2025年9月15日月曜日

江上剛(作家)              ・〔師匠を語る〕 作家・井伏鱒二を語る

 江上剛(作家)              ・〔師匠を語る〕 作家・井伏鱒二を語る

江上さんは小説「非情銀行」でデビューし、銀行員から小説家に転身しましたが、江上さんが師と仰ぐのは「山椒魚」「黒い雨」で知られる昭和の文豪井伏鱒二です。 井伏鱒二と江上剛さんとはどんな関係だったんでしょうか。 

「屋根の上のサワン」というエッセイみたいな小説ですが、教科書に載っていてそれを読んだ時に、田舎で育ったんですが、青春時代に時代の閉そく感みたいなものを感じて、そういったところから旅立ちたいとう思いが、先生の小説と共感するものがあったんだと思います。 

井伏鱒二は1898年(明治31年)広島県福山市で生まれる。 本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。  上京し早稲田大学に進学しましたが、退学し同人誌で作家修行を開始、関東大震災の後一旦は帰郷したものの再び東京に戻り杉並区の荻窪に自宅を構えます。 井伏鱒二を師と仰いだ太宰治はこの家で結婚式を挙げてます。  「ジョン萬次郎漂流記」で第6回直木賞を受賞したのは昭和13年、戦時中は陸軍に徴用されて南方に派遣された時期もありましたが、47歳で終戦を迎えます。  戦後も作品を発表し続けて、昭和31年日本芸術院賞を受賞、原爆を題材とした対策「黒い雨」を発表した翌年昭和41年には文化勲章も受賞しました。  この「黒い雨」は今村昌平監督により映画化されカンヌ国際映画祭でフランス映画高等技術委員会賞を受賞したほか、20を越える言語に翻訳され今も世界中で読まれています。東京杉並荻窪の自宅近くの病院でなくなったのは1993年(平成5年)7月10日、95年の生涯でした。

早稲田大学に入った昭和47年、当時連合赤軍の事件、榛名山のリンチ殺人事件があったり、学生運動が内ゲバの時代になっていました。  早稲田大学も荒れていました。 井伏鱒二論を書こうと思って、「黒い雨」などを読んでいました。  先生に会おうと思い、公衆電話で先生に電話をしました。  そうしたら簡単に「来なさい。」と言ってくれて自宅まで行きました。  家は平屋の簡素な家で、表札が名刺の後ろで画鋲で止めて「井伏」と書いてあったんです。(一番びっくりした。)  ウナギ屋さんからウナギを取ってくれて、ジョニ黒のウイスキーを出してくれました。  早稲田の学生が来たのは太宰以来だと言ってくれました。 ざっくばらんにいろいろな話をしてくれました。 (原稿料が上がらないと言った話まで。)

太宰の話が多かったです。  文学とはと言うような大上段に構えたテーマになると、太宰は崩していた足を正座して聞いたとか、原稿用紙をピンクのリボンで綴って持ってきたとか、そんな話を聞きました。  古典を読みなさいと言われて、ロシア文学、ドフトエフスキーとか、プーシキン、ツルゲーネフとか古典を読みなさいと言われました。 「黒い雨」は静馬(重松静馬)さんと言う姪の方の日記がベースになっている。(本のなかでは「閑間重松」」となっている。)  先生は「あれは小説ではない。」とおっしゃっていました。  「小説では書けなかった。」と。  何とか姪を結婚させようと原爆症にはかかってないよと、黒い雨は浴びてないよと、何とか証明しようとしたが、それが無駄になってゆき、最後は鯉が遡上してゆくシーンで終わるが。 我々から見ると小説の極みと思うが。  

「非情銀行」で作家デビューしたのが2002年、井伏鱒二邸を初めて訪れてから30年後のころになる。  小説家になりたいなんて言う事は先生には一度も言った事は無いです。  ドフトエフスキーとかずーっと読んでいました。  先生のところにブラっと訪ねてゆくのが楽しみでした。  「小説家と言うものは文体を確立することに苦労する。」とおっしゃっていました。  飲むのは良く二人でした。(文豪と18歳ぐらいの青年  年齢差56歳)   よくフラッと訪ねて行きました。  丹波の田舎から親が松茸を送ってきたので、先生のところに持っていきました。  先生が「一緒に食べよう。」とおっしゃったんですが、「留年している身であるし、一緒には食べられない。」と言うと、「お前がまともになるまでこれを預かっておく。」と言うんです。  「佃煮にしておく。」とおっしゃったんです。 まともに就職が決まったりしたらご報告にまいります。」と言って家を後にしました。  1977年第一勧業銀行に決まりました。  報告に行きました。  奥さんが小さな器に入った黒い煮しめを出しました。  先生が「これは去年君が持ってきてくれた松茸だよ。」 とおっしゃったんです。 涙があふれました。   「兎に角小説はいつでも書けるから、大阪は商売人の街だから商売をしっかり覚えておきなさい。」、と言って革靴を二足買って下さいました。 その靴を履いて銀行員として頑張りました。  銀行員の忙しい時代は訪ねるのは少なかったです。  手紙のやりとりはしていました。 

先生の訃報を聞いた時には、もうこれで会えなくなったのかと、本当にさみしさがありました。  残念で残念で泣きました。  「小説は頭ではなく胸三寸で訴えるものを書くんだぞ。」とおっしゃっていました。  今でも古典を読んでヒントを得たり、自分考えを正したりすることは多いです。  先生の作品は心に沁み込んでくるよいうな作品が多いですね。 詩集にはすごく影響を受けました。   自分の人生の生き方で影響を受けたのは多いですね。 にっちもさっちもいかなくなった時に、あの詩のように廊下を靴音高く、靴ひもをしっかり締めて廊下を前向いて歩けばいいんだという事をいつも思いました。 

井伏鱒二への手紙

「井伏先生、・・・何故井伏先生は貴方を受け入れたのか、私はどう答えていいかわかりませんでした。 先生に初めてお会いしたのは、1972年 のことです。 ・・・・・先生のファンだと言って公衆電話から電話をしました。 ・・・電話口に出られた先生は「直ぐ来なさい。」と一言、嬉しかったのを覚えています。・・・何よりも表札が名刺の裏でしたね。 先生は表札を取ってゆくものがいるんだよ、受験のお守りかね、僕の表札なんかお守りにならないのにと笑っておられましたね。私は小説家希望だとは一言も言いませんでした。 原稿もお見せしたこともありません。 それなのに先生は古典を読め、小説は胸三寸で書け、小説はいつでも書けるなどと、小説家としての心構えを話してくださいました。あれは私の中に将来小説家になる兆しめいたものを見つけてくださっていたからでしょうか。・・・どうかいつまでもお守りください。」