2026年4月30日木曜日

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」 

小椋佳さんは1944年東京上野生まれ82歳。 東京大学法学部を卒業した後、日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)に入行し、銀行員として働く傍ら、作詞、作曲等の音楽活動を行い、1971年に初めてのアルバム「青春 砂漠の少年」を発表しました。「さらば青春」や「潮騒の歌」などのご自身のヒット曲だけでなく、「シクラメンのかほり」、「愛燦燦」「夢芝居」など多数の楽曲を様々なアーティストに提供しています。 3冊目のアルバム『彷徨』(さまよい100万枚のセールスを記録しました。  これまでに2000曲以上を作り、2014年には四日間にわたって100曲を歌う「生前葬コンサート」を行い話題となりました。 胃がんや肝機能障害の劇症肝炎の闘病時期もありましたが、82歳になった今も元気に音楽活動を続けています。 人間にとって1番贅沢な遊びは学ぶこととの考えから、ご自身は自分のことを「慢性現状不満症」と称していて、常に新しい何かを求め続けています。 「小椋佳的生き方」と題して小椋佳さんに伺いました。

自分自身がちゃんと歌えるかどうか、声がきちんと出ているかどうか、節回しが自分の思い通りの節回しになっているかどうか、そのことの方が今日の1番大事なこと思っています。 50年前に初めてNHKのホールで歌ったときに、歌ってる最中に客席の方からふわっと波のようなものが来るんですね。これは一体何なんだろうと思いました。なんか1番気持ちが良かったですね。 

現在82歳ですが、もう体はボロボロです。 足の血管が細くて半年に1回手術をしています。 タバコは今も変わらず140本吸っています。 ここの10日間で歯が5本抜けています。  タバコは生活必需品になってしまっています。 3回禁煙して失敗しています。 40代の頃禁煙学校に通いました。 3ヶ月後には吸っていました。禁煙したら詩が書けなくなってしまってました。 

200157歳の時に胃がんで胃の4分の3を切除、68歳の時に肝機能障害で劇症肝炎と診断され、大変な思いをしました。 若い力の心情として、生きているからには、一生懸命生きようとずっと思ってまして、そのせいかもしれないです。    歌を歌うと言う事は健康に良いのかもしれません。 映画「50年目の俺たちの旅」に合わせて、「俺たちの旅コンサート」を行いました。 どこへ行っても満席でした。 青春時代に郷愁があるんだなぁと言うことを感じました。 主題歌とエンディングテーマを書きました。(アメリカに留学中)

銀行から派遣されての経営学の勉強でした。 学校には行かないでアメリカの旅をしてました。 曲をそこそこ作りました。 一枚目のLPが世の中に出て意外と評判が良くて、第二弾のLPをと言う手紙をもらいました。 ポリドールの重役会議では、こんな者は売れるわけがないと言ってお蔵入りの決定だったそうです。 ヨーロッパでも、アメリカでも詩が主で、歌は詩を読み上げるような静かな歌を歌っていまして、立派に活躍していました。 僕もこれでいいんだと思いました。

*「俺たちの旅」 作詞、作曲 小椋佳

 中学2年から日記をつけ始めて、曲を作るときのベースになっています。    歌って、やっぱり人間の本当の思いを作家の思いを乗せてこそ歌だと思うのに、嘘臭いので、歌いたいのに歌いたくなくなっちゃいました。 自分の日記の中からメロディーをつけて口ずさんだのが始まりです。 日記をつけると自分のことをよく考えるようになります。 大学ノート30冊になりました。 詩を書いて、それにメロディーをつけていく作曲のスタイルです。 

高校時代に哲学病になって、答えを出せないまま社会人になって、銀行員を26年やりましたが、やり残し感があって49歳で銀行を早期退職して大学に行って、哲学を6年間やりました。 本を書き残そうと思って、今書いてる最中です。 人生に希望を持てない人たちへ、人生こう考えていければいいんだと言う本を、僕の哲学の勉強の総まとめとして、生き方の提言をした本です。 

若い頃は3時間に1曲作ってました。 自然に降りてくる感じでした。 これまでに2000曲以上になります。 最初のコンサートは、1976107日、NHKホールコンサートで3300の座席に対して、11万通の応募があったということでした。 良い体験をしました。  古希の時に「生前葬コンサート」をやりました。  四日間NHKホールでやりました。 4日間で100曲歌いました。 あれからもう10年以上生きてます。青春に決別できたコンサートでした。

よく「二足のわらじ」と言われますけれども、銀行員時代の費やす時間と作曲関係に費やす時間は、圧倒的に仕事の方に有りました。 歌のことで、あいつ歌だけやってるから、仕事は中途半端だろうと言う見方で見られるのは嫌だったです。  人一倍業績を上げようと言う思いは強かったです。(頭取候補にもなる。) 

どう生きていいかどうかわからなかった青春時代に、魅力的に輝いた言葉が「創造」という言葉でした。 他でもないこの私が生きていると言う証は、どういうこと、それは「創造」と言う言葉につながるんですね。 「慢性現状不満症」は私の性格の基本にそれがあります。 以前作ったミュージカルはどれ一つとっても納得できるミュージカルではなかった。 死ぬ前に1本だけ妥協を許さず、自分で本当に納得できるミュージカルを1本オリジナルのものを作って死にたいなと思ってます。  2 、3年かかると思います。 「慢性現状不満症」が原動力になってると思います。 遺言も書き上げて、死に支度は整っています。 生きている以上良いことがやりたいと思ってます。

*「顧り見れば」 作詞、作曲 小椋佳





2026年4月29日水曜日

翁家和助(太神楽曲芸師)          ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

 翁家和助(太神楽曲芸師)  ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

翁家和助さんは1977年東京都出身。 和助さんは、高校卒業後、国立劇場第1期大神楽研修生になり、研修終了後翁家和楽さんに入門、寄席を中心に活動しています。 今年2026年大神楽で令和7年度芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞を受賞しました。

何で自分がもらえたんだろうと思いました。 文化庁の公式ホームページに受賞理由が出てます。 どのような出番で高座に上がっても、きちんと存在感を示し、後に上がる落語家の邪魔をしない、わきまえた芸が芸人仲間から高い評価を得ている、と言う事ですが。

妻の翁家小花と弟子のと3人で、翁家社中と言う太神楽曲芸のグループで活動しています。大神楽は獅子舞で、檀家のところを回るんで、檀那場廻りといいます。 廻ってお祓いをして、その家の立身出世とか。家内安全、商売繁盛をお祈りして家々を廻っていくと言うのがもともとが芸能です。 その前は獅子舞もなくて、いけない方々に神社の方からお札を持って、お祓いしますと言うのが始まりでした。

太神楽と言う芸能自体が感謝の気持ちで発展してきた芸能です。行った先がいろいろ持てなしてくれました。 お札だけでは申し訳ないと言うことで、獅子舞をやり出しました。 もてなし側もさらに凄くなって獅子舞だけでなく、曲芸とかを加えることによってさらに喜びました。 さらに漫才と加えることによって発展した芸能でした。 江戸時代より前からです。

傘の上に一升枡とか、土瓶とかそういった台所道具などを回す芸で発展していきました。 最初は毬を使って稽古します。 現在48歳です。 高校生の時に先生から就職するのに公務員で試験もないのもあると言うことを聞いて、それとは違っていましたが、国立劇場第1期生の募集がありましたので、それを受けて入ることになりました。 基礎的なことを2年半勉強しました。 

卒業後、落語協会に入りました。 うちの師匠翁家和楽の元で修行を重ねました。お正月は基本的に獅子舞をやりますが、末広亭の楽屋は狭くて足の踏み間もない位でした。 獅子が置いてあったのを取ってくれと言われて、獅子頭跨いでしまいました。 そうしたら師匠から明日からもう来なくていいと言われました。獅子頭は神様です。 師匠がよく言ってたのは、「お金のため、自分の立身出世のため、名誉とか、自分の私利私欲のために太神楽を使ったやつは神様からバチが当たってろくな事は無いから。」と言われました。 「程を知れ。」と言う事は師匠からよく言われました。

太神楽の演出は必ず神様に向かってお願い事をする儀式的な部分(舞い)があります。  その後お客様に対して楽しませる部分があります。 この2つがセットで初めて神楽になります。 神様に対するお願いと、人々に楽しんでもらうということです。 

経歴は27、 8年になります 寄席では基本的には真打と真打の間にやります。  ですから、自分でも真打芸をやらないといけないと思い、これが大変でした。   おしゃべりもしますが、太神楽でしか起こり得ない面白いことを心がけています。 噺家さんの邪魔にはならない笑いを心がけています。  失敗した場合など、それを笑いに変えたりしてます。 太神楽と言うのは、舞いがあって、獅子舞いとか、神楽があって、その間に曲芸と茶番と最後に獅子舞があります。 太神楽を復活させ10年やって来て、これがだいぶ出てきてきましたので、次は神楽だけで会をやりたいです。






2026年4月28日火曜日

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

富士真奈美さんは静岡県の出身。 1956年に女優デビューしました。 以来幅広い役柄で活躍しています。 一方長年親しんでいる俳句の世界では、句集を出版したほか、選句や選評も務めています。 

吉行和子は私の家から歩いて15分の位のところですが、亡くなるまで3年会っていません。 お互いに大親友だと思っていました。  俳句をして月1回ぐらい会ってたんですが、突然なくなってしまいました。(去年92日) びっくりして1週間ぐらい寝込んでしまいました。 岸田今日子ちゃんとは18歳位からのお友達です。  野球、相撲などに一緒によく行きました。 和子っぺは料理が嫌いでしたが、私は好きでした。 或る時に「一緒に暮らさない」と言われたが、冗談だと思っていたが、今考えると本気だったと思いました。 亡くなってしまってからなんで、そうしようと言わなかったんだろうと思いました。

デビューはNHKのテレビドラマからスタートしました。「この瞳」の主役に抜擢されてデビューしました。 (70年前)  或る時、大山のぶ代さんから一緒に暮らさないかと言われて、ついて行って2 3年は一緒に暮らしました。 まだドラえもんの役に巡りあう前でした。 1970年、「細うで繁盛記」に出演しました。 私は伊豆の人間なので、方言の指導などもしました。 舞台は伊豆の旅館で、若いお嫁さんとして来たのが新珠 三千代さんでした。その新珠 三千代さんをいじめる小姑の役でした。

女優の忙しい時期に結婚しました。 女優として第一線から退きました。     娘が生まれて一緒にいる時間がすごく楽しかったです。 離婚したときにはこんな自由ってあるかしらと思うほど、今日子ちゃんと和子っぺと一緒に遊ぶようになりました。 女優業に復帰しました。 和子ペは「本当にあなたのおかげで、離婚したおかげで、私の後半生がぱっと開けたのよ。」と言ってくれた時は嬉しかったです。

俳句は14 、5人でやるんですが、みんな仲良しで感覚が一緒の人たちってやっぱり親族の次に仲良しになれるかなぁと思います。 和子は「結局、ボーイフレンド、最後の男友達は句会の仲間かな。」と言ったけど、好きとか嫌いとか感情を抜きにして、淡々と付き合えて、俳句を仲立ちに友達になると言うのはすごく強いものがあります。 最初は、中村汀女先生とテレビ句会に出ました。 黛敏郎さんとか、谷川俊太郎さんとかと一緒に出ました。 俳句をやったらいいんじゃないかと言うことになりました。 毎月1回必ず句会をやっていました。

最近はずっと作りませんでしたけれども、和子が亡くなったときに、一句作りました。 「とこしなへ夢見る一人静かな」 

アグリさんのお葬式のときには、「ゆすらうめ乙女の夢を想うまま」と言う色紙を書いたんですが、それをアグリさんの「お棺に入れておいたよ。」と、和子が言いました。 俳句やってて良かったなと思いました。 私の俳号は衾去(きんきょ)です。  「おしとね下がり」という言葉がありますが、おしとね下がりのつもりでつけました。 佐藤愛子先生から、「あなたは俳句はいいけど、「おしとね下がり」なんてよくないわよ。」と言われちゃいました。 

和子っぺは「窓烏」上手くなったら「そうう」と言うふうに言おうと思いますが、今は「窓がらす」と言っていました。 京子ちゃんは「眠女」(みんじょ)といいます。 俳句を上手くなるには、名句を暗記していくことだと言われました。    俳句っていうのは、作っておけば日記みたいなもので、その日の様子とか環境とかまざまざと浮かんできます。 俳句を作るのと言うのはいいと思います。     俳句作るようになったら、自分について1番考えるようになりました。

「百合開く闇一寸の吐息かな」 句集の中からこれが好きだと言われました。

「明日開く百合一輪結ばれる」 百合の句は一杯作りました。

本は小さい頃から好きでした。 最近も俳句に関わるような本を読みます。    食べ物は好きなものを気ままに食べてます。 手紙を書いたりするのも好きです。 電話とかは苦手です。 家のものを片付けたいとは思いますが、いろいろ思い出があって、なかなかそういうわけにはいきません。








 

2026年4月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

モネは1840年に生まれ、1926年に86歳で亡くなりました。今年は没後100年に当たります。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ

絶望名言は今年度で10周年を迎えます。

モネは、フランスの画家で、代表作には「印象 日の出」「散歩、日傘をさす女」、「積みわら」シリーズ、「ルーアン大聖堂」シリーズ、「睡蓮」のシリーズなどがあります。 印象派の中心的なメンバーで1番長生きをしました。 最後の印象派と言うふうにも言われましたが、今年没後100年になります。 86歳で亡くなる。

モネは日本が好きで、浮世絵が好きで、自分の庭にも日本風の太鼓橋をかけて、その橋は絵に何回も書かれています。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ  こういった言葉がたくさんあります。

「画商や美術愛好家達は私に背を向けています。 何よりも悲しいのは、市場価値のない芸術作品に対して誰も興味を示さないことです。」 モネ(18696月に作家に出した手紙の一節、モネは当時28歳)

モネは生きてる間に有名になったので恵まれた方です。 当時フランスでは「サロン・ド・パリ」と言う展覧会があって、これに入選できるかとどうかというのが画家の登龍門でした。 モネは24歳の時に2点出品して2点とも入選しています。   翌年は、妻となるカミーユと言う女性が緑色のドレスを着ている姿を描いて、これも入選して大絶賛されます。 その翌年は「庭の中の女たち」と言う大作を描くが、落選して酷評されてしまいます。 その翌年は1点入選1点落選、その次の年は、2点とも落選。その次も2点とも落選。モネにも評価する人たちがいましたけれども、それでは生活はできないんです。

「パンもワインも台所の火も灯りもない。 一昨日から私は無一文でどこへ行ってもつけ払いの効かない、肉屋でもパン屋でもダメだ。 たとえ将来に希望を持てたとしても、現状が非常に厳しい。 私はもはや初心者ではない。 この年齢になっていつまでも人に懇願して、絵を買ってもらう状況にいるのは恐ろしい。」 モネ(29歳、34歳、38歳の時の手紙の一節)

「風がキャンバスを吹き飛ばし、それを拾うおうとパレット置いたら、風がそれも吹き飛ばしてしまった。 私は怒り狂い全てを放り投げるところだった。」 モネ(55歳の時の手紙の一節)

絵を描いてるときにうまくいかないと、癇癪を起こして、絵をナイフで切ったり、足で踏み抜いたり、川に投げ捨てたり、燃やしたりしてます。 生涯を通じて500枚以上の絵を自分で壊してしまったと言われています。  昔はスケッチは外でするが、油絵を描くのは室内ですると言うことが一般的でした。  モネが生まれた頃にチューブ入りの絵の具が登場しました。 印象派の人たちは外で油絵を描くようになりました。

「私にとって風景はそれだけで存在したりしてるのではない。なぜならば瞬間ごとに外観は変わっていくのだから。 周りにあるもの、つまり絶え間なく変化する光や外気が風景に生命をもたらすのだ。  私は周囲の大気こそが、主題に真の価値を与えるんだと思う。」 モネ

モネには「積みわら」とか「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」とか連作があるが、同じモチーフを繰り返し描いています。 時間帯、季節、天候によって見え方が全然違います。 瞬間ごとの変化、周囲の大気をモネは描いてるわけです。 「光のつつみ」と表現しています。

モネが本格的な「睡蓮」の連作を始めたのが189958歳の時です。 ラヴェル(印象派の音楽家)の「亡き王女のためのパヴァーヌ」が作曲されたのも1899年です。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」 作曲:ラヴェル

私はいつも信じていた。 私は前に進み、最後には何か価値のあることができると。 しかし、あぁその望みもいまや葬ってしまわねばならない。」 モネ(191372歳の時の手紙の一節)

この頃はモネは、数年間絵を描かなくなってしまいます。 2番目の妻のアリスが亡くなってしまったのが1番の理由と思います。 当時モネの絵は有名にはなっていました。 しかし印象画が過去のものになってきていました。 モネが1874年の33歳の時に仲間たちと開いた最初の展覧会で「印象 日の出」と言う有名な絵を出品しますが、批評家のルイ・ルロワと言う人がこの絵を酷評します。 彼が「印象派の展覧会」と言い始めたのが最初です。 印象派からキュビスム(ピカソ等)に変化していきます。 印象派が古いと言うふうに言われるようになってしまいます。

「描けば描くほど感じたものを表現するのは、下手だと思い知らされるばかりです。  しかし、1つの作品を仕上げたと言える人がいたなら、恐ろしく傲慢なことだと自分に言い聞かせています。」 モネ(18933月モネが52歳の時の手紙の一節) 「ルーアン大聖堂」の連作を書いてるときのものです。

「私は触れることのできないものを、掴もうとしているのです。 それなのにいかに光が素早く走り去り、色を持っていってしまうことか、色はどんな色でも1秒ときには多くても3 、4分しか続かない。 3、4分で何を描かば良いかというのですか。 それらは行ってしまう、止めなければならないんです。  あぁなんと苦しいことか、なんと絵を描くことは苦しいことなのか。それは私を拷問する。 それが私にもたらす痛みと言ったら。」モネ(19188月モネの手紙の一節)

「また、私の視力が変化して、このままでは絵を止めなければならないだろう。 そして描き始めたものも、そのままになるだろう。 なんと悲しいことか。」モネ(1919年終わり頃が79歳の頃の手紙の1節)  モネが71歳の時に白内障と診断される。 画家にとって、絵が見えなくなると言う事はきつい。

モネは「自分が見てるものが何なのかなるべく忘れろ。」と言ってます。  身の回りのものを、改めて初めて見るように見てみると結構面白いと思います。 新鮮の気持ちで生きられる。

「絵を描きに出かける時は、目の前にあるものは何であるかできるだけ忘れるようにしなさい。木であれ家であれ野原であれなんであれ、ただこう思うだけでいい。ここに青い小さな四角形がある、ここにピンク色の長方形がある、ここに黄色い一筋の線があると、そしてあなたの目に見えるままに、その色と形を正確に描きなさい。」 モネ。









2026年4月26日日曜日

宮本益光(バリトン歌手)          ・夜明けのオペラ「モーツァルトの魅力に導かれて」

 宮本益光(バリトン歌手)  ・夜明けのオペラ「モーツァルトの魅力に導かれて」

宮本益さんは、愛媛県八幡浜市出身。 東京芸術大学卒業、東京芸術大学院博士課程を終了。 オペラの日本語訳詞とその方法論で学術博士号を取得しました。  二期会オペラ「ドンジョヴァンニ」でタイトルロールデビュー、その後新国立劇場、鹿鳴館や神奈川県民ホールのオペラ、金閣寺などで高い評価を受けました。 また、作曲、訳、演出などでも活躍、現在は桐朋学園大学教授、東京芸術大学講師として後進の指導にもあたっています。  2018年からは「モーツァルトシンガーズジャパン」を結成、これまで7作品を上演しています。 歌い手として活躍しつつ、オペラに関して様々な分野にも光を当て続ける宮本益光さんに伺います。

与えられることが自分を活かしてくれると言う思いでもありますので、教えることも舞台に立つことも自分を活かしてくる糧として、私は大切にしたいと常々考えています。 53歳です。 歌手なので、少しの不調が喉に現れたり、歌に影響することがあるので、体調は人一倍気を使っています。 

子供の頃から音楽教育は全く受けていませんでした。 小学校の4年の時の先生が鼓笛隊を作ることになりました。 そして、のめり込んできました。 トロンボーンをやるように言われて、選ばれて音楽の才能があるんではないかと勘違いをしました。  全てが楽しかったです。  女の先生の影響力が多かったです。  歌を歌う事は嫌いでした。 中学では吹奏楽部に入りました。 音楽の先生になると言う思いがありまして、高校に入って嫌いだった歌を克服しようと言うことで歌を専攻しました。  

愛媛大学では、教授の素晴らしい先生に出会えました。 高校時代に愛媛県のコンクール、四国のコンクールに出ましたが、毎回最下位でした。 1位の方が東京芸術大学に入学したと言うことを知りました。 私も東京芸術大学に入りたいと思って、先生に話したら東京芸術大学に受かるわけはないと言われました。 親を説得して3浪まですれば受かると言うふうに言って受けることになりました。    なぜか現役で受かってしまいました。 両親は中学を出てすぐ働いていたという事もあって、子供たちにはやりたいことを、与えられる範囲の中で好きなようにやりなさいと言う後押しは凄く感じていました。

回りからオペラを見に行くと言うふうに誘われましたが、オペラを見に行くと言う事はなんだろうなと思いました。 その劣等感が自分を推進する原動力にはなりました。 教育者になりたいと言う夢があったので、指導教官が博士号を取る手段があると言うふうに言われ、博士課程を受けることになりました。 日本語を音声学から研究しようと思いました。 それをオペラの研究に落とし込むには訳詞が良いのではないかなぁと思いました。 オペラデビューは24歳の時の広島オペラルネサスでした。 2004年に二期会の「ドンジョヴァンニ」でタイトルロールデビューしました。 

*モーツァルトオペラの「フィガロの結婚」から「訴訟に勝っただと?」

モーツァルトの作品はほとんど長調で書かれていて、順次進行の作品は推進力があります。 悲しいものも長調で描く。  躍動と煌めきに満ちています。     「モーツァルトシンガーズジャパン」というグループを作りました。 自分たちを作ってくれたモーツァルトの作品と言うものが、心の中にずっと座ってくれています。 それを上演する機会を持ちたいと思いました。 それで活動を開始しました。22作品を全てピアノ伴奏で声楽に特化もしたものとして、レコーディングしてモーツァルトの生涯を追ってみたいと思いました。

「モーツァルトシンガーズジャパン」として、ザルツブルク音楽祭に呼ばれたいとと言う思いがあります。  演じることが好きで、演じることは自分を発見することにすごく似ていて、舞台の上で自分と違うことをやるので、演ずることがより楽しくなります。  「金閣寺」 1つの放火と言う事象が、三島由紀夫の中の文学性、芸術性を刺激したわけです。 私が演じるときに美と対峙している。 美を自分を凌駕するために放火すると言う三島的な発想がありました。 そこに至る葛藤を体現するために、私は何度も金閣寺に行きました。

訳詞の他に自身で作詞もします。

*「うた うたう」 作詞:宮本益光 作曲:信長貴富

良い出会い、良い仲間、良い指導者に導かれて今に至ってるなと思います。






2026年4月25日土曜日

銀粉蝶(俳優)               ・私の人生手帖

銀粉蝶(俳優)               ・私の人生手帖 

NHKでは上質なドラマとして人気を博しているBSドラマ「京都人の密かな愉しみ」でも主要キャストして出演を重ねてきました。 栃木県生まれ、大学進学で上京した頃は唐十郎の「状況劇場」などアンダーグラウンド劇の全盛期、1980年代前半には、劇団「ブリキの自発団」を結成しました。 その後も2010年に第18回読売演劇大賞優秀女優賞を受賞するなど、当時の熱い思いを潜ませて全身全霊で芝居に向き合ってきました。 その確かな存在感はどのように育まれたのでしょうか。 アングラ演劇の魅力、そして今も呪われているとおっしゃる芝居の面白さ、奥深さについてお話を伺いました。

「ジン・ロック・ライム」と言う芝居で、ソロシンガーとして一時期は華やかだったんだけれども、今は少し落ち目になっている主人公の男の人がいて、その主人公の彼はある時、ライブでお客に対して「お前ら俺を消費しているんだろう」と言う言葉で抜倒したりします。 (それが最初のシーン) 今回の舞台はもともとはイプセンの作品です。 「ヘッダ・ガーフレル」と言う面白い作品です。 人間と言うものはわからないものだと言うふうにおっしゃってます。 それを下敷きにして今回は新しい芝居にしました。 若い人の今の生きづらさ、そういうものに作者は寄り添ってるんだと思います。

NHKBSドラマ「京都人の密かな愉しみ」で老舗和菓子屋さんの女将をずっと演じてきました。 放送が始まったのは2015年、11年になります。 最初に依頼があったとき、京都弁は大変だと思いました。 京都弁は難しいです。 ひたすらやるんです。 やるしかないんです。 やって大好きになりました。 「京都人の密かな愉しみ」は美しい宝みたいなものです。 着物を着て正座するわけですけれど、膝が悪くて厳しいんですが、朝から晩までしてます。 立ち上がれなくなっちゃう位です。  それで京都弁なんで地獄みたいなものです。

1980年代初頭に劇団「ブリキの自発団」を設立しました。 小さい頃は映画が好きでした。 映画館が遠い親戚なので毎日見ていました。 本も好きで、世界文学全集を買ってもらって読んでました。 今も変わらないです。 大学で東京に出てきました。 私たちの若い頃は、みんな何かをするような風潮でした。 熱気がありました。 いろんなことにみんな興味を持ってそれを表現することにあまり躊躇しないで、みんな乱暴にやれたと言う時代でした。 60年代70年代でした。

最初劇場へ見に行って「状況劇場」いうのがあってそれを見てびっくりしちゃいました。 世界がひっくり返りました。 見てかっこいいと思いました。  大学を出て、芝居やるしかしょうがないと思いました。 会社の試験を受けて受かっちゃいました。 41日が入社日でした。 自由劇場の入団試験がありましたが、その結果発表も41日でした。 入社式で代表で挨拶しました。 昼の合間に結果を見に行きました。 自由劇場では何百人受けて、そのうちの5人が受かったんですが、その中に私が入っていて、電話で会社に私やめますと連絡しました。

入って研究生として活動しましたが、面白くありませんでした。  自分で劇団を作りたいと思うようになりました。 それが「ブリキの自発団」です。 アメリカのフリップ・K・ディックと言うSF作家がいますが、私は心酔していました。   それを本に書いて上演したいと思ってやりました。 ハードボイルドが好きです。ディックには人生の悲しみがあります。 

心が動かないとつまらないから、そういう機会を自分で求めます。  映画を見たり、本を読んだり、好奇心も強かったです。 当時のアングラの様子は、芝居って事件なんで、事件が起きればいいと思います。 見る方もやる方も喧嘩腰なので熱くなります。 熱気がすごかったです。 映画、芝居、音楽、絵などそういうものって人を呪うんじゃないんですか、取り付かれてしまったら離れない。 今も多分どっかで取り付かれてますね。 ふんわり呪われてる分には幸せに思います。 

私は役になると言う感覚が、自分では薄い人間だと思ってましたが、ある時私はなっちゃうんだとわかったんです。  芝居の世界観みたいなものにずっと入る人間なんです。 芝居の場合はその役を獲得するためには稽古するですね。 芝居の相手と交流する。 考えないでいようと思っても、作品を常に朝から晩まで考えちゃいます。 四六時中考えるタイプです。 だから、調べることがたくさんあります。  稽古なんかはあんまり好きじゃないんですが、芝居をしてる時は誰にも負けない位楽しいです。







2026年4月24日金曜日

近藤麻理恵(片づけコンサルタント)     ・ことばの贈りもの「ときめく選択で子育てを豊かに」

 近藤麻理恵(片づけコンサルタント)  ・ことばの贈りもの「ときめく選択で子育てを豊かに」

近藤さんは1984年生まれ。東京都出身。 5歳の頃から片付けに魅了され、身近な場所を片付けながら二度と散らない片付け方法を研究する日々を送ります。 その中で近藤さんが編み出したのは、ときめくものを残すと言う方法でした。 25歳の時に片付けコンサルタントとして独立し、片付けに悩む多くの人たちと向き合い、片付けの魅力を伝えてきました。  しかし、3人の子供の母となり、子育ても忙しくなる中で、思い通り片付けられない状況に悩み、完璧に片付けることを諦めたそうです。  子育てを通して新たな視点を持ち、家族みんなでときめくことを大切に過ごす近藤さんの人生を伺いました。

10年ほど前に家族でアメリカに移住しました。 現在10歳、9歳、5歳の3人を育てています。 アメリカでは夏休み明けに新学期がスタートします。 5歳の時に私の母が読んでいた女性向けの生活雑誌がありました。 そこに書いてある片付けだけではなく、料理、洗濯、裁縫、等々が好きでした。 母は毎日楽しそうに家事をしていました。  母は、私が毎日家事などいろいろこなすことによって、お父さんが元気に仕事に行けるし、子供たちも学校に元気に行けるんだから、素敵な社会貢献なんだよと母が言いました。

私もやってみたいなと思うようになりました。 私がいろいろ家事をやっていく中で、最もできなかったのは片付けでした。  雑誌に載っている片付け方法を実際に家でやってみたりしました。 少しずつ整っていきました。  私の祖母は、ものを丁寧に扱っている人でした。  中学3年生位の時に片付けの研究を本格的に始めました。  当時、日本でベストセラーになった辰巳渚さんの「捨てる!技術」と言う本を読んだのがきっかけになりました。 捨てることだけを考えて、片付けをしてしまうと、どうしてもものを邪魔者扱いしてしまいます。  片付けで大切なのは捨てるだけということでなくて、自分の持っているものなら残すものを選ぶことも、自分にとって好きなもの、大切にできるもの、自分にとってときめくものを選ぶ、それが片付けたんじゃないかなと思いました。

以来、家の中のものが大切に思えて、それ以来、ときめくものを選ぶ好きなものを選ぶ残すものを選ぶと言う考え方をやるようになってから、自分の家の片付けがうまくいくようになりました。 25歳の時に片付けコンサルタントとして独立しました。大学の頃は、友達の家を片付けるというのが私の趣味でした知らない人からお金を払ってでもいいから、片付けをしてほしいと言う連絡が出始めました。  だんだん経験が積み上がっていきました。 

片付けを進める中で、自分にとってどんなものが好きなんだろうとか、どんなものが大切なんだろうとか、自分の価値観が見えてきて、最終的には仕事が自分にとってときめくものに変わっていったり、人間関係が良くなっていったりと言う声を聞けるようになりました。  26歳の時に「人生がときめく片付けの魔法」はベストセラーになりました。 日本だけでなく海外でも人気が高まりました。 29歳の時に結婚30歳で、第一子を出産、アメリカで片付けがニーズがあるとは思っていませんでした。 世界中どこでも片付けは必要なんだということがわかりました。    片付けを通して心を整えると言う深いところまで理解してくださいました。

仕事と子育ては想像以上の忙しさでした。 実家の母に助けてもらいました。   海外出張から帰ってきて、久方ぶりに子供に会ったときに、ちょっと子供が親の顔を忘れてるって言うことがありました。  しばらくして泣き出してしまいました。 仕事、生活の仕方を調整しなければいけないと思いました。 子供を母に預けていた生活からアメリカの生活の場へ移動させようと思いました。 第3番目が生まれた時に、子育てに比重をおきながら仕事を行くと言うスタイルに変えてきました。

今までできたことが半分もできないと言う状態が続きました。 片付けをちゃんとやることが無理だと言うことに気づきました。 今は睡眠に宛てた方がいい、今はそういう時期だと思いました。 片付けの柔軟性が上がっていきました。  子供の片付けについては、具体的に説明してやってもらうようにしています。 次のことをするためのステップとして片付けを組み込むと言う感覚で伝えています。 片付けをするときに、どこに何を戻したらいいのかと言うのは、明確な状態であると言うことが大切だと思っています。  

片付けは身の回りを整理して、心地よく暮らしていくために欠かせないことなんですが、片付けを通して自分の心と向き合ったり、今の自分の心の状態と言うものを知るきっかけになると思います。 片付けによって心も頭も整っていくよと言うところに関しては伝えていきたいなと思ってます。  年代によっていろんな状態があると思いますが、その時々に大切なのは今のときめきの優先順位はなんだろうと考えることだと思います。 バランスを取りながら片付けと付き合っていくと言う、無理のない片付けをしながらすっきりとした人生を歩んでいく、そんな人生のヒントをお伝えできたらなと思っています。


2026年4月23日木曜日

西村由紀江(作曲家・ピアニスト)      ・私のアート交遊録「ピアノは心のビタミン」

 西村由紀(作曲家・ピアニスト)  ・私のアート交遊録「ピアノは心のビタミン」

3歳でピアノを始め、小学生時代には世界各国を演奏旅行、マエストロ本来はイタリア語で「巨匠」「名人」「優れた指導者」を意味し、特に音楽の指揮者や卓越した専門家を敬意を込めて呼ぶ言葉)や一流オーケストラとも共演します。    音楽大学入学と同時にデビュー、ドラマ、映画、CMの他、テレビやラジオ、エッセイの執筆と、多方面の活動を続けています。 

年間100本を超えるコンサートで全国各地を訪れる傍ら、ライフワークとして続けているのは、学校コンサートや病院コンサート、中でも東日本大震災直後から続けているのが、被災地にピアノとピアノの音色を届けるための支援プロジェクトです。 今年デビューを40周年を迎え、音楽には力があると感じることが多くなってきた、自分を勇気づけてくれた音楽に恩返しするつもりです、と言う西村由紀江さんにピアノとの出会いや音楽の持つ力について話を伺いました。

ピアノに関してはまだ追求したい音とかがたくさんあって、これからがんばります。 母親がピアノの先生をしてましたので、家にピアノがあって気づいたらピアノの前に座っていました。 手が特別小さかったものですから、同じ時期に習った友達より成長がすごく遅かったんです。みんなが簡単に弾けるものを何倍も練習しないと弾けない。 この手ではピアノ無理でと言われました。 しゃべるのはもっと苦手でしたが、むちゃくちゃにピアノを弾くと気持ちがちょっとスッキリしました。  このピアノは私の気持ちをわかってくれると思いました。

ピアノは自分の気持ちを表すための友達のような存在でした。 ピアノとずっと話をしていると、ある日「大変だね」とか「今日は頑張ってね」とピアノが話しかけてくれるような音色を感じたんです。 そこから曲作りも始めました。      自分の小さい手に合わせるような曲が作れるようになりました。  それが今の活動の原点かもしれないです。(3、4歳の時) 最初の作った曲が「一人ぼっち」でした。 

海外で演奏する機会を小学校2年生の時にタイと台湾で機会をいただきました。  音楽にはこんな力があるんだと言うことを体で感じました。 ますます音楽にのめり込むようになりました。  小学校の6年生の時にはチェコとハンガリーとかに行かせていただきました。 CDを出してみないかと言うことを高校2年生の時話があり受けました。 プロデビューしましたが、壁にぶつかって落ち込んで泣いてばかりいました。 

いつも五線譜を持ち歩いていますが、いつメロディーが降りてくるかは予測できないからです。  今何十冊と家に溜まっています。 23歳の頃、テレビドラマ「101回目のプロポーズ」の音楽を担当させてもらいました。(40曲位)  これをきっかけにどんどん変わっていきました。 曲にまつわるバックグラウンドを、話しながら曲を演奏すると言うスタイルをこの頃から確立できました。  

学校コンサート、病院コンサートは、2002年位から始めました。 音楽というものがいろんな力を持っているということがわかりました。  車椅子で来ている方がリズミカルな曲を弾くと足が動いたんです。(看護師が吃驚) 他にもいろいろあって、ピアノでできる事はたくさんあるんだなという事を、学校や病院行くと学ばせてもらえました。  東日本大震災、被災地支援プロジェクトにも関わっています。 

震災直後の報道番組でたまたま女の子の見ました。 「今欲しいものをなんですか?」と問われたときに、彼女は「ピアノ」と答えました。2011年の4月に行った時に、ピアノが田んぼに浮かんでいる光景を目にしました。 もう使わなくなったピアノを譲ってもらおうとホームページで募集したら、あっという間に150台集まりました。 でも全く届けられませんでした。 当時は皆さん家をなくされているので、ピアノをまではできませんでした。 音を届けるプロジェクトのコンサートは始めました。

半年位から徐々に届けることができるようになりました。64台お届けしました。 私は音楽の持つ力にずっと子供の頃から救われてきましたから、今その力でどなたかの心に力を届けられる、そんな少しの恩返しができればと思っています。   私の自由度が広がりました。 自分の音楽を届けて続けていきたいなと気分が軽いです。 今年40周年で全国を回ります。  私のお勧めの1点はモネの睡蓮です。  大学の頃に先生からモネの点描画のように弾きなさいと言われました。 美術作品は人が作っているものですから、訴えかけてくるものがあり、それが非常に作品のインスピレーションになります。






2026年4月22日水曜日

田川尚登(日本こどもホスピス協議会 理事) ・「重い病と生きる子らの、この瞬間を笑顔に!」

田川尚登(日本こどもホスピス協議会 理事) ・「重い病と生きる子らの、この瞬間を笑顔に!」 

小児がんや重い心臓疾患など命を脅かす病と共に生きる子供たちは、全国に約2万人いると言われています。 その多くは病院か自宅だけで過ごし、遊びや学びといった子供らしく生きる時間を奪われた状態にあります。 そんな子供たちと家族を支える子供ホスピスが、今国内で広がりを見せています。 自らの娘さんを脳腫瘍で亡くし、子供ホスピスの必要性を痛感した田川尚登さんは、NPO法人「横浜子供ホスピスプロジェクト」を立ち上げ、2021年全国で2番目のコミュニティー型子供ホスピスを横浜市に設立しました。 428日の日本子供ホスピスの日を前に、子供ホスピスとはどんなところなのか、設立に込めた思いとともに田川さんに伺います。

428日は4、2、8でよつばとも読めるので、希望、振興、愛情、幸福のシンボルと言われる四葉のクローバーをイメージして、子供たちがたくさん愛情に包まれながら豊かに生きることを支える、子供ホスピスの理解推進を図るために、日本子供ホスピス協議会が制定し、日本記念日協会から登録を認定されました。

私たち横浜では、子供ホスピスフェスタと言うイベントで、1年間の活動の報告を支援者に知っていただくということ、体験したことをお話ししていただいたり、ボランティアの方たちに様子を話し合ってもらうと言うようなことを進めていく予定です。 ホスピスと言うと緩和ケアを受けるようなイメージを持っていると思いますが、子供はどんなに重たい病気になっても成長発達してるわけです。 子供のやりたいこと、遊びたいこと、学びたいと言うこと。病気になっても子供の人権に関わるようなことなので、やれるように持っていくと言う、そういった流れを作っていくと言うことが子供にとって大切なことだと思っています。 

1982年に、イギリスのオックスフォードでヘレンハウスと言う子供ホスピスができてからイギリスの国内に広がっていきました。 その後海外に広がっていきました。 イギリスでは子供ホスピスが全国に52カ所あると言われています。 次にドイツが多いです。(15、6箇所) 日本では2012年に淀川キリスト教病院に子供ホスピスができました。  現在日本には3箇所です。 

私には娘が2人おりまして、下の子が1998 6歳になった頃のばかりに頭が痛いと訴えました。 MRIを撮ったら悪性の脳腫瘍と言うことがわかりました。 余命半年と告げられました。 1982年にできた子供ホスピスの話を聞いて、日本でも作れたらいいなと思いました。 子供の名前は「はるか」といいます。  限られた時間を親としてはどうやって過ごしたらいいのかということばっかり考えました。   希望することを叶えてあげると言うことを繰り返していました。  病院へ入院して、午後3時から夜の8時までが親子が面会できる時間でした。 8時前になると必死に話し始めます。 帰らせないように話しています 。泣き声を聞きながら病室を出ていくと言う事は辛い思いでした。最後は、海を見に行きたいということで、家族で一緒に行きました。 波の音を聞いて帰ってきました。 

脳死に向かってなっていく中で、呼吸器を外す決断をしてほしいと言うことを医師から言われました。 医師と相談して外す決断をしました。 悲しみがずっとこみ上げてきて、親としての後悔の気持ちが心の中を占めました。  遊びたいとか、学びたいとか、そういったやれる環境を闘病中でも絶対必要だと言うことを教えてもらった感じでした。 子供ホスピスの活動につながっていきました。 小児医療の改善を考えて、少しでも楽しい時間が過ごせるように、音楽を聞いたりできるようなコンサートの開催、15歳未満の子供は兄弟は面会ができないので、兄弟を預かるような預かり保育、付き添いの家族が泊まれる滞在所を作ると言うのを最初にやりました。 

家族が泊まれる「リラの家」を作りました。 石川さんの思いと「はるか」の闘病生活が結びついて作ろうと言うふうに始めた活動が設立準備活動でした。    石川さんは看護師で74歳で亡くなりましたが、最後の職場が脳性麻痺のお子さんを看護していたこともあり、自分の資産を利用してほしいと言うことを代理の弁護士さんから聞きました。 遺贈は1500万円でした。 「横浜子供ホスピスプロジェクト」と言う組織で、子供ホスピスを組織運営していくための法人ということです。横浜市内で会社を経営しているような方々に話をしまして、共感していただきまして、一緒にやろうと言う取り組みにつながっていきました。 活動が加速していきました。 土地を借りることに対しても、行政と相談していきました。 

建物は延べ床面積が151坪です。 子供が思いっきり遊べる場所で、家族が一緒に泊まれたり、一緒にお風呂に入れたりできる空間ということで設計されました。  「海と空のおうち」の近くには、金沢動物園八景島シーパラダイスなどがあります。 アンケートをしまして、(終末期子供とどういう時間を過ごしたいか)1番多かったのが同じベッドで毎日一緒に家族で眠りたかった、2番目はお母さんの手料理を子供に食べたかった、3番目が子供と一緒にお風呂に入りたかった、この3つを建物の中に織り込もうと決めました。 

いろいろな希望があって、早目だけれども七五三をやりたいとか、誕生会をやりたいとか、いろいろな希望がある中で、できるだけ叶えるような方向で活動しました。 スタッフは現在11人います。 看護師の資格を持った人4人、保育士の資格を持った人が2人、闘病を経験した人が3名、そういうスタッフ構成です。 医療は提供してないです。 万が一の救急搬送の場合には、受け入れてもらえるような流れができています。

できてから5年目になります。  笑顔の循環が建物の中でできています。 「あー 楽しかった」と言う言葉を聞くと、「あー」の中に一日充実していた時間が含まれていると思って、凄く嬉しくなります。  はじめての方は中を見学してもらって、理解してもらえるような風に推奨しています。 子供ホスピスのある街づくりをしていきたいと思ってます。  地域の中に安心して出かけていけるような、安心して住める地域づくりにつながっているのではないかと思います。 小学校と交流の授業してます。 海外視察をしてきましたが、子供を大切にしている事はすごく伝わってきまして、いろんなことを聞ける友ができたと思って、海外の子供ホスト交流をずっと続けていきたいと思いました。 全国に15の小児がん拠点病院が点在してますので、拠点病院のあるところに子供ホスピスが出来て行く流れと言うのが必要だなと思っています。











2026年4月21日火曜日

2026年4月20日月曜日

木津かおり(民謡歌手)           ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

 木津かおり(民謡歌手)       ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

木津さんは民謡歌手歴40年以上。民謡を一言で言うと、日本中の故郷の旅ができます。 土地、風土によってこぶしが違ったり、声の出し方が違ったりとか、曲の中にあらわれています。 仕事歌、忌引き歌、田植え歌、御祝儀歌などがあります。

 神奈川県横浜市生まれ、民謡歌手であった父の影響で小さい頃から歌とともに育ちました。 10代でNHKの民謡番組に出演、18歳の時にレコード会社の専属歌手となり、本格的に民謡歌手の道を歩み始めました。 近年は、歌舞伎NEXT朧の森に棲む鬼』の公演に歌で参加するなど、伝統を大切にしながら、ジャンルを超えた表現活動を続けています。 

もうすぐ60歳になります。 3歳が初舞台です。 昭和50年代に民謡ブームがありました。 その時には歌舞伎座を借りて民謡大会をやったりしました。 父は民謡教室をやっていました。 18歳の時にレコード会社の専属歌手となり、本格的に民謡歌手の歩み始めました。 

新潟の魚沼地方の民謡、ご祝儀歌で「松坂」と言う歌があります。 三味線の伴奏がごぜさんの流れをくむ手組になっています。 ごぜさんと言うのは目の見えない芸能集団です。 3人ぐらいが一組になって、雪が解ける頃に集落を回って生活をしていました。 その風習が新潟が一番の大元でした。 ごぜさんの三味線をうちの集落のおじいちゃんが1年分のお米と交換にごぜさんから三味線を貰ってきました。 それで教えてもらって、自分の地方の「松坂」に作りました。その三味線をなかなか次ぐ人が居なくて、私が頑張っています。 この歌を歌い出すと無礼講になります。 

*「魚沼松坂」

その時の感情を表す民謡っていいですよね。フリースタイル民謡はいいですね。 父は生まれながらの芸人というか、人を楽しませることが大好きでした。    これは箱三味線と言う楽器です。ゴッタンといいます。 九州の方で残っていたものです。三味線の皮の部分が全部木(桐)でできています。

私は横浜に生まれ育っているので、横浜に野毛山節と言うのはあります。 流行歌の走りで、流行の歌の1番と言われています。 野毛山節は横浜開港とともに誕生した。(別名ノーエ節)

野毛山節

「寺泊おけさ」(新潟の柏崎の歌)20歳位の聞いたときにかっこいいと思いました。 音を消しながら弾きます。 おけさと言うのは、北前船の方から伝わった「牛深ハイヤ節」からの流れのもので、新潟に伝わると、なぜか「おけさ」になりました。 

「寺泊おけさ」

リズムが何とかもいいです。 掛け声が「秋田音頭」に似てます。 民謡は私にとっては心のお守りと言うふうに感じます。 先人たちの生活の中で生まれてきたものなので楽しむためだったり、辛い仕事を和らげるためとか、いろんな知恵がこの歌詞の中に入っています。 風土、風土によっていろいろ入ってます。 自分のふるさとの民謡を1曲でもいいので、歌えるようにしてもらって、何かあったときにそれを思い出して1人ではないんだと言うような気持ちになってもらいたいなぁと思って、最近すごく思うようになりました。

日本の音とは 声の響きが好きなんでしょうね。 お祭りの男性の声の響きが好きです。 私がやってみたいのは、自分の演奏会で、お客さんで来る人に「7、7、7、5」の言葉を募集して、そのお客さんの今の気持ちを、その時の演奏にして歌ってみたいというのあります。 今の民謡にしていきたい。 もっともっと自由であっていいと思います。


2026年4月19日日曜日

常盤貴子(俳優)              ・「ひとりの笑顔のために」 

常盤貴子(俳優)              ・「ひとりの笑顔のために」  

常盤さんは神奈川県出身で1993年に俳優デビュー、以後数々のドラマで主演を務めています。  NHKでは石川県の能登半島を舞台にした、2015年の連続テレビ小説、「まれ」で主人公の母親役を演じました。 これをきっかけに10年以上にわたって能登の人たちとの交流を続けています。 2024年の能登半島地震以降、被災地に繰り返し足を運び、能登の皆さんの心に寄り添う活動を続けています。 

常盤さんは現在NHK総合で放送中の夜ドラ「ラジオスター」に出演しています。 大阪からボランティアで能登にやってきた主人公が、経験もなければ、予算もない中で、地震と豪雨で傷ついた街を明るくしたいと言う気持ちのみで、ラジオ局を開局し、放送に奮闘すると言うストーリーです。 常盤さんは能登のおしゃべりお姉さんと言うキャッチフレーズで、ラジオパーソナリティーに挑戦する、地元の主婦の小野桜?役を演じています。 このインタビューでは、常盤さんの能登への思い、そして1人の人間としての生き方を見つけた現在について、朝ドラマの「まれ」のロケ地でもあり、常盤さんが能登を訪れるたびに、必ず立ち寄るとと言う能登半島の最先端石川県珠洲市でお話を聞きました。

20代前半の頃、いろんなことを吸収する時期で、現場で出会う人、出会う人が楽しかったです。 お芝居することも楽しかったです。 いいことばっかりだったとは言え、すり減って言ってしまうこともあって、24歳の頃、自分の中が空っぽになってしまったなと言う感じました。 楽しいと思ってやり始めたことが、その楽しむ先がなくなってしまった。  テレビドラマではお客さんと接する事は全くありません。 大林宣彦監督の映画で舞台挨拶が終わって、大林監督は映画を見てくださった方の人たちと握手すると言うことを伺いました。 私も行ってみて監督が嬉しそうに迎えてくださいました。 

皆さんと挨拶をしたときに直接私にご言葉をかけてくださったことにすごく感動しました。こういう世界があったんだと言うことに気づき涙が出てしまいました。 人対人になれた瞬間だと思いました。 「まれ」の撮影が始まった頃は、まだ自分の中にお客さんとの線があったような気がします。「まれ」の撮影ではお母さんの役でした。 合間に能登をに回って、自分で出会っていった人たちに対する思いが、どんどん募っていきました。 自分の中で線が消えていったという感じです。   人として大事なものを失うたくないと言うのは凄いと思っていると思います。 

2024年の元日に地震が起きて、110日には新聞に文章を載せました。     「・・・私の大切な場所が大変なことになっている。私の大好きな人たちが心を痛めている。 誰も誰のせいにもできないなんて言う事はわかっている。 それでも言ってしまいたくなる、もうやめてと。  私の大好きな人たちが住んでいる私の大好きな大切な場所,私は諦めません。 これから訪れるべき場所、これから出会うべき人たちだってまだまだいるんだもの。 私は北陸を石川を能登を輪島を珠洲を〇浜?を絶対にあきらめない。 私の好きな人たちの笑顔が戻るその日まで。」

自分でもこのタイミングでなければ出なかった一言だなと思います。 これを書いたことによって、自分の中心にそれがあるんです。 避難したまま寂しい思いをされている方がいらっしゃる。そういう現実を知れば知るほど自分の中で移すとしてしまうものがありますが、そういう人たちもいつか能登で笑顔で会えることを信じて、私はその日まで諦めずに進みます。 自分自身に対して覚悟が決まりました。

3月に入って炊き出しのボランティアをしました。 人と人が会える事は当たり前なことのように思っていましたが、会えると言うのは奇跡かもしれないと思って、人と会えることの喜びをすごく感じました。  「誰も来てくれない場所によく来てくれたね。」と言われました。 災害にあっても来てくれる場所と来てもらえない場所があるんだと言うことに気づき、そういう場所に行こうと言うふうに決めました。

人間常盤貴子は何を求めるかと言うふうに考えたときに、たった1人の人の笑顔でも取り返すことができたら、と思うようになりました。  能登の人たちとの出会いによって、自分で何かを考えて行動する勇気を持たせてくれた。 私がやっていることが望まれていることではないかもしれないけれど、私がやりたい、これはきっといいんじゃないかなぁ、皆さん喜んでくるんじゃないか、と思うことの提案をする勇気を持てました。 今まででは絶対できなかったことです。 大谷中学校の避難所に行かせていただいたことで、その道を自分の中で見つけることができたと言うことがあります

「ラジオスター」と言うドラマを放送しています。 石川県の能登に誕生した災害FMが舞台です。 このドラマで被災した人を演じています。  私たちの仕事は疑似体験するみたいなところもあって、かなり深いところまで体験をした人の思いには入り込まないといけない部分もあって、そこでのセリフになってくるので、深くシンクロすることができて、その体験と言うのは被災した人の思いに少しは近づく事が出来たのかなあと言う思いはあります。 

お正月を迎えた時に、「あけましておめでとうございます」って言う挨拶がまだしにくいとか、震災の後に能登の人間にとって、これから元日はおめでたい日ばかりではなくなりました、と言う言葉を言われたときに、私自身も言いづらくなってしまいました。 それが言えるようになればいいなぁと思っていますが、言えない思いも共有できたらいいなとは思ってます。  せっかくの人生なので、いろんな人の影響を受けたいです。 常盤貴子と言う1人の人間として、すべての人とお付き合いしていくことができたら、より楽しくなるだろうなと思います

能登は透明になれる場所、自分を自問自答する場所でもあるのかなって言う気がします。 能登の方々は非常に優しい人たちだから、そのエネルギーをいただくことで、自分の中にもその優しさがしっかり根付いて人を大事にしよう、私は人が大好きなんだと言うところに落ち着けるというか、そういう場所かもしれないです。





2026年4月17日金曜日

2026年4月16日木曜日

勝木俊雄(森林総合研究所 勝木俊雄)    ・「朗読で味わう桜の春」後編

 勝木俊雄(森林総合研究所 勝木俊雄)    ・「朗読で味わう桜の春」後編

 勝木さんは、桜の分類が専門で日本の野生種として100年ぶりと言われる熊野桜の発見者としても知られています。

坂口安吾の「桜の森の満開の下」

山賊が桜の森でさらってきた女に惹かれて一緒に暮らし始めます。 女の希望で都で暮らし始めますが、この女が恐ろしい、いろいろな趣味を持っていて、首を集めるようになります。 最後男は山に帰っていくわけですが、とにかくこの男は、桜の森を異様に恐れていると言うことです。

「目の前に昔の山々の姿が現れました。 呼べば答えるようでした。・・・ その道を行くと、桜の森の下を通る女がいました。 「背負っておくれ、こんな道のない山坂は、私は歩くことができないよ。」・・・男は軽がると女を背負いました。・・・ 「初めてお前に会った日もおんぶしてもらえたわね。」と女も思い出して言いました。・・・ 見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。 山はいいなぁ。・・・都ではそんなこともなかったからな。・・・桜の森が彼の眼前に現れてきました。・・・まさしく一面の満開でした。 風に吹かれた花びらがパラパラ落ちています。 

男は満開の花の下を歩きました。 あたりはひっそりとだんだん冷たくなるようでした。彼はふと女の手が冷たくなってるのに気がつきました。 とっさに、彼がわかりました。女が鬼であることを。 ・・・男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。 その口は耳まで裂け、ちぢくれた髪の毛が緑でした。・・・ 鬼の手に力がこもり、彼の喉に食い込みました。 彼の目が見えなくなろうとしました。・・・その手から首を抜くとどさりと鬼は落ちました。・・・ 彼は鬼の首を絞めました。 彼がふと気づいたとき、女は既に息絶えていました。・・・

彼が締め殺したのは、さっきと変わらず、やはり女で同じ女の死体がそこにあるばかりでした。・・・ 女の死体の上に既にいくつかの桜の花びらが落ちてきました。・・・彼はワッと泣きしました。 彼が自然に我に返った時、彼の背には白い花びらが積もっていました。・・・ ただひっそりと、そしてひそひそと花びらが散り続けているばかりでした。彼は初めて桜の森の満開の下に座っていました。いつまでもそこに座っていることができます。 ・・・桜の満開の花の下の秘密は、誰にも今もわかりません。あるいは孤独といったものであるかもしれません。・・・彼は、女の顔のうえの花びらを取ってやろうとしました。彼の手が女の顔に届こうとしたときに、何か変わったことが起こったように思われました。すると彼の手の下には降り積もった花びらばかりで、女の姿はかき消えて、ただいつかの花びらになっていました。 そしてその花びらをかき分けようとした彼の手も、彼の体も伸ばしたときには、もはや消えていました。 後に花びらと冷たい虚空が張り詰めているばかりでした。」

 美しいものは単純ではなくて、ちょっとその裏側の部分とセットと言うのか、日本人の美意識かなぁと思います。 二面性があることで多分皆さん桜の花の美しさに奥行きと言うものを感じているんだなぁと思います。 ソメイヨシノは命が短いと言うことが言われることがありますが、全くの嘘です。 福島県の郡山に開成山公園ありますが、そこのソメイヨシノは植えて150年近く経ってます。 東京だとソメイヨシノにとってははちょっと暑すぎます。 1番気候が良いのは北関東から南東北あたりです。

 

宇野千代さんの「淡墨の桜」

「去年の春、私は思い立って岐阜の本巣市の淡墨の桜を見に行った。・・・ 話によると、この桜は樹齢1200年、今では日本で1番古い桜で往年枯死寸前と言われた時、岐阜市在住のある医師の手によって、桜の若木を根継ぎして死期回生、再びの萬朶(ばんだ)の花を咲かせることができたということである。・・・ この山の深く樹齢1200年と言う桜の花が咲いていても、運転手が知らないと言うのは、いかにもありそうなことに思われるのである。・・・

小雨が降り出したが、今日のうちにちょっと桜を見たいと思った。・・・宿から小半町のところを左へ行く根尾川にかかる。朽ちかかった危なっかしい橋を渡って、村道を登っていくと、・・・確かに白壁の家のそばにぼーっと白い桜の花が見えたが、あれが私がはるばる訪ねてきた薄墨の桜なのか。・・・私が勝手の違うものを見て幾分がっかりした。・・・下駄では無理だろうと言うことで宿へ引き返した。桜を見に来る客は滅多にないと言う。・・・

翌日も雨は止まない。・・・ やがて、村外れを左に折れて田畑の間の草深い道を登る。3、4本の桜のひょろひょろしたいとけない木が花をつけてるほか、何の風情もない道である。・・・何を祭ったのかわからない小さな神社の、今にも崩れそうな石垣の下にその桜の木があった。・・・幹周り38尺、約2反部に広がると言う巨木が、老残の形を支えている姿が、無惨と思われたからである。 大きな枝はただ残骸だけになり、その腐った先から新しい枝が出て、か細い花が咲いている。 その枝の別れ目の大きく裂けた間に、柘植の木が群生しているのがいっそう痛ましく、老残の木の枯死する寸前と言う感じを受ける。・・・一体に蕾も小さくもう散り際なのか、その名の通りほのかに薄墨色に見える。

これでは人がわざわざ見に来ないのも道理である。・・・もう枯れますよと言うことを露出している。・・・この桜は、この山奥に隠棲中の継体天皇が都からの迎えの人に連れられて村を去るときにここにお手植えされたものである。その時の御製と言う歌の中にわずかの間ここに住んでいたという意味であろう、薄住と言う言葉があり、それがこの桜の名の元になったという。・・・私は一種の感動に心を奪われながら、もう一度この桜に萬朶(ばんだ)の花を咲かせることができないものかと言うことを考えた。

 淡墨桜も江戸彼岸になります

 ラフカディオハーン「日本の第一日目」

「私の車屋は、自分のことをチャッと名乗っている。・・・どちらの方角にチャッが走っているのか、私には皆目わからない。・・・そうこうしているうちに、再び別の丘の麓に車が止まった。・・・何かの象徴でもあるらしきものが建っている。・・・しかし、不思議な荘厳さがある、得体の知れない美しさがある。それは鳥居だった。・・・寺ではなく、この国の古代信仰の神を祀った社、つまりお宮である。 私は神道の象徴である鳥居の前に立っている。・・・鳥居の持つ全ての線に生き生きとした表意文字の品格がある。・・・鳥居を組ウリ100段余りの石段を登る。・・・私の目の前にあるものに、私の心から釘付けとなった。それは言葉を失うほどに、美しいものに覆われた桜の木立であった。すべての枝と言う枝に、夏の積乱雲のように、純白の花が咲き乱れ、目もくらむむほどに霞んでいる。その下の地面も、私の眼前の小路も柔らかく、厚く、芳香を漂わせて散った花びらの雪で、一面真っ白だった。どうして日本の樹木はこんなに美しいのか。・・・葉1枚も見えない。そこには、大きな1枚の薄模様を見るような花びらの霞があるだけだ。」

 

想像すると大島桜かなと思います。大島桜は花がほぼ純白で個体によっては葉が出ないようなものもあります。この当時であれば横浜あたりはソメイヨシノも植えられていたと思いますので、その可能性もあると思いまが、純白であるとか、花に香りがあると言う記述があるので、ソメイヨシノではないかと思います。大島桜は香りがあります。


2026年4月15日水曜日

田中ひかる(作家・歴史社会学者)      ・「女性たちが切り開いた歴史に光を当てる」

田中ひかる(作家・歴史社会学者) ・「女性たちが切り開いた歴史に光を当てる」 

田中さんは、歴史や社会学の専門家としてその研究を物語として届けてきました。明治時代に初めて医師になった女性たちや、生理用品を開発した女性など、近代の女性活躍の礎を築いた人物を取り上げてきました。  その中で2023年の著書、「明治のナイチンゲール大関和物語」はナースの先駆けである2人の女性、大関和鈴木雅の姿を描いています。 看護が職業として確立していなかった当時、2人はきちんと訓練を受けたトレンドナースとして地位向上に尽力しました。 今年、今放送中のNHK連続テレビ小説風「風、薫る」はその田中さんの著書が原案となって、2人の主人公がナースとして成長する物語です。 インタビューでは看護の歴史をひもときながら、女性の働き方や生き方について田中さんの思いを伺いました。

モチーフとなる人物とイメージ通りです。毎回楽しみながら見ています。     大関和は離婚して東京に来て、その後のことが比較的わかっているんですけれども、それまでの事はわからないことが多くて、地元の方もあまりご存じなかったようです。 地元の方にも大関和のことを知っていただきたいと思います。

大関和について書いていましたが、鈴木雅の存在も知って、2人の物語にしたら面白いと思いました。  同じ看護学校で2年間学んで、同じ病院に就職して外科と内科の看護師長になって数年で2人とも辞めてしまいます。 その後離れ離れになりますが、また東京で働くようになります。  2人が関わったのは約10年位です。  しかし、日本の看護の歴史を築く上で濃密な10年間だと思いました。  2人の物語として書きました。 トレンドナースとして正規に訓練された看護婦として、登場する前は、看業婦とか看護人と呼ばれていて、卑しい職業としてみなされていました。 

当時、明治の時代は内戦とか日清、日露戦争とかあって、怪我をした兵隊を看病すると言う仕事がどうしても必要となってきました。 国としても看護婦と言うものを養成していかなければいけないと言う考え方もありました。 徐々に卑しい職業から憧れの職業にイメージが変わってきました。 和たちが看護学校に入った当時は、ナイチンゲールはまだ現役で70代で活躍していました。 牧師から看護は素晴らしい尊い仕事だと言うことをに説得してしました。 桜井女学校附属看護養成所ところにと雅は入ります。

看護を学ぶ上で英語は必須でした。 明治時代はコレラ、赤痢、腸チフス、天然痘とかいろんな感想が流行っているのは、当たり前のようでした。 は、集団感染の現場に行って衛生環境を整えると言うことを徹底的に行った結果、死者数が激減しました。 当時4人に1人は亡くなっていたと言われる時期に、100人中死者を5人に抑えたとかと言うことが記録されています。 和は自分の後輩も養成していきます。 うがい、手洗い、顔洗い、部屋をきれいに保つ、換気と言うことを唱えてます。 

鈴木雅の功績としては、派出看護婦会を立ち上げたのがすごいなと思ってます。 その成果を見て広がっていきました。  雅は看護婦養成所を作って3年間かけて看護婦を養成しました。(資格、制度のない時代) 派出看護婦会が一気に増えて、日本の国の8割は派出看護婦と言う時代があるそうです。  性格の違う2人だからこそ、うまく支え合うことができたんだと思います。  大関は人のために献身、犠牲、奉仕と言う働き方とする人でした。 しかし看護と言うのは仕事ですし、それに見合った待遇ではないんではないかと言うことを思っていて、あまり奉仕とか犠牲が素晴らしいと言う書き方は良くないとは思いました。(雅の役で対応。)

桜井女学校附属養成所のメンバーが6人で、あと先生の7人の集合写真があって、後でドラマがあると感じました。 一人ひとりにすごいドラマがありました。    明治時代は経済的なことで離婚がしづらい状況にありましたが、桜井女学校附属看護婦養成所の校長の矢嶋楫子と言う人は、DVの夫から逃げ出して、離婚をして教員になることで、40歳で経済的な自立を果たしています。 看護婦と言う仕事が、経済的自立の手段として発明されたようなものなんですね。 和と雅は、2人の子供を持つ母親ですが、仕事を持ちながら子供を育てると言う大変なことをしていきました。 しかし子供は亡くなってしまって、働く女性のジレンマと言うのは昔も今もあると思います。

日本で最初に生理用ナプキンを開発した女性のことを本に書きました。その後2020年に書きました。 「明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語」を書きました。    生理に関しては、20年前はまだタブーと言うような時代でしたけれども、だいぶ情報が得られるようになって、だいぶ生きやすくなったんじゃないかと思います。 ナプキンが登場してるのは1961年です。 女性の社会進出が一気に増えていった時代でもあります。 女性の働く便利さが格段に変わったと思います。 保身に走るのではなく、自分がやりたい道を進むと言うのが、結局自分にとって1番良いところにたどり着くのかな、と言うことを過去の人が教えてくれるような気がします。






2026年4月14日火曜日

山本三千子(室礼教室主宰)        ・「花や盛り物で表す室礼に魅せられて半世紀」

山本三千子(室礼教室主宰)   ・「花や盛り物で表す室礼に魅せられて半世紀」 

四季折々の行事で、花やものを語る日本に古くなる文化や習慣ですが、それを室礼といいます。 七夕には笹、お月見にはススキと団子、ひな祭りには桃の花や雛あられなど当たり前のようにしてきたことですが、そうした飾り室礼には深い意味があると言うことです。  山本三千子さんにお話を伺いました。

心をもので表すのが室礼です。 具体的にはお花の飾り方、野菜を飾ったり、果物を飾ったりです。 お月見にお団子を飾りますが、お団子とは何だろうと改めて考えると、お米が取れてありがたいということで感謝をしてますということで、日本人はお団子作って飾るようになりました。  季節を盛る、言葉を盛る、心を盛ると言うことを本に書いてあります。 季節を盛ると言うのは春夏秋冬の恵みの中で植物と同様に人間も季節の中で生かされてます。  言葉を盛るというのは、芽が出た野菜を眺めていると、昔ここから「あけましておめでとうございます」芽が出る、言葉も植物と深い関わり合いがあります。 柿ですが、ですけれども、「か」がかしょう?」のか 喜び来る。それで「喜来」。

最高の秋の行事、七五三の頃に柿を盛りますが、子供がこんなに大きくなりました。喜び来るの喜来」です。 ごろ合わせしながら自分の気持ちを託していくわけです。 室礼についてのきっかけは飛行機事故で主人をなくしてからです。御巣鷹山で飛行機が墜落しました。 夫もその飛行機に乗っていました。(48歳)

1周忌が過ぎ、ある方から呼ばれて伺いました。 そこでお花のご宗家がお花を生けけたり、盛物をしていたりして、そういった室礼を拝見しまして、これはもう命だと思いま咲いた。 自分の中でこの世界を知りたいと思いました。 そこは全く空間の違う空気がサロンのなかにありました。 その空間を作っていくのを一般的に室礼といいます まな板の上に野菜が盛られてあった。 その上に最後に宗家が赤いベビートマトを1つだけ盛られました。 それがわかりませんが、命だと思いました。  

野菜を盛るとその野菜が全て命なんですね。 お花を生けると言うのも、花の命とどう向き合うか、それが室礼の本当の言葉なんだと、だから日本人は神様のところにお供えをするとか、手を合わせるとか、総合的な日本の文化と言うものを、それが日本人の暮らしですね。  私の中に何かがかけてるなって言うのを1番思ったのが、赤いトマトだと思いました。 自分が自分で行く生きていく道を探さないといけない一人息子さんが気の毒だから、息子のためにちゃんとしている何かをやってる姿を見せないと言うことだと思いました。 

開催していただいたサロンの所の弟子になることを決めました。 おもてなしと言うのはその時刻に花はどういう顔をしているか判っているのか。 花も夜は眠ります。 ゆっくりとお花も眠らせてあげないといけない。 終わったら普通のバケツに移して入れてあげます。 電気も消してあげます。 ただ、きれいに活けるだけではないんです。 室礼を作ると言う事は、その人、その人の人格が表されるということです。 「紫と白」、茄子と白ウリ、それぞれがそれぞれの美しさをたたえています。 色だけではなくて、中を切ってみたときに、中が真っ白であると言うことです。  精神が清廉潔白であると言う白いと言う色で、野菜の身も人間の身体の身も清廉潔白でないとダメだと言うことです。  白ウリは蔓もので、蔓は万代に続くということがあります。 代々繋がっていきますようにという事です。

ありがたくいただく前に、お供えして手を合わせる。 織物も必ず一反作り上げて、出来上がったら、必ずふさをつけておくさと言うのは、代々の命のつながりの言うことをふさといいます。 お天道様に手を合わせるとか、生け方の礼そのものが室礼なんではないかと思います。 夫は日本の祈りの文化の中で育って、生きてきた人でした。 室礼を知ったことで、ある程度夫に近づけたような気がします。  

いちいち盛る事はなかなか難しいと思うので、マーケットで買い物をした袋を台所に置いたら、そこで一回手を合わせると言うことをすればいいじゃないかと言うことです。 気持ちの問題です。 室礼とは、思いを心を形にしていくことですね。  年中行事は少なくとも、事を行うと書いてあります。 それに従えば行いがあってしかるべきだと思います。  自分たちの現在の感性の中で、古典のものをどう引っ張るかですね。  室礼をすると自分が自然に近づけます。 命に近づくことにもなります。 人間は自然界の一員だと言うことです。





2026年4月13日月曜日

桃月庵白酒(落語家)            ・師匠を語る「五街道雲助を語る」

桃月庵白酒(落語家)            ・師匠を語る「五街道雲助を語る」 

江戸前落語の基礎から叩き込まれた正統派の評判の桃月庵白酒さんの師匠は、落語会では4人目となる人間国宝の五街道雲助さんです。 人間国宝の五街道雲助さんと弟子の桃月庵白酒さん、どんな師弟関係で、どんなドラマがあったのでしょうか、お話を伺いました。

桃月庵白酒さんは鹿児島出身(57歳) 早稲田大学落語研究会出身。

五街道雲助さんは、本名は若林恒夫さん、1948年昭和23年東京墨田区本所で生まれます。 演芸好きの母の影響で幼い頃から寄席に通い、明治大学に入学後は落語研究会に所属していましたが、2年で大学を中退、1968年昭和4320歳で10代目 金原亭 馬生に入門し、金原亭駒七と言う前座名を貰います。 弟子入りして最初に稽古をつけてもらったのは、馬生師匠の父である古今亭志ん生、実在の武将、太田道灌の逸話を元にした「道灌」と言う話でした。 

2つ目に昇進し、6代目五街道雲助と改名したのは入門の4年後、昭和47年でした。浅草の酒場で作家の野坂昭如さん、田中 小実昌さん、俳優の殿山 泰司 さんと知り合いかぎ?を伸ばしてアングラ劇の芝居に出演する一方、この頃から初代三遊亭圓朝が創作した怪談話や人情話にも取り組みます。 国立演芸場の資料室などに通って古い速記本を掘り起こす作業を地道に続け、およそ40席の古典作品を復活させました。 

1981年(昭和56年)真打昇進、2009年度文化庁芸術祭優秀賞、2013年度芸術選奨文部科学大臣賞大衆芸能部門受賞、2016紫綬褒章受賞。 2023年には、三遊亭圓朝の大作を復活させるなど、独自の芸を作り上げ、東京の落語界を牽引する本格派の演者と評価を受け、5代目柳家小さんさん、上方落語の3代目桂米朝さん、10代目柳家小三治さんに続いて、落語家では4人目となる重要模型文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

白酒さんは1992年(平成4年)に五街道雲助師匠に入門します。 先輩に誘われて、五街道雲助の独演会に行ったのが最初でした。 まず声が良いなぁと思ってそこからです。 ネタの作り方とか、くすぐり方などわかりにくい、くすぐりなども入れて、わかる人だけついてこいみたいな高座が私の好みにぴたっと合いました。  でも当時は就職しか考えていませんでした。 落研の同期が落語家になろうかなぁと言い出して、そういう選択肢があるのかと思ってそこからです。 

雲助の弟子になろうと思いましたが、ダメだったら噺家は諦めようと思ってました。  上野の鈴本演芸場に行って、お願いしました。 11年間弟子を取らなかったのを弟子入りを許してもらえました。 私には現在4人の弟子がいます。     うちの師匠は、馬生師匠から「家族に余計なことを言うな。」と言われて、うちの師匠からも同じように言われました。 掃除をやるだけで、それ以外は速記本などの本を読んでるだけでした。 最初の稽古のときには、こういう姿勢で入りなさいとか、視線をどうするかとか、昔の芸人だったら正面を切らなけれダメだとか、丁寧にいろいろ教えてくれました。

話の内容についても細かく説明がありました。2回目以降はほとんどありませんでした。 「いちいち俺の真似をするような事はしなくていい。」と言うふうに言われました。 「人気の師匠だったり、見たこともないような師匠もいるかもしれないけれども、分け隔てなく接しなさい。」と言われました。 「寄席はチームプレイだから。」と言われました。 師匠から褒められた事はないですね。 真打に決まった時は「良かったな。」と言われた位です。 怒られた印象もあまりないです。     一度師匠の着物を持ってくのを忘れてしまいましたが、その時は首だろうと思って、自分で頭を丸めましたけれども、その時はあまり怒ってはもらえませんでした。 むしろ怒ってくれた方がだいぶ楽でした。

今私には4人の弟子がいます。 弟子にはあまり細かく言わないようにはしています。 自分でもそうだったもので 教えないと考えるもので、これはいいことなぁと思うようになりました。 二つ目に上がったのが、入門3年目の1995年で、「五街道はたご」から「五街道喜助」と名前が変わりました。 2005年に真打に昇進し、「桃月庵白酒」と言う名前になりました。 「桃月庵」と言うのは、師匠から提示があったいくつかの1つでこれに決めました。 

2023年五街道さんは、落語家では4人目となる重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。 私はうれしいと言うよりは、信じられないって言う気がしました。  師匠も驚いたようでした。  結局、お祝い事のイベント等はやりませんでした。  弟子だけで贈り物はしました。  高座で使う茶碗をプレゼントしました。  落語フアンとして言わせてもらうと、人情話、滑稽話、怪談話も幅広く出来てしまって、私も目が見る目があるなぁと思いました。 師匠からは「とにかくお客さんに喜んでもらうように。」と言う事は言われています。 師匠からはいろんなものをもらったりしていましたが、芸名がついたときに、一筆箋に「五街道はたご」と書かれたものを渡されましたが、それが1番大事なものです。       あと師匠の所へ向かう時に買った切符は大事に持ってます。

師匠への手紙

「師匠、弟子入りを受け入れてくださり本当にありがとうございます。 自分の弟子を取って改めて師匠のありがたさを感じました。自分のペースを乱されることを何より嫌がっていた師匠ですから、弟子は邪魔以外の何者でもなかったと思います。不器用でことさらできの悪い弟子で、イライラされたことと思いますが、ご迷惑をおかけしました。国宝に認定され、さらにマイペースとはかもしれませんが、面倒なところは弟子や孫出しをうまく活用してできれば幸いです。  これからもよろしくお願いいたします。」







2026年4月12日日曜日

行定勲(映画監督)             ・「映画で支える熊本の復興」

 行定勲(映画監督)             ・「映画で支える熊本の復興」

行定さんは熊本県出身の57歳。 高校卒業後、映画製作の専門学校に進み、岩井俊二監督の映画で助監督を務め頭角を表します。 2002年には映画「GO」で日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞。 2005年の「世界の中心で、愛をさけぶ」と、2006年の「北の零年」では優秀監督賞、また2010年の「パレード」と2018年の「リバースエッジ」では、ベルリン国際映画祭の国際映画批評家連盟賞を受賞します。 414日と16日で熊本地震から10年になりますが、行定さんは 16日の本震のときには、熊本市内にて被災しました。 

熊本地震の被災から熊本の人たちが立ち直るために、何ができるかを考えた際に、映画監督である自分にできる事は、映画で被災した人たちを励ましたり、被災した熊本の現実を映像で記録することだと考え、被災前に作った熊本を描いた映画「うつくしいひと」の続編として、被害の大きかった益城町や熊本城、阿蘇神社や阿蘇大橋などの被災現場でロケを行い、「うつくしいひと サバ?」と言う作品に仕上げました。 熊本地震から10年が経ち、行定さんにとって、熊本地震の教訓は何だったのか、故郷熊本に対する思いはどう変わったかなどについて伺いました。

地震を乗り越えてきた今の熊本と言うものを認識している人たちが自負のある方が多い感じがしていて、この10年と言うものを前向きにやってきた10年と思うので、水害もあってその後コロナもあり、それを乗り越えてきたと言う感じがあります。当たり前にある熊本城が地震であんなに傷つく姿と言うものは今まで見てられなかったんですね。 ライトアップすると、復活しようとしている熊本城のように見えるんです。  見上げている人たちを見ると、皆涙をしてるんです。

完全復旧2052年度目標にしてました。 熊本地震の爪痕を部分的に残してあるというのが、多分ファッションデザイナーの高田賢三さんがおっしゃったことで、ヨーロッパでは多分ピシャと直さないだろうとおっしゃっていました。 自分の映画を復興している姿を、どっかに映画に取り込みたいと言うことを思って、「うつくしいひと」の続編「うつくしいひと サバ?」を作ったんですが、賢三さんが言ってることと近いと言うふうな思いはありました。 崩れ落ちた石垣を少しだけ残す事は重要なことかなぁと思います。  10年経って今しか見れない熊本町と言うものがあって、復活の途上にある熊本城を見ていただけるので、熊本に行く際にはぜひ見ていただきたいと思います。   

地震があった414日の翌々日の416125分に大きな揺れがありました。  余震にしては大きいと思いました。 テレビが倒れたり冷蔵庫の蓋が開いて、中身が飛び出したりして、ベッドにしがみついていました。 地震を経験したから、情報の発信ができたと言うことと、外側の人たちが支援してくださる熱い気持ち、愛情みたいなもの、支援をしてくれる彼らの思いみたいなものを受け取る側にいたから、ありがたさみたいなものをものすごく感じることができました。 「うつくしいひと」と言う映画を作っていたおかげで、熊本と言うものをについて、僕自身を改めて、生まれ故郷を感じることができました。 

5月に「うつくしいひと」を公開しようと言う手はずでしたけれども、地震が発生してしまいました 。熊本の美しい情景を撮っていたので、被災した人たちのことを考えると、見れる余裕なんてあるはずがないと思いました。 県外の関係者から「うつくしいひと」を上映して、チャリティー上映と言うことにさしてもらえないかと言う話がありました。 300から400カ所位のところで、上映していただいて、現金が2000万円位集まりました。  熊本県出身の俳優の人たちが多く出演してまして、まさかチャリティー映画になるとは思ってもいませんでした。

「うつくしいひと」を撮影した翌年に「うつくしいひと サバ?」を撮ってますが、明治40年頃にも、熊本に大きな地震が起こってまして、(熊本には地震が起きないという風説があった。)文化の力で変えていかないといけないと思いました。地震後半年位の時でした、撮影させてくださいと訴えて、自分たちがどんな思いでいるかと言うことを伝わると言う事はすごくプラスになるかなと言う風な思いがありました。 映画に協力してくださる方から、本当の俺たちの気持ちはわかってくれていないと言うふうに言われました。 それで或るスタッフがショックを受けました。

彼が涙ながらに撮影をやめましょうって言いました。 本音を言ってもらうシーンを取り入れました。 何かを諦めなければいけない人にも出会いました。 東京に行って自分の夢を叶えようと思った人が、地震で諦めざる得なくなりました。 本当はパリに行く予定だった女性が、ダンス留学をするのは諦めて、熊本でも踊れることができるって言う思いをそのまま使わせてもらいました。「うつくしいひと」「うつくしいひと サバ?」と3作目に作った地震当日の話「いっちょんすかん」、その3つの作品が合わさったら、熊本出身の俳優さんたちがリアルな熊本弁でユーモアもありながら、客観的に見られる映画だと思いますが、その思いが後の人たちにつながっていくと言う、映画は記憶装置と言う部分もあるかと思いました。

いろんな苦労に合いながらも、それでも熊本で頑張っていきたいと言う事を聞いたりすると励まされます。 熊本もいろんな変化を遂げていくと思いますが、例えば熊本の人たちで才能がある人がいたら、それを世の中に広めていったり、発見してあげたいとか、これからの時代を担ってくれるであろう、子供たちの人材育成のきっかけを与えられるといいなぁと思います。  映画祭自体がそういう存在になっていくと言う事が希望です。 熊本って新しいもの好きで最新のものが好きなんです。 わさもん文化というものがあります。 わさもん文化を復活させるというか、それが原動力になってパワーみたいものが、世の中にいろんな力を提示できたらいいなと言うふうに思ってます。





2026年4月11日土曜日

フレデリック・クレインス(国際日本文化研究センター 教授)・興味が尽きない、日本の戦国時代

 フレデリック・クレインス(国際日本文化研究センター 教授)・興味が尽きない、日本の戦国時代

俳優の真田広之さんが主演、プロデュースしたテレビドラマ「SHOGUN」が、アメリカテレビ界最高の栄誉とされるエミー賞に加えて、ゴールデングローブ賞でも、作品賞や主演男優賞など獲得して話題になりました。  戦国時代の日本を緻密に再現したことが評価されたもので、その時代考証を担当したのがクレインスさんです。ドラマはオランダの船で日本に漂着したイギリス人航海士ウィリアム・アダムス、後の三浦按針と徳川家康、そしてキリシタンの細川ガラシャの3人をモデルにした人物を軸に展開します。  戦国時代と武士に惹かれて日本にやってきて、戦国文化、日本とヨーロッパの歴史、日本とヨーロッパの交流の歴史を研究しているクレインスさんにドラマの時代考証について、そして戦国時代研究の面白さをお聞きしました。

時代考証で、例えばどんなことをしてきたのか、脚本が当時の日本の文化と離れていたので、まず当時の戦国時代の武家がどのような行動をして何を考えているのか、それを説明することから始めました。 色々誤解していました。 例えば、切腹と言うのは、武家が自分の犯した過ちとかを訂正するために、おのずからやると言う風習ですけれども、彼らはいやいややっている罰だと思い込んでいました。  武士の名誉、考え方、死生観などからスタートして、これによって新しいシーンを一緒に作ったり、キャラクターも新しく作りました。 深みのある作品になりました。

戦国時代を研究すると、茶の湯のことも結構出てきます。 言葉も英語で書かれていたものを、日本語に置き換えてますが、現代語にすると雰囲気が出ないので、セリフを妻と共に慶長期の日本語に置き換えました。  実は当時の辞書と文法書があるんです。 それを参考にしました。 セットと衣装なども時代考証しました。 江戸時代と戦国時代はかなり違います。 当時の武士たちは、和歌とか連歌が非常に重要な文化要素です。 そのシーンも作りました。

私が幼稚園の頃、日本人の子がいました。小学校5年生の頃に日本に戻ってしまいました。 彼と文通をしてすごく日本のことに興味を持つようになりました。   本を購入したりして、日本のことをどんどん勉強するようになりました。    1980年私が10歳の時にテレビでSHOGUN」(旧)というのをやっていました。 それをきっかけに日本の歴史に興味を持つようになりました。 衣装、文化言葉などに特に興味を持ちました。  19歳の時に来日して日本語を勉強して、大阪外国語大学に留学しました。 28歳の時に京都大学大学院に入って博士号を取得しました。    日本人の女性と結婚しました。 江戸時代の作り方で家を新しく作りました。   武家屋敷と古民家の間ぐらいの建物。

多くの歴史的人物は、充分資料が資料が残ってないです。 ウィリアム・アダムスについては資料が十分残っています。 それを一次資料にしました。 ウィリアム・アダムスはすごく面白い人物で、1564年にロンドンからちょっと東の港町で生まれ育ちました。 船大工になって航海術も覚えました。 24歳の時に、スペインの無敵艦隊がイギリスに侵略しに来ますが、それに対抗してイギリス人の艦隊を形成して向い打ちをします。 その艦隊の船の中の1つのアダムスが船長として働きました。その後バーバリー商会という貿易会社に就職して 、10年近く続けます。 

1598年オランダ人がアジアに派遣する船団を形成していると言うことを聞いてそこに入りました。 16世紀は大航海時代で、ポルトガルとスペインが世界に出て行った時で、アジア南米で植民地化をやっていきます。 ポルトガルはアジア、スペインは南米を支配をしていました。 イギリス、オランダはスペイン、ポルトガルとは宗教戦争をやってました。 経済的ダメージを行うために海賊行為を行います。  略奪品を自分の国に持ってくるという事をお互いがやってます。

ドラマの中では、日本に来るまでが大変だったと言うことがあります。 旅自体が2年間かかりました。 逆風でなかなか進めなかった。 食料も尽きてしまう。 アフリカあたりで伝染病にもかかったりします。 非常に苦労しながらマゼラン海峡に入ります。 そこは非常に寒く風も強い。 最初500人の乗組員だったが、そのうち100人が寒さで亡くなっています。(この時点で半分になっている。) 食料調達する上でも多くの人が亡くなりました。 出発した船がついに二隻になってしまいました。  二隻で太平洋を渡って、日本に行こうと言うことになりました。 その途中嵐に出会って一隻はいなくなりました。 最終的に日本に着いたのは一隻でした。

乗組員は24人でした。(出発時500人)到着後すぐ6人が亡くなってしまいます。  残った18人の1人にアダムスがいました。 豊後につきました。 そこの領主が、長崎奉行に報告しました。 長崎奉行は、五大老に報告しました。家康も大阪にいました。 家康は、積極的な外交を行っていた武将でした。 とにかく輸入を以て日本の経済を豊かにするそういう考えを家康は持っていました。 船長を呼ぶように指示しましたが、船長が病気だったため、航海士が大阪に送られました。 アダムスに会って、この人間は有能な人物であると判断したようです。

ポルトガルとスペインは貿易の代わりに宣教師を容認しろ、キリスト教を布教させてほしいと言うことでした。 けれども、アダムスはwin winで貿易をしたいということでした。 アダムスは旗本になって、家康の側近になります。 アダムスは家康に世界情勢のことをいろいろ語っていきます。 その他にいろんな学問を教えました。 通訳と外交全般の窓口になっていきます。  いろいろな国と貿易をすることによって、値段も安くなってき、日本の経済が豊かになってきます。 

スペイン人が江戸湾の測量をさせてほしいと願いでてます。 アダムスはこれを聞いて家康にこれは罠であると言います。  彼らは測量して、次は軍を送ってくると言うことを力説しました。 家康は宗教の怖さを知っていたので、キリスト教で同じことなったら大変だと禁教令を出します。 イギリスは1923年に日本であまり元気が出ないので撤退してしまいます。 ポルトガルとスペインは貿易と布教が表裏一体でしたが、オランダは貿易で利益を得ることそれが大事でした。 積極的な布教活動は一切やってませんでした。 オランダであれば十分な輸入品が得られるし、布教活動の脅威から解放されると言うことで鎖国に発展していきます。

戦国時代の文化、武家文化を海外に伝えたいなぁと思っています。 足利将軍家の本について書いています。(学術書) 足利家の時に、武家文化が出来上がっていきます能だったり、茶の湯だったり、連歌だったり出来上がっていきます。 もう一つはSHOGUN2、これに力を入れたいです。 戦国時代を英語で小説を書いて、11000ページで6冊の構想を持っています。 武家文化の素晴らしさ、深さを海外に伝えたいと思ってます。


2026年4月10日金曜日

2026年4月9日木曜日

勝木俊雄(森林総合研究所九州支所主任研究員)・「朗読で味わう桜の春~前編」

 勝木俊雄(森林総合研究所九州支所主任研究員)・「朗読で味わう桜の春~前編」

森林総合研究所、昔の林業試験場です。 森林に関わるありとあらゆることを研究する研究期間と言うことになります。 DN Aを解析して桜のルーツを探る分類、最近は樹木医と言う制度にもかかわっています。 赤瀬川原平さんの「仙人の桜、俗人の桜」と言う作品。 赤瀬川原平さんは1937年のまれ美術家であり、作家であり、一時漫画も書いていました。 2014年に亡くなりました。

「仙人の桜、俗人の桜」

「日本は桜の国だ。 春になると南から桜前線が攻め込んでくる。・・・みんな弁当を作りござを用意し、酒ももちろん買い込んで仲間と連絡し合い集結地点を確認する。 ・・・先行隊が場所を確認して本隊が来る・・・桜前線が北上してくるとほとんど日本中が戦争状態に突入する。・・・歳をとると、どうしても日本人になって来てしまって、気がついたら満開の桜の下で酒を飲んでいる。・・・。私もそうだった。・・・私は理屈の方から桜に近づいたんだ。馬肉のことを桜肉と言う。露店で客のふりをして騙すのも桜と言う。

・・・正面からドーンと吉野の桜を見に行こうと言うことになったのだ。・・・私のお花見体験は幼稚園の頃だった。九州の大分にて護国寺神社のお花見だ。・・・大人たちはビールをうれしそうに飲んでいた大人の会話ばかりで面白くはない。・・・吉野の桜と言うのは、吉野山の下の方から下千本、中千本、上千本、奥千本とあって、下からだんだん1ヵ月ぐらいかかって上まで咲いてるらしい。・・・全貌の見渡せる現場へ出て行った。これが吉野桜川と言う感慨を持って見とれてしまった。・・・向こうから見せられると言うより、こちらがその美しさを見つけることでその見つける喜びを味わせてくれる。

その帰り電車に寄って大阪に帰る。大阪には造幣局があり、その中に桜並木がある。満開時にはその桜があまりにも綺麗なので、やむを得ずその並木道だけを一般公開する。俗に言う造幣局の通り抜けだ。・・・造幣局の八重桜なのだ。・・・枝にも所々短冊が下がっている。見ると、市民の寄せた俳句らしい。「念願のあなたと共に通り抜け」「嫁ぐ日を間近に控え通り抜け」とかろいろあって飽きない。・・・どことなく吉野のお花見と似ているんだと思った。・・・1つ共通点がある。どちらも酒を飲む人がいない。宴会の桜ではないのだ。・・・片方は仙人の桜で、片方は俗人の桜、それが酒抜きで似ているのが妙である。・・・俗人の俗が、なぜ人偏に谷なのだ。・・・反対は何だろうと考えた。俗人の反対仙人である。・・・字をよく見ると、山の人だ。俗人とは、谷の人なのだ。・・今回私は仙人のお花見をして降りて、俗人の桜を通り抜ける。・・・」

吉野の桜は、平安時代からの有名な桜の名所と言うことになります

生物学的に見たときには、日本にはわずか10種しかありません。 吉野の桜は基本的に山桜です。 霞桜、江戸彼岸と言うのもあります。 最近ですとソメイヨシノも植えられています。 ソメイヨシノ河津桜などは、ほとんど栽培品種で人が作り上げたものです

馬場あき子さんの「神代桜」

馬場あき子さんは、1928年の生まれ、歌人で文芸評論などでも知られる方です。

「山梨の県西、武川村には日本一の老寿の桜があるとかねてから聞いていた。土地の人は樹齢2000年と言ってるがひょっとすると日本以前から立っていたことになるわけである。 ・・・開闢以来だから神代桜と言うんですとこともなげに言って、たちまち案内してもらう約束が成立した。・・・甲斐の神代桜が生きた時代も多分「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」や「木花知流比売(このはなのちるひめ」があゆみ佇むにふさわしい農耕大地の広がりが豊穣への期待感がともにある。

・・・日本一の桜は、本堂の左手奥に、どっしりとわだまかる巨体を臥竜のように横たえていた。幹があまりにも太いので横たわったように見えるのである。・・・周辺から伸びた枝えだは、支柱に支えながらも枝先まで隙間なく花をつけている。色は、やや白っぽいが 七分咲きの花はまだ気力のある艶を漂わせ、想像を超える年月耐えてきた落着が、おのずから風格をなして、誠に静かに自然であった。・・・神代桜は、そんなことには一切関わりなく、ただしみるような静かさでたたずんでいた。私は巨大な老樹の花びらが、折々、ひんやり冷たく、顔に散りかかる下に立って、この桜の年月が今日まで何の由来も歴史も持たず過ごしてきたことに、いっそう清らかな感銘を受けた。・・・

甲斐の神代桜には、ただこの山あいにしっかりと生きた膨大な年月があるだけだ。その年月を人間の側から見るのではなく、桜の命の側から見たなら、そこには多分並々でない激しい戦いや生のドラマがあったに違いない。・・・恐ろしいまでの生の時間は、もはや人間の生の時間との比較を超えてしまっていて、なまなか感想を許さない力を持って、我々の前に立ちはだかっているのであった。」

近くで見ると、樹木と言うよりもゴツゴツしたい岩があると言うそんな感じです。

桜前線は正確に言うと、沖縄では寒緋桜、北海道札幌より北では大山桜、鹿児島から札幌の間はソメイヨシノで観測しています。 ソメイは現在の巣鴨のあたりに染井と言う村がありました。 江戸時代に園芸の里でした。経緯はよくわかりませんが、ここからソメイヨシノが広がったということです。

木内昇さんの「染井の桜」

「(侍から)、植木屋になってから、徳造が最も精を出したのが儲けることでも店を広げることでもなく、これまで誰も作ったことのないような変わり咲きを生み出すことだった。・・・桜ばかりにこだわった。・・・庭ではなく景色を作りたいと思ってね。彼は暇を見つけてはほうぼうの山桜を見て歩き、よさそうな品種を見極め、その枝を持ち帰って継ぎや挿し木にした。・・・すべてを桜につぎ込んだ。・・・早いとこいい桜が見つかるといいんだがと静かな笑みを浮かべた。良い姿メッケルんだよ。・・・

徳造が江戸彼岸と大島桜を掛け合わせた変わり咲きの桜を見っけることを成し遂げたのは、それからさらに5年が過ぎた頃のことだ。 葉が出るより先に泡雪に似た花が枝をほぐすようにして咲き乱れる桜を見た仲間たちは、一様に息を飲んだ。徳造の桜は吉野桜と言って呼ばれ、すぐに評判となった。移ろうからはかないから美しい。一斉に咲いて見事に散る様が際立っているその桜を、江戸の人は、自らの生き方になぞらえて、めでた。 ひとひらひとひらが風になって、吹雪に似た風情を作ることも、人々を魅了してやまなかった。」

ソメイヨシノの種類としては、江戸彼岸と大島桜の種間雑種と言う事ははっきりしています。人が人工交配したものではないと私は思います。江戸時代は人工交配の技術は日本にはまだないです。 あったものを人が接ぎ木で増殖している。ここに明らかに人為的な様子があります。


2026年4月8日水曜日

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

 30年近く前、五木さんの「大河の一滴」と言う本がベストセラーになりましたが、最近その続編とも言えるべき本を「最終章」と題して綴り話題となっています。 今朝はご自身の最近の健康や生き方について語っていただきます。

「大河の一滴」がもう30年近くになります。 今93歳ですから考えてみると随分昔ですね。 今回は「最終章」と言うタイトルをつけました。 この「最終章」と言う本に対しては読者カードがたくさん来ています。 読んでいて感動しました。   はがき1枚の中にびっしりと感想とか自分の体験を書き込んでいます。  それだけ生きるということがそういう問題に対して、ある種の切迫感というか、何か思い出が深いんじゃないかなぁと思います。 

今回は大河の流れに逆らう事があってもいいんじゃないかと言うことが書かれていますが、最初は自分の一生と言うものを大河の流れに例えて、再生の海へ流れていくと言う身を任せるという感じの内容だったと思います。 今度は割り合いそうじゃなくて、生きることに執着するというか、ちょうど書いてた時に体に異変があって放っておこうかなと思ったんですが、やっぱりちゃんと生きようと、人は1日でも2日でも生きようとする、そういうことに執着しなければいけないと言う、そういう気がして、逆らってと言うよりは、安易に身を任せないと言う、そういう時は或るときには逆流し、ときには渦巻いて、迂回していくと言うことがあったとしても、大きな流れで言えば、人間の一生と言うのは、大河の流れのように再生の海へ向けて流れ込んでいくと言う、それは変わらないんですけれども、身をまかせせてしまってと言う様にはいかない、というのがこの本のきっかけです。

「長く生きられなかった人のために生きていく。」(本の中の一文章)      人は何で生きるのかと言う、生きなければならないのか、生きることに執着するから生きるんではあるけれども、今の世界を見ていろんな思いがありますね。   世の中には11日を元気に生きようと思いつつも、もそれができない人がたくさんいるじゃないですか。 そういう人たちのことを考えると、ちょっとした病気でもまぁいいかと言うような安易な感じで身をまかせると言うのができないと言う気がして、生きるための努力と言うのはしなければいけないんじゃないかと思って、「大河の流れに逆らって」と言う見出しが出てきたわけです。  

生きんと欲しつつ、きんと切実に望みつつ、それあたわざる人々のために安易に自分の生を放棄してはいけない。  ある程度は生きると言うことにこだわらなければいけないんじゃないかなと思います。 30年前近くに書いた「大河の一滴」とはそこがちょっと違います。 母親は九州の田舎の山村出身ですが、福岡の女子師範学校を出て、教師になって、小学校の教師を長く勤めながら戦後の混乱の中でなくなりました。彼女の夢は今から思うと笑えるような話ですが、一遍でいいから東京にいってみたいとう思いでした。

歳を取るに従って、運命に身を任せると言う気持ちになってくるじゃないかと思うんですが。 歳をとっても生きることに執着しなければと言うふうに今は思ってます。 何のためにではなく、誰かのために生きると言うことが、この歳になって浮かんできました。 人々の果たしざりし夢を自分が背負っているという様な実感がしたものですから。

ロケで訪れたガンジス川に母親の遺髪を流しました。 僕のセンチメンタルな思いです。 たくさんの人が沐浴とか、いろいろやっていて川濁ってるんですね。   上流に行くと青々として美しくてびっくりしました。 母親の葬式は正式にしなかった、出来なかったので、遺髪をお寺に収めようとは思っていました。 「燃える秋」と言う小説、場所がイランです。 古い都を舞台にしたストーリーです。イランはペルシャ語です ペルシャ絨毯に魅せられて尋ねていく女性と、若い商社員の恋人、男性がいて、その男性は手織りの絨毯のデザインをコピーして、機械で大量生産するようなアイディアを持ってきたと言うことがわかって、恋が壊れると言う話です

*「燃える秋」 作詞:五木寛之、作曲:武満徹、編曲:田辺信一、唄:Hi-Fi Set

日本でいうと京都、奈良のような古い都が燃え上がるという、何十年か前のイメージが現実のなるとは夢にも思っていなかったですから。

80代の半ばまではほとんど病院に行きませんでした。 80代後半を過ぎてあちこちが悪くなって、最近ではちょくちょく大学病院に行くようになりました。     2年ほど前に咽頭癌の気配が出て来て、放射線治療によって半年位ですごく良くなりました。 再発の恐れがあると言うことで、何ヶ月にいっぺんぐらいは行くことになります。 左足が変形性膝関節症にもなって、杖をついて歩くようになってきました。  連載とか8本ぐらい抱えてます。 それを毎日こなしながらやっています。

*「鳩のいない村」 作詞:五木寛之  歌:藤野ひろ子

ベトナ戦争のことで、平和を願う歌。

ここの所一日も休まず仕事をしています。 文章を書くことが大事ですけれども、生きた人間の会話、人間の本音が出るようなそういう対談を大事にしています。 活字になった対談だけで650位になりました。 全部で1000人ぐらいの人と対談してると思います。 人と本音で語り合うと言う事は大事なことだと思います。






2026年4月7日火曜日

関根勤(タレント)              ・「古希を超えても果敢に挑戦!」

関根勤(タレント)              ・「古希を超えても果敢に挑戦!」

 関根勤さんは1953年東京都出身。 大学3年生の時、民放テレビ番組の素人コメディアン道場で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンになり芸能界デビューしました。 その後数々の舞台やバラエティー番組で活躍します。

72歳になりました。 芸能生活去年で50周年を迎えました。 後輩から挑戦するように言われて、落語がいいかなぁとちょっと思いました。 春風亭小朝師匠の弟子の蝶花楼 桃花さんと言う師匠に仮の弟子入りしました。  人情話をやろうかなぁと思いました。 「徂徠豆腐」と言うものでした。 江戸中期の荻生徂徠と言う学者の若き日の苦労話です。 去年の正月に稽古をつけてもらって、親子会をやると言うので、師匠とやることになりました。 新作落語も自分で作ると言うことを考えました。 頻尿での苦労話についてつくりました。 フィクションは1割位です。   親子会の親は桃花さんです。名前も「かんこん亭きん太」とつけてもらいました。

5週抜きの番組では、一生懸命がんばりました。 大体3分ですが、ネタを作ってがんばりました。 芸能界でやる気ないかと言う誘いがありました。 プロで通用する事はないと言いました。 消防署員になるつもりでいました。 コント55号を育てた浅井が君の才能を保証すると言われました。 大学3年生だったので、1年余裕があると思ってとりあえず入ってみました。 学生時代は目黒5人衆ということでやっていまして、そのうちの1人が柳家小ゑんさんです。 

小学校の頃から明るい少年でした。 周りにも面白い人がいっぱいいました。   萩本欽一さんの事務所で6年ぐらい経った頃、小堺一樹君と組んで、まずはテレビとか出る前に小さい劇場で修行しなさいと萩本欽一さんから言われました。    下北沢にスーパーマーケットと言うライブハウスがあって、そこでは夜の10時から12時までただでと言うことで、毎週金曜日にビットナイトコンサートをやってました。 まずはテレビであんまり出てない小堺から使おうと言うことになって「ちゃんのどこまでやるの」に出ました。 

ちゃんがアドリブ言った時に、上がってしまって小堺君が落ち込んでました。 その時に萩本さんが「俺はねー上がらないやつは信用しない。いいんだ。」と言いした。 でもまた上がったりしましたが「いつまで上がってるんだ。」って言うふうに言われました。 黒子の役があってそれが受けました。 僕は新わらべの時に入りました。 高校1年生の役、ラビット関根から関根勤に名前を変更して、小坂くんと黒子の役をやりました。 そこで以前はカマキリ男の役であまりイメージが良くありませんでしたが、ガラッと変わりました。 それで一般の方にも受け入れられるようになりました。

35歳の時に、カンコンキンシアター 、クレイジー・キャッツが好きでした。     シアターアップルでやっていましてシアターアップルが壊れるまでやっていました。 元気でずっとやってこられたのは好きだったからじゃないですかね。    ラジオも40年位やってます。 舞台もやってますけれど、舞台もやっぱり楽しいです。  健康法はゴルフは好きで毎週1回ぐらいやってます。タバコは吸いませんし、お酒は飲めません。体質です。 

62歳の時に小坂くんのレギュラーの番組があって、医療関係のことをやっている番組でした。 2人が心臓に特化した検査機関があって、心臓だけを検査する病院がありました。 そこにリポートできました。 検査結果は本番で発表することになりました。 翌日私はゴルフ行きました。 そうしたら再検査をお願いしますと言う電話がかかってきました。 造影剤を入れてより詳しく検査することになりました。  62歳の男性を無作為に100人選んだ中で、上から4番目に悪いですと言われました。冠状大動脈が細くなっていると言われました。精密検査で7割は詰まってると言われました。 

即手術をやることになりまして、ステントと言う金属の輪を入れることになりました。 1日入院で終了しました。 翌日はもう仕事をしてました。   そのまま手術もしないでいたら2年に以内に何かがありましたよと言われました。(最悪は死に至ると言う。) その後、食事などに気をつけるようになりました。 血糖値が高くて3ヶ月に病院に行くようにもなりました。カンコンキン37回目でとりあえず40まではやろうと思っています。 そこで元気だったらまた80までやろうかと思ってます。

2026年4月6日月曜日

対馬千賀子(料理家)            ・「師に学んだ日々の食事は、命の源」

対馬千賀子(料理家)         ・「師に学んだ日々の食事は、命の源」 

対馬さんは1972年生まれ北海道東北部の江差町出身。 高校卒業後料理家への道を進み、高い技術が求められるフレンチのシェフとして5年ほど修行の日々を送ります。 その後対馬さんは次に学びたいと選んだのは家庭料理でした。 手塩にかけた家庭料理の数々やスープの魅力を伝えていた、料理家の辰巳芳子さんとの出会いが大きな転機となったといいます。 対馬さんは30歳の時に辰巳さんの内弟子になり、17年間生活を共にしながら、日々の料理と向き合い続けました。 辰巳さんの思いを受け継ぎ、料理の真髄を伝え続ける対馬さんの人生を伺いました。

スープ教室に習いに来る方は、中高年の女性の方が多いです。少ないですが、若い男性の方も来ます。 辰巳さんのスープは、命のスープと呼ばれ、嚥下障害を持つ方や終末期の患者に食の喜びを伝えたいと言う思いで考案してます。 生きる力を引き出すとして各地の緩和ケア病棟でも採用されています。 辰巳先生の味は基本的に優しい味がします。 素材の味を生かしたスープなので、なるべく新鮮な良い状態のものを使って作ると言う事はまず第一です。

私の生まれは、北海道の江差町で牛の数の方が住んでいる人間よりもはるかに多いところです。  4人兄弟の末子です。  小学校の時に担任の先生が家に呼んでくれて1泊すると言うことがありました。  そこで米を研いだ記憶があって、それからです。  家に帰っても米を研ぐことをずっとしてました。 中学を高校の頃は、ケーキをよく作って親に食べさせたりしました。 

高校卒業後、料理の専門学校へ進みながら、ホテルの調理のアルバイトをしました。 高校卒業後、就職を希望したのが、札幌の有名なフレンチ店でした。    世界の料理コンクールで金賞受賞したカリスマシェフがいました。 そこを希望しましたが、ダメでした。 札幌のホテルに就職しました。 この一皿を1番良い状態でお客さんに出したいと言う事を考えて料理してるので、本当に気が抜けませんでした。  基本のことを何でもない日常のものが美味しく作れる人になりたいと言う希望だったんですが、仕事が忙しすぎて、そういったことができませんでした。5年で路線変更をしました。

辰巳先生との出会いはありましたが、その時先生は77歳でした。 辰巳先生の本にも衝撃を受けました。 基本がしっかりしているところだと思います。      先生の「白和え」は、白和えのもとを作って、馬毛のこしで2回こします。    最後は絹目のこしでこします。 出来上がりはクリームのようにとろとろです。 

先生の紹介で、最初の2年間は大分の旅館で勉強しました。 月に1回辰巳先生の鎌倉の教室があって、そこに大分から通いました。 辰巳先生が79歳私が30歳の頃に内弟子となりました。 内弟子としての日々について、2025年に「あるべきように辰巳芳子の長寿の食卓」と言う本を出版しました。 辰巳先生の食べた一年間の記録と季節ごとの旬の食財を使ったレシピ、自分の17年間学んだこと、心に残った言葉などが書かれています。 普段の辰巳先生とはこういう人ですという事を書いておきたいなと思って書いた、はじめての本です。  私から見た辰巳先生というのをこの本に書いておきたいなと思いました。 

先生は本当によく人のことを観察する人でした。 心理学を学んでいた時に観察、記録し、分析する。 人だけではなくて、食材にも向かいました。 向こうがおいしいよって言ってるのを目で見ると、それがわかると言っていました。 その人のために怒れると言うのは、逆に言うとすごいことだと私は思います。 先生は常々愛すると言う事は、その対象に対してより良くことを願うこと、と言うふうに話してます。 料理に言えば、食材についても同じことで、そのものはより良くなるように手をかけよ、と言うことと一緒だと思います。 

人の言葉や行動は、その人そのものをまとっている。  私も好きな言葉です。  気づきのある人になれると、生きていきやすい、人が生きる上でいろんなことがありますけれども、それを乗り越えるたびに気づきのある人と言う事は、常々先生が言われてる言葉です。 料理をしていると考える力が育つと思います。 色々段取りを考えないといけない。 違う事でも想像できる。 辰巳先生は、料理を通して皆さんに伝え続けていたんではないかと思います。 

特に出汁は先生は大切にしてました。 日本料理の中の基本中の基本だと思います。 手間ひまをかけると言うことを考えると大変になってしまいます。 手間ひまをかけると言うよりは、そうしなければいけない。 そうしたら美味しくできると言うふうに自分の考え方を変えた方がいいじゃないかと思います。  そうすると体に良いしおいしいものができます。 そう思ってやることが大切だと思います。   段取りを自分の中に作ってしまうと、実は出汁ってそんなに大変ではないです。 

辰巳先生の弟子なって25年になります。 自分自身を支えるのは食べることと言う意識が根底から変えられました。 今、教室をいろんなところで行っているので、先生のスープは病気の方から小さなお子さんまで飲むことができる貴重なスープなので、それを絶やすことなく、私が習ったままの形で皆さんに伝えていくと言うことを続けていきたいと思ってます。 辰巳先生は、私にとっては、偉大な尊敬する方で、今後も長く私たちを見守ってほしいと思っています

2026年4月5日日曜日

林康夫(陶芸家)              ・「98歳 陶芸家が作品で伝える戦争と311」

 林康夫(陶芸家)       ・「98歳 陶芸家が作品で伝える戦争と311」

林さんは、戦後京都で結成された前衛陶芸集団「四耕会」の創立メンバーの1人で日本の前衛陶芸の第一人者です。 この前衛陶芸と言うのは皿や器、花瓶といった実用的な陶器ではなく、オブジェを作ると言う新しい表現です。  林さんの作品は海外の展覧会で、数々のグランプリを受賞するなど高い評価を得ました。   イギリス大英博物館にも所蔵され、現在開催中の展覧会にも出展されています。 林さんは太平洋戦争で海軍航空隊に入隊、特攻隊に志願しましたが、出撃前に終戦を迎えました。 作品には戦争や思考体験が反映されいるといいます。 そして2011年の東日本大震災が創作活動に大きな影響を与えました。 その記憶を後世に伝えるべく、新たな作品を生み出した林さん、作品で伝えたいものは何か、人生と合わせてその思いを聞きました。

自分で生きてきたと言う感じはなくて、生かされてるいるんだなぁという感じがしてきます。  同級生はもうほとんどいません。 友達に電話をかける場所がありません。  パソコンでメールのやりとりをやってます。 昭和3年に陶器を作っている家に生まれました。 父は林沐雨と言って、京焼職人で伝統技術保持者、焼き物で成功していた人です。  焼き物は概念から嫌いでした。 絵描きになりたいと思ってました。 小学5年生の時に担任の先生が入院しました。 お見舞いに行こうと言うことになって、父に言ったら枝に小鳥が止まっている置物を持ってきました。これを持ってくように言われました。初めてうちは陶器屋なのかと思いました。

美術工芸学校で日本画を学びました。 目標は横山大観とかそういう方向でした。小学校3年生の始まりの時に、父が陸軍幼年学校の入学試験の願書持ってきました。 陸軍の訓練の状況を見ているので嫌でした。 ミッドウェイ海戦で海軍が半分なくなってしまいました。 美術学校にグライダー部を作ると言うことになりました。加山又蔵もグライダー部に入りました。 グライダーの面白さを体感しました。軍国主義の時代でした。 海軍航空隊の余暇練に入って、操縦を学んで特攻の志願兵として応募して受かることができました。毎日編隊飛行始まりました。 250キロの爆弾を機体に溶接します。 特攻隊としての準備をしていたら、終戦を迎えることになりました。 絵描きになるしか生きる道はないと思いました。

父は焼き物で手榴弾を作る会社に行っていましたが、失業してしまいました。 私は絵の学校に行きましたけれども、お金が続かないので、辞めざるを得ませんでした。父は焼き物もやるから手伝えと言うことになりました。 積極的に焼き物もやるようになりました。  どんなしんどい仕事でも海軍よりはマシだと思いました。  1年ぐらいしたら展覧会が始まりました。 2年先輩の人から「四耕会」に入らないかと誘われました。 1匹狼の集まりみたいなところでした。 自分のやりたいことをやろうという感じです。 

前衛絵画をやっている人がオブジェの概念を教えてくれたのが面白かったです。 当時は実用的なものは作るけれども、訴えるものはありませんでした。  1948年雲を作りました。 正面から見ると黒い入道雲に見えるけれども、横から見ると女性の人体でした。 1950年に日本の陶芸展がパリへ行きます。 70数点の作品がパリに行きました。 フランスでの評価は、日本の焼き物は技術は確かだけれども、しかし固い、固いという意味はアート性にかけると言うことです。 その雑誌が翌年日本に届きますけれども、保守的な人は激高しますが、その雑誌に4人の名前が挙げられて、その4人の中の1人が私でした。(22歳) 

伝統的なことをやっていた人たちが私らを潰しにかかるわけです。 それから日本の陶芸家のリストには私の名前は入りませんでした。 2011年の東日本大震災がありました。 作品をどんなものにするかいろいろ悩んでいました。 津波の状況をテレビで見て、何も手がつかずになってしまいました。 その止まったままの作品を展覧会に出しました。 6年後に会津若松に行って作品を寄贈しました。 廃屋を見て小さな廃屋を作ろうと考えました。 2年とちょっとで売り上げが200万円位になりました。 このお金を浪江町に寄贈しました。 今生きていることをどう表現するかと言う事は、形式ではなくて精神ですから、精神をどういう形にして今風に、今風のやり方で表現するか、と言うことが作家の仕事ではないかと思います