2024年11月14日木曜日

リチャード・ダイク(会社役員)      ・石橋湛山を世界へ

 リチャード・ダイク(会社役員)      ・石橋湛山を世界へ

ダイクさんはアメリカカリフォルニア州生まれの79歳。 東京で会社役員をしながら、石橋湛山の著作の英訳に取り組んでいます。 石橋湛山は戦前を代表するリベラル派言論人で、当時の主流だった領土の拡張を目指す大日本主義に反対、台湾、朝鮮、樺太などの植民地を手放す小日本主義を唱えました。 戦後は政界に転じ、自由民主党第二代総裁と第55代内閣総理大臣となり、国民の期待を集めましたが、病気の為2か月で辞任、首相を続けていれば日本の政治や外交は違ったものになっただろうと言われています。 今年は湛山の生誕140年没後50年の去年には、国会議員による超党派石橋湛山研究会が発足し、改めて湛山の思想と活動に注目が集まっています。

国会議員による超党派石橋湛山研究会が発足し、第一回の講師をやりました。 統一教会のスキャンダルが出た時に、自自民党の中で石橋湛山の路線をもう一回発見しようという動きがありました。 反安部と反岸信介のグループです。 全部で8回会館の中でやりました。 9回目は甲府の石橋湛山が育ったところにいって行いました。 だいたい60人ぐらいが出席しました。  出席率はいいし勉強もしてきました。 石橋湛山の思想は幅が広いので、いま日本が必要とされる政策には必要だと思います。

石橋湛山の存在が判った時は大学院生でした。(昭和43,44年)  京都大学の松尾 尊兊先生がハーバード大学に来られました。  ちょうどベトナム戦争で学生たちは反戦運動などしていました。 松尾先生は反戦に熱心な日本の学者で、学生と気が合いました。 勉強会で石橋湛山のいろんなものを読ませられて、そこで知りました。 個人主義、自由主義、基本的に思想家として徹底していました。 ウイリアム・ジェームスなどと思想の繋がりがあることに驚きました。 1968年ソ連がチェコを侵略しました。 その時に石橋湛山が日本の防衛論という記事を出しました。 それも松尾先生に読ませられました。 チェコの反応を見るべきだと書いていました。 しかしソ連がチェコから撤退するのに20年以上かかりました。 今ウクライナの問題があって、台湾の問題があり、当時のことがもう一回繰り返しているので、日本の防衛論、日本がこういう時期のなかで、どういう風に防衛の準備をしなければならないのか、日本の役割はどうなっているのか、戻ってきているような感じがします。 

石橋湛山の英訳を始めたのは、コロナになってからです。 石橋湛山のことはあまり書いていなかったです。 石橋湛山全集は全部で16巻ありますが、2セット持っていて一つは東京に、もう一つは山中湖に置いてあります。  石橋湛山は寺育ちで、日蓮宗のお坊さんの資格もあり、立正大学の学長もやりました。  完成は来年早々になると思います。 出版も来年です。  1920年代大日本主義には彼は反対していました。 台湾、朝鮮、樺太などの植民地を独立させるべきだという考えで、ヨーロッパ、中近東などでも植民地を持つ時代はもう終わりで、独立を求めている時代でした。 植民地を持つことは小さな欲で、大きな欲の為にはこれは邪魔になる、日本はもっと大きな欲を持つべきだという事で、石橋湛山の言う大きな欲とは日本はもっとグローバルになるべきだという事です。 

1920年代は日本は技術もあるし、資本の力もあるし、その力をもって日本は海外に会社が進出して海外の人たちに仕事を与える、例として言っていたのは「ぼたもち」と「重箱」。 「ぼたもち」は資本、「重箱」は土地。  会社を海外に持ってゆくと歓迎される。  1920年代の初めでは中国に進出していた会社は数百しかなかった。 1925年になると4700社が中国に進出している。 15万人の日本人が中国に住んで中国人を採用してやっていた。  原外交は、中国はまだ統一されていないが、統一には介入べからずという事で、中国に行って何とか繁栄させたいという事は日本の役割だという事で、石橋湛山はまさにそう考え方を持っていた。 植民地にすると防衛しなければいけなくて兵隊が行かなければならない。 経済的には合わない。 しかも列強が敵になる。 平和的に日本が海外に進出してグローバルな経済を作るのがいい、と考えていた。

1930年代に満州事変があって、反日運動が盛んになる。 世界の大不況の時に石橋湛山がケインズを導入した。  高橋是清にも影響を与えた。  石橋湛山と同じ考え方をもっていた経営者はたくさんいた。 経済倶楽部を作って人気があり、東京だけではなく大阪、神戸、福井県、岡山県などで作られて、石橋湛山は演説に出掛けた。 海外に投資して自由経済で行くべきだと主張した。 1934年ごろから日本は段々別の方向に向かってゆく。 石橋湛山は自分が思っていた方向は出来なくなった。 昭和16年7月に100年戦争という題名の演説をやりました。  真珠湾攻撃の4,5か月前です。 おそらくアメリカは英国の味方でドイツと戦争をする。  まさか日本と戦争をやるとは思っていなかった。 日本は日中戦争をやっていて、統制経済になることは仕方がないが、この戦争が終わったらその時の日本の将来をどう考えるか、今の段階で我々が考えなければならない。  日本は統制経済のままで続くのか、市場経済に戻るのか、考えなければならないという凄い先見の明がある。 

終戦になって日本を作りなおさなければならないと、石橋湛山は新聞記者から政治家になろうと考える。 吉田内閣の大蔵大臣になりました。 国会の最初のスピーチは数時間のスピーチだった。  日本のビジョンのようなものが出ている。 日本はモノ不足だったから、何とかちょうきゅう?をなんとか増やさなければならない。  そのためには石炭が必要。 炭鉱を復活させるための一番いいやり方は、炭鉱の持ち主を中心にして、価格などを決めて炭鉱を復活させること。 GHQ、経済学者などは炭鉱を国有化すべきであると、石橋湛山の考えに反対していた。 進駐軍の日本と南朝鮮は日本の予算、でも貧しい日本では無理で別の形で展開しなくてはいけない。 昭和22年に石橋湛山は公職追放になった。 1947年から1951年まで続いて、政治活動、原稿も書けない、演説もできない。 

昭和22年の公職追放は数千人に昇る。 会社の経営者、市川房枝(女性解放運動)などが公職追放になった。(GHQの反対者)  鳩山内閣の時には通産大臣になる。 1955年に自由党と民主党が合併して自由民主党が出来る。 1956年に石橋内閣が誕生する。 病気のために2か月で辞める。  日本は市場経済に戻すべきだという事で、電電公社の民営化、国鉄の民営化、という考え方を持っていた。  岸信介が副総理だったので、岸信介が総理大臣になった。 当時は石橋湛山の内閣に希望を持っていた。 アメリカに対しての独立性、経済をもっとオープンにしてという事があった。 岸信介になって日本は別の道を歩み出した。 

辞めたあと病気が治ったら、立正大学の学長を16年間務めました。 立正大学の講義が全巻の中に入っています。  中国に2回行って周恩来首相と会いました。 中国との交流、貿易を重視していました。 ソ連にも行きました。 田中角栄が1972年にようやく行けるようになりますが、田中角栄にも影響が大きかった。  

ダイクさんは1945年にアメリカカリフォルニア州生まれ。 日本には交換留学生として来日。 カリフォルニアには日系人が多くて友達がいました。  1965年に来ました。  バード大学院で日本研究で博士号を得ました。  半導体をテーマにして、半導体業界がどういう風にして伸びたのか、研究しました。  教鞭をとるようになって助教授になりました。 オハイオ州知事から日本の企業誘致の話がありました。 大学を辞めて日本に来ました。  ホンダがオハイオに決めてくれました。  日本の自動車メーカーの最初の工場でした。  オハイオでは数万人の大きな工場になっています。  アメリカへの投資では日本が圧倒的に日本が一番です。 石橋湛山が考えていた海外投資てグローバルになる、まさに今、日本がそういう姿になっている。 その後私はビジネスの世界に入りました。 日本での生活は40年を越えています。  日本は今別の形で生まれ変わってきていると思います。  海外の投資から見ると、日本の経済を連結ベースで考えると、GDPの1,5倍になっていると思います。 国内のGDPが伸びなくても失業率は上がってきていない。 日本の会社は海外で伸びている。  

石橋湛山が総理を続けていれば、日本は違った道を進んでいると思います。 経済の考え方は絶対違った形で行っていたと思います。 岸信介になって安保がそういった形になって、日本はアメリカにべったりとなった。  海外の政策が変ってきたと思います。 

出版に際して期待するものは、①日本の近代史、日本の民主主義は根が浅かったから戦争になったんじゃないかと言われるが、僕はそうじゃなくて、日本人が求めていた民主主義は根が強かった。 ②戦後日本に民主主義をもたらしたのはアメリカの司令部だという考え方があるが、これも間違っていると思います。 ③石橋湛山の中心になっているのは市場経済、これを忘れてはいけない。 英訳を通して見えてきたのは、石橋湛山の目を通じて見ると、正しい日本の歴史とかが見えるようになってきあと思います。














2024年11月9日土曜日

高石友也(フォクシンガー)         ・自分探しのフォーク人生(初回:2011/6/11)

 高石友也(フォクシンガー)         ・自分探しのフォーク人生(初回:2011/6/11)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2011/06/69.htmlをご覧ください。

2024年11月8日金曜日

齋藤なずな(漫画家)           ・78歳が描く高齢者のリアル

齋藤なずな(漫画家)           ・78歳が描く高齢者のリアル

齋藤さんは1946年静岡県 生まれ78歳。 イラストレーターを経て40歳の時に漫画家としてデビューしました。 途中夫の介護で10年ぐらい創作から離れた時期もあったんですが、その後復帰、76歳で発表した「ぼっち死の館」が今年の手塚治虫文化賞漫画大賞の候補作になるなど、話題を集めています。 「ぼっち死」は一人ぼっちで死んでゆくことです。  斎藤さんが暮らす東京郊外の団地には高齢の単身世帯が多くて、そこで起こるあれこれが漫画の元になっていると言います。 斎藤さん自身の団地での暮らしぶりや、漫画を通して伝えたいことについて伺っていきます。

「クリぼっち」(クリスマスが一人ぼっち)「ぼっち正月」などと言っていました。 そして死もぼっちですね。 単身世帯が多くておばあちゃんが多いです。 病院に運ばれたり、自分で施設に入ったり、本当にぼっち死されたりいろいろあります。 動物の死とか、周りで起きてきたので、死は特別な事ではないですね。  自分にもやがてやってくることですし、周りの人も同じような状況です。 

東京の多摩ニュータウンに住んでいます。 昭和40年代に雑木林を開いて、街を作ったところです。 憧れのところでもありました。  49,50年前に引っ越してきました。  今はシャッター商店街とジジババにが住んでいます。(子供たちは巣立ってゆく)  リフォームして若い人もはいって来てはいます。 

「ぼっち死」は6っつで構成されていますが、一番気持ちが楽しくなるのが、牛の出てくるものです。 「牛のいく」?は主人公が男性で一人で暮らしています。  心がほぐされて高齢の女性と話すようになってゆくというものです。  自分が婆さんなってみると、それぞれ皆さんいろいろあったんだろうなあと言う気がします。 

子供の頃から絵は好きでした。 短大を出て自立しようと思っても何もなくて、働きながら英会話をマスターしようと思って、英会話学校に勤め始めました。 学校で使う教科書の絵を描いていた人の手伝いをしていました。 その人が辞めることになり、後をついで描き始めました。 その後知り合いを介してイラストの仕事が始まりました。 イラストの仕事も少なくなってきて、漫画ならば稼げるのではないかと思いました。 漫画の経験は全然ありませんでした。 1987年、40歳の時に漫画を描く決意をし、『ダリア』で『ビッグコミック』新人賞を受賞することが出来ました。 夫が倒れたり、母親も病院に行ったりで描けない時期がありました。 脳出血で夫は倒れました。 介護が始まりました。 母親も脳溢血で入院しました。  母親は主に弟が面倒見ました。  介護期間は11年でした。   一時期大学に通いながら介護をしていました。  

夫とは籍を入れませんでした。 特に結婚とかにあこがれもなく、結婚しようというような感覚があまりなかったです。 医療費がかかるが、籍をいれていないと医療費控除にならないので、60歳の時に籍を入れることになりました。 夫とは20歳の時からの付き合いでした。  夫は結核になったり病気をしたりして 働かないので、私が働いて無我夢中で生きてきました。 夫は大変だったので、寂しいというよりはよかったと思いました。   最後まで看取ったという納得感はあります。         

一人暮らしの不安は全然ないです。 漫画教室もやっています。 年代層もいろいろなのでたのしいです。  団地内ではお年寄り同士の交流はあります。  友達の家で倒れて5分もしないうちに治ったんですが、病院に行ったら入院してくださいと言われました。 脳梗塞でした。  日常の暮らしのなかでセーフティーネットが出来上がっているという感じです。 市から老人向けのグループを作ったり、自分たち同士でもグループを作っているので、何かやろうとするときにはそこに属せば、いくらでもやることはあります。  飼い猫を通して付き合いが広がります。 ほどほどの距離を取って付き合っています。

生きる上での大切なことは、心を開いて受け入れる、余り頑なに心を閉じない方がいいなと思います。  歳をとった方が気持ちが楽です。  若い人にも伝わることを描いていこうと思っています。  












2024年11月5日火曜日

荒木由美子(タレント)          ・義母の介護を終えて20年

荒木由美子(タレント)          ・義母の介護を終えて20年 

荒木さんは現在64歳、16歳の時にオーディションで審査員特別賞を受賞して、芸能界いりし阿木洋子、宇崎竜童の曲「渚でクロス」でデビューました。 民放のバレーボールのスポーツ根性ドラマ「燃えろアタック」の主役で俳優としても人気者になり、1983年に歌手・タレントの湯原昌幸さんと結婚して芸能界を引退、その後同居の義理の母が認知症を発症し、介護が始まりました。 20年の介護の末、義理の母は87歳で亡くなりました。 その後荒木さんが知らない間に中国で主演ドラマ「燃えろアタック」が大ヒットし、中国に呼ばれるようになり、それが芸能界の復帰のきっかけになりました。 

最近はテレビの司会をやらせて頂いたり、リポーターとしてロケに行ったり、講演会もやらせていただいています。  オーディションでは落ちてしまったと思ってあきらめていたら、審査員特別賞を受賞して出てみませんかと言われて、チャンスだと思って出ることにしました。  「渚でクロス」でデビューました。 

*「渚でクロス」  作詞:阿木燿子 作曲宇崎竜童 歌:荒木由美子

1年間に4枚出してアルバムも作り、忙しかったです。  湯原さんとはしょっちゅう番組でお会いするようになりました。  13歳年上でした。 結婚して芸能界を引退しました。 結婚後2週間目に義母が倒れてしまいました。 翌年に子供を授かりました。(24歳) 義母の介護と子供の世話で同時進行しました。 義母は手術をしてリハビリをして元気になったんですが、家のことは全部私がやるようになったので、やることがなくなってしまって、認知症と診断されてしまいました。 20年の介護で大変でした。 本を出したことで、湯原さんと話をして本当の話をさらけ出して、書くことが出来ました。 今は語ることが楽になりました。 まだらボケで、若い男(実は息子)がいるとか、指輪、アクセサリー、お金が盗られたとか(犯人は私でしかない)、言われてそれがストレスになって、溜まって昌幸さんとけんかになるわけです。 

後援会ではヒントになればいいと思っていて、私のやったことが全部がお手本でもないし、感情も違う、性格も違うので。  円形脱毛症、自立神経失調症とかいろいろありました。 美容院にも行っていられませんでした。 円形脱毛症は3つもありましたが、気が付きませんでした。 酷い時にはペットボトルが持てないほど手が震えていました。(自立神経失調症)  その時には判らないが、感情のコントロールが出来ないことがありました。 今思うと20代、30代をどうやって乗り越えたんだろうと思います。 この家から出ていってら終わりだと思っていました。 離婚しようと思ったことは一回もありませんでした。 

今は認知症に対する見方も変わってきましたし、相談窓口も増えました。 私たちは認知症を隠すかの様に生活をしていました。  義母は本当に私が頼りみたいだったようで、好きだった様です。  最後は急性白血病でした。(クリスマスの日)  食事は喉を通らなくなりましたが、会話は出来たんです。 段々しっかりしてくるんです。  1月9日に亡くなりましたが、段々顔も綺麗になってきて、3日前から綺麗な顔になりました。 8日に病院の部屋から出ようとしたら、何故かふっと振り返ったら、目が合って、先に部屋を出ていた昌幸さんと息子に声を掛けて部屋に戻ってもらいました。  瞬きもしないで私の事を見るので、「なんか言いたいことある?」って聞いたら、「うん」と頷くんです。  点滴をしている手で私のおでこを撫でて、「長い事ありがとうね。」と言ってくれました。昌幸さんも「由美子よかったな。 おふくろがちゃんと挨拶してくれて、本当に良かった。」と言ってくれて、自分も嬉しかったと思います。 

その日家に帰ったら、病院から電話が来てすぐ戻って下さい。」と言われました。 病院に戻ったら、今度は大鼾で寝ているんです。  その後付き添っていて、大鼾のまま亡くなりました。  前の日の挨拶が最後でした。  あの一言でこれまでの苦労が全部吹っ飛びました。   半年後ぐらいにテレビに出ませんかという話があって、こういう話も義母からのご褒美なのかなと思って、それで始まりました。  介護のすべてが終わったのが43歳でした。  介護の話をするのは若いと思っていましたが、若くてもかいごの経験を20年したというのは、これは宝ですよと言われました。 

2004年に復帰しました。  「燃えろアタック」が中国で大人気になり、或る人から中国に招かれてファンの人も空港に来てくれたりして、最高のおもてなしを受けました。 帰りの飛行機のなかで、やってみようかと思う後押しになりました。  日中友好の為には役に立ちたいと思っています。 「燃えろアタック」の負けない精神は、私の中にも根付いていて、介護、仕事など大変でしたが、今となっては全部が無駄ではなかった、財産として私の中にあります。  「介護のミ・カ・タ」「覚悟の介護」など出版