2025年12月17日水曜日

佐野稔(フィギュアスケート解説者)     ・〔スポーツ明日への伝言〕 世界への扉を開けたスケート人生

佐野稔(フィギュアスケート解説者・〔スポーツ明日への伝言〕 世界への扉を開けたスケート人生 

来年の2月にはイタリア、ミラノ、コルチナで冬のオリンピックが開かれます。 そのフィギュアースケートの日本代表の座をかけて、あすから東京で全日本フィギュアースケート選手権が開かれます。 1977年の世界選手権男子シングルで銅メダルを獲得、日本のフィギュア―界で最初に世界選手権でメダルを手にされた、日本フィギュアースケーケーティングインストラクター協会会長、フィギュア―スケート解説者の佐野稔さんに、ご自身の選手時代のことから佐野さんから引き継がれた日本のフィギュアースケートの系譜、来年のオリンピックでの日本選手への期待などを伺います。

練習は朝の6時には靴を履いているという状況です。 山梨県石和町出身です。 初めてスケート靴を履いたのは4歳です。  父が東京に行って買ってきてくれました。  兄、姉と私の3人兄弟です。 父はスケートが好きで、PTAの会長をやっていた時に校庭に水を撒いてスケートリンクをつくってしまいました。  僕は精進湖ではじめて滑りました。  小学校2年生の時に父に連れられて東京のスケートリンクに行った時に都築章一郎コーチに出会いました。  小学校5年生で川崎のリンクに行きましたが、近くの小学校にも入りました。  都築先生は厳しかったです。  上手にやりたい、いいものをやりたいと思ったのは、高校時代だったと思います。  

高校2年の時、全日本選手権で優勝しました。 その後5年連続優勝となります。  世界選手権にも出ていました。  1976年インスブルックオリンピックに出場を目指しましたが、9位でした。 その後の世界選手権では7位、1977年に東京の世界選手権がありました。 3回転の中には5種類あり、そのなかでも一番難しいトリプルルーツでした。 僕は5種類の3回転を入れていました。  規定がおこなわれて、6位でした。  翌日ショートがあり5位になりました。  最後が5分間(現在は4分)のフリーで、6点満点で、5,8が一人で他は5,9の点を出しました。  フリーは1位、総合で銅メダルとなりました。(大学3年生)

上を目指すのにはコンパルソリー(氷上を滑走して課題の図形を描き、その滑走姿勢と滑り跡の図形の正確さを競う種目)が僕は圧倒的に弱かった。  コンパルソリーの練習は日本ではなかったんです。  品川スケートリンクは西武系で堤社長と話をした時に、引退してアイスショーをやったらどうかと言う話が出ました。  約1か月アメリカのアイスショーを見に行き、アイスショーを立ち上げることになりました。 (現「プリンスアイスワールド」)

NHK杯フィギュアーが始まったのが1979年、解説を始めました。  ニュースのスポーツコーナーなどいろいろやらさせて貰いました。  フィギュアースケートは女性がするものと言う部分はあったかもしれないが、男が成績を残すことが当たり前になって来た状況はあったかもしれない。  羽生結弦さんは小学校の時に同じ都築章一郎コーチから指導を受けている。 

今度のオリンピックには女子は行けるのではないかと期待しています。