2024年8月30日金曜日

四世石田不識(琵琶製作職人・人間国宝)  ・ビルの谷間で琵琶づくり

四世石田不識(琵琶製作職人・人間国宝)  ・ビルの谷間で琵琶づくり 

琵琶は1000年以上の歴史を誇る西アジアで生まれた楽器です。 シルクロードを通って中国経由で7世紀ごろ日本に渡ってきたと言われています。 石田さんは昭和12年青森県八戸市の生まれ、昭和28年に宮大工の仕事を始めましたが、琵琶職人の娘さんと結婚して義理のお父さんに師事して、琵琶製作に従事します。 初めての琵琶つくりに苦労しながら、平成18年には無形文化財保存技術と認められ技術保持者に認定されました。

1878年創業、1931年に虎ノ門の場所に移転して90年経ちました。 朝9時から夕方5時まで仕事をしています。 ビルの谷間になってしまいました。 「光る君へ」でも琵琶の場面がありました。 「かっこいい」とは言うけれど「やります」と言う人は滅多にいませんね。 9月に琵琶のコンクールがありますが一般の人は知らないです。 

ここにあるのは薩摩琵琶の五弦です。 四弦は駒が無いんです。 薩摩琵琶は四弦が本当なんです。 鶴田錦史という先生が改良を加えた五弦にして、洋楽との演奏も出来るようにしました。  武満徹さんが曲を作って小澤征爾さんが指揮をして、それが評判になりました。  今は若い人が五弦をやっています。  木は桑の木です。  御蔵島から桑の木を仕入れています。 桑の木はありますが、切って出す人がいないので、ここ7,8年は入ってこないです。  蚕用の桑の木ではなくて自然の木です。 最低でも80年掛かります。 桑の木は10年分ぐらいは家の倉庫にあります。  丸太を買って乾燥させるのには7~10年はかかります。 本当は今仕入れないといけないんですが。  薩摩琵琶なので本来は鹿児島に桑の木がある筈ですがないんです。  御蔵島では切る人が一人居ますが、高齢でもう体力が無いという事です。 一本80~130万円ぐらいします。  こちらから人間を送って旅費、宿泊代などをこちらが持つとなると高額になってしまいます。 

薩摩琵琶は立てて音を出しますが、平家琵琶、楽琵琶は寝かせます。(ギターのように)  楽琵琶は裏がカリンの木で、表は栗の木です。  筑前琵琶は裏は桑の木、表は桐の木です。 音が違ってきます。 筑前琵琶は女性向の音です。 薩摩琵琶は男性的です。    

平成18年に無形文化財保存技術と認められ技術保持者に認定されました。 現在87歳です。 18歳で大工の見習いで東京に出てきました。  琵琶職人の娘さんと結婚しました。 先代の親父さんが亡くなり、琵琶の先生方が琵琶を作らないかと言ってきました。   いろいろなことを先生から教えてもらいました。  接着にはニカワでないとだめという事で、接着の方法も先生方から教わりました。 古い琵琶をばらして、中がどうなっているのか全部調べました。  やっているうちに演奏会にも顔を出すようになりました。  先生の出す音を理解して、段々その音が出るよぅに作って行きました。 音で苦労しました。 

「さわり」、楽器の音色の名前。噪音の一種。音色は楽器によって異なる。 特に薩摩琵琶は、さわり音が強く響くことで知られている。 例えば三味線では、最も低い弦の位置を工夫することで弦に独特のビビリ音が得られるだけでなく、他の弦を弾いたときに同調して共鳴する。この音を「さわり」と呼ぶ。 三味線の「さわり」は琵琶を模したと言われている。 木目によっても善し悪しがある。 木の硬さによっても音が違ってくる。 薄めにしようとか、何面作っても同じ音にはならない。 同じものは絶対できない。 息子が継いでくれると言うので、私は音で苦労したので、息子には演奏を先に習うように言いました。  息子は56歳になります。  演奏者で製作者で修理もできます。 盲僧琵琶を作ってもらいたいという人が来ました。  息子が対応しました。 孫は21歳になりました。    正倉院にある琵琶を再現したいという事で、10年掛かって作りました。 「螺鈿紫檀五弦琵琶」です。 夜光貝も4cm角で厚さが1mmで2000円します。 100枚は使います。 彫ってはめ込みますから、手間がかかります。 もう一回正倉院のものを作って奉納したいという思いがあります。








 

2024年8月29日木曜日

吉良智子(美術史家)           ・〔私のアート交遊録〕 「戦争画」と「ジェンダー」

 吉良智子(美術史家)        ・〔私のアート交遊録〕 「戦争画」と「ジェンダー」

近代日本美術が専門、美術史において女性画家が取り上げられてこなかった時代背景や社会的な理由を長年研究してきました。 吉良さんの著書「女性画家たちと戦争」では、第二次世界大戦中に戦争画の製作に携わった女性画家集団「女流美術家奉公隊」とその作品「大東亜戦皇国婦女皆働之図」を紹介しています。 この作品は女性の画家44人による共同制作で、田植えや養蚕、砲弾の生産など42の労働現場が」描かれています。 戦前女性の美術教育や美術団体への参入は、男性よりも制限され描く対象も花や生物がふさわしいとされてきました。 そんな女性画家の絵の対象を広げたのは、皮肉にも戦争でした。 美術史の中で女性画家が取り上げてこなかった理由は何か、どんな時代背景があったのか吉良智子さんに戦争の時代のアートとジェンダーの関係についてお話を伺いました。

近代日本美術史、ジェンダー史を軸にした女性画家の研究、これをテーマにした動機ですが、大学2年生の時に受けた女性論があり、女性は結婚をして子どもを産んで生きてゆくというのが女性に課された人生というわけではなく、社会や歴史からの要請によってなった、という事を始めて知りました。 真剣に考えてみたいと思いました。 大学3年生の時に参加したゼミが、アートとジェンダーをテーマにしたものでした。 ここからの出発でした。 戦後50年という時期でもあり、戦争に関する美術作品が出版され始めました。 有名な画家が戦争画を手がけていたことも知りました。 卒業論文に戦争画とジェンダーに選んで、出会ったのが「大東亜戦皇国婦女皆働之図」でした。 

靖国神社に観に行きました。 横が3mの巨大な作品でした。 沢山の女性たちが戦争を支える労働に励む姿が、パッチワークのようにちりばめられていました。  描いているうちの本音が出てしまったという作品だと思います。 悲壮感はそんなに感じられず、色合いもカラフルです。 描かれている女性たちも何となく溌剌としている。 家の中に閉じこもっていた女性たちが外に働きに出て行って、ある種の解放感も感じられる。 砲弾、落下傘を作って居たり、養蚕、田植え、日常生活などが描かれている。(ほとんどが女性)     制作に参加した桂ユキ子が下絵を担当。「当時の新聞、雑誌、グラフ類には、働く銃後の女性をテーマにした、「戦時下に働く農村女性」、「女性消防団」「女子学生旋盤工」、「女子踏切番」その他さまざまな仕事をしている女性の写真がよく載っていたので、その写真をただ切りとって、大きな紙にベタベタ貼りつけたら、たちまち絵ができちゃったという事です。

参加した画家数名の方にインタビューしましたが、テーマは頑張っているという事を示したかったと言っています。  それまで女性画家は上品な婦人像、かわいらしい子供達、花などでした。 女性画家集団「女流美術家奉公隊」が生まれた背景は、東京美術学校(芸大の前身)では女性の入学資格はなかった。 私立美術女子学校(女子美術大学の前身)が作られて、画壇にデビューしても女性は中々地位が上がらなかった。 当時は結婚して子供を産んだら、筆を折るという事が当然のようにあった。 陸軍からの依頼があり、働く女性の絵も描いて欲しいという事でした。 評判については資料等が出て来ていません。 1943年2月25日、洋画家の長谷川春子を委員長として女流画家による「女流美術家奉公隊」が結成されます。 三岸節子も加わっています。 

年齢もバラバラで所属団体もバラバラだったので、一つにまとめるという事が難しかったと思います。 パーッチワークのように描かれている。 数人の方と話を聞くことが出来ました。 「女流美術家奉公隊」は終戦を機に自然消滅しました。 戦後、長谷川春子が女流美術家協会を、三岸節子が女流画家協会、二つの大きな団体が出来ました。  時を経て女流美術家協会はなくなって行きました。 「ジェンダー」に関しては一歩でも二歩でも進んで、社会的な状況を解決するために考え続けていきたいと思います。 桂ユキ子の「大きな木」がお薦めの一点です。









2024年8月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 山田太一

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 山田太一

代表作に「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などがあります。

「仕事をはみ出さない人間は俺は嫌いだ。 靴屋にカバンを直してくれと頼みに来たら、お前なら断るか。 直してやるのが人間というものだ。 困っている人間を目の前にして、俺は靴屋だからカバンは直さんといっているのがお前たちだ。 仕事からはみ出せない人間に生き生きした仕事などできん。 はみ出せ。 範囲などはみだせ。 それが人間の仕事ってもんだ。 はみ出さない奴は俺は大嫌いだ。」  

 山田太一はテレビドラマのシナリオライター、小説家、劇作家として沢山の作品を残しています。 テレビドラマの代表作に「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「想い出づくり」「ふぞろいの林檎たち」「早春スケッチブック」など、小説の代表作に「飛ぶ夢をしばらく見ない」「異人たちとの夏」などがあります。 

私(頭木)は6年間山田太一を取材しました。 226回になります。 冒頭の言葉は「男たちの旅路」という1970年代から1980年代にかけてNHKで放送されたテレビドラマの第二部第一話の「廃車置き場」の回のなかのセリフです。 警備会社が舞台で、女性の悲鳴らしき声が聞こえたのに、警備の範囲の外だったから駆けつけなかった。 それで怒るんです。 私(頭木)は病院で物凄く痛い検査で手を握ってくれた看護師さんがいて、凄く助かりました。 その看護師さんは自分の仕事をはみ出して、当たってくれたわけです。 自分の医師の範囲以外、身体全体のことまで気にしてくれる医師もいます。

「ひとに迷惑をかけるなというルールを私は疑う事が無かった。 多くの親は子供に最低の望みとして、ひとにだけは迷惑をかけるなと言う。 飲んだくれの怠けものが、俺はろくでもないことを一杯してきたが、人様にだけは迷惑をかけなかったと自慢そうに言うのを聞いたこともある。  ひとに迷惑をかけないというのは、今の社会で一番疑われていないルールかもしれない。  しかしそれが君たちを縛っている。 一歩外へ出れば、電車に乗るのも、少ない石段上がるのも誰かの世話にならなければならない。  迷惑をかけまいとすれば、外へ出る事は出来なくなる。 だったら迷惑をかけてもいいんじゃないか。 かけなければいけないんじゃないか。 君たちは普通の人が守っているルールは自分たちも守ると言うかもしれない。 しかし、私はそうじゃないと思う。 君たちが街へ出て電車に乗ったり、階段を上がったり、映画館へ入ったり、そんなことを自由にできないルールは、おかしいんだ。 いちいち後ろめたい気持ちになったりするのは、おかしい。 私はむしろ堂々と胸を張って迷惑をかける決心をすべきだと思った。」 「男たちの旅路」の第4部第3話の「車輪の一歩」の中からの言葉。 車椅子の青年に向かって吉岡が言う言葉。 

自己責任とか人に迷惑をかけるなという事が今一層激しくなってきている。 人は基本的に一人では生きられない。 

「君たちは独立自尊をよく口にする。 しかし人ははたして自分一人でよく独立を保てるだろうか。 沼に沈まんとする人間が自分の髪を引っ張って、沈むことを止めうるであろうか。 西田さんは良き自立は良き相互依存に寄らなければならないことを教えてくれました。」  「日本の面影」(ラフカディオ・ハーンを主人公にしたドラマ)の中のセリフ。

何かあった時にひとに頼れる、だから安心なんです。 お互いに迷惑をかけるのは当たり前というのが広まってくれるといいなあと思います。 

「若い者はおとぎ話を本気にします。 国のために戦って勇ましく死ぬのも悪くないと思うでしょう。 国の為に死を決意する。 国の為に命を捨てる。 本当にそうだったんすか。 一部の思いあがった指導者の為に苦し紛れに考え出した無茶苦茶な攻撃方法の為に、どれだけの若者が死んだか、日本人が死んでいったか、いや殺されたと言ってもいい。 本人はともかく、残された家族は一体どうなるんですか。 それがそれが貴方の言っている勇ましい事ですか、勇気という事ですか、私はそうは思わない。 あんな思いは2度と繰り返しちゃいかん。 今現在、戦争なんて言うもんは絶対やっちゃいかんと大声で叫ぶのは、いや叫べるのは現実に機関銃を撃って戦って来た我々じゃないんですか。  戦争を経験したものが、歳をとってきてその思い出を美しゅう語ろうとしている。 そんなことでなく、風向きが戦争に向き始めた時、私たちは何の歯止めにはならない。」  「男たちの旅路」の「戦場は遥かになりて」という最後に放送されたスペシャル版からの言葉。(吉岡のセリフ)

戦争についてノスタルジックにヒロイックに息子に聞かせる父親がいるんですね。     「今の若い奴はわびしい。 自分の安全ばかりを考えている。 昔の俺たちはそうじゃなかった。 俺たちは国のために命を張った。 死ぬことをただ避けようとは思わなかった。 眠くなるとお互いを殴って頑張った。 自分のことなど少しも考えてなかった。 国のことだけを考えていた。」  そう話す父親に対して吉岡は「本当はそうじゃなかった。」というんですね。

吉岡を演じている鶴田浩二は学徒出陣で実際に誠一に言った経験があるんですね。 山田太一は終戦の時に小学校5年生で、戦時中戦後を体験した。 

「戦争がどういうものか、それは空襲の中を走ったり、肉親の死を見たり、生と死の堺を吉抜けたり、竹やりで戦う決心をしたり、恋人と引き裂かれるような別れ方をしたりすることであるより、なにより、食べ物や物の極端に不足した日常に耐えることであり、隣人達の醜さを見る事であり、体制に従順な圧倒的な多数の者たちの異端な人間に対する容赦のなさを知る事であり、力を持った者の居丈高、国家の有無を言わせぬ強権など、思い知る事である。」  小説「終わりに見た街」の中の一節。

監督伊丹万作(伊丹十三の父)も同じようなことを書いています。

「少なくとも戦争の期間を通じて、誰が一番直接に、連続的に我々を圧迫し続けたか、苦しみ続けたか、という事を考える時、誰の記憶にもすぐ蘇ってくるのは、すぐ近所の小商んどの顔であり、隣組長や、町内会長の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配球機関などの小役人や雇員や労働者である、あるいは学校の先生であり、と言ったように我々が日常的な生活を営む上において、いやでも接触しなければいけない、あらゆる身近な人々であった。」  

山田太一は自分自身でテレビドラマ化して、2005年にリメークしている。(山田太一は基本的にリメークはしないが。)  

「男の人はほんのすこし私たちの身になってみればいいと思う。 25,6歳になっても結婚しないでまるでどこかに欠陥があるかのように言われ、ちょっと結婚に夢を描くと高望みだと言われ、男より一段低い人種みたいに思われ、男の人生に合わせればいい女で、自分が主張すると鼻持ちならないと言われ、大学で成績のいい人も就職口が少なく、あっても長くいると嫌われ出世の道は凄く狭くて、女は結婚すればいいんだからのん気だと言われ、結婚以外の道はほとんど閉ざされて、その上いい男が少ないと来ては、暴動が起きないのが不思議な躯体ではないでしょうか。 少しぐらいはひとの身になって貰いたいわと私たちは思うのです。」    テレビドラマ「想いでづくり」の中の言葉。

女性側の気持ちも描いている。 今ではだいぶましにはなっているが、根本的な問題は解決されていない。 

「貴方が夢中になっているのを、どっかで喜んでないの。 心から応援していないの。 いいなあ、好きなことに夢中になっていて。 私は営業をやって、店番して、税金やって、おばあちゃんの世話をして、PTAに出て、全部そんなこと好きな事じゃないもの。」   テレビドラマ「懐かしい春が来た」  夫が成功したことで妻をねぎらうが、妻から返ってきた言葉。

「高原にいらっしゃい」というドラマで、一流のホテルマンが理不尽に職を追われて、酒におぼれて妻に暴力をふるうよぅになる。 妻は家を出る。 男は酒を断って高原のペンションを成功させようと奮起する。 部下がそのことを伝えに行く。   以下に妻の言葉。          「喜んで私が戻らなくちゃいけないの。  あの人は立ち直れば私が又一緒に暮らすと思い込んでいるのね。 あの人はこれでもかというように、私の気持ちを踏みにじったのよ。   私だって生きているのよ。 新しい人生を歩き始めているのよ。」

思い込みと実際は違うんだという事を山田太一は突きつけて来る。

「ありきたりなことを言うな。 お前たちは骨の髄までありきたりだ。 一体お前らの暮らしは何だ。 どうせ大した未来はないか。 馬鹿いっちゃあいけねえ。 そんなふうに見切りをつけちゃあいけねえ。 自分に見切りをつけるな。  人間ていうものはなあ、もっと素晴らしいものだ。 人間は給料の高を気にしたり、電車が空いていて喜んだりする存在じゃあねえ。 その気になりゃあ、いくらでも深く激しく広く優しく世界を揺り動かす力だって持ってるんだ。」   テレビドラマ「早春スケッチブック」のなかのセリフ。

視聴者に向かっていっている言葉でもある。 

「いつかは自分自身をもはや軽蔑することの出来ないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう。」  ニーチェの言葉   ドラマの発想の元になった言葉。

今のままの自分でいいのだろうか、今のままの生き方でいいのだろうか、と問い直しをしてみることが必要だと思います。 

「なんていう暮らしをしているんだ、と罵声を浴びせる人物が登場するドラマが、皆無と言っていいでしょう。 観る人の神経を逆撫でするようなそんな人物を引っ張り出しても、良い事は何一つありません。 こうやって書いている私だって、そんな人物は不愉快です。」

それでも山田太一は書くべきだと思っている。

「しかし私は私自身に向ける罵声として、そういうものの必要性を感じておりました。 いくつもの家族のドラマを書いてきたライターのやるべきことの一つのような気持ちもありました。」 

視聴率は低かったが、番組を見た人の好感度では、この「早春スケッチブック」のドラマは平均で72,3%も取っている。 心を揺さぶられた。

人生にはマイナスな出来事はない方がいいと思われますが、でも山田太一はそうは思わないんです。 マイナスも又大切だと言っています。 インタビューの中で語っている言葉。

「今の社会はマイナスをなくそうなくそうとし過ぎるのではないか。 人生はプラスマイナス両面から成り立っている。 人間はマイナスによっても育まれるという事に、皆がもっと気付けば生きやすくなる。 マイナスなことが起きるといち早く忘れようとか、乗り越えようとか、思い過ぎている気がする。 暗部と向き合い事もなく適当に自分を偽って生きてしまう。 マイナスの経験をした人は有利です。 していない人は人の気持ちが判らなくなっている。 判っていない事すら気付かずに生きてしまう。」 






























2024年8月22日木曜日

菊田あや子(タレント・リポーター)     ・〔わたし終いの極意〕 終活は人生を謳歌するため

 菊田あや子(タレント・リポーター)  ・〔わたし終いの極意〕 終活は人生を謳歌するため

菊田さんは山口県出身の64歳。 1980年代から朝のワイドショーなどのリポーターとして全国各地を飛び回り、グルメや温泉、旅の情報を明るく伝えてきました。  4年前遠距離介護を経て94歳の母を看取ったことをきっかけに、自身の終活を意識するようになったと言います。 終活は人生を謳歌するために必要な事という菊田さんにお話を伺いました。

父が79歳で亡くなり母が78歳でした。 母は普通にその後暮らしていました。 84歳の頃に熱中症一歩手前のような症状になり、結局は施設に入るしかないという流れになりました。  8,9年最後まで寄り添いました。  或る時に母が玄関で向こうづねを打って、ベッドに倒れ込んでいました。 危機一髪でした。 入院を経て施設へ入ることになりました。 8,9年看取って、人間の一生を、母を看取って判ったんです。   1月7日に亡くなりましたが、12月4日には病院では無理で、この先は栄養点滴もはいらないし、東京のの仕事を止めてこのままいられるなら、明日直ぐ退院できるようにしようという事になりました。   自宅に連れて帰ることにしました。 10日間ぐらいだろうと言われました。 

母とベッドを並べて1か月以上生きてくれました。 濃厚な時間を過ごすことが出来ました。 全体力を使って命を燃やすんですね。 どんどん痩せていきました。 「うわわわわ」と言って、すっと息を引き取りました。 命を使い切った姿だと思いました。  2日前にはそれなりの覚悟はできていました。  納骨など全て終わって東京に戻ってきたら、コロナで仕事も全部止まりました。  私も完全に一人になりました。 終活の検定を身に付けたら、人の晩年について何をしなければいけないか、何が起きるかなどが判り易く書いてありました。 そのまま自分にも当てはまると思いました。  晩年にいろいろな書類を書いたり、相続のことを決めておくとか、家をどうするとか、母は全部何にもしていませんでした。  毎日が終活だと思って、毎日生きています。 

女性の平均寿命が87歳を越して、男性は81歳を越して、母は94歳まで生きました。  60歳の私は母のように逝くなと思いました。  30年独り者で、と驚愕しました。  お墓、葬儀、相続、家の片づけは 体力の有る早いうちにやっておけばいいんです。  生きている時間が人生の最後に向かってゆく活動です。  自分の命を自分らしく生きる。  トータルで終活だと思っています。 ですから毎日が終活です。 エンディングノートは付けてあります。(頭が働くうち)  母を看取って人は死ぬんだという事がわかりました。 後悔しないように生きてゆく、今は毎日を生きることに一生懸命です。 

終活をきちっとやろうと思った時に、最初にやったのは断捨離でした。 手の届くところに使いやすいものを置く。 お中元、お歳暮の断捨離は何年も前からやっています。(人の断捨離)  年賀状も60歳で辞めました。  「エンジョイ 終活」という本を出しました。  残る人生のモチベーションを上げる12の方法を上げています。           ①片づけをして身の回りのものは好きなものだけ  ②空いたスペースには花を飾る。 ③世話のかからない生き物を大事にする。  ④自分を愛する。 ⑤若い友達の情報も需要です。(AI、SNSとか)  ⑥身体の健康を保つ。 等々。

終活と推し活は並行してできます。 〔わたし終いの極意〕とは最後旅立つ時まで、後悔しない我が人生。  就活と婚活は並行してやっていますが、私は誰か気の合う人と生きていきたいなあと思っています。 お互いの力になる気がしているんです。 










2024年8月21日水曜日

上田 藍(プロトライアスリート)      ・〔スポーツ明日への伝言〕 笑顔のチャレンジャー

 上田 藍(プロトライアスリート)      ・〔スポーツ明日への伝言〕 笑顔のチャレンジャー

上田さんは北京、リオデジャネイロ、ロンドンと3大会連続でオリンピックに出場するなど、日本のトライアスロン女子の第一人者として活躍してきました。 ワールドトライアスロンのレースには231戦に出場、36レースで優勝63回表彰台に上がり、国内では日本選手権では女子最多の7回の優勝と素晴らしい実績を残すとともに、その明るい笑顔で多くのファンを引き付けてきました。 怪我のために選考基準を満たせずに断念した東京オリンピックの後は、オリンピックよりも4倍以上距離が長く、時間も9時間前後かかるという過酷なトライアスロン、アイアイマンレース(鉄人レース)のプロとして世界に挑み続けています。 上田さんにそのあくなき挑戦し、トライアスロンの魅力などを伺います。

9月に世界選手権があります。 スイムが3800m泳いで、180kmの自転車を漕いで、ランが42,195kmのフルマラソンの距離です。 アイアイマンレースにチャレンジしているところです。 フランスのニースで開かれます。  プロのカテゴリーとエイジグルプがあり、5歳刻みで年代別で出場権を獲得したトライスリートの愛好者の方もレースには出られます。 プロの女子では出場権を獲得したのは私一人です。 6月のオーストラリアの大会で7位で時間が9時間6分50秒で出場権を獲得しました。 オリンピックはスイムが1500m、自転車が40km、ランが10kmとなっています。 トータル51,5kmになります。 時間は2時間ぐらいなのでアイアイマンレースでは4倍以上の時間がかかります。 アイアイマンレースでは制限時間が17時間とか16時間の制限時間があります。 完走した人すべてが勝者と言われます。  

3歳からスイミングスクールに通いました。 鉄人レースの愛好者のおじさんたちがスイミングスクールに通っていて、マスターズ水泳がありました。  父が手書き友禅の職人でしたが、マスターズ水泳をしていました。  中学生の頃には家から自転車で25分かけてスイミングスクールに来ていて、助っ人で陸上のメンバーに入ってもいました。 おじさんたちからトライアスロンを薦められました。(中学2年生ぐらい)  両親が手描き友禅で2階が工房になっていました。 小学校でスイミング、お絵かき教室、ピアノを習いました。  絵は家で描けばいいという事でスイミング一つになりました。  絵を描くことでイメージトレーニングにもなるし、やってきたことが今につながることは興味深いです。

父からは「日々しっかりと練習をしていれば、上達して結果が出るから、やりだしたことは最後までやりなさい。」と助言され軸が出来ました。   高校を出て山根英紀さんから指導を受けるため、京都から千葉へ移りました。  オリンピックを目指すようになって北京、リオデジャネイロ、ロンドンと進んでいきました。  オリンピックを目指すという事を言葉に出す事によって、どういう努力が必要で、どういうタイムが必要なのか、段々明確になって行きました。  自分の可能性を最大限に出せた舞台ではありました。  目標を持ったのであれば発言したほうが、周りの方もそこに向けての応援と共に厳しい見方をしてくれるので、やる気が倍増してきます。 

身長は155cm、体重は45kgぐらいです。 世界で戦う選手としては小柄なほうです。 2019年2020年怪我の為に東京オリンピックには出場できませんでした。   2019年3月に開かれた世界大会で、自転車から落車してしまって、肺気胸、脾臓の裂傷、外傷性のクモ膜下出血という大きな怪我をしてしまいました。 病院に行きついた時には肺気胸で肺がしぼんでいました。 肺を膨らませるための手術をしました。 1週間以上の入院をして日本に帰ってきました。  親指ぐらいの太さのチューブを抜いて帰国しました。 穴をふさぐのに左肺の可動域が少なくなりました。  

復帰して6月のワールドカップでは優勝しました。 かばうために足に無理が来ていて、7月のドイツのハンブルグの世界大会のレースの時に足裏が痛いなあと思いながら最後の300mでスパートしたら、パンという音がして足の裏の腱膜の断裂をしてしまいました。  日本に戻って8月にある選考レースには間に合わないと診断されました。 リハビリをして、10月のワールドカップでは優勝しました。  2020年最終選考レースがアブダビで開かれる予定で、ヨシそこでと思っていたら、コロナの為大会が中止になってしまい、オリンピックも延期になってしました。  選考大会では基準を満たせずに日本代表を逃す結果になってしまいました。

パリをめざすのか、いろいろ悩みましたが、私はランが得意な後半追いかけ型で、協力し合いながら勝つ戦略もあり、パリへの流れではスイム先行型の選手が多くて、自分の可能性をチャレンジするには、自転車、ランが得意なロングディスタンスの方に舞台を変えた方が、世界で戦えるのではないかと思いました。 プロのカテゴリーの出場権を獲得できたので、チャレンジャーとしてしっかりやって行きたいです。  試練を乗り越えた時には、試練を受ける前よりは絶対強くなれるぞと、わくわくするんです。  いい時も悪い時にも前向きで過ごすという大切さも、そのたびに学ばせていただいたので、何が起こってもコツコツやっていけば乗り越えられるし、目標に近づくし、やっぱり楽しいんだなと再認識できる。 タフな競技ではありますが、健康に留意して過ごす大切さを私も皆さんも学んでいます。











2024年8月20日火曜日

高橋うらら(児童文学作家)        ・子どもたちへのメッセージを ノンフィクションに込めて

 高橋うらら(児童文学作家)  ・子どもたちへのメッセージを ノンフィクションに込めて

高橋さんは1962年東京都生まれ。(62歳)  児童向けノンフィクションを執筆し、これまでに児童文芸ノンフィクション文学賞などを受賞、自身の作品では障害者問題、動物保護、戦争、環境といったテーマを取り上げ、命の大切さを伝えてきました。 今年4月に出版された「おとうとのねじまきパン」、ずっと昔満州という国であったことが、戦時中開拓団と共に満州国へ渡った家族の実話に基づいた物語です。 この作品を通して戦争を知らない子供たちに今につながる過去を知って欲しいという高橋さんの思いを伺いました。

「おとうとのねじまきパン」の表紙に込めた思いは、かつて満州で暮らされた原和子さんという方の主人公の絵なんですが、終戦後大変な思いをされましたが、その方を判りやすく子供たちに伝えたいという事で、イラストにして描いていただきました。 本当にあったちょっと悲しい物語です。 主人公の原和子さんは昭和11年に4歳の時に東京から満州に渡りました。  父親が役所に勤めていて、結核を予防する活動をしていて、その活動を満洲にも広めようということで、満洲に渡って行きました。 満州は1932年(昭和7年)に日本が中国大陸東北部に作った国です。 軍人だけではなく開拓団と言って、中国の大地を耕すために渡って行った開拓団と、多くの民間人も一緒に渡って行きました。 終戦時には約150万人の民間人がいたと言われています。 主人公は最初満洲の新京(長春)に移り住みました。 日本人の学校も数十校あったと思います。 満洲に行けば豊かな生活が出来ると思ってみんな行きました。 主人公はその後九台という田舎町に引っ越しました。 そのに新しくできた病院の事務長にお父さんはなりました。 

その夏に終戦となります。 ソ連は日本とは中立条約を結んでいたが、8月8日にソ連がいきなり対日参戦をしてきます。  一番被害を受けたのは開拓団の人です。 ちいさい赤ちゃんは泣くと見つかるという事で首を絞めて殺されて、歩けない子供は泣く泣く中国人に預けて逃避行を続けました。  日本に帰国できなかったのが、中国残留孤児です。 中国人も日本人に差別をされて労働とかさせられていたので日本人を恨んでいる人が多かったんです。 略奪するという動きもありました。  9月12日に中国人に襲われて、家を追い出されて、ソ連軍が用意した収容所に入りました。 (中ほどまでのあらすじ)

*中国人の暴徒が襲ってくる様子、逃げる様子などを朗読。

児童文学者の青柳貞夫?さんとの出会いがありました。 青柳さんは満州を題材にした童話をいくつも書いていました。  自分が何も知らなことにショックを受けました。 青柳さんから原和子さんを紹介してもらい、話を聞きました。  周辺の方々の話も聞いたり取材を続けました。 現地にも行きました。 こんな遠いところまで150万人ぐらいの人が来ていたのか、というのが感慨深かったです。 2006年に取材を始めて、2024年に出版しましたが、その間に青い八木さん、原和子さんも亡くなりました。 本人たちには読んでは頂きチェックをしてもらいました。  引き揚げが開始されたのは、終戦の翌年からでした。 貨物列車のような列車から引き揚げ船に乗って帰って来ます。 

最初、原和子さんの話、青柳さんのいた先崎?小学校の子供たちの話、谷口正?さん(終戦時に中学校3年生)という方の話の3部作で書いていました。 3部一緒に出版してくれるところがありませんでした。  谷口正?さんについては、2014年に「ほりょになった中学生たち」という絵本で出版することが出来ました。 2016年には満州の話をフィクションで「幽霊少年シャン」を出版しました。原和子さんの話はようやく2024年に出版することが出来ました。 

戦争を知っている大人がほとんどいなくなってしまった。 戦争中に何があったのかを正しく今の子供たちに伝えていく義務があるのではないかなあと思いました。  満洲については大人であっても知らない。  正しく知ってゆくことが大事です。  小学校で日本の歴史を習うのは6年生です。 どうやったら判るのかを思いながら書きました。 大人の方も是非読んでいただければと思っています。  

児童文学もいろいろなジャンルに別れています。  しかしほとんどがフィクションの物語です。 私がテーマにしているのが、戦争と、障害者の問題、動物保護ですが、共通しているのが「命の大切さ」というテーマです。 ノンフィクションで伝えた方が伝わりやすいのではないかと思いました。 取材するにあたって、初めての人に信頼してもらうといことが大事です。 誠心誠意向き合う事で、時間をかけて信頼してもらうようにしました。 

児童文学はテーマをはっきり打ち出しやすい文学です。 小学生のころから物語を書いていました。(フィクション)  妹は障害があるので、テーマの対象になっています。   或る時に出版社の編集者さんからノンフィクションをやってみないかと言われて、聴導犬(耳の不自由な人に音を教える犬)が主人公の「聴導犬誕生物語」という本を書きました。 ノンフィクションでは全く事実は変えられません。  フィクションのほうが伝わり易いという面もあります。 取材の時間の方が短いと思います。 書く時には主人公になったつもりで楽しいです。 

9月に2冊出します。 一つは兄弟児(病気や障害の有る子供の兄弟)がテーマです。 私の妹も耳が不自由でした。 ヤングケアラーになってしまうのかとか、親が亡くなった後自分が面倒を見なくては言えないのかとかいろいろな事で悩む場合があります。 3人の方を取材して1冊にまとめて「自分らしく貴方らしく 兄弟児からのメッセージ」という本です。  もう1冊は小林幸一郎さんという目が不自由ですが、パラクライミングで世界選手権で4連覇された方の話です。 「見えない壁だって越えられる小林幸一郎」という題名です。

ラジオ深夜便 明日への言葉「クライミングの可能性を信じて」

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/07/blog-post.htmlを参照ください。








2024年8月17日土曜日

郷地秀夫(東神戸診療所 所長 医師)    ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 真実は被爆者の体に

 郷地秀夫(東神戸診療所 所長 医師)・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 真実は被爆者の体に

広島、長崎に原子爆弾が投下されてから79年、広島ではおよそ14万人、長崎では7万人がその年のうちに原爆によって命をおとしたと言われています。 原爆による被害はいまも続いていて、放射線の影響で起こる病気で苦しんでいる人たちがいます。 神戸市の診療所で院長を務める医師郷地秀夫さんは、50年近く兵庫県内の被爆者医療に携わって来ました。 2002年からは原爆症認定集団訴訟に関わり、患者との熱心な対話や自らの足を使った粘り強い調査で、症状が原爆症と広く認定される様活動しています。 放射線による体への影響は見えにくく時間が経っても現れてくる場合があります。 被爆者の苦しみとどう向き合ってきたのか、聞きました。

今まで2000人ちょっと診てきました。(兵庫県全体)  診始めた時には被爆者が登録されているのが兵庫県だけで6000人ぐらいいました。 そのうちの1/3ぐらいを診ていることになります。  平均85歳を越えています。 被爆者検診では結構がんが見つかることが多くて、見落としてはいけないと診ています。  慢性原子爆弾症と言われるような症状、原爆ブラブラ病と一般には言われています。  さぼり病という様な風評、悪い印象があります。 身体がだるくて動けない、めまいがする、時々吐き気もする、便秘や下痢を繰り返すなどいろんな体調不良が起こって、まともな仕事とか生活が出来ないという人が沢山出ているというのが観察されます。 外からみても異常がない、血液検査をしても異常がない。

被爆した或る人が結婚して、子供が出来て、包丁を持って待っていたそうです。 もし子供に異常があったら子供も殺して自分も死ぬと言ったそうです。 そこまで思いつめたんです。 歳をとってから言ったが、その時には言えなかったそうです。 無事子供は生まれたそぅです。  何とか頑張って仕事をしてきたという方は結構います。 ですから表には出ない。 定年退職してから何もできなくなる方がいます。 そうすると奥さんにストレスがかかる。  検診してがんだと原因が判るとやっぱりそうだったのかと喜ぶんです。 がんと診断されると家族も優しくなる。 

原爆症は国が定めたものです。  被爆者の人がなった病気が原爆放射線によるものだという事が明らかになった場合に原爆症であると厚生大臣が認めるものです。 がんでも以前は認定されにくいものがある。  認定されると医療特別手当てがでて、生活保障の手当です。 月に14万円出て、3年に一回見直しがあります。 認定されるのには医師の意見書が要ります。 私は400,500書いてきました。 しかし、なかなか通らない。 何とか応援したいと思って訴訟に参加しました。(2002年から) 堂々と主張できるような人はいなかった。 甲状腺機能低下症という病名でやったりしていました。 被爆状況が爆心地から2,5kmで胃がんという事でした。 福島で言うと20ミリシーベルト  皮膚がんではケロイドが治った後に皮膚にがんが出来た。  教科書には2,5kmでは放射線の影響はほとんどないと書いてあるんです。(米軍発表の残留放射線は問題ないsとの意見が通っていた。) 私はそれを信じていたので、ほとんどが該当外ですと言ってきました。 お断りしてきた人々ばっかりが原告だったんです。 

最初弁護団から認定への医学的意見書を書いて欲しいと言われました。 20ミリシーベルトでデータもなく無理だと思いました。 きちっと話を聞かないといけないと思いました。 そうすると原爆を受ける前と受けた後で、人生が変わってしまったことを感じました。  条件を見直してみないといけないと思いました。  教科書は直接被爆の初期放射線量で決めていました。 初期放射線は1分以内でほとんど出る。 拡散したもの、残留放射線については判らないのでなかったことにすることでした。 調査、本を探してみると、2,5kmでも脱毛している人などがいました。 3kmぐらいでも原爆症で死んでいる人がいるんです。 髪の毛が抜けるのは4シーベルトという値で、2人に1人が死ぬような量なんです。  無視している残留放射線の影響が相当あるのではないかと思いました。 

後で爆心地に入って行った人が亡くなったというような話も聞きました。 被爆者のほとんどの方がそういったことを知っていました。 そういったことを元に意見書を書きました。 終戦後アメリカは原爆で死んでしまう人は死んで、後は何の問題はないと発表しているんです。 残留放射線は問題ないということを発表しています。  裁判に関わらなければ気付いていなかったと思います。  体系化した汚染度の問題は中々判りようがない。(それぞれいろいろな条件が違う。)  国側が裁判で要求してくることは、患者さんの病気が放射線に起因するという事を証明しなさいと言いますが、それは無理です。  逆にこういったところでこれだけの体験をしてこういう症状を負って、それが放射線と関係が無いということを証明してほしいわけです。 

集団訴訟が始まって20年ぐらいになりますが、原爆症というものが知られたという事に意味があったし、全面的に原告側が勝訴したという事が報道されて、凄くよかったと思います。  平和の大切さを訴える裁判は、いいきっかけになったと思います。 認定だけの裁判ではなくて、核兵器をなくさなければいけない、平和な社会が保てるよぅな社会に引き継いでゆくために、我々の為にやっていただいている裁判だなあと思います。











2024年8月16日金曜日

佐々木良三(秋田大学名誉教授)      ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 満州開拓 目の当たりにした父の死~~~~

佐々木良三(秋田大学名誉教授)      ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 満州開拓 目の当たりにした父の死~~~~ 

かつて日本では国策として多くの開拓団が中国東北部満洲に渡りました。 佐々木さんも1943年7歳の時に父親に連れられて満洲に渡って暮らしていました。 しかし1945年8月ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して、国境を越えて侵攻を開始、開拓団の人たちは一斉に満洲の首都新京へ向けて避難を始めます。 佐々木さんが40日間に渡って逃げ歩いたのち、ソ連軍の管理下にあった収容所に流れ着きました。 佐々木さんが少年の時に目にしたのは、日本人に反感を抱いていた現地の人たちに襲われたり、伝染病や栄養失調になったりして回りの人たちが日常として命を失ってゆく姿でした。 少年の心に戦争体験がどう映ったのか、聞きました。

1935年秋田県由利郡(由利本荘市)で生まれました。 1943年に満洲に渡った時は7歳でした。 1935年には500万人ぐらいが満州に渡って食料の増産をさせようとして、実際に行ったのは開拓団という名前で、我々は27万人行ったと言われています。 由利郷開拓団のまとめ役に父が上がった様で、私も一緒に付いて行った次第です。 由利ごう?開拓団は350人で構成されていたようです。  満洲開拓団の募集は日本で広く行われていました。 満洲に行くと一人20町歩ぐらいは直ぐ耕せます、と言ったキャッチフレーズでポスターが出され、お金も一家族1000円(家が一軒建つような金額)上げますというポスターもありました。 食糧増産のために何とか500万人集めようと試みたんです。 父と私と2人で行って、母は家を守るという事で行きませんでした。 

父はあれをやれとかこれをやれとか、怒られた事もない人でした。 開拓団には学校はありましたが、教科書があるわけではありませんでした。 重剣術、剣道の練習がありました。 朝、開拓団全員が集まって国旗掲揚があり、開拓団の歌を歌って、日本に向かって礼をします。  食堂があってそこで食べていました。  2年間過ごしました。 1945年ソ連が満州に侵攻してきます。(10歳の時)  8月12日に豊国という開拓団があり何百人といましたが、数人の人が由利開拓団に来ました。 日本は大変なことになっていて、焼き払って新京を目指すという情報が入りました。 13日の昼には家に火をつけろという命令が来ました。(証拠隠滅)  駅に向かって山伝いに歩きました。 向うさきは火とソ連軍の戦車の音でした。 180度方向転換しました。 サランチンという中国の部落に行きました。 逃げる山道には物凄い集団が集まって来ました。(3500人ぐらい)  開拓団以外の人もたくさん居ました。 山の中に取り残された日本の軍人も何百人も逃げようとする開拓団の中に入って来ました。  3500人もの集団となると目立つので、中国人の略奪者が組織されるわけです。  吉林の近くまで差し掛かったところで、道路の脇に深い溝があり、そこに死体が一杯ありました。 日本人の兵隊、民間人も一杯死んでいました。(8月なので死臭が物凄かった。) その道路は危ないという事で、山伝いに逃げました。   

明日はやられるだろうという事で、焚火を囲んで作戦を立てたようです。 武器を持っている人たちが先頭になって、そこにはこれまで引っ張ってきた校長先生もいました。 私も居ました。  校長先生は棒で槍を作ってくれました。 相手を刺す事だけしか考えませんでした。  7,8時ごろに出発して数歩歩いたところで、後ろの山から物凄い火力、機関銃、鉄砲が撃ち込まれました。  私は直ぐに側溝に逃げ込みました。 隣にいた日本兵から「動くな」と言われて、黄色い毛布を掛けられました。  しばらくすると飛んでくる球の音がしなくなりました。  周りを観たら人が全然いませんでした。  遠くに何千人という黒い塊があり、雨の中を走って向かいました。 人も一杯死んでいました。 「良三 元気か。」という声が聞こえて、数人と一緒に父が走って来ました。  校長先生を見つけに行くところで、私には「来るな。」と言われました。 校長先生は草むらに仰向けに倒れていました。 父から花を取って来いと言われて、取って来て、首のところに添えて、皆で手を合わせました。 校長先生は一人でも刺して死になさいと言うような、特攻隊精神を持った方でした。  怖いという事を感じない、死体の上を歩いても感じない、慢性化していたんでしょうね。  

新京行の貨物列車に乗りました。 新京はすでにソ連軍に支配されていました。 開拓団員たちは南大房身という収容所に連行されました。(9月末)  一枚の畳に2,3人が入れられました。 私は床の間(90cm四方)でした。 そこには8000人ぐらいがいました。 不衛生でシラミが蔓延して、発疹チフスが蔓延ました。 布団もなくうずくまっているだけでした。 そのうちに朝になると死んでいました。 外には5mぐらいの深い穴があり、死んだ人をそこに落としてやるんです。 どんどん積み重なって行って、零下20℃では腐らないし、カラスが突っついて赤い肉が出てくるんです。 

父が身体を悪くして、公安病院のベッドで、私も隣にいました。 もうご臨終だという事を周りの人が私に知らせてくれました。  父には世話になったという方がいて、墓地迄背負って行って貰いました。  余りにも多くの死人を見ているので、肉親だからどうという事ではなくて、死ぬという事に対して、なんの抵抗感もない習慣と言った感じでした。 日常茶飯事に死が周りにあり慣れっこになっていました。 

満州からの引き上げが決まったのが、1946年7月です。  帰れることの喜び、そのものでした。 家財道具などなにももっていませんでした 。  父の骨箱一つだけでした。 皆遺体を掘り起こして焼いて、遺骨にしていました。  父の遺体を焼くのに火をつけたのは私でした。 開拓団のなかに、焼き加減の上手なベテランが居て、火を止めていいタイミングを教わりました。 開拓団で2年、収容所に1年併せて3年いました。 日本の地が見えた時には大きな歓声が上がりました。 実家は全く変わっていませんでした。 母は全く変わっていませんでしたが、私の顔を見えても何にも返事をしないんです。 今思うと、判らなかったんだと思います。  父の骨箱を見せた時には、すぐ理解したんだと思います。

満洲開拓団の経験は、良いとか悪いとかという事ではなく、私そのものが身体にくっついているものだ、離れられないものだと思います。  戦争、あんなものは知らなくていいんです。  でも何故あのような戦争が起こるのか、何故解決できないのか、戦争をしないで共存できる世界はないものかなあ、思います。  













2024年8月15日木曜日

山﨑功(テニアン島遺骨収集活動)     ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 戦没者を“二度死なせない”ために

 山﨑功(テニアン島遺骨収集活動)     ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 戦没者を“二度死なせない”ために

太平洋戦争での海外での戦没者はおよそ240万人に上り、今も110万も超える遺骨が現地に起こされたままです。 山崎さんは戦死した父親の遺骨を捜そうと、収集活動に参加し毎年テニアン島を訪れています。 テニアン島はアメリカ軍との激戦地で、およそ1万5000人の日本兵と島民が命を落とした玉砕の島として知られています。 遺骨が語る戦場の実情や島に足を運び続ける思いを伺いました。

テニアン島へは8回行っています。 日本からおよそ2500kmあります。 成田からグアムに行って、サイパンに行ってサイパン空港からテニアン空港に行きます。  日本戦没者遺骨収集推進協会で約10名弱ぐらいが多いです。 平成28年に推進協会を作って、海外に残っている遺骨を収集しようと、国会で法律を作ってそこの職員が行くという事です。  テニアン島はいつも30℃ぐらいで、サンゴ礁の隆起の島で、一番高いところで100m程度で平らな島です。 第一次世界大戦後にテニアン島は日本の委任統治領になったことがあります。日本人も多く移住して砂糖の工場や農場などが作られました。 かつてはサトウキビ畑もジャングル化しています。 南北20km、東西5kmの島です。 日の出神社、工場跡、旧日本軍の司令部の跡などが残っています。 

昭和19年7月24日には4万ものアメリカ軍が島に上陸します。 旧日本軍の兵力はおよそ8000人。 民間人がおよそ1万5700人。  8月2日には玉砕しています。   日本人の島民は集団自決をしたという記録も残されています。 日本人の戦没者は1万5500人と言われています。 今も4990柱の遺骨が残されていると言われています。 或る特定のところしか掘れない。   前回は36柱収集しました。 80年経っているので収集が難しくなっています。 

現地の人にある程度情報を得ながら、その場所に番号を付けて管理して堀ります。 鉄の熊手のようなもので搔きながら、泥を掘って行きます。  遺骨と思われると竹櫛、刷毛を使います。 近くの泥はふるいにかけます。 大きな穴などもあって、皿なども見つかります。 ビール瓶、一升瓶があり、水を詰めて水のない中を逃げ回っていた痕跡があります。 崖の岩が黒く残っていて、火炎放射器で焼かれた跡が残っています。 黒く焼かれた遺骨も出てきます。  遺骨鑑定人は現場に行かないと間違って鑑定する恐れがあるので、現場に行きます。 遺骨収集の骨は火葬場の骨とは違います。  見つけた骨は歴史保存局に行って、保管してもらいます。  日本に帰って来るのは或る程度まとまったら、申請をして日本に帰って来ます。 

私の父は昭和19年3月にテニアン島に渡っています。 海軍の第16警備隊に所属していました。 父親は写真でしかわかりません。  どういう風に亡くなったのは全くわからず、テニアン島で亡くなった人は全員8月2日が戦没日になっています。 (父は35歳で亡くなった。) 2004年61歳の時に、日本遺族会の慰霊巡拝があり参加しました。  参加者は15,6名でした。  そこで慰霊祭があり、追悼文を読みました。(その追悼文を持ってきてこの度読む。)  2018年から遺骨収集に参加するようになりました。  最初は父の骨を、と言う思いがありましたが、今は放置されている骨が沢山日本へ帰るのを待っているという事で、早く遺骨が帰れたらいいなあという思いです。 

遺骨収集の人たちの高齢化という問題があります。 若い学生も手伝ってくれるので感謝はしています。  戦争を起こさないような方向に行かないといけないと思います。 小学校に行って、平和への講演を行っています。  8月20日に行くことになっています。  理想は遺骨を全部持ち帰ってきたい。







2024年8月14日水曜日

内間新三(元防衛隊員)          ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 となりの死を乗り越えて

 内間新三(元防衛隊員)    ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 となりの死を乗り越えて

今からおよそ80年前の1945年3月26日アメリカ軍は沖縄本島の西に位置する慶良間諸島に上陸、その後沖縄本島中部の西海岸に上陸します。 およそ3か月にわたる戦争で20万人以上が戦死し、沖縄県民の死者は少なくとも12万人に上ります。 この戦争に防衛隊の兵士としてかかわったのが当時18歳の内間新三さんです。 沖縄本島南部の南城市からおよそ5kmのところにある久高島で生まれて、漁師として生活していた内間さんは、沖縄戦が始まると召集令状が届き、防衛隊として沖縄本島に召集されました。 初めは避難壕の建設などに関わっていましたが、戦争が激しくなるに伴って、最前線の戦地に送り込まれ、300人近くいた部隊はほぼ全滅するという壮絶な戦争に巻き込まれて行きます。 今年10月で98歳になる内間新三さんに沖縄戦当時の記憶、そして平和への思いを聞きました。 

久高島で生まれて、家族は祖父母と母と姉と兄弟二人で、父は徴兵されて3年間の徴兵を終わって出稼ぎに出ました。 三線は15,6歳からやっていて沖縄民謡、八重山民謡などを弾いていました。 昭和19年10月10日から沖縄戦になりました。  ソロモン島で勝ったというような情報は聞かされました。  日本軍は沖縄本島の東側から来るのではないかという事で防備をしました。 逆に慶良間諸島の方の裏から上陸しました。 戦争に参加するというようなことは判りませんでした。 防衛隊に入っても戦地に行くとは思いませんでした。 昼間は艦砲射撃とかあるので働けませんでした。 防衛隊として土木作業に従事していました。  移動の話があり300名ぐらいの組織に加わりました。 何のために行くという事は知らされませんでした。  参加しても鉄砲も手りゅう弾ありませんでした。(日本軍は武器が足りなかったようです。)   刳舟(くりせん)で闇に乗じて上陸しようと思っても青白い照明弾で昼の様でした。 陸に上がってもほとんど死んでしまいました。  先輩二人と生きることが出来ました。 死んだふりをしました。  銃声が止んだ後に先輩と海岸まで辿り着き夜明けまで隠れていました。 

艦船がずらっと並んでいて、その様子を見た時には戦争は絶対負けると思いました。  水も持っていなくて、二人が入れるぐらいの横穴を掘りました。 日が暮れると同時に海に飛び込み泳いで逃げました。 街を歩いたら焼け野原になっていました。  避難民と出会って、アメリカ軍が来ているので南の方に逃げるという事でした。 上官が居て、ほぼ全滅と報告しました。 死ぬ人は「お母さん」とか「天皇陛下万歳」とか一言も言えずに死んでいっています。  たまたま弾が当たらなかったから生き残れました。  可哀そうとかの感情もありませんでした。 考える余裕がない。 

沖縄戦から80年になりますが、平和になって戦争はいけないという事を若者たちに全部わかってもらって、戦争はやってはいけないという若者の声があれば、戦争はないと思います。 私の経験の講話は小学校高学年で6回ぐらいやりました。 聞いたことを文章にしてくれました。 話せば通じると思います。 戦争が始まったら人間ではなくなる。 戦争はやるべきではない。 






















2024年8月13日火曜日

パブロ賢次(靴磨き職人・画家)     ・靴を磨き、心を磨く(特別)

パブロ賢次(靴磨き職人・画家)     ・靴を磨き、心を磨く(特別)

今日夕刻,NHKの「首都圏ネットワーク」を観ていたら、何故か以前観たような内容の映像が写し出されていました。 名前は赤木健二さんでした。 

自分自身気になったので配信します。

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/09/blog-post_7.htmlをご覧ください。

 

黒井秋夫(PTSDの日本兵家族会)    ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 親父の苦しみを背負って

黒井秋夫(PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」代表)    ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 親父の苦しみを背負って 

終戦から79年、太平洋戦争に出兵した兵士らが苦しんだ心の傷についてです。 戦地のストレスなどによる精神疾患を総称して戦争神経症と言います。 鬱や依存症、暴力などが症状として現れました。 話を伺うのは山形県鶴岡市出身の黒井秋夫さんです。 黒井さんの父、慶次郎さんは20歳で徴兵され、戦後別人のような姿で帰還、黒井さんはその慶次郎さんが戦争による心の傷で苦しんでいたことに、亡くなった後に気付きました。 その気付きをきっかけに戦争から帰還し、PTSDを発症したとされる親などを持つ家族の会を立ち上げ、当事者同士が語り合う場を作ったり、各地で講演を開いたりしています。 黒井秋夫さんの父へ向ける気持ちはどう変化したのか、活動を続ける理由について聞きました。

この狭い6畳の場所は、私が父親の不甲斐ない姿、ちゃんと働けない姿を、戦争の後遺症ですっかり違う人間になってしまったという事に気付けなかった。  父親の姿を本当に気付ける場所、会える場所になっています。 父は明治45年に生まれました。 20歳の時に徴収されて中国の大連に行きました。 主に満州鉄道の守備隊に配属されました。 中国のゲリラから満州鉄道を守る任務が最初の2年間でした。 1934年に除隊になって日本に戻ります。 7年後1941年に又招集されて、軍曹として戦争の最前線で指揮をする立場で終戦を迎えて、捕虜になって1946年6月に帰国しました。 

父親は無口でしゃべらない、笑わない。 決まった定職を持つことが無い。 医者にも母親が付いていかないと一人ではいけない。  私は小学校高学年でしたが、自分は絶対父親の様にはならないと思っていました。  父親との触れ合いはほとんどなかったです。 私は山形大学に進学して、教員になるために歴史を学んで、4年生の時に学生運動を指導したという事で退学処分となって、半年間は父親と工事現場で働くことになりました。  結婚したい人が居るので父親に相談したが、返答は何もありませんでした。  大事なことを相談しても駄目なんだという事は、段々身体で理解してゆく訳です。 

父親は77歳で亡くなりました。(私が39歳) 亡くなった時には一粒の涙も流していません。 葬儀、納骨などを淡々とこなし、前の生活に戻りました。  父が亡くなって26年後、2015年(私が67歳)に転機が訪れました。 世界を3か月かけて旅する船旅に出掛けました。 そこでたまたま見たドキュメンタリー番組をきっかけに、父親の姿を思い起こします。  それはベトナム戦争を戦ったアレン・ネルソンさんという私と同年代のアメリカ軍の兵士のドキュメンタリーでした。  300人以上のベトナム兵士を殺して、そのなかいは子供を抱いた母親を殺したりしたが、それがトラウマとなって精神を壊していって、家族に対して暴力をふるうようになって、今でいうPTSDの生涯となって、自分の人生も家族との関係もすべてなくしてしまった。  彼の悲しそうな顔を見た時に、父親の悲しそうな顔と一瞬にして重なり、雷に打たれたようなショックがありました。 一瞬で父親のことを戦争がそうしたんだと理解しました。 

父親が戦争に行ってどのようなことを体験したのか、というようなことも以前は知ろうとはしなかった。  思いやり、愛情を持てなかったのは、父親に原因があるのではなくて、自分に有ったんだという事に気付きました。  父親のことを理解しようと思いました。  唯一従軍アルバムがありました。 写真には感想が添えられていました。 「昭和維新の先駆者とならねばならぬ。」 「憧れの満洲に第一歩をしるした。」と言ったようなことが書かれていました。  知っている父とは想像することも出来ませんでした。  父親の戦場体験が非常に過酷であった。 いくつかの歴史上の事件の場面に父親は携わっています。 南満州鉄道をゲリラから守る任務についているが、周辺の農村部落を たびたび襲っています。 何のために中国人を殺したのか、自分を責めて、上官などからの命令とはいえ、説明が付けられなかったと思います。 もし戦争に行く前の地とのことを知っていたら、対応は全く違っていたと思います。 

2018年PTSDを発症した家族を持つ当事者で繋がろうと、「PTSDの日本兵家族会」を立ち上げました。 父親に対しての報いという事は第一にありました。  最初,反応はりませんでした。  最初の参加者は13人でした。 段々報道されるようになって、2020年に交流館が出来るんですが、その後に名乗りを上げるようになりました。    症状としては或る4人家族の父親は、普段はおとなしいが酒を飲むと突然母親や子供たちに対して暴力をふるったり、正座させて戦争の話をしたり、突然ガスコンロに火をつけて一緒に死のうと言ったり、包丁を投げてきたりするそうです。 酒を飲んで子供を返せと学校に押しかけて行ったりするそうです。 

戦争が今でも身体、精神のなかに生きている。 戦争が終わっていないという実感を持ちながら生きている大勢の仲間たちが今でもいる。  戦争が原因の病気で、発症して自分の意にそぐわない、気付いた時には子供を殴っていた、という事で、本当は愛情深い父親が居たんだという、そのことに気付くという事が自分を肯定することだし、父親の存在を肯定する事なわけです。  我々世代がその子供たちに対して連鎖をして、その子供たちが閉じこもりになっているという負の連鎖もあると思うので、違う戦争があると私たちは言っています。 

旧日本兵の精神疾患は日本軍によって、その存在が隠されてきました。 黒井さんは明らかにしてほしいと直接国に働き掛けて、今年3月国は太平洋戦争で心の傷を負った兵士について調査を行うと、明らかにしました。  黒井さんは戦争がどれだけ傷跡を残すのか、その悲惨さを改めて知って欲しいと話していました。
















2024年8月9日金曜日

鈴木道子(孫・音楽評論家)        ・祖父・鈴木貫太郎と私

鈴木道子(孫・音楽評論家)        ・祖父・鈴木貫太郎と私 

鈴木道子さんは1931年東京の生まれ。 祖父・鈴木貫太郎さんは昭和21年4月から総理大臣を務め、8月15日の終戦に向けて力を尽くしました。 鈴木道子さんは祖父の激動の人生を御家族の立場から伝えたいと、今年の3月一冊の本にまとめています。 

「祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た終戦首相の素顔」3月に出版。 原爆の前に終戦が出来なかったという事もよく判りましたと言う様なお手紙なども頂きました。 祖父に関しては全部父ががやっていました。 父が突然に亡くなって、その後いろいろな問い合わせが私のところに来るようになりました。 受け継がなければいけないという自覚が出来ました。 調べてゆくうちに矛盾した意見がいろいろありました。 事実に一番近いと言うつもりで書きました。   祖父は体格も立派でしたが、人柄も大きい人だったと思います。  寛容でものに動じない、忍耐の人、人の話をよく聞く人でした。 しかし自分の説は絶対に曲げないという事を言って下さった人もいます。  

慶応3年生まれ、動乱の中で生まれ、ずっと動乱の中で過ごしていた人だと思います。  17歳で海軍兵学校に入学。 日清・日露戦争にも参加、大正12年に海軍大将になる。  昭和になると天皇の侍従長に就任。  断ったのですが、最終的に侍従長になりました。 昭和11年 2・26事件で襲撃されてしまう。(私が4歳)  早朝に電話のベルが鳴って危篤という事だけを言われて、父が飛び出して行きました。  血の海に突っ伏している状態だったそうです。 股間、心臓の横、頭(眉間から外れていた。)などに4発の銃弾を受けましたが、ちょっとづつ急所を外れていました。 途中で息絶えた時もあったそうです。 輸血をすることで脈が出てきたりしたそうです。 奇跡でした。 生かされという事は次のお役目をどうしてもしてほしいという、天の命令でそういう風になったのではないかと思います。(終戦に向けての役割を担う。)

鈴木貫太郎内閣が発足したのが、終戦8月15日の4か月前のことでした。 首相になって欲しいと重臣から言われたが、自分は政治には向かないし高齢であるから受かるわけにはいかないと言いました。 しかし天皇陛下が直接祖父になって欲しいと言ってこられたが、再三お断りしました。 「もうこの際鈴木でないと、他に人はいないから、耳は聞こえなくてもよい、政治に疎くてもいいから兎に角受けて欲しい。」と懇願されたので、もうこれ以上お断りできないとお受けして深夜帰って来ました。(77歳)  終戦のことを誰にも言えないので、自分はバドリオになると家族にだけ伝えました。  バドリオはイタリアの将軍で最後の将軍として降伏してイタリアを敗戦から救った人です。 

秋田への疎開の話があり行きたくなかったが、祖父から次の時代があることを諭されて秋田に旅立ちました。 陸軍では戦い抜いて本土決戦迄やることを主張しました。 阿南惟幾陸軍大臣は祖父が陸軍大臣になって欲しいと要望した人でした。 阿南さんは祖父が侍従長をしいていた時の侍従武官として勤めていた人で、天皇陛下からも可愛がってもらった人でした。  陸軍の意向とのはざまで阿南さんも辛い立場だったと思います。 祖父が首相になって1週間ぐらいで、アメリカのルーズベルト大統領が突然亡くなります。  海外向けに「偉大なる指導者を失ったアメリカ国民に対し、弔意を申し述べる。」と英語の放送をしました。  国内には言っていなかったが、世界が凄く吃驚しました。  終戦になるのではないかと見つめる様になって来ました。 

ポツダム宣言(無条件降伏)が発せられた時に、受けるか受けないか、どう判断するかという時に、ソ連に仲裁をしてもらうためにお願いしていたことが返事が来ていなかった。  返事を待っている間はイエス、ノーを明確にしないという態度をとることにした。  ノーというような翻訳のされ方をされてしまう。  ソ連はそれよりも前のヤルタ会談で態度を決めているんです。 ソ連軍が満州に入って来ます。 ポツダム宣言について7人での会議があり、受けるべきが3人、徹底抗戦が3人、議長である鈴木貫太郎は天皇陛下に決めていただくという腹案を持っていたので、御前会議を開いて、天皇陛下に御聖断頂きたいとお願いしました。(事前に天皇陛下とはお話してあった。)  最初に受けると言った人は東郷外務大臣で、自分も東郷外務大臣と同じであるとおっしゃられ、そこで決まりました。 

天皇の地位のことについて、占領軍の支配下にあるという言葉が有り、その意味合いを問い合わせたりして。それが長引いている間に、原爆が落ちたという事になります。 全面降伏で戦争は終わったことになります。  「戦争を始めることは易しい、戦争を納めることは難し。」 御聖断を仰ぐという事は当時異例中の異例でした。  天皇陛下は神のようなイメージを与えてきましたが、御聖断によって自らは神ではないという事をお示しになりました。  反対派は鈴木貫太郎を殺せという事で、官邸にいないので自邸の方に向かいました。  官邸から電話があり、そちらに暴徒が向かっているという連絡でした。  裏口から奇跡的に暴徒に出会わずに逃れられました。  家は全焼してしまいました。  歴史的な貴重な資料も全部焼かれてしまいました。  

終戦となり吉田茂さんが来て、枢密院の議長になって欲しいという事でした。 新憲法を発布するためには枢密院を通過しないといけないので、要請があり受けることになりました。 新憲法が信任されて、全て公職から離れたことになります。 故郷の千葉県の野田市で農業をして、昭和23年80歳で亡くなりました。(肝臓がん) 意識が無い中、一時目覚めて「永遠の平和、永遠の平和」と二度唱えて、意識が無くなって逝きました。  私は「永遠の平和」というのは日本に限らず、世界で戦争が無くなる事を望んで、「永遠の平和」という言葉を使ったのではないかと思います。  庭にも街の人たちがたくさん集まって、生きながらえて欲しいという願いをもって集まっていた時に、観音行をどなたかが唱え始めて、「念彼観音力」という言葉を全員が合唱しておりました。 私も「念彼観音力」とずっと唱える中で祖父は昇天していきました。 

老子の本を読んでいて、「小魚を煮る時は、途中で箸で突っついたりしてはいけない。」と、煮崩れてしまうから最後まで見守ることが重要だと言っています。  細かいことに拘泥しないで、最後の目的に向かっては、忍耐をしながら調子を見てゆく。  祖父がこだわったのは「今、その時だ。」という時を選ぶことが凄く重要だという事です。 祖父は引き受けた時から命を捨ててかかっての、大変な仕事だったと思います。

















2024年8月8日木曜日

村上隆(現代美術家)          ・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 後編

 村上隆(現代美術家)  ・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 後編

老人にならないと文脈を構築出来づらいんだなという事が判って来ました。 芸術を見て、絵画作品を観て、特に印象派の作品などを見ると、最近落涙するんです。  一筆一筆のタッチに人生の機微が全部封じ込められているような気がして、自分の中に得てきた情報が全部発動して、絵画から得る情報と相まって万感胸に迫って来るんです。 それが絵画鑑賞の醍醐味なんじゃないかと思うと、或る程度高齢の方、経験を積んだ方、思うように行かない人生とか、思うようにいってもその代償があるとか、そういったことで絵画を鑑賞するときに、自分の頭の中で再構築する文脈が、胸を突き上げるという様な体験と共に、年齢的にもラジオ深夜便のリスナーは、私が観ていただきたい層に近いんじゃないかと思います。 今回の展示は、私と同年代かそれ以上の人を設定して考えていました。 

子供時代は絵はクラスでは3,4番手ぐらいでした。  AIが人間のクリエイティビティ―を阻害するんじゃないかと言われていますが、僕はAIが出てきて僕の可能性がさらに広まったと思います。 僕が芸術家としてコネクトできている理由は、アップルコンピューターが出てきたお陰なんです。 線一つとってもスケッチでは老人が描くよろよろとした線みたいなものしかできないんです。  それをスキャンして、若い人と共に清書してゆくんです。 それをデータにすると繰り返し使う事が出来る。 お花の作品などは一番いい参考になるものです。 自分の絵とコンピューターとを結びつけることが、自分が今プロたらしめていると思っています。 東京芸術大学のデザイン科の1年生の最初の授業は例えば、1mmに幅に3本線を引きなさいと言うようなことがまかり通っていましたが、コンピューターの出現によって、理論上は無限に線が引けるようになってしまった。 自分の考える言葉によって映像を生み出すことに転換されると思います。 手、目、脳が接続したものは、オールドスクールとして珍重されるが、それが全てではなくなるという意味では、写真の登場と同じレベルで、芸術の世界では大ショックが起こっていると思います。 

宮崎駿さんが「自分は手書きのアニメーションを作り続ける。」 「自分は下駄屋だ、最後の一軒になっても下駄屋は生き残ることができる。」と言っていました。 同様に油絵で筆を使ってキャンバスに描くという文化は終わらないと思います。 全く違った芸術鑑賞、製作は起こってくることは間違いないです。 絵が好きだったと言う事が道具によって補完されて、プロとしてやっていけるようになったので、道具が作新されるほど僕にとってはいい時代になったと思います。 

東京芸術大学では日本画を専攻して日本画選考では初めての博士号を取得する。 日本画とは何ぞやという事を考えて、今私がやっていることは日本画の直系だと思っています。  岡倉天心がフェノロサとやったように、和洋折衷ですね。 日本の芸術的な心棒とは何かという事を探っていて、私はそれをスーパーフラットと言い直しただけです。 大学院2年生の時に、大竹伸朗さんという現代美術作家が個展をやっていて、ゴミを積み上げたような絵画があって、それに音が鳴っていました。  意味が分からず、金づちで打たれたような感じで、頭が痛くなって会場を出ました。 現代美術とは何か、大竹伸朗さんとはどんなひとなのか、いう事を或る人に聞いたら「あれはパクリだよ。」と言われました。 現代美術の友人たちと2年ぐらい討論したりして、現代美術の世界に入って行きました。 漫画、アニメは最上位に来る日本の文化だと思うので、最上位に行けなかった悲哀はずっと持ち続けてしまっています。 

スタジオは物流倉庫を使って作品を制作しています。 広さが2700坪。  およそ160人のスタッフの方が24時間稼働(4交代制)しているという事です。  僕を批判する日本人の方が言われるのは、共同作品でお前の作品なのか。」という事はよく言われます。 日本人がなんで海外で活動できないのかと憂うる方もおります。  そういったものを一気に解決するためには、短期間でクオリティーの高いものをどんどん仕上げて輸出しなければいけない。 その体制を作るという事に対しては、批判する人たちは何らクリシティカルな言及はないわけです。 海外での成功に関しては、オタク文化を搾取して騙している、という評価です。 自分としては悲しい感じではあります。 私としては西洋の文化を咀嚼して、現代風にアレンジしているつもりではあります。 

藤田嗣治さんがパリで評価されているそのものが、日本画を引用して上手く入りこみやがったと言う様な言説で、随分批判を受けていました。 僕はアニメや漫画のフォームを使って、上手く西洋人を騙しやがってという事がテーマなので、批判する人は批判すればいいと思いますが、ただ惜しむらくは、藤田嗣治さんは批判を乗り越えて行っているかというと、ノイズの方が強くてなかなか乗り越えていないというのが現状で、僕自身がノイズにかき消されないようにするための戦略として「スーパーフラット」という言葉を編み出しました。  

「スーパーフラット」とは何かというと、日本においては敗戦後ピラミット構造は全て押しつぶされてしまった。 それを是とする勅命を頂て、そのままの文化構造でやっていると認識していました。  貧しいところからのエンタ―テーメントとして漫画が出て来たというのは、皮肉ですが、ゆえにワールドワイドになっているんじゃないかと思います。 非常に歴史というのは面白いと思います。  アニメーションのような高い予算で作られたものを、紙とペンで安価に再構築したのが漫画という事においては、戦争に負けてしまって、物資が亡くなったという負の構造が生み出した一つの文化だと思います。 手塚治虫さんは新宝島で映画を紙に焼き直した、という事だったと思います。 

敗戦後に米国が日本に課した一番大きなタガは、累代でその一族が発展しないような税制の設定だと思います。 今まで余ったお金を保存する形で芸術は発展してきたという構造もあった部分が、累代の余剰のお金が無くなって、日本では或る種のヒエラルキーの高い人間が存在する可能性がなく、ゆえにその人たちが表出する芸術も存在意義がなくなったというのがあって、芸術そのものの必然性がなくなって、ゆえに漫画というものは大衆が愛する一つの芸術であって、上流階級が居ないという事が設定としてあって、漫画が薄く広く拡がった構造という意味において「スーパーフラット」であると思っています。 

ずっと作り続けていないと、恐怖症になってしまって、恐怖症を解除するためには作り続けていないと逃れられない。  アーティストのやむにやまれないリアリティーを固着したものが、歴史に残ってゆく作品なので、芸術という事象は悲劇的な事業で、作家が不幸せになればなるほど歴史に残る確率が上がるという、そういった事業ですね。 一番有名なのがゴッホだと思います。 モネも糖尿病で目がかすんできてからの絵が、一番評価されている。 悲劇と隣り合わせたものが名画として残るという歴史的な事実があります。 伊藤若冲も自分の家が大火に見舞われて、借金苦になった時のあとに作ったサボテンと鶏の絵が代表作です。 悲劇との密着した関係性というのが、歴史に残る芸術の誕生のトリガーになるというのが事実としてあると思います。 グレン・グールドというピアニストは何かにとりつかれるように弾いています。 















2024年8月7日水曜日

村上隆(現代美術家)          ・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 前編

 村上隆(現代美術家)  ・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 前編

村上さんは東京都出身62歳。 カラフルなポップのお花の作品で知られ、日本の伝統的な絵画の表現とアニメや漫画などのいわゆるオタク文化を融合した独自のアート作品が世界的に人気を集めています。 その村上さんの日本では8年振りとなる個展「村上隆もののけ京都」がいま、京都市京セラ美術館で開かれています。 国内での展覧会はこれが最後になるという村上さんの作品制作への思い、芸術観はどのようなものなのか伺いました。

6月下旬から7月いっぱいにかけて新作を展示しています。 10数点あり、今もスタジオで数点製作しています。  祇園祭の屏風絵が完成したので埼玉のスタジオに惟雄先生(『奇想の系譜』などを書いた。)が見に来てくださいました。  厳しい言葉「緊張感がありませんな。」と頂きました。  2月に展示した獅子の図は「傑作を作れてよかったね、」と2回も手紙を頂きました。 顔はひまわりのような花の親子の像が手を繋いでスーツケースの上に立っている作品が庭にあります。  現代美術は西洋の人々が開拓してきたジャンルですので、アジア人で日本人である私がどういった形で入り込んで行けばいいのか、常に考えているんですが、あの作品は彫刻ですので、彫刻の歴史をいろいろ考えて作って行きました。 西洋の彫刻との比較というものを明確に表現したいという意味での作品です。 歴史との相対性、歴史を考えていない作品は、どこか短絡的というか、その場しのぎ的な表現で、トレンディーなところに趣きを置いて居たりするので、トレンドが過ぎ去った10年後20年後には淘汰されてしまう。 そういった作品と私の作品は似ているかもしれないが、ちゃんと生き残っているという事を見ていただいて、私の作品をチョイスして頂いているのかなと思います。 

会場に入って対面するのが「洛中洛外図屏風」の村上隆版です。 江戸時代の岩佐又兵衛筆とされる国宝の舟木本に基づいたもの、壁一面長さ13mの大きな作品。 京都の街中の様子、風俗が細密に描き込まれていて、登場人物は2700人とかで、その中にお花の親子、アニメのような風神など村上流キャラクターがところどころに描かれている。 村上色をにじませた作品です。 岩佐又兵衛は師匠である惟雄先生の『奇想の系譜』のなかに出てくる奇想画家の中の一人ですが、岩佐又兵衛は大変複雑な絵柄だったので、今まで本歌取りすることはなかったんです。 今回はいい機会だと思ってやらして頂くことになりました。  岩佐又兵衛は現代に生きていれば必ずや漫画家になる人だと思います。 スピード感と人物を描く描写力が長けている方だと思います。  

漫画家のアシスタントを数名連れてきてくれて、あの作品を構築してゆくとっかかりを作ってくれたりしました。 若い連中をこき使ってお前は何をやったんだと、かなり批判をされています。 今でも誤作動している一つの例ではないかと思います。 時間軸における評価ですね。  個人が自由闊達に描き切るというのは1900年代のヨーロッパで生まれた印象派からであって、それ以前は個人で描き切るというのは珍しいスタイルでした。 個人で描き切るという事だけに固着してしまうと、鑑賞者の概念の構築というのは、やはりちょっと狭義で、時間軸的にはもうそろそろ時効になるのではないかと思います。 

工房でないとできない、驚き表現を標榜していたので、批判者がどんなにいたとて、突き進むしかなかったというのが実態ですね。  浮世絵の版画にしても。絵師、彫り師、刷り師などの集団作業によって生み出されてきた芸術で、かつ複製可能で、村上流表現とはパラレルだと思いますが。  私が参考にしているのが北大路魯山人の評価です。 北大路魯山人は存命中は尊大な物言いだったり態度であって、多くのアンチを生み出して正当な評価を受けていなかったと思います。  オリジナリティーへの追求が強すぎて、魯山人は本歌取りを主にやっていたので、自分がチョイスする骨董、歴史上の名作品をコピーしていて、そのなかで自分の表現を作って行った作家だったので、大変不評でした。 一部には重宝がられていた。 彼が死んでしまうと、作品の評価が変わってきた。  芸術をたしなみたいという方たちの力が圧倒的に連なっている。 直接作品だけを見つめた時に、彼が求めようとしていた芸術性が光り輝いていって評価される状況が今も続いています。

雑音が私もほかの作家に比べると多いものですから、雑音が消えた後にしっかりと見ていただければ、真価が問われるのではないかと思います。 朱色で巨大な龍を描いた「雲龍赤変」は幅が18mあります。 惟雄先生から「手抜き」と言われて、腹が立ってしまいました。 辻惟雄先生は工房の作品を肯定的に書いてくれていました。 僕の作品がコンピューターライズされているのがわからなかったんだと思います。  先生によってその後直筆っぽいような作品(コンピューターライズされていくプロセスが挟まってしまうが。)、新しい作品が出て来たのも先生の動機づけのお陰なので、大変感謝しています。 

「金色の空の夏のお花畑」 金箔に沢山のカラフルなお花、壁一面に10mぐらいの幅。  ひまわりが300本近くあります。  色どりが一つ一つ違います。  顔の色、口の色、瞳の色も左右で違っていたり、細かいところまで徹底されている。  手書きになっている。 残る建築物と残らない建築物では、どこに差があるかというと、建築の外観として歴史上で初めてのモニュメンタルな造形であったというのがある。 且つ中に入って居心地の良さ、人間の五感を刺激するような内装があったと言う様な、外観と中に入った二元的な認知のなかで、評価に値する建築が残ってゆく。  芸術にも多次元的な評価があって、さっきの見方は建築で言うと外から観た印象です。 中からという事は、絵画とは何かという、芸術の歴史における絵画の在り方、必然的に今存在する意義があるのか、ないのかというものであって、アメリカの大きな現代美術のムーブメントがあり、そこを経てもなおやる意味がありますかという問いかけの中で、我々日本人であるならば、カワイイカルチャーを使って且つアメリカが作った抽象表現主義の文法をしっかり学んで、咀嚼して表現できますよ、というようなありかたなんですね。 先ほどの表情が違うというのは、ジャクソンポロックのスプラッシュのペインテイングと同じような見方を、変換することが出来ますよねという日本人からアメリカ人、西洋人のアートヒストリアたちへの提案なんですね。(内容がいまいちわからず)  挑戦的な美術館に飾る絵としては文化の多層化を標的にしています。 

京都の心臓部である祝祭ごとと、現代とのかかわりが持てたことが大変意義深かったと思います。 美術館で展示するには4億円の予算が必要でした。 私の製作実費は入っていないんです。(+4億円)  八方ふさがりだったが、ふるさと納税が使えるという事で、5億円のふるさと納税が集まりました。  もう日本で展覧会をやるとことはありません。   生きている間に「スーパーフラットミュージアム」をつくれれば、そのうち漫画ミュージアム、アニメミュージアムが出来て、世界中から日本の文化に触れたいと思う人たちが来日して大満足して帰っていただけるようなコンディションになると思います。 今は大不満を抱えて帰っていると思います。(もっと深く漫画、アニメを知りたいと思った人の学習する場が全くない。) 「スーパーフラットミュージアム」には100億円ぐらいは掛かるので夢で終わると思いますが、とりあえず言っておけば、賛同者が現れて将来実現するかもしれません。




















 







2024年8月3日土曜日

「明日への言葉」累積投稿回数 4500回を迎えて

「明日への言葉」 累積投稿回数 4500回を迎えて

今日で「明日への言葉」の累積投稿回数が4500回を迎えました。

そこそこいい歳でもあり、いつ辞めるのかを考えてきましたが、切れのいい数字でここで一旦毎日投稿するのは辞めることにします。 以前は感動の内容のものも結構あって、纏めることに生き甲斐を感じるというか、心動かされるものがありましたが、最近はそれが少なくなってきたように感じるとともに、以前に比べてアクセス数も少なくなっています。 体力的なところも衰えを感じてきて、辞めるのにはいいころ合いではないかと思いました。  アクセスしてご覧いただいた方々には申し訳ないという思いもあります。  一気に辞めるのも後ろ髪を引かれるような思いもあり、今後は自分で書き留めておきたいと思った内容については投稿してゆきたいと思います。 ただし、1週間に一回程度になるのか、もっと間をおいてしまうのかはわかりません。 そんな感じでソフトランディングしていきたいと思っております。   長年校閲して頂いたKさんありがとうございました。 この場を借りて感謝申し上げます。  すみませんが、もう少しお付き合いください。

累積投稿回数が1500回の時のコメントもありますので、参考に載せておきますので、ご一読下さい。

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2016/02/1500.html


かみじょうたけし(高校野球大好き芸人) ・高校球児の熱い思いを伝えたい(初回:2023/6/3)

 かみじょうたけし(高校野球大好き芸人) ・高校球児の熱い思いを伝えたい(初回:2023/6/3)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/06/blog-post_3.htmlをご覧ください。

2024年8月2日金曜日

阿部芳郎(明治大学文学部教授)      ・今“縄文考古学”は進化する

阿部芳郎(明治大学文学部教授)      ・今“縄文考古学”は進化する 

阿部さんは千葉県出身。 1959年生まれの64歳。 日本各地の縄文遺跡の発掘で知られる縄文時代を専門とする考古学者です。 現在の縄文考古学というものは人類学や動物学、植物学などの様々な分野の研究方法を取り入れて、総合的な研究が行われ、急速に進化していると言われています。 そうした進化をもたらしているのが、それぞれが専門分野を持つ考古学者たちによる共同研究で、阿部さんがそのリーダー格です。 縄文時代とは何か、共同研究で縄文考古学がどのように進化したのか、などを伺います。

6歳の時に畑で土器を拾ったのがっきっかけです。 兄に連れられて行って、それが強烈な印象で残っています。 小学校で本から歴史を学びますが、僕の場合には資料として手に取ったのがきっかけでインパクトがありました。 中学生ぐらいからよく博物館に行っていました。 その影響で考古学への進学を決めました。   遺跡の発掘のアルバイトをしていました。  いろんな大学の考古学の学生が来ていました。  土器、貝殻、骨などあらゆるものがでてきます。 それを一つ一つ調べて歴史を考えてゆくことが臨場感があって興味が湧きました。  就職の内定も貰いましたが、卒業論文を読んでくれた先生が、「一度だけの人生だから考えた方がいい。」と言われて大学院への決意をしました。 「遺跡は教室だ。」と言われた言葉が印象的でした。 研究室の発掘は事前に関連する文献を全部調べてコピーして発掘の現場に持ってゆきます。 プロの先生からの話も聞けて楽しいです。  

最初は古墳時代の研究をしていましたが、一般の人たちのことを知りたくて、旧石器時代を始めましたが、手掛かりがあまりにも少なくて、縄文時代を調べ始めたら食べ物から何から一切合切出てくるので、一般の人のことを研究しはじめました。  縄文時代は1万4500年ぐらい前から2500年前ぐらいです。  その間は大陸からの影響はほとんどないんです。 地球が温暖化するときに縄文文化が成立してきます。 今から6000年前が一番暖かい時期でした。 埼玉県まで海がありました。 

最近の研究は何をどう食べたかとか、それによって人の身体がどう変わったとか、複合的に研究しる流れになってきています。 生活というキーワードでゴミとか道具が結びつきます。 「縄文時代を解き明かす」という本を最近出版しました。 研究仲間でそれぞれの分野を書きました。 土器で植物を熱で加工するんですね。 でんぷんが変化して非常に消化のいい形いなります。 ドングリなどの煮て柔らかくして粉にします。 粉をおだんごのようにして保存するんです。 1年間置いておいてもカビが生えないです。 最近は土器に付いたススから年代を測ったり、焦げたものから、魚の成分、直物の成分と言ったものまでわかる様になって来ました。 料理によって土器も変えていました。 人骨も、生前何をどれぐらい食べていたのか、と言ったこともある程度推測できるようになってきました。 道具との関係も段々距離も近づいてきました。 

虫歯、腰痛持ちとか、どういう姿勢でしゃがんでいたとか、様々な病気の研究もあります。 食べ物には地域差があることが判ってきています。  北海道は海の資源をよく食べています。  沖縄も魚などをよく食べています。  本州などではいろんな食べ物を組み合わせて食べてきています。 海の水を煮たてて塩を取るのも縄文時代から始まります。 味覚が凄く豊かになったと思います。  塩作り専用の土器が発見されています。 海藻を焼くという事もあったようです。  土器を工夫して行くことによって段々と製塩土器が出来上がっていきました。 「人」は社会や文化を作る動物で、「ヒト」は生物としてのホモサピエンス。道具と人と食べ物を縄文時代から現代まで通して見てみると、どういったものが見えてくるか、それを是非やってみたいと思います。 研究対象もどんどん広がってきています。  北海道、には塩を作った形跡がなくて、本州で塩を作る文化がかかわりを持っていたようです。 

「資源利用史」自然物を資源化する。 それを研究しようという事で研究所を作っています。  土器の多様化と食べ物の複雑化したり、同じ場所に長く住み続けたりする社会が出来ていきます。 社会の仕組み、考え方などが関連して大きな変化を遂げているんじゃないかと予測しています。  1000年ぐらい同じ場所に住んでいる遺跡があるんです。 どう言う工夫で同じ場所に住み続けることが出来たのか、考える時に食文化、様々な道具の利用に仕方の多様化が重要なヒントになります。 米作りだと稲を植えると米一粒で80倍から100倍になります。 水田で作りますが、縄文時代はそういったところはないですね。 自然のなかからうまいバランスで利用するんですね。 そのバランスが日本の基礎文化を作っていると思います。 栗林も栽培していたという研究者もいますし、栗林のあるところにたまたま人が来たという考えの人もいます。 もっと様々学問分野と連携して、多様化することによって新しいことが次々判って来ると思います。









2024年8月1日木曜日

春風亭昇太(落語家)           ・〔春風亭昇太のレコード道楽〕 後編

春風亭昇太(落語家)           ・〔春風亭昇太のレコード道楽〕 後編

ゲスト:ミュージシャン・アーティスト イリア

今回のテーマは「今夜のハニーはご機嫌お茶目」

美大でしたが、音楽をずっと続けていました。 コロナ禍でライブもなくなり時間が余りました。 絵を描きたい衝動に駆られました。 色鉛筆を使って描きだして、SNSにアップしたら、反響があって、その後2年前に個展を行いました。 写実的なのが好きです。 

 *「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」 作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童  ダウン・タウン・ブギウギ・バンド  リスナーからのリクエスト

*「チェリーボンブ」   作詞:ジョーン・ジェット 作曲:キム・フォーリー ザ・ランナウェイズ  イリアからのリクエスト

*「ロケットにのって」  作詞:山野直子. 作曲:山野直子  少年ナイフ  昇太からのリクエスト イリアからのリクエスト

私たち夫婦も好きなことをやってきて、子供たちも好きな道に進んでいます。 

*「ツルピカキラリン」 ジューシーフルーツ イリアからのリクエスト

男の子の孫が出来ました。(1歳半ぐらい)

*「おやじの海」 作詞作曲:佐義達雄  歌:村木賢吉 昇太からのリクエスト