2026年5月7日木曜日

遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

 遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

遠藤さんは東京都港区出身。 1965年に舞台活動を始め、1990年に単身フランスにあたると映画「ツイン・ピークス」などの音楽で知られる世界的な作曲家、アンジェロバダラメンティ氏から才能を見出され、日本人シャンソン歌手としてパリの音楽の殿堂オランピア劇場の舞台に立ちます。 以来32年にわたりパリを拠点にしていましたが、活動の場を日本に移し歌い続けています。 また、世界各国の映画と映画ポスターの比較研究を通じて、独自の視点で映画研究をする形でも活動しています。 今年は俳優のマリリン・モンローが生誕100年を迎えます。  遠藤さんはこのほどモンローが日本に残した知られざる姿を本にまとめました。時代の変化の中で今も残る音楽と映画への思いについて伺います。

パリの地に立った時、ここの地で国際クラブ歌手になろうとと思って決心をしました。  行ったときには、自分がシャンソンと思ってたものは、みんな懐メロです。 本当に歌おうと思ったらメロの酒場に行かないとだめです。 カセットテープを友人がアンジェロ・バダラメンティと言う人に送ったら、彼がそれを聞いて、いきなり一緒にやらないかときました。 結局アメリカには行けませんでしたけれども、それが自信にもなりました。 オランピア劇場で歌うことになって、それがきっかけになって、小さな所でも歌うようになりました。それが勉強になりました。フランスには哲学的文化があり、僕の性格に合ってました。 

僕が小さい頃は空気が悪くて、小児喘息になってしまいました。 各区が保養所みたいなものを持っていて、静岡県の沼津に行きました。 時間がいっぱいあったので、考えたり本を読むことが多かったです。  その後お能をやりました。    自己表現に興味がありました。 句会にも出ました。(12歳から15歳位までの間) 同時に自分とは何なんだろうって言うことを突き詰めていました。 

詩集を作って新宿で自分で売ったことがあります。 ある日、金子光晴さんと言う人が買ってくださいました。 学生に共鳴した詩人でした。 街頭で詩を売る人間として結構有名になりました。 「許すという事に限度はあるの」と言う詩を書きました。 「どんなに未熟な詩でも、若いときのその感性と言うものはずっと一生持っていくものだから大事にして、詩集を出しなさい。」と言われました。       それで自主出版しました

父に連れられて映画をよく見に行きました。 本を読む前、映画が好きになりました。 ロックの原点と言われた人たちがいましたが、そういう人たちもあっという間にコマーシャルベースでなってしまう。  これって違うんじゃないかなと思いました。 坂本龍一君とか出会ったときに、いかにレコード会社が興味を持たない歌を作ろうかみたいなところに僕を燃えた時代がありました。 吸い上げていく大きな権力みたいなものが吸血鬼のように思えました。 吸血と言うことをテーマにしてパフォーマンスをしたことがあります。 彼は彼でオリジナルを模索していたんだと思います。 

日本全国にキャバレーがありました。 そこではラテン、ジャズ、シャンソン、カンツォーネなどを歌う時代でした。 僕たちはその後の時代でした。 「銀パリ」と言うところがありまして、オーディションを受けて受かりました。 

最初に「エマニエル夫人」の映画のポスター、日本のものと海外のものと集めました。 それからポスターが面白くなって興味を持つようになりました。 ポスターは3000枚あります。 僕の友人がマリリン・モンローが大好きでした。  友人はフランスでマリリンのポスターを集めていました。(60数枚)  藤井さんから、このポスターは絶対に買いなさいと言われました。 藤井さんと言う方でマリリンのお化粧をしたことがある人でした。 

マリリンは驚くほど記憶力の良い方で、成分表などを1回見ただけで全部覚えてたって言ってました。  藤井さんはマリリンから黒澤明に会いたい、日本のお手伝いさんをアメリカに連れて行きたいと言う要望を受けましたが、2つとも叶いませんでした。  黒澤明は、自分が使いたい女優はマリリン・モンローだと言うエビデンスを見つけました。 黒澤明とマリリンは符号するようなところが一杯ありました。      それで書いた本が「天使と侍」と言う本でした。 

もう1冊の「マリリン・モンロー100年の孤独」と言う方は、ちょうど今年がマリリンの誕生100年なので、マリリンの人生そのものを見てみようと思って調べました。 この人の孤独は、アリ地獄のような耐えられのような悲しみに満ちた孤独なんです。  僕は「天使と侍」の時に、マリリンが平和を希求していたことと、彼女は政治的な人でした。 反原爆運動でも、最初のハリウッドの俳優たちの中心人物であったりしましたが、それは全く知られないことでした。 初めて去年100年の孤独と言う本を読んだときに、本当に私は人に愛されたことがない。 でも1番悪かった事は自分を愛したことがなかったと言うふうに書いてありました。 

調べてみたら1番感情ができるときに11回も点々としていました。  その中で、マリリンは嫌われないように笑うしかなかったんです。  自分では「孤児ではない、お母さんがいるんだ。」と言ってますが、その母親は精神的にとっても問題のある人でした。 マリリンは大変な苦労をしながら、自分の身1つできたわけです。子供が知らない間に、人間て母親なり父親なりに教えてくるものがありますが、マリリンはそれがなかったんです。  マリリンが1番好きな宝石はパールでした。 お母さんの名前がパールと言う名前でした。それを聞いたときにはグッときました。最終的には母親をマリンが全部面倒を見ていました。 本人が亡くなった時には通帳には500ドルしかなかった。

モンローが今受けている収益を孤児院の子供たちに寄付していると言うのを聞きました。  自分と同じような思いをして欲しくないと言う思いを心に抱えていたですね。  最初彼女は女性の敵と言われていました。 フェミニズム運動とかいろんな問題が世の中が変化するに従って、マリリンの価値というのが1種のジャンヌ・ダルク的な部分があることを認められてきて、女性のファンがすごく増えました。

墓石が彼女たちのキスマークでピンク色になってしまうほどなんです。 2番目の夫であるジョー・ディマジオが週に2回花を届け続けました。 マリリンはジョー・ディマジオとともに広島にも行きました。 1954年の段階では、原爆についてはまだアメリカに遠慮してました。 第5福竜丸の被爆とかいろいろあって、だんだん反原爆が広がっていきました。  最近では、アメリカのハリウッドでも、原爆の映画を少しずつ作るようになってきました。 

僕はフランスでも日本でも恵まれて、幸せでだから、今せめて少しでもお返しができればと言う気持ちはあります。 マリリンの孤独と言うことを確認したときに、自己確認しました。 家に帰ればご飯のある人間が孤独だの、寂しいなどと言えないだろうと言う、凄さですね。