2024年8月9日金曜日

鈴木道子(孫・音楽評論家)        ・祖父・鈴木貫太郎と私

鈴木道子(孫・音楽評論家)        ・祖父・鈴木貫太郎と私 

鈴木道子さんは1931年東京の生まれ。 祖父・鈴木貫太郎さんは昭和21年4月から総理大臣を務め、8月15日の終戦に向けて力を尽くしました。 鈴木道子さんは祖父の激動の人生を御家族の立場から伝えたいと、今年の3月一冊の本にまとめています。 

「祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た終戦首相の素顔」3月に出版。 原爆の前に終戦が出来なかったという事もよく判りましたと言う様なお手紙なども頂きました。 祖父に関しては全部父ががやっていました。 父が突然に亡くなって、その後いろいろな問い合わせが私のところに来るようになりました。 受け継がなければいけないという自覚が出来ました。 調べてゆくうちに矛盾した意見がいろいろありました。 事実に一番近いと言うつもりで書きました。   祖父は体格も立派でしたが、人柄も大きい人だったと思います。  寛容でものに動じない、忍耐の人、人の話をよく聞く人でした。 しかし自分の説は絶対に曲げないという事を言って下さった人もいます。  

慶応3年生まれ、動乱の中で生まれ、ずっと動乱の中で過ごしていた人だと思います。  17歳で海軍兵学校に入学。 日清・日露戦争にも参加、大正12年に海軍大将になる。  昭和になると天皇の侍従長に就任。  断ったのですが、最終的に侍従長になりました。 昭和11年 2・26事件で襲撃されてしまう。(私が4歳)  早朝に電話のベルが鳴って危篤という事だけを言われて、父が飛び出して行きました。  血の海に突っ伏している状態だったそうです。 股間、心臓の横、頭(眉間から外れていた。)などに4発の銃弾を受けましたが、ちょっとづつ急所を外れていました。 途中で息絶えた時もあったそうです。 輸血をすることで脈が出てきたりしたそうです。 奇跡でした。 生かされという事は次のお役目をどうしてもしてほしいという、天の命令でそういう風になったのではないかと思います。(終戦に向けての役割を担う。)

鈴木貫太郎内閣が発足したのが、終戦8月15日の4か月前のことでした。 首相になって欲しいと重臣から言われたが、自分は政治には向かないし高齢であるから受かるわけにはいかないと言いました。 しかし天皇陛下が直接祖父になって欲しいと言ってこられたが、再三お断りしました。 「もうこの際鈴木でないと、他に人はいないから、耳は聞こえなくてもよい、政治に疎くてもいいから兎に角受けて欲しい。」と懇願されたので、もうこれ以上お断りできないとお受けして深夜帰って来ました。(77歳)  終戦のことを誰にも言えないので、自分はバドリオになると家族にだけ伝えました。  バドリオはイタリアの将軍で最後の将軍として降伏してイタリアを敗戦から救った人です。 

秋田への疎開の話があり行きたくなかったが、祖父から次の時代があることを諭されて秋田に旅立ちました。 陸軍では戦い抜いて本土決戦迄やることを主張しました。 阿南惟幾陸軍大臣は祖父が陸軍大臣になって欲しいと要望した人でした。 阿南さんは祖父が侍従長をしいていた時の侍従武官として勤めていた人で、天皇陛下からも可愛がってもらった人でした。  陸軍の意向とのはざまで阿南さんも辛い立場だったと思います。 祖父が首相になって1週間ぐらいで、アメリカのルーズベルト大統領が突然亡くなります。  海外向けに「偉大なる指導者を失ったアメリカ国民に対し、弔意を申し述べる。」と英語の放送をしました。  国内には言っていなかったが、世界が凄く吃驚しました。  終戦になるのではないかと見つめる様になって来ました。 

ポツダム宣言(無条件降伏)が発せられた時に、受けるか受けないか、どう判断するかという時に、ソ連に仲裁をしてもらうためにお願いしていたことが返事が来ていなかった。  返事を待っている間はイエス、ノーを明確にしないという態度をとることにした。  ノーというような翻訳のされ方をされてしまう。  ソ連はそれよりも前のヤルタ会談で態度を決めているんです。 ソ連軍が満州に入って来ます。 ポツダム宣言について7人での会議があり、受けるべきが3人、徹底抗戦が3人、議長である鈴木貫太郎は天皇陛下に決めていただくという腹案を持っていたので、御前会議を開いて、天皇陛下に御聖断頂きたいとお願いしました。(事前に天皇陛下とはお話してあった。)  最初に受けると言った人は東郷外務大臣で、自分も東郷外務大臣と同じであるとおっしゃられ、そこで決まりました。 

天皇の地位のことについて、占領軍の支配下にあるという言葉が有り、その意味合いを問い合わせたりして。それが長引いている間に、原爆が落ちたという事になります。 全面降伏で戦争は終わったことになります。  「戦争を始めることは易しい、戦争を納めることは難し。」 御聖断を仰ぐという事は当時異例中の異例でした。  天皇陛下は神のようなイメージを与えてきましたが、御聖断によって自らは神ではないという事をお示しになりました。  反対派は鈴木貫太郎を殺せという事で、官邸にいないので自邸の方に向かいました。  官邸から電話があり、そちらに暴徒が向かっているという連絡でした。  裏口から奇跡的に暴徒に出会わずに逃れられました。  家は全焼してしまいました。  歴史的な貴重な資料も全部焼かれてしまいました。  

終戦となり吉田茂さんが来て、枢密院の議長になって欲しいという事でした。 新憲法を発布するためには枢密院を通過しないといけないので、要請があり受けることになりました。 新憲法が信任されて、全て公職から離れたことになります。 故郷の千葉県の野田市で農業をして、昭和23年80歳で亡くなりました。(肝臓がん) 意識が無い中、一時目覚めて「永遠の平和、永遠の平和」と二度唱えて、意識が無くなって逝きました。  私は「永遠の平和」というのは日本に限らず、世界で戦争が無くなる事を望んで、「永遠の平和」という言葉を使ったのではないかと思います。  庭にも街の人たちがたくさん集まって、生きながらえて欲しいという願いをもって集まっていた時に、観音行をどなたかが唱え始めて、「念彼観音力」という言葉を全員が合唱しておりました。 私も「念彼観音力」とずっと唱える中で祖父は昇天していきました。 

老子の本を読んでいて、「小魚を煮る時は、途中で箸で突っついたりしてはいけない。」と、煮崩れてしまうから最後まで見守ることが重要だと言っています。  細かいことに拘泥しないで、最後の目的に向かっては、忍耐をしながら調子を見てゆく。  祖父がこだわったのは「今、その時だ。」という時を選ぶことが凄く重要だという事です。 祖父は引き受けた時から命を捨ててかかっての、大変な仕事だったと思います。