 反抗期で、日々いろんなことがあって、子育てで勉強させてもらっています。  別々の生活を始めて5年になります。 料理を教わったりしましたが、今は料理が大好きです。 洗濯も結構大変です。 息子2人は性格が正反対です。

今、NHKのラジオで「さまよえるパパたちへ」と言う番組を担当、司会者としてやってます。 ゲストに呼ぶ方も、一流のアスリートの方から、芸人、ミュージシャン、文化人などバラバラで話を聞けば聞くほど様々で勉強になります。 家族それぞれが1番良い形を作っていくものだと思います。  

絶えず変わっていく=執着しないと言うことを頭に入れておきたいと思ってます。 「子育ては半卒業だ。」と言うことを言ったことがあります。 小学校の頃のような子育ては卒業と言うような思いです。 やり方、方法がどんどん変わっていくと言う意味です。 人のことを一生懸命やってあげること=自分のことを一生懸命やることと言う事につながっていると思います。 あまり気にしすぎると言うことも良くないんだとは思います。 放っておくことも1つの子育てにつながっていくと思います。 放っておく事は自立にもつながることだとは思います。 死ぬまで子育てと言う事はあると思います。 究極の子育ては天国に行くと言う事だと思います。


2026年5月28日木曜日

高嶋美穂(国立西洋美術館 保存科学室長)  ・私のアート交遊録「絵画の素顔に迫りたい」

高嶋美穂(国立西洋美術館 保存科学室長)  ・私のアート交遊録「絵画の素顔に迫りたい」 

絵画に科学的手法で迫る保存科学のエキスパートです。 絵画の保存、環境整備などの仕事を続ける中で、絵画に接触せず、痛めないで研究する方法で絵の具の調査などを当たってます。 こうした調査研究の中で今回貴重な発見がありました。  およそ500年前に描かれ、その後日本とベルギーに渡された2点の絵画が同じ作者のものである可能性が高いことが判明しました。 その決め手は高嶋さんが研究してきた赤外線による下書きの解析等の科学的手方です 。数百年前の絵は必ず劣化する。 絵の持つ本来の姿と魅力を解き明かしたいと語る高嶋美穂さんに研究にかける思いを聞きました。 

保存科学と言うのは、美術品や遺物を保存するための科学のことです。 この分野は主に2つの柱があります。①作品の劣化の原因や仕組みを探って、劣化を防ぐために、温度、湿度、照明などの周囲の環境を整えることを目的とした研究です。 ②作品の構造や材料である技法などを知るために、作品の保存状態を知るために、自然科学的な方法で調査していく研究、こちらは、X線や赤外線などを当てたり、サンプルを取って絵の具の調査などをする研究になります。 

最近よく使用されているのは、赤外線用のデジタルカメラです。 これだと波長が900から1100nm位までしかないので、絵画の下書きを見るのには不十分でした。欧米では1600から1700nmの長い波長を捉えることができるカメラを使用して作品の下書きの調査をしている。  しかしこれは大変高額な機械です。 そこで比較的安価な(それでも200万円)産業用赤外線カメラを用いて撮影して下書きを明らかにしました。 画素数が少なくて130万画素なので、何分割にもして撮影して、それを合成して1つの作品の絵を作っています。小さいものだと20分割、縦横1m以上の作品になると100分割以上になります。 非常に難しいのは、非破壊非接触で、基本的には行わなくてはいけません

描かれた当時のものを見ているわけではない。 古い時代に描かれた絵は傷みます。 ルネッサンス期に作られた作品は、絵の具が剥落したり、亀裂が入ったりして、剥落したところに広い範囲で塗り直したりしています。 色も変わってきたりするので、必ずしも今見ているものがオリジナルの状態ではない。 制作年代が違っていたりして偽物であると言うことがわかる場合もあります。 

およそ500年前のフランドルで描かれて、今は上野の国立西洋美術館と、ベルギーの美術館が所蔵している2つの宗教画が、1連の祭壇装飾ではないかということでしたが、新たな事実がわかってきました。 2作品が同じ祭壇画を構成していたに違いないということが写真の裏に記されていました。 周り張り巡らされた金の装飾帯とか人物が似ていると言うことがわかっていました。 同一人物が描いたかどうかについては、調査がそこまで今までは至りませんでした。 赤外線による調査で、二作品には下きがびっしりかれていることがわかりました。 2作品とも下きの筆のタッチ、下描きのき直しが多いということもわかって、その下きが二作品ともよく似ています。 同じ画家がいたものにないに違いないと言う事はわかりました。 国立西洋美術館の作品についてはサンプリングもできました。ベルギーの作品も、西洋美術館の作品も同じ同じ絵の具を使っていることがわかりました。

絵の中で重要視していた人物に高価な絵の具を使うと言う事はあります。 保存科学と言う分野は1930年代に立ち上がってきました。 日本では1936年の法隆寺の金堂壁画の調査に赤外線写真が使用されました。 1940年代の解体修理の際に、電気器具の出火により金堂壁画が燃えてしまいました。 壁画の修復をどうにか保存しようと言うことで、科学的手法が日本でも発展しました。

下描きには顔にこだわる人がいたり、手の向き、指の角度とかにすごく描き直しがあったりする人もいます。  年輪年代学測定法によって木材に絵が描かたことから、木材が切られた年がぴったりわかります。  製作年代についてもわかります。 国立西洋美術館にあるモネの絵は、保存状態が良くなかったので、サンプルを取って絵の具を調査を行いました。 モネは晩年には6から7色の限られた色を使っていたと手紙に書いています。 混ぜ合わせたり重ね合わせたりすることによって多彩な色彩を作っていました。 6から7色しか使っていないと言うが、晩年の作品でも、実際は10色使っていることがわかりました。  何層も重ねられている絵画よりも、日本画みたいに絵の具層の重なりがない絵の方が、絵の具の調査をしやすいです。  

私としては、科学的にわかったことと、美術史の間をつなげるような仕事をしていきたいなとは思っています。 子供の頃から絵は好きでしたけれども、大学では美術史を学ぶ学部に入りました。  大学の卒論に取り組むなかで、ヨーロッパでは赤外線とかX線を当てたりして、絵の具に含まれている元素を調べることで、どんな絵の具を使ってるかを調べたりする方法を知りました。 それに興味を持ちまして、こちらの学問のほうに入っていきました。 仕事を辞めた後は、絵を描きたいとは思っています






2026年5月27日水曜日

庄野真代(歌手・作詞作曲家・女優)     ・「飾らない心で生きる」

 庄野真代(歌手・作詞作曲家・女優)     ・「飾らない心で生きる」

庄野真代さんは、1954年生まれ大阪府出身。 197651日にデビュー、今年50周年を迎えます。 「飛んでイスタンブール」などのヒットを重ね、人気絶頂にあった1980年、突然の休業宣言、28カ国132の都市を回る世界一周の旅へと飛び出し、人生の歩みは大きく変わります。 帰国後は環境問題に目を向け、2000年に45歳で法政大学人間環境学部に入学、その後イギリスのウェストミンスター大学、早稲田大学大学院で学び、音楽を通した社会貢献活動を展開しました。 2022年に悪性リンパ腫であることを公表しますが、音楽活動を止める事はなく、病の試練を乗り越え精力的に活動を続けています。 「飾らない心で生きる」、常に前向きな気持ちで、迷わず進む庄野真代さんの人生の選択について伺います。

今までしてきたこと、今やってることについては、そんなに深い理由はなくて成り行きできちゃっています。 高校生の時代フォークグループの一員になりました。最初楽器をやって、その後コーラスをやるようになって、リードボーカルをやるようになりました。 オリジナル曲などを作ってコンテストに出ましたけれども、だんだんソロで活動するようになりました。 セミプロみたいな形で歌いに行ったりしてました。(高校生時代)

志望校の大学に行けなくて、浪人を始めました。 自分で作詞作曲をして、ピアノで弾き語りをしたら、関西四国の大会でグランプリを取っちゃいました。  東京の全国大会に出た帰りに、レコード会社の人に声をかけられました。 アルバムを作らないかと言われました 。はじめてのシングル版の曲が「ジョーの肖像」でした。

「飛んでイスタンブール」と出会って、プロの作詞家、作曲家の作品を歌うことができて、いらないメロディーがたくさんある、いらない詞もたくさんある、と言うことに気づきます。  紅白出場もあったりして、波に乗っていましたが、他にもっと自分が吸収する必要があるのではないかと思ってました。  友人に誘われて、80日間の世界一周旅行行こうと思いましたが、もったいないので1年半かけていくことにしました。 しかし、結局2年になりました。 

最初タイに行きました。 「海老の養殖をするためにマングローブの木をたくさん切りますが、その影響で海の風が入ってきて、作物が育たなくなる、水辺の魚も来なくなる。 海老をたくさん食べている日本からきた貴方はこの現状をどう思いますか。」と言われました。 環境が破壊されていると言うことを全然知りませんでした。これから先の旅は地球の素顔をちゃんと見て歩くたびにしないといけないと思いました。 旅を進めていくと発見がいっぱいありました。

見てきたこと、聞いてきたことを絶対日本に伝えなければいけないと思いました。 夫婦で旅をしていたので、長女はロサンゼルスで出産しました。  次女は日本です。 アメリカと日本では赤ん坊に対しての考え方がだいぶ違っていました。   でも2人とも問題なく育ってます。 

日本に戻ってきてから、国連の環境のイベントでテーマソングを作って歌ってほしいと言う話が来ました。 歌ったりスピーチをしていきました。 その数ヶ月前事故と病気で2回立て続けで入院と手術をしました。 人の命と言うのはいつどうなるかわからないと思いました。  法政大学が2年環境学部を新設して、社会人入試もあると書いてあり受験して合格しました。  仕事との両立の心配がありましたが、やることにしました。(45歳) 学校では、サークルを作って老人施設障害者施設病院とかなどにコンサートをする人を集めていって、音楽を楽しむと言うことをやりました。 

海外留学の夢を持っていまして、新聞にぴったりの条件がありました。  それに応募して合格しました。 選んだ学科が人間地理学でした。 途上国問題、英語、パフォーマンスのクラスの4単位取ることになりました。 そして開発人類学というのがあって、それが早稲田の大学院のアジア太平洋研究科でした。 ここで学ぶことになりました。 修士論文を書くときに、テーマが見つからなくて、音楽を通した支援の活動について書いたらどうかと考えました。 フィリピンのストリートチルドレンの施設に勉強に行きました。 そこでは音楽セラピーをやっていました。  暴露療法、歌うことによって子供たちが心を回復させて、みんなと集団生活に溶け込んでいけるということでした。 

NPO法人を立ち上げました。(「国境なき楽団」)                   施設の訪問コンサート 世界の子供たちに楽器を届ける 平和のための世界で行われているコンサートの日本主催者になってするコンサート ④活動費のためのライブカフェを開きました。 この4つを軸にして活動しています。      子ども食堂も2018年からやっています。 ボランティア活動へ向かって行ったのは母の影響かもしれません。 小学校の頃、私は体が弱くて学校の給食が食べられなくて家に帰って食べていましたが、給食費を払えない子供たちが何人かいて、そのことを母に話したら、「家に連れて来なさい。」と言って一緒に食事をした経験があります。 

コロナ禍でいろいろな活動ができなくなりました。  帯状疱疹になってしまい、精密検査をしたら悪性リンパ腫がわかりました。(ステージ4) 抗がん剤治療しながら仕事をしていました。 悪性リンパ腫はゼロにはならないので、友達として良いことをしながら付き合っていくようです。  良いこととは生きがいですかね。  歌を介して一緒になって、そこが輝く時間になる、それが生き甲斐です。    大事だなと思う事はドキドキすること、ドキドキしようと言いたいです。


2026年5月26日火曜日

行定勲(映画監督)             ・「映画は、自分を映す鏡」        

 行定勲(映画監督)             ・「映画は、自分を映す鏡」 

行定勲さんは、1968年熊本県出身の57歳。 高校卒業後、映画製作の専門学校に進み、岩井俊二監督等の映画で監督を務め頭角を表します。 2002年には映画「GO」で日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞、2005年の「世界の中心で愛をさけぶ」と、2006年の「北の零年」では優秀監督賞、2010年の「パレード」と2018年の「リバーズ・エッジ」では、ベルリン国際映画祭の国際映画批評家連盟賞を受賞されています。 10年前の熊本地震からの故郷の復興支援については、先日行定監督のインタビューを前編としてご紹介しました。 今回は海外での映画やテレビドラマ作りにも挑戦していらっしゃる映画人としての行定監督の思いを伺いました。

子供時代はカンフー映画が流行っていた時代で、ブルース・リーとかジャッキー・チェンの映画をよく見に行きました。 中学の頃が1番よく見に行きました。   父親が時代劇が好きで一緒に黒澤明を見に行くと連れて行かれました。 「影武者」を熊本城で撮影していまして、立ち入り禁止のところですが、子供は大丈夫だからということで、父親から言われて入ってきました。  その時の情景がとんでもないものを見たという感じでした。 タイムスリップしてきたような状況にも見えるし、あっけにとられていました。 完成した「影武者」を父親ともに見に行きました。 見たときに仰天しました。 物凄くリアルでした。 エンドロールを見てこの映画に関わっている人間が200人以上もいることも知りました。(小学校5年生)  エンドロールを見て書き写していましたが、同じ人の名前を何回も書きます、その中から黒澤満(「GO」のプロデューサーになる人)と言う人も知りました。(中学生)

2002年の33歳の時の「GO」で日本アカデミー賞最優秀監督賞受賞。    2005年の「世界の中心で愛をさけぶ」と、2006年の「北の零年」で優秀監督賞、ベルリン国際映画祭では2010年の「パレード」と2018年の「リバース・エッジ」で、国際映画批評家連盟賞など、数々受賞。

本当はたった一人の人に届いたものが、人生を変えられたりしたらそれが一番うれしいです。 1990年代、2000年代のハリウッド映画は展開がスピーディーで、万人が感情移入がしやすい、自分の生活とかに置き換えやすい。 日本の映画は、主人公がもっと個人ですね。 四季、生活の情緒が浮かび上がるなかで、生まれあがる人間関係みたいなものが、日本映画の良さだったりするので、起伏のない中でディテールを見せてゆく、日本映画の良さがちゃんと伝わっていくことがすごく重要だろうなと思います。 

去年、今年あたり「国宝」と言う映画がすごく評価されとんでもない興業収入がありました。 「国宝」を作った方たちがあんなに多分200億も行くとは思っていなかったはずです。 「国宝」と言う映画を、なんでよかったのかと嫉妬した目で見るのではなく、みんながそこにつながっていくような世の中になっていくといいなと思います。 

熊本復興映画祭と言うのをやらさせていただいているのは、人の映画をものすごくいいよと言える場なんです。 映画って、作った人間以上に観客の方が理解している映画の方がとんでもない映画、後の世の中に記憶される映画になります。 僕らはどんな形であるかわからないが、きっかけを作っているいろんな人に人生に影響を与えると言うわけではなくて、関わっているとういう風に捉えています。 たった1人の誰かがいいって言ってくれたら、その人の人生に関わってるんですね。 

現場でしか出てこないエネルギーとか、その化学反応とかそういったものを大事にしたいと思っています。 演技している人は、僕以上にそのキャラクターを理解しているはずなので、それを表現してくだされば、それを取り逃さない、そこが緊張感です。 現場ではみんなが自発的にやってくださればいいと思ってます。 映画とは「自分自身を映す鏡」であると言う風にも思ってます。  

キャラクターを見ていると、自分の気持ちに触れている部分を代弁してくれているとか、僕の記憶の中にある物から想起されるものが多いですが、僕の知っている社会と言うのは、そこに映画の中に写っているかどうかと言うのは感じるところはあります。  自分の人生の一角みたいなものがあるかもしれないです。 若い時にいいと思ってたことと、今とはやはり違います。 

毎回新人というか、毎回変わっているような感じです。 毎回新人でいると言うふうな気持ちでいるのには、やったことないことをやるのがいいですし、本を読んでたりして、たまにこれは俺しかできないと言うような思いがあって、そういう時の映画は後々自分の代表作になったりもします。    映画の70%はキャスティングで決まる。 俳優の入れ込み具合が映画のクオリティーを左右する。(そうとも言えなくなってきている部分もあります。) 

2024年には韓国ドラマ「完璧な家族」と言う作品をつくりました。 「完璧な家族」においては越境すると言うことが、自分を大きく形作っていく。 今回はテレビドラマで向こうの国営放送で、そこで作る連続ドラマと言うのは多分史上初なんです。 それに挑戦してみたいと思ったことと、隆盛を極めた韓国ドラマ業界、韓国の俳優たちとちゃんと向き合ってみたいと言う思いが強かったんです。  多分衝突あるかと思ってましたが、衝突だらけでした。  感情の問題は共通だと思ってますが、韓国人はこの感情で陥らないとかと言うところがあって、思い通りにはならないです。 イニシアティブは演技者たちに持たれてしまいます。 

1番何が刺激的だったかと言うと、韓国の俳優は監督の考えを無視して、最初に自分の意見を言う。 全員が言葉で完全に伝えてきます。 演技の技術はとにかくすごいです。   持ってるものはいっぱいあるし、切り替えも早い、先輩後輩も絶対です。 完全にアウェイ状態ですが、逆にそれが良かったとも思います。 

日中合作の時には半分日本人を連れて行きましたが、そこにストレスが全部僕が食らうんです。 他のスタッフもストレスも僕が背負うことになってしまうので、越境するときにはお勧めできないです。 自分だけが来る苦労する方がまだ楽です。 日本人は外国に行くと案外打たれ弱い。 自己主張する文化があまりない。  向こうはわがままと言えるように自己主張してきます。  オリジナルで映画を作る環境作っていきたいなと思います。




2026年5月25日月曜日

2026年5月24日日曜日

中村すえこ(高校教諭・映画監督)      ・「非行少女が高校教師に。そして映画を監督」

 中村すえこ(高校教諭・映画監督) ・「非行少女が高校教師に。そして映画を監督」

中村すえこさんは、1975年埼玉県出身。 15歳で女性だけで構成された暴走族レディースの総長となり、障害事件で逮捕され、女子少年院に送置されました。   その後通信制の大学を卒業して、高校教員の免許取得、現在教員として働く傍らで、少年院、女子少年院を取材したドキュメンタリー教育映画の監督をしています。

「記憶2」という少年や女子少年院を取材して、そこでの生活少年少女たちをインタビューしたドキュメンタリー映画です。 4年前に女子少年院を撮った一作目があります。 それが「記憶」です。 一言で言うと社会を変えたいと思いました。  そのためにはどうしたらいいかを知ることで意識を変えていくことが出来るのではないかと思いました。 その中で映画と言う方法を見つけました。 私はNPO法人「セカンドチャンス」と言うところに所属していて、そこで少年院と関わるようになりました。 「セカンドチャンス」と言うのは自助グループです。 少年院に入った経験のある人で成り立っている団体です。

埼玉県で生まれて4姉妹です。父母はお互いに10代の時に結婚しました。 6人で暮らしていて家は6畳と4畳半だけでした。 父は働いていませんでした。 私は小学校34年生の頃に1人結婚して家を出ました。 もう1人姉は働いてました。 すぐ上の姉はアルバイトをして家にいませんでした。 夜も1人で過ごすようになりました。 寂しさがあり年齢が上がって行くと、外に出たりするようになり、私と同じように寂しく過ごしている人たちがいました。(中学生時代)

集団ができて、どんどん非行の道へ進んでいきました。 タバコを吸ったりバイクを運転したりしました。 中学1年の夏にはほとんど学校には行かなくなりました。女の暴走族の先輩と知り合いました。 中学2年生になる頃には、暴走族レディースの一員になりました。 居心地の良い場所ではありました。 中学校を卒業すると総長になりました。 チームを1番にしようと思って、下のチームに参加しないと言うようなところには暴力で従わせました。 その暴力で相手に怪我をさせてしまって障害事件を押しました。 16歳の時に少年院に入ることになりました。(1年間)  レディースが大事で自分の居場所を守りたかった。 退院後も戻りました。    

しかし状況は変わっていました。 レディースから追放されていました。  居場所がなくなり、生きている希望がみつかならなくなりました。 レディース抜けるときにはリンチをされて、自分がこういうことを人にしてきたんだってということがわかりました。 2度目も逮捕されて、母が私を愛してくれているんだと言うこともわかりました。 命の大切さにも気づき、生き直したいと思いました。(2度目の逮捕の時 18歳)

18歳で結婚して子供を産んで専業主婦をしていました。 辛いことがあったりすると、悪いことをしようかと思いましたが、子供が心のブレーキになりました。  本を書く機会を得て、初めて自分の過去と向き合いました。(30歳)  その後に「セカンドチャンス」と言う団体を設立することにつながっていきます。 「セカンドチャンス」の設立者は東大を出てる先生です。 自助グループを作ることが1番更生しやすいのではないかと言う話でした。 先生にお会いしたときに、「どんな研究者よりも君たちの経験が必要なんだよ。」と言われてほっとしました。それまで過去を隠してきました。過去さえも生かせる生き方をしていきたいなと思いました。

全国に少年院が40何箇所あります。 少年院の全国制覇をして征服しました。    自分の話をしたり、彼女たちの話を聞いたりしていきました。 加害者である前に、被害者であるということがわかってきました。 或る人はお父さんはお母さんの再婚相手で、そのお父さんに性的虐待を受けて、ある日、刃物で父親を切り付け少年院に入ったと言う話もありました。 お母さんは幸せそうなのでお母さんには言えなかったと言うふうに言ってました。  生きていくのに厳しくて、誰も理解してくれなかったら、また犯罪の道に行ってしまうと言うことがわかりました。 社会を変えないと同じ繰り返しで、また犯罪起こす可能性があります。  映画を持て社会を変えていくために、一人一人が少しずつ何かをする、そしたら変えられるって言う感想を聞いて、そう言ってって言われた時が1番嬉しいです。

私は離婚をして子供を引き取って生きていこうと思いました。 中卒で働ける領域は幅が狭いです。 高卒認定で仕事の幅を広げようと勉強して、合格したらもっと勉強したくなりました。  通信制の大学に入りました。 ある人から事務の仕事を紹介され、大学1年でしたが、中卒の資格で仕事をしながら大学に通っていました。 先生から教員免許を取るように言われました。 私は教員免許を取ると言う到達点に行けたら、何歳からでもやり直せるんだと言うことを、少年院にいる子たちに伝えるんだと思って教員免許を取ることになりました。 

社会科の教務に移ったらどうかと言う話がありました。 色々と縁とタイミングが重なってきました 。生徒を送り出すようになり楽しくなりました。  ホームルームで生徒との関わりが好きです。  映画では最初が女子少年院、2が男子少年院、その時に少年院の中でインタビューした子が社会に出て、再び犯罪をしてしまい、少年刑務所に行くことになりました。 生きていくために教育は必要なんじゃないかと思っています。 川越にある少年刑務所が教育に力を入れています。   人が変わっていくためには、教育が必要なんだと言う問いの答えを見つけたいなと思っていて、それが「記憶3」を考えています。 「記憶3」は劇場版にしようと思っています。 (費用は寄付などで賄っている。) 情報はホームページに掲載されています






2026年5月23日土曜日

田嶋陽子(英文学研究者・女性学研究者)   ・私の人生手帖(ちょう)

 田嶋陽子(英文学研究者・女性学研究者)   ・私の人生手帖(ちょう)

1941年生まれ、幼少期から高校まで静岡県沼津市で育ちます。 元法政大学教授で1990年代から様々なメディアで発信を続けます。  著書「愛という名の支配」2019年に復され、2022年には韓国版2024年には中国版が出版され、フェミニズムの先駆者として再評価の機運が高まっています。 田嶋さんの研究の原点には母親との葛藤がありました。 苦しみ続けた日々の中で自身を取り戻し、その苦悩が世界中の女性を苦しめている問題でもあると言う観点から、女性学の道を切り開いてきました。 現在ではシャンソンの歌手としての顔も持つ田島さん、まずはその歌声からお聞きください。

*オリジナル曲「揺蕩い(たゆたい)」 歌:田嶋陽子

私は60過ぎて国会議員になって国会議員は合わないと思っていました。 軽井沢町おこしのために歌でも歌ってもらえませんかと頼まれました。 歌を習いに行った先生がシャンソンでした。 シャンソンを歌うことになりました。 コンサートやったら270人来てくれました。(半年後) そろそろ20年近くなります。

中学生の頃、歌とか書道、絵などは中途半端でしたけれども、歳をとって自由になってやり直したいと思いました。 最初は「笑っていいとも」に10回出て、その後たけしさんの番組を13年間やりました。 当時いろいろなことを言ったけど、嫌われましたね。 再評価されるようになりましたが、時代が追いついたそれだけのことだと思います。 日本の社会が変わるんではないかと期待してます。

父は仕事をしながら、脊髄カリエスになった母の看病をしてました。 結核菌が骨にはいってしまったので、母自身死ぬものと思っていました。 死ぬ前に、私を一人前の人間にしたいと思ったと思います。 勉強の事とか非常に母は厳しかったです。 あと女らしくしなさいと言われました。 母からのしつけ、愚痴で子供時代は苦しみました。 いい薬ができて、母は元気になってきました。 私は女子校に入って勉強しないで、図書館に行って本ばっかり読んでいました。 自由に生きた女の人たちが殺されたりして死んでいくと言うことを本で知り自分なりに纏めていきました。 津田塾大学の大学院で修士課程を終了し、イギリスのケンブリッジ校に1年間留学しました。

ベルギー人の伯爵の人と知り合って、招待されて休みを過ごすことになりました。伯爵家の奥様お嬢さんたちも結局専用主婦になります。 5年ぐらい待つと言ってくれましたが、結局別れることになりました。イギリスに二回目の留学に行き、英文学の研究でイギリスに行っている間に、今までやっていた男性の研究者たちが見てきた見方を学んで、そこから私が出れないでいました。 英文学の研究を現地でするようになって、それまでの研究の考え方を脱して、嶋田陽子なりの英文学の獲得していきました。 

フェミニズムと言う視点から英文学を見るようになって、私にとってはそれが画期的なものでした。 今もその延長線上にあります。 フェミニズムと言うのは人権なんです。 「雪国」と言うあんな退屈な小説はないと思っていましたが、それをフェミリズムの視点で見たら、実に面白いです。 視点を変えることによって、作品が全く違う生き方をすると言うことを発見しました。 登場する駒子と葉子は同一人物だと思っていまして、そうするとすごく面白くなって、内面みたいなものを表してしていると言う解釈をしました。 そうしたら作品がすごく深くなりました。映画も自身の視点で見直して書いてます。

母は男社会の代弁者で、母は良妻賢母になろうとしていました。 良妻賢母には自分がないんです。 だからあんなに強くなれる。 しかし、母は、自分の人生をこれは違うと思ってたわけです。 母はフェミニストでした。  46歳になるまで、母にはN0と言えませんでした。 やっと私のことだから、私に決めさせてくれと言って、ここから私の人生となりました。 母から解放されたと言う事は、男社会からも解放されたと言う意味にもなりました。 

私が法政大学に就職したときに、駒尺 喜美さんが、フェミニズムの視点で日本文学を読んでいて、自分なりの世界を作っていた方です。 テレビに出ていろいろ批判されましたけれども、彼女から励まされました。 自分のやってきた事は間違ってはいなかったと思います。 今まで自由になるために、私は戦ってきました。    子供時代が1番悲しくて、1番辛くてやっぱり地獄でした。 母親との関係が1番辛かったです。 私はフェミズムと言う事は学ばなかったけれども、自分から全部紡ぎ出したと言う気持ちはあります。(自分の苦しい体験、悲しい体験)       韓国語、中国語英語圏でも翻訳されて出ると言う話もあります。  原動力となったのは、人間として自由になりたいと言う気持ちです

2026年5月22日金曜日

蒲島郁夫(前熊本県知事)          ・「逆境の中にこそ夢がある」

 蒲島郁夫(前熊本県知事・東京大学先端科学技術研究センターフェロー) ・「逆境の中にこそ夢がある」

蒲島さんは1947年熊本県稲田村に生まれました。 高校を卒業した後、地元の農協に就職、21歳の時に農業練習生としてアメリカに渡りました。 その後奨学金やアルバイトで学費や生活費をまかないながら、ネブラスカ科大学で農業を、そしてハーバード大学大学院で政治経済を学びました。 東京大学で教鞭をとっていた2008年、熊本県知事選に立候補して当選、416年勤めました。 現在は東京大学先端科学技術研究センターで半導体の研究を重ねています。 災害対応の指揮を取った 2016年の熊本地震から10年、今思うことなどを伺いました。

熊本地震から10年になりました。 熊本地震は2期目から3期目に移る時でした。(就任の日4月16日)  学問に戻る様にとの誘いもあり迷っていた時期で、熊本は良いハードができて、これから花を咲かせる時期だと五百籏頭 眞さん(元防衛大学校長 50年来の友人)から言われました。 地震対応に1番力を注ぎました。    急いで県庁の本部に行きました。  2日後に地震からの復興三原則を決めました。  ①被災された方々の痛みの最小を図る。 ②創造的復興、前よりも良い形で復興しよう。  ③創造的復興のさらに発展につなげる。  逆境の時にこそ夢があるという人生を送ってきたので、三原則に沿ってやりたいと思いました。 二日後に県民に約束しました。 

私がハーバード大学の政治理論で学んだ中で、サミュエル・ハンティントン先生がGap仮説」と言うことを唱えられました。 分子と分母があって、分子、皆さんの期待が変わっていきます、最初は助かって良かったと思っても1週間ぐらいするとおいしいものを食べたくなる、1ヵ月もすると立派な家に住みたくなる、そういった期待値はどんどん上がってきます。 分母の実際値のほうはなかなか上がりません。 その差がギャップになるんですが、期待値と実態値のギャップが広がらないように急いでやらなければいけないと言うのがその理論です。 広がってゆくと暴動が起こったり、社会不安が起こってゆく。

1947年熊本県稲田村で生まれました。 両親は戦前満州にいって仕事をしていましたが、無一文で子供を6人連れて熊本の稲田村に戻ってきました。(その後3人生まれ7番目が私でした。)  私は新聞配達をしながら、家計を助けたりしました。  熊本県立鹿本高等学校に行きましたが、成績はほとんどビリでした。 ただ本を読むのが好きでした。 小説家か政治家、牧場主と言う夢を持っていました。    大学と言う選択肢はなくて、地元の稲田村の農協に勤めました。  農業研修生としてアメリカに行くことになりました。(21歳)

最初ワシントン州、次にオレゴン州、アイダホ州などいろいろなところに行きました。 私にとって良かったのはネブラスカ大学で学科研修を3ヶ月一生懸命勉強しました。 2年間の研修がありました。(6か月間学科研修残りは農業実習) 一度日本に帰って、半年間旅費捻出してアメリカに再度渡りました。 そして農業研修生の通訳をやりながら試験を受けました。英語と数学ですが両方ともダメで、不合格でした。 先生からの後押しもありチャンスを貰えて、他の学生と1学期間だけ375人の学生と一緒に勉強しました。 375人の10人だけがすべての科目で90点以上、その中に私も入りました。 

特待生となる授業料免除、奨学金が来る、1年生の時から指導教授が来て研究ができる。 その時には本当に一生懸命勉強しました。 恋人をアメリカに呼んで結婚しました。 指導教授とともに豚の精子の保存方法の研究をしました。  豚の精子だけは保存が長くできませんでした。 その時点で悩みました。 研究をずっとやっていくべきかそれとも政治をやりたいかと言うことでした。 政治学としてはハーバード大学に行きたいと先生に言ったら推薦状を書いてもらえました。  ハーバード大学では、授業料免除、奨学金も来ました。 ハーバード大学でドクターをとって日本に戻ってきました。

筑波大学で17年、東大法学部で11年やりました。  50歳の時に、東大法学部に呼んでもらえました。  人にはいろんなチャンスを与えてくれる社会だなと思いました。 逆境だからといって何もしないのではなくて、逆境の中だからこそ夢が大きいものがある、それをやってよかったなと思います。 2008年に現職の東大教授から政治家、熊本県知事へと言う道になっていきますが、難しい決断でした。家族はみんな反対しました。 1番反対したのは私が教えていた学生たちでした。 私の専攻は政治過程論計量政治学であり、投票行動の実証的研究などでした。 蒲島理論を使って圧勝すると宣言しました。

5人の立派な経歴を持つ人が立候補しました。 しかし圧勝しました。 5人のうの46%私が取れました。 チーム熊本ができて、4期まで支えてもらいました。   大学教授のときには1番関心があったのは、自分の理論がどのぐらい世界で受けられる受け入れられるかと言うことに喜びを感じていました。 知事になって、熊本県民を幸せにするために政治学を勉強したわけなので、皆さんの幸せのために作りたい、それに喜びを感じます。 

財政再建を1番求められていました。 給料が124万円でしたが100万円カットしました。 税金を差し引くと14万円しか残りませんでした。 2期8年やったときに借金はものすごく減りました。相互信頼ができた事は大きかったと思います。   くまモンができて関連商品の売り上げが15年で15000億円、経済効果も大きかったけども、くまモンが誇りです。 新幹線の全線開業でマスコットを使って大阪からお客さんを来て欲しいと思いました。 小山薫堂さんと水野学さんにお願いしてスケッチを頂きました。 職員が一生懸命やりましたが、痩せていて反応が良くありませんでした。 みんな失敗したくなくやっていますが、県民を幸せにするのが目標だから、リスクを恐れずにしてほしいと言いました。

私自身は、もともとモットーが逆境の中にこそ夢がある、そして不可能を可能にする、不可能と思った瞬間にダメですね。 ちゃんと支えてくれる人が出てきます。 妻にも県庁の職員にも、学生にも一度も怒った事はありません。 でも妻には毎日怒られます。 両親は何をやろうとしても一切口を出せませんでした。 不可能を可能にして生きていうと言う生き方をすることによって、自分の夢が叶えてゆく。   

故郷の地に故郷三賢人の碑が建ちました。 企業家の長野濬平さん、熊本市長を務められた星子 敏雄さん、そして樺島郁夫さん。 長野濬平さんは早い時期に熊本に近代養蚕業を広めました。 星子 敏雄さんと言う人は満州で30代で警察長官になってソ連で10年以上抑留され、帰ってきてから熊本市長になりました。 

私が知事時代にやった事は、半導体の研究と生産、半導体の会社がたくさん熊本県にはありました。 東大の先端研究所の方でフェローとして呼びたいということで、半導体をみんなで支えようと言う、半導体の文明研究会って言うところを作ってそこの会長もしました。 半導体を平和利用のために使うそのための研究とそのための半導体の生産をやっていきたいと思ってます。 

健康維持のためにできるだけ歩くようにしてまして、目標を9000歩位にしてます。日本中の子供たちに「やればできるんだと、逆境だからと言ってあきらめないで、逆境でも夢があって、それにチャレンジすればできるんだ。」とサゼッションできると思います。 自分を信じること、あきらめないこと、そうしたら必ず救いの手が出てきます。






2026年5月21日木曜日

山本真希(パレスチナ刺繍帯プロジェクト主宰)・「パレスチナの女性と美しいものを作る喜び」

 山本真希(パレスチナ刺繍帯プロジェクト主宰)・「パレスチナの女性と美しいものを作る喜び」

山本さんは昭和53年東京生まれ。 小学校時代にアメリカで数年間過ごし、帰国後は日本で成長しました。 大学は薬学部へ進み、大学院終了後化粧品メーカーに勤務します。 2013年にパレスチナを訪れるツアーに参加し、紛争が続く中、高い壁に囲まれ厳しい生活を送る人々を見て大きなショックを受けたといいます。   その一方で、女性たちがパレスチナの伝統的な刺繍を大切に伝承していることを知りました。 そこで山本さんは着物の帯に色鮮やかなパレスチナの刺繍をしてもらい、製品化することを思いつきます。 次の年に会社を辞めて本格的に活動を始めました。 現地の女性たちにデザインの説明などを繰り返し行い、これまで300本のパレスチナ刺繍帯を完成させています。 パレスチナの女性たちを支援し、パレスチナと日本の伝統文化を継承したいと活動を続ける山内さんに伺いました。

帯の地の色は黒ですが、赤や緑、白、茶色といった刺繍糸で細かく刺繍がデザインされています。 別の赤い帯には、香りの良いダマスクローズが刺繍された帯になります。 バラの花です。  もう一方は白地に青、水色なので、大きな花が刺繍されています。 パレスチナの伝統的な刺繍は、もともとパレスチナの民族衣装とかインテリア、装飾品に施された刺繍の総称のことをいいます。 主な刺繍の技法としては、✕点をたくさん重ねたクロスステッチとなります。 難民キャンプの人たちに刺繍をしてもらった帯です。 パレスチナの難民キャンプに行くと、本当に過酷な環境です。下水、上水も整っていません。 停電もよく起きます。

小学校の時に数年間アメリカで過ごしました。 その後日本に帰国しました。   小さい頃は好奇心が旺盛な子供でした。 父は建築家、母はインターナショナルスクールの教師です。 父は趣味で油絵とか水彩画を描いていました。 影響されて風景画などを描くようになりました。 大学は薬学部卒業、大学院は東京医科歯科大学で修士課程を終了しました。 その後就職し、化粧品メーカーに入りました。  スキンケアの研究開発やお肌に良い成分の基礎研究などをしてました。

ある時、駐日パレスチナ大使と奥様との出会いをきっかけに、パレスチナを知ることになりました。 2013年にパレスチナ自治政府が主催するパレスチナヨルダン川西岸を体験するツアーに参加する機会がありました。 紛争で苦しむ現実を目の当たりにしました。 それとともに美しい豊かな文化があることを知りました。   パレスチナの民族衣装、飛び跳ねて踊る民族舞踊、陶芸、おいしいお料理、染色、刺繍など幅広いパレスチナの文化を見ることができました。 

NPOが支援として刺繍のバックなどをやっていましたが、私の方でオリジナルものを作ろうと思いました。  思いついたのがパレスチナの刺繍のついた帯を作ると言うことでした。 作ってもらった評判がとても良かったです。 パレスチナの女性のお金お稼ぐ手段になると思いました。 人の手仕事による刺繍は、膨らみ感、微妙なサイズの違いがぬくもりを感じさせます。 会社を辞めて2014年に退職し、パレスチナ刺繍帯プロジェクトを立ち上げビジネスとして運営していきました。

着物の帯について、実際に身に付けて説明しました。 最近はお客様のニーズに応えるように、日本の帯地を送って作ると言うことを行っています 。20回弱訪問しています。 帯は当初全く売れませんでしたが、活動を続けました。 その後だんだん認知度が高まってきてお客様が増えていくことができました。 イラン戦争で一時期物流が止まりましたが、最近は戻ってきて商品が届くようになりました。  信頼関係、様々なつながりが必要です。

コロナ禍で行き来ができなくなり、訪問できなくてもどうやって帯を作ればいいか、もうちょっと刺繍が少なくて値段も手頃なものができないかと言うことで名古屋帯デザインして、図案を描いたりして、その升目をスマートフォンでやりとりしていました。 帯の刺繍ができる女性は5名しかいません。 或る一定の技術力が必要です。 人数が少ないと言うことが大きな課題になっています。 新しい人の育成の取り組みもしています。

完成した帯の姿や、お客様から「きれいな帯を作っていただいてありがとう。」と言われたときには、この上ない喜びで苦労を忘れてしまいます。 「刺繍に集中する時間が、戦争の恐怖、空爆の恐怖を忘れることができる。」と言ってくれて、戦争の恐怖を癒してくれるものだと思います。 

今までおよそ300本ぐらい作りました。 2025年外務大臣賞表彰を受賞されました。 日本とパレスチナとの文化交流の促進が認められたと言うことです。 いつか絹のパレスチナ刺繍を復興させたいと思ってます。 今はコットンの刺繍糸しか流通していません。 パレスチナ刺繍の帯を通して、パレスチナの人々が置かれている過酷な現状とともに、この美しい文化を、日本の人々や他の国の人々に知ってもらいたいと言う活動をコツコツ続けたいと思ってます。








2026年5月20日水曜日

本田孝一(日本アラビア書道協会会長)    ・「アラビア書道に魅せられて」

 本田孝一(日本アラビア書道協会会長)    ・「アラビア書道に魅せられて」

今、全国のカルチャーセンターなどで、アラビア書道が注目を浴びています。  アラビア書道は印刷技術がなかった時代に、イスラム教の聖典であるコーランの言葉をより美しく書写しようと始まった文字です。 アラビア文字を使う国々は1000年の年月をかけて、各国の地域の美意識のもとで洗練されてきて、芸術となって広がってきています。 アラビア書道は、イスラム教徒の関わりが強く、その聖典であるコーランを書き表すために発展してきたと言われてきています。 アラビア書道は日本の書道と違って、表面がツルツルの紙に細い竹か葦の先端を削って、彫刻刀のようにナイフ状にして、先に墨をつけて書きます。 そしてアラビア文字は基本的に右から左に横に書きます。 そのアラビア書道を指導しているのは、本田考一さん(80歳)、東京外国語大学アラビア語学科卒業後、通訳として中東地域に滞在中にアラビア書道に出会い、その美しさに惚れ込みました。 アラビア書道家の本田考一さんに伺いました。

毎日作品を作ってます。 横1.5メーター位の円の中に1つのコーランの書を全部入れ込んでるような作品を作っています。  完成まで2、3ヶ月かかります。    アラビア語を母国語としている国としては、21カ国以上あると言われてます。  それと関連しているのがイスラム教です。 7世紀にできて、アラビア語アラビア文字が各地域に広がっていきました。

20代後半から30代にかけてサウジアラビアに滞在しました。 アラビア語を使って仕事をしていました。  文字の美しさに惚れ込んでしまいました。 東京外国語大学でアラビア語の倍率が低かったので選びました。 大学紛争の時代で勉強はできませんでした。 就職はせず、アルバイトなどをやっていました。 本をひっきりなしに読みました。 自分はどういくべきか、先人たちはどこ言っていたのか、世界中の宗教書、仏典などを読みました。

ある時、後輩から呼び止められてアラビアへ行きませんかと誘われ、サウジアラビアに行くことになりました。  地図を作るためにいろいろな情報を集めると言う仕事でした。(地名、町の名前、山の名前などの情報) アラビア語はほとんどできませんでしたけれども、現地の人に教わったりしながらだんだん覚えてきました。仕事で行ったリビアではアラビア語をオンリーでした。 英語フランスなど全てだめでした。(仕事のプロジェクトに参加) 最低限の言葉が使えるようになったのは3年位でした。 アラビア文字に美しさを感じました。 書道家に習うようになりました。5年ほどで日本に帰ってきて会社を辞めてしまいました。(結婚もしていた)

1988年イラクで大きな書道家たちのフェスティバルがあるからということで、招待状が来ました。 私が書いたものが、新聞の1面でどんと出てしまいました。   (政治的な側面があるって言うことを全然知りませんでした。)  自己流だったので、良い先生からゼロからやらなければダメだと言われました。 先生からお手本をいただき勉強しました。  トルコの書道の大先生に引き合わせていただき、郵便でのやりとりして10年ぐらいやりました。 アラビア書道の免許皆伝をいただきました。

1998年位から自分の作品を作ると言うことにシフトしていきました。  いろいろなところで発表会を開催しました。 海外の数箇所で個展をやりました。  自分でデザインもするようになり、それも評価されるようになっていきました。  日本では「書は人なり」と言う言葉がありますが、アラビア書道では「書は神」といいます。 神様の言葉をより美しく書くと言う作業なんです。 ですから個性はないです。 世界にそういう文字芸術と言うのはないです。 ですから私は惹かれました。意味がわからなくても、美しいと感じると、自分で書いてみたいと言う人が出てきます。 日本の書道で培われた伝統かと思います。 文字芸術を日本人はすごく高く理解できます。 マレーシアで、英語でアラビア書道を説明したテキストを出します。  日本流の精神に基づく事によるアラビア書道テキストです。 文化交流になっていくと思います。





2026年5月19日火曜日

佐藤清隆(広島大学名誉教授)        ・「“神の食べ物”チョコレートに選ばれて」“チョコレート博士”

 佐藤清隆(広島大学名誉教授) ・「“神の食べ物”チョコレートに選ばれて」“チョコレート博士”

佐藤さんは愛知県生まれの79歳、 広島大学名誉教授、元は名古屋大学工学部で食品に使われる食品油脂を物理学的に研究していた工学博士です。 ある時その研究が大手チョコレートメーカーの目に留まり、チョコレート研究の世界に足を踏み入れます。 そこで佐藤さんはチョコレートのおいしさを大きく変える仕組みを発見、国内外で高く評価され、数々の賞を受賞しました。 近年はカカオ豆の起源や歴史、生産地の課題にも目を向け、チョコレートを通して生産者を支える活動を続けています。 チョコレートにかける佐藤さんの思いを聞きます。

学生時代は名古屋大学の工学部応用物理学と言う学科で博士課程を出まして、その後広島大学の生物生産学部の食品物理学と言う研究室に入りました。 油の結晶の性質を研究していました。 チョコレートの油ココアバターといいますがそれに出会いました。 ココアバターはチョコレートの原料、カカオ豆を発酵して乾燥してローストしてすりつぶして絞ると、天然の油脂が出てきます。 チョコレートを口の中に入れすっと溶けてとろける感じが出て固まった後、表面がつやつやしてパリッと割れると言う、そういう食感を作ってる主役がココアバターなんです。

チョコレートを作ってる大手の日本の会社から話が来ました。 1986年チョコレートを放って置いたりすると、表面が白くなって美味しくなくなると言う、そういう問題で頭を悩ましていました。 ファットブルーム、油の結晶が性質を変えてしまうことから出てくる現象です。 メーカーでは年間億単位の損失を出していると言う状況でした。 チョコレートの製造の中では、カカオバターの固め方が大事だと言うことで一緒に研究をやってほしいと言われました。 若手社員の育成についても依頼されました。

ココアバターの結晶になる時に結晶の種類が6種類あります。 それぞれ固まる温度、溶ける温度、味も違ってきます。 コントロールが難しい。この5型の結晶を作って維持すれば、チョコレートの製品が安定して、ファットブルームが起きにくなるんではないかと予想しました。 分子設計をすればいいんだと言うことに気が付きました。 1989年にアメリカの雑誌3本論文を発表しました。 世界から注目を集めました。外国のチョコレートメーカーに行っていろいろ教えました新しいチョコレートの製造技術にもつながっていきました。 アメリカ、ヨーロッパで5つの賞を頂きました。

材料のカカオ豆についても関心を持つようになりました。 産地によって味が違います。 その原因を知りたくて、2007年ごろから9カ国を訪ねて、チョコレートはできるまでの歴史を含めた壮大な世界があると言うことに気づきました。 ベネズエラはカカオの発祥の地です。 カカオ豆は熱帯でしか育ちません。 カカオ豆の中には油が半分ぐらい含まれていますが、残りはタンパク質、栄養成分で、カカオ豆の油が固まってしまうと、栄養が不自由な分なので芽が出ないんです。  カカオは豆の周りを甘くして動物を引き寄せますが、豆は渋いので、豆の周りの果汁を食べて糞として豆が出てきます。 それでカカオの生産範囲を広げていってます。

カカオの底知れぬ大きな魅力に引き込まれました。 氷河期があったりするとアマゾンの原流域でしかカカオ豆は残りませんでした。 人類がアマゾン川の流域にやってきて、約15,000年前カカオ食べ始めます。 重要な食料です。 チョコレートにはポリフェノールが豊富にあります。 昔から体に良いと言う事はわかっていたんじゃないかと思います。 2018年に、人類がカカオを飲んでいた痕跡がある最古の遺跡が南米のエクアドルの熱帯雨林あることがわかりました。 偶然土器の中からカカオ豆を発見しました。 それまでは北米と言われていました。 エクアドルでは重要な儀式にカカオが飲まれていたようです。

カカオの農園で起きている問題にも関心を持つようになりました。 天候、異常気象、病害に対して常に戦っています。 貧困と言う問題もあります。 3年前にカカオショックが起こりました。 バレンタインのチョコレートも非常に高くなりました。  異常気象がアフリカを襲いカカオ育たなくなってしまって、去年は数年前の4倍に価格が値上がりしました。  

リスクを分散させる必要があります。新しい土地でカカオ豆を生産するサポートが必要である。 南緯北緯20度以内の熱帯地方では、基本的にカカオを生産できます。 僕はフィリピンに注目しています。  生産地を多様化していくと言うことで力を入れてやっています。 遺伝子の解明がカカオの世界にも入ってきて、異常気象に対して抵抗性が高いとか、病気に負けないと言う種類の開発も今研究されています。 チョコレートの奥深い世界に、次々と引き込まれてきました。 1000万年前にカカオは生まれたらしいですが、何度も氷河期を襲いましたが、彼らはそれを乗り越えて、カカオのしたたかさに見習いたいと思います。 ファットブルームが起きない様な技術が出来そうなので是非完成させたい。 





2026年5月18日月曜日

水島結子(琵琶演奏家)           ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

水島結子(琵琶演奏家)       ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠 

水島さんは東京都出身、早稲田大学で琵琶サークルに出会い、演奏のみならず、かつて琵琶愛好家達のために発行された「琵琶新聞」についての研究も始めました。  大学4年生のときにはアジアの芸能をさらに研究したいと、韓国ソウル大学国学科(伝統芸能科)に交換留学。 現在は鶴田流古典曲の研鑽を志し、友吉鶴心に師事しています。 琵琶を始めて今年で25年目、演奏活動を中心に若手の育成、近代琵琶の研究、さらにはSNSでの発信など、琵琶の魅力を広めるために精力的に活動しています

琵琶に関することは歴史だったり、楽器だったり、何でもやりたいと言う形で演奏のみならず首を突っ込んでいます。 琵琶の白い部分は象牙ですが、人工象牙を作っています。(海外演奏が難しくなってきている。)  正倉院にある螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)は、国宝になっている。 頭がまっすぐですが、これは外国からもらったもので、日本の琵琶の特徴として頭の分が直角に曲がってます。  琵琶は4弦が基本ですが、私の鶴田流は5弦5柱の流派になってます。フレッドは昔は米粒でつけてましたが、1674年以降フレッドを高くして音を出すような風に改良されました。 

日本には雅楽の楽琵琶と平家琵琶があります。盲僧?琵琶というのがありまして、近代琵琶は薩摩琵琶と筑前琵琶があり、全部で5種類あります。 平家物語に使うのは平家琵琶です。 薩摩藩独特の琵琶を作ろうと言うことで、薩摩琵琶ができました。  筑前琵琶は、三味線音楽が江戸時代に流行るので琵琶に逆輸入しています。 筑前琵琶は三味線っぽく弾きます。 筑前琵琶は桐でできていて、薩摩病は桑でできています。 バチは柘植を使います。 世界で1番大きいビックと言われています。

ルーツはアラビア半島からシルクロードを伝わってきました。祇園精舎は実はインドです。 平家物語が流行った時代は末法と言われ、仏教で言うお釈迦様の教えがすたりまくっていました。 平家では仏教を信じていたので、仏教の故郷であるインドに思いを馳せてという意味で、祇園精舎が1番最初になっています。

*「祇園精舎」

大学の時に琵琶に出会いました。 「琵琶新聞」は明治42年から昭和18年までありました。 近代琵琶(筑前琵琶、薩摩琵琶)の機関誌です。 琵琶専門の新聞で、琵琶は明治から大正にかけては大流行していました。 明治になって、元薩摩の藩士が明治天皇の前で琵琶を演奏して、明治天皇が薩摩の琵琶かと言うことで、薩摩琵琶になりました。 薩摩琵琶は男性が弾いていましたが、大正になると女性も弾くようになりました。

韓国国立ソウル大学国学科(伝統芸能科)に留学しました。 琵琶はシルクロードを介して中国方面から日本に琵琶が入りましたが、韓国にはなくてなぜないんだと思いました。 その歴史を知りたいと思いもあり留学しました。 日韓併合の時にやるなと言ってそのまますたれてしまいました。 韓国に行って1番驚いたのは、声が1番の楽器だよと言うふうに教えられました。 声に合わせて伴奏しなさいということでした。 そこは日本と違うと思いました。

*「ねずみ教」 ネズミの動きをお経に織り込んでいくものです。

昔はおとぎ琵琶と言うジャンルがありました。 子供のための琵琶の歌がつけられていた時代がありました。 私も自分の演奏会で現代語を入れたり、古典の法を入れたりして、聞きやすいものを作って発表しています。

日本の音は日本語です。 文化とか喋ている言葉とかが音楽とかにも全てに通じていろいろなと言うことがあります。 琵琶の魅力は、自分で歌って、自分で伴奏するということで、自分を見つめ直す道具ということで良い修行になると思います。


2026年5月17日日曜日

野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会)    ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

 野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会) ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

1955年昭和30511日早朝、656分、四国高松を出航したばかりの旅行連絡船紫雲丸が、にわかに立ち込めた瀬戸内海の濃霧に包まれ、対岸の岡山県宇高港から高松に向かっていた第3宇高丸と衝突、紫雲丸丸はわずか3分から4分で沈没してしまいました。 乗客781人のうち167人が死亡1人が行方不明に、亡くなった人のうち、100人が島根、広島、高知、愛媛の4つの小中学校の修学旅行中の児童生徒でした。 この船に乗り合わせていたのが当時島根県の松江市立川津小学校6年生だった 野津幸次さんでした。 川津小学校の一行は四国へ出かけた23日の修学旅行、その帰りに、高松からこの船に乗り込んでいました。 出港して16分後に事故に遭遇、多くの児童が海に投げ出されました。 沈みゆく船から脱出し救出された野津さん現在は82歳です。 紫雲丸遭難事故生存者の会のメンバーとして、あの日の状況を語り継ぐ活動をしています。 今日は野津さんはどういう体験をしたのか、そして今どのような思いで行動しているのかを伺います。

島根県松江市の川津小学校、紫雲丸事故の資料が展示されている教室、紫雲丸の部屋には写真パネルがたくさんあります。 高松の桟橋で遭難の20分前の出発の時の写真です。 紫雲丸に関する歌もたくさん作られました。 命の大切さ、亡くなられた人の悲しい思い、残された人たちの思いなども振り返りながらしっかり学習しています。 特に511日は紫雲丸の日ということで全校でお参りをします。

私は衝突のときには甲板にいました。 視界が100メートル位しかない霧がありました。  第三宇高が汽笛を鳴らしました。双方が汽笛を鳴らしました。 あっという間に衝突しました。 カバンを取りに客室に行って戻ろうとしましたが、既に45度位傾いていました。 船と共に沈んでいきました 。相手の船に乗り移った人が半分ぐらいいたようです。  電源も落ちてしまい、照明も消えてしまい、船内連絡なども全くできませんでした。  船体は船尾から次第に沈み、その後左に傾き始めます。 乗り組み員たちはボートを下ろすこともできませんでしたし、紫雲丸はそのまま転覆、衝突後わずか4分から5分の間の出来事でした。 

私は水泳は得意な方でしたので、立ち泳ぎで海面まで上がっていきました。   イカダがあり、3人ぐらい既に乗っていて、大人が手を引っ張って助けてくれました。 助けに来てくれた漁船にイカダから乗り移りました。 その後第3宇高丸に引き上げていただきました。 船の油が漏れていたので、顔も体も真っ黒でした。  黒い油を飲んで吐き戻した子たくさんいました。 夕方先生とともに遺体を確認に行きました。 遺体安置場所では辛くて、先生と別れて先に帰りました。 

沢山の家族も遺体確認きました。 お母さんの姿を見ていると、子供心に悲しかったです。  生存者はラジオが放送していましたので、兄が来てくれたときには生存した事は知っていて来てくれました。  帰ってから学校に行った時、亡くなった生徒の机の上に献花をしていました。 2つあったクラスが1つになってしまいました。 21人の生徒と先生が2人父兄が2人亡くなりました。 6年生は児童数が61人でした。 最初の1週間ぐらいは普通の授業はできませんでした。

松本敏雄先生と言う修学旅行を引率して助かった先生が、ずっと地元で活動をしました。 それが原点になっています。 三島先生と共に2人で25枚の子供たち先生父兄のお墓に毎年お墓参りをしてました。 それが紫雲丸を忘れないでおこうと言う小学校の原点です。 33回忌を機に毎年お墓参りをお盆にするようになりました。 

小学校では学習に取り入れて、風化させないようにということで、そのお手伝いと言うことも私は続けています。 紫雲丸の部屋を作っていただきました。     子供たちの反応は生存者のお話を聞いて、事故の様子がよくわかったとか、命を大切にしたいと言う風な作文を書いてくれています。 これからも子供たちに伝えていきたいと思っています。  今は着衣泳もしています。  浮いて待つようにと言う指導をしています。 校庭の片隅に記念碑があります。 命の大切さを伝えたいと言う意味で慰霊碑ではなく記念碑にしています。  

ある一定の大きさの船には、非常時には救命ボート、救命イカダに乗るために、甲板などに集合場所、乗客が集合する場所を設ける事が決められていると言うことです。 集合場所、その経路については、船内に表示があると言うことです。    船に乗ったら、まず非常時の集合場所と、そこまでの経路を確認しておくことも大切だと言うことです。 救命ボートや救命イカダ以外に乗れなかった場合には、とにかく浮いているものに捕まる、体力を消耗せずに救援が来るまで浮いて待つと言うことが大切だと言うことです。






2026年5月16日土曜日

村田裕之(東北大学特任教授)        ・「2040年 高齢者人口がピークに~どう向き合いますか?~」

村田裕之(東北大学特任教授) ・「2040年 高齢者人口がピークに~どう向き合いますか?~」 

2040年、日本の高齢者人口がピークとなる一方で、労働力不足や年金、医療介護費料といった社会保障費の増大が、市民や高齢者層の暮らしへの大きな影響が懸念されています。 インフレ、物価高が続く中2040年を見据え、私たちは今からどのように準備をしていけば良いのか、また生き生きと働き続け健康寿命を伸ばしていくための具体的な方法などをお伝えします。

2040年と言うとあと15年後です。 結論から言うとちょっと厳しい社会になりそうです。  2040年に高齢者人口がピークに達します。  65歳以上が約3900万人と予想されています。 そして要介護、要支援を含めて988万人と予測されています。4人に1人が要介護高齢者になっています。 厚生労働省が中心になって、どのぐらいのスタッフ(介護士面倒を見るスタッフ)がいるか計算していますが、約272万人と言う数字が出ています。 今よりも32万人人多いですが、生産年齢人口(16歳から64歳まで働ける人の人口)が6213万人ですが、今から1100万人減ります。

1100万人減るのに、介護スタッフだけを32万人増やさないといけないわけです。 介護スタッフが少なくなって、良質な介護が受けられなくなります。   加えて、物価上昇、インフレが結構深刻になりそうです。 2%を政府目標にしています。  毎年2%のインフレが続くと、老後の生活費が、今現在が最低でも月に24万円(夫婦2人)必要です。 ゆとりのある老後生活をすると、月に39.1 万円と言う数字があります。 最低レベルのものが10年後29.1 円、15年後(2040年)には32.2万円、約1.3倍になります。 ゆとりのある老後の生活では今が39.1 万円、10年後は47.7万円 15年後52.6 万円、こちらも1.3倍になります。  

95歳まで生きたとすると、30年間生活が必要になります。 高齢夫婦2人世帯30年で最低レベルの生活費で1億、21 54万円です。 年金は出ますが、物価が2%の上昇の時に年金が2%増えるかと言うと残念ながら増えません。 2004年の年金改正の時に法律で決まってます。 1.1%位しか上がりません。 年金が11011万円位になります。 差額が1143万円です。 それなりの老後資金を準備しておかないと結構厳しいです。 

問題は介護費です。 在宅介護は見かけの費用は安いです。 在宅介護は大変な負担です。 精神的にも病みます。 介護する家族のコストが入っていないので一見安くは見えます。 介護をすると仕事を辞めざるを得ない場合もあるが、こういったものは入っていません。 介護費用とインフレで上がっていく。 できるだけ要介護にならないようにしていく必要があります。 この重要性がますます強くなります。

要介護になる要因は60代前に原因ができてしまいます。 中年期以降の生活習慣で決まってしまいます。 「スマートエイジング」と言うのは、今から20年前に考えたコンセプトです。 スマートは英語で賢いという意味で、エイジングは加齢、歳を離重ねる、賢く歳を重ねるという事です。。「アンチエイジング」は歳を取ることにあがらうと言うことです。 これは変な考え方です。 「スマートエイジング」は歳をとることによるいろいろな変化を受け入れて、その変化に適応していくと言う考え方です。  

認知機能は脳を使う習慣を維持すれば実は衰えません。 病気もちゃんと手を打てば、ある程度は元へ戻れます。 自分が本当はやりたいこととか、こんなふうに生きたいいと言うことをずっと心に秘めて歩み続ける、これが「スマートエイジング」の1番神髄の考え方だと思います。 ①体の健康(自立して生きる) ②精神的健康(元気に生き生きと過ごす) ③社会的健康(辛いのは、社会的に孤立すること)

①有酸素運動 ウォーキングもできるだけ早歩きがいいです。 脈拍で言うと110から120、高齢者は6000歩歩きましょうと言うと基準ができました。 成人は18000歩。 有酸素運動は脳卒中の予防に1番効果的です。 要介護になる原因の1番が脳卒中です。  脳卒中の7割が脳梗塞、2割が脳出血、1割が雲膜下出血です。  特に共通しているのは動脈硬化です。 ②筋トレです。 転倒骨折予防です。 転倒骨折は女性の場合要介護になる1番です。③脳トレです。 脳を使う習慣を維持することが大事です。 

要介護になるもう一つの筆頭が認知症です。 生活習慣を改善することで症状を減らすリスクを下げられると言うことがだいぶわかってきました。 有酸素運動も認知症に良いです。 大きな声で音読することもオススメです。 簡単な計算を素早くやると言うのがいいです。 手書きも脳のあちこちを使います。 前頭前野を活性化することがわかってます。 1日に15分程度やるだけで脳のラジオ体操になります。

次に心の健康の話です。①達成するとうれしい目標を立てる。 人間は目標がないとダラダラと過ごしてしまう。  目標を達成すると、脳の中にドーパミンと言う神経伝達物質を出やすくなります。 元気が出たりやる気が出たりします。    なるべく具体的な目標が良いです。 ②「自分軸」で生きると言うことも提唱しています。 社会的健康に関わるものです。 「会社軸」に対する言葉です。  「会社軸」は会社のリズムに引っ張られる。 自分の基準を中心に生きる、その真ん中にあるのが、自分で生きてゆく言うことです。 ③働き続けると言うことも効果がいっぱいあります。 お金がもらえるほかに何らかの形で誰かとコミニケーションがある。 これは脳を使う時間を維持することにつながります。 自分が達成したいこととか取り組みたいこと、そういうことをやる事は生きる目的になります。    そのためには健康でなくてはいけない。 高齢になると家の中でつまずきやすいので、片付けをするとか凸凹を減らすことが大事です。 家の中の転倒事故は階段、風呂場、居室です。 「エイジテック」(高齢者向け技術)AIもそう言ったものにどんどん使っていったほうがいいと思います。

元気な高齢者の方が増えれば、若い人もあんな生き方をしたいと言うふうに考えます。 私も当時そう思いました。 それでこういう仕事に取り組みました。 要介護人口が約1000万人になると言う事は、今をベースにしての仮説です。    この仮説を変えましょうよと言うことです。 私の好きな言葉は「未来を予測する最良の方法はそれを作ること」。 自分の未来は自分で決められる、人の未来は自分は決められらない。


2026年5月15日金曜日

三石知左子(小児科医)           ・人生のみちしるべ「子どもたちは未来」

三石知左子(小児科医・東京かつしか赤十字母子医療センター名誉院長) ・人生のみちしるべ「子どもたちは未来」 

三石さんは、1955年北海道札幌市に生まれ育ちました。 札幌医科大学卒業後は、東京女子医科大学病院の小児科医として、N ICU新生児集中治療室などに勤務、生まれて間もない命を守るための医療の現場で働いてきました。 1999 43歳でかつしか赤十字産院の副院長となり、その後200650歳で東京かつしか赤十字母子医療センターの院長となります。 以来、20年にわたり医療の現場と組織の運営を担ってきました。 三石さんは副院長として忙しい日々を過ごしていた44歳の時に、俳句に出会い、その面白さに惹かれ詠み続けてきました。 2024年には句集「小さきもの」を刊行されています。 この3月三石さんは院長を退き、1つの大きな区切りを迎えています。 どんな選択を重ね、どんな人生を歩んでこられたのか、三石さんに伺いました。

今は会議等が一切なくなりましたので、精神的には楽になりました。  長く管理職として現場から離れていたので、1小児科医として外来を手伝うと宣言したんですが、薬の調整量とかは必死で今は勉強してます。  父親からは「テレビの前で頭を下げることがないように。」(医療ミスをしないように)と言うことと、「職員250人と家族合わせると500程度はお前の肩ににかかっているので、責任をきちんと覚悟して仕事に当たりなさい。」と言われました 守り通せたのではないかと思います。 

全国に91の赤十字病院があり、赤十字の病院長の全国会議があるんですが、私以外は全部男性ということがでした。 同期で病院長になった人が15,6名いたので、同期会を作ってその中で情報交換等々進めてきました。 2021年に新築移転しました。(以前のものは19 83年に建設したもの) 移転のための土地を2015年に見つけました。2016年から建設計画が始まりました。 建設をするにあたって、いろんな病院を調べました。 最上階にある「ひだまり」と言う部屋があります。   霊安室を1番上に作って欲しいと言う提案がありました。 一般的には地下ですが、 水害に合うと、病院の機能が成り立たなくなる。 陽のあたる1番天国に近いところで、両親と赤ちゃんと別れる場所を用意できたのは良かったと思います 

病院に併設された図書館2万冊ある中の1万冊は、母親と子供たちのための本ということで用意してあります。 NPO「ブックスタート」0歳児健診などの機会に、絵本をひらく楽しい「体験」と「絵本」をセットでプレゼントする活動)の理事をしています 当時副院長で院長に「子供たちに絵本を送りたい。」と言う電話をしたら、「いいですよ。」と言うことをになりました。 それが今も続いています。

私は小さい頃は、体は弱かったです。 身近に先生がいたので親しみを覚えました。 医学部の大学を受けました。 1番勉強したなと思うのは、医師国家試験です。  覚えることが山のようにあり大変でした。  診療科をどこにするかと言うのは迷ったんですが、小児と言うのは未来があるんですね。 院長しているときに看護職の面接もしていました。 看護職の助産師に「どうしてなりたいか。」と尋ねたところ、「私は何週何百グラムで生まれて。」と説明していましたが、彼女は私が大学の時に見ていた赤ちゃんでした。 彼女は優秀だったので採用しました。

俳句もやってまして、20252NHK Eテレ NHK俳句にゲスト出演しました   俳句との出会いは、50代前半でした。 ある俳句のグループに誘われて、参加するようになって、今私が師事している西村和子先生に指導していただけるようになりました。 それをきっかけに先生の夜の初心者教室に通い始めました。 2024年にはじめての句集を上梓しました。 「小さきもの」と言う句集です。

「食卓のすずらん北海道とうし?」  母からすずらんを送ってもらいました。

「しばれると一人となりし母の声」 父が亡くなった後、母一人暮らしで電話で「しばれる」と言う声を聞きました

「初声をあげよ今宵は良夜なり」? 私の仕事の中では、代表の一句としてあげたいなと思っています。

俳句は自分の内面を言葉に出す手段として、とても大事なものと思っています。  私は人のご縁というか、人のつながりでここまで過ごすことができて、仕事にも恵まれましたし、それ以外でも豊かな時間を過ごすことができました。 ちょっとした出会い、ご縁、振り返るとそれは偶然でなく、私にとっては必然であったと思います。 人のご縁は大事にしたいなぁとはずっと思ってます。


2026年5月14日木曜日

岡村孝子(シンガーソングライター)     ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

 岡村孝子(シンガーソングライター) ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

岡村さんは愛知県岡崎市出身。1982年大学生時代に同級生の加藤晴子さんと女性デュオ「あみん」を結成してデビューし、「待つわ」が大ヒットしました。    その後ソロとしても活動を広め、「夢をあきらめないで」など時代を超えて愛される楽曲を数多く生み出してきました。 そんな中20194月急性白血病を患い、治療のため入院。 長期休養に入りましたが、2021年から活動を再開しました。    優しく寄り添うような歌声と日常の中の思いを丁寧に救いあげる歌手は多くの人の心に響き続けています。  ソロデビュー40周年、「歌と共に歩んだ人生」と題してその思いを伺います。

今年はソロデビューしてから40周年になります。 闘病なども含めいろんなことがあったなと思います。 アルバムは頑張ってたくさん出してきました。      ソロは1985年からです。  「あみん」からソロになるきっかけは、相手の加藤さんが就職することになりまして、曲作りだけやろうと思ってしていました。    23歳の時にもう一度やりませんかと言う誘いがありまして、東京に出てきました。そこからソロ活動開始です。 「夢の樹」と言う歌それ言う作です。ヨーロッパサウンドに淡々と歌うと言う歌い方に変えて作ったのが、2枚目のアルバムです。   そこからが岡本孝子のカラーと言う気がします。

「あみん」時代、学生と音楽を両立と言う条件でデビューをしたので、学校に通って東京に出てきて、いろんな番組に出て終わったら岡崎に帰ると言うことをしていました。 ソロになってからは、コンサートとアルバム作りを中心に活動をしました。  そんな中から「夢をあきらめないで」という曲が出来上がりました。   最初は失恋ソングという事で作りましたが、応援歌と言うような感じで捉えていただきました。 NHK「うたコン」に生出演で歌った時は、手拍子をしてもらったり、盛り上がって、私自身も高揚感ありました。

一応退院する時点で完全寛解ですが、2、3ヶ月おきに通っていて、採血の数値を見てチェックしてもらっています。 だいぶ良くなっていますが、病気前の免疫までには行っていなくて、肺炎になったり帯状疱疹になったりコロナにかかってしまったりしました。 この病気はクリーンルームから出られない病気で5カ月間そこにずっといました。 孤独感は感じました。 フアンの方から手紙をいただいたり、お守りを送ってくれたり、千羽鶴をいいただき1人じゃないんだと言うふうに感じました。 家族、あるいは医療スタッフの方々が一緒に戦ってくれてると言う気持ちが1番大きかったです。

年を越したらいないかもしれないと言う様な状況もあったので、音楽も聞きたくないと言う時期もありました。 娘が録音したアルバムを持ってきてくれて置いてってくれました。 それが娘なりの励まし方があると言う風に感じました。 退院してからのツアーで、楽しいと思ったり、おいしいものを食べたり、身近な近くの大切な人に「ありがとう」と言う言葉を伝えておけばよかったと思って、そのことを伝えています。  

2021年からステージに復帰しました。 リハーサルでは大泣きをしてしまいました。 本番ではただただ嬉しいと言う気持ちで歌っていました。  体力が落ちてしまっていたので、マイクも重く感じました。 犬と散歩をしたり、ストレッチをしたりしています。 造血をしなくてはいけないので、肉はいっぱい食べてます。 魚も野菜も食べれてます。 今は1つ年齢を重ねるということが、こんなに幸せなことなんだという事を病気をしてからわかりました。   闘病後、まだまだ失敗をしたり、つまずいたりだめ、だめな自分を出したいと思って、「未来の扉」と言う曲を書きました。  ありのままの自分を出していきたいなと思ってます。   寝る前の時間が私だけの時間なので、本を読んだり、数独をしたり、ゲームをしたり頭の体操をしたりしてます。 新しい曲のテーマ探しをしているところです。


2026年5月13日水曜日

菊池武夫(ファッションデザイナー)     ・「男性はもっともっとおしゃれを!」

菊池武夫(ファッションデザイナー)   ・「男性はもっともっとおしゃれを!」 

菊池さんは1939年東京都の生まれ。 1956年に暁星高等学校卒業、その後文化学院美術科を経て、原のぶ子ファッションアカデミーで服飾を学びました。 企業のポスターやカタログのキャンペーンのための衣装デザインなどを手がけ、1970「BIGI」(ビギ)ブラウンドの会社を立ち上げ、会長としてデザイナー、会社経営者として、活動。 その後その後「MEN'S BIGI」(メンズ・ビギ)ブランドも立ち上げて1970年代のファッション業界を牽引しました。 1984年には大手ファッションションメーカーと自らの名前を冠したブランドを作り、初代デザイナーとして現在も、年に2回新しいデザインを展開しています。

現在86歳(あと1ヵ月で87歳)、自分のやりたいことをやり通せば、自然に楽しくなって、楽しくなるとストレスがないのでそれが良かったのかと思います。  1970年代「BIGI」(ビギ)ブランドの牽引者として、あの時代を境に日本のファッションは変わっていきました。  世界的に大きな波がありました。  音楽が先導して変化していった文化だと思います。 エルビス・プレスリー、ビートルズで文化が変わり、音楽の捉え方が変わっていきました。 ロックの文化が入ってきました。 グループサウンズが流行り、いろいろ影響が出てきました。 

イギリス、ヨーロッパ、アメリカなどを2か月かけて回って帰ってきたのが68年でした。 ファッションの環境が日本とあまりにも違っていて、溜まってみたものをデザインしたいと思いました。 始めたのが「BIGI」(ビギ)と言う会社を作った時でした。 焦げ茶色にちょっと赤が混じったような色とかジーンズ、パンツスタイルも流行り始めました。 

1970年にファッションブランド「BIGI」(ビギ)を設立しました。 女性を新しい世界にということで作っていました。 1975年にメンズビギを設立して、男ものにスイッチしていきました。  萩原健一主演のドラマ「傷だらけの天使」の衣装を担当して爆発的なブームとなりました。 私の認知度も一般的な人に広がっていきました。  ビジネスとデザイナーをやることは大変でした「タケオキクチ」、「モールラック」などのブラウンドを立ち上げました。 

ビジネスとデザインを両方やっていた時代もあって、第一段階はうまくできましたが、デザインと現実のところはすごく時間差があって大変です。 ファッションの波が狭い時は良いけれども大きくなると大変です。 いつも成功してないとダメでそれが大変です。 柔軟性のある思考してないとうまくいかない。 自分のやった事が終われば、一旦完全に白紙にするます。 

男性もおしゃれになっていろんな格好しておしゃれになってきました。 スーツもだいぶ変わってきました。 ビジネスと普通の生活の差がなくなってきてます。  職種も多岐にわたってます。 クラシックのものに対しても、新しいものに対してもかっこいいと言う事は同じだと思います。 

1945年に第二次世界大戦が終了して、その時に暁星学園(ヨーロッパ的)に入る時でした。 アメリカの文化をすごく受けています。 ヨーロッパの文化とアメリカの明るくて、パワフルな文化を一緒に受けて、当時裕福だったと言うこともあって、アメリカの放出品をはどんどん入ってきて、着るものは全部アメリカの子供が着てる洋服を着ることができました。 中学の頃から、自分のファッションに目覚めていきました。 

「タケオキクチ」を作って2024年で40周年になりました。 年齢を重ねていって、若い人もの同士がいいのかなと思って、一旦30代の人に任せました。 自分に合った年代のものを作っていこうと言う準備はしていました。 しかし、もう一度原点を作るために戻りました。 考えるのは自由だから、若くても歳をとってもあまり差はないんですが、考えた後にそれに対してどういう反応があるかがわからなくなるのが1番怖いです。 それがギャップだと思います。 自信も、それが裏付けになっていないと自信にならないんです。 市場とのギャップについては1番問題だと思います。 ギャップをできるだけなくす。 満足した事は1度ありません。 いつも不安です。 

篠山紀信さんが言っていましたが、我々の時代はものすごいみんな欲張りだった、だからみんな自分の世界を引っ張り込むだけのパワーありました。 それを欲張りだと紀信さんは言っていました。 1日が楽しければデザインはできます。 僕の楽しみの1番の元は、僕自身の自由、人に制約されないで、自分自身が生きられることができていればいいのかなと思います。 人の協力なくして、特に洋服なんていうのは絶対できません。 歳をとってもおしゃれでいると言う事は絶対に必要です。自分で、自分自身をかっこよく見せられれるかなぁとそれだけです。 おしゃれと言うのは自分のためにするものです。


2026年5月12日火曜日

2026年5月11日月曜日

今陽子(歌手)               ・師匠を語る「いずみたくを語る」

 今陽子(歌手)               ・師匠を語る「いずみたくを語る」

心に残る数多くの名曲を、世に送り出した作曲家のいずみたくさん、そのいずみたくさんに指導を受けて、昭和43年「ピンキーとキラーズ」のボーカルとして、「恋の季節」がダブルミリオンのヒットをした今陽子さんに師匠のいずみたくさんとのエピソードなどのお話を伺いました。

あんぱんと言うドラマでいずみたく先生が出てきました。 やなせたかし先生とうちの師匠と、ここのところインタビューなどまた多いです。

いずみたく、本名今泉隆雄さんは1930年昭和5年東京日暮里で生まれました。  14歳で陸軍の幹部候補をを養成する陸軍幼年学校に入学しますが、翌年終戦、その後は演劇学校で演技を学び、俳優として活動する一方で、大衆的な社会活動、歌声運動にも参加します。 さらに作曲と、管弦楽法を独学で学び、1955年昭和30年、民放が主催するホームソングコンクールでグランプリを受賞。 三木鶏郎さんの「冗談工房」に所属し、新進気鋭の作曲家としての活躍が始まります。 

NHKのみんなの歌でも取り上げられた「手のひらを太陽」ではピンキーとキラーズの楽曲の数々、岸洋子さんの「夜明けの歌」、デューク・エイセスの「いい湯だな」、レコード大賞を受賞した差良直美さんの「いいじゃないの幸せならば」、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」中村雅俊さんの「ふれあい」や、「アンパンマンマーチ」などCMソングや番組の主題歌、ミュージカルの作品など幅広いジャンルで生涯15,000曲余りを作曲したいずみたくさん、199262年の生涯を閉じました。 生前こんな言葉を残しています。 「1番うれしいのは僕を知らない、ただただ音楽の好きな人たちが僕の作ったメロディーを口ずさんでくれること、歌われ続けることが作家としての誇り。」、 今日511日はいずみたくさんの34回目の命日です。

出会いは、私が中学214歳の時です。 当時石田あゆみさんがイベントで名古屋にやってきました。 当時、父が司会などをしてました。  石田あゆみに会いたくて、楽屋に行って意気投合してしまいました。  石田あゆみさんのマネージャーが私を見て芸能界に興味がないかと言うことで、とんとん拍子でいずみたく先生のところに入るようになりました。 春休みに東京に行って、いずみたく先生にお会いして、先生から東京駅で勉強する気あるかと聞かれました。 すぐありますと言いました。 いずみたく先生の奥さんと一緒に雪村いづみさんののディナーショーとかいろいろ3,4日連れてっていただきました。 両親ともに賛成してくれました。

先生のご自宅に入ってレッスンを受けました。(内弟子) 学校に通いながら、レッスンレッスンの毎日でした。 歌手として歌うだけでなく、ミュージカルをやりたいと言う思いはありました。  デビュー曲「甘ったれたい」は全く売れませんでした。  後から入ってきた佐良直美さんが「世界を2人のために」で売れて新人賞を取ったという事もありあり、挫折感を感じて田舎へ戻りました。  家に帰ったから母から叱責されて、翌日には東京へ戻りました。  

翌年ピンキーとキラーズの「恋の季節」で大旋風を巻き起こしました。 当時は大柄な女性は売れないと言うジンクスがありました。 周りに男性たちがいれば可愛く見えるということで、男女混成のグループを作ろうと言うことになりました。(いずみたく先生のアイディア)  売れすぎて超多忙になってしまいました。  全く休憩時間もなく寝る暇もありませんでした。 睡眠時間は良いところ1、2時間でした。  専属の医師と看護師さんが常に私についていて、移動の車の中で点滴しながら移動してました。 NHK出演後、グループで会場を逃げ出して、旅館の布団部屋で10時間寝たこともありました

先生からは褒められたことも怒られたこともありませんでした。 甥っ子さんの結婚式で先生とお会いしたときに、珍しく「お前最近すごく歌が上手くなったな。」と言われました。 そんなこと言われたことありませんでした。 それから間もなくして病気になって、入院されてお亡くなりになりました。

ソロに転向したのは、19722月でした。 後から聞いた話ですが、先生はグループにずっと置いて置くつもりはなかったようです。 「恋の季節」の次に出た「涙の季節」の方が私は好きです。  B面に「涙のバラード」がありますが、もっとこれが好きです。 ミュージカル俳優として、「死神」、「屋根の上のバイオリン弾き」などを始めとする大きな舞台での活躍が続きます。 

「基礎をきちっと学んで実力をつけて、長く君臨できるエンターテナーを目指したほうが良いし、そうなってほしい。」と言う事はおっしゃってました。  先生の事務所を辞めた時、出たときには気まずいものがありましたが、しばらくの間先生に対して不義理はありました。 1992511日いずみたくさんは62年の生涯を閉じました。 先生は入院してた時にお酒が好きなので、ベッドの下にお酒を隠して飲んでいました。 私はある程度覚悟ができていました。 お通夜には一晩中お付き合いすることができました。 私もそろそろ75歳になります。 15歳でデビューしてるんで60年になります。 先生との巡り会いがなかったら今の私はありません。

先生の手紙

「・・・62歳で亡くなったのはちょっと早すぎましたよね。 私は先生の歳を通り越して、もうすぐ75歳・・・芸能生活60周年を迎えます。 こうして長く大好きな歌を歌い続けてこられたのも全ては泉先生のおかげです。・・・14歳で弟子入りさせていただきました。 歌だけでなく、踊り、お芝居などみっちり勉強させていただいたので、ミュージカルなどいろいろなお仕事をさせていただけて幸せです。 人気歌手ヒット歌手は寿命が短いから、きちっと基礎を学び、実力をつけなさいと常々おっしゃっていた先生の言葉通り一生懸命頑張ってきて今があります。   これからも80代、90代と歌い続けて行けたら最高に幸せです。先生、いつも見守っていてくださいね。」







2026年5月10日日曜日

前野隆司(武蔵野大学ウェルビーイング学部長)・「“ウエルビーイング”でいこう!」

前野隆司(武蔵野大学ウェルビーイング学部長)・「“ウエルビーイング”でいこう!」 

ウェルビーイングと言うのはWHO世界保健機関の憲章に謳われているもので、心身ともに良好な状態を指します。 前野さんは1962年山口県生まれ。  もともとは機械工学が専門で大学院を出てメーカーに就職、エンジニアとして働いていました。大学に戻ってからもロボットや脳科学の研究をしていましたが、科学技術は人を本当に幸せにしたのだろうかと言う思いから、幸福学の研究をした後、ウェルビーイング学会を立ち上げ、その理念を広く発信するとともに、2024年度に開設された武蔵野大学ウェルビーイング学部で未来を担う人材の育成にあたっています。

「ウェルビーイング」とは良い状態です。  1946年にWHO世界保険機関の健康の定義に使われたときに使われるようになったと言われています。  ここ5年ぐらいは一般の人に使われるようになりました。 心と体と社会の状態が良い、これがウェルビーイングです。 国際幸福デーが3月の20日、ウェルビーイングのイベントを10日間やりました。 10年前から始めました。 

残念ながら日本中が幸せとは言えないやる気がなかったり、つながりが薄くなったりすると言うのはあると思います。 世界幸福度ランキングというのが出ています。 残念ながら先進国中最下位、61位です。 フィンランドが何年も連続1位です。  社会福祉が行く届いていて、すべての人が健康で幸せに生きる制度が整っているところが大きいと思います。 日本は心配しやすい国民性というものがあると思います。  遺伝的に幸せになりやすい人となりにくい人がいます。  日本人は心配性遺伝子セロトニントランスポーターS型という遺伝子を持ってる人が多い。    8割が心配になりやすい国民性、アメリカ、イギリスなどはその遺伝子を4割しか持っていません。 日本人はよく言うと、非常に危機に対して準備する能力が高くて、心配事に対して対処する力が高いともいえます。 日本、台湾、韓国、中国あたりが高いです。

武蔵野大学のウェルビーイング学部と言うのは、世界初です。 最先端科学でわかったことが、仏教や東洋思想でわかっていたことと、ぴったり一致言うことで両方教える学校を作ろうと言うことになりました。 開設したのが2024年です。    大学院も作りました。  畑仕事、地域に行ったりなどもします。  生きとし生けるものの幸せを大事にすると言うことになると、植物、食べ物を大切に作って大切に食べさせていただくとか、植物を見て成長する喜びを知るとか 知識と行動体でウェルビーイングを表したい人を育てたい体験重視にしています。 

僕が開発した幸せの4つの因子あります。 やってみよう、ありがとう、何とかなるありのままにです。  多面的に、いろんな主観、客観の幸せ度を測れるのが幸福度診断です。  社会を幸せにする核なって、僕は本当にウェルビーイング革命だと思っています、今までのお金や地位やGDPが高ければ良いと言う世界からウェルビーイングの幸せ度が高い国にならないと、人類は環境問題、貧困問題、戦争などありますが、新しい世界を作る人が育っていく、世界が良くなっていくというのをイメージしてます。

私はもともと物理や数学が得意でした。 好きだったのは心理学では哲学でした。一旦メーカーに行きましたけれども、大学に戻ってからロボットの研究をするようになりました。 ロボットの心の研究をするともともとやりたかった心理学や哲学を含んだ研究ができることになります。  AI作りみたいなことをやっていました。職場を幸せにするには、どうしたらいいかとか、人々を幸せにする家づくりとかいろんな応用研究までやりました。 

幸せと思う4つの因子、1つ目はやってみよう因子 やってみたい、夢や目標があったり、主体的に何かやっていたり、成長意欲が高かったりする人は幸せです。   2つ目はありがとう因子、感謝する人は幸せです。 人とのつながり、友達が多い、利他 思いやりや親切さのある人が幸せである。 3つ目は何とかなる因子、前向きで楽観的でチャレンジ精神のある人。 4つ目はありのままの因子、人と自分を比べすぎるのではなくて、自分らしく自分の個性を生かして、本来の自分と言うのはこうだと言う個性を発揮できる人は幸せです。 4つの因子を知ってるだけでちょっと気になります。 感謝の言葉を言う時に一寸丁寧に感謝の言葉を言うとか。 

職場の幸せの7因子、不幸せの7因子を研究しました。職場が良くなっていくことに繋がります。  地域の幸せは、デジタル庁が地域幸福度を測ってホームページに載ってます。  県名、市町村の名前を入れると、主観的幸福度、客観的幸福度がこうなっていますと言う円グラフのデータチャートが出てきます。 デジタル庁は、各省庁が縦割りでやってるところを横串を刺して、デジタルで合理化します。 その合理化するにあたって、その中心にウェルビーイングを置くことで、行政の統合を図るということです。 デジタル庁と連携してやってます。 

介護の幸せ研究もしてます。  年寄りの方が若い人と会うと元気になります。   核家族、一人暮らしよりも多世代共生の方が幸せです。 保育園と介護施設を一緒にすると言う「ハッピーの家」というのが神戸にあります。  孤独と言うのは、幸せ度が低くなりやすいです。 都会生活においても、いかにいろんな人とつながるかという事は、現代社会の課題です。  

私も幸せの条件を全部満たすように生きています。  失敗したと言う事は次の成功のために学んだと言うことです。 嫌な人が現れたら自分がより人として成長するためのチャンスが来たということです。 父が亡くなった時は悲しかったですけれども、父の分も生きる、父は心の中に生きてると言うことを覚えば、ポジティブに生きる力に変わります。 

研究以外に書道、作詞作曲、歌を歌う写真撮る後はいろいろ好きです。書道は 嶋田彩綜先生に習っています。 世界の平和のために書を書いていらっしゃいます。  弟子入りしました。  書道も写真も歌も全部幸せの世界のためにやってます。  美しいものを見るよりも、美しいものを創造する方が幸福度は高いです。    みんなが生き生きしてたら元気な社会になります。 思いやりを持ってみんなが助け合えば、戦争も、環境問題も解決できて、いい地球になります。 健康に対していろんなことをやっていくように、幸せについても4つ因子などを考えて、ちょっとしたことをやっていくと幸せになっていきます。


2026年5月9日土曜日

2026年5月8日金曜日

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」 

山口さんは1956年埼玉県出身。 1983年に竹田高利さんと「コント山口君と竹田君」を結成、1984年に初出場したオーディション番組「お笑いスター誕生」で優勝。 その後コント界の第一線で活躍しています。 山口さんが来月上演の舞台「生きる」の稽古に取り組んでいるとのことです。 テーマは認知症の介護ということで、そこに込めた思いなどを伺います。

今年で70歳です。 竹田さんも「明日への言葉」に昨年出演されて、テーマが「汗かきコントに一筋の涙」となってました。 竹田君は物忘れが器用で物覚えが不器用な方なんです。  竹田君に出会うことで自分の考え方が大きく変わりました。世のなか思い通りにはならないんだなということです。 自分の作ったコントを竹田くんに当てはめても、その通りにはやれない人もいると言う、その中で自分の考え方を変えて行って、竹下君ができることを考えてネタにしていくと言うやり方にしていきました。 ちょっと引いたものの見方ができるようになりました

お笑いスター誕生で優勝。 それから42年になります。 2014年から「生きる」と言う芝居をやってます。 認知症をテーマにした物語です。 2013年にブッチー武者さんから演出を頼まれました。 その後台本もやることになりました。 京都伏見介護殺人事件、54歳の男性が介護疲れと生活苦から親子心中を図ったと言う、その認知症患者の86歳の母親を殺害してしまったが、情状酌量の判決が出ました。    真面目に介護すればするほど、追い詰められていくと言う状況が1番辛いところだと思います。 これを本にすればどうしたらいいかと言うことを考えました。 

彼は3年の執行猶予を終了し、2014年に亡くなっています。 この劇が12年続くとは思えませんでした。 逆に言えば続いてることが問題なのかなと言うところ感じています。 良くならないものを突き続けても希望がなくなってしまうので、希望のある終わり方ができないかということで本を書き直したりしました 。四谷で今度おこないますが、25回目になります。 ブッチー武者に、こんな熱い思いがあったのかと、頭が下がります。 生活の中で起こり得ることであると言うことをポイントにして、それぞれの立場があると言う中で、こうならざるを得ないと言う社会構造をなんとかしていかなければならないんではないのかと言うことで、誰が悪いとかと言う様な作品にはしたくないと思いました。 そのためには喜劇が良いと思いました。是非うちの地域でもやってほしいと言うことで、実行委員会を立ち上げてくれたりして、草の根の力がなかったら続けられなかったと思います。 

自分でも老化と言う事は意識するようになりました。1番いけないのはストレスだと思います。 竹田くんと付き合っているとボケている暇はないですと言いながら、最近私も気になり始めました。  彼はボケをやっていますが、本当に真面目なんです。 未熟な自分に気づかない自分っていると思いますが、自分が未熟だから人を説得できないのに、一方的に攻めてしまう未熟な人間だったと言うことを竹田君に気づかされました。 

竹下君も途中から劇に参加するようになりました。 何回かやってきましたが、その都度ゼロから立ち上げていかなくてはいけないと言うような状況です。 浜田光夫さんが裁判官役、大信田礼子さんも認知症のおばあさん役ということで参加していただきました。 田原総一郎さんにもバックアップしてもらっています。(92歳)

コントについては、その年齢で表現できる生の姿で笑いが取れるんだったら、それまでやろうと言う思いではいます。 作、演出家としては事務所の若手を含めて勉強会をやってます。 若手が育ってゆくのは自分としてもも励みにもなります。     最近のコントは研ぎ澄まされた計算された笑いでそれもいいですが、そこに人間味を入れて欲しいと言う思いはあります。(計算しくされたネタが多い。)


2026年5月7日木曜日

遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

 遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

遠藤さんは東京都港区出身。 1965年に舞台活動を始め、1990年に単身フランスにあたると映画「ツイン・ピークス」などの音楽で知られる世界的な作曲家、アンジェロバダラメンティ氏から才能を見出され、日本人シャンソン歌手としてパリの音楽の殿堂オランピア劇場の舞台に立ちます。 以来32年にわたりパリを拠点にしていましたが、活動の場を日本に移し歌い続けています。 また、世界各国の映画と映画ポスターの比較研究を通じて、独自の視点で映画研究をする形でも活動しています。 今年は俳優のマリリン・モンローが生誕100年を迎えます。  遠藤さんはこのほどモンローが日本に残した知られざる姿を本にまとめました。時代の変化の中で今も残る音楽と映画への思いについて伺います。

パリの地に立った時、ここの地で国際クラブ歌手になろうとと思って決心をしました。  行ったときには、自分がシャンソンと思ってたものは、みんな懐メロです。 本当に歌おうと思ったらメロの酒場に行かないとだめです。 カセットテープを友人がアンジェロ・バダラメンティと言う人に送ったら、彼がそれを聞いて、いきなり一緒にやらないかときました。 結局アメリカには行けませんでしたけれども、それが自信にもなりました。 オランピア劇場で歌うことになって、それがきっかけになって、小さな所でも歌うようになりました。それが勉強になりました。フランスには哲学的文化があり、僕の性格に合ってました。 

僕が小さい頃は空気が悪くて、小児喘息になってしまいました。 各区が保養所みたいなものを持っていて、静岡県の沼津に行きました。 時間がいっぱいあったので、考えたり本を読むことが多かったです。  その後お能をやりました。    自己表現に興味がありました。 句会にも出ました。(12歳から15歳位までの間) 同時に自分とは何なんだろうって言うことを突き詰めていました。 

詩集を作って新宿で自分で売ったことがあります。 ある日、金子光晴さんと言う人が買ってくださいました。 学生に共鳴した詩人でした。 街頭で詩を売る人間として結構有名になりました。 「許すという事に限度はあるの」と言う詩を書きました。 「どんなに未熟な詩でも、若いときのその感性と言うものはずっと一生持っていくものだから大事にして、詩集を出しなさい。」と言われました。       それで自主出版しました

父に連れられて映画をよく見に行きました。 本を読む前、映画が好きになりました。 ロックの原点と言われた人たちがいましたが、そういう人たちもあっという間にコマーシャルベースでなってしまう。  これって違うんじゃないかなと思いました。 坂本龍一君とか出会ったときに、いかにレコード会社が興味を持たない歌を作ろうかみたいなところに僕を燃えた時代がありました。 吸い上げていく大きな権力みたいなものが吸血鬼のように思えました。 吸血と言うことをテーマにしてパフォーマンスをしたことがあります。 彼は彼でオリジナルを模索していたんだと思います。 

日本全国にキャバレーがありました。 そこではラテン、ジャズ、シャンソン、カンツォーネなどを歌う時代でした。 僕たちはその後の時代でした。 「銀パリ」と言うところがありまして、オーディションを受けて受かりました。 

最初に「エマニエル夫人」の映画のポスター、日本のものと海外のものと集めました。 それからポスターが面白くなって興味を持つようになりました。 ポスターは3000枚あります。 僕の友人がマリリン・モンローが大好きでした。  友人はフランスでマリリンのポスターを集めていました。(60数枚)  藤井さんから、このポスターは絶対に買いなさいと言われました。 藤井さんと言う方でマリリンのお化粧をしたことがある人でした。 

マリリンは驚くほど記憶力の良い方で、成分表などを1回見ただけで全部覚えてたって言ってました。  藤井さんはマリリンから黒澤明に会いたい、日本のお手伝いさんをアメリカに連れて行きたいと言う要望を受けましたが、2つとも叶いませんでした。  黒澤明は、自分が使いたい女優はマリリン・モンローだと言うエビデンスを見つけました。 黒澤明とマリリンは符号するようなところが一杯ありました。      それで書いた本が「天使と侍」と言う本でした。 

もう1冊の「マリリン・モンロー100年の孤独」と言う方は、ちょうど今年がマリリンの誕生100年なので、マリリンの人生そのものを見てみようと思って調べました。 この人の孤独は、アリ地獄のような耐えられのような悲しみに満ちた孤独なんです。  僕は「天使と侍」の時に、マリリンが平和を希求していたことと、彼女は政治的な人でした。 反原爆運動でも、最初のハリウッドの俳優たちの中心人物であったりしましたが、それは全く知られないことでした。 初めて去年100年の孤独と言う本を読んだときに、本当に私は人に愛されたことがない。 でも1番悪かった事は自分を愛したことがなかったと言うふうに書いてありました。 

調べてみたら1番感情ができるときに11回も点々としていました。  その中で、マリリンは嫌われないように笑うしかなかったんです。  自分では「孤児ではない、お母さんがいるんだ。」と言ってますが、その母親は精神的にとっても問題のある人でした。 マリリンは大変な苦労をしながら、自分の身1つできたわけです。子供が知らない間に、人間て母親なり父親なりに教えてくるものがありますが、マリリンはそれがなかったんです。  マリリンが1番好きな宝石はパールでした。 お母さんの名前がパールと言う名前でした。それを聞いたときにはグッときました。最終的には母親をマリンが全部面倒を見ていました。 本人が亡くなった時には通帳には500ドルしかなかった。

モンローが今受けている収益を孤児院の子供たちに寄付していると言うのを聞きました。  自分と同じような思いをして欲しくないと言う思いを心に抱えていたですね。  最初彼女は女性の敵と言われていました。 フェミニズム運動とかいろんな問題が世の中が変化するに従って、マリリンの価値というのが1種のジャンヌ・ダルク的な部分があることを認められてきて、女性のファンがすごく増えました。

墓石が彼女たちのキスマークでピンク色になってしまうほどなんです。 2番目の夫であるジョー・ディマジオが週に2回花を届け続けました。 マリリンはジョー・ディマジオとともに広島にも行きました。 1954年の段階では、原爆についてはまだアメリカに遠慮してました。 第5福竜丸の被爆とかいろいろあって、だんだん反原爆が広がっていきました。  最近では、アメリカのハリウッドでも、原爆の映画を少しずつ作るようになってきました。 

僕はフランスでも日本でも恵まれて、幸せでだから、今せめて少しでもお返しができればと言う気持ちはあります。 マリリンの孤独と言うことを確認したときに、自己確認しました。 家に帰ればご飯のある人間が孤独だの、寂しいなどと言えないだろうと言う、凄さですね。




2026年5月6日水曜日

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

 30年近く前五木寛之さんの「大河の一滴」と言う本がベストセラーになりましたが、最近その続編とも言えるべき本が「最終章」として綴り話題になっています。孤立や孤独などについて語っていただきます。

一人でいるのが孤独ではないんじゃないかと言う、有名な思想家が群衆の中の孤独みたいなことを言っています。 みんなと一緒にいながらなおかつ違うなあ、話を合わせているけれども、俺の本当の考えていることとみんなの考えてる事は違うなぁと言う、そっちの方が孤独なんではないかと言う気がします。 一人ぼっちである事は孤独ではないです。 孤独よりも対立ということがきついと思います。   人間と言うのは、自分だけの社会と言うものをみんな持ってるものなので、わかってもらえないと言っても、嘆くとか悲しむとかと言う必要はないですね。

孤立感は孤独感とは違います。 1人で戦わなければならないと言うような、応援してくれる人がいない。  生きていく上での立ち位置として、運と努力2つの言葉に集約される。  偶然に助かったと言う事は何度もあります。 努力だけでもありません。

他力」の問題で大事なのは、「他力」を信じるか信じないかの違いがあると思います。 「他力」に身を委ねるかどうか、これは「自力」です。  「他力」に身をまかせて自らの計らいを全部任せる、と言う決断はこれは相当な自力です。「自他一如」と言う言葉がありますが、その境目正反対という事ではないと思います。  休筆宣言を二度しています。 なんか声が聞こえたりする時がありますが、どっか聞こえるような声はそれに従うか、従わないかの問題だと思います。 逆らって生きる道もあるでしょうが、その声には素直に従うと言う。

石原慎太郎さんは自力の人でした。 石原さんがこんなことを話したことがありました。 宮本武蔵と吉岡一門と決闘することになりましたが、向かう途中で神社があって、「どうぞ神仏のご加護を」と言って手を合わせようとして、その瞬間に神や仏に応援を得ようと言うのは既に負けたことになると考えて、手を合わせるのをやめて、決闘の場に行って結果的には勝ちました。 石原さんは神様などにお願いするような心がけではダメだと言うふうに力説してました。 僕は手を合わせようとした宮本武蔵の心に響いた声と言うのは、これは「他力」の声ではないかと言う気がします。 神仏の力を借りようなんて言うことではダメだと言う声が聞こえた。それは「他力」の声だと思います。 その声に従って、彼は合掌することをやめて、決闘場へ行った。 昔そんなことを石原さんと議論したことがあります。

*「織江の唄」 北九州の方言を使った歌  作詞:五木寛之 作曲:山崎ハコ

健康よりも養生である。 少々故障とか問題点があっても、何とかそれと折り合って生きていくと言うという事は養生なんです。 健康は根こそぎに原因を立ち切ってしまうと言うようなところが感じられます。 心と体のお互いの関係というか、どちらも大事なんです、偏らない。 命は自分のものである。 12歳で決意したのが、好奇心のおもむくままに行動する。  自分の思うように生きる。 

*「思い出の街」 作詞:五木寛之,作曲:加藤敏治 歌:松原健之        昔は学生街があって、古本屋などが結構ありました。(昭和の残影)

「老いとてんでんこ」 「てんでんこ」、津波の時にバラバラでいいから、自ら避難しなさいと言った意味で使われたりしますが、「てんでんこ」と言う言葉を一言で言う事は難しい表現だと思います。 ものすごく大事なことを言ってるような気がします。 

高齢期を3つの期に分ける。 前期、中期、後期、これからは高齢期が長い時間になる可能性があります。 高齢期の生き方が大きな問題になると思います。     高齢期は決して余計な生き方ではないんです。 高齢期は考えながら生きていかなければならない、大事な成熟の時期だと思います。 「生きている事そのことが大事」  生きていこうと言う意欲、どこにその基準、どう生きているか、なんでそんなに生きることに執着するのかと言われたときに、それに対する自分の心構えというか、答えをしっかり持っていなければならない。  生きるには理由があると言う理由を考えておく、そういう時期に入ってきたんではないかと思います。   「暗愁」心を暗くするような、言いようのない悲しい物思いやうれいを指す言葉 「暗愁」の持っている強さ。 明治、大正、昭和初期にかけて流行のように広く使われた言葉です。